日本の企業文化「井の中の蛙」―その変革ポイント7選

就職したけれど、何かおかしい気がしてモヤモヤする……。職場に足を踏み入れると、人間扱いされていない感じがする……。自分なりにがんばってるけど、もがくばかりで人生が軌道に乗らない……。話せば長くなるんだけど、とにもかくにも、生きにくい。そんな思いをかかえてはいませんか?

広い世界を見渡せば、「企業」にここまでの価値が置かれている社会は他に類を見ません。日々会社で働いている人はもちろん、そうでない立場であっても、日本に生きているというだけで、人生は「企業」から絶大な影響を受けます。雇用形態や給与の額だけではありません。企業中心の「発想」は戦後日本人の心に深々と根を下ろし、自分では気づかぬうちにいろんな形で表れては、私たち自身を締め上げているのです。そう、自分の価値観や人生観まで……。

日本の企業文化は「井の中の蛙、大海を知らず」である――今回の記事では、まず最初に「カエル図鑑」をつくってみました。これから取り上げる日本企業7つの問題点では、6種類の「蛙」がいたるところに登場します。これらの蛙は、組織の在り方や体質に、経営に、さらには人々の頭の中に生息していて、ひとたび「合唱」をはじめれば職場で悲劇を引き起こし、この社会を破綻へと導きます。


<日本の企業文化にすむカエル図鑑>

1.離れ小島の蛙:日本の会社という「井戸」が世界のすべてで、海外の事情を知らない蛙。日本のビジネス界にくまなく生息する、代表的な種。

他に類を見ない日系企業の特殊性をいう。職場をめぐるあらゆる問題の温床になっている。

2.未熟な蛙:知識経験がせまい蛙。体は大人サイズだが、まだしっぽが残っている。カエル自身が自分のしっぽに気づいていることはまれである。

小さいころから「みんなと同じ」人生を送り、年功序列のエスカレーターで管理職やトップの座につくことは、知識経験のせまさにつながる。”サラリーマン社長”は、たとえ高学歴でも人生経験に乏しく、ふたをあければ「経済五流」と言われて仕方ない結果を出してしまいがちである。

3.まじめな蛙:自分の頭で考えず、上司や先輩から教わったことをまるのみにする蛙。ぱっと見はこぎれいだが、実は毒があるので注意。

誠実さや責任感ではなく「上や周りにひたすら従う」という意味での「まじめさ」は、次の一歩で「朱に交われば赤くなる」に転化する。脳内が”まじめな蛙”に占められている人(とりわけ人生を通して特別扱いされてきたエリートや年上にかわいがられるタイプの人に多い)は、害意や自覚がないまま周りの人の人権を侵害したり、自分が非難されそうになると正当化や責任転嫁に走ったりすることがある。

4.ベタベタな蛙:人間関係がベタベタした蛙。「個」をもたないため、同僚や部下のプライベートにまでベタベタくっつく。夜のオフィスや飲み屋に多く生息。

日本の集団では、他人の「個」の領域まで侵入する傾向が常態化しがちである。長時間労働やサービス残業、「会社の飲み会」といった問題は、プライベートとの線引きがないベタベタ体質がしばしばその原因になっている。

5.近眼な蛙:同じ社会に生きる他人や将来の世代が見えない蛙。「よそ者」が視界に入ってくると拒絶反応を起こす習性があるので、組織に極端な閉鎖性をもたらす。

法思想史などの研究では「内輪意識」「刹那主義」「現世主義」「公共精神の欠如」「責任感のなさ」といった言葉で論じられる。私は「主体的な悪意すら希薄である」という点に着目し、「近眼だ」と表現することにした。具体的に言うと、正規・非正規の賃金格差や後先考えない低賃金待遇といった問題は、”近眼な蛙”が大きな原因である。

6.中世の蛙:人権という概念を知らない蛙。21世紀になってもまだ中世という「井戸」を出られていない。猛毒があり、人間に病気や死を引き起こす、もっとも危険な種である。

”中世の蛙”がいたら最後、職場の環境は劇的に悪化する。過労死などの悲劇の場や、「自分のしたことはハラスメントにあたらない」などと主張する人の頭には必ず「人権意識の欠落」がある。銀色の高層ビルや先進技術にあふれた「G7」の風景とは裏腹に、日本は人権の面ではまごうことなき発展途上国。国連の調査等では、世界のトップ7か国どころか、二ケタ順位に入れるかどうかというレベルである。


以下では、私が実際に見聞きした海外の具体例をふんだんにはさみながら、日本企業と社会がかかえる7つの問題点を指摘し、今後とっていくべき変革の航路を示したいと思います。ぜひともカエルを探しながら読み進めてみてください。それではいざ大海へ。

目次

日本企業の特殊性を象徴するのは、名刺交換の作法と……?

まず手始めには、日系企業の悪習を象徴するものを2つ、厳選して挙げようと思います。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、まじめな蛙、ベタベタな蛙>

大まじめにやっている名刺の作法、実はギャグ

日系企業の新人研修には必ず組み込まれている、名刺交換作法の練習。手や姿勢、それから動作の順番まで、事細かに定式化されています。

しかしこのマナーは日本の会社限定。世界中他のどこに行っても通用しません。こんなことをやっているのは日本人だけです。

日本人ビジネスパーソンの名刺の作法は、海外では旅行のガイドブックなどを通して知られています。重要なのは、それについて話す人は一人の例外もなく「ギャグ扱い」しているということ。北朝鮮サッカーチームの全員丸刈りのように、度が過ぎた規則や動作は外部者を気持ち悪がらせるものですが、日本の名刺交換だってそうなのです。ある日本人営業が「日本流名刺交換」を実演してみせたところ、場に居合わせた外国人が全員一斉に吹き出したというエピソードがあります。目を真ん丸にして”Crazy!”と叫んだ人もいたということです。

名刺というもの自体は、世界中のビジネスシーンにみられます。しかし、名刺を本人だと思えとか、だから折り目をつけてはいけないとか、そんなことを言う人はほかでは絶対にいません。海外だと、自分の名刺を書類の端にホチキスでとめて渡す人もいます。デスクに束で立ててあって誰でも自由にとっていける形式もよく見ます。名刺に「名前と連絡先を伝える紙」以上の意味はありません。

「ポーズ」ばかりが重視されて肝心の中身に先立つ独特な名刺の作法は、日本の企業文化の象徴だといえるでしょう。仕事に必要なのは、コミュニケーションやアイデア、そして行動のはず。名刺を渡す時のおじぎの角度なんてどうだっていいのです。

