芸能人の薬物依存疑惑・逮捕と自主規制―「作品に罪はない」議論を徹底解説

薬物事件で逮捕され、警察署前でフラッシュを一身に浴びながら頭を下げる俳優やミュージシャン。そのたびに出演映画やドラマが公開中止、DVD・CD・音楽ダウンロードが販売停止に。ここ数年、芸能人の薬物犯罪に厳しい対応を求める声の一方で、その行き過ぎや、作品をまるごとお蔵入りにする「自主規制」が表現の自由を抑圧しているのではという議論が浮上することがたび重なっています。

毎度毎度賛否両論持ち上がる「自主規制」ですが、そのどこがどのように問題なのか、議論や理解はしっかり深まったといえるでしょうか? 大まかな方向性すら見えてこない。表現の自由はすべての人にとって大事にもかかわらず、テレビで騒がれては消えていくゴシップの一部として消費されている。それが現状だと思います。作家をはじめ表現に携わる人なら、この災難がいつ自分の身に降りかかるやら戦々恐々ではないでしょうか。

薬物犯罪の重大性、芸能人の注目度や影響力、そして作品。これら三者の関係性をきちんと整理してわかりやすく世に伝え、今後の対応をまじめに考えていくべきである。今回は、2019年3月に起こったピエール瀧薬物事件を主な題材に論点を整理したあと、「私論」と「試論」を書き綴ろうと思います。

ピエール瀧薬物事件の事実関係まとめ

2019年3月12日、ミュージシャンで俳優のピエール瀧(芸名、51歳、以下略称P)が、コカインを使用したとして麻薬取締法違反容疑で逮捕された。Pはテクノ音楽グループ「電気グルーヴ」のメンバーとしても活動している。

捜査関係者によれば、Pは調べに対し、「20代のころからコカインや大麻を使っていた」と供述しているという。

Pの逮捕を受けて関係各社がとった対応のうち、主要なものを挙げておく。

  • 契約レコード会社・ソニー・ミュージックレーベルズが、ピエール瀧個人名義および「電気グルーヴ」のCD・映像商品を出荷停止、CD・映像商品の店頭在庫を回収、音源・映像のデジタル配信を停止
  • 契約マネジメント会社・ソニー・ミュージックアーティスツが、「電気グルーヴ」の音楽ツアーコンサート2公演を中止。本人起訴後、ピエール瀧とのマネジメント契約を解除。
  • 放映中のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』にて足袋屋の店主役交代、出演シーンカット
  • 過去のNHK出演ドラマ『あまちゃん』『龍馬伝』等6作のオンデマンド配信を当面停止
  • LIXILが、P出演のCMを削除
  • ディズニー映画『アナと雪の女王』の続編(秋公開予定)にて声優交代
  • 静岡朝日テレビのレギュラー番組「ピエール瀧のしょんないTV」休止
  • セガゲームスが、Pが暴力団の若頭役で出演したゲーム『JUDGE EYES:死神の遺言』の販売をしばらく停止

こうした対応の背景には、ネット上等におけるPへの強い批判がある。

なお、Pはいわゆる「売れっ子」「スター」である。俳優としての出演作には伝統ある連続ドラマや大河ドラマ等が連なり、それらに出演することは社会において「活躍している」とみなされる。したがって、社会からのPへの注目度は高いといえる。なかでもPが吹替を担当した『アナと雪の女王』は、2014年日本公開映画の興行収入年間トップ、観客動員数は2000万人を突破し日本歴代2位を記録した歴史的大ヒット作である。テーマ曲『レット・イット・ゴー~ありのままで~』は同年の流行語を生みだすなど、社会現象となった。

音楽ダウンロード販売の停止が決まったのち、「電気グルーヴ」の音楽が入手困難になるのではとの憶測が広がり、ネットオークションで中古CDの価格が高騰するなど異例の動きが起こった。

また、音楽の販売停止や出演作の公開中止という関連企業の対応について、「作品に罪はない」との議論が巻き起こった。表現者の国際団体である日本ペンクラブは、「作品が封印される事態」と「自主規制」の風潮について「深く憂慮する」との声明を発表した

同年4月2日、Pは東京地検により起訴された。同6月18日の判決で、懲役1年6か月、執行猶予3年が確定した。

なお、同事件に先立ち、芸能人の薬物事件を理由とした作品の自主規制は近年相次いでいた。同年2月には、俳優の新井浩文(40歳)が強制性交の容疑で逮捕され、出演映画が公開中止、ドラマが配信停止となっている。

論点まとめ

本稿で主に扱う論点は、関連作品の自主規制と、憲法が保障する表現の自由との兼ね合いです。

ほかには以下のような論点がありますが、深入りすればきりがないので、今回は紹介するだけにとどめます。

  • P個人名義のCDや公演への対応と、「電気グルーヴ」名義でのそれとの比較:自主規制が他のメンバーにもおよんでしまっていいのか?
  • 関連企業が自主規制を決めたタイミングの是非:逮捕の時点、つまり薬物使用がまだ「疑惑」の段階で自主規制に踏み切っているが、刑事司法の大原則「無罪の推定」からすれば、有罪判決が確定するまで待つべきではないか? また、逮捕時点で容疑者を「犯人」として扱う報道は適当か。
  • P出演の各映画が、撮影中、完成後公開前、公開中、公開後のDVD・配信のうちどの段階にあったかによる比較:代役を立てる、あるいは出演シーンのカットや編集が可能な段階なのか、それともその段階をすでに越えていたのか。
  • 各出演テレビドラマは、放映前、放映中、放映後のオンデマンド配信のどの段階にあったのか
  • 犯罪の性質による比較(同年2月の俳優・新井事件などとの比較):被害者の有無は、作品自主規制の判断にどう影響を与えるか。

