提言:人権の純化精錬を~こんな言い方していませんか?

ブログ「日夏梢の自由研究」は今年で6年目になります。サイトを自分で運営するのは文章だけでは事足らないもので、昨年は技術面、Googleとの関係で大きな困難に直面しました。打ちのめされ、うなだれていた時、読者様からいただいたメッセージは、どんな言葉でも言い尽くせないほどの励みとなりました。この機会に、心の底から湧き上がってあふれんばかりの感謝御礼を申し上げたいと思います。

さて、6回目の憲法記念日、今年は人権論をテーマに選ぶことにしました。

問題意識:人権の大衆化と俗流化

私がここ数年の世相を見て気になっているのは、「人権の語られ方」です。

SNSのブーム、そして社会への定着により、一般人による人権への言及は人類史上かつてない規模にふくれ上がりました。ごく普通の人が手軽な手段で差別への抗議を示したり、自分の抱える問題を告発できるようになったりと、新しい大きな可能性が生まれています。

ただ、私がいまの時代を見ていると、「まずいな」と危機感を覚える人権の語られ方は爆発的に増加しています。多くの人が、その根本的な部分をかん違いしたままネットでどんどんしゃべってしまったり、物を言う態度が攻撃的、非民主的で人権概念からかけ離れていたりするのです。

誰もが言論を発信できるようになったことは、手放しで喜べることではありません。負の側面は確実にあります。しかもそれは、看過できない域に達している。一見「民主的」に発言できるSNSが絶大な影響力を誇るいまだからこそ、社会運動の「大衆」への広がりはリスクを伴うことも忘れてはならないと思います。

人権本来の価値を守りたい。守らなければならない。そのために私が文士としてできることは、まずこの問題意識を世に提示すること、次に何がどう問題なのかを解説すること、そしてどうあるべきなのかを提案することだと考えます。

鬼の首でも取ったかのように:バッシングの口実

もはや指摘するまでもないかもしれませんが、SNSは感情論の温床です。

最初に例からいきましょう。私が問題視している「人権の語られ方」は、こういう類の表現です。

  1. 某ミュージシャンが障害者に対して差別的な発言をしたら「許せない。謝罪しろ」
  2. 合理的でない校則がテレビで取り上げられると「ひどすぎる。今すぐ変えろ」
  3. とある同性愛カップルを取材したテレビの性的マイノリティ特集に対して「LGBTだけじゃないんだよ。LGBTQ+って言えよ」
  4. 教員による性犯罪が取り上げられると、世の教員全体が容疑者のように扱われる
  5. 特定アスリートに対するパワハラが問題になったら「スポーツ界はしょせんこういう体質だ」

「本当にこれでいいのか」と腑に落ちない思いをしたことはあなたにもあるかもしれません。荒々しい語調。粗探しをして集中攻撃を浴びせる意見。問答無用で「悪」のレッテルを貼る傾向……。

鬼の首でも取ったかのように攻撃する態度や言葉の表現は、実質的にはバッシングです。この場合、「人権」はその口実でしかありません。たとえ自分ではそんなつもりはなくても、です。

インターネットの黎明より、うっぷん晴らしのために叩く相手を探してネットを徘徊する哀しい人なら存在していました。しかし、私が言っているのはそういうネット方面の問題ではない。SNSが定着をみた近年では、もっと健全な人や、社会のことを真剣に考えている人がこういう語り方をする場面によく出くわすようになりました。もしかしたら、これを読んだあなたもドキッとしたかもしれません。

人権の価値を下げてはならない

人権概念がバッシングの口実となることを私が問題視する理由は、それが本人の失敗だけではすまないからです。

SNSで暴言を吐いたらフォロワーからブロックされてがっくり落ち込んだ、ネット上でケンカになって夜も眠れなかった――そんな話は今時そこらじゅうに転がっています。しかし、これは単なる個人的な出来事。その人のメモリーにストックされるだけにとどまります。