作法の廃れにはすぐ「効率ばかりを重視して心をなくす」と口をとがらせる愚痴老人体質の人が現れるものですが、これは妥当しません。なぜなら、もし礼儀正しさを示したいなら、相手の話にしっかり耳を傾けて誠実な受け答えするなど、よりよい方法が他にいくらもあるからです。研修通りの作法で名刺を渡されても、ありがたみなどありません。義務付けによる見え透いたお世辞やマニュアル通りのほほえみなんかに喜ぶ人などいないでしょう。それにそもそも、こんな「名刺の作法」はいつの誰の考案なのか? 重宝すべき理由は一つもありません。

真実を知った。だけど日系企業に勤めている以上自分だけやめるわけにもいかないから、例の名刺交換も当面は続けるしかない……。そんなふうに頭を抱えたり、くちびるをかんだりした読者が目に浮かびます。人の事情はそれぞれですが、どんな立場であるにせよ、名刺交換がその程度の無意味な行為だと知っておくことは確実に有意義です。大まじめに「”社会人”の基本だ!」なんて妄信している「優等生」のほうがよっぽど、「井の中の蛙、大海を知らず」なのだから。

「あなたはこの会社の社員ですか?」

名刺交換の作法は、まだ笑い話で終われるかもしれません。しかし、特殊な企業文化もう一つの象徴は、より深刻な事態につながります。

オフィスで「○○社の社員ですか?」と聞かれた人が「はい、私はここの社員です」と答えた――実はこれ、十中八九まちがいです。

なぜなら、法律上、「社員」とは「会社への出資者」のことをいうからです。株式会社であれば、「社員」は株主。働いている人は「従業員」であって、「社員」ではないのです。

ところが私たちの日常で、「社員」という言葉が株主など出資者を指すことはまずありません。おそらく多くの人は、「従業員」の意味しか知らないのではないでしょうか。テレビでも新聞でも誤用のほうだけが流通しているのだから、しかたないといえばそうなのですが……。

「社員」の誤用は海外で通じないのはもちろん、国内でも通用するわけではありません。まちがいに気づいていないだけなのです。

では、こんな誤用は一体どこから来たのか。「社員」と「従業員」の混同は、会社が誰のものなのかがあいまいな日本の企業文化の象徴です。本来、会社の舵取りをするのは、全面的に社員=出資者です。従業員ではありません。これは働く人に対して冷たいとかそういうことではなく、会社とはそもそもそういうものなのです。にもかかわらず、会社が従業員の共同体であるかのような感覚が広く深く浸透している。それがあとに述べる、従業員同士の人格にまでおよぶベタベタ体質につながっています。

有給休暇をとれないという病

日本の労働環境が劣悪なことは、実はアニメと同じくらい、世界中で知られています。劣悪さの双璧をなすのは、休暇取得をめぐる事情、そして長時間労働でしょう。ここではまず休暇を取り上げます。井の中の蛙、大海を知らず。海外の有給休暇は、日本のそれとまったく異なります。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、まじめな蛙、中世の蛙>

権利はある、けどとれない

日本人はきちんと教育を受けています。一定以上の学があるので、休暇を取るのが正当な権利であることくらいは誰でも知っているでしょう。それでも”空気”などと呼ばれる無言のプレッシャーによって個人がその権利を行使できないのは、日系企業の特殊な事情です。

ある日本人は言いました。「上司は『君には休暇を取る権利がある』と言った。けれど実際に取ることはできない」。彼がオーストラリア人の友人にそう話したのは、その会社を去った後のことでした。オーストラリア人は、心の底から憐れむような目をしたといいます。

ここで私は、「権利はあるけど取れない」という状況は世間が思っているより重大で恐ろしいことなのだということを指摘したいと思います。すべて人権は、使われなければ絵に描いた餅となってしまう性質をもっているからです。

近代法律学の古典『権利のための闘争』では、以下のように述べられています。

人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である、――それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。それは、また、国家共同体に対する義務である、――それは法が実現されるために必要なのだから。

(『権利のための闘争』イェーリング著 村上淳一訳 岩波文庫 49頁)

「権利侵害に対して抵抗することは……国家共同体に対する義務である」という部分に衝撃を受けた人もいるでしょうが、それはひとまず後に回します。私がまず指摘したいのは、最初の義務です。権利があるのに行使しないことは、「倫理的存在」としての自己を放棄することを意味する。「倫理的存在」であるのは、人間を人間たらしめる要素です。「倫理的存在」であるという性質をすり減らしていけば、人間は「獣」に成り下がってしまうのです。

もう一節引用しましょう。

感じている苦痛を危険から身を守れという警告として受けとめず、苦痛を耐え忍びながら立ち上がらずにいるならば、それは権利感覚をもたないということだ。そうした態度も事情によっては宥恕できる場合があるかもしれない。しかし、それが長続きすれば、権利感覚そのものにとってマイナスにならざるをえない。

(同75頁)

さて、有給休暇をとれない”空気”が蔓延しているのは「宥恕できる場合」にあたるでしょうか。微妙なところです。

「お上」の命令がなければ休めないという病

有給休暇がとれないという異常事態が続く日本。しかし実は、祝日の多さでは世界で群を抜いているということをご存知でしょうか。

実はこれらは、コインの裏表です。ほうっておいては人々が有給休暇をとらないから、国の定めが企業を強制的に休ませるのです。

「お上」の命令がなければ休暇もとれない――それが民主主義国家の主権者国民、そして諸権利を持つ一人前の市民の態度でしょうか。

日系企業の職場はたびたびカルト化していて、相互監視がはびこり、そこで働く一人ひとりががんじがらめになっていることはきちんと理解しています。私が嘆く対象は、この見苦しい社会です。涙が出ます。

法定の祝日だけではありません。上司が先に取ることで部下の休暇取得を奨励する、というのもそうです。そんなことでは変革になりません。そもそも有給休暇の取得は、上司の顔色をうかがってするようなことではないからです。

権利があるのだから、休暇は全員が全日数を消化して当たり前です。やましいことではあるまいし、頭を下げて頼む姿勢をとらなければならないのはまったくもっておかしい。海外ではそもそも「有給休暇を消化する」という表現がありません。有給休暇は全員がすべて使うのが当たり前だからです。有給休暇は一年でいちばんの楽しみです。いざ休暇の人は笑顔でスーツケースを引いてオフィスを出て行き、職場の仲間は”Have a nice holiday!”と気持ちよく送り出すのです。

休まず働くことは、善どころか……

この社会を見渡すと、働くことを無条件に善とする風潮が時折目につきます。とりわけ周囲に反発することなく大人になっても「いい子」を続けているタイプの人は、かたくなにそう信じている傾向にあるでしょう。しかし、「上」の言うことを聞くという意味での「まじめさ」は、とどのつまりは思考停止にすぎません。思考停止は、悪しき命令や慣習にも盲目的に従うことにつながります。

