学校でのいじめが「事件」になる前に

以前、苦しいなら不登校でいいんだという話を、私自身の経験や見聞にもとづいてたっぷり書き綴りました。不登校には様々な理由がありますが、絶対外せないのが「いじめ」です。

今回はあらためて記事を一枚割き、この問題にスポットライトを当てたいと思います。説明の部分は第三者の視点で書きますが、現在いじめに悩んでいるみなさんには「そんな苦しんでまで登校しなくていい」と心から伝えたい。次の世代には私が見たり聞いたりしたことを活用して心を解き放ち、のびのびと成長してほしい。それが大人になった私の願いです。

いじめの内容と種類

最初に、「いじめとは何か」についてかんたんにまとめておこうと思います。

まずは分類から。身体的ないじめとは、殴る蹴る等の暴行を加えるものです。誰にでも想像しやすく、言わずもがなという感じでしょう。一方、精神的な傷を負わせるタイプには、いやがらせ、悪口、無視(シカト)、仲間外れ(ハブ)などが含まれます。

ただほとんどの場合、身体的・精神的の両方は複合しています。たとえば、加害者が相手を殴る時に黙りこくっているというのは現実的でありませんね。おそらくは拳といっしょにバカにするような言葉をあびせるでしょう。また汚物を利用するいじめでは、本質的に身体的・精神的なそれがまざっています。内容によって被害者に必要なサポートが変わってくるこそありますが、どちらのほうが重い、などということではありません。

思春期の学年(小学校高学年~)でのおぞましいいじめ体験談は、残念ながら誰しも一つや二つ耳にしたことがあると思います。ただ、小学校低学年や幼児ならたいしたことはできないか、といえば必ずしもそうではありません。低年齢のいじめは、時に大人が驚くほど残酷になることがあります。それは幼い分見聞にとぼしく、ある意味無邪気なため(たとえば「人を殴ってはならない」「差別はいけないことである」といった情報に十分ふれるだけの時間を生きていない)、やることに歯止めがかからないためです。

いじめの原因は複雑、事例も多様

いじめが始まるきっかけは、ちょっとしたトラブルや仲たがい、相性の悪さといったどこにでもあるようなことです。しかしその背景に別の原因があることは、決してめずらしくありません。メディアから事件が伝わってくるとどうしても怖さや悪質さに目が行き、震えあがったり、怒りがこみあげたりしますよね。しかし、では加害者の子は一体何を思ってそんなことをしているのか? あらためて考えれば、それも気になるところではないでしょうか。

代表的な原因を挙げると、学校側が対応する過程で、加害児童/生徒の家庭内不和が明らかになるケースは多数にのぼります。たとえ一見幸せそうな家族であっても、家の内部では俗に言う”嫁姑”の不仲、親類との競争に子どもが巻き込まれている、あるいは家庭内暴力があるなどといった重大な問題が慢性化していて、子どもが不健全な家庭環境で心の奥底にため込んだ不安やストレス、怒りを学校でいじめという形で爆発させてしまった、ということです。

またこれと関連して、加害児童が中学受験塾に通っており、心身の疲れやストレス、プレッシャー、心理的な抑圧、親との不和による不満や怒り、屈折した優越感や劣等感などを学校で発散させるケースもよくあります。これは学級崩壊でも、原因としてしばしば挙がってきます。さらには、こういった生い立ちの中学生や高校生が精神的に余裕を持てず、何年も経ってから爆発するケースも。近年、少年犯罪の現場からは、少年たちが精神的に孤立を深めていると報告されています。

このように「家庭内不和や受験のストレスが背景にあった」という指摘は教育現場からよく聞かれます。その複数がからみあっていることも多いようです。

ただし、加害者が深い悩みや心の傷をかかえていたからといって、学校でのいじめまでしかたなかったことになるわけではありません。なぜなら、被害者は現に、一生残る深い傷を負わされているのですから。あとで何度も繰り返しますが、こういう後味悪い結末にならないために、子どもが加害者や被害者になるより前の段階で手を打つことが大事です。

