日本の企業文化「井の中の蛙」―その特徴と変革への指針7選

働く環境が変わらなければと思いませんか。

パワハラや正規・非正規、低賃金。働きがいのなさ。長時間労働と、過労死の悲劇。人手不足によって操業を続けられなくなった企業や組織。――いま数多くの人を苦しめている働きにくさ、すべての人にとってリスクとなっている満身創痍の社会状況は、一体どこに問題があって生じてしまったのでしょうか。どこを直せばいいのか。それは、原因を明らかにすることによって見えてきます。

今回は、日本の企業文化のうち何を変えれば労働環境はよくなるのか、私が実際に見聞きした海外の例をふんだんに紹介して比較しながら、変革すべきポイントを7点示したいと思います。

目次

「企業文化の中の蛙」図鑑

日本の企業文化は「井の中の蛙、大海を知らず」である。今回は彩りを差して少しラクに読めるよう、そして読み進めながら頭の整理ができるよう、オリジナルの「蛙図鑑」をつくってみました。以下6種類の「蛙」はすなわち、「問題の原因となっている発想」の類型を表しています。


1:<離れ小島の蛙>

日本の会社という「井戸」が世界のすべてで、海外の事情を知らない蛙。日本の職場にくまなく生息する代表的な種。

他に類を見ない日系企業の特殊性をいう。職場をめぐるあらゆる問題の温床になっている。

2:<未熟な蛙>

知識経験がせまい蛙。体は大人サイズだが、まだしっぽが残っている。カエル自身が自分のしっぽに気づいていることはめったにない。

小さいころから「みんなと同じ」人生を送り、年功序列のエスカレーターで管理職やトップの座につくことは、知識経験のせまさにつながっている。いわゆる”サラリーマン社長”は、たとえ高学歴でも人生経験に乏しく、ふたをあければ「経済五流」と言われて仕方ない結果を出してしまう。

3:<まじめな蛙>

自分の頭で考えず、教わったことをまるのみにする蛙。ぱっと見はこぎれいだが、実は毒があるので注意。

「上や周りにひたすら従う」という意味での「まじめさ」は、次の一歩で「朱に交われば赤くなる」に転化する。脳内が”まじめな蛙”に占められている人(とりわけ人生を通して特別扱いされてきたエリートや年上にかわいがられるタイプの人に多い)は、害意や自覚がないまま周りの人の人権を侵害したり、自分が非難されそうになると正当化や責任転嫁に走ったりすることがある。

4:<ベタベタな蛙>

人間関係がベタベタした、「個」をもたない蛙。同僚や部下のプライベートにまでベタベタくっつく。夜のオフィスや飲み屋に多く生息。

日本の集団では、他人の「個」の領域まで侵入する傾向が常態化しがちである。長時間労働やサービス残業、「会社の飲み会」といった問題は、プライベートとの線引きがないベタベタ体質がしばしばその原因になっている。

5:<近眼な蛙>

同じ社会に生きる他人や将来世代が見えない蛙。「よそ者」が視界に入ってくると拒絶反応を起こす習性があるので、組織に極端な閉鎖性をもたらす。

法思想史などの研究では、「内輪意識」「刹那主義」「現世主義」「公共精神の欠如」「責任感のなさ」といった言葉で論じられている。私は「主体的な悪意すら希薄である」という点に着目し、「近眼だ」と表現することにした。具体的に言うと、正規・非正規の賃金格差や後先考えない低賃金待遇といった問題は、”近眼な蛙”が大きな原因となっている。

6:<中世の蛙>

人権という概念を知らない蛙。21世紀になってもまだ中世という「井戸」を出られていない。猛毒があり、人間に病気や死を引き起こす、もっとも危険な種である。

”中世の蛙”がいたら最後、職場の環境は劇的に悪化する。過労死などの悲劇の場や、「自分のしたことはハラスメントにあたらない」などと主張する人の頭には必ず「人権意識の欠落」がある。


どこからどの”蛙”を追い払えば、日本企業は変われるのでしょうか。以下本編は「カエル」を探しながら読み進めてみてください。それではいざ大海へ。

特殊な意識と非合理性

まずは小手調べから入ろうと思います。日本企業で働く人の「意識」の特徴や特殊性を頭に置いておくと、有給休暇事情や長時間労働、パワハラなどに切り込みやすくなるからです。

ここでは「名刺交換の作法」と「社員の定義」の2つを具体例にとって解説していきます。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、まじめな蛙、ベタベタな蛙>

大まじめにやっている名刺の作法は、海外でジョークにされていた

日系企業の新人研修に必ず組み込まれている、名刺交換作法の練習。手や姿勢、それから動作の順番まで、事細かに定式化されたマナーは、いわゆる”社会人”の常識とされています。

しかし、この作法が行われているのは日本の会社限定です。世界中他のどこに行っても通用しないし、第一誰も名刺の渡し方・もらい方に作法なども受けていません。こんなことをやっているのは日本人だけです。

日本人の名刺の作法は、海外では旅行のガイドブックなどを通して知られています。重要なのは、それについて話す人は一人の例外もなく「ジョーク扱い」しているということ。度が過ぎた規則や動作は、外部者から見れば気持ち悪いものです。全員一律丸刈りでピッチに出てきた北朝鮮サッカーチームを見れば「なんだあれは」と引きつり笑いするものですが、世界に出れば、日本の名刺交換だってそうなのです。北朝鮮のサッカーチームを指させる立場ではありません。ある日本人営業が「日本式名刺交換」を実演してみせたところ、場に居合わせた外国人が全員一斉に吹き出したというエピソードがあります。目を真ん丸にして”Crazy!”と叫んだ人もいたということです。

名刺というもの自体は、世界中のビジネスシーンにみられます。しかし、「名刺を本人だと思え」とか、「だから折り目をつけてはいけない」とか、そんなことを言う人は日本の外に出たら人っ子一人いません。海外だと、自分の名刺を書類の端にホチキスでとめて渡す人もいます。デスクに束で立ててあって、誰でも自由にとっていける形式もよく見ます。名刺に「名前と連絡先を伝える紙」以上の意味はないのです。

あの独特な作法には、合理性がありません。仕事に必要なのは、コミュニケーションやアイデア、そして行動のはず。名刺を渡す時のおじぎの角度なんてどうだっていいのです。仰々しく45度におじぎしているひまがあったら、相手の目を見て商談に入るのがビジネスとして自然な道理です。新人研修に必ずある「名刺交換の作法」には、仕事の中身より「ポーズ」を重視する日本の企業文化が表れているのです。

「作法の廃れ」にはすぐ「効率ばかりを重視して心をなくす」と口をとがらせる愚痴老人体質の人が現れるものです。なので先手を打って反論しておきましょう。

もし相手に「礼儀正しさ」を示したいなら、例の名刺交換作法よりよりよい方法が他にいくらもあります。たとえば相手の話にしっかり耳を傾けて誠実な受け答えするほうが、ビジネスパーソンとして理にかなっていて好感度が高いでしょう。研修通りの作法で名刺を渡されたところで、もらったほうにはありがたみはありません。義務付けによる見え透いたお世辞やマニュアル通りのスマイルに、誰が喜ぶでしょうか。それにそもそも、こんな「名刺の作法」はいつの誰の考案なのか? 出どころすら不明ではありませんか。合理的に考えれば、名刺の作法に重宝すべき理由は一つもないのです。

合理性がないことをやらされるというのは、身分的な上下関係と密接です。わけのわからぬことでも「上からの命令」だとなればノーは許されない。これがパワハラ等の下地となるのは想像に難くありません。

「ポーズ」に重きを置く意識はまた、長時間労働の下地としてもはたらきます。「働いているポーズ」をとらなければならず、だからデスクに夜まで座っていなければならない。

これを読んでいるあなたがどんな立場であるにせよ、名刺交換がその程度の無意味な行為だと知っておくことは確実に有意義です。大まじめに「”社会人”の基本だ!」なんて妄信している「優等生」のほうがよっぽど、「井の中の蛙、大海を知らず」なのだから。