有給休暇をとらずに働くことが「まじめさ」なら、それは良いことどころか、『権利のための闘争』で指摘される二つ目の義務を果たさないことを意味します。すなわち、日本という我々の国家共同体を堕落させることに直結するのです。

権利という恵みを受けている者は誰でも、法律の力と威信を維持するためにそれぞれに貢献せねばならぬ。要するに、誰もが社会の利益のために権利を主張すべき生まれながらの戦士なのだ。

(同86頁)

「まじめ」にまっとうすべきなのは、こちらの義務です。先輩から教わった名刺交換の作法や、仕事の手順や、「”社会人”の心構え」をうのみにするのが「まじめ」なのではありません。

井の中の蛙、大海を知らず。「大海」へ目を向ければ、休みなしで働き通すのは独りよがりな自己満足にすぎません。同じ社会で暮らす他人や社会全体にとっては、とんだ「ありがた迷惑」です。

ある人が休暇をとることは、その人自身の楽しみだけを意味するのではありません。権利を行使することは「法律の力と威信を維持するため」の社会「貢献」です。そして権利を行使しないことは、社会に「貢献」しないことを意味するのです。つまり、一言で言うなら、有給休暇はとらなければなりません。

……私がイェーリングを引用したのがたかだか有給休暇をとる場面だと知ったらドイツ人がどんな顔をするかは想像したくありませんけどね。

世界では常識、日本では存在すら知られていない種の休暇が示すこと

さて、3つ目に述べるこの休暇こそ、本記事の要と言っても過言ではありません。私はこれを知った時分から、いつの日か声を持ったら日本社会に必ず伝えると心を決めていました。

人権問題の範囲にとどまらず、管理職や経営者の知性、思考力、そして経営能力にまで疑問符をつけるのが、この常識です。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、未熟な蛙、中世の蛙>

Sick leave―「日本の常識は世界の非常識」という格言がこれ以上ぴったりな場面はない

さて、”sick leave”という言葉を聞いたことはあるでしょうか? これまで日本で生きてきたなら、まずないでしょう。その発想自体が存在していないのだから。

“Sick leave”とは、けがや病気を理由に欠勤した際に取る、有給休暇とは別の休暇のことをいいます。当然のごとく、有給です。本国での待遇をそのまま持ちこんだ外資系企業の求人には、待遇の欄に記載されていることがあります。代表的な訳は「傷病休暇」。年に4日から10日ほどを設定している企業が多いようです。

海外では、傷病休暇はあって当たり前です。もしないと言った人がいるなら、それは週3日のパート契約などで「待遇が悪い」という意味です。

外国人は、「日本の会社では病欠したら有給休暇から引かれる」と聞くと驚愕します。

一方、日本人はsick leave(傷病休暇)というものの存在を知った瞬間に目を丸くします。……読者のあなたもそうではないですか?

まるで断崖絶壁のごとき、世界とのこの落差。雇用政策に成功した国々は、もはや白い高い雲の上。雇用政策に失敗して短時間のパート労働が広がり「熱で休んだら給料が出なかったぞ!」と怒りの声が上がる国ですら、sick leaveの存在すら知られていない国からすればはるかに見上げる高みです。

日本は人権後進国。このことが無味乾燥な統計データではなく、いまここにある現実として身にしみます。「こんなどん底の発展途上国でやってられるか!」とイスをけりたくなるでしょう。今こそ啓蒙の輪を広げる時です。

カエルと水たまりに映った青空
まずは知ることから。

けがや病気は、人間という生き物の一部である

知り人が熱を出して寝込んだ。けがをして病院へ行った。こういう場合、「心配です」「早くよくなってね」と反応するのがまっとうな人間です。会社に、人間の基本的な感情をひっくり返す権限はありません。

海外では、病気で休む側が気まずく思うことはありません。職場の側にも、そんな発想自体がありません。有給・傷病問わず誰かが休暇を取ったら別の人が代役を務めるようなシステムが、たいていあらかじめ設けられています。

ところが日本の職場では、病欠の人が出ると「困るな」とか「職場に迷惑をかけた」という反応が一般的なようで。きっと、自分が何を言っているか分かっていないのでしょう。

「戦後の日本は、企業を頂点とする社会を形成してきた」とよくいいますね。知識としても、実感としても、ある程度は納得できるでしょう。しかしもっと細かく見ていけば、その意味内容がさらに恐ろしくなること請け合いです。会社は、まるで身分制特権階級のごとく人間より「上」の存在であり、人間性を破壊する力さえ行使しているのだから。

日系企業は、従業員の体調に目を向けるべきです。これは決して、従業員に健康指導しろとかそういう意味ではありません。私はむしろ、そういう個人の自立を侵すもろもろをやめろと言っているのです。

人間という生き物は、けがをするし、病気にもなります。企業を経営するなら、それを織り込んだうえで組織を作り、プロジェクトの計画を立て、仕事を進めるべきである。私が指摘しているのはそういうことです。

管理職や経営者には、ビジネスとは本質的に最大の効率を求めるものであって、だから病欠はなければないほど良く、仕事に「穴をあけた」従業員が難色を示されるのは無理がない、と考える人がいるかもしれません。しかし、「人間は時々病気になる」ということは、人間という生物に関する生物学的事実です。これは誰かの考えや意見ではありません。どうあがいても、誰にも変えようがない事実です。「病欠がない人間」という仮定はただの空想、しかもご都合主義の空想にすぎません。そもそも、すべて物事は自分の意のままには運びません。ビジネスの様々な局面もそうです。管理職や経営者は、ふんぞりかえっていては務まりません。忍耐力を要します。オフィス内外で起こる事態すべてが想定内でなければなりません。現実に基づいた合理的な計画を立て、不測の事態へ柔軟に対処し、ヒラが持て余した業務は自分が請け負う。それが管理職や経営者というポジションの業務内容です。

さらに重要なことを付け加えると、企業のために人間が存在するのではありません。人間のために企業が存在しているのです。この順序をかん違いするから、人が会社(と一体化した管理職や経営者)にとって都合よく動かないとキレるという、とんだわがままが生じるのです。このことにはのちほど、起業の項目でもう一度触れます。

何を隠そう、昨日までピンピンしていた仕事の関係者が突然大けがで寝たきりになるということは、つい最近私も経験しました。ではどうするか。話し合いで決めました。私はしばらく業務を待ってはどうかと申し出たのですが、先方は時間的な問題もあるので継続したいということでした。骨折によりキーボードが使えないそうなので、連絡はスマホでということになり、私がLINEのアカウントを開いて対処。この連絡方法で共同作業を続けました。