と、ここまではいじめの背後によくある複雑な事情を紹介してきました。しかし、加害者に必ずこういった原因があるとは限りません。とくに注意がいるのは、暴力がある家庭の子は必ずいじめをする、あるいはその危険性が高いのかといえば決してそうではない、ということでしょう。思わぬ偏見につながらないよう、注意を付け足しておきます。また、いたって健全だった子がささいなきっかけでいじめに走ってしまうこともあります。

ほか、年齢特有の心理が関係することもあります。思春期の子はもともと多感なのでささいなことにも反応しやすく、それがきっかけとなってしまうんですね。

ただもっと複雑な心理になると、素人には対処どころか理解すらむずかしい場合もあります。思春期特有の自己愛が異常に肥大化した、などの特殊心理が発端にあった場合、加害生徒の説明は被害者や大人にとってまったくもっての理解不能になりがちです。たとえば、どこかの学校でのいじめが「事件」に至り、あなたの手元に届いた報道を読んでみたら、加害生徒が「自分は特別な子だから」とか「お母さんなら許してくれると思った」などと説明したというのでわけがわからず眉をひそめた、という経験はないでしょうか。こういった特殊心理が関わっている場合、加害生徒に悪かったと理解させるには、心理専門家の関与が不可欠です。

人間関係は、「条件Aがあれば必ず結果Bとなる」わけではありません。人間はもともと複雑な生き物な上、一人ひとり違うし、それが集まった集団の動きは単純に割り切れるようなものではないからです。

事件に至るまでには、段階がある

いじめによる事件、そして苦闘と苦悩の末の自殺。メディアから聞きおよんで身震いしたこと、ショックを受けたことは、残念ながら誰しも何度かあると思います。これを読んでいる中には、現在その渦中にあって生きた心地がしないという方もいるかもしれません(そういう方はこの記事下のほうに「いじめを押してまで学校に行かなくていい理由」をしっかり書いたので、ぜひ読んでいってください)。

しかしこうした事件になるようないじめも、クラスが始まったその日から存在していたわけではありません。病的な域に達するまでの間には、無数の段階があるのです。

人間関係では、ぶつかり合いはどうしても起こります。人間とはそういう生き物なんですから。そのつど本人たちが、それでだめなら第三者が間に入って折り合いをつければいい。普通ならそれで一件落着です。

小さなトラブルのうちに解決しておけば、「事件」には至らない

巷の日常の例として、私自身の経験をいくつか記しておこうと思います。

私が小学校高学年のころ、友達グループにいさかいを起こしがちな子がいました。ささいなことでトラブルになり、むくれて出て行ってしまったりするのです。しかし、結局はいつも話がついて、グループに戻ってきたものでした。「彼女の家には家庭内暴力があるらしい」と私に教えてくれたのは彼女と直接仲たがいした子で、いさかいの件とは別に、心から気の毒そうにしていました(この時私はまだ小学生だったので、家庭内暴力といわれてもピンとこなかったのですが)。

また、このクラスには、親から受験塾に通わされていてしょっちゅう愚痴をこぼしている子もいました。彼女は小6になって受験が近づくと「白昼夢を事実として人に話す」というおかしなくせを身につけたんですよ。妙なうわさを流したために相当数のクラスメートを怒らせ、彼女は嫌われがちになりました。しかし、やっていることが小規模ですよね。これではニュースに出てくるような深刻な事態には至りません。

もうひとつ、これは中学時代ですが、クラスメートが一週間か二週間、学校を休んだことがありました。どうしたんだろう、と思っていると、私は黒板の前の先生から事実を聞きました。口の悪い男子生徒にひどいことを言われて傷つき、胃をこわして入院したんだとか……。ただこの時は、先生の対処が早かった。もともと私の中学には、先生と生徒が友達関係について正直な気持ちをオープンに話せる雰囲気がありました。さらに、問題の男子の周りには「そういうのやめとけよ」と気軽に言えるような子がいたし、そうなればちょっと口の悪い子でも「そういわれれば悪かったな」とつまらないことはやめるもの。彼女にとっていやな経験だったのは間違いないでしょうが、彼女はその後は普通に登校し、たくさんの友達と、楽しそうに過ごしていました。

このように、友達関係のもつれといってもこのくらいの段階で止まれれば、世を震撼させる「事件」とは無縁です。だから私は、大事なのは生活上どうしても起こってくるトラブルにきちんと対処することだと思うのです。