「あなたはこの会社の社員ですか?」

名刺交換の作法はまだ、外国人と談笑するときのジョークで終われるかもしれません。しかし、特殊な企業文化もう一つの象徴「社員の定義」は、より深刻な事態につながります。

オフィスで「○○社の社員ですか?」と聞かれた人が「はい、私はここの社員です」と答えた――当たり前の会話のようですが、実はこれ、十中八九まちがいです。

なぜなら、法律上、「社員」とは「出資者」のことをいうからです。株式会社であれば、「社員」は株主。つまり、働いている人は「従業員」であって、「社員」ではないのです。

ところが私たちの日常で、「社員」という言葉が株主など出資者を指すことはまずありません。おそらくほとんどの人は、「従業員」の意味しか知らないのではないでしょうか。テレビでも新聞でも誤用だけが流通しているのだから、しかたないといえばそうなのですが……。

「社員」の誤用は海外で通じないのはもちろん、国内でも通用するわけではありません。まちがいに気づいていないだけなのです。

では、こんな誤用は一体どこから来たのか。「社員」と「従業員」の混同は、会社が誰のものなのかがあいまいな日本の企業文化を象徴しています。本来、経営や組織運営の舵取りをするのは、全面的に社員=出資者です。従業員ではありません。これはなにも働く人に対して冷たいとかそういうことではなく、会社とはそういうものなのです。にもかかわらず、会社が従業員の共同体であるかのような感覚が広く深く浸透している。それがあとに述べる、従業員同士の人格にまでおよぶベタベタ体質につながっているのです。

見た目から肝心の中身へ重心移動を

以上より明らかになるのは、日本企業で働く人の間では、「働く」の意味内容が、同僚と仲良しグループのように寄り集まって「働いているポーズ」をとることを指しているということです。実際に仕事を進めて成果を出していくことではなく、「見た目」に重心があるのです。

勤務時間数や次に述べる休暇取得といった問題は客観的な数値にも表れますが、その内奥には、こういう目に見えず形をなさない「意識」が横たわっています。なので、労働環境の変革は事務的な作業だけではなしえません。「今の自分には考え方のどんなクセがあるのだろうか」と自分に問い、誰かがやり方を指示してくれるのを待つのではなく、自分の頭を使って考えることが不可欠なのです。

見た目に重心が置かれた労働意識は、以下で指摘していく6点の問題に影響を及ぼしています。したがって、日本の企業変革への指針一つ目は、「働く」の意味内容を「ポーズ」から「目的達成」へとシフトすることだといえるでしょう。

有給休暇をとれないという病

日本の労働環境は劣悪らしい――このことは、じつはアニメと同じくらい世界中で知られています。

海を越えてとどろく労働環境の劣悪さといえば、なんといっても休暇取得をめぐる事情、そして長時間労働でしょう。ここではまず、休暇のほうを取り上げます。井の中の蛙、大海を知らず。海外の有給休暇は、日本のそれとはまったく異なります。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、まじめな蛙、中世の蛙>

「権利はある、けどとれない」

日本人はきちんと教育を受けています。みな一定以上の学があるので、休暇を取るのが正当な権利であることくらい誰でもきちんと知っています。

それでも、”空気”などと呼ばれる無言のプレッシャーによって個人がその権利を行使できないのは、日系企業の特殊な事情です。

ある日本人は言いました。「上司は『君には休暇を取る権利がある』と言った。けれど実際に取ることはできない」。彼がオーストラリア人の友人にそう話したのは、会社を去った後のことでした。オーストラリア人は、心の底から憐れむような目をしたといいます。

権利は使うべきである

法律上権利が保障されていても、その権利を使うことはできないから有給休暇をとれない――一般的に言えば、憐れむべき、かわいそうなことかもしれません。

ただ私は、「権利はあるけど使えない」という状況は世間が思っているより恐ろしいことなのだということを指摘したいと思います。なぜなら、すべて人権は、人々に使われなければ「絵に描いた餅」となってしまう性質をもっているからです。

近代法律学の古典『権利のための闘争』では、以下のように述べられています。

人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である、――それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。それは、また、国家共同体に対する義務である、――それは法が実現されるために必要なのだから。

権利のための闘争』イェーリング著 村上淳一訳 岩波文庫(以下同)49頁

「権利侵害に対して抵抗することは……国家共同体に対する義務である」という部分に衝撃を受けた人もいるでしょうが、それはひとまず後に回します。

私がまず指摘したいのは、最初の義務です。権利があるのに使わないことは、「倫理的存在」としての自己を放棄することを意味する。「倫理的存在」であるのは、人間を人間たらしめる要素です。「人間性」と言い換えてもよいでしょう。つまり、自分の人間らしさをすり減らしていけば、人間は「獣」に成り下がってしまうのです。

もう一節引用しましょう。

感じている苦痛を危険から身を守れという警告として受けとめず、苦痛を耐え忍びながら立ち上がらずにいるならば、それは権利感覚をもたないということだ。そうした態度も事情によっては宥恕できる場合があるかもしれない。しかし、それが長続きすれば、権利感覚そのものにとってマイナスにならざるをえない。

権利のための闘争』同75頁

さて、有給休暇をとれない”空気”が蔓延しているのは、「宥恕できる場合」にあたるでしょうか。微妙なところだと言わざるを得ません。

「お上」の命令がなければ休めないという病

このように、有給休暇がとれないという異常事態が続く日本。しかし実は、祝日の多さでは世界で群を抜いているということをご存知でしょうか。

実はこれらは、コインの裏表です。ほうっておいては人々が有給休暇をとらないから、国の定めが企業を強制的に休ませるというわけです。

「お上」の命令がなければ休暇もとれない――これが、主権者国民にふさわしからざる悲しい現状なのです。

法定の祝日だけではありません。「上司が先に取ることで部下の休暇取得を奨励する」というのも同様です。「お上」が始めたキャンペーンでは、真の変革にはなりません。そもそも有給休暇の取得は法律で保障された当然の権利であり、上司の顔色をうかがってするようなことではないからです。

休暇をとるのはやましいことなのか

権利があるのだから、休暇は全員が全日数を消化して当たり前です。頭を下げて頼む姿勢をとらなければならないというほうが、よっぽどおかしいのです。

海外ではそもそも「有給休暇を消化する」という表現自体がありません。有給休暇は全員がすべて使うのが当たり前だからです。有給休暇は一年でいちばんの楽しみです。いざ休暇の人は笑顔でスーツケースを引いてオフィスを出て行き、職場の仲間は”Have a nice holiday!”と笑顔で送り出します。

オフィスからビーチへ休暇に出かける人
海外のイラスト。これが普通なのである。

「休むことは基本的にやましいことだ」という意識が働く人のなかに生き続ける限り、働きにくさが解消されることはありません。年に一度バケーションを満喫するには、心おきなく育児休暇をとれるようにするには、総じて日本の労働環境を働き甲斐があるよう変革するには、休暇を取るのを「普通のこと」まで引き上げればよいのだということが明らかになってきます。

休まず働くことは善なのか

休暇を取るのをやましいことのようにとらえる意識とパラレルに、日本社会を見渡すと、働くことを無条件に善とする風潮が目につきます。

とりわけ周囲に反発することなく大人になっても「いい子」を続けているタイプの人は、かたくなにそう信じている傾向にあるようです。一例ですが、私は「親の葬式の日も休暇をとらず出勤した」と鼻高々に話す人を見たことがあります。

しかし、「上」の言うことを聞くという意味での「まじめさ」は、とどのつまりは思考停止にすぎません。思考停止は、悪しき命令や慣習にも盲目的に従うことにつながります。

有給休暇をとらずに働くことが「まじめさ」なら、それは善どころか、『権利のための闘争』で指摘される二つ目の義務を果たさないことを意味します。すなわち、日本という我々の国を堕落させることに直結するのです。

権利という恵みを受けている者は誰でも、法律の力と威信を維持するためにそれぞれに貢献せねばならぬ。要するに、誰もが社会の利益のために権利を主張すべき生まれながらの戦士なのだ。

