箱根駅伝の結果や記録に思うこと

私の1月2日・3日の予定は毎年埋まっています。年始まって早々の予定とは、そう、箱根駅伝。沿道に出向いて旗を振ったこともあるし、最近はTwitterで母校に声援を送っています。

初めてTwitter実況をやったころから、私の頭の片隅には「駅伝観戦の心構えについてしっかり書いたほうがいいかな」という思いがありました。なんだかんだでそれきりになっていたのですが、第95回大会(2019年)、我が母校はシード権を逃すという厳しい結果に。私はとうとう決意しました。今度という今度は言っておきたいことがあるので、筆を執ることにします。

第95回大会結果

飛ぶ鳥落とす勢いだった青山学院大学が5連覇を逃し、栄冠をつかんだのは東海大学。悲願の初優勝は、往路・復路・総合のすべてで新記録という文句なしの輝かしい成績によってもたらされました。

11位以下には伝統校の名が連なります。レース中並走は少なく、シード権をめぐるデッドヒートもありませんでした。順位では微動こそあるものの、往路で10位以上の大学がそのままシード権入り。出雲と全日本(伊勢)の成績や前評判のよかった大学がそのまま安定した順位でゴールテープを切る展開となりました。

第96回大会(2020年)寸評【更新】

ふたをあければ、青山学院圧勝の返り咲きでした。往路優勝の青山学院は復路も順調に襷をつなぎ、抜群の安定感で大手町フィニッシュテープを切りました。往路4位の東海大学は復路5時間23分47秒という新記録の快走で復路優勝に輝きましたが、総合順位では前を行く青山学院にせまることはできませんでした。

國學院大學は目標の総合3位を達成。帝京は躍進の総合4位、明治は粒ぞろいな布陣で地道に順位を上げ、総合6位と健闘したと思います。前回シード落ちの悔し涙をかみしめた早稲田は7位と健闘。トップ10には東京国際大や創価大など新顔が名を連ねた一方、26年ぶり出場、記念すべき第1回大会の優勝校・筑波大学(旧東京高等師範)は、経験不足もあってか20位となりましたが、箱根路に伝統をのせたさわやかな風を吹かせました。

近年の結果と記録に思うこと―「戦国駅伝」は続く

「戦国駅伝」と言われて、はや何年になるでしょうか。

王者入れ替わりの激しさには落ち着きどころがみえません。第77回(2000年)の総合優勝を皮切りに2002年から2005年まで四連覇を果たした駒澤の最強時代はまだ記憶に新しいですが、それに続いたのは東洋でした。山上りの柏原選手を擁した2009年の初優勝後、他大学が頂点・東洋に対抗するという図式の大会が続きます。その後、32年の空白を経て箱根に帰ってきた青山学院の時代が来るとは、一体誰が想像したでしょうか。

それにともない伝統校がシード権を逃す、さらには大会出場を逃すことが増えました。我々はその衝撃に慣れつつあります。

たとえば2019年には総合4位と好成績の駒澤ですが、出場はなんと予選会から。前年はかつての王者駒澤が12位に沈んだのです。先に述べた早稲田のシード落ちは、2006年以来13年ぶり。油断ならない状況は今に始まったことではありません。私にとって印象深いのは、2017年中央大学の予選落ちです。調べてみれば、中央の姿が箱根路になかったのは戦争による中断を除いて第5回大会(1924年)以来。このように、常連校が予選会の結果発表でさめざめと泣く場面は最近よく見るようになりました。他にも一校挙げるなら、長年の箱根ファンは「とんと何かを見ていない……」という気がしていませんか? 当てましょう、それは東京農業大学です。応援団の「大根踊り」は箱根駅伝の風物詩でしたが、東農大は第90回大会(2014年)を最後に出場を逃しています。

他に言及しておきたいのは、出場ならなかった大学の選手が集まる関東学生連合(旧称・学連選抜)です。第84回(2008年)には総合4位と躍進、これからどうなる、と思ったら、その後はシード権争いに絡むことないまま第90回以降はオープン参加に戻っています。