悪化してからでは、ハッピーエンドはない

以上のように、人間関係ではあつれきはどうしても起こってきますし、それ自体は悪いことではありません。そのつど解決していけばいいのです。

しかし、小さなあつれきがステップを踏んで突き進み、クラスが「異常な集団」と化してしまえば、もう単純には片付かなくなります。学校の対応が良かったの悪かったのという以前に、性質として、いくら熱心な先生でも簡単に解決することはできないほどの泥沼になってしまうからです。児童/生徒の常に移り変わる複雑な人間関係を把握するだけでも大変ですし、すべての子、すべての出来事に逐一対処するなど、たとえ体がいくつあったって無理じゃないですか。

被害者が負う、深い傷

ここまできてしまえば、被害者が負う傷は段違いに深くなります。ただの「いやな思い出」なんかではすみません。負った傷が日常生活への支障や対人恐怖、そして自殺願望にまで至ってしまえば、専門医療が必要な域に突入します。

こういった深い傷は、誰よりも被害者本人にとって、痛く、苦しく、つらいことです。成長段階でそれほどの重荷を背負ってしまうのは、理不尽なハンデだと言わざるを得ません。進学のタイミングでサポートがぷつりと途切れてしまいその後やり場のない思いを抱えている人、あるいはいじめの後遺症に一生苦しんでいる人までいるそうです。

いじめのきっかけなど、ちょっと性格が合わなかったとか、髪型がどうだとか、他愛のないことにすぎなかったはず。それが誰が見ても異常な段階まで悪化してからでは、被害者は取り返しのつかない傷を負ってしまいます。出口は見えず、ふり返れば人格も人生も大幅に破壊されている。こんなことが許されるはずがありません。

見て見ぬふりをするのも加害者だ……というほどシンプルではない

では、直接の被害者・加害者となっていない児童生徒はどうなのでしょうか。

いじめについて話し合う場面ではよく、「見て見ぬふりをするのも加害者だ」などと言われますね。しかし、そう唱えただけで解決するくらいなら、誰もこんなに苦労はしません。事例によって千差万別ではありますが、そういう立場の児童生徒に深い罪悪感が残る可能性、あるいは、いじめを目撃したことで心に早急なサポートが必要なほど深い傷を負う可能性があることは、ここで指摘しておきたいと思います。

さらに付け加えると、問題がもはや教室の範囲を越えてしまっている例もみられます。たとえば学校側が意図的にいじめをないものとして扱っている、学校外の権力との癒着がからんでいるといったケースです。最たる例はこちらですが、「ブランド名を守りたい有名私立一貫校が隠ぺいする」という図式なら、私は新聞の匿名投書欄でもいくつか読んだことがあります。たった13歳かそこらの子が、倫理の「り」の字もない腐敗した権力にたった一人で立ち向かうなんて、事実上不可能ではありませんか。直接の被害者でも加害者でもない子は、人知れず心の中で、声なき悲鳴をあげているのです。

加害者への対応で残る、どこまでも苦い後味

最後に、加害者はどうでしょう。

原因のところで紹介した通り、その子が実は不健全な環境下で暮らしている、親との不和を抱えている、あるいは暴力を受けているといった事実が明るみに出ることはよくあります。つまり、いじめが始まるより先の段階に原因があったというわけです。

第三者の私たちからみれば、どこまでも胸が悪いですよね。加害者が別のところでは被害者だったからといって、学校でいじめをしてもいいということにはならないのですから。

もともと被害加害関係というのは、人間の世で指折りに難しいテーマです。素人判断は禁物。こうした加害者には、少年事件と同水準の、専門的かつ緻密な対応が必要になります。

