刑事裁判の被害者参加制度の問題点

自分または家族が心臓病か大量出血を伴う大けがのときは、医師免許がなくても手術をしてよい――もしもこんな制度があったら、あなたは自ら執刀しますか? まさか、ですよね。大切な人を死なせかねない。

しかし実は、これと似たようなことが、刑事司法の場で起きています。

私が知る制度という制度の中で、刑事裁判の被害者参加制度ほど犯罪被害者にとって酷な制度はありません。この記事では、制度の基本的な説明を押さえたうえで、その理由を解説していきます。例やたとえも使いながらできる限りわかりやすく書くので、もしあなたや周りの人が同制度を利用するか迷っているなら、必ず読んでほしいと思います。

被害者参加制度とは?

被害者参加制度は、刑事訴訟法(以下、刑訴)で定められた一定の条件のもと、被害者本人、もしくはその法定代理人(典型的には被害者が未成年の場合の保護者)、または被害者側から委託を受けた弁護士に、刑事裁判手続きへの参加を認める制度です。

参加が認められるのは、被害者側があらかじめ検察官に申し出、かつ裁判所が諸事情を考慮して相当と認めた場合です。対象となる事件は限られていて、刑訴316条の33の1号から5号に定められています。具体的には、故意により人を死傷させた事件、性犯罪、業務上過失致死、過失運転致死傷など、人身に被害が及ぶ重大な犯罪が対象とされています。

裁判に参加する被害者(被害者参加人)は、事件に関する検察官の活動について意見を述べ、また説明を求めることができます(刑訴316条の35)。また裁判所が相当と認めたときは、証人の尋問(刑訴316条の36)、被告人への質問(同316条の37)、法律の適用について意見を陳述(=求刑)(同316条の38)をすることが認められます。

本来、刑事裁判は検察官・被告人およびその弁護人・裁判官の三者によって行われます。被害者は事件の証人として参加するところ、この制度で参加が認められた場合は、検察の横で裁判に出席し、直接参加することとなります。

被害者参加制度の問題点解説

このような被害者参加制度ですが、スタートする前から法的問題を指摘し危惧する声がありました。どこに問題があるのでしょうか。

被害者が遠ざけられていたのは、理由あってのこと

「昔、犯罪被害者は裁判から排除されていた。しかしようやく被害者たちの声が世に届き、被害者参加制度が実現した。こうして犯罪被害者は自ら被告人に質問したり、苦しみを訴えたり、求刑したりできるようになりました」――こんな「ハッピーエンドのストーリー」に仕立てたテレビの報道に出くわしたら、鵜呑みにすると大変なことになります。残念ながら、間違った情報が平気で世に出回るのはめずらしいことではありません。もともと日本の刑事裁判に関するニュースは、法的説明がなくレベルが低いと言われてきました。ちなみに私には、でたらめが耳に流れてきたので嫌気がさし、テレビを消したことが少なくとも二度あります。

犯罪被害者が刑事裁判に参加することがなかったのは、きちんとした理由があってのことです。欠陥や問題点ではありません。これについては勘違いや流説が多いので、誤解を解くことに重きを置いて解説したいと思います。

刑事司法は「国家が被害者に代わって復讐する仕組み」ではない

刑罰は、本質的に害悪です。人間を捕まえて監禁するなんて、悪いことに決まっている。それこそ犯罪じゃないですか。ではなぜ、国家がそういったことをする刑罰は正当化されるのでしょうか?

細かい議論はいろいろありますが、正当化根拠はおおよそ「当該行為には刑罰があると国家が予告することで犯罪を抑止するため(「一般予防」と呼ばれる)」および「犯罪者自身が将来再び罪を犯すことを防止するため(「特別予防」)」と解されています。

そもそも刑罰を加えることは国家権力の一部です。である以上、こうした刑罰論の大元にある問題は「国家とは何か」です。これを論じたのが、歴史の教科書にも載っているホッブズ、ロック、ルソーらの社会契約論。自然状態において人は自由で平等だが、どうしても紛争が起こる。それを解決する機関が必要になり、人々が社会契約を結んで形成したのが国家である。なので刑罰は公益のためでなければならず、本来は害悪なのだから必要最小限でなければなりません。