権利のための闘争』同86頁

「まじめ」にまっとうすべきなのは、「自分の権利を主張する義務」です。先輩から教わった名刺交換の作法や、仕事の手順や、「”社会人”の心構え」をうのみにするのが「まじめ」なのではありません。

井の中の蛙、大海を知らず。視野を広げてみれば、休みなしで働き通すのは、独りよがりな自己満足にすぎないのだということが分かります。

考えてもみてください。親の葬式より会社を優先するのが善だと態度で示すなら、その人だけでなく、同僚にも家族が亡くなった日に出勤するよう無言のプレッシャーがかかります。こういう小さな独善が積み重なることで「権利があるのに使えない」社会が形作られ、日本社会の人権状況を押し下げているのです。同じ社会で暮らしている他人や社会全体にとっては、とんだ「ありがた迷惑」なのです。

あなたが休暇をとることは、あなた自身の楽しみだけを意味するのではありません。自分の権利を使うことは「社会貢献」です。それとパラレルに、権利を行使しないことは、社会に「貢献」しないことを意味するのです。

つまり以上を一言で言うなら、有給休暇は取らなければなりません

……私がイェーリングを引用したのがたかだか有給休暇をとる場面だと知ったらドイツ人がどんな顔をするかは想像したくありませんけどね。

日本では存在すら知られていない種類の休暇が示すこと

さて、有給休暇に関連して述べる次の事実こそ、本稿の要と言っても過言ではありません。私はこれの存在を知った時から、いつの日か声を持ったら日本社会に必ず伝えるんだと心を決めていました。

人権問題であることはもちろん、管理職や経営者の知性、思考力、そして経営能力に疑問符をつけるのが、井戸の外のこの常識です。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、未熟な蛙、中世の蛙>

Sick leave―日本の常識は世界の非常識

さて、突然ですが、”sick leave”という英単語を聞いたことはあるでしょうか?

もしあなたがこれまで日本で生きてきたなら、きっと一度もないでしょう。この島国には、その「発想」自体が存在していないのだから。

“Sick leave”とは、けがや病気を理由に欠勤する際に取る、有給休暇とは別の休暇のことをいいます。当然のごとく、有給です。

“Sick leave”の代表的な訳語は「傷病休暇」。本国での待遇をそのまま持ちこんだ外資系企業の求人には待遇の欄に記載されていることがあるので、夢でも見ているのかと目を疑った読者は求人を探してみるとよいでしょう。年に4日から10日ほどを設定している企業が多いようです。

海外では、傷病休暇はあって当たり前です。もしないと言った人がいるなら、それは週3日のパート契約などで「待遇が悪い」という不平の意味です。

外国人は、「日本の会社では病欠したら有給休暇から引かれる」と聞くと驚愕します。

一方、日本人はsick leave(傷病休暇)というものの存在を知った瞬間に目を丸くします。……これを読んでいるあなたもそうではないですか?

まるで断崖絶壁のごとき、世界とのこの落差。雇用政策に成功した国々はもはや白い雲の上。雇用政策に失敗して短時間のパート労働が広がり、「熱で休んだら給料が出なかったぞ!」と怒りの声が上がる国ですら、sick leaveの存在すら知られていない国からすればはるかに見上げる高みです。

日本は人権後進国。このことが、いまここにある現実として身にしみます。「こんなどん底の発展途上国でやってられるか!」とイスをけりたくなるでしょう。ならば今こそ啓蒙の輪を広げる時。まずは、自分が今置かれている日常、当たり前だと思っている労働条件が、実は常識外れなのだと気づくことから、すべては始まります。

カエルと水たまりに映った青空
まずは知ることから。

けがや病気は人間の一部である

知り人が熱を出して寝込んだ。けがをして病院へ行った。こういう場合、「心配です」「早くよくなってね」と反応するのが普通の人間です。会社に人間の基本的な感情をひっくり返す権限はありません。

“Sick leave”がある国、つまり普通の国では、傷病休暇をとる側がそれを気まずく思うことはありません。職場の側にも、それを責める「発想」自体がありません。有給・傷病問わず、誰かが休暇を取ったら別の人が代役を務めるようなシステムが、たいていあらかじめ設けられています。休む時はお互い様。同僚が病欠のときは人間的に「お大事に」、こういう職場環境なら、自分が傷病休暇をとるときも気兼ねせずに休めます。

ところが日本の職場では、病欠の人が出ると「困るな」とか「職場に迷惑をかけた」という反応が一般的なようで。当たり前のように行われていることも、一歩引いて見ればそらおそろしいものです。

戦後の日本は、企業を頂点とする社会を形成してきました。これの意味するところは何か。社会の頂点に君臨するのは企業で、人間はそれに尽くすべき存在だったということです。道具は病気になりません。戦後日本の会社にとって、人間は「道具」でなければならなかったのです。

日系企業は、従業員の体調に目を向けるべきです。これは決して、従業員に健康指導しろとかそういう意味ではありません。私はむしろ、そういう個人の自立を侵すもろもろをやめろと言っているのです。

人間という生き物は、けがをするし、病気にもなります。それがあるがままの事実です。会社組織は、事実に立脚してつくられるべきです。

”未熟な蛙”と”中世の蛙”による二重唱

日本未上陸の「傷病休暇」を、雇われている側だけではなく、あえて使用者の側から見てみましょう。

経営者や管理職にとって、傷病休暇は「できれば与えたくない」「ないに越したことはない」ものでしょうか。つまり、人を使う側なら、「ビジネスとは本質的に最大の効率を求めるものであって、だから従業員は病欠しなければしないほど良いのであり、仕事に『穴をあけた』者が難色を示されるのは無理がない」と考える人がいるかもしれません。

これについては、話のスタート地点が果たして妥当なのかどうか、という視点で切り込むと視界が明瞭になります。上記の発想では「病欠しない人間」というものが無意識のうちに想定されているわけですが、私はこれが迷信の産物だと指摘したいのです。

「人は時々病気になる」というのは、人間という生物に関する生物学的事実です。誰かの考えや意見ではありません。だから、いくら「そんなのはいやだ、病欠しない人材がほしいんだ」とあがいたところで、現実は現実なのだから変えようがない。「人間は病気にならない」というありもしない空想の上に立って話を進めたから、傷病休暇がない、存在すら知られていないなどというおかしい事態になっているのです。

企業を経営するなら、「従業員が突発的に休む」可能性を織り込んだうえで組織を作り、プロジェクトの計画を立て、業務を進めるべきである。私が指摘しているのはそういうことです。

そもそも病気やけがに限らず、すべて物事は自分の意のままには運びません。ビジネスの様々な局面もそうです。

経営者や管理職は、ふんぞりかえっていては務まりません。忍耐力を要します。オフィス内外で起こるすべての事態が想定内でなければなりません。現実に基づいた合理的な計画を立て、不測の事態へ柔軟に対処し、ヒラが持て余した業務は自分が請け負って片づける。それが管理職や経営者というポジションの業務内容です。もし部下が「熱が出たので今日休みます」と電話をかけてきたら「どうすればいいんだ」とパニックに陥る、その部下に対して怒りがこみあげてくるというのなら、経営者や管理職という仕事には向いていません。ポジション相応のマネジメント能力を身に付けるか、さもなくばヒラの仕事を探して転職すべきでしょう。

さらに重要なことを付け加えると、企業のために人間が存在するのではありません。人間のために企業が存在しているのです。この順序をかん違いするから、会社(と一体化した管理職や経営者)にとって都合よく人間が動かないとキレるという、とんだわがままが生じるのです。このことには後ほど、起業の項目でもう一度触れましょう。

現実の上に立って合理的に考える能力のない”未熟な蛙”と、人間を組織より劣位に置く”中世の蛙”。これらの二重唱が、生身の人間に跳べるはずのないハードルを跳ぶよう強いてきたのです。

変革は地に足をつけることから

以上の通り、日本ではこれまで、従業員の体調という人間性を無視した企業文化が形成されてきました。しかしそれは、未来からの「借り入れ」でその場をごまかしたにすぎません。この後先考えない「借金」は、従業員が体調を崩し、休職、退職して人材不足が引き起こされ、慢性化して、ついには経営が回らなくなる、という形で返済することになります。世に言う「労働力の使い捨て」を続けた結果、「借金」で首が回らなくなったのです。