2019年以降に薬物で逮捕された芸能人【更新】

2019年以降、P以外で薬物により逮捕された俳優、ミュージシャン、タレントを調べ、リストにしました。

  • 田口淳之介(アイドルグループ・KAT-TUN元メンバー、タレント)
  • JESSE(ジェシー、ロックバンド・RIZEメンバー)
  • 田代まさし(タレント)
  • 沢尻エリカ(女優。以上2019年の逮捕者)
  • 槇原敬之(まきはらのりゆき、シンガーソングライター)
  • 伊勢谷友介(俳優。以上、2020年の逮捕者)

うち、槇原敬之は再犯でした。1999年にも覚せい剤所持の現行犯で逮捕され、懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を受けています。検察は初公判で、彼は20歳の頃から危険ドラッグを使用していたと述べました。2020年8月3日、東京地裁は懲役2年執行猶予3年の判決を言い渡しました。

槇原敬之の経歴には関係者や社会への影響をみていく際に考慮すべき点があるのでここで紹介しておきましょう。槇原敬之の代表曲は『どんなときも。』『冬がはじまるよ』など。1991年発売の3rdシングル『どんなときも。』を皮切りに、自身のアルバムでミリオンセラーを重ねています。

さらに槇原は、作詞・作曲・編曲家として他者へも広く楽曲を提供しています。なかでも有名なのは、槇原敬之が作詞・作曲・編曲を担当した『世界に一つだけの花』でしょう。『世界に一つだけの花』は、米同時多発テロの翌2002年にリリースされ歌詞が人心に響いたこともありダブルミリオン(200万枚)、のちにトリプルミリオン(300万枚)を突破した記録的ヒット曲です。同曲は人気アイドルグループ・SMAPの代表曲となっており、合唱やオルゴールにも使われるなど、リリースから20年近くが経った今も世に広く親しまれています。

2019年以前に逮捕された意外な「大物」

ミュージシャン等が薬物事件で逮捕されるのは、なにもいまに始まったことではありません。ここではとりわけ知名度が高いと思われる人物をリストアップします。

  • ASKA(音楽ユニット・CHAGE and ASKA(チャゲ アンド アスカ)の元メンバー。『SAY YES』は売上200万枚突破の大ヒット。ほか、多数の歌手に楽曲を提供しており、代表作は『ガラスの十代』など。)
  • 井上陽水(シンガーソングライター。代表曲『少年時代』は、合唱曲としても親しまれている。)
  • 尾崎豊(シンガーソングライター。大人社会への反発を歌った代表曲『15の夜』は80年代に若者から熱狂的支持を受けた。1992年に死去、死因は覚せい剤中毒とみられている。)
  • 大森隆志(バンド・サザンオールスターズの元メンバー)
  • sakura(ヴィジュアル系ロックバンド・L’Arc-en-Ciel(ラルク アン シエル)元メンバー)
  • 西川隆宏(バンド・DREAMS COME TRUEの元メンバー)

たとえ人物名はわからなくても、グループ名や代表曲の名を聞けばどれかしらには聞き覚えがあるのではないでしょうか。それほど人気を博し、世に親しまれた「大物」が名を連ねています。「えっ、あの人も?」「あのグループで事件が?」と驚いた人、あるいはショックを受けた読者もいることでしょう。

また、こうして2019年以前の逮捕者を思い返していけば、「逮捕→CD・DVD等の回収・自主規制→保釈と謝罪とバッシング」という「テンプレート」は前々からあったわけではなく、ここ数年の日本メディア特有のものであることがわかります。

提言:ポピュリズム時代、芸能人は新たな「リスク要因」である

もとより、芸能人とは「知名度」はあっても「信頼」はない業種です。だからたとえ薬物で逮捕されても、世の人はさほどのこととはみなしません。

ただ下記でしっかり述べる通り、薬物事件で逮捕された芸能人は、憲法が我々に保障する表現の自由を劣化させる動きで「主役」を演じています。これはつまり、芸能人らが一般社会を害していることを意味します。「撮影スタッフ」の役割を果たしているのはメディア各社ですが、考えられる最悪のケースは、裏に「脚本家」が存在することでしょう。

薬物事件だけではありません。自主規制と時同じくして、芸能人、とくにお笑い芸人と政治権力との癒着が問題になっています。芸人が首相と面会したり会食したりすることで、芸人側はSNSなどで「自分は総理大臣と会える人物だ」と権威付けをし、政治権力側はそれを政権の宣伝・支持集めに利用する。芸能人が政権にひたすら媚びる持ちつ持たれつの癒着が、表現の自由劣化と同時に広がっているのです。これが単なる偶然ではないこと、国にとって危険な兆候であることは、言うまでもありません。

私は、米トランプ大統領に代表されるポピュリスト(民衆扇動家)が世界を荒らしまわっているこの時代、もともと民衆の人気を集めるプロである「芸能人」は、社会にとって新たな「リスク要因」になっていると考えます。

本来は、芸能などちまたのちょっとした娯楽にすぎないので、論ずるほどのことではありません。

しかし、彼らの言動がどうでもいい「騒動」の範囲を越え、社会にダメージを与えるに至っている現状を目の当たりにすれば、我々はいち早く、それ相応の対応にスイッチしなければならないと思います。国民の表現の自由という重大な問題に、それがあたかも騒がれては忘れられる馬鹿馬鹿しい「ゴシップ」であるかのような「見せかけ」がはたらいてはいないでしょうか? 作品自主規制に関する議論は、自由、民主主義、そして人権保障の問題として、冷静に、真面目に、学術的に進めていくべきでしょう。

(2020年2月16日更新)

芸能人の逮捕と表現の自由―きほんのき

薬物事件を理由に作品が公開中止や販売停止になると、具体的に誰がどう困っているのでしょうか?

