中年の引きこもりと仕事のジレンマ&今後のライフスタイル

国・地域や文化は、その特色や歴史から生まれた独特な問題を抱えることがあります。

一例として、インドのカーストを思い起こせばいいでしょう。世界中ほかのどこにもないあの独特な身分差別は、法律で否定された今日もなおインドの人々を苦しめ続けています。また一口に人種差別といっても、アメリカの人種差別はアメリカオリジナル。奴隷制の歴史を起源に、性別や経済力、宗教などと組み合わさることで入り組んだ社会階層ができあがり、アメリカ社会は独特な政治的分断や憎悪にもがいています。ほかにも、中南米の経済格差は植民地時代に端を発して人種問題とつながっているし、キリスト教文化圏のセクシャリティにかかわる問題(女性観やLGBTのとらえ方、家族観など)は、他の文化にはない独特なカラーと文脈をもっています。

文化や歴史から生まれた、独特な問題。それは日本にもあります。「引きこもり」です。

ただ私は、インドのカーストにさえ匹敵する独特さ・根深さのわりに、引きこもりは日本人に身近なこととして意識されていないと感じています。そんなのは特殊な人の話、といった感覚の人も多いのではないでしょうか?

私は昔、訳あってネット上をさまよっていたころ、ネット上にほんの少しだけ出てきている引きこもりの方々に出くわしたことがあります。彼らはまともで、当たり前で、人間的な魅力もあって、とても苦しんでいる、そんな人々でした。

本稿では、前半で世界に類を見ない「引きこもり」を生む日本社会の独特さを解説し、それが部屋から出られない人だけではなく誰にとっても身近であるということ、引きこもる「体質」自体は普通の社会生活を送っている日本人にも広く深く根を張っているということを、たくさんの例とともに紹介します

後半では、中年となった引きこもりの人がどういうジレンマを抱えているのかを説明したのち、私自身も学術知識と見聞をフル活用して、今後の「仕事」をどうしていけばいいか、アイデアを考え出そうと思います。(うつなどを併発している方にも危険な内容はありませんので、どうぞ安心して読み進めてください。)

引きこもりを考えることは、日本を考えることにほかなりません。本稿が、引きこもりを都市伝説レベルではなく正確に理解するための資料、また引きこもっているご本人にとって何らか役立つ情報になることを願っています。

目次

引きこもりを生む、日本の「集団」

引きこもりは病名や診断名ではなく、何年もの間自宅に閉じこもり続ける状態を指す言葉です。しばしば昼夜逆転の生活を送り、長期化にともなって対人恐怖や自殺企図などの精神症状が二次的に生じてくることがあります。(参照『ビッグ・ドクター 家庭医学大全科』法研、2004年)

最近は海外で同様の例を探し出そうする動きもあるようですが、やはりそれは別物です。健康なはずの人が人や社会とのかかわりを一切持てなくなってしまうという現象は、日本以外の地域や文化では見られません。

では、日本の何が、この独特な現象を生み出しているのでしょうか?

「自分を押さえないと……」―仲間外れへの恐怖、そして孤独

引きこもりの根源は、集団全体の平穏(「和」)が第一とされやすい文化的風土にあります。日本人は、集団に所属することで「自分」を見出しがちです。このことは、所属集団なしの「自分」がないことを意味します。

すると必然的に、「集団への適応」は誰にとっても大きな課題となります。

「平穏」を保つことが至上目的とされている集団のメンバーには、「いつか外されたらどうしよう」という不安が生じます。こうした不安を抱えた人には、「出る杭にならないように」というベクトルの強い緊張が働きます。

集団全体の「平穏」を守るためには、自分を――人によってはノーベル賞並みの才能を――押さえなくてはなりません。もし抜きん出た者がいれば、周囲が批判し、押さえつけ、押さえきれない場合は外しにかかります。

結果、集団内には表面的な平穏さと裏腹に、暴力的な排他性が浸透します。人々は「仲間外れ」にされる恐怖につきまとわれ、顔では笑っていても、内心ではそれぞれが深く孤立しています。

何もかもが「適応」の問題となっていく、日本社会の独特さ

「集団への所属」が自己の存在意義に達するほど重大な意味を持つなら、集団から外された場合のダメージは必然的に大きくなります。

一例として、介護離職を考えてみればいいでしょう。それまで会社に埋没していた中年男性が親の介護をすることになり、それまで同様フルタイムで働けなくなったとします。すると彼は、職場で「みんなと同じ」にすることが「できない」人と見られます。それまで「仲間」だった同僚から「別枠の人」のように扱われ、たとえ直接の打診はなかったにせよ事実上職場にいられなくなり、やがては退職を余儀なくされるのです。人生のふとした出来事で突然「仲間外れ」の対象になった彼は、仕事と同時に自己のアイデンティティや人とのつながりまですべて失って、社会から完全に孤立する――通常は「介護」というカテゴリーで取り上げられる介護離職問題ですが、その本質は日本独特な「集団への適応」にあるのです。

本来、「親の介護」と「集団への適応」にはまったく接点がありません。にもかかわらず、親の介護という個人的な事情を抱えたとたん、彼には「その集団になじめるかどうか」という問題が浮上する。日本の集団では、あらゆる問題が「集団への適応」と混ざり合い、それへと変質していくのです。介護離職のケースは、海外だったら「今の仕事を辞めた」だけの話ですむところです。

このようにして、日本における集団は「過剰適応の国」「ノイローゼの国」となっていきがちです。怒りや反発をオープンに表現できる地域や文化と異なり、外された側がひたすらふさぎ込んでいくのが特徴です。

論者によっては、世界初の引きこもりは日本神話の最高神・天照大神の岩戸隠れだといいます。つまり、引きこもりとは、日本が始まった時から続く、根の深い問題なのです。

「引きこもりの一因は日米関係だ」と聞いたことがないなら座学が必修

読者のあなたは、どのようなきっかけでこの記事へやってきたのでしょうか。引きこもってしまった家族や友人のことが心配で、何をしてあげればいいんだろうと情報を探している。ご自身が引きこもったまま中年・高年になり、今後の展望を描きにくく、仕事の件を含め悩んでいるうちにこの記事へたどり着いた。そういう方もいらっしゃることでしょう。

人は課題にぶつかると目の前しか見えなくなってしまいがちですが、そんな時こそ問題を客観視するのが大事です。そしてそれに必要なのは、正しい知識です。

古来より続く文化的風土に加え、戦後日本の歴史は今日の引きこもりを生む原因となってきました。戦後日本のそのまた背景には、日米関係や冷戦があります。

このことは、引きこもりに関してある程度見識がある人にとっては常識です。私はかつて新聞で、「『引きこもりの原因には戦後日本社会と日米関係がある』とはよく言われているから、あえてそれには触れない表現をした」という論者を目にしたことがあります。

しかし私の見たところでは、この見方が社会全体のあらゆる人に根差しているとは思えません。引きこもりという分野にあまり触れたことがない方は、「部屋にこもりきりの息子とアメリカにどう関係があるんだ」などと意外に思ったかもしれません。引きこもりは本人の素質や性格に問題があるとか、本人が他人とのかかわりを嫌い望んでこもっているのだ、といった感覚でいる人は、まだそれなりの数残っているのではないでしょうか?

