映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじと感想―クイーンの伝記は新たな伝説に

『ボヘミアン・ラプソディ』(原題:Bohemian Rhapsody ブライアン・シンガー監督、2018年、米・英)は、イギリスの伝説的ロックバンド・クイーンのリードボーカル、フレディ・マーキュリーの生涯を描いた伝記映画です。アカデミー賞では主演男優賞、編集賞、録音賞、音響編集賞の最多4冠を獲得し、日本では2018年の興行成績第1位に輝く大ヒット作となりました。今回は本作のあらすじをまとめ、感想などを書いていこうと思います。(以下、結末までのネタバレを含みます。)

映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ

いまや伝説として語られるライブ・エイドのステージからさかのぼること15年。

フレディは、デザインを勉強したものの空港で働いている労働者で、ひまを見つけては歌を書き溜めつつ夜はライブハウスに入り浸るインド系の若者だ。本名はファルーク・バルサラ。パールシー(注:8世紀にペルシャを追われインドへ移り住んだゾロアスター教徒)の家系で、両親がインドからザンジバル(注:アフリカ東部の島。イギリスの保護国だったが1963年に独立。タンザニアの一部となる)へ移り、ザンジバルから着の身着のままでロンドンに移り住んだという複雑なバックグラウンドに悩んでいた。ある夜、フレディは追いかけているバンド”SMILE(スマイル)”のメンバー、天文物理学を学ぶブライアン・メイと歯科学生のロジャー・テイラーに声をかける。スマイルでは、成功を夢見るリードシンガー・ティムがやめていってしまったばかりだった。スマイルは新しいリードボーカルとしてフレディを、ベーシストとしてジョン・ディーコンを迎えて次のステージに立つ。うろ覚えの歌詞、慣れないマイク。それでもフレディは、圧倒的なパフォーマンスで聴衆を魅了した。

1年後、スマイルの4人は車を売ってアルバムを制作、バンド名を”QUEEN(クイーン)”に改めた。フレディも法的にフレディ・マーキュリーへ改名する。そんな時、革新的なレコーディングを目にしたレコード会社から大きな契約話が舞い込む。エルトン・ジョンをマネジメントしたことで有名なジョン・リードとクイーン担当に決まったポール・プレンターに、フレディは「クイーンははぐれ者の集まりで、音楽を居場所とする家族なのだ」と説明。やがてクイーンはBBCの人気音楽番組に出演、フレディはライブハウスで出会ったガールフレンドのメアリーに結婚指輪を贈る。アルバムはアメリカでチャートにランクイン、全米ツアーが決まるなど大成功を収めた。

1975年、クイーンは新作アルバムの制作に入る。ヒット曲”Killer Queen”の二番煎じではなく、オペラを取り入れた新しい手法に果敢に挑戦するメンバーたち。しかしアルバムに誰の曲を入れるかをめぐり、メンバーの間に仲間割れが起こり出す。そんな中でフレディが書いたのが”Bohemian Rhapsody(ボヘミアン・ラプソディ)”だ。演奏時間が6分にもわたり、半分はオペラ、意味のない歌詞も出てくる「ボヘミアン・ラプソディ」が受け入れられず、クイーンはレコード会社と決裂。同曲はラジオでオンエアされ、評価はいまひとつ、一部では酷評されたが、翌1976年、クイーンは世界ツアーで大喝采を浴びた。

フレディは自分のバイセクシャル(注:両性愛。LGBTのBにあたる)に悩む。それを悟ったメアリーと、新居では隣の家に分かれて住むことになった。内面の闇にのまれそうになるほど、フレディはパーティーにふけるようになる。クイーンのメンバーとの亀裂も深まっていった。そんな時出会ったのが、パーティーで給仕をしていたジム・ハットンだ。誠実で良識ある彼はフレディの悩みに耳を傾け、「本当の自分を見つけたら会いに来てくれ」と、名前だけを言い残していった。

世界ツアーでの観客の反応から着想を得たブライアンは、足踏みと手拍子を基調とする観客参加型の楽曲を考案する。これがのちの名曲”We Will Rock You”で、ツアーでは意図した通りの熱狂を巻き起こした。

