『ボヘミアン・ラプソディ』(原題:Bohemian Rhapsody ブライアン・シンガー監督、2018年、米・英)は、イギリスの伝説的ロックバンド・クイーンのリードボーカル、フレディ・マーキュリーの生涯を描いた伝記映画です。アカデミー賞では主演男優賞、編集賞、録音賞、音響編集賞の最多4冠を獲得し、日本では2018年の興行成績第1位に輝くなど、映画も伝説的な大ヒット作となりました。
センセーションの秘密はどこに? 今回は映画『ボヘミアン・ラプソディ』のあらすじをまとめ、感想などを書いていこうと思います。(以下、結末までのネタバレを含みます。)
目次
映画『ボヘミアン・ラプソディ』あらすじ
いまや伝説として語られる「ライブ・エイド」のステージからさかのぼること15年。
1970年、ロンドン。フレディは、デザインを勉強したものの空港で働く労働者で、ひまを見つけては歌を書き溜め、夜はライブハウスに入り浸るインド系の若者だった。本名はファルーク・バルサラ。家庭はパールシー(注:8世紀にペルシャを追われインドへ移り住んだゾロアスター教徒)で、両親がインドからザンジバル(注:アフリカ東部の島。イギリスの保護国だったが1963年に独立。現在はタンザニアの一部)へ移り、そこから着の身着のままでロンドンに移り住んだという複雑なバックグラウンドに悩んでいた。ある夜、フレディは追いかけているバンド”SMILE(スマイル)”のメンバー、天文物理学を学んでいるブライアン・メイと歯科学生のロジャー・テイラーに声をかける。スマイルでは、リードシンガーのティムが大きな成功を夢見てやめてしまったばかりだった。フレディは新しいリードボーカルとしてスマイルに加入、さらにベーシストのジョン・ディーコンを迎えてステージに立つ。うろ覚えの歌詞、慣れないマイク。それでもフレディは、圧倒的なパフォーマンスで聴衆を魅了した。
1年後、スマイルの4人は車を売ってアルバムを制作、バンド名を”QUEEN(クイーン)”に改めた。フレディも法的にフレディ・マーキュリーへと改名する。そんな時、革新的なレコーディングを目にしたレコード会社から大きな契約話が舞い込む。エルトン・ジョンをマネジメントしたことで有名なジョン・リードと、クイーン担当に決まったポール・プレンターと面会して、フレディは「クイーンははぐれ者の集まりで、音楽を居場所とする家族なのだ」と説明。やがてクイーンはBBCの人気音楽番組に出演。フレディはライブハウスで出会ったガールフレンドのメアリー・オースティンに結婚指輪を贈る。アルバムはアメリカでチャートにランクイン、全米ツアーが決まるなど大成功を収めた。
1975年、クイーンは新作アルバムの制作に入る。ヒット曲”Killer Queen”の二番煎じではなく、オペラを取り入れた新しい手法に果敢に挑戦するメンバーたち。しかしアルバムに誰の曲を入れるかをめぐって、メンバーに仲間割れが起こり始める。そんな中でフレディが書いたのが”Bohemian Rhapsody(ボヘミアン・ラプソディ)”だ。演奏時間が6分にもわたり、半分はオペラ、意味のない歌詞も出てくる「ボヘミアン・ラプソディ」が受け入れられず、クイーンはレコード会社と決裂。同曲はラジオでオンエアされ、評価はいまひとつ、一部では酷評されたが、翌1976年、クイーンは世界ツアーで大喝采を浴びた。
そんな華々しい活動の裏で、フレディは自分のバイセクシャル(注:両性愛。LGBTのB)に悩む。それを悟ったメアリーと、新居では隣の家に分かれて住むことになった。内面の闇にのまれそうになるほど、パーティーにふけるようになっていくフレディ。クイーンメンバーとの亀裂も深まっていった。そんな時出会ったのが、パーティーで給仕をしていたジム・ハットンだ。誠実で良識ある彼はフレディの悩みに耳を傾け、「本当の自分を見つけたら会いに来てくれ」と、名前だけを言い残して去っていった。
世界ツアーでの観客の反応から着想を得たブライアンは、足踏みと手拍子を基調とする観客参加型の楽曲を考案する。これが後の名曲”We Will Rock You”で、ツアーでは意図した通りの熱狂を巻き起こした。
そんな折、フレディにソロ活動の話が持ち込まれる。しかし条件はバンドの解散だった。クイーンは家族だから、とフレディは逆上。話を切り出したリードを独断でクビにしてしまう。新マネージャーは、かねてからクイーンに協力していた弁護士のジム・ビーチ(フレディ命名、マイアミ・ビーチ)が引き受けた。その直後、フレディの男性関係が新聞にスクープされる。
