有名子役のその後や未成年ユーチューバーと「子どもにやらせる」産業の倫理

「まだ何も持たない子どもに歌ったり踊ったりさせて、ちやほやして金をもうけるなんて!」――ある時私の知人は、スマホを一瞥するやいなや、身の毛もよだつとばかりに不快感をあらわにしました。彼女は当時、小3と5歳の子を育てていました。

人を「物」として扱うことは人間破壊であり、人身売買は人類最悪の犯罪です。ただ世の中には、一応違法でなくてもそれに接近してしまう、構造からして非人間的にならざるを得ない産業分野がいくつかある。子役や低年齢の受験といった「子どもに何かをやらせる」ことを生業とした産業はその最たるもので、言ってみれば、「もとから怖い業界」です。さらにインターネットという新たなテクノロジーは、児童がネット上で活動するという新しい現象を生んでおり、私は以前ユーチューバーをめぐる問題の一つとしてそれを取り上げました。

今回はあらためて、子役、”お受験”といった「子どもにやらせる」ことで成り立つ産業がどこからどのようにして収益を上げているのか、まずは相関関係を明らかにした上で、ちやほやされた児童のその後の崩壊を招く危険な構造を指摘し、その倫理を論じたいと思います

目次

崩壊する元有名子役

あの時あんなにかわいかった有名子役が、大きくなって精神崩壊して目も当てられないことに――そんな話は、誰しも一つや二つは耳にしたことがあると思います。

子役の置かれた状況や成長後の問題は、国内外問わずたびたび言及されてきました。

『スターウォーズ』スター子役の悲劇的なその後

最初に、具体的な事例を紹介することにしましょう。

2015年、世界的人気作『スター・ウォーズ エピソード1』に出演して注目を集めた元有名子役ジェイク・ロイドが逮捕され、遠く離れた日本でもニュースになりました。

スターウォーズを知らない読者のために説明を加えておくと、1999年に公開された同作は、すでに世界的人気シリーズとなっていた『スターウォーズ』の主人公・アナキンの少年時代を描いた作品です。

参考:『スターウォーズ』をキャラクターから読み解く

この『エピソード1』で少年時代のアナキンを演じたのが、撮影時8歳の子役だったジェイク・ロイド(1989~)でした。つまりは、主役です。同作は、シリーズものの一本として確固たるストーリーができあがっており、したがって子役の愛らしさや話題性を売りにした作品ではありません。言うならば、スクリーンに映る「彼」を、観客は「かわいい子役」とか「ジェイク・ロイド」ではなく有名キャラクター「アナキン」として見ていたといえるでしょう。ただそれでも世界的人気シリーズで主演を務めたのですから、当然の帰結として、彼は注目され一躍有名になりました。

世界的人気作で主役を演じ、スターへの階段を駆け上がったジェイク・ロイド。しかしその後、彼は俳優の世界からぱったり姿を消してしまいます。

何があったのか。主な理由は、学校でのいじめでした。2012年、23歳になりすでに俳優を引退したジェイク自身が、メディアに当時の苦難を語っています。同級生は彼を見かけるたびにスターウォーズをまねて「ブォンブォン」などと言って陰湿にからかったといい、『スターウォーズ』での名声によって「人生が生き地獄と化してしまった」と話しました。有名子役、世界的なスターとして世に時めいた彼ですが、その後は出演作を見返すこともなく、ジョージ・ルーカス監督との関係もほとんど絶っているということです。

そして2015年6月、ジェイク・ロイドは警察とのスターウォーズのようなカーチェイスをくり広げた末、スピード違反で逮捕されます。同年冬に、シリーズ新作の公開をひかえていた時でした。

その後、彼は刑務所から精神療養施設へ送られました。統合失調症と診断され、その治療のためということです。

子役産業の相関図―どのようにしてもうけているのか

苦々しい結末。ただ、元有名子役がその後……という似たような話なら、誰しもいくつか耳にはさんだ記憶があったり、その顔が思い浮かんできたりすると思います。

なぜこのようなことになってしまうのでしょうか。

ジェイク・ロイドがスターとなった当時を呪い、役者をやめた理由は、それをきっかけに学校でいじめに遭ったことでした。子役としての活動それ自体ではありません。役柄は純粋で親切な少年だし、撮影現場に彼の人格をないがしろにする出来事があったという事実は見当たらず、また彼は小学校に通ってその後は高校を卒業、進学しており、したがって、映画のために教育を受ける機会を奪われたということもありません。

違法な点、社会的に不適切な点はないのに、困難が生じた。ここから見えてくるのは、そもそも子役という立場自体に無理があるのだ、ということです。

子役をめぐる立場関係を図解すると、その構造が見えてきます。

すべて産業は、世からの需要に応えることで成り立ちます。そしてこの社会では、様々な企業が自社の企画やCM、広告などに出演してくれる、特定年齢や性別の子どもを求めています。プロダクションは、こうした世の需要に応えて現場に人材(=子役)を提供し、本人に対しては売り込みなどマネジメント業務の代行することで利益を得る「仲介ビジネス」です。(例外的にプロダクションに所属せず親がマネジメントまでやっている場合でも、現場に派遣されてからの子役の立場は同じです。)

成熟した大人の役者であれば、こうした関係を結ぶのに何ひとつ問題はありません。自分自らプロダクションと渡り合えるからです。自分の意思で選んだ、役者の道。大人だったら、描く目標にたどり着くため自分から仲介業者を求め、売り込み等を担当してもらうよう、協力関係を築くことができます。それでさえ、芸能界は特殊な世界として知られていますよね。

しかし子どもは、まだ世の中のことを知らないし、役者をやりたいと自己決定したわけでもありません。背後には必ず親がいます。子どもの活動を決める主体は、事実上親にならざるを得ません。誰が法令違反をしたわけではなくても、子役産業には、その構図からして、純真無垢な子どもを売り物のようにしてしまう構造があるのです。

さらに、現場に派遣された後、つまり実際に「仕事」をする時にも、子役には年齢不相応の重い負担がかかります。

前に解説したのですが、ステージでの華やかな見た目とは裏腹に、役者は高度な技術専門職です。つまり、自分を出すことなく、監督から求められた通りの演技を監督に提供しなければならない。大人の役者は、まさにそれを自分の職業として選び、その技術を磨いた人たちです。機械に興味のある人が専門学校で配線などを学んで電気工事屋になるのと同じです。

では、子役は? 役者をやるのは自分の意思とはいえず、そもそも未成熟なのだから専門技術など持っていようがないですよね。

結論を言ってしまうと、子どもだからといって「役者の役割」を免除してもらえるわけではありません。

なぜなら、映画制作現場は、映画を作り上げるために人材=子役を雇ったのだから、その子に台本通り、求める通りに演じてもらわなければ何もならない。プロダクションは、それができる、それをする人材を派遣することを仕事としています。したがって、立場上、現場に派遣された子役には、「やらない」とか「できない」ということは認められません。「今のところもっとやんわり笑って」と指示されたらそうしなければならないし、「泣いて」と注文されたらその場で泣かなくてはならない。

