私の1月2日・3日の予定は毎年埋まっています。年始まって早々の予定とは、そう、箱根駅伝。沿道に出向いて旗を振ったこともありますし、近年は旧TwitterやMastodonで母校に声援を送っています。
長年観戦するなかで、私の胸には、選手たちに、また他の駅伝ファンに伝えたい思いがずっと渦巻いていました。区間新記録や歓喜の優勝といった輝かしい瞬間と、その陰にある選手のアクシデントや無念の棄権、失意に泣き崩れるチーム、その両方を見てきたからです。
やはり箱根駅伝観戦者としてはどうしても言っておきたいことがあるので、今回ここに紙面を割き、筆を執ることにしました。
目次
箱根駅伝大会の結果と記録寸評
当ブログでは、2019年の95回大会より毎年レースの結果と寸評を書いています。
第100回大会(2024年)【更新】
大正時代からの伝統をつなぐ記念すべき100回大会は、関東学生連合なしで23校が競うにぎやかな大会となりました。
出雲、全日本を制し、優勝候補ナンバーワンとして箱根路に乗り込んだ駒澤は、往路1区から終始快走をみせ、往路新記録をたたき出しました。しかし、青山学院がそれを上回る継走を展開。2区、3区、4区の3人が区間賞をとり、3区でトップに出たまま往路のゴールテープを切りました。後半の区間では悪天候に見舞われ、箱根の山では雨が降る中のレースとなりましたが、選手がそれぞれ防寒を固め、全員が体調を崩すことなくゴールしたのも印象的でした。
復路は青山学院と駒澤の2校が優勝を争う形でスタートしましたが、6区から青山学院が快走を続け、8区と9区で区間賞。芦ノ湖では2分38秒だった駒澤との差をゴール大手町では7分35秒に広げ、総合新記録で圧倒的な総合優勝を飾りました。総合3位は城西大。往路3位で受け取った襷を安定してつないでいき、同校の過去最高順位で喜びのフィニッシュとなりました。一方、シード権争いは、16校が芦ノ湖一斉スタートとなったため複雑化しました。最終10区スタートの時点のタイムで、10位東海大と11位大東文化大の差はたった4秒。互いの姿が見えない中で僅差を争い、大東文化大が逆転でシード権を獲得しました。
芦ノ湖一斉スタートが16校にのぼったことは、優勝候補とそれ以外との力の差が広がりつつあることを示しています。ただ、100年という節目を迎えた今大会の予選会では、これまで関東地方に限られていた出場資格が全国に広げられました。結果的に他地域からの予選通過校はなかったものの、今後は全国から新たな強豪校が出てくる可能性があります。陸上界の未来へ向けて、箱根駅伝はまた新たなスタートを切ったといえるのではないでしょうか。
(2024年1月3日)
第99回大会(2023年)
2023年は新型コロナ感染対策が解除され、沿道に各校の応援団と大声援が戻ってきました。
往路は、1区で関東学連選抜がレースを引っ張り幕を開けました。その後は前評判の高かった駒澤大、中央大、青山学院大の3校がトップの座を奪っては奪い返す展開となり、真っ先に芦ノ湖のゴールテープを切ったのは出雲・伊勢に続く三冠を狙う駒澤大。2位の中央大との差は30秒と、まだまだ分からない展開で2日目復路を迎えます。
復路では駒澤大が快走を続ける一方、青山学院大が苦戦して一時は8位まで後退。1位駒澤、2位中央の後続は、國學院、順天堂、早稲田、創価、法政の混戦となりました。最終的には駒澤大が一度もトップを譲ることなく、大手町の大声援に迎えられてゴールイン。総合優勝、往路優勝、復路優勝とそろった完全優勝で三冠達成に花を添えました。トップ争いから外れた青山学院大は9区の快走で一気に追い上げ、総合3位に入りました。他方、シード争いは、往路で出遅れた東洋、明治が城西、東京国際に追いつき、時折順位が入れ替わる展開に。古豪・明治がシード権を落とす結果となりました。
今大会では、立教大が中央大OBの上野裕一郎監督に率いられ、55年ぶりの出場で母校のたすきをつないだことが話題になりました。また、脱水症状、ケガ、体調不良などを起こした選手が出ることなく、最後まで安心して観戦できる大会でもありました。
(2023年1月3日)
第98回大会(2022年)
2022年大会は、序盤から大手町のゴールテープ手前まで接戦続きでした。