また、若い学生がものすごい社会活動をやったつもりになっていたら手厳しい指摘を受けて打ちのめされた、なんていうのは昔からよくある話です。厳しいことを言うようですが、若い人には、世の中の複雑さ、学問の深さにぶつかる挫折も人生経験として貴重です。

しかし、その失敗が個人の範囲におさまらず、社会に悪影響を与えてしまうとなったらどうでしょう。

形だけ人権論をよそおったバッシングの根本的な問題点は、人権の至高の価値を引き下げてしまうところにあります。

社会において人権概念がバッシングの口実程度のものとなってしまえば、困るのは、いざ本当にそれが必要になった時です。このままでは、まるでオオカミ少年のように、いざという時に「まーたネットのバッシングか」とあきれられて取り合ってもらえなかった、ということが起こりかねません。

それに、もし上記のような自称人権論を前に「差別への抗議ってのは建前で、本当は誰でもいいから叩きたいだけなんだろ?」と言った人がいたら、あなたは反論できるでしょうか? 苦しいと言わざるを得ません。投稿者本人がいくら「差別への抗議だ」と言い張ったところで、実際中身はその程度のものでしかないのだから。もし「バッシングレベルの人ばかりじゃなくて、真剣にやっている人もいる」と反論したなら、次の瞬間、同じ「人権活動」をする人々に仲間割れの泥沼が生じるのは目に見えています。

誤った人権論は、たとえ言った人に悪意はなくても社会への害が大きいのです。なので、人権の価値が下がるのを防ぐためには、そういった失敗の頭数を減らさなければなりません。

人権概念の正しい使い方

私は、文士は自律して着眼し、次に問題を提起し、そして解法を示すものだと――個人的な考えですが――思っています。それをやるためにこの道を選んだのだし、ずっとそれをやってきました。なので今回も、間違いの指摘だけではなく、どこで失敗しているのか、どうすればよかったのか、そこまで提示・提案したいと思います。

まず理論面で指摘するならば、「人権侵害行為をした人に目をつけて、鬼の首を取ったかのようにバッシングする」という思考・行動のパターンが人権の使い方として誤っています。ちょっと立ち止まって考えてみてほしいのです。「おかしなことをしてる奴を見つけて叩け」では、まるで古臭い密告型監視社会じゃないですか。人の尊厳を保障する人権概念からはほど遠いのです。

では、人権の正しい使い方とはどんなものなのでしょうか?

その答えは、第一義的には「自分の権利が侵害されたときに自分の身を守る」です。世の中には「人権=差別への取り組み」かのように扱う風潮があるように思います。が、社会問題としてのそれは実はちょっと別の話で、人権論という枠組みでは「自分の権利を自分で使う」のが原則です。たとえば、表現の自由だったら「私がこの作品を発表したからといって逮捕するのはやめてください」、財産権だったら「これは私の家なので勝手に取り壊さないでください」という形で持ち出すのです。……話のスタートラインからして違うのだと分かるでしょう。言ってしまえば、それは自分自身の人間宣言。人権論は、差別発言などをした芸能人や、教員や、テレビ番組や、コーチや、社長などから出発するものではないのです。

さらに言葉の表現について言うならば、詳しくは別途解説したのでそちらを参照いただきたいのですが、

リンク:批判意見と誹謗中傷の違いとは―レビューや感想を書くなら知っておきたいこと

「相手の人格を否定するのは例外なく誹謗中傷」は大原則です。あなたの尊厳は憲法によって保障されていますが、相手もそうなのだということを忘れてはなりません。言い換えれば、どんな相手でも最低限の礼節は守って人間として扱うこと。人権を語るなら、その至高の価値に釣り合った言葉の表現をしなければならないのです。

SNSを中心に鬼の首でも取ったかのような自称人権論を振りかざしてしまう人たちですが、私はそういう場面を見るたび、あんまり考えずに投稿しているのが実情だろうなと思っています。スマホで打った文面に問題はないだろうか? やっている活動は本当に良いことなんだろうか? ……そもそもそういう視点を持っていない。