なので次には、今日の引きこもりと深く関わる、戦後日本の歴史的な背景を解説します。

戦後解放された日本の「個人」は、アメリカに翻弄されて頓挫した

終戦直後、アメリカの対日政策は非常に民主的でした。日本人は戦前の全体主義から解放され、ようやく自由と人権を取り戻しました。

ところがアメリカはその後、手のひらを返して政策を転換します。背景は米ソの冷戦勃発です。日本人がソ連側へ加わることを恐れたアメリカは、真の意味での民主主義、開かれた市場経済、民主的な社会へ向かってとっていた舵を急旋回し、管理と抑圧に傾きます。

萌芽したばかりの「個人」の感覚は、ここで頓挫します。本稿ではそのことを、日本人の自己に「空洞」が、社会の在り方に「空白」が生まれたと表現しましょう。アメリカという国家の都合は、やがて、先に述べた日本の文化的風土や経済成長政策、刹那主義などと結びついて、混ざり合い、日本人の心の空洞と社会の空白に入り込んでいきます。

心の空洞と社会の空白を埋めた、会社への過剰適応

戦後日本は、経済成長を第一に掲げていきます。戦前の全体主義は終わったのに「個」がなおざりにされ、自分がどうあるべきか、どう生きていくかを見失った人々は、企業という組織へ没入することで頭と心の「空洞」をごまかし、その場をしのぎます。

大企業中心の社会に将来世代を「動員」する意図のもと、高度経済成長期の学校教育は、競争主義と無意味な暗記に偏重しました。「動員」のじゃまとなるであろう主体的に考える力、問題に取り組む姿勢、そして批判的思考は、軽視され、排除されました。この「つめこみ教育」世代は、子どものころ「”サラリーマン”になって勤め上げる/”サラリーマン”の主婦になる」という将来像を、テレビや娯楽によって頭に刷り込まれました(私は”サラリーマン”という造語は放送禁止用語にすべきだと考えています。ただこの記事ではその特殊性と時代性を描写するのに役立つので、カッコつきで使用します)。本来、人の生き方には大まかに分けただけで何通りもオプションがあり、実際海外ではそれが当たり前なのですが、戦後日本の特定世代は、あまりに単一かつ単純な人生観しか持たなかったのです。

欧米人は、「仕事最優先」と聞くと「金の亡者」を思い浮かべます。自分の信念をもって「金がすべてだ」という思想を持っている野心家です。

ところが戦後日本の「仕事最優先」に、主体的な意志や野心はありません。これからどんな自分になればいいのか、これからどう生きればいいのかわからず途方に暮れた人々が、情勢に流され、時の政策に組み込まれていっただけなのです。

戦後日本人の会社への極度な依存は、経済面・精神面の双方におよびます。今日、男性のお年寄りが定年退職により会社への「所属」を失うと、自己を見失ってぼう然自失に陥る例はめずらしくありません。”サラリーマン”の仕事への狂信的没入は、会社名とそこでの「課長」「部長」といった役職名がアイデンティティのすべてとなるまで徹底していました。本来は10代前半で始めるはずの自己と向き合う作業を70歳で始めるのでは、遅すぎるに失します。

かくして追いやられた人は「引きこもり」となった

以上のように、戦後日本において人々の頭には「空洞」があり、社会にも「空白」がありました。

それを埋めた過剰適応によって成り立つ集団において、あからさまに排除された、あるいは特に何かがあったわけではないけれど「適応できなかった」のは、主体的な人、明るくフレンドリーな人、愉快でおもしろい人、明晰で批判精神のある人、感性豊かで物事を一歩深く考える人、才能のある人、ノーベル賞並みの才能がある人などです。

不運にもふとしたきっかけで「不適応」となった彼らは、周囲から「人としてだめだから、何をやってもうまくいきっこない」という極端なレッテルを貼られます。社会とのかかわりを持てないでいるうちに、本人も自信と自己肯定感を失っていく――ここに「引きこもり」が誕生します。

さらに時代が進むと、頭が「空洞」だった親や教師に育てられた世代が出てきます。こうした次世代の孤独や孤立がすさまじいものであるのは想像に難くありません。「生き方」を教えてくれる人がおらず、自己を確立した先例もなく、いきなり大平原のフロンティアに空から落ちてきたような状況でサバイバルを始めざるを得ないのです。

自宅・自室にこもるのは、消極的な選択です。望んでそうするのではなく、追いやられてなるものです。

引きこもりとは、「個」の否定に対する悲鳴の、究極形態なのです。

部屋から出られない人より引きこもっている人々―物事の本質は見た目ではない

さて、一般的には自宅・自室から出られない人が「引きこもり」と呼ばれていますね。

しかしどうでしょう。物事の本質は、表面的な見た目とは大きく食い違っているものです。

閉鎖的な組織。新しい人や考え方への拒絶反応。「出る杭」を打つ傾向。「みんなと同じ」をよしとする風潮。考えてみれば、これらは私たちの社会にまんべんなく浸透しています。「部屋にこもっているか、外を歩いているか」という見た目にごまかされては、「引きこもり」という独特で根深い問題の本質は見えないのです。

こういう発想は「引きこもり」である

あの人は外を歩いて普通に社会生活を送っているけれど、ものの考え方や言動は「引きこもり」そのものだ――。

ここでは、そのよくある例をざっと並べてみます。周囲の人を見渡してみてください。そして、自分の発想や人生観も思い返してみてください。こういう言葉や思い、考え方に心当たりはありませんか?

  1. 国の政治・経済に対して、自分は影響力を持っていないと思う。
  2. テレビに出ていた起業家は、特別な才能がある人だと思う。自分とは関係ない世界の話だ。
  3. 大学生の冒険家やコンクールの優勝者、起業家、社会問題に取り組む活動家などがメディアで称賛されていると、内心「この人”就活”はどうするんだろう?」と思う。はっきり言って、彼らは人生を失敗している、あるいはこれからひどい目に遭うと思う。
  4. 社会問題に取り組む人はイタイと思う。大人でスマートな自分でありたいから、社会のことには関わらないよう心がけている。Twitter等で”意識高い系”というスラングを使ったことがある。
  5. 選挙に行かなかった。投票に行けと言われたらウザイと思う。
  6. 政治は特殊な人がやるものだと思う。自分には関係ない。
  7. 政治は偉い人がやるものだと思う。自分なんかには関係ないので、そういう人にまかせておけばよい。
  8. 地元の議会議員は、土地の名家や定年後の人がやるものだと相場が決まっている。周りで「議員は名誉職」という言葉を聞いたことがある。世の中とはそういう人たちが動かすものであり、自分はそういう人ではない。
  9. 赤ちゃんや子どもの声をうるさいと思ったことがある。もし近所に保育所ができることになったら、迷惑なので反対だ。
  10. この土地によそ者が住み着くのは不快だ。震災からの避難者には、早く出て行ってほしい。

……これらの発想は「引きこもり」だ、ということが分かるでしょうか?