新アルバムの会見では、楽曲よりもフレディのセクシャリティに注目が集まる。記者からの厳しい質問に追い詰められたフレディは、挑発的な言葉をぶつけて逃げ回るのがやっとだった。女装でパフォーマンスしたミュージックビデオはアメリカで放送禁止に。時同じく、新しいボーイフレンドができたメアリーは家を出て行ってしまう。疲れ果て、孤独に襲われたフレディは、ポールの手引きでついにソロ契約を結んだ。メンバーが激怒し、ブライアンが「お前は自分で思っている以上にクイーンを必要としている」と忠告するのも聞かず、フレディは古巣のバンドをあとにした。
1984年、ミュンヘン。フレディはソロアルバム2枚のレコーディングに奔走しながら酒におぼれ、ポールらとパーティーに明け暮れていた。クイーンには史上最大のチャリティーライブ「ライブ・エイド」への参加依頼が届いていたが、フレディをソロに集中させたいポールは取り次がない。フレディはひそかに体調の異変に気付いていた。そんな折、妊娠中のメアリーがはるばるミュンヘンまで訪ねて来る。メアリーは「ライブ・エイド」の件を伝えると、ポールやその仲間たちは金のことばかりでフレディを気にかけていない、クイーンに戻るべきだ、と主張する。フレディは「ライブ・エイド」への参加依頼を伝えられなかったことを知って怒り、そんな道を選んでしまった自分を責めると、ポールに二度と顔を出すなと告げてミュンヘンを後にした。その後、ポールがテレビでフレディの薬物や愛人スキャンダルをばらまくのを見ながら、フレディはビーチに電話をかけ、メンバーに会いたいと静かに伝えた。
再会の席。フレディは傲慢な振る舞いを謝り、クイーンに戻りたいと告げる。ミュンヘンで雇ったミュージシャンは自分の言いなりに演奏するだけで、ぶつかり合うこともない。クイーンこそが家族だと気付いたのだ。ブライアン、ロジャー、ジョンの3人は、今後の曲はすべて個人ではなくクイーン名義とし、ロイヤリティは山分けという条件で、フレディを再び迎え入れた。
病気を察していたフレディは、とうとう病院でエイズを宣告される。「ライブ・エイド」まであと一週間、リハーサルでは思うように声が出ない。死期を察したフレディは、クイーンの仲間にだけエイズの事実を告げ、自分の生きる意味はパフォーマーであることだから、ステージでは空に穴をあけるような最高のパフォーマンスを披露したい、と決意を語った。
1985年7月13日。世界各地の会場で開かれた史上最大のコンサートには、デイビッド・ボウイ、ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、レッド・ツェッペリン、エリック・クラプトン、ボブ・ディランなどそうそうたる顔ぶれが参加し、オリンピックを上回る規模の衛星放送で全世界に中継された。各自の持ち時間は20分。”Bohemian Rhapsody”で始まったクイーンのステージは、スタジアムいっぱいの聴衆を熱狂させていく。クイーンのメンバーや関係者、応援にやって来たメアリー、ついに探し出した恋人ジム・ハットン、そしてテレビの前の家族や飼い猫が見守る中、フレディは魂を燃やし尽くすような最高のパフォーマンスを披露する。それはフレディからみなへの謝罪、感謝、不治の病の示唆と別れ、そして最期まで闘い続ける決意の宣言であり、フレディ・マーキュリーの生き様のすべてであった。
感想―時を越え、私たちの心に響くもの
整然とした筋立て、圧巻の音楽シーン。映画作品として圧倒的だった、というのが私の率直な感想でした。
フレディが活躍した時代は今となってはもう昔ですが、そのロックミュージックには時を越え、現代を生きる我々の心に響くものがあったと思います。以下では映画大ヒットの秘密を含め、感想や考えたことなどをつづっていきます。
よくまとまった一本の映画作品
実在するバンドメンバーの生涯を映画化すると聞いた時、私は正直「大丈夫なのか?」と首をひねりました。
ミュージシャンは伝記にしやすいか―伝記に向く職業、向かない職業
一般に「伝記」の題材といえば、たいていは歴史上の人物です。歴史上の人物は学問研究の対象ですし、先立ってあまたの作品が様々な角度から描いていますよね。だから作者は、たとえば「自分は織田信長のこういう一面を描きたいんだ」というふうに、作品のポイントや方向性を定められます。歴史上の人物は伝記にしやすく、問題も起こりにくいといえるでしょう。
伝記にしやすい、といったら政治家もそうです。政治家はもとより批評の対象なので、作者は「自分はこの政治家をこう評価しました」と自分の見解を表現できるからです。(余談ですが、映画『ブッシュ』(オリバー・ストーン監督)は秀作ですよ。エンディングにボブ・ディランの楽曲が選ばれているんですけど、あれは私が選ぶ「史上最高のオチ」です。音楽映画が好きな方はぜひ!)