ガンを宣告され今後の治療について説明したら、会社側の反応は事実上の解雇だった。産休をとろうとしたら、嫌味を言われた。育休から職場へ戻ったら、なんだか別枠扱いのようになってしまった。障害者雇用が進まない。これらの問題、働きにくさは、すべて根っこでつながっています。

空想とわがままから卒業して、科学的事実と現実に基づいた会社組織をつくり、まわしていく。それができなかったために足元から崩れた企業・組織は日に日に増えて、ついに近年ではどの町でも見られるようになりました。この失敗から教訓を学び、人間に基礎を置いた合理的な組織を組み立てることが、いま社会で求められています。

公私・人格にわたる上下関係

日本の企業文化の特徴を語るにあたって、「上下関係」ははずせません。言うまでもなく、パワハラの温床となっています。もっと実際的に言うと、人格にまで及ぶ上下関係はパワハラを職場にビルト・イン(構造化)するので、問題を見えにくく、内部者にとって批判しにくくするという害があります。上司が日常的に嫌味や怒号をぶつけている職場で「何かおかしい……」「仕事ってこういうものなのかな……?」とモヤモヤしつつも、どこがどうおかしいのかをはっきり言えないから押し黙ってしまうのです。

上司と部下の絶対的な主従関係はまた、不正事件の温床ともなっています。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、ベタベタな蛙、中世の蛙>

「日本の会社では上司に絶対逆らえないって本当?」

語学留学したある日本人のエピソードです。談笑が続くテーブルで、ふとフランス人が真顔になりました。「日本の会社では上司に絶対逆らえないって本当?」

そんなふうに見られていたなんて! 彼女はショックを受けましたが、「そうだ」と答えざるを得ませんでした。彼女の身近に、上司に反対したことが原因で、翌日東京から網走へ転勤させられた人がいたからでした。

日系企業の異常な上下関係は、海外でも広くうわさになっています。

海外では、上司の命令はそこまでの絶対性を持ちません。とりわけ不正が絡む場面において、部下が「私はそれをやりません」と断るのはよくあるといいます。

まるで中世の身分制―井の外にはみられない人間関係の特徴

このようにオフィス内で絶対的な主従関係ですが、高度経済成長以降の日本の企業文化には、その上下関係がオフィスの外に出ても続くという、他の先進国にはみられない特徴があります。たとえば、休日に部下が上司の引っ越しを手伝った、などというのがそれです。

では、なぜ日本にだけ上司部下の関係が業務時間外も尾を引くという企業文化ができてしまったのでしょうか。

その原因は、労働や経営ではなく、日本の近代史という視点からみていくことで明らかになります。明治以降、日本社会の近代化は不十分ながら着実に進んでいましたが、その流れは戦前の軍国主義でいったんブツリと中断されます。そこにもってきて戦後の日本人が自らの歴史や今後の国のあるべき姿に向き合わなかった結果、この社会には21世紀の今もなお、人権という概念のない「中世」が一部に根強く残ってしまっているのです。

現代の働く人は、ぱっと見では近代建築のビルで洋服を着てパソコンに向かっているかもしれませんが、その中身に目を向ければ、上司と部下の関係は身分制的な上下関係になっています。江戸時代の平民が殿様に「ははーっ」とひれ伏していたのと同じように、上司というのは存在自体が「えらい人」で、部下との間には人間としての価値に上下がつけられている。「人はみな平等だ」という近代的な感覚は、日本のオフィスにはみられません。

本来、上司と部下の関係というのは、仕事全体を複数人で動かすための「役割分担」です。一つの大きな仕事をパーツに分けて分担していくなかで、チーム全体を俯瞰して指示を出す担当者が必要になってくる。この担当者が「上司」です。課長だの部長だのというのは単に業務指示の担当者にすぎないので、海外では、営業時間中は上司と部下でもオフィスを離れれば対等な友達同士、ということはめずらしくありません。

つまり、パワハラの温床となって働く人を苦しめている上下関係は、結局のところ、上司も部下も含めた働く人の無意識的な「発想」から生じてしまっているのです。これでは、人権意識が中世レベルだとか、日本の時間は中世で止まっていると言われてもしかたがありません。

日本企業の上下関係の変革は、中世という「井戸」をいいかげん打破することからはじまるといえるでしょう。上司と部下の関係を、身分的な上下関係から、平等な人同士が便宜的に行う「役割分担」にステップアップさせるべきなのです。日本企業に必要なこと、それは「近代化」です。

長時間労働

Sick leaveを締め出すこの鎖国国家は、他方ではオリジナルの単語を世界に輸出しています。決して許されざる悲劇、”karoshi(過労死)”です。「過労死」がローマ字表記で日本語そのままに発音されるのは、どの外国語にも翻訳不能だからです。働きすぎで死んでしまうなど、外国人には理解不能なのです。

日本企業を特徴づける長時間労働が、従業員の体調不良やうつ病の原因となっているのは言うまでもありません。長時間労働には、日本企業のかかえる問題が集積しています。

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海外では、夜中まで働くのは野心家、のちの億万長者

「彼は夜中まで働くんだよ」――もし海外で誰かがそう言ったなら、それは彼がブラック企業で過労死しそうで心配だとか、そういう話ではありません(そもそも「過労死」は外国語に訳せない)。「彼は野心家だ」という意味です。

では、海外の「夜中まで働く野心家」とはどんな人なのでしょうか。

2009~2013年の世界長者番付で堂々の世界1位に輝いたカルロス・スリム(Carlos Slim)氏は、大学時代に「お金を作る方法とは企業への投資だ」と気づき、自身のファンドを設立しました。「当時は1日に14時間も働く日々を送った」と、670億ドル(1ドル=100円とすると日本円で6兆7000億円)の富を築いた後にふり返っています。

そう、「1日に14時間も働いた」というのは、のちに天文学的な富を築くような、野心に燃える若い起業家の話なのです。雇われている会社員(=労働者)がすることではありません。スリム氏は正しい用法でいう「社員」、つまりビジネスの所有者です。自分がやりたいから、自分で決めて14時間。彼に勤務を強制した者はいません。「夜中まで働く野心家」は、この手の思い出話をよく語ります。「身一つだったから山のような業務をひとりで背負わざるを得なかった」とか、「経験のない挑戦者だったから手際が悪かった」とか、そういう「青かった」というニュアンスも含まれていますね。

そして、そんな激務はお金持ちになるまでの話。ビジネスが人員を雇えるまでに成長すれば、業務はだいぶ楽になります。30代で巨万の富を築いたら会社を去って半ばリタイア(引退、隠居)し、残りの人生は家族との時間をたっぷりとって悠々自適に暮らす――それが欧米・諸外国の野心家の典型です。ビル・ゲイツ氏がマイクロソフト社を去ってしばらくの間営利活動を一切していなかったというのは有名ですね。カルロス・スリム氏も、世界一の富を築いてからは所有する企業のほとんどから手を引き、慈善の基金を設立して、中南米の貧困と闘うため10億ドルを健康、教育、雇用へ投資しています。

では、日本に蔓延している長時間労働はなんなのか。

朝9時から夜11時まで14時間働く日本の会社員が世界の長者番付にランクインすることはありません。あからさまなリストラ勧告、あるいは退職を余儀なくされる事情が舞い込むことを内心恐れながら、毎月平凡な給料が口座に振り込まれるのを待っているだけです。6兆7000億円の富など、夢の彼方にも見られません。

日本企業の長時間労働は、結局のところ、低賃金労働なのです。

高度経済成長期の「一億総中流」という語は、人間の心の奥に眠る虚栄心を巧みに利用しつつ、「井の外」ではありえない特殊な心理を人工的につくり出す役割を果たしました。本当は低賃金労働であるにもかかわらず、それに「中流」、つまりそれなりの地位だというラベルを貼りつけたのは巧妙でした。今日、これまた造語の”サラリーマン”に該当する人々、とりわけ高齢層は妙なプライドを持っていて、自分が雇われ労働者だということを認めるのをどういうわけか毛嫌いし、それぞれ自分なりとはいえ、一定の社会的地位にあると信じている。