往路はゴールしてみれば前評判の高かった青山学院大の圧勝でしたが、1区区間賞で波に乗った中央大が6位、2区でトップに出た駒澤大が3位、18位から着実に順位を上げた順天堂大が5位など、順位の入れ替わりの激しいレースとなりました。また出場各校のタイム差は僅差で、復路の芦ノ湖一斉スタートが5校にとどまるという混戦ぶりになりました。
復路は青山学院が区間賞3人、うち2人は区間新の快走を見せ、総合記録でも10時間43分42秒の大会新記録、2位順大に10分以上の差をつける圧倒的な優勝を飾りました。一方、2位以下は頻繁に順位が入れ替わる混戦模様となり、順大が1区18位から総合2位まで浮上、往路9位だった東洋が4位と選手層の厚さを見せつけ、古参の中央大も6位と好結果を残しました。熾烈を極めたのがシード権争いで、復路山下りの時点では9位以上の面々は安定かと思いきや、しだいにそちらも巻き込んで、見るたびに順位が変動しているほどの激戦を繰り広げました。往路13位から着実な走りで前を狙っていた法政大が最終10区逆転でシード権を勝ち取り、他方で往路10位、一時は8位まで浮上していた東海が涙を呑むなど、最初から最後まで目が離せないレースとなりました。
そんな戦国模様の中、初出場の駿河台大学が最後まで母校のたすきをつなぎ、惜しみない拍手を贈られました。また前年に続いて出場選手全員が完走を果たし、ランナーたちの躍動に勇気づけられるような大会でした。
(2022年1月3日)
第97回大会(2021年)
新型コロナウイルス感染防止のため街頭からの声援が例年になく小さかった2021年大会は、1区がまれにみるスロースタートで始まって序盤から混戦となり、最後の最後で劇的な展開が待っていました。
往路を制したのは、出場4度目で優勝候補には挙がっていなかった創価大学。1区で3位と好スタートを切り、2・3区で2位、4区でトップに躍り出ると、序盤からの高順位を箱根までキープして同校初の往路優勝を飾りました。他方、前評判では優勝候補だった青山学院が12位、青山・東海・駒澤の三強を追って優勝をうかがっていた明治は14位、総合3位をチーム目標としていた早稲田が11位とシード圏外で往路を終える等、波乱の折り返しとなりました。
創価大は復路でも抜群の安定感でトップを走り、追う駒澤を3分以上引き離して最終10区にたすきを渡しました。このまま創価大の初優勝かと思われましたが、気温が上昇するなか創価大のアンカーにややアクシデントがあったのか、2位駒澤がぐんぐんと差を縮めます。東京に入り御成門を過ぎ、残り2kmあまりとなったところでとうとうトップが入れ替わり、駒澤が劇的な逆転優勝を飾りました。往路で12位と出遅れた青山学院大は4位まで追い上げ、復路優勝しました。復路ではシード圏内のチームも激しく入れ替わり、三強に次いで優勝候補に数えられていた明治は追い上げたものの最終結果11位とシードを逃しました。今大会は体調不良による棄権がなく、出場選手全員が完走を果たしました。
(2021年1月3日)
第96回大会(2020年)
ふたをあければ、青山学院圧勝の返り咲きでした。往路優勝の青山学院は復路も順調に襷をつなぎ、抜群の安定感で大手町フィニッシュテープを切りました。往路4位の東海大学は復路5時間23分47秒という新記録の快走で復路優勝に輝きましたが、総合順位では前を行く青山学院にせまることはできませんでした。
國學院大學は目標の総合3位を達成。帝京は躍進の総合4位、明治は粒ぞろいな布陣で地道に順位を上げ、総合6位と健闘したと思います。前回シード落ちの悔し涙をかみしめた早稲田は7位と健闘。トップ10には東京国際大や創価大など新顔が名を連ねた一方、26年ぶり出場、記念すべき第1回大会の優勝校・筑波大学(旧東京高等師範)は、経験不足もあってか20位となりましたが、箱根路に伝統をのせたさわやかな風を吹かせました。
(2020年1月4日)
第95回大会(2019年)
飛ぶ鳥落とす勢いだった青山学院大学が5連覇を逃し、栄冠をつかんだのは東海大学。悲願の初優勝は、往路・復路・総合のすべてで新記録という文句なしの輝かしい成績によってもたらされました。