ところが、フレディ・マーキュリーはミュージシャン。伝記の題材としてはかなり微妙な職業なんですよね。
人間は誰しも複雑です。日々この瞬間に思っていることがあり、行動の数も膨大で、それが絶え間なく一生積み重なっていく。フレディに関する膨大な事実のうち、何を拾って描き、何はフレームから外すのか。「芸術作品」としてまとめ上げるのはむずかしいのです。
だからといってドラマ性を前面に打ち出せば、仕上がってみたらうそくさいチープな感動話だった、という情けない事態に陥りかねません。実在の人物を主人公にしたドラマや評伝小説では、事実が都合よくねじ曲げられることはしばしばあります。ウケをとるためです。ターゲット層の人々は満足して感涙を流していても、そうでない人にはかえって鼻についた、なんていうことはめずらしくありません。
さらに、社会的な問題が生じることもあります。評伝小説やドラマのせいで、実在の人物の関する誤った認識が世に広まってしまうケースです。今回は余談になってしまうので深入りしませんが、ある作家を聖人君子に仕立て上げるため、確信犯として隠ぺい等を含む評伝小説が書かれた、などという後ろ暗い事例も実際にあるんです。
バランスのとれた創作姿勢
このように、伝記は現実とフィクションのグレーゾーンに位置する微妙な分野。果たして、制作者はどういう意図でクイーンを映画化するのだろう? 私はクイーンに詳しいわけではなかったんですけど、伝説のロックバンドがチープな感動話として消費されるならガッカリだな……などと、あれこれ心配していたのです。
しかし見終わってみれば、私のそんな疑問や心配は無用でした。なんとうまくまとめたことか。『ボヘミアン・ラプソディ』は音楽映画としてクイーンの楽曲群を作品の中心に据えつつ、一部事実とは異なるシーンをもうけてストーリーの流れをつくることで、理路整然と筋の通った作品に仕上がっています。
事実と異なる点で特に重要なのは、
- フレディがメンバーにエイズだと病名を打ち明けたのは、実際には「ライブ・エイド」より後。メンバーはフレディが大変な病気をかかえていると察していたが、怖くて問いただせなかったという。
- 「ライブ・エイド」のシーンでは、ストーリー上すでに登場した”Crazy Little Thing Called Love”と”We Will Rock You”の2曲が省かれている。
あたりでしょうか。なので、この映画をそのままクイーンに関する事実と受け取ることはできないのですが、フレディ以外のメンバーは存命中で本映画についてインタビューでもよく答えているので、私たち観客は事実と照合することが可能です。
作品としての出来と、表現者としての責任。バランスのとれた創作姿勢には好感が持てました。
筋立てのよさと、いいスパイスな娯楽性
映画作品として肝心な「ストーリー」は筋立てが理路整然とできており、心理描写もていねいでした。
フレディが疲弊と孤独に直面して、観客としては「今こそクイーンが心の支えに……!」と期待するその時に、彼はクイーンを去ってしまうんですよね。あぁっ、なんでだよフレディ! 「クイーンは家族だ」って自分で言ってたのに! 解散を持ちかけたマネージャーをクビにするほど強い思いがあったのに、なんで自分だけが孤独だなんていう考え方をするの? ……せっかくできたはずの居場所を自分から出て行ってしまうのは、傍からすれば悪い意味で「ボヘミアン」に映るでしょう。一貫性がなくフラフラしている、と。しかし、これは孤独感をかかえる人ならではの心理です。「居場所がない」という思いが心の奥に巣食う限り、「ここにいてはいけない」ような気がして、せっかく手に入れた居場所をつかんでいられない。そのために仲間を怒らせ、結果的には孤独をさらに深めてしまう。そうやってフレディがもがく姿を、本作は筋立てよく描いていたと思います。
とりわけ秀逸なのは、タイトルの選び方でしょう。『ボヘミアン・ラプソディ』はクイーンの最高傑作と呼び名が高い代表曲で、世界に唯一無二の独創性を誇っています。それだけでも映画のタイトルとして候補にあがると思いますが、下で述べる通り、フレディ・マーキュリーのバックグラウンドは複雑を極めます。悩み、もがきながら自分を探し、自由を求めるフレディの生き様はまさに「ボヘミアン」なんですね。そこにもってきて舌を巻くのは、フレディが自らの最期を知る由もないころに、のちの運命を暗示させる歌を書いていたという事実。そのような曲を背骨に据えた時点で、ラストの落としどころは決まったも同然です。『ボヘミアン・ラプソディ』という映画のタイトルは、フレディ・マーキュリーという人の生き様を完ぺきに象徴できていると思います。