子役というのは、何もわからない幼児・児童なのに果たさなければならない役割を負わされた、もとより残酷な職業なのです。

自動的に忙しく、自動的に有名になる子役の帰結

子どもが映画やテレビに出演すると決まれば、自動的に忙しくなります。小学生にとっては5時間目まで授業を受けるのも大変なことですが、子役は映画制作のスケジュールに沿って、普通は大人のプロがやる撮影をこなさなければなりません。

さらにそれが注目作だと、付随する「仕事」がついてまわります。ジェイク・ロイドはメディアに「1日に60件のインタビューを受けないといけないこともあった」と語っています。子役をやる以上、成り行き上忙しくなってしまうのです。

自動的に有名にもなります。自分の意思でその道を選んだ大人のプロでさえ、メディアに取りざたされるのには負担がともないます。それが未熟な子どもでは、心理的に耐えられなかったとしても当然です。

無理なことを無理にやらなければならない子役の立場

ほかによく問題視されるのは、子役として活動したがために、年齢相応の情緒的体験が阻害されてしまうことでしょう。大人の世界に置かれたことで「大人になってしまう」というあれです。

本来、子どもには子どもの世界があります。子どもというのは友達と公園を走り回ったり、自由にお絵かきしたりと、のびのび生活するなかでしだいに成長していくものです。

しかし、子役の活動する現場は、プロフェッショナルのビジネス界。子役をやるなら、いきなり大人の都合だけで動く世界に放り込まれ、成長過程の子どもにはどぎつい、大人のしがらみのなかで泳ぐことを余儀なくされます。「仕事場」に着いたら、自然にそなえている子どもらしさは押し殺して、かわりに「大人が求める子どもらしさ、かわいらしさ」を演じなければなりません。

子役をやれば、子どもは子どもでいられなくなります。「大人になってしまう」と同時に「子ども時代」を奪われ、それが情緒の発達に影を落として、その後の苦悶の原因となるのです。

親の理想、親の欲望

冒頭で触れた私の知人もそうですが、とびきりキュートに映されたはずの子役を世の人がたびたびきまり悪く感じたり、強烈な不快感を覚えたりするのは、背後にかまえる親を見透かしてのことでしょう。

子どもは、自己がまだまだ不完全です。世の中への理解、そして物事への理解力も、年齢が低くなればなるほど未熟です。だから子どもに「自分のやりたいこと」などあるはずがない。持ちようがない。子どもが「役者をやりたい」などと言うことはあり得ないのだから、裏には必ず、子どもの言を誘導している親がいるわけです。

実際、「子どもが習い事に行く感覚で大金を稼いできてくれる」などと一攫千金を夢見る親もいる。

欲望まるだしな親だけではありません。欲望が間接的に表れる、「理想押しつけ型」の親もいます。役者としてきらびやかなステージに立つ願望を抱いているのは親のほう、というのがその典型。夢破れて人生に不満だらけの親が、子どもに自分自身を重ね合わせ、同化し、子どもに自分の理想を体現させることで、まるで自分が成功したかのような疑似体験を得ようとする――この手の親はしばしば「子どもの夢のため」だと言い張ります。

こうした野望を抱く親たちが、わが子を連れて集まる子役の世界。親の間で熾烈な競争が始まるのは想像に難くありません。「あの子よりうちの子が!」と親同士が火花を散らし、子どもは競争の道具と化していく――。

親の都合や価値観を押し付けられたがために、あまたの子どもがその後どうなったというのか。

子役にせよ、後で述べる”お受験”にせよ、「子どもに何かをやらせる」ことで成り立つ業界には、親が子どもを「物扱い」することが最初から想定され、組み込まれています。業界ができた時から、子どもをたらかし、だまし、あるいは力ずくで望むことをやらせ、自己目的に利用する暴力性がビルト・インされている。「親が子どもを利用している」「子どもを所有物のように扱っている」という批判的な見方には、十分な理由があるのです。

素朴な疑問:違法ではないの?

テレビに出ている子役を見て「これは児童労働じゃないのか?」と素朴な疑問をもつ人もいるかと思います。

このあたりではっきりさせておきましょう。結論を言ってしまうと、子どもが映画やテレビ、CMなどに出演すること自体は違法ではありません。未成年者が「営業」をすることは法律でも想定されています(民法6条1項)。そういわれてみれば、未成年でもバイトはできますよね。

なぜなら、子どもはあくまで人間で、つまり厳重に管理する対象物ではなく、原則的には何をするのも自由だからです。演技するのを禁じる理由はありません。「権利・義務の主体となりうる地位」は、人間である以上、生まれながらにして誰もが平等に有しています。ただ、未熟な児童は保護する必要があるから、民法をはじめさまざまな法律で制限をかけたり、児童にやらせてはならない禁止事項を設けたりしている。物事はそういう順番です。

違法になるとしたら、それは児童に児童福祉法で禁止された行為をさせたか、親が子どもを働かせて教育を受けさせなかった場合等になります。子どもが教育を受けられないことは、将来の可能性を奪われ、搾取される人生への固定に直結するからです。たとえば数年前、中学生の娘に芸能活動をさせて学校に通わせなかったとして、学校教育法違反容疑で逮捕された母親がいました。古いところだと、学齢の娘を「芸妓見習い」にした父親が法廷で「芸妓見習いは教育のうちに入る」と主張したのを裁判所が認めなかったケースがあります。

社会通念からしても、法令が順守され、かつ子役が好意的に映されている限りは許容範囲でしょう。たとえば、子役が楽しそうにおもちゃで遊んでいたり、おいしそうにハンバーガーをほおばっていたりするCMは、そのせいでその子が将来困るような代物ではないですよね。これを「悪事」だとは思わないのではないでしょうか。

無理のある産業の倫理と、ぬぐいきれないきまりの悪さ

ただ、子役ビジネスに最初から無理があるのはすでに述べた通りで、非常に問題が起こりやすいのは事実です。

社会に「子どもを出演させたい」という需要があって、需要に応えるプロダクションができている。現実がそうである以上、プロダクション等子役にかかわる産業にとって、コンプライアンス(法令順守)を徹底することは最低限の義務です。人権侵害行為をしてはならない、とくに子どもの教育を受ける権利が侵害されることがあってはならない。これが最低ライン。もし撮影現場がこの最低ラインを下回る状況になったなら、それは子どもの将来を奪う児童労働であり、搾取です。

最低限であるコンプライアンスに上乗せして、モラル(倫理)もあります。親や現場関係者は、年齢に応じた心理的配慮をすべきです。スケジュール面でも、負担軽減措置を講じる余地はあるでしょう。

子役は人間であり、将来的には自由意思をもって自分の人生を歩むべき子どもです。子役の人格をないがしろにしたり、成長の妨げとなるような言動で傷を残すなら、倫理面での非難は免れません。

……と、コンプライアンスとモラルをはっきりさせてみたのですが、それでもどことなくきまりの悪さは残るのではないでしょうか。というのも、倫理に関する部分は、現場内部での調整で対処するしかありません。モラルの度合いには現場それぞれによってどうしても幅ができてしまうし、出演から派生したトラブルまでコントロールすることはできません。

子どもを「物扱い」するスレスレをゆく業界。子役産業には、一般社会がそう認識していること、厳しい目を向けていることが重要だと思います。

「子どもユーチューバー」という最先端の問題を考える

以上のように、映画やテレビというメディアを前提に形成されてきた子役の世界。それが21世紀に入り、新たなメディア・インターネットが出現したことによって、いま新たな局面をむかえています。