そんな折、フレディにソロ活動の話が持ち込まれる。条件はバンドの解散だった。クイーンは家族だからと、フレディは逆上。話を切り出したリードを独断でクビにしてしまう。新マネージャーは、かねてからクイーンに協力していた弁護士のジム・ビーチ(フレディ命名マイアミ・ビーチ)が引き受けた。その直後、フレディの男性関係が新聞にスクープされる。

新アルバムの会見では、楽曲よりもフレディのセクシャリティに注目が集まる。記者からの厳しい質問に追い詰められたフレディは、挑発的な言葉を返して逃げ回るのがやっとだった。女装でパフォーマンスしたミュージックビデオは、アメリカで放送禁止に。時同じく、新しいボーイフレンドができたメアリーは家を出て行ってしまう。疲れ果て孤独に襲われたフレディは、ポールの手引きでソロ契約を結んだ。メンバーが激怒をぶつけ、ブライアンが「お前は自分で思っている以上にクイーンを必要としている」と忠告するのも聞かず、フレディはクイーンをあとにした。

1984年、ミュンヘン。フレディはソロアルバム2枚のレコーディングに奔走しながら酒におぼれ、ポールとパーティーに明け暮れていた。クイーンには史上最大のチャリティーライブ「ライブ・エイド」への参加依頼が届いていたが、フレディをソロに集中させたいポールは取り次がない。そんなころ、フレディはひそかに体調の異変に気付く。そんな時、妊娠中のメアリーがミュンヘンまではるばる訪ねてきた。メアリーはライブ・エイドの件を伝えると、ポールらはカネのことばかりでフレディを気にかけていない、クイーンに戻るべきだと主張する。ライブ・エイドへの参加依頼を知らされなかったことに怒り、そんな道を選んでしまった自分を責めたフレディは、ポールに二度と顔を出すなと告げた。ポールがテレビに出演してフレディの薬物や愛人のスキャンダルをばらまいたころ、フレディはビーチに電話をかけ、メンバーに会いたいと静かに伝えた。

フレディは傲慢な振る舞いを謝り、クイーンに戻りたいと告げる。ミュンヘンで雇ったミュージシャンは自分の言いなりに演奏するだけで、ぶつかり合うこともない。クイーンこそが家族だと気付いたのだ。ブライアン、ロジャー、ジョンの3人は、今後の曲はすべて個人ではなくクイーン名義とし、ロイヤリティは山分けという条件で、フレディを再び迎え入れた。

病気を察していたフレディは、とうとう病院でエイズを宣告される。ライブ・エイドまで、あと一週間。リハーサルでは思うように声が出ない。フレディは、クイーンの仲間だけにエイズの事実を告げる。死期を察したフレディは、自分の生きる意味はパフォーマーであることだから、ステージでは空に穴をあけるような最高のパフォーマンスを披露したいと決意を語った。

1985年7月13日。世界各地の会場で開かれた史上最大のコンサートには、デイビッド・ボウイ、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、レッド・ツェッペリン、エリック・クラプトン、ボブ・ディランなどそうそうたる顔ぶれが参加し、オリンピックを上回る規模の衛星放送で全世界に中継された。各自の持ち時間は20分。「ボヘミアン・ラプソディ」で始まったクイーンのステージは、スタジアムいっぱいの聴衆を熱狂させていく。クイーンのメンバーや関係者、応援にやって来たメアリー、ついに探し出したジム・ハットン、そしてテレビの前の家族や飼い猫が見守る中、フレディは魂を燃やし尽くすような最高のパフォーマンスを披露する。それはフレディからみなへの謝罪、感謝、不治の病の示唆と別れ、そして最期まで闘い続ける決意の宣言であり、フレディ・マーキュリーの生き様のすべてであった。

感想―時を越え、私たちの心に響くもの

よくまとまった一本の映画

実在するバンドメンバーの生涯を映画化すると聞いた時、私は正直「大丈夫なのか?」と首をひねりました。

たとえば織田信長だったらもともとある種の伝説で、人物像にフィクション性がかぶさっています。さらに歴史上の人物は研究対象でもあり、これまでにいろんな角度から語られているので、作者のほうが「自分は織田信長のこういう一面を描きたいんだ」と決められます。あるいは、アメリカの大統領はたびたび映画の題材になってきました。最近なら『ブッシュ』あたりが有名です。政治家はもともと批評の対象なので、これまた作者が「ブッシュについての自分の見解」を表現できます。(余談ですが、映画『ブッシュ』(オリバー・ストーン監督)は秀作ですよ。エンディングにボブ・ディランの楽曲が選ばれているんですけど、あれは私が選ぶ「史上最高のオチ」です。音楽が好きな方はぜひ!)