その添え物ではないですが、ほどよい娯楽性はいいスパイスになっています。強欲で腹黒く、嫉妬深いポールは「悪役」街道まっしぐら(ちなみにポールのことはクイーンメンバー本人たちも酷評している)。あんなさんざん言い寄ってたのに、決裂したとたん復讐だなんて怖いよポール……。また「ライブ・エイド」の中継をオフィスでひとりぽつんとかけている「クイーンを失った男」は敗者の感がハンパないですね。こういう部分ではエンタメ作品らしいおもしろさを味わえました。
メインからエキストラまで、キャストたちの輝く名演
伝記作品としての『ボヘミアン・ラプソディ』で目がひきつけられたのは、作中のクイーンメンバー4人が本物そっくりなことでした。似すぎでしょう、コレは! よく実現できたなと思います。エンディングスタッフロールでは本物のクイーンのライブ映像が流れるので、本人たちを見たことがなかった人はそこでプッと吹き出すでしょう。
音楽を題材にした伝記映画、しかも4人編成のバンドとなれば、メインキャストの役作りは大変なはず。ルックスの激似っぷりもさることながら、演奏シーンをここまで正確に作り上げたのにはただただ拍手です。
とりわけフレディ役について言うなら、これぞアカデミー賞主演男優賞にふさわしいと納得です。観客に「これは(役者ラミ・マレックではなく)フレディ・マーキュリーその人だ」と思わせる再現性を「演技」だと定義するなら、演技として最高の完成度を誇っているといえるでしょう。その出来は圧倒的でした。
フレディ役は細かい演技も光っています。たとえばソロアルバムを制作している途中で、せきに血が混じっているのに気づいたフレディがタオルを握って丸めるシーン。体調の異変を周りのスタッフに悟られまいとしながら底知れぬ不安をにじませるアクションは胸にゾクッときましたね。それから、メアリーの妊娠を祝うシーンのあの表情ですよ! フレディにとってメアリーは”Love Of My Life”を贈った相手で、別れた後も生涯ずっと最高の理解者であり続けた人物。心の中では最愛の人だったんでしょう? ”Love Of My Life”で歌ってる通りなんでしょう? それなのに涙をこらえ、震えながら笑顔で背中を押す姿がもう! 私からも主演男優賞を贈りたいくらいです。
さらに本作の映画として特筆すべきところは、光っているのがメインキャストだけでないところだと思います。『ボヘミアン・ラプソディ』という映画作品のラスト、クライマックスを飾る「ライブ・エイド」の音楽シーンは、会場スタッフ役や観客役の一人ひとりまで、画面全体に一切ぬかりがありません。「ライブ・エイド」が開かれた1985年にまだ生まれていなかった私としては、当時の雰囲気や興奮を体験できたかのようで感動モノでした。CDは再生も再生産も無限にできますが、コンサートでのパフォーマンスや観客との一体感は、地球上に二度と存在しえない一回性のもの。再現不可能な伝説のステージを一体どう「再現」するのだろうと私は疑問だったのですが、出来上がってみればその「興奮」を新たに表現できている。エキストラまでが魅せる、映画としてスキのない作品でした。
四重のマイノリティを生きたフレディ・マーキュリー
私は本作を観るまでクイーンメンバーの人物像について詳しいことは知らなかったんですけど、これには驚きました。ブリティッシュ・ロックの最高峰にのぼりつめたバンドのリードボーカルが、そのイギリスでマイノリティだったなんて……。
数えてみれば、フレディ・マーキュリーの抱えるマイノリティ属性は以下4つ。伝説のロックスターは、生きづらさに悩み苦しむ四重のマイノリティだったのです。
「パキスタン野郎」じゃないのに……
まずは、人種の面。フレディはパキスタンという国に住んだことがないのに、インド系の見た目だけで”Pakkie(パキスタン野郎)”呼ばわりされる場面は本作中で何度も出てきます。これだけでも十分複雑な心境なのがうかがえます。
ザンジバルってどこ?