長期化する「戦国」の行方は、いまや誰にも分かりません。

「山の神」や区間新の更新はとどまり知らず

各校の総合順位に注目が集まりがちですが、私としては見逃せないのは各区間記録だと思います。

第95回大会では、往路3区、4区、5区、復路6区、8区と、前10区間中5区間で新記録がたたき出されました。

しかも5区山上りに至っては、区間新のタイムで走った選手がなんと3人も! 法政の青木選手、東海の西田選手、國學院の浦野選手の3名が前区間記録を上回り、区間賞はその3名中トップ浦野選手の手にわたりました。5区といえば歴代”山の神”、すなわち順大の今井選手、東洋の柏原選手、青山学院の神野選手が記憶に新しいですね。その後2017年にコース変更のため彼らの記録は参考となりましたが、その後また新たに記録はどんどんぬり替えられているのです。もはや誰を「山の神」と呼ぶべきか、それすら混沌とする「群雄割拠」が続いています。

複数名が新記録のタイムで中継所に飛び込むことは、近年めずらしいことではありません。中継所でたすきが渡るたび次から次に「区間新」アイコンが躍り、華々しくゴールしたのにインタビューがない!……なんていうこともしばしばです(私としてはちょっと残念!)。

箱根駅伝には運営の都合上時々コース変更がありますが、それを考慮に入れてもこれだけ次々新記録が更新されるのはたたえるべきことだと思います。伝統ある大会は、年々レベルが上がっているのです。それは学生の努力のたまものであり、また陸上界のレベルアップをも意味しています。

駅伝観戦で何を思うか、思えるか

さて、前置きはこれくらいにしましょう。箱根駅伝を観戦・応援する身としては、どうしても言っておきたいことがあります。

私がどういうスタンスで観戦しているのか、といえば、母校が勝つとそれはそれはうれしいですね。世の中では誰も知りようがありませんが、2011年母校が優勝した時、私はテレビの前で祝ったものでした。

されど、「勝て」と言う気はないし、そもそも言いようがない。それが私の正直なところです。

そして最も心配なのは、ブレーキや故障、棄権した選手の自責の念なんですよ。たすきを次のランナーに渡して泣き崩れる選手を見るたび私は胸がつぶれそうになるし、体調不良で蛇行しながらも走り続ける選手には今後のことを考えて無理せず棄権してほしいと切に願います。そんなにまでして、チームの順位を背負い込まないで。私は常々そう言いたいと思ってきました。

純粋な団体競技でも個人競技でもないから

なぜ私はそのような中途半端な姿勢で観戦しているのか。それは駅伝という競技の性質に由来します。

駅伝は、純粋なチーム競技でも個人競技でもありません。チームで順位を争いますが、各区の走りや成績は当該ランナー個人のものなので、根本的にどっちつかずなのです。参考までですが、同様のスポーツとしては剣道の団体戦が挙げられるでしょう。

競技自体が中途なものなら、観戦する側がレースの経過や結果に対してはっきりした感情をもつことは不可能です。

ここでは駅伝を、純粋なチーム競技であるサッカーや純粋な個人種目の水泳と比較してみましょう。

まず、サッカーでは試合中選手全員が同時にプレーしていますね。自分のチームが相手ゴール前まで攻め上がっている時にキーパーは何もしていないのかというと、そうではありません。キーパーは試合中ずっと、そのポジションを担っています。ボールがこないからといってキーパーがピッチから出て行っては、サッカーという競技は成り立ちません。

一方、駅伝はどうか。たとえば2区の選手が走っている時、他のチームメイトはレースに関わっていません。走っている時は、あくまで個人の競技です。「たすきには仲間の思いがこもっている」などと言いますが、それはあくまで観念論。チームメイトや応援している卒業生の気持ちは、ランナー個人の筋肉や心肺に作用するわけではありません。レースの結果を左右することもありません。さすがに今時「強い気持ちがあれば勝てる」との主張は絶滅したと思いますが、念のためきちんと言及しておくと、かの複雑な人体のメカニズムを気持ちだけで変えられるなら、トレーニングもトレーニング方法の研究もなくして誰でも金メダリストになれることになってしまいます。そもそもスポーツというものが成り立たなくなって、地球上から消滅するでしょう。