人間性の無視から生まれた、「借金」と働きにくさ

日本ではこれまで、従業員の体調といった人間性を無視した企業文化が形成されてきました。しかしそれは、未来からの「借り入れ」でその場をごまかしたにすぎません。この「借金」は、従業員が体調を崩し、休職、退職して人材不足を引き起こし、それが慢性化してついには会社が回らなくなる、という形で返済することになります。世に言う「労働力の使い捨て」とは、こうした後先考えない「借金」のことをいうのです。

ガンを宣告され今後の治療について説明したら、会社側の反応は事実上の解雇だった。産休をとろうとしたら、嫌味を言われた。育休から職場へ戻ったら、なんだか別枠扱いのようになってしまった。障害者雇用が進まない。

これらの問題は、すべて根っこでつながっています。

空想とわがままから卒業して、科学的事実と現実に基づいた会社組織をつくる。それができなかったために足元から崩れた企業・組織は日に日に増えて、ついに近年ではどの町でも見られるようになりました。この失敗から教訓を学び、人間に基礎を置いた組織を組み立てることがいま求められているといえるでしょう。

公私・人格にわたる上下関係

日本の特殊な企業文化を語るにあたって、「上下関係」ははずせません。

実際的なところだと、人格面にまで及ぶ上下関係はパワハラを会社にビルト・イン(構造化)するので、問題を見えにくく、内部者にとって批判しにくくするという害があります。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、ベタベタな蛙、中世の蛙>

「日本の会社では上司に絶対逆らえないって本当?」

語学留学したある日本人のエピソードです。談笑が続くテーブルで、ふとフランス人が真顔になりました。「日本の会社では上司に絶対逆らえないって本当?」

そんなふうに見られていたなんて! 彼女はショックを受けましたが、「そうだ」と答えざるを得ませんでした。彼女の身近に、上司に反対したことが原因で、翌日東京から網走へ転勤させられた人がいたからでした。

日系企業の異常な上下関係は、海外でも広くうわさになっています。

海外では、上司の命令はそこまでの絶対性を持ちません。とりわけ不正が絡む場面において、部下が「私はそれをやりません」と断るのはよくあることです。

まるで中世の身分制―私生活まで引きずられる、会社での「役割分担」

そもそも会社組織での上下関係は、仕事全体を複数人で動かすための「役割分担」です。人間の存在価値での上下ではありません。だからそれを私生活まで引きずる、部下が上司の引っ越しを手伝う、なんていうのは荒唐無稽です。

海外では、営業時間中は上司と部下でもオフィスを離れれば対等な友達同士、ということはめずらしくありません。

会社での上下関係が、身分制社会のごとく人格面にまで及んでいる。高度経済成長以降のこういった企業文化は、他の先進国にはみられません。なぜ日本にはこんな企業文化ができてしまったのか? 要因は複雑だとはいえ、それが表面だけ現代風にお色直しした前近代のリバイバルである点を見逃すことはできないでしょう。これでは、人権意識が中世レベルだとか、日本の時間は中世で止まっていると言われてもしかたがありません。日本企業の人間関係面での変革は、中世という「井戸」をいいかげん打破することからはじまるといえるでしょう。

長時間労働

Sick leaveを締め出すこの鎖国国家は、他方ではオリジナルの単語を世界に輸出しています。”Karoshi(過労死)”です。

ローマ字表記で日本語そのままに発音されるのは、「過労死」がどの外国語にも翻訳不能だから。外国人には理解不能な、決して許されない悲劇です。

日本の長時間労働の異常性は、ここだけで語りつくせるテーマではありません。今回のところは、海外との比較や不正事件の分析などを織り込みつつ、その特殊性・異常性を指摘していきたいと思います。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、未熟な蛙、まじめな蛙、ベタベタな蛙、近眼な蛙、中世の蛙>

海外では、夜中まで働くのは野心家、のちの億万長者

「彼は夜中まで働くんだよ」――海外で誰かがそう言ったなら、それは彼がブラック企業で過労死しそうで心配だとか、そういう話ではありません(そもそも「過労死」は外国語に訳せない)。「彼は野心家だ」という意味です。

たとえば、2009~2013年の長者番付で堂々の世界1位に輝いたカルロス・スリム(Carlos Slim)氏は、大学時代に「お金を作る方法とは企業への投資だ」と気づき、自身のファンドを設立しました。当時は1日に14時間も働く日々を送ったと、670億ドル(1ドル=100円とすると日本円で6兆7000億円)の富を築いたのちに語っています。

そう、「1日に14時間も働いた」というのは、のちに天文学的な富を築くような、野心に燃える若い起業家の話なのです。雇用されている会社員(労働者)がすることではありません。スリム氏は正しい用法での「社員」、つまりビジネスの所有者です。自分がやりたいから、自分で決めて14時間。彼に勤務を強制した者はいません。この手の話はよくあります。身一つだったから山のような業務をひとりで背負わざるを得なかった、とか、経験がない挑戦者だったから手際が悪かった、とか、そういう「青かった」というニュアンスもよく含まれていますね。

そして、そんな激務はお金持ちになるまでの話。人員を雇えるほど会社が成長すれば、ある部分はだいぶ楽になります。30代で巨額の富を築いたら会社を去って半ばリタイア(引退、隠居)し、残りの人生は家族との時間をたっぷりとって悠々自適に暮らす――それが欧米の野心家の典型です。ビル・ゲイツ氏がマイクロソフト社を去ってしばらくの間営利活動を一切していなかったというのは有名ですね。カルロス・スリム氏も、世界一の富を築いてからは所有する企業のほとんどから手を引き、慈善の基金を設立して、中南米の貧困と闘うため10億ドルを健康、教育、雇用へ投資しています。

では、日本に蔓延する長時間労働はなんなのか。朝9時から夜11時まで14時間働く日本の会社員が世界の長者番付にランクインすることはありません。あからさまなリストラ、あるいは退職を余儀なくされる事情が舞い込むことを内心恐れながら、平凡な給料が口座に振り込まれるのを待っているだけです。6兆7000億円の富など、夢の彼方にも見られません。

日本企業の長時間労働は、結局のところ、低賃金労働なのです。

私は、「一億総中流」という高度経済成長期の用語は、人の心の奥に眠る虚栄心を汲み取って利用したというより、特殊な心理を人工的につくり出す役割を果たしたとみています。本当は低賃金労働であるにもかかわらず、それに「中流」、つまりそれなりの地位だというラベルを貼りつけたのは巧妙だったと思います。これまた造語の「サラリーマン」に該当する人々、とりわけ高齢層は妙なプライドを持っていて、自分が雇われ労働者だということを認めるのをどういうわけか毛嫌いし、それぞれ自分なりとはいえ一定の社会的地位にあると信じている。日本人は戦争が終わった時「東条英機にだまされた」と不平をたれましたが、そのそばから東条英機以外の者によって何度も何度もだまされたのだということに、一刻も早く気づくべきでしょう。