11位以下には伝統校の名が連なります。レース中、並走は少なく、シード権をめぐるデッドヒートもありませんでした。順位は微動こそあるものの、往路で10位以上の大学がそのままシード権入り。出雲と全日本(伊勢)の成績や前評判のよかった大学がそのまま安定した順位でゴールテープを切る展開となりました。
駅伝観戦で何を思うか、思えるか
さて、結果と記録の寸評はこれくらいにしましょう。私は箱根駅伝を観戦・応援する身として、毎年のように思うことがあります。
私がどういうスタンスで観戦しているのか……といえば、母校が勝つとそれはそれはうれしいです。例えば2011年に母校が優勝した時、私はテレビの前で拍手して祝ったものでした。
されど、「勝て」と言う気はないし、そもそも言いようがない。――それが私の正直なところです。
そして私が最も心配しているのは、ブレーキや故障、棄権をした選手の自責の念です。たすきを次のランナーに渡して泣き崩れる選手を見るたび私は胸がつぶれそうになるし、体調不良で蛇行しながらも走り続ける選手には今後のことを考えて無理せず棄権してほしいと切に願います。そんなにまでしてチームの順位を背負い込まないで。私は常々、ランナーたちにそう伝えたいと思ってきました。
純粋な団体でも個人でもない競技の性質
なぜ私がそんな中途半端な姿勢で観戦しているのか。それは駅伝という競技の性質に由来しています。
駅伝は、純粋なチーム競技でも個人競技でもありません。チームで順位を争いますが、各区の走りや成績は当該ランナー個人のもの。だから、根本的にどっちつかずなのです。参考までに、同様のスポーツとしては剣道の団体戦が挙げられるでしょう。
競技自体が中途なのだから、観戦する側もレースの経過や結果に対してはっきりした感情をもつことは不可能ではないでしょうか。
ここで、駅伝を、純粋なチーム競技であるサッカーや、純粋な個人種目の水泳と比較してみましょう。
まず、サッカーでは試合中選手全員が同時にプレーしていますね。自分のチームが相手ゴール前まで攻め上がっている時にキーパーは何もしていないのか、というと、そうではありません。キーパーは試合中ずっと、そのポジションを担っています。ボールがこないからといってキーパーがピッチから出て行ってしまっては、サッカーという競技は成り立ちません。
一方、駅伝はどうか。たとえば2区の選手が走っている時、他のチームメイトはレースに関わっていません。走っている時は、あくまで個人の競技です。「たすきには仲間の思いがこもっている」などと言いますが、それはあくまで観念論。チームメイトや応援している卒業生の気持ちは、ランナー個人の筋肉や心肺を活性化させるわけではありません。レースの結果を左右することもありません。さすがに今時「強い気持ちがあれば勝てる」との精神論は絶滅したと思いますが、念のためきちんと言及しておくと、もしかの複雑な人体のメカニズムを「気持ち」だけで変えられるなら、トレーニングもトレーニング方法の研究もなくして誰でも金メダリストになれることになってしまいます。それではスポーツというものが成り立たなくなって、地球上から消滅するでしょう。
では、駅伝の記録は純粋にランナー個人のものなのかといえば、それも違います。ランナー10名のタイムは合算されるので、この部分においてはチームが単位となる。この事実は否定しようがありません。水泳だったら、結果に反映されるのは100%その選手のパフォーマンスですね。ところが駅伝では、ランナー個人の結果はチームに寄与します。ただ、その寄与度は低くにとどまり、どこからどこまでがその選手によるのかははっきりしない。駅伝は本質的に、また永遠に、あいまいな競技だといえるでしょう。
「負けたのは誰それのせい」と言い得ない理由
では今度は、この本質的あいまいさを、チームを率いる監督の立場から見るとどうでしょうか。
各校の監督はレース前に必ず「チームが勝つための戦略」をインタビューされています。が、よくよく考えてみれば、果たしてそんなものは存在するのか。たとえあるとしても、「それらしきもの」止まりになるはずです。
