苦しいなら不登校のままでいい7つの理由

不登校は、若い年代の最も深い悩みの一つです。近年では、夏休み明けに中高校生の自殺が多いことがメディアで大きく取り上げられるようになりました。教育の専門家や過去に学校がつらかった著名人が「学校休んでいいよ」とメッセージを発することも増えました。それを聞くたび、私の胸の中では今悩んでいるみなさんに届けたい言葉が飛び跳ねます。

苦しいなら、学校に行こうとしなくていい。休むといいし、二度とそこへ戻らなくてもいい。私は学校へ通い続けて卒業したけれど、結果としてそう思っています。次の世代は学校にこだわらなくていいと言いたくて、私は今回この記事を書こうと思い立ちました。学問的・論理的根拠と私自身の経験両方に基づいてしっかり説明したので、ぜひ読んでいってください。

そもそも「学校」って何?―話の出だしを押さえよう

残念ながら、この社会には学校の意味を問われて答えられない大人がずいぶんいるように思います。学校は行くものだから行くんだ、では説明になりません。不登校、つまり「学校へ通っていないこと」について論じるなら、「学校とは何か」はとばすことができない前提です。その前提を押さえていないせいで話があらぬ方向に進んでいるところを見るたび、私はやり場のないもどかしさを感じています。

では本題ですが、そもそも学校とは何のためにあるのでしょうか。

答えはシンプルで、学校とは学べる場所です。

生まれてきた子どもが成長していくには、読み書きにはじまり、世の中に関する知識やさまざまな体験が必要です。それがあってはじめて、人は自分の可能性を開花させたり、将来やりたいことを見つけてそちらへ進んだりできるのです。今の人類社会では、児童がそういった基礎知識を習える公的機関が設けられています。それが学校です。

物事の順番は以上です。つまり、子どもたちが学ぶことを「目的」に、「手段」として学校がつくられているのです。この「目的」と「手段」の関係を押さえておいてください。

逆説的ではありますが、学校がない時代や国・地域の子どもたちがどれほどの悲しみを背負い、どんな人生を余儀なくされるかを考えれば、学校の本質は見えてきます。学ぶ機会がなければ、人生のすべては、生まれの条件だけによって決まります。地位やお金、正しい知識といった社会にあるすべての利益は、ごく一部の階層によって独占されます。事実上の身分制といっていいでしょう。物心ついたころから貧困に固定され、一生何の夢も描けないのは、誰より本人にとって悲しいこと。その子の尊厳にかかわっているのです。字が読めなければ、自分の力で新しい知識を得ていくこともできません。よって、どんな困窮に追い込まれても声を上げることすらできず、一生、一方的にしぼりとられるだけ。これではあんまりじゃないですか。人には抑圧からの自由が、幸せを追求する権利があります。それには教育が必要なのです。

私が何を言いたいかというと、子どもが十分なチャンスを与えられ、すこやかに成長していくという「目的」をかなえられるなら、「手段」は必ずしも学校でなくてもいい、ということ。学校それ自体が目的なのではありません。何が好ましくて何がよくないかの判断基準は、「学校へ行くか不登校か」ではなく、「あなたが学べるかどうか、大人へ成長していくのに必要なものを得られるかどうか」にあるのです。

ただ苦しいだけで、成果はなかった

実を言うと、私にはクラスがつらい時期がありました。高校時代なのですが、学校を辞めていくことがかなり現実的な線になっていた時期もあります。ところが複雑な諸事情を抱えていたため、私は苦しくとも通い続け、ついには卒業に至りました。

では、そんな私が今、学校へ行ってよかったと思っているか? 学歴は役に立ったか? あるいは、教室に入り続けることで忍耐力がついたとか、勉強以外の部分で成長することはできたのか? 答えは、いずれもノーです。

のちの人生で役に立ったのは、授業の中身だけでした。高校課程の知識がなければ、大学の授業は理解できません。科目によっては、趣味に用途がありました。たとえば音楽の授業で習った楽典は、趣味の作曲とギターに活用できています。しかし、それをもって「学校に行ってよかった」と自己正当化するのには無理があります。それらの知識を習得する方法は、なにも学校でなくてもよかった。自分で本を買うとか、図書館へ行くとか、別の方法でも同じところにたどり着くことはできたのですから。