新しいといっても、子どもにネット動画出演を求める企業があり、仲介するプロダクションが生まれ、自分の子にユーチューバーをやらせる親がいる――構図としては、従来の子役のそれと同様です。

ただ、子役の活動の場がネットに移ったことで、従来とは異なるネットならではの新たな現象がみられるようになりました。そこにもってきて、月日の浅いネットでは「子どもユーチューバー」の「その後」はまだ到来していないのですが、いずれその時がくることはすでに確定しています。ユーチューバーという子役の新形態は最先端の問題であり、だからこそいますぐ論じるべきだと思うのです。

リンク:【提言】子どもYouTuberのその後を懸念する(「YouTuberの行く末~問題とその後を解説」より)。本稿に先んじて同問題を論じましたので、こちらも併せてご一読ください。

ユーチューバーの相関図―YouTubeチャンネルはプロの「事業」である

YouTubeがどうやって運営されているのか、その仕組みは以前YouTuberの歴史と問題を論じた際に解説したのですが、ではそのYouTubeというプラットフォームにおいてユーチューバーはどんな立ち位置にあるのでしょうか。今回はこちらも図解してみました。

このように相関関係を見てみると、ユーチューバーが得る収益の出どころは、ざっくり分けて二通りあることが分かります。ひとつは、自分の動画に広告を載せることでYouTube社から支払われる対価、もうひとつは、パートナーシップを結んでいっしょに働いた企業から支払われる対価です。

さらに、「ユーチューバー」が職業として成立するようになってからは、世界中に次々と「プロダクション」が生まれました。売り込みや交渉、その他雑多な事務仕事は、動画の主人公本人の手にはあまります。そもそもその段階に行きつく前に、YouTubeという特殊な投稿サイトにおいて注目を集め、フォロワーを獲得するには、それ専門のプロの力が不可欠となりました。大規模化、複雑化したユーチューバーという職業を支えるには、「仲介業者」の力がなくてはならなくなったのです。

こうした相関関係から見えてくるのは、ユーチューバーというのはプロのビジネスパーソンらが行う「事業」であるということです。「ユーチューバーの仕事は動画の投稿だ」といいますが、私たち視聴者が見ている動画は、実際には表面の薄皮一枚にすぎません。成熟した大人ですらビジネススキルやIT業界に熟達しなければできない、難しい世界なのです。

できる・できたような気になってしまう―インターネットに幻惑される現代人

最近のYouTubeには、小さな子が楽しそうにおもちゃの箱を開けたり、ゲームで遊んだり、画面のこちら側に向かって歌ったり踊ったり何か言ったりするチャンネルがよくありますね。「誰それチャンネル」というように子どもの名前やニックネームがチャンネル名になっていたり、その子がカタッと撮影ボタンを押してカメラの前へてくてく歩く場面から始まる動画なども見かけます。

世の人は、そんな子どもユーチューバーを「がんばってる」「活躍している」などとほめてみたり、あるいはさすがに全面的ではなくても動画で言ったりやったりすることは自分で考えているとか、スマホで動画を撮ってアップするくらいは子ども本人がしているような印象を抱いたりしがちです。

しかしここまで読めばもうお分かりだと思いますが、YouTubeチャンネルをやっている子どもというのはあくまで子役のネット版であって、「子ども本人がユーチューバーをやる」なんていうことはあり得ないのが現実です。第一、Googleアカウントは13歳にならないと開けないじゃないですか。子ども自身がやっているかのように見えるのは「演出」であり、動画をおもしろくするためのファンタジーにすぎないのです。

ネット上のことだと、実際には難易度の高いことであっても、なんだかできるような気がしてしまうんですよね。たとえば、もし「今日からNTTドコモの宣伝部部長をやってください」と言われたら「ムリにきまってるじゃないですか!」と首をブンブン振る人でも、人気インスタグラマーだったらなれるような気がして「インスタ映え」にのめり込んでみたりとか。

「できたような気になってしまう」傾向は、一般のSNSユーザーにも顕著だと思います。Twitter等では、たとえば『スターウォーズ』の展開にブーブーギャーギャー文句を爆発させる人などを見たことがあるかと思いますが、そんな意見未満の大騒ぎをツイートしただけで「自分の意見を言えた」と、本人が思い込んでしまっている。もし「学術誌に載せる論文を書いてください」と言われたら「できっこない」とうつむいて顔をそむける人でも、ネット上だとそれができたような気になってしまうのです。

世界を見渡せば、こうした「ネットの幻惑」は児童にも及んでいて、むしろ知識や社会経験が未熟な子どもこそ「自信家」になってしまう傾向があると思います。もちろんみながみなではなく、ネットは怖いと慎重な姿勢をとっている小中学生はたくさんいるんですけど、他方では、ちょっとツイートしただけで自分は世に物申したと信じ込んでしまったり、社会やビジネスの仕組みを分かっている者から見れば大人の事業のパーツとして吸収されて表に出る部分をちょちょっとやっているだけなのに、あたかも自分が主導したかのように誤認してしまう、そういう児童が確率的に出現している。

このような「ネットの幻惑」は、IT業界の仕組みがまだ十分に知れ渡っていないこと、そして根源的には、「誰でも投稿できる」インターネットの特性に由来すると私は見ています。

それは「気がしている」だけで、実際にできる・できたわけではないのだということを、冷静になって確認すべきだと思います。

「不登校ユーチューバーゆたぼん」を憂う理由

先ほど私は、テレビCMで子役が好意的に映されている分には社会通念上許容範囲だろうと言いました。それでもきまりの悪さが残る、構造的に怖い業界だとも言いました。

それが、好意的でない、特殊なYouTubeチャンネルだったらどうでしょう。

先日、不登校で「学校に行かなくていい」と激しい口調で主張する小学生のユーチューバー「ゆたぼん」(現在は「少年革命家ゆたぼん」としている)がメディアに取り上げられ、話題となりました。私は普段YouTubeはまったく見ていないのですが、そんな私の耳にも届いたくらいです。

最初かつ代表的な動画『【ロボットになるな!】不登校の天才YouTuber「麦わらのゆたぼん」』(2021年1月8日現在)

同チャンネルを代表する動画は、高評価3万に対して、低評価がなんと16万。エンタメ系の各ネットメディアが毎年行う「嫌いなユーチューバーランキング」にも「ゆたぼん」は必ずのようにランクインし、トップになっていることもめずらしくありません。

児童が、大衆の「嫌われ者」として注目を集めているのです。

「ヒール」を演じたプロレスラー・木村花さんの自殺を想う

芸能人にはもとより、演出として「嫌われ者」となってブーイングをあび、そうやって話題をふりまいて世の人を楽しませるタイプの人がいます。とくにプロレスでは、観客承知の演出として「ヒール=悪役」が用意されているんですよね。

ここで何か、衝撃的な事件を思い出さないでしょうか。そう、フジテレビのリアリティ番組「テラスハウス」に出演していたプロレスラー・木村花さんがSNSでの誹謗中傷を苦に自殺した、あの事件です。木村さんは、プロレスラーとして番組制作側の意図をくみ取り、無理を押して「ヒール」を演じたともいわれています。その結果、木村さんはSNSで誹謗中傷の的となり、痛ましい自傷行為の末、ついに自ら命を絶ちました。