どういうことかというと、こうした考えでは、「自分」と「社会」は切り離されて存在していることが前提になっています。「自分」が「社会」にかかわる一員だとは考えていないのです。社会の一員として社会を動かすことを、自分には関係ない話だと決めつける。これは自分の殻にこもることに他なりません。

リストの2・3では、自分の人生について”サラリーマン”になるという単一な発想しかなく、他の考えやライフスタイルをはねつけています。それが実際には高度経済成長期に政策の都合で人工的に作られた人生観であるということは、すでに解説した通りです。

とりわけ、4以降に1つでも該当した人は、「引きこもり」として重症です。それらはすべて、社会との関係を自ら望んで断ち切っている例だからです。

世で「引きこもり」と呼ばれている自宅・自室から出られない人は、本当は社会とかかわりたい、人とつながりたいと思っています。それができないから必死でもがいているのです。

ところがリストの4以降に該当する人は、「社会とかかわりたくない、参加したくない」という思いを抱いている。見た目では外を歩いて普通に生活していても、心では社会に背を向け、ひたすら自分の世界にこもっている。これでは部屋から出られない人より重度で、もはや病的な「引きこもり」ではありませんか。

とりわけ9・10の類になれば、病的な引きこもり体質は他人を傷つけるに至っています。9番「保育所をつくるな」というけれど、だったらこの社会に生まれてきた子どもたちはどこで育てばいいのか。喜びに満ちて生まれてきた無垢な赤ちゃんを「害だ」と感じるとは、病的極まりありません。また、震災に遭うのは精神的にも経済的にも大変なことです。なのに故郷を追われて避難している人に向かって「出て行け」とはどういうことなのか。なぜ町を私物化しているのか。

自宅・自室から出られない人は、人生のどこかで集団からの排除の対象となり、暗い部屋へと追いやられた人たちです。社会の犠牲となったほうなのです。ところが9・10のようなことを平気で口にする人は、その極端な自己中心性によって他人を傷つけている。幼児教育から出直してこいと言いたくなります。

こういう経営者や”サラリーマン”は「引きこもり」である

また、戦後経済の産物としての一面をもつ以上、引きこもりは広義でいう「仕事」と切っても切れない関係にあります。

あなたの職場やビジネスシーンで、こんな例を見たことはありませんか?

  1. ある会社は近年「グローバル化」を掲げている。だが、創業者の息子である社長は古くからの取引先としか関わらず、仕事のやり方は昔から決まりきっていて、従業員は無言のプレッシャーによりサービス残業を強いられている。外国人が働けるような環境ではない。
  2. ある年配”サラリーマン”は、「最近の若者は誰かに言われないと何もしないしできないから本当に困ったものだ」と口をとがらせる。しかし彼は「上には服従、下には命令」する典型的な人で、彼の言う「”社会人”の基本」は「滅私奉公」そのものだ。自分のほうを変えようとは夢にも思っていない。何かのきっかけで退職を余儀なくされたら、彼はぬけがらになってしまうだろう。
  3. ある企業では人手不足が深刻で、経営者はこのままでは操業を続けられなくなると危機感を募らせている。ただ昨年は、やる気満々で入社してきた新卒の若者が1年ともたずに退職。体調不良や子育て・介護を理由とした退職も絶えたことがなく、高い離職率をキープしている。その場をしのぐために採用した契約社員は、業務が板についたころ、契約切れで去っていった。
  4. ある企業の管理職は、「主体的に動く個人事業主のような人がほしいのに、そういう人材がまるでいない」とため息をもらす。ただし、同社では「”ホウ・レン・ソウ”が職場の常識」だとされている。顧客から問い合わせが入った時、その件の責任者が誰なのかはよくわからなかった。
  5. ある企業の採用担当者が「画期的な人材を採りたい」と言った。なので居合わせた人が「私の知り合いに、大学卒業と同時に世界一周の旅へ出て、帰国してからは個人でマウンテンバイクのツアーガイドをしている人がいる。紹介しようか」と申し出たら、採用担当者は軽いジョークだと受け取った。

……口で言っていることと実際やっていることが完全に矛盾しているのがわかるでしょう。人間関係を古参だけで固める閉鎖性。暗黙のルール。会社への依存と没入。絶対誰も自主性を発揮しないようにできている職場環境。

仕事上の肩書きがあって自信満々、ともすれば横柄な外見と裏腹に、こうした経営者やビジネスパーソンは重度の「引きこもり」です。彼らは、口では困った、このままではいけないと言いながら、心の奥では、新しい人も、やり方も、考え方も、絶対に入ってきてほしくないのです。

ではなぜ経営者や”サラリーマン”は「自分たち」の内にこもりたがるのでしょうか? そのせいでビジネスがピンチにみまわれているのに? これを推論するのは、すでに解説した戦後日本の歴史を理解すればそうむずかしくありません。

新しい人や考えが流入すれば、それまでの組織や人間関係には変化が生じます。たとえば新入社員がやってくれば仕事の分担は変わってくるし、人間関係においても、たとえばこれまで「ひょうきん者」だった人がその座を奪われたり、おとなしい性格の人が増えた結果ひょうきんさが生きなくなった、などということが起こってきます。自他の区別がないくらい会社に没入してきた人にとって、それは自己の存在意義が覆ることを意味します。だから、彼らは会社に依存する形で形成した「自己」(これを自己と呼べるかは別としますが)を守るため、たとえパワハラを働いてでも、巨額な赤字が出ようとも、倒産が確実になろうとも、はねつけたいのだ。それでも避けられない新人にはこれまでの職場に合わせてその一部となるよう強い、「個」が消えない人のことは「よそ者」として排除の対象にするのだ。こうした独特な心理が見透かされます。

自分の殻にこもる人々が形成してきた「社会」

以上のような「外見上は普通の社会生活を送っているけれど、内面は閉鎖的で排他的、社会に背を向けて自分の殻にこもっている」という形での「引きこもり」は、これまで何十年も、戦後日本社会の主たる担い手となってきました。つまり、今日の日本社会は「引きこもり」の人々によって形作られたのです。

このような戦後の日本人は、得てして、「自分は社会に関わっていない、影響力をもっていない」と信じ込んでいます。彼らに「あなたが日本を動かしてきたんですよ」と言ったら、きっとなんのことだかわからないという顔をして、「自分なんてただの人だから……」などと口にするでしょう。

しかし、これは思い込みにすぎません。どんなに閉鎖的な人でも、客観的には職場の上司、企業の採用担当、あるいは会社経営者、家庭では誰かの配偶者や子どもの親、国・社会では有権者、住民などとして行動し、それに伴う責任を負っているからです。この状況が、今日の生きにくい、とうとう破局が視界に入ってきたこの社会を形成する一助となってきました。

「引きこもり」は、部屋から出られない人だけではありません。自分/自分たちだけの世界にこもる体質自体は、これくらい広く、様々な形をとって日本社会全体に浸透しているのです。

『千と千尋の神隠し』は、戦後日本人の「引きこもり体質」をテーマにした作品である

さて、硬派な座学が続いたので、ここらで肩の力を抜くのもいいでしょう。紹介するのはスタジオジブリによるアニメ映画の名作『千と千尋の神隠し』(2001年、宮崎駿監督)です。

実は「本作に登場する『坊』というキャラクターは、宮崎駿監督の考える戦後日本人の寓意なのだ」という有力な説があるのをご存知でしょうか?