しかし、フレディ・マーキュリーはミュージシャン。事実を追っていくとしたら、複雑な一人の人間のうちの何を描くのか、「作品」としてまとめ上げるのがむずかしくなってしまう。だからといってドラマ性を打ち出せば、うそくさい感動話に仕上がりかねません。

私のそんな疑問や心配は無用でした。なんとうまくまとめたことか! クイーンの楽曲群を作品の中心に据えつつ、一部事実とは異なるシーンをもうけることでストーリーの流れをつくり(一例を挙げると、フレディがメンバーにエイズを打ち明けたのは実際には死の直前だったそうですね)、筋の通った一本の映画に仕上げています。

ほどよい娯楽性もつまっていますね。強欲で腹黒く、嫉妬深いポールは「悪役」まっしぐら。決裂したとたん復讐だなんて、怖いよポール……。ライブ・エイドの中継をオフィスでぽつんとさびしくかけている「クイーンを失った男」は、敗者感がハンパないですね。エンタメ作品らしいおもしろさを味わえます。

心理描写もていねいでした。フレディが疲弊と孤独に直面して、観客としては「今こそクイーンが心の支えに……!」と期待するその時に、彼はクイーンを去ってしまうんですよね。あぁっ、なんでだよフレディ! 「クイーンは家族だ」って自分で言ってたのに! 解散を持ちかけたマネージャーをクビにするほど強い思いがあったのに! なんで自分だけが孤独だなんていう考え方をするの? せっかくできたはずの居場所を自分から出て行ってしまうのは、傍からすれば悪い意味で「ボヘミアン」に映るでしょう。一貫性がなくフラフラしている、と。しかし、これは孤独な人ならではの心理です。「居場所がない」という思いが心の奥に巣食う限り、「ここにいてはいけない」ような気がして、せっかく手に入れた居場所をつかんでいられない。そのために仲間を怒らせ、結果的には孤独をさらに深めてしまう。フレディがもがく姿を筋立ててよく描いていたと思います。

とりわけ秀逸なのは、タイトルの選び方ですね。「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンの最高傑作と呼び名が高い代表曲で、世界に唯一無二の独創性を誇っています。それだけでも映画のタイトルとして候補にあがると思いますが、下で述べる通り、フレディ・マーキュリーのバックグラウンドは複雑を極めます。悩み、もがきながら自分を探し、自由を求めるフレディの生き様は、まさに「ボヘミアン」なんですね。そこにもってきて舌を巻くのは、フレディが自らの最期を知る由もないころに、のちの運命を暗示させる歌を書いていたという事実。そのような曲を背骨に据えた時点で、ラストの落としどころは決まったも同然です。『ボヘミアン・ラプソディ』という映画のタイトルは、フレディ・マーキュリーという人の生き様を完ぺきに象徴できていると思います。

メインからエキストラまで、キャストたちの輝く名演

本人たちのルックスを見たことがあるにせよないにせよ、エンディングで流れるライブ映像では思わず笑ってしまうでしょう。似すぎだろ!!

音楽を題材にした映画でしかも4人編成のバンドとなれば、メインキャストの役作りは大変なはず。ルックスの激似っぷりもさることながら、演奏シーンもここまで作り上げたのには、ただただ拍手です。

とりわけフレディ役について言うなら、これこそ主演男優賞にふさわしいと思います。観客に「これは(役者ラミ・マレックではなく)フレディ・マーキュリーその人だ」と思わせるのが「演技」だと定義するなら、演技として最高の完成度を誇っているといえるでしょう。一方、音楽シーンそれ自体が新たなパフォーマンスだととらえることもできますね。どちらにしても、その出来は圧倒的です。