被害者・加害者・傍観者になってしまうより前に

このように、いじめが悪化してからでは、被害者は言うまでもなく、関係者すべてにとってハッピーエンドはありません

いじめが世を震撼させる「事件」に達するまでには、無数のステップがあります。その前の段階で手を打つことが大事です。

風通しのよい環境を

ではどうすれば取り返しがつかなくなる前の段階で止められるでしょうか。

くり返しますが、いじめは個別事例によって千差万別です。しかし、いじめの起こりにくい環境、逆に起こりやすい環境というのは確かに存在します。

普段から開放的で、子どもと大人が心理的に分け隔てなく交流しており、問題が起こったときにはすぐ話し合える雰囲気があれば、いじめが根付くようなことはありません。

逆に、秘密主義的で上っ面だけの人間関係が横行していれば、いじめの土壌ができあがってしまいます。

たとえば、クラスに「親や先生にチクるな」とか「大人に味方してもらうなんてかっこ悪い」という雰囲気ができてしまえば、リスクは一気に高まります。

あるいは先生が強権的で「触らぬ神に祟りなし」みたいな存在だと、大人の世界と子どもの世界は分断されます。そうなれば有事の際、子どもたちにとって先生は「問題に一緒に取り組む人」ではなく、「やりすごす対象」となってしまいます。先生の前では仲直りしたふりをして、裏ではじくじくと、いつまでもいじめが続いている。「大人は敵だ」と認識されているようでは、本当の解決はほとんど望めなくなってしまいます。

大人と子どもが、普段から友達関係について気軽に話せるといいんですよね。先にも述べましたが、私の中学では、担任の先生が日ごろからよく友達関係のことを話していました。中学なんかでは友達関係のちょっとしたガサつきなんていくらも転がっていますが、何かあれば対応が早かった。とにかく早かった。出来事の小ささからすればちょっと過剰じゃないか、と感じたこともあるくらいでした。生徒である私たちも、クラスの雰囲気が悪くなったりすると、よく先生のまわりに集まってああだこうだおしゃべりしたものでした。

いじめがどうしようもなくなる前に止める秘訣は、「風通しの良さ」です。友達同士、児童生徒と先生、子どもと保護者の間、どこをとっても正直な気持ちを話せる雰囲気だといいですね。

いじめを押してまで学校に行かなくていい理由!

以上、人間関係のトラブルは解決困難に陥るより前に手を打つことが大事だと書いてきました。

では、すでに泥沼化してしまった、あるいは読者のあなたが現在いじめに遭っているなら?

不登校の記事でじっくり解説したのですが、ここでも念を押すと、いじめを押してまで学校に行く必要はありません。休むといい。休んだほうがいい。現在いじめに苦しんでいるみなさんのため、その理由をあらためて説明したいと思います。

そもそも学校とは?

登校するのしないの、教室に入るの入らないの、こういったことについて世の中で一体どれだけの言葉が交わされたかは計り知れません。

しかし、そもそも学校とは何なのでしょうか?

世間を見渡すと、この根本的な問いに取り組んだことのある人は案外少ない気がするんですよ。答えが思いつかず、口ごもってしまう人。あるいは一応答えられたとしても最初から「だから学校に行かなければならない」という結論につなげようという頭があるのでいまいち説得力がない人。「行くものだから行くんだ」では説明になりませんよね。

ここらではっきりさせておきましょう。学校とは、「学齢期の子どもが教育を受けられる機関」です。

逆説的ではありますが、貧しい国で読み書きを習うことすらできない子どもたちを考えれば、学校というものの本質は見えてきます。学校に行けなかった子どもたちは、その結果どんな人生を送るはめになっているのか。貧困に固定され、一生そのままになっています。何の夢も見られません。しかし教育を受ければ、新たな可能性に踏み出せます。その教育を提供する公的な機関が、学校です。読み書きをはじめいろいろなことを習えるのはもちろん、学校には様々なチャンスが用意されています。将来やりたいことを見つける場所も、たいていは学校ですよね。

私が何が言いたいかというと、いじめのために学校であなたの成長が阻害されるなら、それは本末転倒なんですよ

労働を強いられている子どもたちは例外なく「学校へ行きたい/行きたかった」と口をそろえるし、何らかの支援が届いて教育を受けられるようになると、希望に満ちあふれてキラキラ輝きだすものです。それによって貧困の連鎖から脱出したり、夢を叶えたりしています。

ところが、その学校で得られるものが生きる希望どころか生き地獄の苦しみと将来へのハンデだというなら、元も子もないじゃないですか。

大事なのは、あなたが成長できること

成長するチャンスを失う、害になるというなら、学校へ行く必要はありません。むしろ、行かないほうがいい。別のところでさまざまな挑戦をして、夢を見つけ、のびのび成長していくほうがはるかに望ましいのです。