歓送別会は、業務時間内にできるはず

なれ合いのベタベタ体質から生まれ、しばしばハラスメントの舞台となるのが、かの悪名高き「会社の飲み会」です。新人や退職者が出るたび催される歓送迎会や、12月の忘年会、1月には新年会。あるいはとくに理由がなくても、帰り際飲み会に流れていく。交流と楽しみを装っているけれど、出席は事実上義務である。なら業務の一部のはずだ。しかし給料は出ない。「会社の飲み会」とは、はっきり言えば、「労働」や「労働者」の概念があいまいにされていることから生じるタダ働きです。タダ働きが「搾取」であることは言うまでもありません。

では海外ではどうしているのか、といえば、歓送迎会は業務時間内に組みます。1時間早く切り上げてオフィスでワインを開けるとか、ランチェオン(luncheon)形式で昼食に同席するといった方法が一般的です。

業務時間内に給料を出しつつ歓送迎会を行う方法はきちんとあるのだから、その点を変革するのは簡単なはずです。他人の「個」の領域へ侵入する、ねっとりベタベタ体質がない限りは。

体力自慢のS医師はこう言った―人手不足の真の原因

2018年、東京医科大が入試において女子受験生と浪人生を一律減点としたという不正が明らかになりました。性別は人類にとって、人種等と並んで平等な価値を認めるべき先天的な形質の違いです。生まれ持っての性を減点事由とするのはそれへの冒涜にほかならず、決して許されることではありません。

その東京医科大が不正の動機としたのは、医師不足でした。産休をとることがなく過酷な長時間勤務に耐えられる男性のほうが病院組織の「戦力」として有益なので採りたかった、というのがその言い分です。(同事件には文部科学省前科学技術・学術政策局長・佐野太被告の息子の裏口入学をめぐる贈収賄がからんでいて、掘り下げれば興味深いのですが、この記事では触れません。)

あれっ、ちょっと待て。これを聞いて私が思い出したのは、以前会った医師のS氏でした。

S氏は大学病院勤務の男性医師。学生時代はずっとサッカー部員だったそうで、体力・体格ともに恵まれていました。学校を卒業した後も、新しい土地に滞在するときにはまず最初にサッカークラブを探し、ボールをけりながら友達をつくるという大のサッカー好きです。体力自慢の男性。まさに東京医科大ご所望の「戦力」なわけです。

ところがそのS氏は何と言ったか。

「日本の医者は、ただ忙しいだけだ。このままでは、自分の人生はただ忙しくするだけで終わってしまう。だから、アメリカへ行く。お医者さんは、アメリカでやる。」

――S氏の言葉は、長時間労働のすべてを物語っていました。人材不足に悩んでいると自称する企業・組織は、決して目をそらすことなく、S氏の思いと選択をよくかみしめるべきです。

誰が過酷な長時間労働なんてしたいでしょうか。お医者さんにだってそれぞれの人生があるのです。それに、忙しいばかりでは、きめ細かな医療を患者さんに提供することもできません。医師としてやりがいがないのです。あるいは、働きたくてもそんな条件では働けない、という医師もいるでしょう。

井の中の蛙、大海を知らず。そもそも、卒業後に付属の大学病院で働くかどうかは、性別年齢等にかかわらず、学生個々人の希望次第です。受験生・医学生はそれぞれの夢のために学んでいるのであって、付属病院のために存在している「駒」ではありません。たとえば「国境なき医師団」に入ってアフリカへ赴くために医学部を志す受験生もいるでしょう。これをどう考えるのか。病院組織の「戦力」とならない者は「役立たず」だというなら、倫理観を疑わざるを得ません。また、現実には、男性だからといって全員が体力自慢なわけでもありません。医師不足の原因が自らの組織運営失敗にあったにもかかわらず、それを性別や現役・浪人の区分になすりつけたのは、極めて恣意的です。

汚職事件で起訴された臼井正彦前理事長(77歳)と鈴木衛前学長(69歳)は、公判で贈賄容疑を否認する方針だと報じられています。文科省高官の息子へ加点したのは賄賂にあたらないと主張するものとみられます。東京医科大は不正入試の動機に医師不足を挙げ、真摯に反省する態度は見られませんでした。自らの非を認めず、病院運営に失敗したことも認めず、まるでしかたないことだったかのように同情を買おうと奔走しさえする。自己愛過多なインテリの不正・犯罪らしいと言えばそうでしょう。しかしそんなに自己愛を守りたいなら、最初から汚職や不正をしなければよかっただけの話です。

私がここで東京医科大の事件を扱ったのは、それがS氏の言とあいまって長時間労働の本質を表しているからばかりではありません。それが戦後日本の企業文化の特殊性をとりそろえているからです。とりわけこの事件では、組織のトップに就く者の思考力不足と”近眼”が顕著でした。

日本の会社や組織で十分な能力のない者がトップに就いていることは、これまでも事あるごとに海外のジャーナリストを驚かせてきました。

高度経済成長以降の日本では、閉鎖的な集団の内部で、従順な者に対しては「上」が温情をかける風潮、そして言われたことを言われた通りにやり、物事をいままで通りの方法で処理する者が重宝される風潮が蔓延してきました。しかし、事務処理能力に長けた「優等生」を続けるだけでは、常に移りゆく時代への対処法や、現実に起こる様々な問題の解決策を考え出すことはできません。とどのつまりは、能力が低いということになってしまう。こうした「個」を持たぬ”サラリーマン社長”では、企業・組織を回しきれず、最終的に崩壊させてしまうのも無理はありません。

さらに、”近眼”のほうについて述べれば、彼らは東京医科大病院の病棟や同窓会といった極めて小さな「井戸」に閉じこもりました。自分たちの行為が「顔なじみ」以外の受験生たちや日本の社会、そして国家に与える影響は眼中にないのです。女子受験生や浪人生は、それぞれの志を胸に、難関を突破するため何年も日夜勉強に勉強を重ねました。受験当日は、人生をかけて試験問題に挑みました。その思いと努力を、「井の中の蛙」は、理由にならぬ理由をつけて、無残に破り捨てたのです。さらに、東京医科大が被害を与えたのは、合格点を取ったにもかかわらず落とされた元受験生の人生と人格の尊厳だけではありません。東京医科大は、大学教育が担う社会的使命を果たしませんでした。この事件によって、わが国の大学教育への信頼はガタ落ちしました。この責任を、これからどう取っていくのでしょうか。

さて、企業の体質のほうに話がそれましたが、長時間労働とは、企業・組織にとって自滅へのカウントダウンです。

人材不足のせいで長時間労働が生まれるのではありません。長時間労働という劣悪な環境から、人材不足が生まれるのです。東京医科大の不正は、病院組織運営に失敗したという事実を彼ら自身が認めようとせず、目をそらし、逃げ回る弱さから陥った悪でした。