では、駅伝の記録は純粋にランナー個人のものなのかというと、それも違います。ランナー10名のタイムは合算されるので、この部分においてはチームが単位となる。これは否定しようがありません。水泳だったら、結果に反映されるのは100%その選手のパフォーマンスですね。ところが駅伝ではランナー個人の総合結果への寄与度は低くにとどまり、かつ、どこからどこまでがその選手の寄与なのかははっきりしないのです。

駅伝に勝つための戦略はない

では今度は、チームを率いる監督の立場からみてみましょう。

駅伝の監督には「チームが勝つための戦略」というものはない。またはあるとしても「それらしきもの」止まりになります。

サッカーの監督は、「相手チームは右サイドからの攻めがすばやい」という情報があったなら、対策として適任者を選びそこに配置するでしょう。情報や戦略をチーム全員で共有し、右サイドの選手自身はそのポジション担当としてプレーします。11人のプレーの総体がチーム全体のパフォーマンスとなります。この枠組みにおいて、右サイドの選手がほんの少し場所をあけたスキに相手に抜かれたとします。監督は「あのミスが致命傷だった」とかんかんになるかもしれません(もっともサッカーにはサッカーの思考があるので、右サイドを請け負った選手が右サイドをガラ空きにするという状況設定そのもの現実的ではないのですが)。観客としても、「わずかな油断を見逃さなかった相手ミッドフィールダーが一枚上だった」「相手のスピードが予想以上だった」「前段のパス回しで攪乱して右サイドを空けさせる相手チームの技があざやかだった」など、なんらかはっきりとした意見を持つことができます。

しかし駅伝は違います。箱根駅伝では10区間もあります。マラソン大会で出場選手全員がゴールすることはまずないのと同じように、10人もいれば全員が最高のパフォーマンスを発揮できることはまれでしょう。どんなによくコンディションを整えようとも、ブレーキまたは故障する選手は確率的に出てきます。

もしかしたら、選手が2区に決まったなら2区が担当だからサッカーの右サイドと同じだ、と言う人がいるかもしれません。しかしくり返しますが、駅伝では走っている時はあくまで個人の競技です。他のチームメイトはランナーのパフォーマンスに何の関与もできません。たとえボールがこなくとも全員がプレーに参加しているサッカーと異なり、駅伝では戦略やパフォーマンスを共有しようがないのです。それなのに、あるランナーの成績について他人が口出ししていいのでしょうか。「あいつのせいで負けた」とか「負けたのは自分のせいだ」なんて言っていたら、箱根駅伝はやっていられません。ブレーキ、故障、棄権者が出たことにより目標として掲げた結果に手が届かないことは、十分あり得ます。突然の不調は仲間の誰かに起こるかもしれないし、もしかしたら自分の身にふりかかるかもしれない。駅伝は、みながそれを納得したうえで臨む競技のはずです。

ましてや「(ランナー名)がブレーキしたのはチーム全員の責任だ」などというのは筋が通っていません。なぜなら、「責任」という概念の性質上、責任を問われるのは義務に違反した場合だからです。駅伝選手に、他のチームメイトの筋肉や心肺や胃を管理する義務はないじゃないですか(もしそんなものが課せられていたら気色悪い人格侵害!)。そもそもコンディション、しかも他人のそれをコントロールすることは科学的に不可能です。したがって、「他人のパフォーマンス」という義務がない事柄に関して責任を負うことはありえません。

ある区間のランナーが負う責任……というより受け止めるべき対象は、自身の結果だけです。思った通りの走りができなければがっかりするでしょう。途中棄権は無念でしょう。細かく言うなら、競技人生を送っていれば結果に落胆することなど何度もあるはずで、その新たな一つが胸に刻まれるといったところです。しかしチームの順位にまで責任を感じるというのなら、それは行き過ぎです。自分の身体や今後の人生にダメージがあろうとチームのためには棄権できないというなら、そのチームの体質はむしろ問題です。

スポーツは、人類にとって「自己の健全な発展」を目指す営みです。もしそれが不健全な精神性、自己や他者の尊厳を傷つけることにつながるなら、スポーツの根底が崩れてしまう。どこかで道を逸れたと言わざるを得ません。