そこに、ザンジバルという出身地が輪をかけます。恥ずかしながら、私はこの映画を観るまで「ザンジバル」という地名は聞いたことすらなかったんですよ。辞書を引っぱり出して初めて、「アフリカ東部の島。イギリスの保護領だったが1963年に独立。現在はタンザニアの一部」……そうなんだ、と。
アフリカ諸国の独立が記憶に新しい70年代のイギリスではザンジバルは今日よりは知名度があったとみえますが、果たしてフレディは、アフリカの島を自分の故郷だというふうに感じられたでしょうか?
宗教はマイノリティ中のマイノリティ
見た目、出身地と悩みが重なったところで、さらに上乗せされるのが宗教的バックグラウンドです。
ゾロアスター教徒ということは、宗教マイノリティのなかでもさらにマイナー。というのも、インドは宗教的に多様な国ですが、主流なのはヒンドゥーです。そしてヨーロッパではどうかといったら、宗教マイノリティといえば伝統的にユダヤ人ですが、少なくとも「ユダヤ人が社会の中に存在する」という認識は人々の間に浸透しているわけです。
ところがゾロアスター教となると……。歴史上、ゾロアスターは西洋人に数々のインスピレーションを与え、西洋文化の形成にかかわっています。しかしゾロアスター教の家族がイギリスに住んでいるとなれば、唐突と言わざるを得ません。インド系の見た目だけならまだよかっただろうに、フレディ一家は「なぜロンドンにいるのか」からいちいち説明しなければならないのです。自分がそこにいること自体に疑問がある。居場所がない、逃げ出したいとの気持ちを抱くのも無理はありません。
LGBTのBの苦悩
こうして見た目、出身地、宗教と悩みを重ねたところで最後に性的マイノリティときたら、その葛藤はもうどんな言葉でも言い尽くせないですね。本作で描かれるクイーンの時代は1970~80年代。LGBTへの偏見と差別は今以上に強く、変質者のような扱いを受けるのもめずらしくなかった時代です。
そこにもってきて、LGBTのなかでもバイセクシュアルは同性愛(ゲイ(G)・レズビアン(L))と混同されがちなんですよね。LGBTという言葉がこれだけ世に広まった現在でさえ、当のLGBTコミュニティに参加したバイセクシャルの人が「バイって本当にあるの?」と存在に疑問を投げかけられて傷ついた、という話を前に聞いたことがあります。フレディは、正しい情報がろくにない、存在すらろくに知られていない属性を持っているのだから、その生きづらさは想像を絶します。
悩みぬいたフレディは「ボヘミアン」になっていく
自分は何者なのか?