社会主義国家のごとき「就社」型雇用

日本の「就職」は、就職ではなく「就社」だ。職に就くのではなく、会社に就くことを意味している。この問題点は、指摘されて久しくなります。

<よく見つかるカエル:未熟な蛙、近眼な蛙>

「終身雇用が安定雇用」は神話にすぎなかった

高度経済成長以降の日本は、「終身雇用」を「安定雇用」かのように見せかけ、「社会主義国」の集合体とでもいうべき企業文化を形成してきました。従業員(”サラリーマン”)は失業の恐怖による支配を受け入れ、人権はなく、それと引き換えに会社に一生を保障してもらうという構図です。ここでの「昇進」とは、新卒で入った会社の内部で、年功序列のエスカレーターに乗って管理職に就くことを指してきました。”サラリーマン”の夢は、願わくば最後社長(正確には代表取締役)のイスまで行き着くことでした。

しかし、そういった閉ざされた会社の内情と結果はどうだったか。「ベルリンの壁」ならぬ「日系企業の壁」は自然劣化で「崩壊」していき、今日私たちが目にする満身創痍の社会に至りました。

「就社」型の雇用を「就職=職に就く」に変革し、転職支援を充実させて経済をダイナミックにしていかなければ、日本企業の根本的な問題は解決されない。国内外の金融からは、もう何十年もそう指摘され続けています。

会社に依存しない「就」はメリットばかり―失業なき労働移動

一つの会社にずっとはいられず転職しなければならないのは不安……。人生で何度も失業するのは怖い……。そんなふうに感じた読者もいるかもしれません。しかし実は、この「就職」型の雇用はメリットばかり。実際、このモデルで成功した国もあります。

ある会社の業績が落ち込んで、人員削減が行われたとします。しかし社会に「就職」型雇用が浸透していれば、そこで働いていた人は職を失わないですむのです。

たとえば、あなたはA商事という会社の経理部で働いていたとします。A商事の業績が悪化した。リストラが行われるかもしれない。この場面で、社会に「就職」型雇用が定着していれば、A商事と落日を共にしてついには心中……ということにはなりません。あなたは業績好調なBソフトウェアでA商事時代と同じ経理の仕事を得て、変わらぬ暮らしを続けられる、というわけです。一言でいうなら、いまの会社を辞めても、失業しないですむのです。

また、就職型の雇用が広がれば、生まれ年などの運によって人生が左右されることがありません。新卒一括採用・終身雇用を前提とする「就社」型の場合、”シューカツ”する年にたまたま景気が悪ければ、その年の雇用情勢に一生甘んじることになってしまいます。これは不公平ですよね。また入社してからも、業績悪化や倒産までを会社と共にせざるを得ません。「就社」とは、自分の人生を丸ごとその会社に賭ける「ギャンブル」なのです。ところが「就職」型雇用なら、みなが会社から会社へ移動しているので、運による人生の固定化がありません。ギャンブルではなく、地に足の着いた、着実な人生設計が可能になるのです。

さらに、「就社」型雇用は会社が従業員の足元を見る原因になるのだ、ということも指摘したいと思います。会社側は「この会社を出ていくことになったら、お前は路頭に迷って人生転落だ。なら、この職場でうまくやっていきたいだろう……?」と無言の圧力をかけられる。従業員のほうは、長時間労働やサービス残業(タダ働き)といった劣悪な労働条件やハラスメントなども飲まざるを得ない状況に追いやられます。社会主義国家のごとき「就社」型の企業文化は、従業員の立場を低く弱くしてしまい、それが床に大穴が開いたような人権状況につながるのです。

どうでしょう。両者を比較すれば、「就社」より「就職」のほうが自分の人生にとってだんぜん有利なのだということがわかるはずです。

理想はダイナミックな経済

長時間労働も、異常な上下関係も、ついでに言うなら「就社」上がりの正規とその枠外である非正規の賃金格差も、もとを正せば「就社」型の企業文化に端を発します。ならば「就社」を改め本当の意味での「就職」を可能にすれば、問題の根本を断つことができることになります。

では、どうすれば就職型雇用を広められるのか。これは、一社だけで変革できることではありません。経済全体が変わることが必要です。

業績好調で労働環境も良い大企業があったとします。しかしそんな会社でも永遠ではありません。変わりゆく時代についていけずうまくいかない部分が出てくれば、業績は下がります。そのころにはその時代の事情に合わせて設立された同業の新しい企業が成長していて、落ち目の会社からは人材がそちらへ流れていきます。人手が減り、事業はさらに縮小、ついには会社をたたむ時がやってくる。そのころには新しいほうの企業が隆盛を極めています。けれどこれもまた永遠ではなく……。

それを絶えずくりかえすのが理想的な経済です。ダイナミックな経済が、働く人の「失業なき労働移動」を可能にするのです。

起業が少ない

では、そのダイナミックな経済は何があれば実現できるのでしょうか。

必要不可欠な要素は、「起業」です。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、未熟な蛙、近眼な蛙>

海外とはまるで逆

国内のトップ10が古い企業に占められる日本の状況は、世界的に特殊です。たとえばアメリカでは、設立から10年足らずの企業が国の経済のトップを走ります。FacebookやGoogleなどを思い浮かべればいいでしょう。

もう一つ日本と大きく異なるのは、海外では優秀な学生になればなるほど起業や投資を志すという点です。先に挙げた世界一の億万長者・カルロス・スリム氏もそうですね。英文履歴書で、よくある文句に「私は一度も雇われたことがありません」というのがあるのをご存じでしょうか? 日本だったらひどくネガティブにとらえられそうなこの文句、真意は「自分は根っからの起業家気質でアクティブだ」という自慢です。企業、特に大企業への「就社」を目指しがちな日本人と海外はまったく違うのだということが、この一文でわかるでしょう。

このようにして新進気鋭の企業が出てくることなしに、代謝のよい経済は成り立ちません。

新しい企業への入れ代わりがなければ、社会は崩れる一方に

起業は「あったほうがいいよね」と悠長に語っていられる対象ではありません。古い企業が足元から崩れているいま、起業によって新しい会社が出てこなければ、この社会は文字通り、破局するからです。

長時間労働が慢性化したため人員が次から次に辞めていき、ついには働き手がいなくなってサービスを停止せざるを得なくなった――そんな企業は近年みるみる増えました。いまでは全国的にどの町にもごろごろ転がっていますね。私の周りでもここ数年の間に、介護施設でデイサービスの存続が危ぶまれたり、宅配業者が営業所を閉めざるを得なくなりドライバーが営業所を名乗るようになった、といったことがありました。