学校は、一教育機関にすぎません。ましてや、いじめっ子のことなんかであれこれ頭を悩ませる必要はありません。どうだっていい。

それよりもっともっと、あなたのことを考えたほうがいい。「はじめに学校ありきで、それに自分をどう合わせていくか」という発想の枠組みが、この社会では保護者をはじめ、本人の頭の中でも幅をきかせていると思います。しかし、ものを考える出発点は学校ではなく、あなた自身。大切なのは、いじめをどうにかすることでも学校に行くことでもなく、あなたの成長、あなたの将来、あなたの夢なのです。

「学校」なら、他にいくらもある

たとえば、あなたが東中二年三組の生徒だったとします。クラスでは剛田君(仮)を中心にいじめが猛威をふるっていて、雰囲気は最悪。最初ターゲットにされていたのは野比君(仮)だったけどその後……(中略)……ついに自分が席にぬれ雑巾を置かれた。終わった……学校に行きたくない……。

いやいや、ちょっと待って。あなたの言う「学校」って、「東中二年三組」だけのことを指していませんか?

そんなろくでもないクラス、行きたくなくて当たり前ですよ。剛田君の性質の悪さは問題です。いじめのことが頭にのしかかっていたら、落ち着いて勉強することもできません。

西中なり南中なり北中なり好きなところを選んで、落ち着いて中学生活を送るというのはどうでしょう。フリースクールでもいいし、あるいは私立学校への編入なんかでもいい。一口に学校といっても、少し広い世界に目をやれば、選択肢はいろいろあるんです。

たくさんの選択肢

不登校の記事にも書いたんですけど、海外では、子どもが親に「いじめっ子がいていやだから転校したい」と直訴するのはそこらによくある話なんですよ。……目を疑った方は、目ヤニとか十分落としてから文を追ってみてください。子どもが親に「いじめっ子がいていやだから別の学校へ転校したい」と頼むのは、普通なことです。

あなたがたまたま置かれた「そのクラス」は、この世のすべてでもなんでもありません。まちがっても「そのクラス」に出席するか死ぬかの二択、なんてことはないんです。

学校なら、星の数ほどあります。誰の人生にもいろいろな出会いがありますが、たまたま問題ある子と同じクラスになったという偶然のために悩んだり苦しんだりするの、もったいないですよ。人間は自由です。次の世代は自分の好きな学校を選んで、そこで健康に、幸せに成長してほしい。私はそう願っています。

いちばん近しい大人・親がなぜ……

さて、ここで被害者の保護者について、どうしても言及しておきたいことがあります。

いじめに遭っていると打ち明けたら、親はとても心配するはず。子どもは普通そう想定しますし、第三者からしてもそれが常識でしょう。学校でひどい目に遭ったのだから、いたわりやサポートを期待しますよね。

ところが、「いじめに遭ったので学校へ通えなくなったら、家で不登校を責められた」という生徒本人からの訴えが後を絶ちません(このケースは、中学高校といった高年齢が比較的多い)。こともあろうに、いじめに苦しんでいる被害者が、その親から「不登校である」という外形だけをもって非難されているというのです。まさに四面楚歌。被害生徒にはただでさえ専門的な心理サポートが必要なのは前述のとおりですが、その子が親から「二次被害」を受け、社会から完全に孤立してしまい、被害が深刻化しているのです。

一体なぜ、こんな悲しいことに? ……おそらくこれを読んでいる読者は「大人は完ぺきではない」と気づく年齢に達していると思うので、親の裏事情についてもざっと書いておこうと思います。まず第一に、文化的・歴史的背景から、日本社会では「普通がいちばんいい」「みんなと同じにするべき」ということになりやすいんですね。そして21世紀の日本社会では、親は「『普通』とは、学校に行くことだ」と考えやすい。物事の善悪や状況を考慮する以前に、「普通」でなくなることに極端な恐怖を感じる大人も多いんですよ。それが、あの乾いた命令「学校に行け」につながってしまうのです。もう一つ、親自身が子どもには見せない不安や心の傷を負っていた、という場合もあります。もともと不安な心に「自分の子どもが学校でいじめに遭った」というトラブルが舞い込むと、うまく対処できず、親のほうがパニックに陥ってしまうのです。