というのも、サッカーの監督だったら、たとえば「相手チームは右サイドからの攻めがすばやい」という情報が入ったなら、対策として適任者を選びそこに配置するでしょう。チーム全員で情報や戦略を共有し、右サイドの選手はそのポジションの担当としてプレーします。11人のプレーの総体がチーム全体のパフォーマンスとなります。この枠組みにおいて、右サイドの選手がほんの少し場所をあけたスキに相手に抜かれたとしましょう。監督は「あのミスが致命傷だった」とかんかんになるかもしれません(もっともサッカーにはサッカーの思考があるので、右サイドを請け負った選手が右サイドをガラ空きにするという状況設定そのもの現実的でないのですが)。観客としても、「わずかな油断を見逃さなかった相手ミッドフィールダーが一枚上だった」「相手のスピードが予想以上だった」「前段のパス回しで攪乱して右サイドを空けさせる相手チームの技があざやかだった」など、なんらかはっきりとした意見を持つことができます。
しかし駅伝は違います。箱根駅伝には区間が10区もあります。マラソン大会で出場選手全員がゴールすることはまずないのと同じように、10人もいれば全員が最高のパフォーマンスを発揮できることはまれにしかありません。どんなによくコンディションを整えようとも、ブレーキまたは故障する選手は確率的に出てきます。
こう言ったら、もしかしたら「選手が2区に決まったなら2区が担当だからサッカーの右サイドと同じだ」と言う人がいるかもしれません。しかしくり返しますが、駅伝では走っている間はあくまで個人競技です。他のチームメイトはランナーのパフォーマンスに何の関与もできません。たとえボールがこなくとも全員がプレーに参加しているサッカーとは異なり、駅伝では戦略やパフォーマンスを共有しようがないのです。それなのに、特定ランナーの成績について他人が口出ししていいのでしょうか。「あいつのせいで負けた」とか「負けたのは自分のせいだ」なんて言っていたら、箱根駅伝はやっていられません。不調やブレーキ、故障、棄権者が出たことにより目標として掲げた結果に手が届かないことは十分あり得ます。突然の不調は仲間の誰かに起こるかもしれないし、もしかしたら自分の身にふりかかるかもしれない。駅伝は、みながそれを納得したうえで臨む競技のはずです。
ましてや、「誰それがブレーキしたのはチーム全員の責任だ」などというのは筋が通っていません。なぜなら、「責任」という概念の性質上、責任を問われるのは「義務に違反した場合」だからです。駅伝選手に、他のチームメイトの筋肉や心肺や胃を管理する義務はないじゃないですか(もしそんなものが課せられていたら気色悪い人格侵害!)。そもそもコンディション、しかも他人のそれをコントロールすることは科学的に不可能です。したがって、「他人のパフォーマンス」という義務がない事柄に関して他のチームメイトが責任を負うことはありえません。
ある区間のランナーが負う責任……というより受け止めるべき対象は、自身の結果だけです。思った通りの走りができなければがっかりするでしょう。途中棄権は無念でしょう。もっとアスリートにクローズアップして言うなら、競技人生を送っていれば結果に落胆することなど何度もあるはずで、その新たな一つが胸に刻まれるといったところでしょう。ただ、もしチームの順位にまで責任を感じるというのなら、それは行き過ぎです。自分の身体や今後の人生にダメージがあろうとチームのためには棄権できない、というなら、そのチームの体質はむしろ問題です。
スポーツは、人類にとって「自己の健全な発展」を目指す分野です。もしそれが不健全な精神性、自己や他者の尊厳を傷つけることにつながるなら、スポーツの根底が崩れてしまう。どこかで道を逸れたと言わざるを得ません。
選手には、何のためにスポーツをするのか、その意志と理想、そして喜びをしっかり胸に刻んでいてほしいと思います。競技人生には先行きが見えず不安な時などもあると思いますが、スポーツの理想に立ち返るのは、たとえるなら夜空から北極星を探し出すようなもの。行くべき道を見つけ、再び、堂々と歩んでいける。きっとそのはずだと思います。
箱根路を走っている、そのこと自体への声援