大人のプロですら、「ヒール」を演じるのには精神に大きな負担がかかるのです。

開かれた「パンドラの箱」

そんな「ヒール」を子ども/子役がやった。私が知る限りでは、前代未聞です。

従来の映画やテレビと異なり、子ども/子役サイドがチャンネルを保有して活動することを可能にした新技術・インターネット。私は「パンドラの箱が開かれてしまった」と憂いています。

楽しそうにおもちゃで遊ぶ、おいしそうにハンバーガーをほおばる、子役が出演したそんなCMに問題がないのは、内容的に誰が見ても好感が持て、社会通念上問題がないからでした。元有名子役ジェイク・ロイドは人生に困難をきたしたとはいえ、演じたアナキンの役柄自体は純粋で親切な少年です。映画制作者は、彼の将来に影を落とすようなことをやらせたわけではありません。もとよりきわどい子役関連産業は、その一線は守ることで社会に認められてきたといえるでしょう。

それがついに、子どもが「ヒール」として世に出る結果となった。大衆の嫌われ者となり、叩かれることを生業とした。これが社会通念上相当な範囲といえるでしょうか。

そこにもってきて、ネットには「投稿されたものは半永久的に消せない」という特性があります。ネットが普及して以来、自分の画像や発言、自分に向けられた誹謗中傷などを消せないことを苦に命を絶つ人は後を絶ちません。「人間の苦しみはいまや『生老病死インターネット』だ」とまでいわれます。

「ゆたぼんチャンネル」での彼の言動は、たとえ将来十分な自由意思をもつに至った彼自身が「忘れられる」ことを望んだとしても、そのために困ったことになったとしても、消すことはできません。

「情報」の氾濫と大衆社会

インターネットによって、世界中にありとあらゆる種類の情報が氾濫するようになりました。粗悪な情報やデマなどが急激に増えたことは、もはや指摘するまでもないでしょう。

情報がどれにあたるのかは、受ける側が判断しなければならない。

質の悪い情報が氾濫したことは、言論に深い影を落としています。

上の図は情報の種類や質のだいたいの分類ですが、これとは別に重大なファクターがあります。「責任」です。本来言論にはあり得ないため非常に問題視される「責任の所在が不明な情報」が、とどまることを知らず増え続けているのです。

事の始まりは、20世紀にはじまる大量消費社会。我々が日々摂取している情報のほとんどは「広告」だ、と言っても過言ではありません。テレビCM、パンフレット、広告、ステルスマーケティング……いずれも、それを作ったのは一体どこの誰なのか、「文責」は不明です。何気なく続いているようで、ちょっと考えれば恐ろしい現代社会。顔も名前も分からない誰かが宣伝のために言ったことが、人々の精神や価値観に強大な支配力を振るうようになって、もう久しくなります。

そこにもってきてインターネット、とりわけSNSが輪をかけます。もはや「無責任な言論」は日常にとけこむに至り、現代人は言論に伴う責任を忘れてしまったかのようです(責任がなくなったわけではないのですが。自分の投稿に責任が伴うことを認識せずにネットでバッシングなどをして、逮捕されてはじめて我に返る人が大量に生まれています)。

映画では、監督は誰それ、脚本は何々さん、衣装や照明、プロモーションの担当者まで、関わった人は全員、フルネームでスタッフロールに載っています。それがユーチューバーでは「スタッフロール」がないのが普通――つまり、動画で言ったことを実際誰が考えたのか、責任が誰にあるのかが分からない、恐ろしい状況が普通になってしまっているのです。

十分な質の言論も、粗悪な言やデマでさえ「情報」として一緒くたになっている現状。人々がウィキペディア並みの情報を信じてしまったり、責任の所在が不明な情報が飛び交ったりすることが、社会の風景の一部と化している。それが問題であることは言うまでもありません。

情報の質を見極める力は、かつてなく重要になっています。

不登校に悩んでいる方へ

不登校で苦しんでいる児童・生徒や保護者の方が、「少年革命家ゆたぼんチャンネル」に元気づけられたとか、支持している、ということもあるそうですね。

ただ私には、こういう方にこそ指摘したいことがある。

それは、この水準の、言論未満の言論を以て「不登校を論じている」ことにしてしまっていいのか、ということです。

同チャンネルは、「学校に行かなくていい」と主張しているという触れ込みですが、私が実際に動画を見てみたところ、論としては中身がほとんどなく、ただスローガンを連呼するような内容でした。内容的には、大衆向けのエンタメですよね。

もし不登校の児童・生徒や関係者の方が「ゆたぼんチャンネル」をよりどころにして「なにも学校に行かなくてもいい」と主張するなら、不登校というのは「子どもユーチューバー」「新形態の子役」程度の軽い話だ、ということになってしまう。自分ではそんなつもりでなくても、行動でそう表してしまう結果になるのです。

不登校は、スローガンを激しい口調で連呼するのではなく、根拠を示し、論を整え、誠実に語られるべきテーマだと思います。参考までなのですが、じつは筆者も「不登校のままでいい」という話を書いたことがあるので参考にしてみてください。

リンク:苦しいなら不登校のままでいい7つの理由(新しいタブで開きます)

こんなふうに紹介してしまうとまるで私が自画自賛しているみたいになってしまうんですけど、そういう意味ではなく、私が言いたいのは「不登校について論じる」ならこれくらいの中身はあって当然、本来はこのくらいの水準で「普通」だということです。

私はなにも、「ゆたぼんチャンネル」の動画を見てはならないなどと言っているのではありません。ただ、あれはあくまで毎シーズンのテレビドラマと同じく現れては消えゆく大衆娯楽、しかも上記の通り倫理上問題のある大衆娯楽だということを認識して、それ相応の付き合い方をしなければ、とどのつまりは不登校で悩んでいる方自身が危うい。悩める心のよりどころとしては、もろすぎるのです。不登校で苦しんでいる児童・生徒、保護者の方には、大衆娯楽の有名人について行くことで安心感を得るのではなく、ご自身で胸を張っていてほしいと思っています。

ネット大衆社会であいまいになる、言論とエンタメの境界

「ゆたぼんチャンネル」に疑問や不快感を抱く人でも、「不登校について意見を言っているから一蹴できない」と、すわりの悪さを感じることがあると聞いています。ユーチューバーを扱うネットメディアが「確かにいじめなど深刻な問題で学校へ行けない人もいるので、ゆたぼんさんの意見が丸々間違いとは言い切れないのがまた厄介にしているようです」と書いていたりもします。

動画『不登校は不幸じゃない!』にも14万の低評価が付けられている(2021年1月8日現在)。

そのすわりの悪さはどこからくるのか。それには、現代社会をひもとくキーワード「大衆性」が深く関わっているといえるでしょう。

同チャンネルの動画を見れば、芯の部分はバリバリの大衆向けエンタメに違いありませんが、表面的には「不登校について発言している」という「言論」の形をとっているんですよね。