フレディ役は、演奏シーンだけでなく、細かい演技も光っています。ソロアルバムを制作している途中、せきに血が混じっているのに気づいたフレディがタオルを握って丸めるシーン。体調の異変を周りのスタッフに悟られまいとしながら底知れぬ不安をにじませるアクションは、こちらまで胸にゾクッときましたね。それから、メアリーの妊娠を祝うシーンのあの表情ですよ! フレディにとってメアリーは”Love Of My Life”を贈った相手で、別れた後も生涯ずっと最高の理解者であり続けた人物。心の中では最愛の人だったんでしょう? ”Love Of My Life”で歌ってる通りなんでしょう? それなのに涙をこらえ、震えながら笑顔で背中を押す姿がもう! 私からも主演男優賞を贈りたいくらいです。

さらに『ボヘミアン・ラプソディ』の映画として特筆すべきところは、光っているのがメインキャストだけではないところだと思います。映画のラストを飾るライブ・エイドの音楽シーンは、会場スタッフ役や観客役の一人ひとりまで、画面全体に一切のぬかりがありません。ライブ・エイドが開かれた1985年にはまだ生まれてもいなかった私としては、当時の雰囲気や興奮を体験できたかのようで感動モノでした。再生も再生産も無限にできるCDと違い、コンサートでのパフォーマンスや観客との一体感は、地球上に二度と存在しえない一回性のもの。再現不可能な伝説のステージをどう「再現」するのだろうと疑問だったのですが、出来上がってみればその興奮を表現できている。エキストラまでが魅せる、スキのない映画でした。

何重ものマイノリティを生きたフレディ・マーキュリー

私は本作を観るまでクイーンについて詳しいことは知らなかったんですけど、これには驚きました。ブリティッシュ・ロックの最高峰に昇りつめたバンドのリードボーカルが、そのイギリスでこんなマイノリティだったなんて……。

「パキスタン野郎」じゃないのに……

まずは、人種の面ですね。パキスタンという国には住んだこともないのに、フレディがインド系の見た目だけで”Pakkie(パキスタン野郎)”呼ばわりされる場面は何度も出てきます。これだけでも十分複雑な心境なのがうかがえます。

ザンジバルってどこ?

そこに、ザンジバルという出身地が輪をかけるんですよね。恥ずかしながら、私はこの映画を観るまで「ザンジバル」という地名は聞いたことすらなかったんですよ。辞書を引っぱり出して初めて、「アフリカ東部の島。イギリスの保護領だったが1963年に独立。現在はタンザニアの一部」……そうなんだ、と。

アフリカ諸国の独立が記憶に新しい70年代のイギリスではもう少し知名度があったとみえますが、果たしてフレディは、アフリカの島を故郷だと感じられたでしょうか。

宗教はマイノリティ中のマイノリティ

さらにゾロアスター教徒ということは、宗教マイノリティとしてもさらにマイナーじゃないですか。

インドは宗教的に多様な国ですが、主流なのはヒンドゥーですね。ヨーロッパの宗教マイノリティといえば伝統的にユダヤ人ですが、少なくとも「ユダヤ人が社会の中に存在する」という認識は人々の間に浸透しているわけです。

ところがゾロアスター教となると……。歴史上、ゾロアスターは西洋人に数々のインスピレーションを与え、西洋文化の形成にかかわっています。しかしゾロアスター教の家族がイギリスに住んでいるとなれば、唐突と言わざるを得ません。インド系の見た目だけならまだよかっただろうに、フレディたちは「なぜロンドンにいるのか」からいちいち説明しなければならない。自分がそこにいること自体に疑問がある。居場所がない、逃げ出したいとの気持ちを抱くのも無理はありません。

LGBTのBの苦悩

こうして見た目、文化と重ねたところで性的マイノリティときたら、その葛藤はもう言い尽くせないですね。これは70~80年代の話。LGBTへの偏見と差別は今以上に強く、変質者のような扱いを受けるのもめずらしくなかった時代です。

そこにもってきて、LGBTのなかでもバイセクシュアルは同性愛(ゲイ(G)・レズビアン(L))と混同されがちなんですよね。LGBTという言葉がこれだけ世に広まった現在でさえ、当のLGBTコミュニティに参加したバイセクシャルの人が「バイって本当にあるの?」と存在に疑問を投げかけられ傷ついたという話を聞きました。正しい情報がろくにない、存在すらろくに知られていない属性を持っているのだから、生きづらいなんていうものではないでしょう。