巨大な赤ん坊が、外の世界に出てはじめて自分を発揮する

解説しておくと、坊とは、普通の人間よりはるかに大きい、怪力持ちの、しゃべれる赤ん坊です。

『千と千尋の神隠し』の舞台は、八百万の神様向けの湯屋(風呂屋)。この風呂屋を経営する魔女(「湯婆婆(ゆばあば)」)は内部者に強権支配を敷いていますが、坊のことだけは溺愛しています。

『千と千尋の神隠し』の湯婆婆と千尋
強権的で恐れられている経営者・湯婆婆。

坊はおもちゃだらけの部屋で一日中クッションの山に埋まっていて(つまり、こもっていて)、「表には悪いばい菌しかいない」(つまり、外の世界は危険である)と固く信じています。湯屋の外の、そのまた別世界からやって来た主人公・千尋に言わせれば、「こんなところにいたほうが病気になる」ような生活です。

そんな坊ですが、物語の後半、ひょんなことから千尋にくっついて外へ出ることになってしまいます。すると病気になるどころか、見るものすべては新しく、面白く、自力で地面を歩いてみたくなるほどでした。「沼地の魔女(「銭婆(ぜにいば)」)はおそろしい人だ」という話は流言にすぎず、実際に会ってみれば優しい人だと判明します。湯屋では千尋が今すぐ遊んでくれないとかんしゃくを起こした坊ですが、心根はまっすぐで親切です。能力がないわけでもありません。銭婆のお手伝いをしてみると、それなりに感謝されます。巨大な赤ん坊は、外の世界に出たことで初めて、眠っていた本当の自分を発揮するのです。そして湯屋へ帰るころには自分の足で歩けるようになっていて、湯婆婆ともいっぱしのやりとりができるようになっています。

千と千尋の神隠しで千尋を見送る坊や人々

坊と湯婆婆と湯屋で表された、戦後日本人と社会の姿

映画としては難解で、大人でも「いまいち理解できずに首をかしげた」という感想がめずらしくない『千と千尋の神隠し』をくわしく論評する気はありません。ただとりあえず、次のように解釈すれば、本作は日本社会をとてもうまく描写していると思います。すなわち、

  1. 未熟でわがままで自己中心的だけど巨大かつ乱暴で、かつ外に出さえすれば善良な人(=坊)
  2. 過保護と強権支配が表裏一体で、実は半人前な上役(=湯婆婆)
  3. 40年前(映画公開が2001年なので、その40年前は1961年。高度経済成長政策が始まった時代である)から外界と遮断されており、「内」の人々は本名を奪われて匿名的な労働力となり、「本当の自分」を忘れることで「上」から支配されていて、そのような労働力にならない者は存在することを許されない組織(=湯屋)

という3つの要素のからみ合いです。(千尋のお父さんお母さんがバブル世代を表象していることは、スタジオジブリ自身が明らかにしています。千尋の両親は、間違った道を無理やり突き進むうちに神様たちの世界へ迷い込み、あとでお金を払えばいいからと無断で飲食したため、怒った湯婆婆によって豚に変えられてしまいます。)

豚にされた千尋の両親。宮崎駿監督が批判的に描いたバブル世代の表象である。

念のため確認しておきますが、上記3点のうち坊が表していると解釈されているのは、「引きこもり=部屋から出られない本人」ではありません。戦後、特にバブル期以降の日本人です。

ただ宮崎監督は、坊や湯婆婆のような人々を悲観するのではなく、その奥底に希望を見出しているようですね。なぜなら「湯屋の環境が本来の力を発揮できなくさせているだけだ」と描いているからです。(ちなみに、「カオナシ」というキャラクターも同じ問題の別の側面を表しているといわれます。カオナシはげっそりしていて仮面をつけ、男性の髪形をした影のようなお化けで、孤独に苦しみ、他人とコミュニケーションをとりたいのにうめくことしかできず、砂金をあげることで人を引きつけようとします。千尋と一緒に外へ出たのち、坊は成長をとげて湯屋へ戻りますが、カオナシはそのまま銭婆のもとに残ります。)

引きこもりと切っても切れない「仕事」を、『千と千尋の神隠し』は一つのテーマとして掲げています。ただこの点に関しては、児童である千尋が労働(しかも前近代的な組織での小間使い)を通して成長するというストーリーが不自然なことをはじめ、無理やいびつさがあると言わざるを得ません。個人的には異議をはさみたい部分はいくつもあります。以下リンクであらためて論じましたので併せてご覧ください。

参考:『千と千尋の神隠し』考察と論評―両親、坊、湯屋が表象した戦後日本

しかしなお、戦後日本の「引きこもり体質」の描写に関しては、本人、周囲、社会に対して批判も「べき」論も投じることなく、ひたすら受け入れ後押しする姿勢をとりながら鋭く表現していると思います。これまで見たことがなかった人はもちろん、一応知っているという人もこういう視点を持って寓意を紐解いてみるといいでしょう。

以上のように、引きこもりとは、「アニメ監督を一人だけ」といわれても間違いなく選ばれるであろう巨匠・宮崎駿監督が、その代表作で取り上げるほどの一大テーマなのです。

……アニメといえば念のため言っておくと、もしどこかで「引きこもり」が太った怠け者のアニメマニアのように――いわばおもしろおかしいダメ人間として――描かれているのに出くわしたら、それはコンテンツ産業の下っ端が複雑な現実社会に背を向けて(つまり引きこもって)作った粗悪な「商品」です。現実の引きこもりの方々とは一切関係ありません。

(更新:2020年9月にスタジオジブリが作品の画面写真の提供を開始したため、作中シーンの画像を追加しました。併せて、新たに書き下ろした本作の考察と論評へのリンクを貼りました。)

想像しただけでも耐えがたい、本人の苦しみ

引きこもりがどれほど根深く、独特で、また日本社会全体に浸透している現象なのか、ここまででお分かりいただけたと思います。

では、引きこもりの問題点はどこにあるのか。

仕事に行けない、お金を稼げないということが浮上しがちなのですが、よく考えればこれは問題ではないとわかります。誰にも他人に「金を稼げ」と義務を課す権利はないからです。稼いだ金の額で人の価値が決まることもありません。第一、他人の人生にああしろこうしろと口出し・介入するのは、悪質な占い師か、自分と他人の境界線を引くことができない未熟な人間かのどちらかです。引きこもり本人を非難するのは、非難する人自身の気休めにすぎません。見当はずれな愚行で、本当の問題から目をそらしているだけです。

引きこもりの問題点、それはひとえに、自宅・自室から出られない本人やその家族の苦しみです。

想像してみましょう。もし「自分の部屋から一歩も出るな」と言われたらどうしますか。気がおかしくなってしまいますよね。自宅軟禁は拷問の一種です。自傷行為に近い性質もあるといえるでしょう。この社会が何十年も抱える問題の割を食った人々は、そんな破壊的な状況に追いやられ、暗い部屋の中でひとり、深い苦しみに耐え続けているのです。

まずは神話の時代から続く「集団」の問題の自覚から

国・地域や文化は時折、他ではみられない独特な問題を抱えることがあります。日本でそれにあたるのが、引きこもりです。

冒頭で、アメリカの人種差別は独特で複雑だと言いました。ただ、ならばアメリカ人は人種主義はどうにもならないとあきらめているのか、といえば、それは違います。「人種差別は悪である」という観念は、日本人が想像しているよりもはるかに強くアメリカ人の心に定着しています。大きな人種差別事件が起こったときはもちろん、形なき差別意識がみられたときなどにも、そこらのごく普通な人々が闊達に反対の声を上げていて、私のSNSにはそういった投稿がたびたび届きます。アメリカ人は人種差別の歴史を語るとき、それはそれは悲愴な表情を浮かべます。

インド周辺地域のカースト制も根深いですが、今日ではそれを痛ましいと思っていない人はいないと言っていいほどです。私がこのブログで紹介した映画でも「(成績順の並び方を指して)これではまるでカーストだ」などというセリフが出てきます。カーストは悪しきものだ、という観念はすでに固まっているのです。

私たちは、引きこもりという悲劇をを生む社会の在り方を強く非難すべきです。本人の家族や友人が深く心配していたりはするのですが、もっと社会規模での関心が必要だと思います。「集団」に関してトラブルを生じやすい文化的風土で暮らしているのだと自覚することに始まり、それを細かに研究して、身の回りでそういう問題が起こったときには積極的に対処できる姿勢と知恵を身につけるべきです。