世を見渡せば、自主規制問題を「自分には関係ない」と、テレビドラマを見るような感覚でながめている人が多いように思います。

なのでここでは、まじめに見ていけば生々しいその実態と、「そもそも表現の自由って?」という憲法の人権保障を、「きほんのき」から解説していこうと思います。

自主規制はあまり自主的でない、という問題が重い

憲法21条1項は

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する

さらに同2項は

検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない

と定め、国民に表現の自由を保障しています。

そう、「国民に」保障されている、というところがポイントです。表現の自由は、なにも作家とか、芸術家とか、職業で表現活動をしている人にしか関係ないことではありません。私たちの日々のなにげない言動はすべて、表現の自由によって守られているからです。

もし表現の自由がなかったら、友達や家族とうかつにしゃべったら警察に逮捕された、とか、逮捕が怖くてランチタイムに雑談もできない、とか、スマホで送ったメッセージが全部監視されている、などといった世にも恐ろしい状況になる。人権あって当たり前、自由があって当たり前の現代日本で生きていれば、そんな話はこっけいにすら聞こえるかもしれません。

しかし人類社会というのは元来、いともかんたんに恐怖に支配されてしまうものです。表現の自由がない国、たとえば中国や北朝鮮を思い浮かべれば、その恐ろしさがありありと感じられるでしょう。人権派弁護士が当局に逮捕され、それきり帰ってこない。その家族が自宅軟禁された。政府への不満をネットに書いた人が、その数日後に謎の失踪をとげた。などなど。

耳に痛いのは、日本を含めどんな国にも将来「ああいう国」にならない保障はないということです。そんな恐怖を封じ込めるために人類が編み出したのが、「憲法で『表現の自由』を定める」という方法でした。長きにわたる暗黒の時代を経て恐怖から解放されたのに、せっかくの権利保障を守るのに失敗したら、私たちは中国や北朝鮮のような国で人生を送るはめになってしまう。笑いごとではすまされません。

ところで、憲法とは、原則として「国家権力に歯止めをかけることで国民の権利を守る法律」です。憲法21条2項は誰がする検閲を禁止しているのかといえば、判例は「本条にいう検閲とは、行政権が主体となって(中略)発表を禁止すること」(札幌税関検査訴訟)としています。つまり、憲法21条2項が禁止するのは、国家による検閲だと解されているのです。

ただ、現代社会では、作品の発表を事前に止めるのは国家権力とは限りません。近年、一般市民による世論や脅迫を恐れた出版社や映画会社、芸術祭の主催者等が、「混乱を避けるため」などともっともらしい理由をつけては物議をかもすかもしれない表現を「自主規制」するケースが目立ち、新たな社会問題となっているのです。

「圧力を受けて」「自主的に」規制するというのは矛盾ですよね。言葉の上では「自主」となっていますが、実際には自主的ではないのです。国家権力ではなく一般人たちが表現の自由を窒息させていく――これを「検閲の民営化」などと呼んで危惧する人も現れています。

ピエール瀧事件も、こういった時代の流れに位置づけられます。先にリストしたP関係各社の対応のうち、圧力や不安によらず、本当の意味で「自主的」な判断など存在したでしょうか。

十把ひとからげにできない理由

と、ここまではP事件を代表例に話を進めてきました。

しかし細かく見ていけば、近年自主規制が問題になった事件の中身は様々です。以下のような点には、事件ごとに大きな差があります。

  • 作品の影響力(万人が観た大ヒット作なのか、それとも限られた専門家しか観ないような作品なのかで、社会への影響力はまったく違う)
  • 当該芸能人の注目度(広く親しまれているスターなのか、それとも世の人が名前も顔も知らないような人なのかで、やはり影響力は違ってくる)
  • 犯罪の種類、性質や重さ(一口に「犯罪」といっても、誰かに被害を与える凶悪犯罪だったのか、軽度なスピード違反等だったのか、常習なのか一回限りのことだったのかなどで話は異なる)
  • 作品への関与の度合い(一口に「出演」といっても、主役なのか、主役でなくても重要な役なのか、それともほとんど出番のない脇役でチラッと映るだけなのかによって意味合いは全然違う)
  • 作品の主な対象者(子ども向けの作品かどうか、など)
  • 自主規制をするなら、その方法や期間(問題の箇所を修正するだけなのか、作品を全面的に否定するのか。世の注目が薄れるまで、あるいは出所までなのか、それとも永久にお払い箱になるのかで、自主規制の重みはまったく異なる)

このように、一口に「事件」や「作品」といっても具体的な事情にはかなりのコントラストがあり、それによって意味合いが大きく異なることがわかります。

ピエール瀧事件の場合、彼はお茶の間で人気な「売れっ子」であり、薬物使用も常習でした。Pがメインキャストだった作品関係者なら、今回の事件を重く見たのは一理あるかもしれません。とりわけ『アナと雪の女王』は、子どもへの影響を考慮に入れてもおかしくないでしょう。

ただ、こうした重大にみるべき要素がそろったのは、P事件特有のことでした。そうでない事例まですべてを「芸能人の薬物事件」とひとくくりにするのは、議論としてていねいとはいえません。「芸能人が逮捕された→関連作品を自主規制」という紋切り型思考で対処できるほど世の中は単純ではないし、この紋切り型のせいで自由が窒息していくなら、社会への――私たち一人ひとりへの――害が大きすぎる。最近あった自主規制のうち、「作品をまるごと封印するのは行き過ぎだ」と判断できるケースは多々あると思います。

さらに、表現の自由の基本的なスタンスは忘れてはなりません。基本スタンスとは、「発表すること自体は限りなく広く認めておき、内容についてどう思うかの判断はあくまで受け手にゆだねる」ということです。