インターネット以前には、言論を行う者というのは、新聞記者、評論家、小説家など、みなプロの言論者でした。だから言論はみなプロ相応の水準に達していたし、またそうでない情報は世に出ることがなかったのです。この意味で、言論とエンタメは、別個の世界に等しかった。

それがラジオ、続いてテレビの出現で大衆社会が形成され、さらにネットによって誰でも情報を発信できるようになったことで、「言論をよそおうエンタメ」は加速度的に増えています。ものとしては大衆向けのエンタメだけど、ちょっと知的な情報提供のようにふるまっている、そんなYouTubeチャンネルなどを見たことはないでしょうか。エンタメ界からそういうものが出てきたことで、以前は別個の世界に等しかった言論とエンタメの境界はあいまいになってきており、何より現代の人々に混乱が生じているのです。大衆エンタメをたいそうなもののように扱ってしまったり、逆に、専門的な言論をそうとは知らずに手に取って、俗流化した読み方で当たって誤解したり……。

こうした混乱状態から脱け出すためには、情報を受ける一般人の側に、その質を見極める力がかつてなく必要になっています。人々が混乱したままでいるなら民衆が自滅するパターンに陥る危険性が高まるので、そうした自立と自律は必ず身に付けなければなりません。

未知の問題に直面した、そのときの倫理原則

インターネットが一般に普及して20年ほどになります。この間には「SNS」という新たな投稿型サイト運営産業が生まれ、世界中の一般人が無数の投稿を世に発するようになった結果、「情報」の絶対量は人類史上かつてない域まで跳ね上がりました。

ただ、人々がその情報過多への対処法を編み出せているかといえば、そうでないと言わざるを得ません。ネット以前にはあり得なかった誹謗中傷の嵐デマ・フェイクニュースに振り回された末の混乱。ふくれ上がるヘイトスピーチ。情報社会という新たな社会に、人々がまだついていけていないのです。

インターネットという社会インフラからは、これまでになかった問題が発生しています。悪意の矢が未成年者に及ぶ、自分の意思をもたない幼年期の自分の画像や言動を生涯背負うことになる、というのもそのうちです。

最前線の問題です。その後どうなるのかは、現時点では未知数です。

では、未知の問題に突き当たったとき、人はどのような行動を選ぶべきでしょうか。

このような場合は、少なくとも、取り返しがつかなくなりかねないことは避けておくのが知恵であり、倫理上のガイドラインです。バイオテクノロジーにせよ何にせよ、その後どうなるかがまだわからない新しい分野では、危ないかもしれないことはやめておく。それが基本です。

ネットで活動する児童には、児童の将来にとってリスクとなるようなことはさせないべきです。「パンドラの箱」は開かれましたが、もうしかたないとあきらめて放置するのと、いまからでもふたを閉じて縛るのでは、雲泥の差があります。

子役と双璧をなす”お受験”産業の暗部

有名小学校・中学校に受かってちやほやされた子が、その後精神崩壊して、悲惨な人生を送っている――そんな話は、誰しも一つや二つは耳にしたことがあると思います。

低年齢受験産業は、芸能界と比べるとプライドは高いですが、その構造には子役にはない怖さが組み込まれています。すべて産業は、世からの需要に応えることで成り立ちます。子役のほうは、世の需要自体は「映画のストーリー上、演じてくれる子が必要になった」「子ども服のチラシを作りたい」などとクリーンで、やましさは全然ないものでした。しかし、”お受験”ビジネスはどんな需要に応えているのかといえば、ズバリ「親の欲望」なのです。

私は大学時代に児童虐待を研究テーマにしていたのですが、子どもを親が望む通りにしようとする”お受験”は虐待の温床ともなってきました。小学校や中学の受験は、いじめや学級崩壊、虐待や引きこもり、就職失敗などの「背景」としてはしばしば言及されるのですが、私は低年齢受験産業それ自体に焦点を合わせ、問題として取り上げ世に訴える必要があると、前々から考えてきました。

幼稚園・小学校・中学受験産業の相関図―親を客にするサービス業の力関係

幼年期および中学受験産業は、「子どもに歌ったり踊ったりさせて、ちやほやして金をもうける」という大枠は子役(や、その新形態ユーチューバー)と共通ですが、もっと細かい点にいくつか特徴的な部分があります。

子役のプロダクションは「仲介業」でしたが、低年齢受験産業の「客」はズバリ「親」です。親と直接取引して、金を取る。だからこの産業では、必然的に「親」が特別な立場に立つことになります。

構図としてはシンプルですが、虫めがねを部分部分にかざしていくと、産業自体が内包する構造的な怖さがどんどん明らかになっていきます。

力関係をみていきましょう。

塾や家庭教師などの業者は、「お子さんを有名中学に入れたい? そのためのサービスなら我々が提供できますよ」とせまる限りでは、親より断然優位に立っています。親にできるのはせいぜい塾への送り迎えや「宿題をやりなさい!」としかることくらいで、親自身は「子どもに受験勉強をさせる、受からせる」力を持っておらず、業者なしには自分の希望を叶えられないからです。

業者側が強く出られる場面は他にもあります。業者の義務は、授業を行うところまで。仮に望んだ学校に合格できなくても、それは子どもが受からなかったのだからしかたないのであって、塾に責任はありません。もちろん子どもが受かればそれに越したことはなく、受からせようとやっきになるところに暴力性が構造化されているのですが、他方では、合格発表に日に受験番号があろうがなかろうが金はすでにとった後であり、取引は終了しているのです。

このように、一見圧倒的強者であるスーツの「先生」ですが、幕の裏には、弱々しい事情を隠しています。もし親に「やめます」と言われたら、収益が途絶えてしまうのです。

”お受験”産業の生命線は、親の心。なので低年齢受験ビジネスにとっては、客である親を自分の手元に置き続けなければならない、その心をしっかりつないでおかなければならない、という都合が最重要となります。親の考えを誘導したり、精神的に依存させたりすることが最初から構造化された業界だといえます。

……子どもが大人たちの「対象物」のようになっていることは言うまでもありません。

親の理想、親の欲望、そして不安商法

低年齢受験業者は、親の願望に応えることで成り立っているビジネスです。では、その親の願望とはどのようなものなのでしょうか。

子どもに自分自身を重ね合わせ、同化し、子どもに自分の理想を体現させることで、まるで自分が成功したかのような疑似体験を得ようとする――”お受験”に夢中になる親は、「理想押しつけ」の傾向が顕著です。「子どもの幸せのため」という大義名分が非常に強い世界ですし、だからこそ、人間が「自分は絶対に正しい」と信じた際の暴走も起こりやすいといえるでしょう。

古くは「教育ママとは夫に失望した者である」などという格言がありました。結婚生活に失望した主婦の母親が、子どもの受験を「やりがいのある仕事」「生きがい」にしてしまうのです。ほか、親が子どもは親に従うものだという前近代的な感覚の持ち主で、子どもを特定の学校に「入れる」と決定した、というケースもあるようです。