このことは、観客にとっても同じです。さきほどサッカーを例に出しました。サッカーの応援なら、「右サイド警戒しろ! 今抜かれたら点取られるぞ!」などと叫ぶでしょう。水泳の応援だったら、「○○は実力を出し切ったし、本来なら金メダルだっただろうけど、他の選手の出来が良すぎたよな」といったふうに、これまたはっきりした形のある感想を抱くでしょう。
しかし、駅伝の応援には、そういった具体的な中身がありません。母校が出場している人は、母校を誇って声援を送る。特にどこも応援していない人は、ランナーそれぞれの走り自体を応援する。それが箱根駅伝の応援スタイルです。
私は母校の名を叫ぶ人、応援用のタオルや旗を掲げる人を、これまで沿道でたくさん見てきました。順位がつくものなんだから、応援しているチームが勝てばそりゃあうれしいでしょう。しかし「勝て」とは言いようがない。なぜなら、「勝て!」……どうやって? これに答えられる人はいません。1区のレースは、あくまで1区出場選手個人の競走です。大学のたすきをかけていようとも、レースの中身は大学対抗ではない。さらに、7区のランナーに「抜け!」と発破をかけたところで、7区の時点ではすでに積み重なった差があります。タイム差が10分もあるのに「トップに出ろ!」なんてがなったって無理なものは無理じゃないですか。しかも、たった1時間足らずの間にたすきは次のランナーへ渡ります。応援するといっても、誰に対して何と言うのか。駅伝において、それは永遠にあいまいなままなのです。
伝統ある大会、母校のたすきにプレッシャーを感じている選手はいるだろうとは察します。ただ、私が実際沿道に出向いたところだと、順位にこだわっている人は見ないんですよ。私は母校の選手が快走するとSNSで盛り上がったりしていますが、その裏返しで不調の選手を責めているのか、といえば決してそうではありません。そもそも責める気持ちが心の中にありません。そこだけは強調しておきたいのです。沿道やテレビで母校を応援する人は、箱根駅伝という誉れある大会に母校が出場していること自体に誇りを感じているもの。箱根ファンの気持ちは、走っている選手を元気づけたいというところにあるといってまちがいないと思います。
箱根駅伝の意義とは
以上のように、駅伝ではたとえ選手層に恵まれた大学でも確実な勝利を望むことはできないし、勝つための戦略というのも立てようがありません。観戦する側も、順位にはこだわることができません。これら独特な気風は、駅伝のルール=枠組みに由来するのです。
では、駅伝とは何なのでしょうか? 観客にとっては勝敗除外のアミューズメント、選手をはじめ応援団など学生のイベントなのか? 私は、箱根駅伝をそういう「お祭り」とはみなしていません。
箱根駅伝の原点まで立ち返ってみましょう。発端は、まだ陸上競技という概念がなかった大正時代の、「世界に通用するランナーを育成したい」という先人たちの思いでした。東京高等師範の学生だったころ日本人としてオリンピックに初出場した金栗四三らが各校に手紙を書いて参加を呼びかけ、集まった東京高等師範・早大・慶大・明大の4校が「箱根あたりまで」と競走を催したのが第1回大会。つまり、箱根駅伝は学生・卒業生有志による企画だったわけです。
箱根駅伝とは、学生の大会である。私はこれに尽きると思っています。
当時の学生・卒業生が思い描いた通り、箱根駅伝は日本を代表するランナーを輩出してきましたが、それから時代は移ろいました。箱根駅伝黎明期には大学の陸上部員数と日本全国の陸上競技人口はほぼイコールでつながっていましたが、現代ではそんな大げさ言わずとも、たいていの中学に陸上部があります。陸上界は大きく発展し、若い競技者の選択肢は多様になりました。陸上をやるなら必ずしも大学駅伝でなくていいし、競技者によっては、ランナー人生を俯瞰して別の選択肢のほうがためになると判断するでしょう。
それでも、多くの人が注目する大会は、選手にとって能力開花のチャンス、発掘されるチャンスとなり得ます。たとえば第95回大会『公式ガイドブック』の”山の神”対談(68~72頁)で、プロランナーの神野大地さんは「5区で活躍したことで世間の人に知ってもらえて、その後はたくさん応援してもらえるようになりました」と語っています。現代において箱根駅伝は日本唯一の大会でも絶対的な登竜門でもないし、それは陸上界が発展した証なのでむしろ喜ばしいことですが、若いランナーにとって一つのチャンスであり続けているのはこれまた事実です。