人類史上かつてない規模で人権が語られるようになった以上、私たちは人権の価値を再確認すべきではないでしょうか。分かったようなつもりで、自分は本当に分かっているのか、と。

その「人権」に中身はあるのか:正義の味方の非民主性

インターネット、特にSNSをプラットフォームにヘイトスピーチが燃え盛っていることは、いま世界中で社会問題になっています。私がこれまでにたびたび扱ってきたテーマでもあります。

それはそうなのですが、私にはもう一点、繰り返し警鐘を鳴らしてきたことがあります。近年は、差別に抗議する側もヘイトスピーチと同じパターンで思考・行動しているということです。

世のため人のためになる活動をしているつもりで過激化する人は、昨今後を絶ちません。無自覚のうちにバッシングに足を踏み入れてしまった人々と同じく、こちらも「そんなつもりじゃなかった」タイプの誤った人権論。人権の大衆化と俗流化の先で生じた悲しい状況だと思います。

過激化の始まりは、ボランティア系の部活やサークル、企業やNPO――あるいは自分のSNSアカウントで個人的に、という人も多いでしょうが――どこかでちょっと人権への取り組みをやってみたことです。最近だと、ごく普通の大学生がSDGs関連の組織で「ファシリテイター」などといった肩書きでジェンダー平等に関するネット記事を書いたりしているのを見ますね。

こうした社会活動は、表向き「いいこと」だということになっています。だから社会やメディアが批判の矛先を向けることはないに等しいです。

ですが、その中身はといえば、人権概念からはほど遠い全体主義だったりする。そんな嘆かわしい例を、私はいくつ見てきたか分かりません。

人間にとって社会参加は自負やよろこびを感じられるものですが、そこには落とし穴もあります。ちょっと足をひたしてみた人権活動が「私の活動に反対するのは差別をする人だ」といった意識につながれば、突き進んだ果てには「自分だけが正義で、他はみな悪だ」という人類史上最も危険な思想に漂着する――「正義の味方」気取りになってしまうのです。

人の世に「正義の味方」ほど非民主的な人はいません。

これは人類によくある落とし穴です。古くは「あわれな人々を救済する」と信じて凄惨なジェノサイドを繰り返し、世界を血の海に変えた欧米列強植民地主義。「お国のために役立ちたい」と目を輝かせ、国家主義・軍国主義に落ちていった戦前の庶民たち。日本の真の民主化をと言いながら、苛烈な思想統制と”内ゲバ”殺人が横行した戦後の学生運動。あぶく銭が飛び交うバブルの狂気に対して高潔な人類救済活動を指し示し、国を変えるとしてテロに走ったオウム真理教。私は近年でも、若者の気候変動ムーブメントをこうした一つに列しています。

一方的な「正義の味方」は、破壊者でしかありません。

本当に人権活動をしたい、国・社会を良くしたいならば、その「やり方」「プロセス」が民主的でなければならないのです。

本人ルンルン、本当は使い捨てのハッシュタグムーブメント

私が近年つくづく苦いと思っているのが、SNS上でハッシュタグによって行われた人権ムーブメントです。……具体的にどれだと言う気はありません。

「この女性がTwitterに投稿したことが自治体を動かし、世界に広まりました」……などといったハッピーエンドの物語が、SNS全盛のいまの時代には定期的に流れてきます。ハッシュタグを考えた人は時の人となり、本人はすばらしいことをしたと鼻高々、得意満面でテレビに映っていたりする。

……もう見てられません。実情は、一時のネタとして消費されているだけなんだから。

選挙が近づくとしばしば、「ちょっとSNS投稿を読んだだけで政治を理解した気になっているんだから」とSNSユーザーが白い目を向けられていたりしますよね。私はIT分野を長年見てきて、SNS投稿は読むときのみならず、書く側にまわったときにも同様の問題があると考えています。客観的には「やった」のうちに入らないほど小さなことしかしていないのに、主観では「社会を動かした」「世界を変えた」などというとんでもないところまで気が大きくなってしまう――SNSが見せる幻影に、これまでどれほどの人が惑わされてきたでしょうか。

ものすごいことをやったつもりの本人と実情のギャップはなぜ生まれるのか?