苦しみ損でした。休めばよかった。つらいこと、痛いこと、苦しいことをすれば自分を向上させられるというのは、「あれだけの苦しさを味わったのだから、それに見合った成果があるはずだ。あってほしい」というあわい願望が生み出した、時代錯誤の迷信です。たとえば、かの地下鉄サリン事件を起こしたカルト宗教・オウム真理教では、熱湯風呂に入る修行というのが実施されていました。しかし、熱湯につかるのは危険なだけで、人格の向上にはちっともつながりません。人格を実際に向上させられる安全で適切な方法は、世にいくらもあります。賢く優しくなりたいなら視野を広げるために本を読む、忍耐力をつけたいならむずかしいジグソーパズルを完成させる、などなど。これと同じく、私の教室に入る苦しみは、無駄な苦しみでした。

不登校が高校以降だと、卒業するか否かは学歴にかかわってきます。もしかしたらその部分を気にしている人がいるかもしれません。しかし、私が人生を歩んでみてどうだったかというと、私にとって学歴が必需品だった場面はありませんでした。とりわけ高校はそうです。多くの人は大学や専門学校への進学を希望しているでしょうが、入学に要るのは高卒の「資格」だけです。高卒資格を取った経路はまったく関係ありません。大学のほうは最終学歴であり、私は卒業できてよかったと思っていますが、だからといって学歴が必要だった場面はないんですよ。むしろ、学校から離れることで、学校に行きたいか、どんな学歴が欲しいかを含めた、自分が本当に望む人生設計がみえてきたりするものです。

学校は本来チャンスを得られる場であって、強いられて行く義務の場ではありません(ちなみに「義務教育」の「義務」は子どもに教育を受けさせる親の義務を指しているのであり、子ども側の義務ではない)。苦しいなら、かえってマイナスになってしまいます。自分にとってプラスになるのは学校以外だ、というなら、そのほうがいいのです。私の人生はこうなったし、自分が培ってきたものには誇りを持っているので、もうこれでいい。でも次の世代には、合理的な方法で、たっぷり栄養を補給しながら育っていってほしいです。

健康第一、成長するためのニーズを満たすほうが大事

十代は成長期。成長とは変化です。あなたという生物学的個体の中では、一生で最大の大増築が行われているわけです。

その過程で心身に不調が出ることは、けっしてめずらしくはありません。悩みを抱えている思春期の子は多いし、その内容も千人いれば千通り、しかもそれぞれ細かく具体的で、その特有の心理から対人関係に影響が出ることもあります。体調不良も起こりやすいですね。体の痛みや気分の悪さ、睡眠障害など、医療の現場は世に知られていないような不調や障害に、一年中対応しています。

もしも心身に不調があるなら医療優先で、学校は二の次です。学ぶチャンス以前に、体あっての人間です。発育へのサポートはとても重要。学ぶ方法は、生物学的成長を確保した上で考えていくことです。

私には、高校時代にクラスの人間関係と部活のことで深く悩み、一時不登校だったという知り合いがいます。その時彼女は病院の思春期外来に通い、専門知識を持った人たちから支援を受け、ゆっくりと自分に向き合ったそうです。人は誰しも大なり小なり迷うものですが、「迷いながらもやっていけるようになった」と彼女は話していました。

他方、私は、つらい心理状態を自己流の手当てでやり過ごしました。少し長い目で見ればどうだったか。その代償は、二十代でたっぷり払うことになりました。高校生の私が独りで考えたことなんて、民間療法にも及びませんでした。私は自虐ネタは好まないのですが、こればかりは自嘲します。この記事の下のほうでぽつりぽつり出てきますが、私は思考力不足は人を傷つけることに直結するので、罪だとすら思っています。それほどまで頭の暗さを憎んでいますが、それは人間一人の思考の浅さを、自分の痛みから知った上でのこと。どんなに脳みそをしぼったところで誰にでも限界はありますし、間違うことだってあります。外部の人から知識と協力を得るところまで含めて思考力なのだ。ずっとあとになって、この結論にたどり着きました。