また、学生にとって、オリンピックが目標とは限らないのは昔も今も変わりません。健全な身体づくりをしたいというのも、スポーツにいそしむ立派な動機です。競技も含めた学生生活で日ごろ努力・研鑽を積んだなら、発表の場があるのが好ましいですよね。大会があるならば、それを目標に速くなろうという意志が生まれます。たとえ競技の内容があいまいであれ、順位がつくなら少しでも前へという気持ちになります。箱根駅伝という大きな大会は、学生の目標、また自己実現の場として望ましい舞台になっていると思います。日々トレーニングを積んでついに大会へ、それで母校が勝てたならみんなで祝おう――いいことではありませんか。
さらに、箱根ランナーは、沿道で手を振る子どもたちの目標にもなります。ガイドブックのプロフィールでも、テレビ中継の実況解説でも、陸上を始めたきっかけとして「箱根を走りたかった」を挙げる選手は毎年一定数いますよね。こうして沿道からは次世代のランナーが生まれてきたし、きっと今年も、家に帰ってランニングシューズをねだった子がいるでしょう。そうやって「たすき」はつながれていく――いいことではありませんか。
以上のように、箱根駅伝の意義はそれぞれの「目標」となることだと私は考えています。
結びに―箱根駅伝の華は「学生であること」
学問にはげみつつ、学問内外で経験を積み重ね、時には深く悩みながら、自分は何者として生きていくのかを決めていく。若き学生の姿は、いつの時代も変わることはありません。
時代の流れで、近年はどの大学でもスポーツを主眼に入学する学生が増えました。大学での競技生活――光り輝くトロフィーであれ、中継所でぼろぼろ湧き出した涙の味であれ――をステップにアスリートとして生きていくなら、それもまた学生が出した一つの答えでしょう。他方、「陸上は今日の箱根が最後です」と春には新たな世界へ旅立っていく学生は毎年少なくありません。ある業界のある会社で働き始める人、教員となって指導者となる人、家業を手伝うと決めた人。学生生活を通してどんな志を掲げるに至ったとしても、すばらしい大会に出場した経験は必ず人生に活きるでしょう。そう思って目を細めるのは、きっと私だけではないはずです。
学生それぞれが、自分の将来をつくっていく。箱根駅伝がつないできたのは、学生の未来を拓く活力なのだと思います。
私には運動部に入っていた経験がありません。だからスポーツの大会というのは、自分自身からはかけ離れた世界でした。だからこそ、同級生や後輩がこういう大会に出場していると、それはそれは尊いことだと感じるのです。
競技生活を送っていれば、結果に打ちひしがれる日はあるのでしょう。スポーツに限らず何かに全力を投じたことがある人間なら、努力が報われなかった時の絶望や虚脱、葛藤はありありと理解できるつもりだし、そういう雨空のような気持ちを否定することはありません。しかしなお、長年観戦するうちに、選手と観客の思いにズレがあると感じたシーンは私の記憶の中でずいぶん増えました。選手本人が思っているほど、駅伝の観客は厳しく冷たい目を向けているのではありません。将来へと走っていく学生に声援を送っているのです。
箱根駅伝という素晴らしい大会を走った自分を、もっともっと誇りに思ってほしい。その喜びを胸に刻んでほしい。それが、観客である私から選手たちに伝えたい思いです。
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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)|Mastodon|YouTube|OFUSE
オリンピックの由来と歴史―古代から近代、日本の参加など全まとめ – スポーツの意義はこちらでも論じました。競技者が「自己の健全な発展」を目指し、その過程で他者の尊さにも目覚め、ひいては平和へつながっていく。それがスポーツの理念だし、また魅力でもあると思います。
(この記事は大学生へカルト宗教の勧誘に注意を呼び掛けたのをきっかけに執筆し、2019年2月16日に公開しました。以来毎年、大会の結果と記録の感想を追加掲載しています。)