したがって、刑事裁判はあくまで国家が国家として機能していくための作用なので、個別の犯罪被害者のためのサービスではありません。ましてや国家が被害者に代わって復讐するとか、被害者が「犯人」に罰を与えることを国家に頼むとか、そういうとらえ方は実際とは異なるのです。(ちなみにですが、金銭的・精神的損害を被った被害者が相手に直接損害賠償を求めるのは民事裁判。)

刑事裁判というと「殺人」や「強盗」など人身に被害がおよぶ事件を思い浮かべがちなことが、そうした勘違いを生んでいると思います。刑法全体に目を通せば、「虚偽公文書作成」や「業務上横領」、あるいは「麻薬所持」など、誰かへの暴力とは趣向の違う犯罪がその多くを占めています。言い換えれば、国家が刑罰の対象とする行為の種類はさまざまで、世にいう「被害者」が存在しないケースも多数である。それを考えれば、刑事裁判を被害者向けのサービスかのようにとらえるのは的を射ないということが分かるでしょう。

以上のように、刑罰を考える際には「国家とは何か」が起点になります。シミュレーションゲーム風にたとえるとイメージしやすいのではないでしょうか。あなたは空っぽな土地の王様で、これから新しい国をつくっていきます。国=共同体ではさまざまなことが起こりますよね。あなたは農業、エネルギー、商取引などあらゆることに対処する一方、時に紛争が起こるのは共同体の宿命ですので、ルールを作っておかなければなりません。そのうちの一つが刑事司法です。よい制度を整備すれば自由で暮らしやすい国に発展し、人々は幸せになりますが、失敗すれば国は荒れ果て、やがては破綻するでしょう。

刑事司法の大原則「無罪の推定」を否定した

「無罪の推定」は、すべて犯罪の訴追を受けた者は法律に基づいて有罪とされるまでは無罪と推定されるという、刑事裁判の大原則です。

日本では憲法31条に根拠があり、世界的にも、世界人権宣言11条1項・国際人権規約(人権B規約)14条2項に明文があります。世界人権宣言は「恐怖及び欠乏のない世界の到来」を一般の人々の最高の願望として宣言しており、「無罪の推定」はそれを実現する方法の一つとして挙げられているのです。つまり裏を返せば、「無罪の推定」原則がなければ、「恐怖及び欠乏」がある世界になってしまうということ。

古くは1789年のフランス「人権宣言」に、国民主権や自由、平等と並んで「すべての人は有罪と宣言されるまでは無罪と推定される」(第9条)とあります。

このように、被告人の無罪の推定は、我々が我慢して受け入れさせられるものどころか、人間が率先して求めたものなのです。

なぜ人類は「無罪の推定」原則を考え出し、宣言するに至ったのか。それは、えん罪(濡れ衣)の悲劇防止ためといっていいでしょう。

被告人が出てきたらみなが「有罪だろう」と思っている法廷を想像してみてください。なら事実上、逮捕・起訴された時点で有罪決定じゃないですか。裁判所は意味がなくなってしまう。

上で説明した通り、刑罰とは本来害悪です。自由や財産、場合によっては生命まで奪うので、刑事裁判の判決は重大です。しかし人類の歴史には、無実の人が疑いをかけられた時点で事実上有罪となり、たびたび拷問で虚偽の自白をさせられた末、命までも不当に奪われるという悲劇が、大量にありました。あの人もこの人も、あなたも私もみな、たまたま誰かから疑いをかけられたらもう終わり。それでは生きた心地がしませんよね。そのような「恐怖」が起こるのを防止するため、検察官が犯罪の事実を証明しない限りは被告人は無罪という大原則が作られているのです。

ところが被害者参加制度はどうか。裁判への参加を希望する被害者は、被告人が当然「犯人」だという前提ですよね。つまり、被告人は有罪だと推定しているわけです。

あとであらためて述べますが、人類が多大な犠牲の上に築き上げた刑事裁判の根幹を否定してしまうことは、被害者参加制度最大の問題点といえるでしょう。

刑事法について何も知らないワイドショー出演者や歳若い文学青年が、感覚と思い付きで「刑事裁判は加害者の人権ばっかり守っているけれど……」などと口ずさんでいるのがどれほど的外れか、バックグラウンドを知ればよく分かったのではないでしょうか。