業務停止に追い込まれて困るのは企業だけではありません。この社会に生きる私たちの暮らしが成り立たなくなってしまうのです。

たとえば、運営に失敗したブラック病院で医師や看護師、理学療法士などが雪崩をうって辞めていき、ついには医療サービスが提供できなくなった……そのままでは町から「病院」が消えてしまうではありませんか! 困るのは他でもない住人、つまり私たちです。ここで起業が必要になるのです。つぶれたブラック病院との間にしがらみがなく、時代と実情に合った経営を行い、かつ働く人にとってはホワイトな新しい病院が取って代わることで、日本社会に「病院」が残り続けるのです。

崩れかけた古い会社を新しい会社が取って代わっていく効能は、メーカーや小売、運送、宅配、バスなどの交通機関、介護や保育をはじめ、あらゆる業種に共通です。

ボロボロで崩れかけのブラック企業を当て木で支えても、害悪がずるずる居残るだけでメリットはありません。従業員の長時間労働も含め経営に失敗した会社は、しだいに規模を縮小し、やがてはシャッターを下ろす時がやってきます。そのころには、しがらみなき新進気鋭の同業者が、時代とニーズに合わせた経営で大きくなる。そうやって時代に合わせて企業が入れ代わり立ち代わりしていくのが理想の経済であり、それによって社会全体が持続可能になるのです。

起業のもうひとつの効能―トップに就くなら苦労は買ってでもすべき理由

起業というのは、たった一人から始まります。それを成長させる過程で、起業家はビジネスの本質を身をもって学ぶことになります。

メインの業務はもちろんですが、宣伝する、取引先を探す、電話の応対、メールの返答、スケジュール管理、経理、人事、オフィスを借りる、備品の調達……。起業家は、それら雑務まですべてを自分一人でこなさなければなりません。いくら最初はデスクの上で完結する箱庭のような規模だとはいえ、本人だけでは技能的、時間的にできないことがどうしても出てきます。

どうするか? 起業家に「できません」は許されません。できないならば、作りたてほやほやのビジネスは早くも終わりだからです。自分が勉強してこなす。または自分が1日14時間働いてでも、あるいは1日14時間働いたのに利益がゼロだろうがこなす。それでもこなしようのないことは誰にだってあるので、ここではじめてお金を払って誰かに肩代わりしてもらう必要が出てくるのです。

人を雇うことは、起業家の視点では「アウトソーシング(業務委託)」の一種です。しかし、たとえ人を雇うと決めたところで、自分の名は世に全く知られておらず、会社には信用がありません。「私はこういうビジネスを立ち上げました。とてもユニークで新しくおもしろく、今は私一人ですが今後伸びていくこと請け合いです。そのために協力者が必要になりました。給料はきちんとお支払いします。お願いできませんか」と、人々に一から説明しなければなりません。そして応募者を吟味した結果(これももちろん自分がやる)、晴れて人を雇ったとします。ここでパワハラをするとかタダ働きさせるなんていうことがあれば、あっという間に見捨てられて元の木阿弥。そのために会社が回らなくなって、早くもつぶれるかもしれません。他社の下につかざるを得なくなって、事実上の終わりをむかえるかもしれません。

誤解を恐れず言うなら、会社のトップは、頭を下げて人に働いてもらうのです。

そこにもってきて、他者が決して自分の意のままにならないことは先に述べました。人を雇うのは、それでいいと判断したか、あるいはそれを楽しんでマネジメントできるくらい人を使うことに素質のある起業家が選ぶオプションです。他人が思い通りにならないのがいやなら、自分一人で続けるビジネスモデルを構築すればいいだけ。他者と協業すると決めた以上、他者に関する不測の事態は織り込み済みでなければなりません。

このように、たった一人から始まる起業は、自分の頭で考え判断することの連続です。本当の意味での起業家は自然とジェネラリストになるし、「個」を持つことになります。結果はすぐには出ないということも体感・体得するでしょう。また成功だけでなく失敗も自分で受け止めることになるので、責任の感覚が自然と身に付きます。

スタート地点を知らぬ甘やかされたトップ・管理職が、パワハラや無責任に走っていく

一方、「就社」からの年功序列・内部昇進・終身雇用はどうでしょう。

会社にはすでにオフィスがあり、デスクやペンやら何から何までそろっていて、人員はいて当たり前、人事も経理も電話も全部誰かがやってくれて当たり前。ヒラの従業員だったら、その感覚でいっこうにかまわないのですが……。日本企業の管理職や取締役は、「就社」からの内部昇進がほとんどです。すなわち働き始めた時から苦労がなく、至れり尽くせりで甘やかされている。私は、その甘えがパワハラや責任感のなさ、また従業員が会社(と事実上一体化した上司)の思い通りにならないとキレるというわがまま体質につながっている面があると考えています。

管理職やトップに就くなら、ゼロからのスタートという苦労は買ってでもすべきです。苦労をもってしか学べないことがあるからです。

「名ばかり起業」は起業にあらず

以上、起業には社会規模でも、ビジネスパーソン個人の仕事術としても絶大な効果があることを説明してきました。ここで、会社であれフリーランスであれ、新ビジネスのスタートにあたって注意すべき点をひとつ指摘しておこうと思います。

既存の企業の下につく形の起業や、前職の会社から仕事を流してもらっている形のフリーランスは、私は「起業」のうちに入れていません。もし取引先や投資元がブラック労働なしには実現し得ない要求をしてくるなら、せっかく新しい会社だったのに、やがては崩れかけの企業中心社会へ溶けこんしまうでしょう。それでは元も子もないからです。

私がこうした「名ばかり起業」に注意を呼びかける相手は、起業家だけではありません。日本にも広い意味では「起業」がないわけではないのですが、「真の意味での起業」にしぼったらその数は激減するという独特の状況が続いてきたからです。高度経済成長以降、一見先端を行っている企業が実は地元に古くから根差した利権集団に支配されているとか、最悪の場合は暴力団と深く結びついていたりするということは多くみられます。

起業の意義は、「しがらみのなさ」にあります。これは起業家個人にとっても社会にとっても言えることで、またそうでなければ本当の意味での起業ではありません。

起業を考えている人へ―理想はFacebookやTwitter

いま起業を志している人には、崩れゆく企業の失敗を頭に叩き込み、自分が二の舞にならないようしっかり思考することをすすめます。本人はすごく新しいことをしているつもりだけれど中身は古いままだ、という「落とし穴」にはまる例が後を絶たないからです。自分は大丈夫、という人も、念のため一度は深く研究したほうがいいでしょう。