近年だと、大人が日本社会に絶望する年頃と、赤ちゃんが生まれてくるタイミングがちょうど重なることが、親の欲望に拍車をかけているようです。絶望に打ち沈んだ大人も、かつては純真無垢な子どもでした。生まれ落ちた世界が、まさか雇用が焦土と化した頽廃した社会だとは思わなかった。就職で壁にぶつかり、やっと見つけた仕事も、不安定だったり、賃金が低かったり、はっきり言ってブラック企業だったりする。母親の場合は、結婚や出産にあたって結局自分が退職するはめになったりする。歳を重ねるごとに将来への希望をもてなくなっていき、ついにはすべて散る。こんなはずじゃなかった。何かもっとこう、人間らしい人生が待っていると思っていたのに、すべては見果てぬ夢にすぎなかった――。このタイミングで、無邪気に笑っている純真無垢なエンジェルを腕に抱くと、「この子は成功できるように」「あの時あの学校に入っていればこんな人生にはならなかった」などと心が暴走して、しだいに子どもとの境界線がとけていくのです。

そこに輪をかけるのが、先ほど指摘した受験ビジネスの都合です。まずは親を取り込み、取り込んだら最後逃がしたくはありません。子が塾の「公開テスト」に参加したある親によれば、塾の者に結果シートを見せられ「お宅のお子さんなら○○中にも入れるかもしれません」などとおだてられ、すっかりその気になってしまったとか。その一方、「今の世の中では小学生のいまからやっておかなければ子どもが将来大変なことになる」という脅しも再三聞かされたといいます。不安感をあおってモノを買わせ、依存させる、典型的な不安商法ですね。塾の月謝はあっと驚くほど高く、小6では10万をゆうに超えるといいますが、そのころには「これを払わなかったがためにこの子が将来……」とか、「ここまでやってきたんだから今更……」と、やめるにやめられない心理と状況に追い込まれているのです。

ここでさらに、「場外乱闘」が発生します。親たちの間に生じる、熾烈な競争です。「どんどん親同士の競争になっていって、最後はいやな感じだった」とふり返らない元”お受験”親はいません。

こうして、子どもは大人たちの「道具」となっていくのです。

親の理想と欲望、受験業界の金もうけの都合、そして親の競争心。まだ10歳にもなるかどうかの子どもが、こんなギトギトしただまし合いの世界に置かれたら、情緒に悪影響が出るのは自明の理です。

アメとムチと子どもだましで必死の誘導工作

ではいよいよ、ここまでの話ではすっかり「透明人間」だった子どもの登場です。

常識で考えれば当たり前なのですが、生まれたばかりの幼児やまだ世の中を知らない小学生が「受験勉強をしたい」「○○学園に入りたい」などと言うことは原理的にあり得ません。「子どもの受験は親の受験」という格言が示す通りです。

その帰結として、”お受験”産業には、子どもに「やりたくないことを無理にやらせる」ことが最初から核たるパーツとして組み込まれています。義務のないことを人に強いるのは強要罪という犯罪ですが、低年齢受験産業は「強要」なしにはそもそも存在できない業界なのです。

力や権威による「強要」だけではありません。親も、業者も、子どもの言を誘導することに全力を投じます。嘘をつくことが「仕事」だといっても過言ではありません。まだ何も知らない無垢な子どもが、慢性的に嘘でぬり固められた世界に置かれることになるのです。

人に物事を強いること。嘘をつくこと。低年齢受験は、構造からしてスレスレの、怖い業界だということが見えてきます。

塾のアメとムチと子どもだまし

テレビで、中学受験塾の「子どもをやる気にさせる授業の研修」というのを見たことがあります。スーツの若い男性が模擬教壇に立ち、「みんなっ、分数って知ってる?」とハイテンションで楽しそうに、芝居がかって説明をする一挙一動を、会社の上司たちが厳しい目つきで見つめている。――異様な光景でした。

塾などの「先生」(教育者ではなく、塾の従業員、ビジネスパーソンである)は、教室中に勉強したい子などいるわけがないのに、どうにかして鉛筆を持たせ、問題を解かせなければなりません。そのために、傍から見れば不気味な「社員研修」まで行っているのです。

このハイテンションは小学生を少しでも楽しくさせる「アメ」ですが、最初から無理のある構造的に怖い業界は、当然のごとく「ムチ」も用意しています。たとえば小学生が通う受験塾、さらには幼児の教室で、座席が成績順にされているということをご存じでしょうか? 21世紀にもなってまだそんな古くさいことをやっているのか、と驚く読者もいるでしょうが、これは本当の話で、業界全体で広く採用されています。「先生」はいつもいつもたらかすだけではやっていけないので、当然のごとく強権的な顔をたびたびのぞかせます。

最近では、業者の顧客獲得戦略が「子ども本人にやりたいと言わせる」方向にシフトしてきた様子もみられます。人権意識が高まり、子どもの意思を尊重しない姿勢には、さすがに社会からの視線が厳しくなったのもあってでしょう。つまり、プロパガンダ戦略です。CMで子役を雇って笑顔で目をキラキラさせる演技をさせたり、広告で小学生をターゲットに「がんばってる子」あるいは「世の中は厳しいから将来が不安」といったイメージを打ち出したり。小学生本人に「やりたい」と言わせることができれば、親は「だめ」とはまず言えません。親をつなぎとめる効果もあり、塾にとっては一石二鳥です。

広告戦略以外の誘導もあの手この手です。「説得」を試みたり、受験先の学校をすばらしいところのように語ってみせたり。子が親の願望を「忖度」すれば、塾にとってはこっちのものです。

ああ言ったりこう言ったりして子どもを混乱させ、受験というるつぼへ誘導していく受験産業。一体どんな世界だ、と言いたくなりますが、誘導工作は子どもが家に帰っても続きます。

親のアメとムチと子どもだまし

大人にとって都合のいい子をちやほやするのは大人の悪習ですが、この業界ではそれがもろに表れます。従順な子に「いい子」、少しでも独立心や反発をみせた子に「悪い子/だめな子/できない子」のレッテルを貼ることで、精神的に支配する。「アメ」といえば、「がんばってる」「すごいわ」「えらいわねぇ」などのほめ言葉。こうした「条件付きの愛情」で子どもに送られる暗黙のメッセージは、「あなたに価値があるかどうかは親が決める」です。

子どもがやりたくないことをやらせるのですから、当然のごとく「ムチ」の出番もあります。単純明快、親が「勉強しなさい!」と言ってひっぱたいたり、頭を机に押さえつけたり、つねったり、殴ったりけったり。子どもが思い通りにならないと、怒りだしてガンガン説教(?)したり。”お受験”は、児童虐待の温床となってきました。

こういう怖い業界に連れてこられた子どもがたびたび口にする言葉といったら、なんといっても「なんで勉強しなきゃいけないの?」ですよね。ここで親が答える内容は、大人からみれば陳腐な子どもだましもいいところ。完全なデマすら普通です。