戦争が終わった時、日本人は「東条英機にだまされた」と不平をたれたものでした。しかし、日本国民はそのそばから東条英機以外の者によって何度も何度もだまされたのだということに、一刻も早く気づくべきです。

歓送別会は、業務時間内にできる

なれ合いのベタベタ体質から生じ、しばしばハラスメントの舞台となり、長時間労働の一部をなしているのが、かの悪名高き「会社の飲み会」です。やるものだというように真顔で準備される「会社の飲み会」もまた、日本企業の独特な特徴の一つです。

新人や退職者が出るたび催される歓送迎会や、12月の忘年会、1月には新年会。あるいはとくに理由がなくても、帰り際飲み会に流れていく。交流と楽しみを装っているけれど、出席は事実上義務である。なら業務の一部のはずだ。しかし給料は出ない。はっきり言いますが、「会社の飲み会」とは、「労働」や「労働者」の概念があいまいにされていることから生じているタダ働きです。タダ働きが「搾取」であることは言うまでもありません。

では海外ではどうしているのか、といえば、歓送迎会は業務時間内に組みます。業務を1時間早く切り上げてオフィスでワインを開けるとか、ランチェオン(luncheon)形式で昼食に同席するといった方法が一般的です。

業務時間内に給料を出しつつ歓送迎会を行う方法はきちんとあるのだから、その点を変革するのは容易なはずです。他人の「個」の領域へ侵入する、ねっとりベタベタ体質がない限りは。

体力自慢のS医師はこう言った―人手不足の真の原因

2018年、東京医科大が入試において女子受験生と浪人生を一律減点としたという不正が明らかになりました。性別は、人類にとって人種等と並んで平等な価値を認めるべき先天的な形質の違いです。生まれ持っての性を減点事由とするのはそれへの冒涜にほかならず、決して許されることではありません。

東京医科大が不正の動機としたのは、医師不足でした。「産休をとることがなく過酷な長時間勤務に耐えられる男性のほうが病院組織の『戦力』として有益なので採りたかった」というのがその言い分です。(同事件には文部科学省前科学技術・学術政策局長・佐野太被告の息子の裏口入学をめぐる贈収賄がからんでいて、掘り下げれば興味深いのですが、本稿では触れません。)

あれっ、ちょっと待て。これを聞いて私が思い出したのは、以前会った整形外科医のS氏でした。

S氏は大学病院勤務の男性医師。学生時代はずっとサッカー部員だったそうで、体力・体格ともに恵まれていました。学校を卒業した後も、新しい土地に滞在するときにはまず最初にサッカークラブを探し、ボールをけりながら友達をつくるという大のサッカー好きです。体力自慢の男性。まさに東京医科大ご所望の「戦力」なわけです。

ところがそのS氏は何と言ったか。

日本の医者は、ただ忙しいだけだ。このままでは、自分の人生はただ忙しくするだけで終わってしまう。だから、アメリカへ行く。お医者さんは、アメリカでやる。

――S氏の言葉は、長時間労働のすべてを物語っていました。人材不足に悩んでいると自称する企業や組織は、決して目をそらすことなく、S氏の思いと選んだ道をよくかみしめるべきです。

誰が過酷な長時間労働なんてしたいでしょうか。お医者さんにだって、それぞれの人生があるのです。それに、忙しいばかりでは、きめ細かな医療を患者さんに提供することもできません。医師として働き甲斐がないのです。あるいは、働きたくてもそんな過酷な条件では働けない、という医師もいるでしょう。

井の中の蛙、大海を知らず。そもそも、卒業後に付属の大学病院で働くかどうかは、性別年齢等にかかわらず、学生個々人の希望次第です。受験生・医学生はそれぞれの夢のために学んでいるのであって、病院組織のために存在している「戦力」ではありません。たとえば「国境なき医師団」に入ってアフリカへ赴くために医学部を志す受験生もいるでしょう。これをどう考えるのか。病院組織の「戦力」とならない者は「役立たず」だというなら、倫理観を疑わざるを得ません。第一、現実には、男性だからといって全員が体力自慢なわけでもありません。医師不足の原因が自らの組織運営失敗にあったにもかかわらず、それを性別や現役・浪人の区分になすりつけたのは、極めて恣意的です。

汚職事件で起訴された臼井正彦前理事長(77歳)と鈴木衛前学長(69歳)は、公判で贈賄容疑を否認する方針だと報じられています。文科省高官の息子へ加点したのは賄賂にあたらないと主張するものとみられます。東京医科大は不正入試の動機は医師不足だと主張し、真摯に反省する態度は見られませんでした。自らの非を認めず、病院運営に失敗したことも認めず、まるでしかたないことだったかのように同情を買おうと奔走する。自己愛過多なインテリの不正・犯罪らしいと言えばそうかもしれませんが、そんなに自己愛を守りたいなら、最初から汚職や不正をしなければよかっただけの話です。

私がここで東京医科大の不正入試事件を扱ったのは、それがS氏の言とあいまって長時間労働の本質を表しているからばかりではありません。それが戦後日本の企業文化の特徴と特殊性をとりそろえていたからです。この事件では、組織トップの思考力不足および”近眼”が顕著でした。

日本の会社や組織で十分な能力のない者がトップに就いていることは、これまでも事あるごとに海外のジャーナリストを驚かせてきました。

高度経済成長以降の日本では、閉鎖的な集団の内部で、従順な者に対しては「上」が温情をかける風潮、そして言われたことを言われた通りにやり、物事をいままで通りの方法で処理する者が重宝される風潮が蔓延してきました。

しかし、「上」に従う「優等生」を続けるだけでは、常に移りゆく時代への対処法や、現実に起こる様々な問題の解決策を考え出すことはできません。とどのつまりは、「能力が低い」ということになってしまう。こうした「個」を持たぬ”サラリーマン社長”では、企業・組織を回しきれず、最終的に崩壊させてしまうのも無理はありません。

”近眼”のほうについて述べれば、彼らは東京医科大病院の病棟や同窓会といった極めて小さな「井戸」に閉じこもりました。自分たちの行為が「顔なじみ」以外の受験生たちや日本の社会、そして国家に与える影響は、眼中にないのです。女子受験生や浪人生は、それぞれの志を胸に、難関を突破するため何年も日夜勉強に勉強を重ねました。受験当日は、人生をかけて試験問題に挑みました。その思いと努力を、「井の中の蛙」は理由にならぬ理由をつけて、無残に破り捨てたのです。さらに、東京医科大が被害を与えたのは、合格点を取ったにもかかわらず落とされた元受験生の人生と人格の尊厳のみにとどまりません。東京医科大は、大学教育が担う社会的使命を果たしませんでした。この事件によって、わが国の大学教育への信頼はガタ落ちしました。この責任を、これからどう取っていくのでしょうか。

さて、長時間労働は、企業・組織にとって自滅へのカウントダウンです。

人手不足のせいで労働時間が長くなるのではありません。長時間労働という劣悪な労働環境から、人手不足が生じるのです。東京医科大の不正は、病院組織運営に失敗したという事実を彼ら自身が認めようとせず、現実に背を向けて逃げ回る弱さから陥った悪でした。

社会主義国家のごとき「就社」型雇用

日本の「就職」は、就職ではなく「就社」だ。職に就くのではなく、会社に就くことを意味している。

「就社」は、戦後日本の雇用の特徴として指摘されて久しくなります。学校卒業と同時にする「就社」および「終身雇用」の二点セットはまた、戦後日本人の人生観を特徴づけてきました。会社に入れば食いっぱぐれなくてすむ、というイメージは人々の頭に深く浸透しました。が、実際にはこの「就社」こそが、職場における人権侵害を常態化させた大きな原因です。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、未熟な蛙、ベタベタな蛙、近眼な蛙、中世の蛙>