悩みぬいたフレディは、「ボヘミアン」になっていく

自分は何者なのか? すっかり「悪役」のポールですが、フレディを「孤独を恐れるパキスタンの少年」と言い表したのは図星なんですね。行動でも、楽曲でも、下地にあるのはいつも孤独や不安。こちらとしては憎らしくなるほど図星ですが、当のフレディはテレビの前で神妙な表情をしていたのが印象的です。

こうした幾重にも重なるアイデンティティ・クライシスから、フレディは「ボヘミアン」になっていくんですよね。彼の楽曲は、決して「特殊な人の話でしょう?」とはなりません。むしろ逆、誰もが共感できる作品です。

とりわけ「ボヘミアン・ラプソディ」の曲はそうですね。オペラの手法ということで、人を殺してしまった男についての物語(?)がつづられていますが、この「物語」にフレディ自身の苦悩がにじんでいるのは言うまでもありません。現実から逃げ回っている罪意識、生まれについての葛藤、深い孤独感……。そして「オペラ(=架空の物語)の鑑賞」だからこそ、私たちもただの他人の話ではなく、まるで自分のことのように笑ったり泣いたりできる。葛藤を独創的な楽曲に昇華させる手腕は、さすがとしか言えません。私からひとつ強調しておくなら、「ボヘミアン・ラプソディ」には本当の自分に向き合わない罪意識――ファルーク・バルサラという本名を捨てた後ろめたさもあったでしょうか――が描かれていますが、これは現実に向き合わない人が書ける言葉ではありません。現実に立ち向かった人の言葉です。

フレディは悩みぬいたからこそ、人種も、文化も、性別も、人間の「属性」すべてを飛び越える楽曲を創り上げることができたんですね。

そうした楽曲群をこの映画は見事に落とし込んでいるし、それを可能にした楽曲をつくり上げたフレディ・マーキュリー本人の力は、やはり異彩を放っていると思います。

楽曲への感想―ロックは音楽にとどまらない

70~80年代という時代は、すでに歴史となりました。革新的なアルバムのリリースも、ライブ・エイドの熱狂も、私たちはリアルタイムに経験することはできません。”We Will Rock You”や”We Are The Champions”といった世界的な名曲なら私も耳にしたことがありましたが、深く掘り下げようとまでは思いませんでした。みなさんの多くも「聞いたことある」止まりになりがちではないでしょうか?

そこをいくと、今回の映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、適度なエンタメ性で肩の力を抜きつつ、リアルタイムの興奮を(疑似)体験できる、絶妙で貴重な作品だったと思います。

クイーンの充実ぶりと底の深さ

伝説のロックバンドは、ポップカルチャー(=下位文化)の域にとどまりません。もしロックバンドと聞いて軽そうな印象を受けたなら、本作を観ればそんな先入観は吹き飛ぶでしょう。

ロックは最高のものとなれば、新しい文化を創造する域に到達します。上位文化を食えるほど中身が充実しているんですね。私は伝説のロックバンド・クイーンが秀才ぞろいだとはこの映画で初めて知ったのですが、なるほど、それは決して偶然ではない。4人それぞれが曲を書くバンドで4人全員が世界的ヒット曲を出しているという層の厚さは格別です。さらに、本作では解散の危機が描かれていますが、この時代のロックバンドでメンバーの入れ替わりがないのは稀有なこと。安定感があります。

クイーンは音楽ジャンルの垣根を越えて常に挑戦するバンドなので楽曲にはさまざまな方向性のものがありますが、全体として底が深いです。時のヒット曲なんかではありません。

いまや音楽業界に期待できない独創と革新

新しい手法を考え出しては貪欲に取り入れるクイーンの姿には、音楽好きとしてうらやましくなりました。

レコーディングのシーンで私が思い出したのは、かつてニュースのドキュメンタリーコーナーで特集されていた日本のシンガーソングライターだったんですよ。彼女は世間で「個性派アーティスト」などといわれているのですが、だったらもちろんレコーディングもクイーンのように彼女自身が指揮しているか……といえば全然違う。録っても録ってもプロデューサーが「なんかが足りないなァ」「ちょっと違うんだよなァ」などと首をひねり、十何回目のテイクで彼女がアドリブを入れると「これだ、これだ!」と大笑いしながら決定を下すんですよ。邦楽では、アルバムの企画も、レコーディングも、すべての決定権も、主体はあくまで会社なんですね。私はそれを横目に「個性派アーティストさんよォ、あんたはお飾りかよ」と苦笑いしたものでした(あのドキュメンタリー、彼女のユニークな世界観が好きだったファンはひどく幻滅したのではないでしょうか)。私が普段聴いているのはたいてい邦楽だし、好きな曲も山ほどあるんですけど、国内では決して期待できない要素が洋楽にはある。クイーンはそれを体現する存在だと思いました。