親の未熟さは、子どもにとっては本当に残念だと思います。「親だって人間なんだから完ぺきではないと頭では分かっているけど、心では泣いたよ」とか「親だって大変なのかもしれないけど、自分の前では成熟した絶対の保護者であってほしかった」……というように、心の葛藤でくちびるをかんでしまう若い人もいるでしょう。正直言えば、私はこうした「不登校への二次被害」には、強い憤りを感じています。

こういう事例でも、必要なのは「風通し」です。第三者をまじえるのがなんといっても得策でしょう。もしあなたにこういった親との関係がのしかかっているなら、ホットラインなどから外部の第三者に助けを呼んで、風を通してください。

いじめに耐えてもご利益なし

もう一点、「つらくても学校に行くのはえらい」といった発想について述べておこうと思います。こういった「登校したことをほめる」風潮、それは「苦しいことに耐えるのは(無条件に)立派である・耐えないのは弱さである」という観念に裏打ちされてはいないでしょうか。

しかし事実は、「『苦行に耐えればそれに見合った成果が得られるに違いない』と信じる(あるいは、得たのであってほしいと願ってしまう)ことこそ、弱さである」ということです。

ためしに、オウム真理教の修行を思い浮かべてみてください。オウム真理教には、熱湯風呂につかる修行というのがありました。しかし考えてくださいよ。熱湯につかれば、私たちの人格は向上するのでしょうか。熱いだけ、体を壊すだけ、命が危険にさらされるだけじゃないですか。それで人間性が鍛えられることはありません。苦しさに耐えたところで、マイナスになるだけ。得られるものは何もないのです。

人が成長するためには、目的と手段に合理的な関連性がなければなりません。たとえば、賢く優しくなりたいなら視野を広げるために本を読む、忍耐力をつけたいならすぐには完成しない木彫りを毎日続ける、などなど。安全かつ人格を実際に向上させられる方法は、世にいくらもあるのです。

子どもがいじめのあるクラスに出席したことを「がんばった」とほめるのは、熱湯風呂につかっている人に「ご立派ですね」と手を合わせるのと同じです。見当外れなんですよ。熱湯風呂へとひた歩いていく人がいたら、大慌てで腕を引っぱるのが筋ですよね。同じく、子どもがいじめのあるクラスに登校しようとしていたら、玄関で「行っちゃダメ! 危ないから!」と引き止めるのが道理ではないでしょうか。これを読んでいる親御さん、子どもにはもっと良い環境で教育を受けてほしくありませんか?

困ったら大人に相談を―「外部」をもうけるのは人類の知恵

さて、いじめというのは得てして、集団の内部だけで通用する”特殊なルール”に基づいて行われます。

「下級生がこの階段をつかうのは先輩に対して失礼だ」「クラスメートにランクがつけられていて、上二つのランク以外の人は委員会に立候補してはならない」「外部入試で入ってきた生徒は内部進学生より先に発言してはならない」……といったルールは、私たち第三者からすれば意味不明じゃないですか。しかし、その学校やクラスではまことしやかにまかり通っている。こういった”特殊ルール”は様々ですが、唯一多くのいじめに共通するのは「大人に言っては(チクっては)ならない」ではないでしょうか。

先生は信用できるのか。大人を頼っていいのか。あるいは、「いじめに遭っている」なんて言って親を心配させたくない。そういった疑問であれこれ悩んでいる小学生・中学生・高校生はけっこういるようなので、私から答えておきます。大人には、相談していいです。絶対、したほうがいいです。

なぜなら、「健全な集団は風通しが良い」は人間社会の鉄則だから。

人間は社会的な生き物なので、規模も形もいろいろなグループをつくりますが、この鉄則はクラスだろうが趣味のクラブだろうが会社だろうが、どんなグループにも共通です。また、「風通しが悪いと集団は病んでいく」というのも然りです。組織の種類によっては――たとえば会社の会計や省庁の仕事など――第三者によるチェックを設けないのは違法とされています。なぜなら、集団が閉ざされているということ自体が、腐敗や不正の温床となるからです。

