アイドルみたいな文豪?―小説の商業主義と、現実的な未来とは

私はこれまでの活動を通して文学における行き過ぎた商業主義に厳しい目を向け、また警鐘を鳴らしてきました。今回は、私自身の経験から、最もショッキングで性質悪い例を紹介したいと思います。

目線が引き寄せられた顔写真の正体は……

学生時代のこと。ある日、新聞を手に取ると、一面に堂々載っていた年配の男性に思わず目が引き寄せられました。驚くべきことに、その顔写真はまるでアイドル歌手のブロマイドのよう。明るい窓辺を思わせる白くぼけた背景を背に、少し恍惚としたような、うるんだ目をまっすぐこちらに向けているのです。たとえ俳優でも、彼の歳ならそんな撮り方はしないはず。

「一体全体、これはどこの誰なんだ」――気味が悪かったので読んでみると、写真の下にあったのは……某有名純文学作家の名前でした。

年配の権威ある純文学作家が、十代のアイドル歌手と同じ演出で人心をつかもうとしている

あの時の衝撃は、とうてい忘れられません。

とりわけ私の注意を引いたのは、彼がほしいままにする硬派な名声とやりすぎな芸能手法の不釣り合いです。周りも周りなら、本人も本人。彼の自分の世界を追及している風体は「キャラづくり」の一環、作品もしょせんは「キャラ」で売る「タレント本」だった。タレントさんのキャラづくりならそんなに気にならないのですが、「文豪」がやるなら、巧妙なポピュリズムです。

老齢の芸能人と報道陣
「文豪」の彼の本質は。

文学の商業主義も行き着くところまで行ってしまった。その果てが形となったのが、忘れもしない、グロテスクなまでに異様な写真でした。権威ある純文学作家の彼こそが商業主義の権化であることを、私はその時悟ったのです。ちなみに彼は知識人の間ではすこぶる評判が悪く、「話題作りによって売れはするけど中身はない」という皮肉を込めて「ベストセラー作家」などと呼ばれることが多いようです。

ポピュリストに頼るのは仕方ない?

商業主義の暴走と、その手段としての芸能化やお祭り商法。みなさんは、どう思いますか?

「もう、うんざり」あるいは「興味を持てない」というのが、本音ではないでしょうか。自分でも驚くことに、私は今では小説を書く側になりました。それでも、変なものは変だ、という思いは少しもぶれません。誰かがそれをきちんと世に訴えること自体が浄化につながると考えています。

出版不況の実業界、ひいては現代社会でやっていくためには、ポピュリズムに頼るのも仕方ない――そうあきらめ顔をする人もいるかもしれません。しかし、本当の本当にそうでしょうか?

私はそうは思いません。

その場しのぎではなく、社会を着実に回していくことこそ「現実的」なはずです。

お祭り商法や事なかれ主義の結果、世の人々が文学・出版・マスコミを見捨てていけば、それらが立ち行かなくなる将来は確定してしまいます。ツケを払う時は必ずやってきますし、その時になって後悔しても後の祭り。本当の知性をもって合理的に思考するなら、崩壊する将来へ自ら飛び込むようなことは選ばず、好ましい将来につながる選択をします。……考えてみれば、当たり前ですよね?

本当に現実的な選択とは

本当の「豊かさ」を生むのは何でしょう。

根が腐った古い体質の支配とは、いいかげんきっぱり決別すべき時が来ています。互いの自立・自律、人間としての尊重、信頼を土台とした関係こそが、本当の「豊かさ」を生むのです。大衆をコントロール・扇動して一時しのぎのカネをかすめとろうとするのではなく、相手に心を開き、密なコミュニケーションによって信頼関係を築くていねいさが、いま求められています。

今日の小説は、商業を基盤に成り立っています。それには良さもあれば、欠点もあります。そういった状況を客観化することは、決して宙に浮いた理想論ではありません。刹那主義を排し、未来をつないでいくことこそ、今の社会に必要です。

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