作中ではすっかり「悪役」のポールですが、フレディを「孤独を恐れるパキスタンの少年」と言い表したのは図星なんですよね。行動でも、楽曲でも、フレディの下地にあるのはいつも孤独や不安。憎らしくなるほど図星ですが、当のフレディはテレビの前で神妙な顔をしていたのが印象的です。
こうした幾重に重なるアイデンティティ・クライシスから、フレディは「ボヘミアン」になっていくんですよね。そういう形で自分だけの自己を確立していく。彼の楽曲は、決して「特殊な人の話でしょう?」とはなりません。むしろ逆、誰もが共感できる作品です。
とりわけ、タイトルずばり”Bohemian Rhapsody”はそう。オペラの手法ということで、人を殺してしまった男の物語がつづられていますが、この「物語」にフレディ自身の苦悩がにじんでいるのはまちがいないでしょう。現実から逃げ回っている罪意識、生まれについての葛藤、深い孤独感……。そして「オペラ(=架空の物語)の鑑賞」だからこそ、私たちも他人の話ではなく、まるで自分のことのように笑ったり泣いたりできる。深い葛藤を独創的な楽曲に昇華させる手腕は、さすがとしか言えません。私からひとつ強調しておくなら、”Bohemian Rhapsody”には本当の自分に向き合わない罪意識が描かれていますが、これは現実に向き合わない人が書ける言葉ではありません。現実に立ち向かった人の言葉です。
フレディは悩みぬいたからこそ、人々の心に響くすばらしい楽曲を創り上げることができたのだと思います。
人種も、文化も、性別も、人間の「属性」すべてを飛び越える――そんな楽曲群を、本作『ボヘミアン・ラプソディ』は映画という表現に見事に落とし込んでいます。もとをたどれば、それを可能にする楽曲を作り上げたフレディ・マーキュリー本人の力はやはり異彩を放っているのではないでしょうか。
楽曲への感想―ロックは音楽にとどまらない
70~80年代という時代はすでに歴史となりました。私たちは、クイーンの革新的なアルバムリリースも、「ライブ・エイド」の熱狂も、リアルタイムに経験することはできません。”We Will Rock You”や”We Are The Champions”といった世界的な名曲なら私も耳にしたことがあったのですが、深く掘り下げたことはなかった。みなさんの多くも「なんか聞いたことある」止まりになりがちではないでしょうか?
今回の映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、適度なエンタメ性で肩の力を抜きつつ、リアルタイムの興奮を(疑似)体験できる、絶妙で貴重な作品だったと思います。
伝説たる所以―クイーンの充実ぶりと底の深さ
伝説のロックバンドは、ポップカルチャー(=下位文化)の域にとどまりません。
ロックは最高のものとなれば、新しい文化を創造する域に達します。上位文化を食えるほど中身が充実しているんですね。
私は伝説のロックバンド・クイーンが秀才ぞろいだとはこの映画で初めて知ったのですが、なるほど、それは決して偶然ではない。4人それぞれが曲を書くバンドで4人全員が世界的ヒット曲を出しているという層の厚さは格別です。さらに、本作ではバンド解散の危機が描かれていますが、この時代のロックバンドでメンバーに入れ替わりがないのは稀有なこと。安定感もあるのです。
代表曲「ボヘミアン・ラプソディ」がオペラを取り入れたのに象徴されるように、クイーンは音楽ジャンルの垣根を越えて常に挑戦するバンドなので楽曲にはさまざまな方向性のものがありますが、活動全体を通して底が深いんですよね。ワッと人気になってもすぐ忘れられる時のヒット曲なんかではありません。伝説として永遠に輝ける、新しい文化を創造できるほど充実した力を備えていると思います。
いまや音楽シーンに期待できない独創性と革新性
新しい手法を考え出しては貪欲に取り入れるクイーンの姿に、私は一人の音楽好きとして気持ちが高揚しました。と同時に、「いまの音楽シーンがこんなだったらいいのに……」とさびしく微笑まずにはいられませんでした。
”Seven Seas Of Rhye”レコーディングのシーンを見ながら私が思い出したのは、かつてニュースのドキュメンタリーコーナーで特集されていた日本の某シンガーソングライターだったんですよ。彼女はちまたで「個性派アーティスト」などと呼ばれているのですが、だったらもちろんレコーディングもクイーンのように彼女自身が指揮している……と思いきや、私がテレビで目の当たりにしたのはそれとはかけ離れた現実でした。録っても録ってもプロデューサーが「なんかが足りないなァ」とか「ちょっと違うんだよなァ」などと首をひねり、十何回目のテイクで彼女がアドリブを入れたら「これだこれだ!」と大笑いしながら決定を下す。邦楽では、企画も、レコーディングも、すべての決定権も、主体はあくまで「会社」なんですね。私はそれを横目に「個性派アーティストさんよォ、あんたはお飾りかよ」と鼻を鳴らしたものでした(あのドキュメンタリー、彼女のユニークな世界観が好きだったファンはひどく幻滅したのではないでしょうか?)。私が普段聴いているのはたいてい邦楽だし、好きな曲も山ほどあるんですけど、洋楽には国内では決して期待できない要素がある。クイーンはそれを体現する存在だと思いました。