もしも被害者参加制度が画期的ですばらしいものだったら、世界の刑法学に一大ムーブメントを引き起こし、各国がこぞって検討・導入するはずです。しかし、一国たりともまねしようとはしません。その背景には、人類の闇の歴史と、それを克服せんとする切なる願い、そして筋の通った理由があるのです。

厳罰化の流れのうちに生まれた、ないはずの制度

では、なぜこんなに問題点だらけであるにもかかわらず、被害者参加制度は実現したのでしょうか。

同制度は、犯罪被害者が厳罰化を求める流れのうちに成立したといわれます。理論上は、裁判に参加した被害者が「死刑は絶対にやめてください、懲役5年を求刑します」などと刑を軽くするよう求めることもあり得るはずなのですが、それが意識すらされないのは、同制度が厳罰化の流れの一端であることをよく表しているといえるでしょう。

被害者が求刑をするようになるというので、制度が始まったころ関係者が騒然としていたことを私はよく覚えています。裁判員制度とセットで始まることも相まって、感情論やポピュリズムを排さなければならない刑事司法が復讐劇場と化しかねないと、危惧が叫ばれてきました。

被害者参加制度が刑事司法と本質的に矛盾しているのは、先に述べた通りです。本来はありえない、あってはならない制度です。

目的と手段の関係――犯罪被害者支援は、別の方法で

一部犯罪被害者の声のすべてが誤りだとは言いません。たしかに犯罪被害者への配慮や支援はとぼしいところがあったからです。

しかし、だからといって話を被害者参加制度につなげるのは無理があると言わざるを得ません。被害者への配慮や支援という目的に、刑事裁判で被害者が被告人に質問したり求刑したりするという手段は合致していないからです。

配慮や支援を充実させるべきなのは、支援制度や社会の在り方などです。国家権力たる刑事司法ではありません。補助金による経済的支援は、ここ数十年で拡充が進んできています。被害者が二次被害を受けないための配慮やプライバシーへの配慮は、対応する警察官の教育や、証人として出廷する際の精神的負担軽減策によって実現できますし、実際これらも進んできました。金銭的・精神的損害の賠償請求には、民事訴訟があります。

このように、理不尽にも犯罪に遭われた方々を支えるのは、被害者を支援するという目的にぴったり合った、正当な手段によるべきです。

被害者にとって酷な7つの理由

以上が法的問題点となります。刑法を考えるとは国家とは何かを考えることにつながるので、どうしても理論的で抽象的になります。あまり実感がわかないという人もいるかもしれません。では、個々の事件の裁判では具体的にどんな問題が起こってくるでしょうか。

私が言いたいのは、被害者参加制度は被害者にとって酷だということです。被告人にとって、ではありません。以下はその角度から、どこが被害者にとって酷なのかを7つ、指摘していきたいと思います。

全体を通して見て、被害者参加制度の性質の悪さは、犯罪被害者に起こり得ないことへの期待を抱かせてしまうところにあると私は考えています。

「真犯人」が反省してくれるとは限らない

犯罪被害者が何より求めているのは、加害者の心からの謝罪でしょう。犯罪によって理不尽に奪われたものは、金品や心身の健康だけではありません。傷つけられたのは、人格の尊厳です。加害者は非を認めて、犯罪行為のよって否定した人格の尊厳を肯定し直すべき。反省しないなら、重ねて侮辱と危害を加えるに等しい。だから反省と心からの謝罪を求めたい――。

ただ、刑事裁判に参加して被告人に質問・求刑することは、果たしてこの願いを実現する手段となるでしょうか。

制度を利用して検察官の横に立ち、「犯人」(被告人が「真犯人」とは限らないが、ここではそうだと仮定する。論に無理が出るのは、制度に矛盾があるせいである。)に質問したとします。「なぜこんなことをしたんですか」「私がどれほど苦しんでいるか分かりますか」「真実を語ってください」など、言いたいことはいくらもあるでしょう。

しかし、被害者が法廷でどれほど問い詰めようが、厳罰が下ろうが、反省して真摯に謝罪するかどうかは「犯人」次第です。

たとえば恋愛で、片思いの相手に自分を好きになってほしいと願ったとします。けれど、その人がふり向いてくれるかは相手次第じゃないですか。真剣な想いを重ねても、がんばっておしゃれしても、プレゼントを渡しても、相手が好きじゃないというなら、もうどうしようもない。