独創性と革新性に欠けるのは、なにも日本のポップミュージックに限ったことではありません。現在ポップスターとして名をとどろかす洋楽シンガーには、尊敬するアーティストとしてクイーンを挙げる人がたくさんいます。しかし、フレディの(表面的な)アクションを参考にしたところで彼らは「盛り上げ上手」止まりで、クイーン並みの底の深い表現ができる人物は見当たりません。

映画の中でフレディは「自分の生きる意味はパフォーマーであること、それがフレディ・マーキュリーだ」「観客が求めるものをやる」と語っています。しかしこれは、あれだけ中身の充実した楽曲を作った人物が言ったこと。フレディのパフォーマンスをコピーしてステージを行ったり来たりする「盛り上げ上手」はいる。クイーンの楽曲を研究し、聴衆といっしょに歌えるキャッチ―なメロディを書ける作曲家ならいるだろう。フレディ・マーキュリーを完ぺきに演じられる役者はいた。それでも、クイーンの楽曲やステージは、クイーンにしかできない。これが伝記映画としての『ボヘミアン・ラプソディ』への私の感想です。

70~80年代が歴史となった今だからこそ

70~80年代のロックシーンは、すでに歴史となりました。クイーンの楽曲も私たちにはリアルタイムではないので、ある種の「教養」となっているんですよね。

「伝説のバンドのことは知っておきたいけど、どれからどう聴けばいいかよく分かんないし……」とか「ロックを『勉強する』なんてロックじゃない!」などと悩める音楽好きのあなた。この映画がすべてを解決してくれます。

おわりに―エネルギーと一体になれる、唯一無二の作品

『ボヘミアン・ラプソディ』という映画の特別さを表すには、どんな言葉がはまるのだろう。ただおもしろいとか、元気になれるとか、共感できるとか、そこにとどまらないものが本作にはあるんですよ。

エネルギーをもらえる……違う違う、そんな「映画館を出てリフレッシュしました」みたいな薄っぺらい話じゃない。エネルギーを感じられる……いや、そうなんだけど、これじゃあまだ他人事だな。エネルギーと一体になれる……そうだ、これだ! フレディが新作アルバムにオペラを取り入れると宣言したあのシーンが、まさにこの映画特有のすごみだと思います。

大ヒットの理由はここにあり

映画『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ、2018-19年の日本で記録的な大ヒット作となったのでしょうか?

今の世の中は、一方では出来上がりすぎています。まるで社会全体が止まることない巨大な機械のよう。こんな社会では、生身の、ありのままの自分が食い入る余地はありません。どうあがいても、しっくりこない。しかし他方では、この社会は日に日に崩れていっています。足場が崩れゆく世の中で、身の置き所が見つからない。この先を生きていくのが不安だ。なのにテレビで目立っているのは、けばけばしいだけで底の浅い、作り物の有名人ばかり。本当の意味での独創や革新はいっこうに生まれず、閉塞しきっています。

自分の在り方・生き方に迷える我々は、「本当の自分」に悩みさまようフレディとよく重なるのでしょう。本作は、もともと「みんなと同じ」への圧力が強く「自分らしさ」が抑圧されがちな風土に、時代や社会情勢が合致したから私たちの心の奥に強く響いた。それが記録的大ヒットの理由ではないでしょうか。

人種、文化、性別を越えて世界をひとつにしたフレディ・マーキュリーが、今度は時を越え、今を生きる人々の心を揺さぶった――彼の伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、フレディ・マーキュリーの、クイーンの新たな伝説なのかもしれません。

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サウンドトラックには使用楽曲すべてが入っています。クイーン初心者はもちろん、収録されているのはなにげに貴重なライブ音源だったりするので、往年のファンも興奮の一枚ではないでしょうか。DVDはこちら

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