  • 「今勉強しておけば、将来幸せになれる」→幸せかどうかを決める要因はさまざまなので、特定の学校に入れば幸せになれるという因果関係はない。その学校へ行かなくても幸せな人はたくさんいるし、そこへ行っても不幸になる要因がほかにあれば不幸になる。しかも、「勉強」という言葉の意味内容が「(受験産業という特殊な世界で行われる)中学受験勉強」にすり替えられている。
  • 「あなたのためを思ってやらせてあげてるのよ」→実際には、親の願望を満たすためである。
  • 「受験が終わったら、自由に好きなだけ遊んでいいよ」→事実は、中学に入ればすぐ、文部科学省所定のカリキュラムが始まる。授業は6時間目まであり、宿題もあり、部活などもあり、その上勉強は小学校より難しくなる。自由に好きなだけ遊べるはずがない。
  • 「○○大付属中に入ってしまえば、もう二度と勉強しなくてよくなるよ」→事実は、付属校を含めどんな中学も文部科学省所定のカリキュラムをこなさなければならず、しかも勉強はどんどん難しくなっていく。
  • 「いい学校に入れば、いじめをする子や不良がいない」→事実は、どんな学校でもいじめは起こる。いじめをする原因は偏差値ではないからである。一例だが、東京学芸大附属高校の生徒が「セミの幼虫をなめさせる」などのおそろしいいじめをして書類送検される事件があった。
  • 「今勉強するのは、将来親になった時、子どもに勉強を教えるためなのよ。そんなことじゃ、子どもに教えられないよ!」(ニュースで取材を受けていた母親が、塾の宿題を渋る高学年の子をしかって言った言葉)→つっこみどころ満載、すべて間違っている。デマもいいところである。

あ然としますよね。こうした親は、嘘をつきすぎて、もうどれが現実でどれが嘘だったか分からなくなってしまったのかもしれません。

では、大人からみればとんでもない嘘を浴び続けている子どもはどう思い、何を考えているのでしょうか。

生じるトラブルは以下で述べますが、一般論としては、”お受験”経験者は現実に興味のない人になりやすいといわれます。親を信じて「受験終わったら好きなだけ遊んでいいんだよね」などと口にしていたいたいけな子も、中一の四月には、それは嘘だったと現実にぶつかります。有名中学に受かってまわりじゅうからちやほやされ、ほくほくしていた小学6年生も、ほんの少し大きくなれば、自分は”お受験”という狭くて特殊な世界での勝者にすぎなかったのだと気づきます。幼い子は自然に大人を、特に親を信じているので、「裏切り」の衝撃は絶大です。もう何もかもやってられず、現実にいいと思えるものはなく、マンガなど大衆娯楽の架空世界に耽溺していくとしても、それは人間として自然な反応なのです。

その時から始まる悪影響―いじめや学級崩壊の背景

中学受験は、いじめや学級崩壊の背景としてよく言及されてきました。

塾通いする児童は、ストレスをためており、夜遅くまで塾に行っていることで体も疲れています。やらせているのは親なので、その年齢では反抗できない子も多く、不満が内心に抑圧されている。それを学校で爆発させてしまうと、教育現場から指摘されて久しくなります。そういう子がクラスにいた、という記憶がある読者もいるのではないでしょうか。

体の疲れや心理的抑圧だけではありません。児童は、暴力性がビルト・インされた世界に身を置いています。それがいじめの手本となり、心理的抑圧の爆発とあいまって、いじめなどを始めてしまうのです。私も、塾での席次がいじめの原因になったとか、「学校で第一ラウンド、放課後は塾で第二ラウンドが始まる」などというおそろしい体験談を読んだことがあります。このことに関しては、受験というより、いじめの体験談を当たったほうが事例を探しやすいかと思います。

人に物事を強要する。人にランク付けをする。怒鳴りつける。嘘をつく。大人が普通にやっていることなら、子どもは「やっていいんだ」「世の中はこういうものなんだ」と思ってしまうのです。

「この、ハゲーーーッ!」パワハラ議員の生い立ち

「この、ハゲーーーーーッ!」――一度聞いたら忘れられない、絶叫パワハラ証拠音声。自民党の豊田真由子衆院議員(当時)は、秘書だった男性に暴言・暴行を続けて精神不安定に追い込み、傷害と暴行の容疑で書類送検されました。

奇怪な事件が起これば、加害者の生い立ちに関心が集まるものです。政治家ならなおさらです。事件後、豊田元議員がああなってしまった原因はその過去にあるのではと、メディア等では彼女の生い立ちが注目されました。豊田元議員の出身は、桜蔭中学校。この私立校は中学でしか生徒を採らないので、彼女は小学生のころから”お受験”の世界に置かれていたことが分かります。児童期を、大人に「やらされる」、上から支配される環境で過ごした豊田元議員。東大、官僚を経て”安倍チルドレン”の政治家となった彼女には、世を騒然とさせたパワハラとは裏腹に、目上にはとても腰が低いという談もあります。

こうしてみると、豊田元議員は”お受験”の構図を別の場所、別の形で再現し続けているかのようです。誰かに作られた競争の枠組みは絶対で、そこで戦い、上か、下か、順位を付けられるのが当たり前。密室の中で、支配するか、されるか。40歳を過ぎてもその世界観から脱却せず、そういう発想で固まった頭が、秘書に対する苛烈なパワハラにつながったのかもしれません。

崩壊する元”お受験”生―低年齢のうつ病、不登校、引きこもり、就職失敗など

有名子役同様、受験の世界に置かれた元幼児・元小学生がその後精神に異常をきたしたり、自己や情緒がうまく発達しなかったために大人になってから人生でつまづくケースは後を絶ちません。過去何十年、受験合格した子がスターのようにちやほやされた陰で、多くの元子どもが破壊後の悲惨な人生を送ってきました。

就職の場面では「自分のやりたいこと」を問われます。一般社会で育った人なら自然にできることですね。しかし、年齢一ケタのころから偏差値という外部の基準で自分を測られ、行き先を振り分けられていた元”お受験”生にとっては、これが生まれて初めて自分の進む先を自分で選ぶ場面となるのです。その時に、「自己」が育っていない。「自分のやりたいこと」とはどういう意味かが分からない。対処できない。こうして”就活”で初めてつまづき、内定を得られないまま大学卒業、何も持たない自分になって、家で茫然……。「元”お受験”生が就活でつまづいた」という話は新聞等メディアで取り上げられることも多くなったので、聞き覚えがあるかと思います。

就職で失敗しただけなら、まだましなほうかもしれません。人生そのものが台無しになってしまうケースも多々あります。引きこもりに関する貴重な研究書『ひきこもりの国 なぜ日本は「失われた世代」を生んだのか』で取材を受けている男性は、引きこもった大元の原因は、親が彼を慶応大付属校へ「入れる」ため、小学校低学年から受験塾に押し込んだことでした。彼は中学年にして精神に異常をきたし、不登校になったといいます。

子どもを成功させるために受験の世界へ入れると、子どもは成功から遠のいていく。受験産業の皮肉です。

人は誰しも、何も知らない赤ちゃんとして生まれてきます。嘘が空気のように当たり前な世界に置かれても、子どもにはそれが嘘だと分かりません。しかも「あなたのためにやっている」の呪縛は強く、なかには「あれは愛情の証だった」というむなしい希望をなかなか捨てきれずにもがく人もいます。

子どもの深層心理に生じ、人生でさまざまな困難を引き起こすのは、途方もない「混乱」なのです。

それでも責任はないのか―構造的に子どもを物扱いする産業の倫理

以上のように、強要すること、だますことが最初から組み込まれており、あまたの元”お受験”生が崩壊していく低年齢受験の世界。

しかし、怖い業界の真骨頂はここからです。業者と親とのパワーバランスをみていけば、その布陣は舌を巻くほど周到で、問題が起ころうとも業者の側は「ウチには責任がない」と言い張れるよう最初からできているのです。