第三者が出入りする仕組みをあらかじめつくっておくことは、人類の賢さ、知恵なのです。

そして、子どもの集団にとって、適切な第三者となってくれるのは大人です。クラスの人間関係が健全であるためには、大人が出入りできる環境であったほうがいいのです。

それに、未成年者だけでは対処できないケースもありますよね。前にふれた有名私立校のように、問題が教室の範囲を越えるケースでは、子どもだけで対処するのはそもそも無理じゃありませんか。この場合、学校の隠ぺいや権力との癒着、汚職の事実解明をスタートできるのは保護者しかいません。もし裁判を起こすことになったとしたら、未成年者の代理人となるのは保護者です。子どもだけではどうにもならないなら、保護者こそが味方なのです。

周りの大人が相談しにくい相手だという人もいるでしょう。支配的な親との不和を抱えている、先生が強権的で友達関係のことを相談できる雰囲気ではない、といったケースです。その場合は、十代の相談窓口など「もっと外」にいる新しい人にコンタクトすることをすすめます。

誰でも幼いころ「知らない人について行っちゃだめ」とか「『おかしをあげるからついておいで』と声をかけてくるのはあやしい人」などと教わりますよね。「困ったことがあったら大人に相談」はそれと同じ、世の中で自分の身を守り生活していくための基礎知識です。

「大人に言ってはいけない」なんて、狭い世界の話。いじめに遭っているあなたへ、どうか必ず大人をまじえて、「風を通して」ください。

結びに―私の先生の「言い得て妙」

今回いじめについて記事を書こうと用意しているうちに、私の頭にふと中学の担任の先生が浮かんできました。カラッとした人柄で、学活では普段から友達関係のことなんかもよく話す、フレンドリーな先生でした。……そういえば、いつだったかこんなことを言ってたなぁ。この記事は、私の先生の言葉で結ぼうと思います。

気に入らないならほうっておけばいいのに。なんでわざわざちょっかい出すのよ。

「言い得て妙」とは、このことだと思うんですよ。

性格がちょっと合わない人くらい誰にだっているけれど、だからってなにもいじめることないじゃないですか。数年前「セミの幼虫をなめさせる」というとんでもないいじめが事件として報じられた時、私は震えあがった世人の一人でした。どんな事情があったか知りませんけど、頭冷やしましょうよ……。この先の人生でも馬の合わない人に出会うことなどいくらもあるでしょうが、そのたびにいちいちセミの幼虫を土から掘り返して相手の面前に持って行ってなめさせるのか? そうしないと気がすまないのか?

そしていちばん基本的なところを押さえておきますけど、「相手のことを気に入らない」というのは自分の個人的な主観にすぎません。相手にも自分と同等の人生が、心が、尊厳があるんです。

気に入らないなら、ほうっておけばいいんですよ。わざわざちょっかいを出すことありません。他人は他人、自分は自分です。

わざわざ”特殊ルール”をもうけて人工的に「弱い者」をつくり出しては殴ったり蹴ったり暴言吐いたりなんかしなくても、学校生活は楽しいです。そんなことをしているから楽しくなくなるんじゃないですか。これだから、いじめなんていうのは本当に見下げたものだ。私はそう思っています。

いじめは「事件」になる前に止めること、誰も被害者にも加害者にもならないうちに解決することが大事です。そのためには、学校だけではなく、社会全体に「子どもの悩み相談」「親子関係への支援」「家庭内暴力への対応」など四方八方から子どもへの支援がはりめぐらされるべきでしょう。複雑な事情や心理を抱えた子がどこかでひっかかるようになれば、間接的に、教室の環境もよくなると見込めます。

「止まれ、道を間違えている」の道路標識
止まれ、この先危険。

最後に、いじめに遭っているあなたへ、いちばん大事なことをくり返してこの記事を結びます。

大事なのは、あなたの成長、あなたの将来、あなたの夢。いじめてくる人に対処することでも、教室に入ることでもありません。どうか自分を大切に、きちんとしたサポートをしっかり受けて、のびのび成長してください。それが私の願いです。

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苦しいなら不登校のままでいい7つの理由 – 今回の記事よりくわしい説明があるので、今いじめに遭っている人はあわせて読んでいってください。私がこうした問題にたくさん意見している理由を、私自身の後悔も含めて書いておきました。

(2019年2月8日公開。2019年8月28日、再編集しました。)