バッシングの「思いもよらぬ」弊害

上記「事実関係のまとめ」で指摘した通り、近年の作品自主規制の背景には、芸能人の薬物事件への厳しい対応を求める世論があります。

ただ、その大部分は、「バッシング」と呼んだほうが適切でしょう。バッシングは言葉による攻撃であって、合理的かつ理性的な批判意見とは異なります。

では、なぜバッシングが起こるのか。原因の一つには、かねてより「浮名を流すのも仕事のうち」などといわれる芸能人の特殊性があると考えられます。彼らの悪評を話のタネにするのは普通なことだ、という意識は、世にすっかり根付いているといえるでしょう。

しかし、いくら芸能人のこととはいえ、事件が犯罪捜査や表現の自由にかかってくるならば、それ相応の真剣な態度や理性的な言論が求められます。ソファに寝そべってゴシップをぱくつく気分のまま国家の刑事司法や表現の自由に手を出せば、私たちを日々守っている尊い「人権カタログ」を、ポテトチップスの油でベタベタにしてしまうからです。

くりかえしますが、「表現者」とは、決して作家や芸術家だけをいうのではありません。すべての人の毎日の言動は、表現の自由によって守られているからです。

遊び気分で俳優を批判しているうちに道を誤り、自分たちの表現の自由を圧迫し、自らの首を絞めてから「そんなつもりはなかった」と言っても「後の祭り」です。ひとたび失ったら最後、回復するまでの道のりは想像を絶する険しさになる。おそらく大量の人命が失われるし、犠牲者となるのはもしかしたら当のあなたかもしれない。人権保障とは、そういうものなのですから。

憲法問題と健康問題―芸能人を不満のはけ口にしてしまう悲しい心

このように、めぐりめぐっては自分にはね返ってきてしまうバッシング。遊び半分のつもりなら、割に合わないもいいところです。

たしかにゴシップを世にふりまくのは、芸能人という特殊な職業の一部かもしれません。ただ近年、バッシングは過度に至りやすくなっています。その原因の一つは、発言者の顔が見えないうえ感情が高ぶりやすいインターネットにあると言って間違いありません。

また現在、不安定雇用やパワハラなど、様々な社会問題が長年放置されてきたしわ寄せは、市井の生活者に押し寄せています。社会には閉塞感がただよい、多くの人が生きにくさを感じながらもがいているのです。不祥事を起こした芸能人が、不満のはけ口になっている。この側面を見逃すことはできないでしょう。

ゴシップとはすべてどうでもいい話であり、1週間もすればみな忘れる程度のもの。しかし、バッシングとなれば「思いもよらぬ」弊害が残るのは先に述べた通りです。

薬物犯罪を犯した芸能人を、うっぷん晴らしの対象としている。これは「憲法」ではなく「健康」の問題です。たまたま目に入った相手にバッシングを浴びせることで、日ごろのうさばらしをする。あるいは、薬物なんかに依存する芸能人を「指導」することでしか、自分に自信を持てない。こうした精神の不健康は、表現の自由とはもはや別問題です。生きにくさは、別の方法で解消していかなければなりません。

映画監督の立場に立ってみると、公開中止は泣くに泣けない!

私がP事件についてとりわけ注視すべきと考えるのは、Pが俳優として出演した映画での事件対応です。というのも、「映画」というのは俳優を雇わなければ制作できない表現方法だからです。(同種の表現には他に演劇やテレビドラマなどがありますが、ここでは代表として映画を取り上げます。)

現在、世で「映画」と呼ばれる規模の作品を制作するのは、監督ひとりの力では不可能です。映画関連会社から予算を取り付け、音楽には作曲家やレコーディングエンジニア等を、美術にはセット制作や照明などの担当者を、そして役には俳優を――願わくば、登場人物のイメージにぴったりで演技力のある役者を発掘して――雇わなければなりません。映像技術の発達とともに、エンディングのスタッフロールは伸びる一方。大作となれば、監督が頭に描いた世界を具現化するためには1000人を超える人員、何年にもわたる制作期間、数十~数百億円にのぼる製作費がかかるのは、今どき全然めずらしくありません。ほかにも原作者やクロスメディア展開など、多様多彩な関係者が網の目のように広がっています。大人数なチームでの制作は、現代映画の宿命です。

ここで、「もしも自分が映画監督だったら」と想像してみましょう。世では「ピエール瀧についてどう思うか」にからんで語られがちな「作品に罪はない」の議論ですが、これを考えると、話はうんと生々しくなってきます。

もし「雇った俳優が薬物事件で逮捕されれば、自分の作品が公開・販売等中止になる」というなら、監督の自分としては、なにがなんでもそれを防いで自分の作品を守りたくなりますよね。

しかし、どうやって? 俳優をオーディションで選ぶにせよ、オーディション会場ではじくことができるのは、どう見ても目つきや挙動がおかしい薬物依存者だけ。ピエール瀧事件でも、彼が薬物を使っていたことは、関係者らも、観客や視聴者も見た目では分からなかったと話しています。

自分の作品を作るために俳優を雇ったら最後、監督はその俳優が薬物をやっていないかどうか、彼らの私生活まで24時間監視しなければ自分の作品を守れないのか? ここまでですでに物理的にも人道的にもおかしな話ですが、作品を将来にわたって守りたいならこれではまだ不十分です。俳優が将来薬物事件で逮捕された場合にDVD等が販売停止になってしまうというなら、一度雇った俳優のことは、その後の人生をずっと監視し続けなければなりません。――これは不可能じゃないですか。

雇った俳優の一人が薬物をやったせいで、自分の作品が日の目を見ないことになった。毎日毎日、何年もかけて撮影にいそしみ、やっと完成した大事な作品。公開日に花マルをつけて待っていたのに……。