これと同じ原理です。

被害者から質問された「犯人」は、自分はやっていないと言い張るかもしれません(くり返しますが被告人は無実かもしれない。えん罪については下で改めて扱います)。無言を通すかもしれません。あるいは反省するどころか、被害者を侮辱・罵倒するかもしれません。たとえば「犯人」が「悪いのは被害者のほうだ」と主張するのは、被害者がこうむる二次被害(カタカナ言葉ではセカンドレイプ)の典型です。一応配慮の措置がなくはないといえ(刑訴316条の39)、裁判に参加して被告人と直接やりとりしたがために、被害者がさらに傷つく可能性があります

これは刑事司法の欠陥のせいではありません。無論、被害者の落ち度でもありません。すべて当該「犯人」の性格のせいです。

……ここまでは一般論ですけど、私の経験から言うと、多くのケースでは「犯人」が心から反省してくれることはまずないくらいに思っていい。というのも、深く傷ついた被害者が問いただしたら悔いて謝るというのは、まともな思考です。こんなまともな人だったら、そもそも故意の殺人だの性犯罪だの誘拐だのなんかをするわけないじゃないですか。刑法上の犯罪者でなくても、悪人は常識外れです。たとえば、自分の欲望のために人を傷つけておきながら謝るどころか平気な顔をして道を歩き、毎日ごく普通にスーツを着て職場に行ったりしている。あげく、他人を足蹴にしてまで悠々自適な生活を手に入れたはずなのに、妻については陰口ざんまい、子どもには「本当は怒りたくないのに叱っても叱っても次から次に怒らせるようなことばっかりやるんだから、もういやになる」と愚痴の嵐をぶつけ(自分の問題や未熟さを子どものせいにするのはダメ親の定番)、仕事についても悪口ざんまい、最後には「飲まなきゃやってられない」とまるで自分が被害者かのように泣き言を言う。そして知人には、彼のことを悪人どころか、かわいそうな人だと思わせている。悪人は、それくらいのことを平気でやってのけると思います。(大事なことなので一歩踏み込んでおきますが、加害者が謝罪しないからといって、その行為が悪くなかったことにはなりません。悪いことは悪いです。また、加害者からの謝罪を得られなくても、被害者の人格の尊厳は100パーセント完全なままで減ることはありませんので安心してください。私がなぜこういう話をしているかに興味があれば、こちらをどうぞ。)

さて余談でしたが、「犯人」に心の底から悪かったと思ってほしい気持ち、誠意ある謝罪を求める気持ちは自然かつ正当です。「犯人」がこの世で生きていること自体が苦痛だという気持ちもわかります。しかし、被害者参加制度はその気持ちに応えるものではありません。制度うんぬんではなく、そもそも物理科学的に、反省しない「犯人」を反省させる方法はこの世に一つもない。愛の妙薬が魔法でしかないのと同じです。

刑事裁判に参加しても、煮え切らない思いは残るでしょう。犯罪の被害に、さらなる苦しみが加わるかもしれません。そして期待外れな結果になったとしても、それはいかなる制度のせいでもないので、被害者が独りで受け止めるしかありません。……酷ではありませんか。

(くどいようですが、記事のこの部分では語弊があること承知で被告人の有罪を前提としたような表現を使っています。刑事裁判の鉄則は無罪の推定なので、くれぐれも誤解のないようお願いします。)

被害者の意見は、決して通らない

被害者がいろいろ意見を述べたとしても、判決がそれ通りになることはありません。なぜなら、被害者参加人の意見をそのまま通すのでは、もはや裁判ではなくなってしまうからです。刑事裁判の意義は、上で説明した通りです。

また、裁判は公平・公正であることが命です。被害者がどういう性格で、どんな信条を持った人か。事件のことをどうとらえたか。被害者の家族はどんな人物か、あるいは家族がいたか否か。一口に犯罪被害者といっても、人柄や考え方、家族関係は千差万別です。そういった個別の事情で判決が左右されてしまう裁判所なんて、信用できないですよね。

正義の女神テミス
法のシンボル・正義の女神テミス。剣は実効力、天秤は公平・公正、そして目隠しは公平な判断をさまたげる事情(たとえば被害者の感情)を見ないようにすることの象徴である。