ハッシュタグムーブメントで話題になった人は、たいてい若いです。多くが20代、ともすれば10代で、社会経験が乏しいのです。だからでしょう、本人に使い捨てのネタされていることに気づいている様子はみられません。

しかも、彼らは社会運動を展開する実力は伴っていません。だから、彼らの主張がそれこそ自治体で制度化されるころには、法制度の構築ができる本業の手が入っている。その時には、ハッシュタグ主の影形はもうありません。

しかも、テレビ等で話題になるハッシュタグムーブメントは、本質的には奇抜なだけです。思想性はない。これならワッと人目を引くネタを常時探しているマスコミにはおいしいし、利用しやすいでしょう。マスコミは美談、感動話として報道するのですが、そのケバケバしい大衆性から、町の人が「なんなのアレ」などといやな顔をしているのを私は何度見てきたか……。

大手メディアから取材が来て、ちやほやされ、自分が社会を変革したのだと信じ込んでいるハッシュタグ主たち。私に言わせれば世にも哀れなのですが、本人たちはルンルンで、時には傲慢にすらなっている。SNSというプラットフォームからやっかいな人々が生まれてしまったな、と思います。

SNSとオーバーな報道が見せる幻想

メディアが「たった一つのツイートが社会を動かした」なんていう感傷的なヘッドラインを流しているせいもあって、SNSは誰でもかんたんに世の中に影響を与えられるかのような幻想を見せてくれるかもしれません。

しかし実際には、世を変える規模の社会運動を指揮するなんていうのは猛烈なことです。それに至るまでの膨大なステップを、自分の足で上らなければなりません。

質の良いものと、低いもの。言論には軽重があります。ハッシュタグのたった10文字かそこらを打つだけで社会は動きません。もし動いたと思ったなら、裏にはカラクリがあり、誰かがだまされているだけです。

SNSとそれをとりまくオーバーな報道は、多くの人に「自分も社会を変えられるかもしれない」と期待を抱かせていますが、現実には、勇んでハッシュタグを作った人のほとんどは脚光を浴びることなくそれきりになっています。IT業界に通じれば、SNSインフルエンサーになろうとしたらどれほどの時間と労力、予算が必要かは分かりますし、それがないケースは”炎上”の一種だということも見抜けます。大きすぎる期待は、まるで自分に価値がないかのような自信喪失を量産している。人権論ではなく心理面の話になりますが、我々は浮ついたヘッドラインの足元に広がる影にも目を向けるべきではないでしょうか。

ハッシュタグでうまくいく人、使い捨てにされる人。その違いはどこにあるのか?

とはいえ、ハッシュタグムーブメントにはうまくいっているものもけっこうあります。そして、うまくやれる人にとっては、インターネットは生きがいや幸せをもたらしてくれる素晴らしいテクノロジーなんですよね。

ハッシュタグでうまくいく人とメディアに使い捨てにされる人、その差はどこにあるのでしょうか。

私は世相を見ていて、うまくいっているハッシュタグムーブメントには過不足がないよなと思っています。手を広げすぎず、話を大きくしすぎず、身の丈にぴったり合った社会活動を作り出した、といった感じです。

たとえば有名なハッシュタグ「#KuToo」の活動内容は「女性の職場での靴の選択肢にフラットな革靴も入れてほしい」であり、それ以上の主張はしていません。

他に私が知る範囲ですと、ある大学のあるゼミの学生たちが「〇〇県××町の地域振興」をオリジナルのハッシュタグベースで行っているのを見たことがあります。もし彼らが町境を越えて地方自治の現状や法制度、国の経済などにまで主張を広げれば、それに比例して負担や責任が増していくところですが、彼らの活動範囲はあくまで〇〇県××町。これなら彼らは自分の力を役立て、××町の住人たちに喜ばれ、やりがいを感じられると思います。