手塩にかけて完成させた自分の作品が、何年も経ってから突然販売停止に。聞いてみれば、あの時雇った誰それが逮捕されたからなんだと。そんな、青天の霹靂だ……。

このように、映画監督の立場に立ってみると、作品の公開・販売停止は泣くに泣けないと思います。自分では防ぎようのない「とばっちり」なのですから。

提言:巻き添えとは、事実上の連帯責任である

事件のたびにテレビが映すのは、警察署前で頭を下げるスターだけです。しかし視野をもっと広げれば、深刻な事態が目に飛び込んでくるはずです。

芸能人の薬物事件で出演作が公開・販売中止になるとすれば、映画監督や他の出演者、関係者たちは、巻き添えを食らうという形で、事実上の連帯責任を負わされてしまう。それが昨今の自主規制における最大の問題点だと考えます。

もっとも、薬物事件に怒る世論が監督等に対し「連帯責任をとれ!」と主張していることはまずありません。しかし、たとえ意図的でなくても、結果的にはそういう効果を生んでしまう。この結果の重みは確実に理解されなくてはなりません。

「作品に罪はない」といわれるとき、「作品と出演者は別人格」という表現がしばしばみられます。もはや決まり文句と化しているこのフレーズですが、私にはどうも、この表現が誤解を招いているように思えてなりません。慣用表現や比喩表現は、法律論・法律用語とごちゃまぜにしてはならないのが鉄則です。作品は、言わずもがな「人」ではなく、モノとしてもかなり抽象的なのですが、それに「人格」という言葉をあてることで表現が現実的でなくなっている。このなんともフワフワした観念論が、世の人の「実感」を奪い、監督や関係者が薬物犯罪に甘いかのような印象につながっていると思います。

作品自主規制は、現実に存在している人に、現実の損害を出しています。公開中止で○○監督に生じた損益○○円、製作期間〇〇ヶ月分の時間的損失、原作者○○が失った利益や作品宣伝のチャンス、公開中止で消えた役者○○のキャリア、など。

以上より、私は、表現者は「作品に罪はない」系統の意見を発表するとき、自主規制によってほかの関係者に「連帯責任が生じている」と具体的な説明付きで訴えるべきだと提言します。

ここでさらにもうひとつ、試論を重ねてみようと思います。外国映画の場合です。

たとえばあなたが日本人監督で、晴れて作品を海外数ヶ国でも公開することになったとします。ところがアメリカで吹き替えを担当した俳優の一人が薬物で逮捕され、アメリカでの公開は中止になった、としたら? あなたにはうかがい知れぬ事情のために、自分の作品をアメリカ人に届けられなくなってしまいます。

逆も然り。海外の映画監督にしてみれば、吹替を担当した俳優のおかげで自分の作品が公開・販売できなくったとしたら、その損害、その憤怒は計り知れません。

もしも私が映画監督だったら

芸能人の不祥事で表現者が防ぎようのない巻き添えを食うのは、決して看過できない問題です。

ただ私は、自主規制を一律にやめるべきだと言っているわけではありません。

先ほど、事件の深刻さにはコントラストがあるので「出演者が逮捕された→作品を公開・販売中止する」という紋切り型思考で自主規制に走るべきではない、という話をしました。では逆はどうなのかといえば、「自主規制は絶対にしてはならない」という別の紋切り型にもすべきではないでしょう。事件の具体的な中身をきちんと踏まえて、そのつど関係者が自主的に判断する――キモは「自主性」のほうにあるわけです。

もしも私が映画監督だったら、薬物を使用している俳優が自分の芸術作品に混入するなどというのはとうてい許せません。わざわざ犯罪組織に近づいて薬物を購入し、自らの身体(脳を含む)を破壊しつつハイになってフラフラしながら演技するなど、芸術への冒涜もはなはだしい。言語道断です。薬物依存の俳優に、芸術の舞台に上がる資格はありません。

なので、もし私が監督なら、その俳優を作品から取り除くため、第一希望としては代役を立てます。できなければ映っているシーンをカット、または映像を編集してその俳優を消去する。これら作業に時間がかかるなら公開は延期して、作品を完全なものにしてから世に出したいですね。もし公開中ならとりあえず中止、その後の対応は状況に応じて追い追い決めていくでしょうか。

過去に雇った俳優がのちに事件を起こした場合は、撮影時に薬物を使用していたのかどうかで対応が変わります。もし撮影時には使用していなかったなら、その俳優は過去に一度雇っただけの他人にすぎないのでそのままです。しかし、もし自分の作品撮影時に薬物を使用していたなら、販売停止こそしませんが、以後生産のDVD等では可能な限り編集を加えます。その俳優に対しては、理性的な言葉でこの上なく厳しい批判を発表するでしょう。

ただこれらは、私が「もしも自分が映画監督だったら」と仮定した場合の、極めて個人的な考え方、自分自身の世界に敷いたコードであり、それ以上ではありません。私はなにも、公開中止や販売停止をしない監督や企業が薬物犯罪を甘く見ている、と言っているのではありません。「作品」「監督」「役者」の定義やとらえ方は、アーティスト一人ひとりで異なります。それらが各自の判断の土台となるから、導き出す結論はアーティストによってさまざまになるのです。

このように、薬物事件を起こした芸能人の出演作について、作家がそれぞれの考え方にしたがって、自由意思に基づいて公開中止・販売等停止に踏み切るのは、あり得る選択肢だと思います。しかし、外部からの圧力によって自主規制をせざるを得ないというなら、話はまったく別になってきます。

薬物事件自体が引き起こす、アートの萎縮

Pの薬物事件をはじめ芸能人が恐ろしい犯罪を犯すたび、表現の場が「間接的に」おびやかされている。私はそう感じてきました。

私が以下で論じていく「萎縮」とは、国家権力や世論による表現の圧迫だけではありません。言い換えれば、法律的な問題ではない。薬物事件それ自体が与える、アート各分野への萎縮効果です。私はいま、映画やポップミュージックという分野で「なり手不足」が引き起こされ、質の低下につながることを懸念しています。

映画:こんな状況で「映画監督になろう!」と思えるだろうか?