不登校でも思春期外来に通っていた知り合いは、その後の進路選択や人生ではとてもスムーズに足を運んでいます。つらい時に支えがあるだけでも幸せなのに、後々にまで残るいい影響があったのです。それに引きかえ私は……。不登校ではなかったけれど、ただ苦しかっただけで後が大変でした。「骨折り損のくたびれ儲け」とはこのことです。

体のほうにも言及すると、世の中には十代で体調不良を抱え、病院ベースの生活をしていたという人はけっこういたりします。人間にとって体の不調はつらいことのはずですが、彼らは視野も心も広く、しっかりした人生観を自然と身に付けていたりするのですごいなぁと思っています。ふたを開けてみれば、彼らは大人になってから、様々な分野で活躍しています。

このように、心身のサポートを受けることがどれほどの強みになるかを目の当たりにしたから、次の世代にはそれを得てほしいと思っているのです。我々が人間である以上、心身のニーズを見逃すわけにはいきません。

大事なのは「あなたのニーズを満たすかどうか」です。人の事情は一人ひとり違います。学校が自分のニーズと合わないなら、学校にこだわる必要はありません。

なぜ学校にこだわる親がいるのか、その社会的背景

この社会に不登校をまるで重罪かのように扱う親がいることは、私も知っています。不登校が苦しいという人のうちでは、不登校自体というより、そういった周りの大人との関係が心にのしかかっているケースも少なくないのではないでしょうか。

上で述べてきた通り、本来学校とは勉強する場所なので、学ぶことさえできれば別の手段をとってもいいはずです。たしかに保護者の視点からすれば、子どもから「学校に行きたくない」と訴えられれば大なり小なり驚くかもしれません。ただ、それには友達関係がこじれたなり、もしかしたらいじめがあるなり、何らかの理由があるはず。なので保護者は事情をよく聞き、それに基づいてこれからどうしていくかを話し合えばいいところです。

ところがこの手の親は「学校に行かないでどうするんだ」とか「行くものだから行け」の一点張りで、学校に通わないという外形的事実のみをもって、わが子の側を責めて責めて責めまくる。子どもの不登校をきっかけに家庭はどんより、家族関係はぎすぎすに……。どこにも居場所がない……。(ちなみに、学校にこだわらない親をもつ子の場合、不登校は悩みにつながっていません。言い換えると、不登校にまったく苦しんでいません。あとでじっくり説明します。)

では、なぜその親はそんなにまで学校に固執するのでしょうか。その歴史的・社会的背景は知っておいたほうがいいだろうなと思うので、ここで触れておきます。

中学生にもなれば勘づいていると思いますが、大人は完璧ではなく、言うことやることがいつも正しいわけではありません。この社会において一定数の大人が学校に執着する原因は、おしなべて「それ以外の発想がない」ことにあります。特徴的なのは、自分自身の明確な「思想」をもって学校に特別な価値を見出しているわけではないということでしょう。

この社会には、自分の頭で考える力がないまま大人になってしまった人が一定数います。その層が21世紀初頭現在、会社の経営者や管理職、そして子どもの親など、思考力が求められる責任ある立場についている。私たちはいま、そんな難しい局面にきています。記事の都合上扱えるのは限られた範囲になりますが、歴史的背景は手短にスケッチしておこうと思います。戦後、ひたすら経済成長を求める日本の教育は暗記と事務作業に偏り、自分の頭をひねって新しいアイデアや問題の解決策を生み出す力は極端に軽視されてきました。先生と生徒が絶対的な主従関係に陥っていることも少なくありませんでした。このことが日本社会にどのような病理を生み出してきたかは、国際的にもよく知られています。いい歳になっても精神的に自立できておらず、物事を自分では判断できない。「上」に指示されないと動けない。善悪の観念がなく、従うか周りに合わせるかしかできない。国内外多くの識者やジャーナリストが研究しているので詳細はそちらにゆずりますが、戦後の日本の教育は、コンピューターさながらの「指示待ち人間」を「量産」してしまいました。

では、思考力を身に付けないまま親になってしまった人が「子どもが不登校になった」という場面に直面したら、どう反応するでしょうか。子どもときちんと対話して事情を聞く、原因を分析する、どうしていくかのアイデアを考え出す、話し合う……普通ならこのようにしていけばいいのですが、その力を持ち合わせていない彼らは、壁にぶつかって、パニックに陥ります。