日本社会は「空白」と「空洞」を何十年もごまかして、その場しのぎを繰り返してきました。つまらない見栄の張り合いで自分を確かめても、彼らの心はいつだって不安です。迷子のような自分を隠すために、強がって、着飾って、心の不安に手で触れるのが怖いから会社に没入して一時をごまかして……。こんなことはもういいかげん、終わりにしなければなりません。

引きこもりは、部屋から出られない本人の個人的な問題ではありません。一人ひとりが「自分」というものを持ち、外の世界に出て、自分の足で立つべき時が来ています。

中年の引きこもりと仕事のジレンマ

さて、ここからが後半です。学齢期の児童生徒であれば、「適応」に問題が生じたところで今後があります。不登校なだけなら選択肢はいくらもあるし、たとえ引きこもりになってしまったとしても、若い人はそれに対処する時間と将来の可能性をふんだんに持ち合わせています。

ところが自宅・自室から出られない状態が長期化してそのまま中年・高年になった人は、職歴なし(人によっては学歴もなし)でありながら、家計の問題が浮上してきます。職場でのトラブルなどをきっかけに人生の途中でそうなってしまった場合も、生活資金と次の職が課題となります。

中年以降の引きこもりとなると、家族や本人の葛藤は半端ではありません。

まずは、そのジレンマの数々を確認したいと思います。

人生観の開拓に取り組むべきなのに、就労がゴールになりがち

前半部で、引きこもりを生んだ大きな原因は「”サラリーマン”になる」というあまりに単一・単純な人生観だ言いました。なら、それを克服するには、多様な生き方を開拓すべきです。

ところがなお、引きこもりの人が目指すゴールは「就労」になりがちです。

そして「就労」とはたいてい、フルタイムの”サラリーマン”になるか、パート勤務だとしても”サラリーマン”の世界に「所属」することを意味しがちです。引きこもりを生んだ原因にまた飛び込む、というのだから、合理的に考えれば解決策にはなりません。

刹那主義を撤回しなければならないのに、目の前の経済力が問題に

そもそも、経済力という「結果」は、すぐには生まれません。

しかし、終身雇用(実際には神話でしかなかった)が現に崩れた今日でも、日本人の頭には終身雇用(的)神話が根強く残っています。「学校を出て就職(実質的には「就」であって「就」ではなかったのだが)すれば、生活資金が一生定期的にチャリンチャリン振り込まれ続ける」と信じている親は、いまでも大部分を占めているでしょう。

個人も社会もいいかげん、今の利益だけで動く刹那主義を改め、若い人やいまだ成果の出ていない研究などを見守り支援するという形での「投資」を活発に行わなければなりません。「成功はあとからついてくるものだ」とは人気インド映画のテーマですが、真の利益が生まれるにはそうした寛容さが必須条件です。必ずしも結果が出るとは限りませんが、それは私たちがとらなければならないリスクです。

ところが中年以降の引きこもりの人は、親が歳をとる中、今すぐ生活資金を得られるようにならなければというプレッシャーに苦しんでいます。同じようなことは国家・社会規模でも起こっていて、企業は「リスクのあることには投資できない」とすぐに結果を求める傾向を年々強めています。

「今すぐ成果を求めるのをやめなければならない、けれども今すぐ成果が必要だ」という板挟みで、中年以降の引きこもりと日本社会は二人三脚のように足をからげられ、もがいています。

声を上げるべき時に、対人関係をつくれない

高度経済成長以降の学校教育で、問題への対処方法を編み出すクリエイティブな思考力や批判的思考が軽んじられてきたと言いました。なるほど、それが問題なら、「批判する能力や方法」の欠落を埋めることが得策かつ不可欠と考えられますね。

ところが、引きこもりの人は社会の在り方へ批判の声を上げるどころか、人前に出ることが一切できないほど対人関係が苦手になってしまっています。先に述べた通り、素質としては明るくフレンドリーな人、愉快で面白い人、あるいはそれこそクリエイティブに問題に対応できる明晰な人だったりするのですが、それゆえに自宅・自室へ追いやられたのだ、というやるせない矛盾があるのです。

人類史において、人権を獲得する過程、社会を良くする過程では、必ず尊い犠牲者が出てきたものです。しかし普通は、社会の犠牲者というのは銃弾に倒れるものですよね。ところが引きこもりを生んだ特殊な社会の犠牲者は、なんの社会的活動もできない状況に追いやられる、という形で犠牲になっているのです。

社会規模のジレンマを踏み越えて

このように、中年以降の引きこもりの人々は縦横に「仕事」とのジレンマをかかえ、身動きがとれなくなっています。家庭だけに子育ての負担が集中するこの社会では、引きこもりへの対処も家庭だけが抱えるはめになりがちです。これほど根深く大きな問題であるにもかかわらず、支援団体が次々生まれてくる社会風土もありません。クリエイティブでダイナミックな抵抗や批判を展開しようにも、その方法論は確立しておらず――たとえばポップミュージックひとつをとっても、プロテストソングは重要な地位を占めるどころかほとんど存在すらしていない――社会で一定の勢力をほこるに至っていないのが現状です。

独特な問題を引き起こした原因が、その解決を阻害する。非常に悩ましいループです。

日本社会が抱える「本当の問題」に取り組むとき、私たちはまるで何もない原野に手ぶらで立たされたような状態になります。逆境からのスタートです。

しかし、板挟みの板を無理やり踏みつぶしてでも何かしなければ、状況を変えることはできません。理想的なアプローチでなくていい、泥くさくていいから、各自の事情に合わせてとにかく実践あるのみだと思います。

本人のためのオプションを考え出してみた

問題の所在は出そろいました。なので、ここからは既存の資料なし。私が自分の頭で考える番です。

引きこもりのまま中年になった人は今後どうすればいいのか? これは「解答」が存在する問いではありません。だだっ広い原野のフロンティアに立つのだから、そりゃあ迷いはします。けれど引きこもりの人は毎日一分一秒それに耐えているんだから、へこたれている場合じゃないですよね。

ここでは私が実際に見たり聞いたりした中から、参考になりそうな話を選りすぐり、その上で生き方のオプションをひねり出してまとめることにします。私が取り上げる海外の例は、引きこもりの人にとって、周りの環境さえ違えば「そうなれたかもしれない自分」の姿だと思います。

友達が引きこもっていて心配だという人は、ぜひこの記事を送ってあげてください。うつや神経症などを併発している人にとっても危険な内容はありません。

方向性とゴールの設定はどうしよう?

まずは、目標設定をすべきでしょう。今引きこもっている人は、どんな自分になってどう生きることをゴールにすればいいのでしょうか。

先ほど指摘したばかりですが、目標を「就労」に設定すれば、引きこもりを生んだものに再度引き込まれ、堂々巡りになってしまいます。なのでこれは却下。

次によくあるゴールは「自立」だと思いますが、これは結局「就労」を意味しがちだし、第一あとに述べる通り、本当の意味で自立している人は世を探してもめったにいないのが実情です。なので「自立」をゴールに選べば、まちがった山岳ガイドについていくようなことになりかねません。

私は、ゴールはあくまで「生きること」だと思うんですよ。他人がああだこうだ振りかざす「べき」論は、身勝手で根拠無根なむなしいものです。人間はその存在自体に至高の価値があるのだから、人生に生きること以外の目的はないと思います。

では仕事は考えなくていいのか、というと、生きることの一部になっているので心配いりません。生きることという大元を考えていけば、それは自然とあとからついてくるでしょう。