先に述べた通り、映画は人を雇わなければほぼ不可能な、「集団制作」による表現です。

映画には、それ自体で一つの学問を形成するほどの奥行きがあります。制作チームのうち、「役者」とは、作家の意図や作品の設定などをふまえた上でその世界を具現化し、感情を豊かに肉付けし、人々に分かりやすく伝える高度な「技術専門職」。日々くり返しトレーニングを積まなければ、それに必要な技術や表現力は身につけられません。さらに、演技それ自体にも、身体表現としての側面があります。優れた役者となれば、ただ監督の要求に応えるだけでなく、監督にインスピレーションを与えさえするのです。明治以降、欧米の近代演劇や映画に出会った学生たちがその魅力にとりつかれたのもわかる気がします。

ただ、こうした芸術としての映画と、エンタメ一色である「売れっ子」「スター」の世界は、源泉を異にする異質な存在です。それらを無理やりドッキングして制作しているのが現状ですから、遅かれ早かれ無理が出てくるのは自然な帰結といえるでしょう。

「売れっ子」たちの不祥事は、映画という芸術分野にどのようなインパクトを与えるでしょうか? 成り行きを想像するのはむずかしくありません。

たとえ今の小中学生や高校生、大学生が映画と出会い、「自分も撮ってみたい!」と思ったにせよ、業界事情がこんなでは思いとどまってしまうでしょう。自分の人生をかけるにはリスクが高すぎるからです。「そんな危ない人たちとは関わりたくない」というのが正直な本音ではないでしょうか。「仕事にするには向かないから観て楽しむだけでいいや」と結論する若者が増えれば、「人手不足」の波がこんな分野にまで押し寄せるのではないか。そんな懸念が浮上してきます。

「なり手不足」は、質の低下に直結します。

表舞台では華やかな「売れっ子」の薬物依存。心が不健康になるだけで生きにくさを少しも解消しないバッシング。圧力に気圧されての自主規制。紋切り型での自主規制。こうした愚行の積み重ねは、「最近、おもしろい映画全然ないよね~」という結果となって私たちにはね返ってくるかもしれません。

ポップミュージック:疑惑だらけの「個」なき環境からレジェンドは生まれない

一般に、ポップミュージックのミュージシャンは「芸能界」の範疇です。逮捕されたピエール瀧も、もとはテクノ音楽グループのメンバーとしてデビューしたミュージシャンですね。

その「芸能界」は、古くから犯罪組織と癒着しがちだといわれています。

もっとも、ポップスターが薬物依存に陥ってどうの、という話なら海外でもよくあります。ただ、海外のポップスターと日本の芸能人では、カラーが少し違う。海外のポップスターはもっと個人的に生きて活動しているところ、日本では業界や会社への「所属」意識が強いのです。

私は事件の報道に当たっていくうち、「所属事務所」いう語をよく見かけました。しかし実は、この言い方は俗称であり、法的には正確ではありません。本来、音楽活動の主体はあくまでミュージシャンです。ミュージシャンが、自分の活動のうちマネジメントの分野を担当してもらうよう「事務所(正確には、ミュージシャンのマネジメントを事業とする会社)」と契約している、と説明するのが正確です。たとえるなら、「事務所」とはミュージシャン本人が業務委託した秘書兼営業のようなものだ、といったところなのです。しかし、日本社会には、「自立した対等な個人同士が契約する」という近代的な考え方があまり根付いていません。ポップミュージックにおいても、「事務所=会社」に「所属する」という古めかしい感覚が根強く残っています。

こういう業界事情のもとでは、P個人の人格や生き方だけに問題があった、とはなかなか思えません。業界ぐるみで薬物とつながっているんだ。疑惑止まりといえばそうかもしれませんが、そんなふうに感じている人は、決して一人二人ではないでしょう。

薬物依存が蔓延する疑惑だらけの後ろ暗い業界に、誰が「所属」したいと思うでしょうか。「そんなおそろしい世界には関わりたくない」と感じるのは、人としていたって自然です。成り行き上、才能がある人ほど敬遠していくと考えられます。

私はなにも、ポップミュージックにたずさわる全員・全企業が闇と癒着しているとまでは思っていません。推測でしかないといえばそうかもしれませんが、一般論として、どんな職業であってもまともな働き者からうさんくさい人、悪人まで幅広くそろっているのが世の常だからです。それに、今日の芸能人はきちんと教育を受けています。業界の暗い側面を知れば「怖い」と感じ、そのマイナス要素を押してでも自分の「夢」を叶え、万が一犯罪組織にからまれたらきっぱり「ノー」だと決意している。そういう常識をそなえたミュージシャンはおそらく多数存在しているのではないでしょうか。

しかしそれでも、ミュージシャンが「個」として活動できないような環境では、洋楽ロックシーンのように、音楽の力で人々の心を揺さぶり社会に強いインパクトを与える「レジェンド」は出て来ようがありません。

度重なる薬物事件のために、お気に入りのCDを手に取るたび「まさかこの人も薬物を……」などという疑惑がわいてきて胸の中に暗雲がたれこめ、素直に楽しめなくなってしまった。そんなポップミュージックファンの心中を思うと、私は気の毒というか、苦々しい気分になってきます。ここに「なり手不足」が重なったら、ポップミュージックがますますつまらなくなっていくのではないか。そんな懸念が浮かび上がってきます。

作品を守るための試論と私論【更新】

自主規制は、表現者が自分で自分の首を絞める結果をもたらします。理想と現実という対立軸で「現実的な対応策」だと手を出すのは、後先考えない刹那主義であり正しくありません。表現者は、表現の自由を守り通すため、誠実に、切実に、油断することなく声を上げ続けるべきだと思います。