「終身雇用が安定雇用」は神話にすぎない

高度経済成長以降の日本は、「終身雇用」を「安定雇用」かのように見せかけ、ミニ社会主義国家の集合体とでもいうべき企業文化を形成してきました。

”サラリーマン”たちは、失業への恐怖によって支配されました。社会全体に新卒一括採用が敷かれていたので、いまの会社を出たら最後、職にありつけず路頭に迷う状況だったのです。彼らは支配を受け入れ、自由を放棄し、それと引き換えに会社に一生を保障してもらう、という社会主義国家のような構図ができあがりました。

このような「就社」型雇用は、昇給や昇進にも特徴を生み出しました。日本企業での「昇進」は、新卒で入った会社の内部で、年功序列のエスカレーターに乗って管理職に就くことを指していました。”サラリーマン”の夢は、願わくば最後社長(正確には代表取締役)のイスまでたどり着くことでした。

しかし、ミニ社会主義国家というべき会社の行く末はどうだったか。バブル崩壊後、「終身雇用神話」を信じてパワハラに耐えてきた”サラリーマン”は、あっさりリストラされました。高度成長からバブルを牽引した大企業は、次々倒産していきました。「ベルリンの壁」ならぬ「日系企業の壁」は自然劣化で「崩壊」していき、今日私たちが目にする満身創痍の社会に至りました。「終身雇用が安定雇用」「寄らば大樹の陰」は、最初からでっちあげの神話にすぎなかったのです。

「就社」型の雇用を「就職」に変革し、転職支援を充実させて経済をダイナミックにしていかなければ、日本企業の根本的な問題は解決されない。国内外の金融からは、もう何十年もそう指摘され続けています。

会社に依存しない「就職」はメリットばかり―失業なき労働移動

このように実際には嘘だった終身雇用神話ですが、それでも日本人の頭にはくさびが深く打ち込まれました。今日においても、一つの会社にずっといられないとしたら不安だという読者は多くいると思います。

しかし実は、この「就職」型の雇用はメリットばかり。なぜなら、「就職」型雇用が社会に浸透していれば、会社にリストラされても職を失わないですむからです。実際、このモデルで成功した国もあります。

たとえば、あなたはA商事の経理部で働いていたとします。A商事の業績が悪化した。リストラが行われるかもしれない。この場面で、「就社」が定着していると、あなたはA商事と落日を共にしてついには心中……するしかありません。A商事の外に行き場がないからです。ところが「就職」ならどうか。あなたは業績好調なBソフトウェアでA商事時代と同じ経理の仕事を得て、変わらぬ暮らしを続けることができます。一言でいうなら、いまの会社を辞めても、失業はしないですむのです。これが「失業なき労働移動」です。

また、「就職」型の雇用が広がれば、生まれ年などの運によって人生が左右されることがありません。新卒一括採用・終身雇用を前提とする「就社」型の場合、”シューカツ”する年にたまたま景気が悪ければ、その情勢に一生甘んじる羽目になってしまいます。これは不公平ですよね。「就社」とは、自分の人生を丸ごとその会社に賭ける「ギャンブル」なのです。ところが「就職」型雇用なら、社会全体みなが働く場を常に移動しているので、運による人生の固定化がありません。ギャンブルではなく、地に足の着いた、着実な人生設計が可能になるのです。

さらに「就職」型雇用は、パワハラや劣悪な労働環境の対策にもなります。「就社」型雇用は、会社が従業員の足元を見る原因になっているからです。いまの職場にいられなくなったら行き場はない、というなら、会社側は「ここを出ていくことになったら、お前は路頭に迷って人生転落だ。なら、この職場でうまくやっていきたいだろう……?」と無言の圧力をかけられる。従業員のほうはパワハラをされても押し黙るしかなく、長時間労働やサービス残業(タダ働き)といった劣悪な労働条件も飲まざるを得ません。

上司と鎖で柱にしばりつけられたビジネスマン
会社にしばりつけられたら、どんなに人権を踏みにじられても会社にしがみつくことでしか生きられない。

こうして社会主義国家のごとき「就社」型の雇用は、働く人を低く弱い立場に追いやり、劣悪な労働環境の大きな原因となってきました。長時間労働も、異常な上下関係も、ついでに言うなら「就社」上がりの正規とその枠外である非正規の賃金格差も、もとを正せば「就社」型の企業文化に端を発しているのです。

どうでしょう。両者を比較すれば、一つの会社にずっといるより「失業なき労働移動」をしていくほうが自分の人生にとってだんぜん有利なのだということがわかるはずです。問題のもとを断つことができるからです。

理想はダイナミックな経済

では、どうすれば「就職」型雇用を広められるのでしょうか。

これに関してだけは、一社だけで変革できることではありません。日本経済全体が変わることが必要です。

業績好調で労働環境も良い大企業があったとします。しかしそんな会社も永遠ではありません。変わりゆく時代についていけずうまくいかない部分が出てくれば、業績は下がります。そのころにはその時代の事情に合わせて設立された同業の新しい企業が成長していて、落ち目の会社からは人材がそちらへ流れていきます。人手が減り、事業はさらに縮小、ついにはシャッターを下ろす時がやってくる。そのころには新しいほうの企業が隆盛を極めていて、人々はそちらで働いています。けれどこれもまた永遠ではなく……。

それを絶えずくりかえすのが理想的な経済です。ダイナミックな経済が、働く人の「失業なき労働移動」を可能にするのです。

起業が少ない

では、そのダイナミックな経済は何があれば実現できるのでしょうか。

必要不可欠な要素は、「起業」です。落ち目になった古い会社に代わる、新しい会社が出てこなければならないからです。

<よく見つかるカエル:離れ小島の蛙、未熟な蛙、近眼な蛙>

海外とはまるで逆

日本の企業の「売上高ランキング」を調べてみると、トップ10は古い大企業に占められています。よければ検索してみてください。おなじみの自動車メーカーなど、何十年も続いている社名ばかりがランクインしています。

しかし、世界に目を向ければ、「古い企業が大企業」という日本の状況は特殊です。たとえばアメリカでは、国の経済のトップを設立から10年足らずの企業が走っています。GoogleやFacebookなどを考えれば一目瞭然でしょう。どこぞの若者がゼロから始めた新しい会社が国きっての大企業である、というのは、少しもおかしい話ではないのです。

もう一つ日本と諸外国で正反対なのは、海外では優秀な学生になればなるほど起業や投資を志すという点です。有名大学の学生になればなるほど「とりあえずはできる限り大きな会社に入らなくてはならない」というコードがゆらぐことのない”シューカツ”の世界とは正反対なのです。先に挙げた世界一の億万長者・カルロス・スリム氏も、優秀だったゆえ投資に目覚めた若者の一人ですね。

英文履歴書でよくある文句に「私は一度も雇われたことがありません」というのがあるのをご存じでしょうか? 日本だったら「働いた経験がなさすぎる」などとひどくネガティブにとらえられそうなこの文句、真意は「自分は根っからの起業家気質でアクティブだ」という自慢です。企業、特に大企業への「就社」を目指しがちな日本人と海外は発想からしてまったく違うのだということが、この表現から見えてきます。

このようにして新進気鋭の企業が出てくることなしに、代謝のよい経済は成り立ちません。だから、社会のなかで誰かが起業家にならなければならないのです。

新しい企業への入れ代わりがなければ、社会は崩れる一方に

起業は「そういうのもあったほうがいいよね」と悠長に語っていられる対象ではありません。古い企業が足元から崩れているいま、起業によって新しい会社が出てこなければ、この社会は文字通り、破局するからです。

長時間労働が慢性化したため人員が次から次に辞めていき、ついには働き手がいなくなってサービスを停止せざるを得なくなった――そういう企業は近年みるみる増えました。いまでは全国どの町にもごろごろ転がっています。筆者の周囲でもここ数年の間に、介護施設で疲弊した職員が次々辞めたのでデイサービスの存続が危ぶまれたとか、宅配業者が営業所を閉めざるを得なくなりドライバーが営業所を名乗るようになった、といったことがありました。