以下、オプションをリストします。よかったらどれかを選んだり、あるいはいくつも混ぜて使ってみてください。

仕事編:”サラリーマン”社会の外に出れば、様々な生き方がある

戦後、自分はこれからどう生きればいいのかを見失った日本人は、世界情勢と時の権力に流され、「個」なき”サラリーマン”の世界に没入していった。これが引きこもりを生み出す大きな原因になってきました。だったら、そこから脱皮して、一時代の産物にすぎない”サラリーマン”以外の生き方をするのが合理的です。

選択肢のある人がお金やハートを発見したところ
心とお金。選択肢を増やせば、ともに充足した生き方はある。

具体的には、「仕事」を「集団への適応」と切り離して、ビジネスだけに集中できる環境と考え方を整備すればいいと考えられます。

起業コース

本来、「仕事」は「雇われること」だけを指すのではありません。とんでもない。企業にそこまでの重大な意義を見出しているのは日本人だけです。働き方は多様です。むしろ、雇われる(正確には、労働者になる)のは、仕事の本質からは最も遠い働き方です。

私も十代くらいの頃は、漠然とですが定期的な収入を得ていくための「依り代」のようなものを求めていたと思います。私は会社勤めはあまり考えていなかったのですが、資格や専門職の世界が頭にありました。生きていくための「依り代」は生活資金であり、それがなければ生きていくのが不安だ。そんなふうに感じていたような気がします。しかし知識を増やし見聞を広げるうちに、その考えはすっかり変わりました。人生とはそういうものではありません。むしろ、『千と千尋の神隠し』で千尋が坊に言ったことではありませんが、「自分以外の何かに寄りかかろうと考えているほうがよっぽど危ない」と今は思います。

引きこもりから直接起業家となるのは一つのオプションです。実際、そのためのシェアオフィスをやっている本人たちの団体もあると聞きました。ビジネスを自分で始める「起業」では、「集団への適応」という枠組み自体が出てきません。学歴や職歴も関係なくなります。引きこもりを生み出した世界に再び足を踏み入れることがなくて済むのだから、じつに合理的な解決策です。

起業(フリーランスを含む)は、決して突飛な生き方ではありません。企業がここまでの力を持たない海外諸国では、よくあるオプションの一つと数えられています。内気な人がその選択肢を選ぶのもめずらしくありません。FacebookやTwitterなどもそうですが、はじまりは一人で、規模も箱庭大。趣味や日常の雑事とほとんど変わらないかもしれません。最近では第3次産業革命であるインターネットのおかげで、敷居が低く、リスクも低く、クリエイティブで柔軟な活動ができるようになりました。

付け加えておくと、何かを始めてすぐにまとまった額や定期収入が入らなければ「仕事」とみなさないとすれば、それは”サラリーマン”をモノサシにしたからにすぎません。

私の知るところだと、大実業家になればなるほど、はじめて得た少額の利益、あるいはやってみたけど利益が出なかった経験、もしくは座礁してやめてしまった経験を珍重します。力のある実業家は「最初からいきなり大金が入る魔法はなくて当然だ」と熟知しているからです。ここではとりあえず、手元にある言葉を抜粋しましょう。

……見知らぬ客がインターネットのどこかからリンクをたどって、ニックの写真を50ドル(5000円)で買ったという。「たいしたことないじゃないか」と思ったあなたは、これまで自力でものを売ったことがないのだろう。私はそうは思わない。新しいビジネスで何かが売れたら、数に関係なく、それはすごいことなのだ。

こういう意見や体験談を、私は何度聞いたか分かりません。50ドルといわず、知り合いのパソコンのエラーを直したらお礼に7ドルもらったのが始まりだったとか、利益が100円をきっている例なんかも聞きました。「ビジネス」の定義は、金額や頻度、会社組織の立ち上げなどといった「形式」によるのではないのです。何か行動してみて少しでもお金になったなら、それは立派なビジネスです。別の言い方をすると、これまでビジネスだと思っていなかった出来事が、実はビジネスだったかもしれません。

「仕事を探す」と言ってバイト情報誌をめくる――この「常識」をかなぐり捨ててしまえば、たくさんの道が開けます。

売れるものをもっていない人は一人もいません。誰でも大量にもっています。それは一般に流通している商品でもいいし、描いたイラストなど自分が作ったもの、あるいは料理のレシピ、ゲームの攻略情報、学術知識など、情報や知識でもいい。意識的に「自分がもっているもの」を探すことが、起業という働き方のスタートラインです(これは後述の自己肯定感にもつながります)。そして「これをビジネスという形にするには」と、売る方法を探すのが次のステップです。

そうやって自分ができることのなかから何かを売ってみたなら、それはもうビジネス=仕事を始めたことを意味します。ちなみにのちの話をしておくと、規模を拡大するかマイクロビジネスのままでいくかは、自分で選べます。一人で続けるマイクロビジネスで高収入を得る大実業家は、世界中にたくさんいます。

もう一つ加えておくと、「”サラリーマン”生活」と「永続的な安定収入」という組み合わせは、ある時代に目的的に作られた「神話」にすぎません。本来は、安定収入や経済的自立がほしいなら、その手段は起業または投資です。そう、ファイナンスという分野で専門的にみれば、会社勤めの人は収入はあっても、経済的に自立しているわけではありません。

この閉塞した国でも、楽しく、自分らしく、人間らしく働いて幸せに生きている人は実はたくさんいます。彼らはなにも、生まれた環境が特殊だったおかげで”サラリーマン”社会に最初からからめとられなかった……という人ばかりではありません。「平凡な小学校、中学校、高校、大学、”就活”というコースを歩んでいたけれど、自分の生き方に悩み、ある時一念発起して会社を辞めて海外に出た」など、「引きこもりの国」のど真ん中から巣立った話はよく聞きます。経済力と精神的な幸せ両方を手に入れることは可能です。次に続くのは、今これを読んでいるあなたかもしれません。

世俗を捨てる人生コース

もう10年以上前、私がいろいろあってネット上を漂っていたころのこと。たまたま流れ着いた引きこもりサイトの掲示板で「今の日本に出家という制度があったらそういう道もあったのではないか、向いていたのではないか」と言っている人を見かけたんですよ。

世俗を捨てるという生き方は、この国では歴史の中で色あせてしまいました。しかしなお、ゼロなわけではありません。個人的には、長期間引きこもっていたからといってなにも世俗を捨てなくても、仕事などをしながら生きていけると思います。ただ、様々な生き方のオプションをながめた上で自分はそれがいいと思うなら、国内外いろいろ調べたり見学したりするといいと思います。

世俗を捨てるのも、これはこれで人類によくある生き方のオプションです。

世俗を捨てる、ということに関して興味深い本を知っているので、リンクを貼っておきます。内容へのコメントは本稿末尾のリンク集にて。

 

お金はあんまり稼いでいない人生コース

「仕事」に対する意識の違いは、言葉の細かい表現に表れます。海外の情報が大量に入ってくる今日、テレビや映画、ドラマや動画などで「おや?」と違いに気付くことはまれではないでしょう。

私が気づいたものの中から一つを厳選すると、私は前にテレビで「南米の貧しい地域で犯罪組織が子どもたちを引き入れようとするので、非行防止のためにサッカー場を作ったおじさんがいる」という話題を目にしました。ビジネスとは一切関係ないニュースなのですが、ある貧しいサッカー少年が「生きること」を見事に表現していたので、ここに引用しようと思います。

悪いことはしたくありません。サッカーをしたり働いたりしながら、まじめに生きていきたいです

……意識の違いが見えるでしょうか? 「サッカーをしたり働いたり」という順番に注目。「生きること」を語る場面で、仕事よりサッカーが先にきているではありませんか!