制度を利用した被害者には、求刑通りの判決が出たので「自分の思いが裁判官に伝わったから、参加してよかった」と感じた人もいるそうです。しかし実際には、偶然の一致にすぎません。すでに述べた通り、刑事裁判は被害者ではなく、すべての人のために行われます。また、裁判官は独立して考えて判決を出します。被害者の「思いが伝わったから」その判決になったわけではないのです。

判決だけではありません。裁判への参加を希望する際も、その後の証人尋問、被告人への質問、法律の適用についての意見(求刑)に際しても、裁判所がそれを認めるまでには刑訴に事細かな規定が設けられています。

被害者参加制度などと聞いたら、被害者の希望が裁判に反映されるような期待を抱いてしまうかもしれません。しかしこれは裁判ですので、決して被害者の思い通りにはなりません。ならないからいいのです。

のちに思いが変わっても、その時にはどうにもできない

犯罪に遭うのは、理不尽な大惨事です。日常から真っ逆さま。混乱と怒りの嵐。終わりのない苦しみと悲しみ。犯罪の直後、「犯人」に「奪ったものを返せ!」と激情をぶつけたくなるのは人間としてきわめて自然です。

ただ、5年、10年、20年と時が経つうちに、被害者の思いが変わっていくのはめずらしいことではありません。

「あの時は裁判に参加してああ言ったけど、今では……」そんな心情の変化が生まれたとき、被害者参加制度には応えようがありません。裁判に参加して言ったことは確定事項であり、それを後から変更することはできません。

なぜなら、これはあくまで国家権力の作用たる刑事裁判だからです。裁判所は、被害者の心のケアを行う病院とは別なのです。

のちに制度が変わったら

先に解説した通り、被害者参加制度は法的に根本的な問題を抱える制度です。将来的には立法により撤廃、あるいは原型をとどめないような抜本的改革が行われるでしょう。

では、被害者参加制度がなくなった時、制度下で被害者が求刑まで行った判決はどのような評価を受けるのでしょうか。自己や大切な家族のためよかれと思って参加したのに、何十年後、裁判の公正さに疑問符がついてしまった。そんなことが将来現実に起こり得ます。すでに参加した方にとっては、残酷な現実かもしれません。しかし、法的に問題だらけで施行される前から批判が多く、本来なくて然りの制度を利用するとはそういうこと。だから被害者にとって酷だと私は言っているのです。

犯罪被害者がえん罪を起こすという悲劇のシナリオ

刑事裁判の被告人は事件の「真犯人」とは限りません。被告人は、濡れ衣を着せられた無実の人かもしれない。たとえ被害者が「絶対間違いない」とどんなに固く信じていても……。

足利事件を思い出してほしい

足利事件とは、栃木県足利市で起きた幼女殺害事件で有罪とされ無期懲役が確定した菅谷さんという男性が本当は無実だったというえん罪事件です。有名な事件なので、どこかで耳にはさんだことがあるのではないでしょうか。濡れ衣のために、菅谷さんは人生の大半を獄中で過ごすことになりました。彼が失った人生は、もう取り返しがつきません。また見逃せないのは、何十年も菅谷さんが「身代わり」にされていたため、幼女殺害事件の「真犯人」は今なお逃げ続けているという点です。

さて、もしも今日あなたがご遺族の立場だったら、裁判で「犯人」(正確には被告人、つまり菅谷さん)に「自分がしたことを反省していますか」と質問したり「厳罰に処すよう求めます/死刑を求刑します」と意見を述べたりしますか? 想像しただけでも身の毛がよだちますよね。

無実の人の人生を破壊してしまう危険性

被害者参加人は、主観では、「極悪人」に反省と心からの謝罪を求めて検察官の横に立ったはずです。

ところがもし冤罪だった場合、被害者がやっていたことは客観的には何だったのか。無実の人を「犯人」だと決めつけ、反省しろと怒鳴りつけた。厳罰を求刑して、刑務所へ送り、それを喜んだ。また、無実の人を必死で糾弾している間、「真犯人」はずっと警察に追われる心配なく逃げおおせていた。厳しいですが、これが現実です。直視しなければなりません。

望んだことからしたら突拍子もないことをしていた、と被害者・遺族が気づいた時、えん罪被害者の人生はすでに破壊されています。謝っても取り返しはつきません。検察の席で刑事裁判に参加する以上、この危険を免れることはできません。