「上」からの指示に従うことが重視されてきたと言いましたが、実際にそれが重宝される場は、日本の、ある時代の、そのまた一部の会社だけにすぎません。親には、指示を下してくる「上」なんていないのです。思考力のある人にとっては当然であり喜びでもあるこのことが、指示待ち人間にとっては底知れぬ不安となります。自分が従うべき「よりどころ」を、必死で求めます。すると、「上(らしきもの)」に該当し得るのは、ばくぜんとした「普通」の概念くらいしかない。言葉の上では、「当たり前のこと」「一般的」「普通の人」「庶民」などとも表現されがちですね。周りを見渡すと、他の子は(たいてい)学校へ行っている。それが「普通」だ。ならそれに合わせればいいんだ。合わせろ。絶対に。――こうして、コンピューターばりの迷いのなさで学校を強いる親が誕生してしまう。

また、この社会の世界的にみて特殊な閉鎖性も関係しています。国・地域や文化はそれぞれ特有な問題を抱えていたりしますが、日本には古くから「みんなと同じ」がいちばんいいんだという風潮があるんですね。人々の人生観が貧困で、「学校へ行って卒業したら会社に就職、人生ってそういうものでしょう」と、親の頭にはそれしかない。

もしあなたの周りで学校に固執する大人がいるなら、その背後にはこういう風景が描かれたセットがあるのです。いままさに人生を歩み出したばかりの若い人は、成長をサポートしてくれるはずの大人が弱みやもろさを露呈するのには深く失望するかもしれませんね……。私もかつてはある部分そうだったし、こうして知識や経験を積み重ねたいまはそういう話を聞くたびに憤りを感じます。

このような現状に対して、はっきり明らかにしておきたいと思います。「学校に行くのが『普通』だ」というのは、宙に浮いた共同幻想です。誰の人生も、そんな紋切り型にはなりません。たとえぱっと見で「普通」な感じの人であっても、よくよく聞いてみれば「実は中学のころ入院して長期休んだんだよね」とか「最初入った大学は辞めて、別の大学に入り直したんだ」とか「28の時に母親が倒れたから、田舎に帰って新しい仕事を探したんです」など、じつに様々な人生を語ります。実社会に出れば、「普通」の人生など存在しないと言って過言でありません。

人は、事実として多様です。一人ひとり違います。個性も、環境や抱えている事情も、です。

もし周りに「学校に行け」一点張りの大人がいるなら、その発想は客観的にはとても偏っているのだということをまず頭に置いてほしいのです。

普通がいちばん、という風潮は、追い込まれた当事者にとって苦しいものです。この状況を快方へもっていくには、なんといっても外部の大人をまぜること。手っ取り早いところなら今の学校の先生でもいいし、フリースクールなど別の教育機関の人などでもいいです。学校はすべてではない、「普通」である必要はないし、そもそも「普通」なんていうものはない。きちんとそう説明してくれる大人はいます。あなたが安心して生活し、必要なチャンスや支援を得て未来へと向かっていくためには、風通しのよさが必要です。

いじめとは閉ざされた迷路。なら、外の世界がある!

不登校について話すなら、いじめの問題を避けることはできませんよね。当事者の事情や気持ちは様々で、多角的な視点が求められるテーマですが、ここではいじめに遭っても選択肢はあり、不登校でいいし、こうならなければいけないというのはないよ、という話にしぼって伝えたいと思います

関連記事:学校でのいじめが「事件」になる前に(別ウィンドウで開きます)

いじめの特性は「閉鎖性」にあり

いじめなんていうのは、閉鎖的な集団で起こるものです。

いじめが横行する風通しの悪い集団では、その集団オリジナルの特殊なルールがまかり通っています。あるいは、その特殊ルールに基づいてターゲットを人工的に作り出し、ぶったりけったりするのを「いじめ」と定義することもできるでしょう。

この特殊ルール、閉鎖空間の内部では猛威を振るいますが、客観的にみれば無効なんですよ。

たとえば、古典的で不愉快きわまりないいじめに「菌うつし」というのがありますね。汚い汚いと騒いでターゲットの子に不快な思いをさせるわけですが、これは科学的でありません。だって、「菌」なんてないじゃないですか。