今日、独創性と革新性に欠けるのは、なにも日本のポップミュージックに限ったことではありません。レディ・ガガをはじめ、現在ポップスターとして名をとどろかす洋楽シンガーには、尊敬するアーティストとしてクイーンを挙げる人がたくさんいます。しかし、フレディの(表面的な)アクションを参考にしたところで、彼らは「盛り上げ上手」止まり。クイーン並みに底の深い表現ができる人物は見当たりません。
映画で描かれたフレディは「自分の生きる意味はパフォーマーであること、それがフレディ・マーキュリーだ」「観客が求めるものをやる」と語っています。言葉の表面だけなぞれば「自己表現より盛り上げ重視」かのように聞こえますが、これはあれほど中身の充実した曲を作った人が言ったこと。いま、フレディのパフォーマンスをコピーしてステージを行ったり来たりする「盛り上げ上手」なシンガーはいる。クイーンの楽曲を研究し、聴衆といっしょに歌えるキャッチ―なメロディを書ける作曲家ならいるでしょう。フレディ・マーキュリーを完ぺきに演じられる役者はいた。それでも、クイーンの楽曲やステージはクイーンにしかできないのだ。そんな感慨が、今回伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』を通して私の心に刻まれました。
70~80年代が歴史となった今だからこそ
70~80年代のロックシーンはすでに歴史となりました。クイーンの楽曲も私たちにとってはリアルタイムでないので、ある種、音楽の「教養」となってしまった感があるんですよね。
ちょうどそんなタイミングで、映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、「伝説のバンドのことは知っておきたいけど、どれからどう聴けばいいか分かんなくて……」とか「ロックを『勉強する』なんてロックじゃない!」といった悩みをすべて解決してくれます。ストーリーを楽しみながらクイーンの足跡をたどり、ロックが生まれた時代の雰囲気や音楽事情もわかる。私としては、一押しです。
結びに―エネルギーと一体になれる、唯一無二の作品
『ボヘミアン・ラプソディ』という映画の特別さを表すには、どんな言葉がはまるのだろう――ただおもしろいとか、元気になれるとか、共感できるとか、そこにとどまらないものが本作にはありました。
「エネルギーをもらえる」……違う違う、そんな「映画館を出てリフレッシュしました」みたいな薄っぺらい話じゃない。なら「エネルギーを感じられる」……いや、そうなんだけど、これじゃあ他人事だな。じゃあ、「エネルギーと一体になれる」……そうだ、これだ! フレディが新作アルバムにオペラを取り入れると宣言したあのシーンが、まさにこの映画特有のすごみだと思います。
大ヒットの理由はココにあり
映画『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ、2018-19年の日本で記録的大ヒット作となったのでしょうか?
今の世の中は、一方では出来上がりすぎています。まるで、社会全体が止まることのない巨大な機械のよう。これでは、生身の、ありのままの自分が食い入る余地はありません。どうあがいても、しっくりこない。
しかし他方では、この社会は日に日に崩れていっています。足元が崩れゆく世の中で、身の置き所が見つからない。この先を生きていくのが不安だ。なのにテレビで目立っているのは、けばけばしいだけで底の浅い、作り物の有名人ばかり。本当の意味での独創や革新はいっこうに生まれず、社会は閉塞しきっています。
自分の在り方・生き方に迷える現代人は、「本当の自分」のことで悩みさまようフレディとよく重なるのでしょう。『ボヘミアン・ラプソディ』は、もともと「みんなと同じ」への圧力が強く「自分らしさ」が抑圧されがちな風土に、時代や社会情勢が合致したから私たちの心の奥に強く響いた。それが記録的大ヒットの理由ではないでしょうか。
人種、文化、性別を越えて世界をひとつにしたフレディ・マーキュリーが、今度は時を越え、今を生きる人々の心を揺さぶった――彼の伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、フレディの、クイーンの新たなロック伝説に違いありません。
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サウンドトラックには使用楽曲すべてが入っています。クイーン初心者はもちろん、収録されているのはなにげに貴重なライブ音源だったりするので、往年のファンも興奮の一枚ではないでしょうか。
著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)|Mastodon|YouTube|OFUSE
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