自分にできること、できないこと。自分に分かること、分かっていないこと。誰しもできることは限られています。社会に対して何かをしたい、何かを訴えたいなら、自分の力を見極めるのは重要なポイントだと思います。

提言:人権の純化精錬

世界中の人の性格が変貌した、SNS的になった――私はここ5、6年のIT分野および世界を見てそう感じています。ネットでバッシングをする哀しい人だけではありません。いまや有識者まで、無意識のうちにSNSアタマの感情論にのみこまれている。人権概念は、不特定多数の手によって無数に誤った使われ方をされ、本来の価値をどんどん失っている。人類社会を立ち行かせるには、いまそれを何とかしなければなりません。

大勢の人が人権を語るようになったのは人類史において画期的ですが、負の側面は確実にあります。しかもそれは、看過できない域に達しています。

このまま人権の大衆化・俗流化を放置しておけば、民衆は自らの手で、無自覚のうちに人権の価値を壊してしまうでしょう。

当ブログ6回目の憲法記念日、私からの提言は「人権の純化」です。現代大衆社会、特にSNSを土壌に生まれた無数の誤った「語り方」を可能な限り取り除き、その真の価値を取り戻すべきだと提言します。

人権は、ベタベタに汚れたら切れ味を失います。

人権は、不純物が混ざったら人権でなくなります。

日本が民主化し、すべての人に基本的人権が保障されるに至ったのは七十余年前。人類社会においては、今日に通じる人権概念が理論化されて数百年になります。その時代には完全無欠な人権論が存在していたのかといえばそんな神話があるはずもなく、当時の世は前時代と地続きゆえ、妥協や不十分な点を残していました。その市民革命や民主化の時代は過去となり、我々はいま、その先に訪れた現代大衆社会、そしてSNS時代の最前線を歩いています。我々はいま、人権論をあらためて学び直し、練り直すべき時にさしかかっていると思います。

人権は純化すべきです。精錬し、打って打ってきたえあげるべきである。今年の憲法記念日は、鉄をも溶かす情熱で結びたいと思います。

関連記事・リンク

著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSE

誹謗中傷の具体例7例~何罪にあたり、どのような問題点があるのか

批判意見と誹謗中傷の違いとは―レビューや感想を書くなら知っておきたいこと

東京オリンピック・パラリンピックを開催すべきか、中止・反対派に私がそれでも賛同できなかった理由を伝えたい

アスペルガー症候群の有名人が特徴ある話し方のスピーチで残したもの

芸能人の薬物依存疑惑・逮捕と自主規制―「作品に罪はない」議論を徹底解説

<憲法記念日バックナンバー>

さらば、ごっこ遊び政治(2021年) – 満を持して新型コロナへの政治家の対応に言及。知事らの態度から透けて見える民主主義への無理解を指摘しました。

昔話風解説:私たちの生活は、どうすれば良くなるの?(2020年) – この年のテーマは「参政権と地位の関係」です。その解説をエビとカニが暮らす国の昔話に仕立ててみました。

「今年」世に送りたい4つの提言(2019年) – 2年続く国難に対して4つの提言をし、加えてこの年の時事、新元号「令和」の決定過程について論評しました。

腐り腐って、本当はもう日常にないから(2018年) – 2018年は森友学園・加計学園など、汚職事件のダイジェストと抗議声明のような感じになりました。

あんな国にならないために(2017年) – 「憲法記念日によせて」1年目です。すぐ隣の独裁国家と比較する形で、自由と民主主義を維持・機能させる必要性を説きました。筆にまだ手探り感があります。

トップに戻る