もう一つ、私は昔「クラスの女子の間にピラミッド式のランク付けがある」という気色悪いいじめの話を聞きました。ランキングを作る側の自称「トップグループ」の子は口達者に理由を述べるのですが(「あの子は班分けがうまくいかないとき調整してくれるし、笑うとかわいいからもう一つ上のグループでいいかな」など)、外部者にいわせれば意味不明の一言です(ちなみに、その子は何の前触れもなく「トップグループ」から外され、夢から覚めたようにランキングを書いた紙を捨てたそうです。そのクラスはどうなったかというと、ごたごたして新たな人間関係が固まりきらなかったため、ピラミッド自体が崩壊したとか。いじめというのは得てして迷信的なので、終わる時は終わるんだなぁと思いました。)。

先生や親に言ってはいけない雰囲気があるとか、あるいは親を心配させるようなことは言えないというのも、こうした「特殊ルール」の一種です。

「特殊ルール」は、外の世界ではなんの意味ももたない

いじめは、この世のすべてでもなんでもありません。今、世界人口は70億人を超えています。「特殊ルール」が通用するのは、70億人のうちのたった20人かそこらにすぎません。うっかりすれば、3人くらいではないですか。パーセントに直したら、事実上ゼロですよ。しかもクラスなんていうのは、2、3年後には消滅確定の集団です。世界は広いし、時間はたっぷりある。いじめがある教室に入るか死ぬかの二択なんていうことは、絶対にありません。

読者がぼろぼろに疲れているかもしれないので、心に負荷をかけたくはありません。何より休んでほしいです。けれど、いじめを客観化してみるのは手軽な一手だと思いますよ。もしよかったらやってみてください。

菌うつしを始める子も、クラスメートにランクをつける子も、狭い教室ではいばり散らして影響力をふるっているかもしれませんが、広い世の中では「なんつー悪ガキ!」程度の見下された扱いです。なんでこう言うかというと、少し前に某中学のとんでもないいじめが事件として新聞に載った時、それが私の美容師さんとの話題にのぼったんですよ。その髪を切っている時の会話が、ちょうどそんな雰囲気だったから。世界は広い。その広い世界は、案外すぐそばにあるかもしれません。

いじめからの「解放」を

閉鎖空間の内部でがんじがらめになる。それがいじめの害悪の根底にあると思います。

私は、いじめのゴールは「解決」ではなく「解放」だと思っています。閉鎖空間からの解放と、がんじがらめになった心からの解放です。

迷路を消して心を救い出す

もしいじめが苦しいなら、学校なんて行かなくていいからまずはたっぷりゆっくり休んでください。疲れた心、傷ついた心には、休息が必要です。あと、この次に海外では発想が全く違うという話を書いておくので、読んでいってください。

不登校の「治し方」??―日本の「不登校=暗い」はおかしい

なんだか最近、不登校に悩んで「不登校 治し方」を検索する中高校生がいるそうですね。私はたまげてしまいました。「治し方」って、そんな病気みたいな……!

不登校には何らかの理由があります。友達関係が泥沼化したかもしれないし、先生とぶつかったかもしれない。もしかしたら、クラスでいじめが横行していたかもしれない。そういった理由には触れもせず、学校を休んでいるという外形的事実だけで病気のように言われたり感じたりしてしまうこの風潮。これ、世界的に見れば異常な現象なんですよ。

不登校は病気ではありません。いけないことでもありません。世界に目を向ければ、それを病気みたいに言っているほうがよっぽど病んでいます。ここでは異なる発想を知って、ぜひ視野を広げていってほしいなと思います。

ある帰国子女の投書から―学校に「なじめない」という表現は的を射ない

まず、私が高校生のころ通信教材の投書欄で読んだ話を紹介したいと思います。

投書したのは、年齢的には高校生だけど高校には入りもしなかったという帰国子女でした。彼女は小学校低学年からアメリカで育ち、中一のころ日本へ帰ってきたらクラスになじめず、不登校になったということです。それはさぞつらかっただろう……と思いきや、彼女はあっけらかんとしていて、落ち込んでる感や苦しい雰囲気がゼロだったんですよ。彼女いわく「日本の学校行事で『団結』とか『協力』とかいうのは結局、滅私奉公を意味している。だから全然いいと思わない」とのこと。こんな発想もあるんだと、当時の私は「目からウロコ」だと感じましたね。彼女は独自に勉強を進めていて、「アメリカの大学へ行き、将来はそっちで暮らしたい」と投書をしめくくっていました。