選手には、何のためにスポーツをするのか、その意志と理想、そして喜びをしっかり胸に刻んでいてほしいと思います。競技人生には先行きが見えず不安な時などもあると思いますが、スポーツの理想に立ち返るのは、たとえるなら夜空から北極星を探し出すようなもの。行くべき道を指さし、再び、堂々と歩んでいける。きっとそうですよね。

箱根路を走っている、そのこと自体へのエール

このことは、観客にとっても同じです。さきほどサッカーを例に出しました。サッカーの観客なら、「右サイド警戒しろ、今抜かれたら点取られるぞ!」などと叫ぶでしょう。水泳の応援だったら、「実力を出し切れて本来なら金メダルに値したけど、他の選手の出来が良すぎた」など、これまたはっきりした形のある感想を抱くでしょう。

しかし、駅伝の応援には、そういった具体的な中身がありません。母校が出場している人は、母校を誇って声援を送る。特にどこも応援していない人は、ランナーそれぞれの走り自体を応援する。それが箱根駅伝の応援スタイルです。私は母校の名を叫ぶ人、応援用のタオルや旗を掲げる人を、これまで沿道でたくさん見ました。順位がつくものなんだから、応援しているチームが勝てばそりゃあうれしいでしょう。しかし「勝て」とは言いようがない。なぜなら、「勝て!」……どうやって? これに答えられる人はいません。1区のレースは、あくまで1区出場選手個人の競走です。大学のたすきをかけていようとも、レースの中身は大学対抗ではありません。さらに、7区のランナーに「抜け!」と発破をかけたところで、7区の時点ではすでに積み重なった差があります。タイム差が10分もあるのに「トップに出ろ!」なんて言っても無理なものは無理じゃないですか。そして、たった1時間足らずの間にたすきは次のランナーへ渡ります。応援するといっても、誰に対して何と言うのか。駅伝において、それは永遠にあいまいなままなのです。

沿道やテレビで母校を応援する人は、箱根駅伝という誉れある大会に母校が出場していることに誇りを感じているものです。実際、沿道では、順位にこだわっている人は見かけないんですよ。私は母校の選手が快走するとTwitterで盛り上がったりしていますが、その裏返しで不調の選手を責めているということはありません。そもそも責める気持ちが心の中にありません。そこだけは強調しておきたいのです。箱根ファンの気持ちは、走っている選手を元気づけたいというところにあるといってまちがいありません。

箱根駅伝ランナーと沿道で応援する人々
声援は箱根ランナーたちに惜しみなく送られる。

箱根駅伝の意義―「目標」となること

以上のように、駅伝ではたとえ選手層に恵まれた大学でも確実な勝利を望むことはできないし、勝つための戦略というのも立てようがありません。観戦する側も、順位にはこだわりません。これらは駅伝のルール=枠組みに由来するのです。

では、駅伝とは何なのでしょうか? 観客にとっては勝敗除外のアミューズメント、選手をはじめ応援団など学生のイベントなのか。私は、箱根駅伝をそういう「お祭り」とはみなしていません。

箱根駅伝の原点まで立ち返ってみましょう。発端は、まだ陸上競技という概念がなかった大正時代、「世界に通用するランナーを育成したい」という先人たちの思いでした。東京高等師範の学生だったころ日本人としてオリンピックに初出場した”日本マラソン界の父”金栗四三らが各校に手紙を書いて参加を呼びかけ、応じて集まった東京高等師範・早大・慶大・明大の4校が「箱根あたりまで」と競走を催したのが第1回大会。つまり、箱根駅伝は学生・卒業生有志による企画だったわけです。

箱根駅伝とは、学生の大会である。私はこれに尽きると思います。

当時の学生・卒業生が思い描いた通り、箱根駅伝は日本を代表するランナーを輩出してきましたが、それから時代は移ろいました。箱根駅伝黎明期には大学の陸上部員数と日本全国の陸上競技人口はほぼイコールでつながっていましたが、現代ではそんな大げさ言わずとも、たいていの中学に陸上部がありますね。陸上界は大きく発展し、若い競技者の選択肢は多様になりました。陸上をやるなら必ずしも大学駅伝でなくていいし、競技者によっては、ランナー人生を俯瞰して別の選択肢のほうがためになると判断するでしょう。