業務停止に追い込まれて困るのは、その会社だけではありません。このままでは私たちの暮らしが成り立たなくなってしまうのです。

たとえば、運営に失敗したブラック病院で医師や看護師、理学療法士などが雪崩をうって辞めていき、ついには医療サービスが提供できなくなった……そのままでは町から「病院」が消えてしまうではありませんか! 困るのは他でもない住人、つまり私たちです。

だから起業が必要になるのです。つぶれたブラック病院との間にしがらみがなく、時代と実情に合った経営を行い、かつ働く人にとってはホワイトな新しい病院が取って代わることで、日本社会に「病院」が残り続けるのです。

ボロボロで崩れかけのブラック企業を当て木で支えても、害悪がずるずる残るだけでメリットはありません。従業員の長時間労働を含め経営に失敗した会社は、しだいに規模を縮小し、やがてはシャッターを下ろす時がやってきます。そのころには、しがらみなき新進気鋭の同業者が、時代とニーズに合わせた経営で大きくなる。そうやって時代に合わせて企業が入れ代わり立ち代わりしていくのが理想の経済であり、それによって社会全体が持続可能になるのです。

運送、宅配、バスなど交通機関、介護や保育……ありとあらゆる業種にしがらみのない新進気鋭の起業家が立つことで、日本の労働環境は働きやすい会社にぬりかえられていきます。これを読んでいる読者のなかに「それなら自分が!」と立ち上がる人が出てきたら文士冥利に尽きるのですが、あなたはいかがですか?

起業のもうひとつの効能―トップに就くなら苦労は買ってでもすべき理由

起業というのは、たった一人から始まります。それを成長させる過程で、起業家はビジネスの本質を身をもって学ぶことになります。

メインの業務はもちろんですが、宣伝する、取引先を探す、電話の応対、メールの返答、スケジュール管理、経理、人事、オフィスを借りる、備品の調達……。起業家は、それら雑務まですべてを自分一人でこなさなければなりません。いくら最初はデスクの上で完結する箱庭のような規模だとはいえ、本人だけでは技能的、時間的にできないことはどうしても出てきます。

どうするか? 起業家に「できません」は許されません。できないならば、作りたてほやほやのビジネスは早くも終わりだからです。自分が勉強してこなす。または自分が1日14時間働いてでも、あるいは1日14時間働いたのに利益がゼロだろうがこなす。それでもこなしようのないことは誰にだってあるので、ここではじめてお金を払って誰かに肩代わりしてもらう必要が出てくるのです。

人を雇うことは、起業家の視点から見れば「アウトソーシング(業務委託)」の一種です。しかし、たとえ人を雇うと決めたところで、自分の名は世に全く知られておらず、会社には信用がありません。なので、「私はこういうビジネスを立ち上げました。とてもユニークで新しくおもしろく、今は私一人ですが今後伸びていくこと請け合いです。そのために協力者が必要になりました。給料はきちんとお支払いします。お願いできませんか」と、世の人に一から説明しなければなりません。そして応募者を吟味した結果(この作業も当然自分がやる)、晴れて人を雇ったとします。ここでパワハラをするとかタダ働きさせるなんていうことがあれば、あっという間に見捨てられて元の木阿弥。そのために会社が回らなくなって、早くもつぶれるかもしれません。他社の下につかざるを得なくなって、事実上の終わりをむかえるかもしれません。

誤解を恐れず言うなら、会社のトップは、頭を下げて人に働いてもらうのです。

そこにもってきて、他者が決して自分の意のままにならないことは先に述べました。雇った人が、熱を出して突然休むかもしれない。せっかく優秀な人を見つけて採用したのに、家庭の事情で遠くに引っ越していってしまうかもしれない。人を雇うのは、それでいいと判断したか、またはこういうあれこれを楽しんでマネジメントできるくらい人を使うことに素質のある起業家が選ぶオプションです。他人が思い通りにならないのがいやなら、自分一人で続けるビジネスモデルを構築すればいいだけです。他者と協業することを選んだ以上、他者に関する不測の事態は織り込み済みでなければなりません。

このように、たった一人から始まる起業は、自分の頭で考え判断することの連続です。本当の意味での起業家は自然とジェネラリストになるし、「個」を持たないではいられません。結果はすぐには出ないということも体感・体得するでしょう。また成功だけでなく失敗もすべて自分で受け止めることになるので、責任の感覚が自然と身に付いていきます。苦労しながら手探りで進んでいくなかで、ビジネスの本質を学べるのです。

甘やかされたトップ・管理職が、パワハラや無責任に走っていく

一方、日本型「就社」からの年功序列・内部昇進・終身雇用はどうでしょう。

会社にはすでにオフィスがあり、デスクやペンやら何から何までそろっていて、人員はいて当たり前、人事も経理も電話も全部誰かがやってくれて当たり前。資金も、信用も、利益もあって当たり前。最初から既存の組織に依存しきっているのです。

ヒラの従業員だったらその感覚でかまわないのですが……。日本企業の管理職や取締役は、「就社」からの内部昇進がほとんどです。すなわち働き始めた時から苦労がなく、至れり尽くせりで甘やかされている。その甘えが、パワハラや責任感のなさ、部下が思い通りにならないとキレるというわがまま体質につながっていると私は考えています。

トップや管理職に就く者は、ゼロからのスタートという苦労は買ってでもすべきです。苦労をもってしか学べないことがあるからです。泥だらけになりながら起業家視点をマスターした人がトップや管理職に就いたなら、その時には、古い企業文化は刷新されているはずです。

「名ばかり起業」は起業にあらず

ここで、会社であれフリーランスであれ、新ビジネスのスタートにあたって注意すべき点をひとつ指摘しておこうと思います。

分社化や関係先から出資してもらうなど既存の企業の下につく形での起業や、前職での上司や関係先から仕事を流してもらう形のフリーランスは、私は「起業」のうちに入れていません。なぜなら、もし取引先や投資元がブラック労働なしには実現し得ない要求をしてくるなら、せっかく新しい会社だったのに、やがては崩れかけの企業中心社会へ溶けこんしまう。それでは元も子もないからです。

日本にも広い意味では「起業」がないわけではないのですが、「真の意味での起業」にしぼったらその数は激減するという独特な状況が続いてきました。高度経済成長以降、一見先端を行っている企業が実は地元に古くから根差した利権集団に支配されているとか、最悪の場合は暴力団と深く結びついていたりするという例は多くみられます。

起業の意義は、「しがらみのなさ」にあります。これは起業家個人にとっても社会にとっても言えることで、またそうでなければ本当の意味での起業ではありません。

起業を考えている人へ―理想はFacebookやTwitter

さらに、いま現在起業を志している読者には、もう一つアドバイスを加えておきましょう。

本当に意義のあるスタートアップをしたいなら、崩れゆく企業の失敗を頭に叩き込み、自分が二の舞にならないよう、しっかり思考して計画を立てることをすすめます。なぜなら、本人はすごく新しいことをしているつもりだけれど中身は古いままだ、という「落とし穴」にはまる事例が後を絶たないからです。自分は大丈夫、という人も、念のため一度は深く研究したほうがいいでしょう。

私が頭を抱えた例を出すと、

  • 「社員」のコミュニケーションを円滑化するため、会社が飲み会の代金を出すようにした
  • ギスギスした人間関係を改善するため、社内に部活動をもうけた
  • 働きがい・生きがいを重視するため、求人や面接で給料について一切話さないようにした
  • 強権的な上下関係を変革するため、職場の人間関係にサザエさん一家をモデルとした家族的つながりを導入した

……だからまさにそれをやめろと言っているのに! 日本社会をここまで追い詰めた「個」に侵入する企業文化を表面だけぬり替えて新しいことをしたつもり、変革したつもりとは情けない。涙がにじんできます。彼らは画期的なことをしたと信じているようでしたが、本質的にはまるで高度成長期の会社が現代にポップアップしたかのよう。今の平均的な職場よりも「古くさい」のです。

では、どうすればこういった「落とし穴」にはまらずにすむでしょうか。

まずマインドの面では、過去の失敗の原因を分析する「座学」と、古い日系企業としがらみがない場で自由に「経験」をすることが有効でしょう。自分の頭、自分の足を両方使って、しっかり学び続けることが対策になると思います。