このまっすぐなサッカー少年は、貧しいので高等教育は受けていません。彼の言う「働く」とは、地域の小さな工場で作業をすることです。給料の額はしれていて、十分とはいえません。

でも、稼ぐお金が少ないからといって、いけないなんてことないですよね。貧困という社会問題は別として、彼、輝いてますよね。

労働は人の役に立つ、というのは一応本当ですが、その度合いには職種・立場等によって幅があるのもまた事実です。そして、仕事が人の役に立つ唯一の方法ではないことも。職業は、その人のすべてではないじゃないですか。お金はそんなに稼いでなくても、いい人なんだったら間違っていることは何もありません。

そもそも、ある人の稼ぎの額を決める要因は様々です。生まれ育った地域。家庭環境や経済力。健康状態。その社会で被差別属性をもっているかどうか。個人的な悩みなどの有無やその内容。出会いやタイミングなど、運や偶然の要素。社会文化と自分の資質の兼ね合い。その時代・場所で多く稼げる職種と自分の相性。そして本人の希望や選択。ざっと挙げただけでもこんなにある要因が、複雑にからみ合うのです。稼ぎの額は、けっして本人の能力や努力だけで決まるのではありません。

「できるだけ多く稼がなくてはならない」という強迫観念、もう投げ捨てましょうよ。よーく考えた結果、私はいつもそう言っています。引きこもりに関していえば、「自活」をゴールにする必要って本当にあるんでしょうか?

お金を作れないことは、人生の終わりではありません。それが人としての価値を損なうこともありません。「ダメだ」なんて言う権利は誰にもありません。だって、いけないことではないのだから。

お引っ越しコース

あるイギリス人ビジネスマンは、「西洋の文化が自分に合わないと思ったから、アジアへ引っ越すことにした」と言って、シンガポールに移住しました。

私が以前この話を日本人にしたら、挫折してくたびれたルンペンみたいなのを思い浮かべたらしき反応が返ってきたことがあります。しかし、これこそが「『不適応』は挫折であり、人としてダメ」という日本特有の発想。彼ははつらつとしたエリートビジネスマンで、引っ越し先で意気揚々と生きています。もし引きこもりの人が日本以外の国に生まれていたら「こうなれたかもしれない」姿だと思いますね……。

私は、ヨーロッパ系の人に「日本人って本当に外国に住まないよねー」と言われたことがあります。海外では、外国に引っ越した理由が「生まれ育った環境や文化が自分に合わなかったから」だという話をよく聞きます。閉鎖的な島国の人がよく言う「国内でやっていけない人が海外でうまくいくわけがない」という理屈は根拠無根です。

とりあえず一度、旅行でも何でもいいから海外に出てみてはどうでしょうか。私は以前「ずっと”非リア充”だったのに海外へ出た途端『水を得た魚』になった」という30代男性の体験談を聞いたことがあるし、末尾に挙げた資料にもそんな話が出てきます。別の場所に住めるよう考えるのは、じつに合理的な一手です。

「バイト」コース

個人的には雇われるのにこだわるのは勧めないのですが、希望する人がいるかもしれないので一応書いておきます。

まず、他のオプションが「現実的でない」と感じるからという理由でバイトコースを選ぼうとしているなら、もう一度読み直してほしい。あるいは「バイト」が「自立」の漠然としたイメージだとか、周囲からそういう圧力をかけられているとか、そういう理由でバイトを考えているなら、やっぱり立ち止まって固定観念を捨て、真っ白な心で考えてほしい。

「バイト」をするとしたら、価値があるのは「自分が『やってみよう』と思った」ということ自体です。応募してみた、連絡がきた/こなかった、面接に行ってみた、働いてみた、続けてみた、いい人がいた/変な人がいた、辞めてみた、転職してみた……レポーターのように「やってみた」という姿勢で臨む感じでしょうか。

私が言いたいのは、「バイトをする」にしても「過剰適応の国」からは卒業しないと、ということ。「所属」や「適応」、他人の目という枠組みを捨て、「自分」の視点だけでやっていく。バイト先で起こるいろいろな出来事に対して、感情面でも没入を避ける。匿名的な「バイト」となるのではなくて、「自分のビジネスは<職種名、たとえばウェイター>として働くことです」という見方をする。それは、何十年も様々な問題を生み出してきた”サラリーマン”社会を乗り越えて、「個」を持ち、働くことを人生の一部にできたことを意味します。

そうやってとりあえず先のサッカー少年みたいに生き始めてみるのも、それはそれでいいんじゃないでしょうか。

マインド編:自力で自己肯定感を養えたら、この国のフロンティア開拓成功

引きこもりとなった人が対人恐怖などを併発するのはまれではありません。自分に自信がない。極端にない。しかも、ひどく傷つきやすくなってしまった。周囲もまた、はれ物を扱うような接し方をしたり、「挫折した人」扱いをしたりしがちです。

しかしどうでしょう。この「引きこもりの国」で、自分に自信を持てている人なんてどれだけいるでしょうか? 責められているわけではないのにそう受け取ってしまうのも、日本人にはしばしばあることです。

表面的には自信満々でも、その自信は他人の目に依存している。そういう人があまりに多いと思います。

たとえば、部下にいばり散らす横柄な部長がいたとします。しかし、部長であるという自信は、社長には通用しません。また、自分の会社より大きな会社の部長の前でも彼は小さくなってしまうでしょう。彼の自信は、全面的に肩書きに依存しています。彼は、自分自身に自信があるわけではないのです。ブランド好きなんかも原理は同じで、自己以外のものにすがりつく典型です。

最近では、日本のモノや文化をスタジオに持ち出して外国人にどう思うかを聞く、というテレビ番組まであるんですね。しかし、こんなことやってるのは日本人だけなんですよ。外国人に「すごい」と言われれば満面の笑みを浮かべ、「変だ」と言われればしおれる。自信なさすぎです。私はこの手のものを見かけるたび、ほとほとあきれています。外国人に聞くまでもなくいいところはいくらもあるんだから、じたばたせずドンと構えて、ただ自然に、自分のまま暮らしていればいいんです。たいてい、なんで「日本」への評価で「自分」がうれしくなったり悲しくなったりするの? 自己と他者の境界線が分かっていない証拠です。

このように、「個」をもたない人々が他者に依存して得た自信は、ひどくもろいのです。彼らはいつも不安で孤独です。彼らの横柄さは、自信のなさの裏返しなのです。

反対に、自分自身に自信を持てば、人生の中で職業や社会的立場などが移り変わっても安定していられます。

「自分の良さ」とは、他人と比べて優越する「能力」のことではありません。自分はどういう人なのか、ということです。自分の「特徴」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。まずは自分が内に持っているものを意識することから始めて、自分が自分のまま、自然にいられるようになればいいのです。

他人の目に依存せず、自分の身一つで自己肯定感をやしなうことができたなら、それは外国人の言ったことに一喜一憂する人々より先を走っていることを意味します。

マインド編:楽観と調子よさ、世間体にさようなら

この社会は今、持続可能性が疑われるところまで追い詰められています。「政治や経済なんて特殊な人がやることだしー」なんてしらけたふりをして外をほっつき歩いている「引きこもり」は、いいかげん目を覚まさなければとんでもないしっぺ返しを食らうことになると予測されています。

そんな中、唯一「なんとかなるよー」くらい楽観的でいたほうがいいのが、部屋から出られない引きこもりの方々だと思います。社会が抱える問題まで背負わなくていい。自分の人生に集中してほしい。引きこもっていた期間についても「なんかうまくいかなくて、くすぶっててさー」くらいの調子でいいんじゃないでしょうか。ふらっと次の人生を、新しい自分を始めていい。語弊を恐れず言うなら、もっともっと図々しくていいと思うんです。