無実の人を死刑に処してしまう危険性

何度も言いますが、被告人が真犯人とは限りません。現在の日本は、よりによって死刑がある国です。被害者参加人が死刑にしてくれと叫び、結果としても死刑に処されたその人が、本当は無実だった――そんなことも、決して絵空事ではありません。

先に述べた通り、判決を決めるのはあくまで裁判官です。判決が被害者の希望通りになることはありません。しかし「その人を死刑にしてください」とまで言っておいて、「私は死刑判決に関係ありません」と開き直れますか。

犯罪の被害者だったはずの人が、えん罪の加害者になってしまうのです。はっきり言うなら、犯罪被害者が罪なき人を殺害してしまうという、絶望的な結果。この場合、えん罪被害者はもうあの世ですので、謝ることすらできません。被害者が背負ったどんな言葉でも言いようのない葛藤と苦悩は、永遠に続くでしょう

犯罪被害者が重大な覚悟を決めなければならないという、酷なシチュエーション

警察官や検察官、裁判官は、自分が判断を誤ったら無実の人を破壊してしまうことを承知でその職に就いています。

ただでさえ苦しんでいる犯罪被害者や遺族・親族が、この重責を背負うのですか。覚悟は決めたのか。覚悟どころか、その重責というものが頭にもないうちに参加してしまったというのが実際のところではないですか。いえ、覚悟があろうがなかろうが、知っていようがいまいが、刑事裁判に参加する被害者は事実としてこの重責を負っています。だから私は被害者参加制度は被害者にとって酷だと言っているのです。

被害者だったはずの人が、人類を攻撃する側に……

被害者が起こしたえん罪を想像しただけで気分が悪くなった人もいるかもしれません。しかし被害者参加制度には、それ以上の、逃れることのできない過酷さがあります。自覚の有無にかかわらず、裁判に参加するということ自体が、刑事司法の大原則「無罪の推定」を否定してしまうことです。

ここまでいかに酷なことになるかを挙げてきましたが、個別の事案によっては問題ない(ように見える)場合もあるかもしれません。たとえば、

  • 被害者が検察の席から問い詰めた結果、「犯人」がついに反省の言葉を口にしてくれた(もっとも、これが被害者参加制度のおかげだとか、だから同制度を存続させたほうがいいというのは早計だが)。
  • 被害者の求刑通りになったから、裁判所に思いが伝わったのだ(先ほど述べた通り、これは主観でしかなく事実とは異なる)。
  • 何十年経っても被害者の思いは変わらず、あの時法廷で言いたいことを言えてよかったと思った。
  • 被告人が「真犯人」だったのでえん罪ではない(もっとも人間のやることなので、絶対的な真実は誰にも確かめようがないが)。

ならいいじゃないか……とはいかないのが、被害者参加制度最大の過酷さだと思います。被害者参加人もそうですが、検察官や裁判官にとっても、いくら運用によって被害者への配慮や上記リスクの回避策を講じようが、手続きや理論のどこかしらで刑事司法の大原則を否定せざるを得ないという法的問題はくつがえりません。

犯罪被害者は、人生を普通に歩んでいる途中で突然、犯罪に遭うという巨大な理不尽に引きずり込まれた、なんの罪もない人でした。

その被害者だったはずの人が、被害者参加制度なんかがあるために、自覚のあるなしにかかわらず、人類が多くの犠牲の上に築き上げてきた刑事司法を破壊し、世界に「恐怖及び欠乏」を呼び戻す者へと変貌していってしまう。こんな悲劇が地球上にあっていいものでしょうか。

ただでさえ大変なのに、裁判に参加するかの選択までしなければならないのか

殺人や殺人未遂、性犯罪などの被害に遭ったら、ただの精神状態ではいられません。その日から人生は変わってしまいます。

その大変な状況にある被害者に、被害者参加制度は、裁判に参加するか否かの選択を迫ります。

参加・不参加の判断をするためには、まず刑事司法について知らなければなりません。ただでさえつらい状況にある犯罪被害者が、裁判が始まるまでの限られた時間で勉強までしなければならないのか。基礎知識はこの記事でカバーできるよう書いてきましたが、六法のなかでも刑法理論はむずかしいので有名です。傷ついた人に、むちを打たないでほしい。自分を大事にすべき時のはずです。