そしてビジネスモデルとしては、Facebook型が最適と考えます。いまやグローバルカンパニーであるFacebookの発端は、学生が楽しみで作ったプログラムでした。友達同士の小さなコミュニティで、おもしろい、役に立つと価値を認められたことを元手に、それをビジネスへ発展させ、雪玉を転がすように大きくし、ついには国のトップを走るグローバルカンパニーにまで成長させたのです。この道筋は、Twitter社も同様です。規模を大きくするか小さくとどめるかは、業種などによるでしょう。マイクロビジネスで大成功を収める実業家もたくさんいます。大事なのは、価値のあるモノやサービスを基盤に、それを続けていく方法を編み出すという「順序」です。

すべてビジネスは「原野」から始まります。何もないし、雇う人も、お客も、人っ子一人いません。その完全なる自由を存分に活かして、本物の企業を作り上げてください。こんな社会とはいえ、探してみれば、人間らしく自分らしく、働くことを人生のすべてではなく一部にできるシステムを作り上げ、充実した生を謳歌している先人はたくさんいます。あとに続きましょう。応援しています。

おわりに―過去の失敗から学び、大海へ飛び出す時

働く環境が変わらなければなりません。そして、いまの劣悪な労働環境は変えることは可能です。ここまで7点述べてきたのは、すべて、働きにくい企業文化を変革するための指針です。

私が「井の中の蛙」にこだわって書いてきたのには理由があります。

ブラック企業はいま、次々と崩壊しています。自滅してくれるなら手間いらずでよかった……と言いたいところですが、つぶれたブラック企業跡地が更地になるだけでは実は足りません。なぜなら、更地をそのままほうっておけば、「ブラック企業的なもの」は新しい別の形をとって、必ずや芽を吹き返してくるからです。だから、ブラック企業は、根っこまで完全に焼き切らなければならない。その「根っこ」とは、ブラック企業を生み出し、その存在を可能にしてきた、人々の「発想」なのです。少々厳しいようですが、労働環境が働きやすく、この社会が生きやすくなるには、町をゆく一般市民の一人ひとりが頭に深く根付く「ものの考え方」を変えなければならないのです。

狭くて暗い井戸の外に広がる「大海」は、チャンスに満ちあふれて輝いています。

「自分にできる変革」が社会規模で積み重なれば、必ずや企業を中心とした社会の在り方を変えられる。私はそう信じています。

長くなった本稿は、再び『権利のための闘争』からの引用で結んでいこうと思います。

権利の力は、愛の力と全く同様に、感覚にもとづいている。理解力も洞察力も、感覚の代役をつとめることはできない。しかし、愛が往々にして自覚されないままであり、それがはっきり意識されるには一瞬をもって足りるのと同様に、権利感覚も、傷つけられていない状態においては自己の存在と内容を自覚することがない。

権利のための闘争』同74頁

権利を求める人の願いは不滅です。なぜなら、権利を求める声は、「苦痛」という原初的な感覚にもとづいているから。くだけて言うなら、知識ではなくハートだからです。

ただし、ただ苦痛を感じているだけでは十分ではありません。もし権利が踏みにじられたなら、それを主張することは、自分のみならず、私たちの国家にとって必要不可欠なのです。

だから私は、長時間労働、サービス残業、ハラスメントなどに直面して会社相手に裁判で闘った方々を尊敬します。一見ご本人ひとりのために見える闘いは、国家・社会に対して、他の方法では決して得られない偉大な功績を残してくれました。私たちの社会への貢献に、深い感謝と敬意を表します。

さらに、裁判が一件あれば同様の事例は百件あるという通り、声なきまま「暗数」となっている人々を忘れてはなりません。

私の尊敬する人が長時間労働によってうつ病になり、10年以上も苦しい闘病生活を強いられたことは以前お話ししました。善良で合理的な思考ができる、とても立派な方でした。

社会に病理がはびこると、ふとしたことでその割を食い、人生を台無しにされる人は出てきます。ブラック労働はいま、この社会に生きるすべての人が背負うリスクとなっています。ブラック企業によって追いつめられ、人格を傷つけられた人は何も間違っていません。カルト宗教でははじかれた人のほうがまともであるのと同じく、病みきった企業ではうつになった人こそ真人間であり、この社会の未来です。

そして、人権のため闘いのさなかには、倒れる者が必ず出ます。長時間労働や集団主義の犠牲となってkaroshi(過労死・自殺)された方々。その苦痛を必ずや未来の礎にしなければと、襟を正す次第です。

日本において、企業は長年、個人の人格さえも否定できる特権の座についてきました。しかし企業は人間のために作られたシステムにすぎず、したがって人間の尊厳以上の価値を持つことは未来永劫ありえません。その変革とは、人権侵害さえもビルト・インした企業文化を主体的意志をもって根っこまで焼き切り、かつ、ブラック企業が絶滅した次の時代を先取りして、新しい種を今から育てていくことだと考えます。

満身創痍のこの社会は、一人ひとりが「大海」へ出ることによってはじめて持続可能となるのです。

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孤独死の原因と対策は?~生命維持不能に陥らないために – 定年退職後の男性が社会とのつながりを持てないまま一人暮らしや認知症などになることで、生命を維持できずに死に至る問題を論じています。

苦しいなら不登校のままでいい7つの理由 – 思考力を軽視する教育の在り方に触れたので、一応リンクを貼っておきます。もっとも、暗記偏重全盛時代の世代にも、自力で思考力を身に付け、高度な学を受け継ぎ、活躍してこられた方は大勢いらっしゃいます。思考力のない”サラリーマン社長”が失敗したり不正・犯罪を犯した場合、一切の責任が本人にあることは変わりません。すべてをその時代の教育のせいにすべきではないでしょう。ただこのタイプの病理について考えるにあたっては、”未熟な蛙”や”まじめな蛙”の「故郷」は視界に入れておいたほうがいいと思います。

児童養護施設の子どもたちへの誤解3選 – 近年、自治体が保育所や児童養護施設など子どもが生活する公的施設を建設しようとすると地域住民から激しい反対の声が上がるという例が全国的に多発しています。そういった住民は、たった数十年年下の子育て世代や同じ地域の子ども・赤ちゃんですら「自分たち」の範囲内だと感じておらず、それどころか「自分たち」の平穏な生活を脅かす「外敵」とみなしているのです。いったい何をそんなに恐れているのか、事もあろうにこの世界に生まれてきたばかりの無垢な赤ちゃんにヘイトをぶつけている。他人や将来の世代が見えない”近眼”も、ここまで悪化すれば病的です。「保育所を建てるな」と叫ぶのが地域参加、社会参加、政治参加だと思っているなら、とんだお門違いです。「公共精神」とは、全体のために個人を犠牲にする全体主義・集団主義をいうのではありません。社会・国家の一員としてその課題に主体的に対応し、保育所等を建てることを含めたその運営にたずさわることをいうのです。子どもたちが生まれたそばから邪険に扱われて心に回復不能な傷を負う切迫した危険があったため、私は文士という立場上、反対住民に対して厳しい批判意見を書きました。誰にでもやさしく人当たりよく接するだけでは、もはや病気の域に達する内輪意識、そしてそこから生じる深刻な人権侵害やこの社会の破局は防げません。

映画『レ・ミゼラブル』あらすじ・レビュー・感想―人の願いは時空を越えて – 人権についてはこちらをどうぞ。人権の概念が生まれたばかり、近代が芽を出したばかりのフランスを舞台とした名作小説のミュージカル映画です。人権がない世界がどれほど悲惨か、また人権を獲得する闘いとはいかなるものかが、映像によって生々しく、情熱的に描かれています。私が「完璧」の太鼓判を押す数少ない映画です。

(本稿は2018年12月21日に初公開されました。2020年11月22日、ページに技術的な不具合が発生しているのが見つかったため、不具合除去のためにページをリニューアルしたのと同時に本文一部を再編集して再公開いたしました。)

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