お分かりでしょうか。彼女はクラスが合わなかったことで自分を一切責めていません。考えてみればそうですよね、クラスが合わないことは全然いけないことじゃないはずです。したがって、うつむくことはありません。高校に入りもしなかったのは、本人の希望です。親御さんが日本のいわゆる「学校に行け」を言わない人なら、不登校の子はこんなふうに苦しむことなく、カラッとしていられるのです。

「学校に『なじめない』」という、まるで能力が欠けているような表現がよく聞かれます。しかし、あれは的を射ていないと思います。投書した帰国子女の方もそうでしたが、海外では日本の「なじめない」と同じニュアンスの言葉や表情はまず見ません。似たような表現があったとしても、それは良い悪いの色づけがない日常会話だったりします。「進学校に入ったけど合わなかった。だから友達からいいって聞いた高校に転校した」とか「大学の経済学部に入ったけど合わなかった。だから転部した」などと言うとき、その話は「能力の欠如」どころか、むしろ「自主性がある」というプラスの色を帯びています。

人が生きていく上では、いろんなことが起こります。困難に出会うことも時折あるでしょう。クラスの雰囲気が合わないとか、運悪く問題のある子と一緒のクラスになってしまったとか、それこそ滅私奉公を強いられたとか、そんなことがあるかもしれません。だけど、それは一巻の終わりでもなんでもありません。日本の「不登校」は暗すぎです。落ち込みゼロでカラッとして堂々として夢がある「明るい不登校」だっていいんです。

たくさんの選択肢

「いじめっ子がいていやだから転校したい」と親に直訴!

日本の不登校がこんなに暗いのはおかしい、という話をもう一つ。

「クラスにいじめっ子がいていやだから隣の学校に転校したい」と、子どもが親に直訴した――なんて言ったら、日本では常識外れにすら聞こえるかもしれません。

しかし実はこれ、海外ではそこらにいくらもある話なんですよ。このケースでも暗さはゼロ。あっけらかんとしています。苦しいどころか、「不登校」が悩みにつながるという発想自体がありません。転校先へは「前の学校にはいじめっ子がいたからこっちに来たよ」と軽い日常会話でさらりと入っていくのです。中学高校はもちろん、小学校でもよくあるようです。

クラス、クラスというけれど、たかだか居住区域で割り振られ校内のコンピューターが組んだ、偶然の集団にすぎません。たとえば、東中二年三組の生徒だけど、クラスにいじめがあって、とうとう学校に行けなくなった……。いやいやちょっと待って。その「学校」って、「東中二年三組」だけのことを指していませんか? たかだかそんなものに固執するのは日本人だけです。私としては、大人には冷静に、柔軟に、自分の頭で考えてとお願いしたいですね。

何度も言いますが、大事なのはあなたが学べるかどうかです。

世の中に「学校」はごまんとあります。転入・編入といったシステムは、ちゃんと用意されています。現に、私は高校のころ、クラスに別の都立高校から生徒が編入してきたことがあります。引っ越しが理由ではなく、私の高校に入りたいと思ったから二年の途中で編入試験を受けたということでした。

学校行こうかな、北中の二年一組に。学校行くよ、フリースクールに。学校行ってみた、私立の学校に編入して。もしあなたが学校での生活を希望するなら、そんな選択肢もありなのです。

たくさんの選択肢

頭の中は、風通しよく

世界を見渡せば「不登校=暗い」は決して必然ではないということを分かってもらえたと思います。もはや「不登校」という言葉自体が不正確なものに思えてきますね。

もしあなたが不登校に苦しんでいるなら、それ相応の理由があるはずです。感情に正解不正解はありませんし、あなたのつらい気持ちは否定しません。

ただ、独りで抱え込まず、頭の中に風を通してほしい。

心の荷物を下ろせば、一気に楽になることだってあるかもしれません。

日本の「不登校」が暗く悲しく、時に絶望感すらただよわせているのは、海外と比べて特殊な現象です。そう、不登校に苦しむ必要はないのです。

学校のカリキュラムは絶対ではない

大事なのはあなたが学べるかどうかだ、と言ってきました。では、勉強についていけないことが原因で不登校になっている場合はどうでしょう。あるいは、学校へ通っても学べていると感じられないなら?