それでも、多くの人が注目する大会は選手にとって能力開花のチャンス、発掘されるチャンスとなり得ます。たとえば第95回大会『公式ガイドブック』の”山の神”対談(68~72頁)で、現在プロランナーの神野大地さんは「5区で活躍したことで世間の人に知ってもらえて、その後はたくさん応援してもらえるようになりました」と語っています。現代において箱根駅伝は日本唯一の大会でも絶対的な登竜門でもないし、それは陸上界が発展した証なのでむしろ喜ばしいことですが、若いランナーにとって一つのチャンスであり続けているのは、これまた事実です。

また、学生にとって、オリンピックが目標とは限らないのは昔も今も変わりません。健全な身体づくりをしたいというのも、スポーツにいそしむ立派な動機です。競技も含めた学生生活で日ごろ努力・研鑽を積んだなら、発表の場があるのが好ましいですよね。大会があるならば、それを目標に速くなろうという意志が生まれます。たとえ競技の内容があいまいであれ、順位がつくなら少しでも前へという気持ちになります。箱根駅伝という大きな大会は、学生の目標、また自己実現の場として望ましい舞台です。日々トレーニングを積み、ついに大会へ、それで母校が勝てたならみんなで祝おう――よいことではありませんか。

さらに、箱根ランナーは沿道で手を振る子どもたちの目標にもなります。ガイドブックのプロフィールでもテレビ中継の実況解説でも、陸上を始めたきっかけで「箱根を走りたかった」との理由を挙げる選手は毎年一定数いますよね。こうして沿道からは次世代のランナーが生まれてきたし、きっと今年も家に帰ってランニングシューズをねだった子がいるでしょう。

箱根駅伝大学生ランナーたち
映像ではなく沿道で観戦すると、ランナーの足どりの迫力に圧倒されます!

以上のように、箱根駅伝の意義はそれぞれの「目標」となることだと、私は考えています。

結びに―箱根駅伝の華は「学生であること」

学問にはげみつつ、学問内外での経験を積み重ね、時には深く悩みながら、自分は何者として生きていくのかを決めていく。若き学生の姿は、いつの時代も変わることはありません。

時代の流れで、近年はどの大学でもスポーツを主眼に入学する学生が増えました。大学での競技生活――それが輝くトロフィーであれ中継所で湧き出した涙の味であれ――をステップに競技者として生きていくというなら、それもまた学生が出した一つの答えでしょう。他方、「陸上は今日の箱根が最後です」と春には新たな世界へ旅立っていく学生は、毎年少なくありません。ある業界のある会社で働き始める人、教員となって自ら指導者となる人、家業を手伝うと決めた人。学生生活を通してどんな志を掲げるに至ったとしても、すばらしい大会に出場した経験は必ず人生に活きるでしょう。そう思って目を細めるのは、私だけではないはずです。

学生それぞれが、自分の将来をつくっていく。箱根駅伝がつないできたのは、学生の未来を拓く活力だと思います。

私には運動部に入っていた経験がありません。したがって、スポーツの大会というのは自分からかけ離れたものでした。だからこそ、同級生や後輩がこういう大会に出場していると、それはそれは尊いことだと感じるのです。

競技生活を送っていれば、結果に打ちひしがれる日もあるのでしょう。スポーツに限らず何かに全力を投じたことがある人間なら努力が報われなかった時の絶望や虚脱、葛藤はありありと理解できるつもりだし、そういったいろいろな雨空のような気持ちを否定することはありません。しかしそれでもなお、長年観戦するうちに、私の記憶には選手と観客の思いにズレがあると感じたシーンがずいぶん増えてきました。駅伝の観客は、選手本人が思っているほど厳しく冷たい目を向けてはいません。将来へと走っていく学生にエールを送っているのです。

箱根という素晴らしい大会を走った自分を、もっともっと誇りに思ってほしい。その喜びを胸に刻んでほしい。それが、観客である私が選手たちに伝えたい思いです。

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オリンピックの由来と歴史―日本の初参加はいつ? – スポーツの意義はこちらでも論じました。競技者が「自己の健全な発展」を目指し、その過程で他者の尊さにも目覚め、ひいては平和へつながっていく。それがスポーツの理念だし、また魅力でもあると思います。

(記事公開2019年2月16日。2020年1月4日、第96回大会の寸評を加筆・更新。)