以上のように、私は、公法的な問題としての自主規制に対しては表現の自由擁護を訴えてきました。しかし実は、別の視点、すなわち市民社会における同問題では、趣向のがらりと異なる主張を展開しています。

既存の社会に表現の場がないなら作ってしまえばいい、作家であるなら表現する場は自分で作ったほうがいい、という主張です。

その大きな理由の一つは、「実社会は変化に時間を要する」という厳然たる道理です。訴え方がたとえどんなに的確であったにせよ、実社会の害毒は、一瞬にして一掃されるわけではないのです。

そうである以上、「社会環境が改善されない限り自分の思い描く表現活動はできない」としたら、表現に手を付けることなく一生が終わってしまうでしょう。「まずは社会をなんとかしなければ」と毎日決まりきった表現の自由擁護を垂れ流している間にすっかり白髪頭となった自分をありありと想像できる。だから私は、目の前の社会改良ばかりに注力するような生き方には賛同できません。

では、表現者は市民社会においてどうすれば大事な作品を守ることができるでしょうか。私は、表現者は個をしっかり持って、活動方法や生き方を「あるべき未来をいまから先取りしていく」よう意識して組み立てるべきだと考えます。この方法こそ、めぐりめぐっては真に効果的な社会改善につながると信じています。

映像作家への提言

まずは、先ほど今後を懸念した2つの分野、すなわち映像とポップミュージックに提言しつつ、具体的な方向性を示したいと思います。

私から映像作品にたずさわる表現者への提言は2つです。

第一は、既存のエンターテインメント業界に対して自己浄化を求めるべきだということ。

映像作品の関係者は、作品自主規制問題で最も被害をこうむっている人々です。であるなら、芸能人の不祥事を批判すれば最も説得力のある立場のはず。にもかかわらずそういった動きがないのは、残念でなりません。「作品は別人格」と主張するのは監督や脚本家個々の考え方に基づくかもしれませんが、結果的にはエンターテインメント業界となれ合うところで落ち着いていると言わざるを得ません。エンタメ業界への厳しい批判を期待します。

第二は、既存の業界を見限って、新たな表現の場をつくること。こちらは、とりわけまだ業界内に「所属」していない、しがらみのない新星に期待します。

高度経済成長以降、日本では既存の会社やシステムが絶対視される時代が続いてきました。日本人は「寄らば大樹の陰」とばかりに既存の会社・既存の枠組みに依存してきて、こうした肌の感覚はバブルがとうに崩壊した21世紀もなお根深く残っています。映像関連業界も例外ではありません。

しかし本来、社会や経済が健全に回っていくためには、新旧が常に入れ替わり続けるダイナミックさが必須です。旧勢力が崩れゆく時には、しがらみのない新しい企業や団体が生まれ、成長し、取って代わるのが理想的なのです。

今日であれば、YouTubeに代表される映像投稿プラットフォームが成熟し、収益化によってアーティストの継続的な芸術活動を可能にしています。Netflicksのような新進気鋭の企業も急成長を遂げて、価値ある映像コンテンツを求めるようになりました。

無論、クリエイティブな活動方法はITの活用に限りません。肝心かなめの要点は、自分のやりたいことは何なのかをはっきりさせ、それにぴったり合った方法を編み出すことにあります。

映像関係者には、現代社会を俯瞰する視野をもって、表現者にとって真に好ましい発表方法を作り出すことを期待します。

ポップミュージシャンへの提言

音楽は、愛好者のすそ野が非常に広い分野です。音楽をまったく聴かない人を探すのは骨が折れるでしょう。学校で合唱部や吹奏楽部に入っていた、カラオケ好きである、趣味で楽器をやっている、好きなバンドのコンサートに行くなど、音楽はさまざまな形で万人に親しまれています。文化論的には下位文化であるポップミュージックですが、その演奏・歌唱技術や探求は、舌を巻くほど奥が深い世界です。

ただ上で述べた通り、ポップミュージックの業界はその由来、組織のカラーともに、今日的な自己表現としての芸術にはまったく向いていません。良い悪いではなく、誰に問題があるわけでもなく、あくまで人を楽しませること本位の業界だからです。

自らをエンターテイナーではなく表現者だと自覚するポップミュージシャンがもしいるとすれば、既存の業界と袂を分かつことは、自己表現の道を歩んでいくなかで必須のステップとして目の前に現れるはずだと思います。

文士への提言

私はかねてより、文士は自らの表現を発信する適切な「方法」を編み出すべき局面にきているとくり返し主張してきました。よい機会ですので、なぜ私が同主張にこだわっているのかをここで話しておこうと思います。

きっかけは、数年前、100冊以上を世に送り出してきたという有名な年配男性作家の講演会を聞きに行ったことでした。当時の私は出版業界の内情や作品発表のノウハウについて調べている最中で、その講演も情報収集の一環でした。ところが終わってみれば、私が腕に抱えた収穫は、期待していた方向とは全く別物。彼の話を私が要約するなら、「先生」として中央にどっかり構える彼の内実は、企業を頂点とする高度経済成長以来の日本社会において、出版社の事実上のヒラ社員として頭を下げつつ80歳を過ぎるまでやってきたということに他ならなかったのです。

そんな彼に文章を習ったという生徒らも同様でした。最も若い登壇者は20代だったのですが、彼らは事実上の”サラリーマン”として生きてきた”名ばかり作家”の背中を追い、今日たびたび”昭和的”と非難・揶揄される仕事観と人生設計を律儀に踏襲していたのです。彼らの語る経験談では「デビュー」が至上命題となっており、表現・言論をすることは目的として据えられてすらいなかった。