日本社会は、何につけても形式ばっていて仰々しいんですよね。江戸時代の驚異的な相互監視システム・五人組から連綿と続いてきた「世間体」の縛りは、今日もまだ人々の精神にからみついています。末尾に挙げた資料には、世間体のストレスが原因で引きこもりになってしまった人も出てきます。ささいな行動すらとりにくいのは私も分かるんですけど、世界中でいろんな生き方をする人を自分の目と耳で知った今では、マニュアル人間や見栄っ張りの群れに出くわすと、なんだかじめじめした日陰に棲む生き物みたいに見えるようになりました。

まとめ:カギは「経験」だと思う

以上、私がまとめた生き方のオプション集はどうだったでしょうか。一応頭をひねって考えたつもりなんですけど、なにせ引きこもりの人は思慮深いので……。まぁ、海外の話なんて少なくとも私は面白いし役に立つと思ったことばかりなので、使えそうなアイデアがあったら拾ってみてください。

私は、キーワードは「経験」だと思うんですよ。何でもいいから、ささいなことでもいいから、自分が思ったことをやってみることです。それは多くの日本人に乏しい、本当の意味での人生経験です。

私はなんといっても自分を表現する活動がいいと思います。音楽、絵、文芸、演技、ダンス、などなど。それを誰かの前で発表しろとか、なんかの結果を出せとか、仕事にするとか、そういうことではありません。『アンネの日記』みたいにごく個人的なもので十分だし、それこそアートの神髄だと思います。自分を変えるのに最適な方法は、アートです。表現には実感がともなうし、とくに身体や声を使った表現方法なら直接的な刺激があるので、これ以上の「人生経験」は世界にありません。……と文章で書いても実感がいまいちなので、やってみたほうが早いでしょう。

もし「そんなのお金にならない」とか「この歳になってそんなこと?」とか言う人がいたなら、そっちの人こそ「経験」の貴重さを知らないのでしょう。

私は日本人と話していると、「この人は人生経験に乏しいな」と感じることが多々あります。たとえ年配でも人生を通して「”サラリーマン”をやる/”サラリーマン”の主婦をやる」以外のことをしたことがなくて、驚くほど狭い世界しか知らない……わりにプライドはけっこう高かったりするんですよね。趣味は、と聞けば一応答えは返ってくるけど、なんだかテンプレート通りで感情がこもってないというか。「バイト」やボランティア活動なども然り。

尊厳ある人間である以上、中心に据えるのはいつも「生きること」のはず。刹那の金を作ることではありません。この大原則は、絶対に動きません。

この記事でずっと挙げてきた引きこもりの人が「そうなれたかもしれない」姿は、同時に「これからなれる自分」です。その素質は必ず備えています。励ますためにそう言っているのではなくて、事実として実現可能だと思います。頭では分かっていても……ということはあるかもしれませんけど、論は頭で押さえておけばいつか血肉となるもの。少し長い目で見れば、引きこもりの中からはいろんな生き方をする人が出てくるでしょう。仕事ができないどころじゃない、私はいつか、今引きこもっている人の中からビル・ゲイツ並みの億万長者が出てくると思っています。

結びに:大人なき社会のフロンティア開拓者へ

神話の時代から、日本には「集団への適応」が誰にとっても大きな課題となる風土がありました。戦後、アメリカの政策転換と経済成長が押し寄せて以来、日本人の頭には「空洞」が、社会には「空白」ができました。人々は「会社への没入」というごまかしで一時をしのぎましたが、心の奥には手つかずの不安と孤独がありました。そういった本当の問題は先延ばしにされただけで、21世紀のいまもまだ、解決されたわけではありません。

この社会に生まれ落ちたのは、空からいきなり大平原に落ちてきたようなものです。ここで生きていかなければならない。でもどうやって? この荒野を開拓しようにも、道具がない。先例もない。

かんたんにうまくいくはずがないんですよ。迷ったり、悩んだり、壁にぶつかったりするのは当たり前です。不運にも何かのめぐりあわせで自室から出られなくなった人は、望まずして「引きこもりの国」のフロンティアを――ともすれば世界の最先端を――開拓しているのですから。

閉塞しきって経済は下火になる一方の日本社会に新しい可能性をもたらすことができるのは、いま生きにくい人だけです。そして引きこもりこそ、生きにくい人の究極形態。世間の古くてちゃちな人生観をかなぐり捨てれば、フロンティアの先には必ず、心にもお金にもいろんな形のゴールド・ラッシュが待っている。私はそう確信しています。

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自己肯定感を高める方法を探すあなたへの10話 – 本文でふれた「自己肯定感」についての私のエッセイです。うつなどを抱えている方にも安全です。

本文で紹介した書籍・関連リンク

『ひきこもりの国』マイケル・ジーレンジガー著、河野純治訳

アメリカ人ジャーナリストによる研究です。もとは学生のころ、戦後民主主義に関する資料として大学の図書館で探し当てた本でした。引きこもりを生じさせたもう一つの当事国・アメリカでこの問題の存在を知り、「自分の国が日本で何をしてしまったのか」を自覚する人が出たということに、私は深い感銘を受けたものでした。引きこもりの家族や本人への貴重な取材がつまっています。唯一、キリスト教等一神教文化に触れた部分だけは他と不釣り合いに見る目が鈍く、驚くほど論が甘いので要注意ですが、この世に完全無欠な研究などあるはずもなく、総じては第一級の研究です。ぬかりなく『千と千尋の神隠し』にも言及していますね。引きこもりについて一冊ですべてを網羅しているといえば、この本です。

『1万円起業 片手間で始めてじゅうぶんな収入を稼ぐ方法』クリス・ギレボー著、本田直之監訳

生き方のオプションのところで引用したビジネス書です。表題の内容はもちろんのこと、「そもそも働くとはどういうことか」という世の中の仕組みまで、現在進行でビジネスをしている人の生の声を聞きながら学べます。ビジネス書には扇動的で質に欠けるものもありますが、これは基礎がしっかりした良書です。具体例が多いのもありがたいですね。こういう分野になじみのない人は、今までの固定観念が次から次にひっくり返るかもしれません。仕事、つまりビジネスについて勉強したいなら、一流の人から習うべし。それにふさわしい、起業大国の大実業家によって書かれた一冊です。

『出家的人生のすすめ』佐々木閑著

私が自殺サイトを漂っていたころ、引きこもりサイトの掲示板で「今の日本に出家という制度があったら向いていたのではないか」と言っている人がいたんですよ。その言葉が心に残っていたある日、通りがかりの書店で偶然これを見つけました。本棚のほとんどが法律書と音楽の教則本で埋まっている私が、この時ばかりは手にとってそのままレジへ。帰って読んでみたら、「『ひきこもり』や『ニート』こそが社会の貴重な人的資源に思えてくる」(148頁)とあるじゃないですか……! 私もまさに同意見。そして今、年月を経て「声」を持った私が、ぜひ届けたいと紹介している次第です。著者は仏教学者。この「ご縁」に感謝ですね。

『千と千尋の神隠し』宮崎駿監督(2001年)

これも本文で紹介した、スタジオジブリによるアニメ映画の名作です。本作はあまり娯楽向けではないと思いますが、神話、民話、伝承などがてんこ盛り、すべてが寓意でできていて、「映像」としての出来は圧倒的です。あれこれ頭をひねって解釈にいそしむのもいいかもしれません。

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