中学受験がいじめや学級崩壊の原因、時にいじめの舞台となることもありますが、児童の人間関係は塾側の義務の範囲を越えています。なので塾の側は、それは児童が勝手にやっていることであって、ウチにとってはむしろ災難なくらいで、学校の先生にはしっかり対処してもらいたいものですね、と言い張れる。

親子関係の不健全化や、家族関係の亀裂・崩壊もそうです。問題があるのはその家族なんだからウチは関係ない、と言い張れる。

親同士の競争もまた「場外」にすぎません。「お受験殺人」が海を越えて世界を震撼させようが、それは親たちが勝手にやっていることであって、ウチは小学生に勉強を教えているだけですよ、と言い張れる。

ぎょっとするような低年齢でのうつ病や、対人関係への支障、元小学生が引きこもりになったなども同様です。塾など、好きでなければ来なくていい。しかも受験が終わってしまえば、親との商取引はそこで終了。あとは赤の他人です。塾に来ていた子がその後精神崩壊しようが、大学生になってつまづき就職できなかろうが、ウチには関係ありません、と言い張れる。

さらに塾の教室は、公正な第三者の監視の目がない密室です。幼児・児童が人権侵犯され傷ついたとして、塾を訴えようにも、”お受験”生の保護者というのは、塾に入れた親その人。子どもには味方がおらず、事実上「保護」がない。

怖い業界のビジネスのプロの布陣は驚異的です。そして、このようなプロに対する親は、ただの一般人。どちらかといえば社会的センスにうといような人が多く見受けられ、「教育」を名乗っているだけで最初から安心してかかったりする。とてもではないけれど対等には渡り合えない。客たる親のほうが、最初から圧倒的に不利な立場なんですよね。

元子どもがどうなろうとも「ウチに責任はない」と言い張れる、スキのない布陣。それでも、守るべきモラルはあります。「子どもにやらせる」ことなしには成り立たない、もとよりスレスレの産業ならなおさらです。社会的相当性を欠いたなら、児童からの搾取という、人類最悪の闇稼業へと足を踏み入れることになるからです。

何人も、子どもに人権侵害行為をしてはなりません。これは最低ラインです。

法令順守は、いかなる産業においても当然の義務です。

さらに、倫理が加わります。親や現場関係者は、子どもの発達を阻害しないよう、年齢に応じた心理的配慮をすべきです。また、幼児・児童をランク付けする成績順の座席、人間に物事を強要する、きつい口調でせまる、事実と異なる情報を与える、欺いて言動を誘導する、競争心や憎しみをあおるなど、「教育に悪いこと」を大人が平気でするようでは、子どもに示しがつきません。曲がりなりにも「先生」と認識されているならなおさらです。受験業界がいじめの手本になっている現状は、社会的相当性から逸脱しています。

スケジュール面でも、負担軽減措置を講じるべきでしょう。「帰ってくるのは夜11時」などといわれますが、一般常識に照らしてこれがブラック企業並みの過労であるのは明らかです。

産業の応える需要が「親の欲望」である以上、親には改善の余地は多々あります。親は子どもに自分を投影する前に、家族関係なら家族関係、雇用情勢なら雇用情勢、女性差別なら女性差別と、勇気をもって、まっすぐな目で、真の問題に正面から取り組んだほうがいい。成功の疑似体験はバーチャルリアリティにすぎず、したがって現実の問題が解決されるわけではありません。夢をみている間に、子どもをボロボロにしかねないのです。子どもに少しでも異変が生じたなら、たとえ大金を払った後だったとしても塾をやめ、”お受験”の世界を去る英断を下すことは、子を守る賢い選択となるでしょう。

児童は人間であり、将来的には自由意思をもって自分の人生を歩むべき子どもです。人格をないがしろにしたり、成長の妨げとなるような言動で傷を残すなら、倫理面での非難は免れません。倫理のラインを守れず児童を「消費」するならば、産業そのものを疑問視する見方が持ち上がってくるでしょう。

なお、先ほど私は「塾は訴えられない」ようなことを言いましたが、今後、元児童や保護者が精神疾患を患ったなどとして損害賠償を求める可能性がないわけではありません。こちらも注目したいところです。

芸能人が選挙に出馬したり、権威ある賞をとったりしたがるのは、時として「見世物」というように世人から見下される職業にコンプレックスがあるからだといわれています。人気者になって人々を楽しませるのはそれはそれですごいことだと思うのですが、それですらそうなのです。

それが”お受験”は……。低年齢受験産業はプライドの高い業界ですが、そのプライドは、お天道様のもとで笑顔のお客さんに野菜を売るとか、そういうまじめな職業へのあこがれが屈折した末の虚栄か、あるいは、毎晩むくれ顔の子どもが押し込められた教室に踏み入れる前に押し殺す、良心の呵責の反動なのかもしれません。

一般社会は、低年齢受験産業のかかえる構造的な非人間性、暴力性への認識を新たにするとともに、人に物事を強要する、嘘をつくなど不適切な行為に対しては「それはいけないことだ」と子どもにはっきり示すことが重要だと思います。

おわりに

「まだ何も持たない子どもに歌ったり踊ったりさせて、ちやほやして金をもうけるなんて!」――スマホを一瞥するなり、そう吐き捨てた私の知人。彼女は小3と5歳の子と毎日の生活を共にして、ありのままの子どもとふれあったゆえに、「子どもにやらせる」産業の非人間性に不快感を覚えたのだと思います。

人を「物」として扱うことは人間破壊であり、人身売買は人類最悪の犯罪です。ただ世の中には、一応違法ではないものの、子どもを利用することで成り立っている、最初から非人間性と暴力性が構造化された産業がある。本稿では、大人の都合と価値観で動く世界に置かれたことで、その後崩壊した元児童の例をみてきました。こうした悲劇を可能な限り防止するためには、法令順守は最低ライン、それに加えて倫理で対応すべきですが、それでもきまりの悪さは残ります。

子どもは生まれを選べません。そして、親に置かれた場所から自力で出ていくことはできません。

しかし人には、いつかは自分の意思で何者かになる時がやって来ます。

きちんと教育を受けているなら、自力で道を探すことができます。自分と向き合い道を見つけ、知人の言葉を借りるなら、「何かを持つ」ようになっていくのです。

また、他の人がやっているからといって、自分も人に物事を強要したり、怒鳴りつけたり、嘘をついたりしていいことにはなりません。

自分は何者となり、どう生きるのか。それを決めるのは、どんな過去をもつ人でも結局のところは、自分なのです。

たとえ幼年・児童期を構造的に非人間的な世界で過ごし、情緒の発達やその後の人生に困難をきたしたとしても、まだ人生は終わったわけではない。私は、そういう困難を抱えた人がいつかどこかでチャンスをつかみ、自分の意思で、これからでも得られる幸せを生きられることを願っています。

末尾になりますが、子どもを「所有物」のように、コントロールする「対象」のように見ることは、児童虐待への、そして人間破壊への第一歩です。子どもを一人の人間として、ありのままに受け入れる。その至上であり、かつ当たり前の尊さを以て、結びにしたいと思います。

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