私が頭を抱えた例を出すと、

  • 「社員」のコミュニケーションを円滑化するため、会社が飲み会の代金を出すようにした
  • ぎすぎすした人間関係を改善するため、会社に部活動をもうけた
  • 働きがい・生きがいを重視するため、求人や面接で待遇について一切話さないようにした
  • 強権的な上下関係を変革するため、職場の人間関係にサザエさん一家をモデルとした家族的つながりを導入した

……だからまさにそれをやめろと言っているのに! 日本社会をここまで追い詰めた「個」に侵入する企業文化を表面だけぬり替えて、新しいことをしたつもり、変革したつもりとは情けない。涙がにじんできます。

では、どうすればこういった「落とし穴」にはまらずにすむでしょうか。

まず精神面では、過去の失敗の原因を分析する座学と、古い日系企業としがらみがない場で自由に何らかの経験することが有効でしょう。自分の頭、自分の足を両方使って、しっかり学び続けることだと思います。

そしてビジネスモデルとしては、Facebook型が最適と考えます。いまやグローバルカンパニーであるFacebookの発端は、学生が楽しみで作ったプログラムでした。友達同士の小さなコミュニティで、おもしろい、役に立つと価値を認められたことを元手に、それをビジネスへ発展させ、雪玉を転がすように大きくし、ついには国のトップを走るグローバルカンパニーにまで成長させたのです。この道筋は、Twitter社も同様です。規模を大きくするか小さくとどめるかは、業種などによるでしょう(マイクロビジネスで大成功を収める実業家もたくさんいる)。大事なのは、価値のあるモノやサービスを基盤に、それを続けていく方法を編み出すという「順序」です。

すべてビジネスは「原野」から始まります。何もないし、雇う人も、客も、人っ子一人いません。その完全な自由を存分に活かして、本物の企業を作り上げてください。こんな社会とはいえ、探してみれば、人間らしく自分らしく、働くことを人生のすべてではなく一部にできるシステムを作り上げ、充実した生を謳歌している先人はたくさんいます。あとに続きましょう。応援しています。

おわりに―過去の失敗から学び、大海へ飛び出す時

ここまで6種類の「蛙」を大量に描いてきましたが、いかがだったでしょうか。たくさんの「蛙」が職場や人間関係だけではなく、人々の心の中にも生息している様子が見えたかと思います。ぜひあなたの周りでも「蛙」を探してみてください。

私が「井の中の蛙」にこだわって書いたのには理由があります。ブラック企業はいま、次々と崩壊しています。自滅してくれるなら手間いらずでよかった……と言いたいところですが、つぶれたブラック企業跡地が更地になるだけでは、実は足りません。更地をそのままほうっておけば、「ブラック企業的なもの」は新しい別の形をとって、必ずや芽を吹き返してくるからです。だからブラック企業は、根っこまで完全に焼き切らなければならない。その「根っこ」とは、ブラック企業を生み出し、その存在を可能にしてきた、人々の「発想」なのです。

いま日系企業で働いているから、突然自分だけ名刺交換をやめるわけにもいかない……そんなふうに無力を感じる必要はありません。大まじめにやっている名刺交換はギャグである。「社員」の正しい意味。海外の休暇事情。そしてsick leaveの存在。これらを知ること、知っていること自体がひとつの変革だからです。

そしていま生きにくいあなたへ。あなたの心を苦しめる「蛙」を頭から一掃しませんか。「大海」についての私の学識・見聞は、この記事にたっぷりつめておきました。多くの日本人が頭に思い描く「普通の人生」は、実は企業を頂点とする社会をつくるために人工的に作られた人生観なのだということがわかると思います。”中世の蛙”という猛毒ガエルが跋扈しているなら、生きにくさを感じるのは健全な証です。怒るのも、悩むのも、なにも間違っていません。

狭くて暗い井戸の外に広がる「大海」は、チャンスに満ちあふれ輝いています。目に新しいもろもろをこの記事中で見つけられたなら、筆者として幸いです。これ自分にいいかも……と気になるチャンスがあったなら、これをきっかけにぜひ手を伸ばしてみてください。

「自分にできる変革」が社会規模で積み重なれば、必ずや企業を中心とした社会の在り方を変えられる。私はそう信じています。

長くなったこの記事は、再び『権利のための闘争』からの引用で結んでいこうと思います。

権利の力は、愛の力と全く同様に、感覚にもとづいている。理解力も洞察力も、感覚の代役をつとめることはできない。しかし、愛が往々にして自覚されないままであり、それがはっきり意識されるには一瞬をもって足りるのと同様に、権利感覚も、傷つけられていない状態においては自己の存在と内容を自覚することがない。

(同74頁)

権利を求める人の願いは不滅です。なぜなら、権利を求める声は、「苦痛」という原初的な感覚にもとづいているから。くだけて言うなら、知識ではなくハートだからです。

ただし、苦痛を感じるだけでは十分ではありません。もし権利が踏みにじられたなら、それを主張することは、自分のだけでなく、私たちの国家にとって必要不可欠です。

だから私は、長時間労働、サービス残業、ハラスメントなどに直面したとき、会社相手に裁判で闘った方々を尊敬します。一見その方ひとりのために見える闘いは、国家・社会に対して、他の方法では決して得られない功績を残してくれました。私たちの社会への貢献に、深い感謝と敬意を表します。

さらに、裁判が一件あれば同様の事例は百件あるという通り、声なきまま「暗数」の一部となっている人々を忘れてはなりません。

私の尊敬する人が長時間労働によってうつ病になり、10年以上も苦しい闘病生活を強いられたことは以前お話ししました。善良で合理的な思考ができる、立派な方でした。

社会に病理がはびこると、ふとしたことでその割を食い、人生を台無しにされる人は出てきます。ブラック労働はいま、この社会に生きるすべての人が背負っているリスクとなっています。ブラック企業によって追いつめられ、人格を傷つけられた人は何も間違っていません。カルト宗教でははじかれた人のほうがまともであるのと同じく、病みきった企業ではうつになった人こそ真人間であり、この社会の未来です。

そして、人権のため闘いのさなかには、倒れる者が必ず出ます。長時間労働や集団主義の犠牲となってkaroshi(過労死・自殺)された方々。その苦痛を必ずや未来の礎にしなければと、襟を正す次第です。

日本において、企業は長年、個人の人格さえも否定できる特権の座についてきました。しかし企業は人間のために作られたシステムにすぎず、したがって人間の尊厳以上の価値を持つことは未来永劫ありえません。その変革とは、人権侵害さえもビルト・インした企業文化を主体的意思をもって根っこまで焼き切り、と同時にブラック企業が絶滅した次の時代を先取りして、新しい種を育てていくことだと考えます。満身創痍のこの社会は、一人ひとりが「大海」へ出ることによってはじめて、持続可能となるのです。

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