また、同制度が刑事司法の大原則を曲げたものである以上、被害者が法廷でした発言に対して社会や有識者から批判があがる可能性はあります。良識ある人なら、批判するにしても被害者の心を斟酌して、配慮ある表現をするでしょう。しかし、内容的には筋が通っていて厳しいものとなります。悪意ある人の誹謗中傷は荒々しくとも空っぽなので、ある意味、精神的にまだましかもしれません。

犯罪に遭ったばかりの被害者がこれらを考慮し、選択するのは負荷が重すぎる。あまりに酷で、目も当てられません。

まとめ:主観と客観の埋まらない溝

被害者参加制度が被害者にとって酷な理由を7つみてきましたが、いかがだったでしょうか。

同制度がどこまでも苦々しいのは、被害者の主観と、その言動が持つ客観的な意味に、埋まりようのない大きな隔たりがあるからに尽きると思います。

被害者参加制度は童話にでも出てくる幻惑の森みたいなものだ、とイメージしてみてはどうでしょうか。苦しみに落とされた犯罪被害者の目に、その森はなんだかすばらしいところのように映る。奥には求めるものがあるに違いないと信じて足を踏み入れる。ところが友達にいわせれば、その被害者はいかにも危ない森へ誘い込まれている。進んでも進んでも、求めるものはどこにもない。森を知る人々は、求めるものはありっこないと知っているのだけれど。そして暗くあやしい森をさまよううちに、やがて被害者の姿も変わっていってしまう……。

すでに同制度を利用して裁判に参加した人にとっては、「知らぬが仏」なことがあるかもしれません。しかし事実は事実です。

もともと被害者だった人が、それをきっかけに悪い方向へ行ってしまう。これほどやるせないことはありません。

おわりに

自分または家族が心臓病または大量出血を伴う大けがのときは、医師免許がなくても手術をしてよい――もしもそんな医療制度があって、もしもそれを利用する人がいたら、どんなことになるでしょうか。傷跡縫合の練習してからのぞんだけれど、膿んでしまったあげく、自分の体に素人仕事の縫い痕が残ってしまった。無免許の家族が手術室でメスを手にするようになったら、医療に対する社会からの信頼が落ちてしまった。大切な我が子を、自分の手で死なせてしまった。そんなつもりじゃなかったのに――。

自分や大切な人を本当に救いたいなら、何もかもに自分が出て行って手をつければいいというものではありません。やる気と思いだけでは、良い結果にはつながらない。周りをよく見て、適切な方法をとらなければ。このことは、刑事裁判でも同じです。

もしあなたが犯罪被害者や関係者で被害者参加制度を利用するかどうか迷っているなら、悪いことは言わないので制度は使わず、従来どおり証人として出廷することをすすめます。これ以上傷つかないでほしい。自分を大事にしてほしい。過去には大変な目に遭ったとしても、どうかその後は自由に生きてほしい。それが私の切なる願いです。

最後になりますが、犯罪に遭われた方・ご遺族の方には心よりお悔やみ申し上げ、結びとさせていただきます。

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著者プロフィール

映画『レ・ミゼラブル』レビュー – 舞台は19世紀フランス。パンを一切れ盗んで19年も強制労働をさせられていたジャン・ヴァルジャンを主人公とする有名な小説のミュージカル映画版です。被害者参加制度と直接の関係はないんですけど、人権保障がない世界での刑罰がどれほどひどいものかが映像でわかりますので、よければどうぞ。

人格障害の特徴と犯罪の関係は? – 「あの人はこんなひどいことをしておいて、どうして少しも反省しないのか」――その答えとなる事物をいくつも解説しました。この世には、反省もなにも、そもそも良心の呵責を感じない人間が存在している、ということはご存知でしょうか。

ポピュリズム事例集―日本の小泉政権からトランプ大統領まで – 近代司法の大原則を曲げる突拍子もない制度は、いかにして実現してしまったのか。その政治的背景たる小泉政権について解説してあります。

法令検索・刑事訴訟法 – 刑事訴訟法の原文です。制度の一般向けの説明は法務省ホームページなどにもあります。一から勉強するなら刑法のテキストはありますけど、まわりに犯罪の被害に遭われた方がいらっしゃるなら、どうか無理をさせず、大事にいたわってあげるようお願いします。