これでは本末転倒ではありませんか。

この講演会で、私は既存の方法では自分の志す言論・表現はできないのだと気付いたのです。私がペンを執った動機は、社会にものを申したい、社会を変えたいという意志にありました。ところが、彼のような企業ありきの”名ばかり作家”、つまり「上」の都合に合わせて働く事実上の末端労働者となってしまえば、その目的達成にピンポイントを合わせた行動がとれなくなってしまう。プロフィール上では作家になっても、実情が本来の目的からかけ離れたものになってしまう。志を成し遂げられないまま、人生が終わってしまう。

このような経験を通して、私は「言論という目的に最適な『方法』を編み出すべきである」との考えに行きついたのです。私の場合はITによく通じていたので、この第三次産業革命を積極的に活用しようと決めたのでした。

そもそも、出版社や編集者と作家の関係、作品出版への道筋、書籍の流通ルートといったシステムは、せいぜい戦後昭和に形成された一時のものでしかありません。変わって然り、能動的に変えて然り、さらには新しいシステムを自分で自由に作って然りではありませんか。

「文学」の世界は内向的な人がほとんどを占める分野だと、私はひしひし感じてきました。講演会の会場を見渡してもそうでしたし、文学に対する世のイメージもそれで固まっているといえるでしょう。しかし、この風潮も文学の必然ではありません。明治以降のいわゆる「文豪」に極端に内向的で非行動的な人物が多かったため、彼らのイメージが定着してしまったというだけです。

自らの主義主張を発信し、世人の心に訴えかけ、社会を導くのは文士の王道的な在り方だと私は指摘したい。

人間の生において、創作や言論は最も主体的な営みです。それを本旨とする文士は、その主体性とクリエイティビティを創作・言論の「環境づくり」においても発揮し、自由の好循環をつくりだしていくべきだと提言します。

そして、既存の組織や枠組みの外に自由な表現ができるプラットフォームを作り上げることができたなら、それは日本社会に表現の自由が生き残ることをも意味します。自由は、自分の個人的な自由を守ることが国家共同体の自由を強くするという、いわば一石二鳥で豊かになる稀有な性質をそなえているからです。

文士が「方法論」に取り組むべきだという私の主張は、根本的には、表現者は主体性と、行動力と、思想の3点を持つべきだということに帰結します。自己表現とは人間の主体性の結晶であり、それを発信するための「方法論」は世に送りたい作品を作り上げたからこそ目の前に立ち現れる課題であり、それらすべてのはじまりは、表現したい思想である。表現の自由が問われるいま、あらためて、表現者の定義とあるべき姿を問うべきだと思います。主体性と行動力と思想の3点と、言論・表現という目的に真に適したプラットフォーム。それが私の先取りする未来です。

結びに―解説と私論と試論を終えて

作品が自主規制に追い込まれていく風潮が、表現の自由を圧迫している――芸能人の薬物事件による公開・販売等停止について、法的な論点を策定するのはさほど難しくありません。

ただ、広く一般に向けての解説は、今以上に必要だと感じます。たとえば、映画監督が雇った芸能人一人の巻き添えを食らって困っている。このとばっちりは防ぎようがないので、作品ごと封印するのは考え物だ。このような、くわしくて、具体的で、生々しい解説です。

「作品に罪はない」の議論は、憲法が保障する表現の自由にかかわる重大な問題であるにもかかわらず、「ピエール瀧についてどう思うか」といったゴシップにからみつかれがちです。

それをいかに「かんたんでおもしろいバッシング」でも「むずかしくてつまらない学問」でもなく、一般市民一人ひとりの人生にかかわる現実の問題として伝えるか。自分自身の言葉で、リアルな声を増やしていくことがその第一歩かと思われます。この「私論」と「試論」が、自主規制という現在進行形の問題を解決していく糸口になれば幸いです。

本稿は、いくつかの要点をもうひとたび確認して結びます。

第一に、表現の自由の基本スタンスは、「発表」の段階は限りなく自由であるべきだということ。発表を止めるべきだというのは、「(受け手となる)人々は判断力をもっていない」と言っているのと同じです。

第二は、事件といっても中身はさまざま、表現者の考え方も一人一人違うということ。表現に携わる者なら、自分の頭で考え、判断できて当然だと思います。

第三に、事のはじまりは芸能人の薬物犯罪だということ。「薬物NO!」の声は、より大きくするべきです。

そして最後にくり返しますが、「表現者」とは、職業としての作家やアーティストだけのことをいうのではありません。

すべての人間は、生きている限り、何かしらを表現しているからです。

表現の自由が圧迫されていくということは、私たちが今後、ものも言えない、息苦しい社会で長い人生を送らざるを得なくなることを意味します。日々の何気ない会話や笑ったこと、泣いたことに歌った歌。我々がいま安心してそうできるのは、憲法により表現の自由が保障されているからに他なりません。その尊さを胸に刻み、油断することなく自由を守っていかなければと、あらためて心から感じる次第です。

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皇室の背後に隠れる闇の勢力―タブー視の理由まとめ – こちらでも「自主規制」について論じました。ひとたび脅されるとなんでも言いなりになってしまう、日本メディアの「極端な臆病」を指摘してあります。

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記事公開2019年5月10日。同11月17日、P事件の公判について加筆のうえ再編集しました。

2020年2月16日、「2019年以降に薬物で逮捕された他の芸能人」「2019年以前に逮捕された、意外な「大物」」「提言:現代社会にとって、芸能人は新たな「リスク要因」である」を追記しました。

2020年7月21日、「2019年以降に薬物で逮捕された芸能人」に槇原敬之を追加、「作品を守るための試論と私論」を加筆・改稿しました。同8月4日、槇原敬之の東京地裁判決を記載しました。同9月12日、同リストに伊勢谷友介を追加。