学校のカリキュラムは、決して完ぺきではありません。先ほど、高度経済成長期の教育は暗記と事務作業に偏り、人間にとって大事な思考力は軽視されたと言ったばかりです。こういった傾向は国内外で問題視されるようになって久しいですが、現在でも完全に消えたわけではありません。メディアとの付き合い方、インターネット関連の知識、有権者教育、法教育、性教育、異なる文化の理解と尊重など、不十分だといわれがちな分野も多々あります。

しかし、完ぺきではなくても、それをもって全体を否定するほど学校のカリキュラムは低クオリティではありません。生きていくのに必要なことはそろっているので、できれば一通り学んでおいたほうがいいと思います。

私の中学は、徒歩10分のところにある、ありふれた公立中でした。中学生の私は来る日も来る日も学力真ん中の子に合わせた授業を聞いて、ごく平凡な学校生活を元気に楽しんでいました。あまりに日常的だったので、それについていいも悪いも考えませんでした。その授業がけっこうなレベルだったと気付いたのは、大学を修了してからです。将来どんなことをするにも基礎知識は必要ですが、それをきっちりそろえられました。それに、ふり返れば、中学で最後だった体験は数知れず。国語の平家物語、歴史の室町時代、理科の実験、音楽の鑑賞、美術の絵の具、技術科の金属加工、体育のエアロビクス……。楽しかったな。当時はなにげなくやっていたけれど、あんなにたくさんいろいろ学べたのはあのころだけでした。あれほどたくさんのチャンスは、大人になってからでは望めません。最近では、中学や高校の課程がたまに恋しくなるくらいです。

しかしそれでもなお、今の教育課程は絶対唯一でもなんでもありません。若い人が学習する内容は、時代と場所によって変わります。今のカリキュラムは、しょせん今の枠組みにすぎないのです。

もし学校のカリキュラムがあなたにとって足かせとなってしまうなら、あなたに合った別の学び方をすすめます。そのほうがためになるし、なにより幸せですからね。勉強が遅れているなら、もっとゆっくり自分のペースで勉強できる学校を。世に言う「勉強」が合わなくて職人技やアート分野などをやってみたいというなら、積極的にそちらへ進むのもいいでしょう。自由闊達な性格のため学校という「制度」が合わないなら、学びは他の方法で。行き先は吟味し、大人にチェックしてもらったほうがいいですが、よさそうだったらそっちへ飛び込んではどうでしょう。読字障害などがあるなら、そういう人がよく理解できるよう作られた教育があります。自分に合ったものを調べてみてください。

学校は、子どもが成長するためにあります。学校にとらわれて伸びていけないなら本末転倒。自分のためになる学び方、生き方を考えてください。

結びに―学校に行くかどうかではなく、自分のことを考えて

苦しさから解放されて深呼吸する若者

あなたの人生は、あなただけの大切なものです。

誰が「べき」論を振りかざしてこようが、それは外部のことにすぎません。他人があなたに命令する権限を持つことは、決してありません。よって、心ない声に影響されることはありません。傷つくこともありません。他人からの圧力によって人生を決めれば、自分を見失ってしまいます。クリアな頭で考えるためにも、個はがっちり持っていたほうがいいんです。

そして何より、他の誰でもない世界にたった一人のあなたを大事にしてください。そうすれば、おのずから道は見えてくるでしょう。

あなたは今、どんな生活を送りたいですか? あなたがあなたらしく成長していくのにふさわしい方法は何でしょう。人間、疲れたときは休息が必要です。もし体に不調があるならお医者さんへ。心が傷ついているなら、心理面をサポートしてくれる人に会いに行ったほうがいいでしょう。自分に合った学び方がいま通っている学校にないというのなら、そろそろ新しい場所へ進む時かもしれません。

次の世代は学校にこだわらなくていい。休むといいし、二度とそこへ戻らなくてもいい。それが、いばらの道をごり押しで進んだ果てに私が出した結論です。

不登校について考えるときの出発点は、常にあなたです。次の世代は栄養をたっぷりとって、のびのび幸せいっぱいに成長していってくださいね。

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