批判意見と誹謗中傷の違いとは―レビューや感想を書くなら知っておきたいこと

インターネット、特にSNSでの誹謗中傷は激化、深刻化の一途をたどっていますが、一方で、誹謗中傷とはどういうことなのかへの関心は年々高まっているといわれます。多くの人が「これは言っても大丈夫だろうか」とスクリーンの前で迷ったり、自分のした投稿が犯罪になるのではと後で不安になったりしているのです。

なかでもネットに投稿するのが主に「感想」や「レビュー」の類だという人は、「批判意見と誹謗中傷の線引きはどこにあるのか?」という疑問を抱きがち。あなたもそれを知りたい一人かもしれません。

一般のネットユーザーであれ、レビューなどを書いて発信する立場に立つ以上は知っておくべきことがあります。以下リンクの木村花さん事件やどんな投稿がどの罪にあたるのかの解説と併せて、参考になればと思います。

関連リンク:誹謗中傷の具体例7例~何罪にあたり、どのような問題点があるのか

目次

意見のつもり、レビュー気取りでハマるワナ

誰もが情報発信できるインターネットからは多くの可能性が開かれましたが、そのことから深刻な弊害が生じているのはもはや言うまでもないでしょう。トラブル多発のネット界ですが、とりわけ話がやっかいになるのが「レビュー」や「感想」の類です。

あなたはネット上でこんな人を見かけたり、自分がやったことある……と心当たりがあったりしませんか?

  • 届いた商品が期待通りでなかったので、通販サイトのレビュー欄で「ひどいメーカーだ」と怒りをぶつけた。
  • 映画鑑賞歴〇〇年の自分に言わせれば、超有名監督の最新作の出来はたいしたことなかった。だからAmazonのDVDレビューに「見どころのないカスみたいな映画だった。〇〇監督なんてしょせんこんなもんだな」と本音を書いた。
  • ある新作アニメに最初は夢中だったが、第〇週からは脚本が良くなくなったと思う。だが、ネットでそう言ったら他のファンとケンカになってしまい、いやな思い出が今でも頭から離れない。
  • 神様みたいに思っているミュージシャンについて、否定的なことを書いている批評家を見つけてムッときた。だから「この人の見方は間違っている」「子ども並みの文章だった」などとSNSで反論した。
  • 芸能人に対して木村花さん事件と似たような投稿をしたことがあるので、これから逮捕されるのではと気が気でない

ネットへの投稿が「意見」や「感想」「レビュー」の外形をとるときは、自分ではまっとうな発言をしているつもりでいるうちに思いがけないトラブルに踏み入れてしまいやすいです。「意見/感想を言うのは自由じゃないか」という認識がワナになるのです。

ネットで「意見」や「批評」を言う(つもりの)時、問題になるならないの境目はどこにあるのでしょうか?

本稿では、商品やレストランなどのレビューの場合と、アニメ、映画、音楽、書籍など表現物に対する批評や感想の場合に分けて解説していきます。

商品やレストランのレビューの場合

星をつけてコメントを書く投稿レビュー欄は、販売系のサイトの型として定着している感があります。無数の人が気軽に投稿するようになり、なかにはAmazonでの商品レビューを趣味にしている、といった熱心なユーザーも生まれています。

しかし、「買う人の参考に」程度の意図で設けられたはずの投稿機能はいま、メーカーや商店、レストランなどへの暴言の場となっているという重い現実があります。また、SNSが普及するにつれ、商品等への不満をSNSでぶつけるケースも増えており、ネットをめぐる社会問題の一つになっています。

レビューという名のクレーム

外形は「レビュー」だということになっていても、実質的にはそう呼べるような文面ではない、ということは少なくありません。以下の例はすべて、筆者が実際に見たものです。

  • (延長コードが)2日で断線した!粗悪品を高く売りつける会社だ。もう二度と買わん。
  • (マッサージ施設で)全然よくならなかった。金を無駄にした。金返せ。
  • (レストランの)接客がひどくて気分悪くなった。この店には行かないほうがいい。

もし店頭で客がこんなふうにわめいていたら、あなたはどう思うでしょうか?

……クレーマーですよね。ちょっと冷静に考えれば誰でも分かることなのですが、ネットだと顔が見えず、手ごたえがなく、感情が高ぶりやすいせいで、つい常識外れなことをしてしまいやすいのです。

なかには、「まだ買ってないけど」などと商品レビューとして成り立っていないようなものや、「(食用エビが)新鮮で身がプリプリしていたのが残念でした」などと店の側ではどうしようもないことで低評価を書きこむような人も見受けられます。

最初に覚えるべき誹謗中傷の大原則

さらには、相手の人格面を攻撃するものもみられます。たとえば次のような投稿です。

  • (店主が)自信過剰だ
  • (男性医師が)女性患者を優遇する

悪質なことに、ネット上には人をおとしめるためのデマも多く混在しています。(今回はネットに書く時にスポットライトを当てているので深入りしませんが、読み手側に立ったときには、ネット投稿の質はその程度だとしてほぼ参考にしないのが得策でしょう。)

こうした人格への攻撃およびデマの流布は、例外なく誹謗中傷にあたります。これは商品やサービスへのレビューに限らず、またネット以外の場でも共通する大原則なので、最初に頭にたたきこんでおくといいでしょう。

店頭で店員をつかまえて「店長を出せ!」などと文句を言う従来型のクレーマーは、限られた人数、閉ざされた世界での問題でした。怒りまかせにクレームをつけた人が後で恥をかいたとしても、店長に突き放された程度のことで終わっていました。

しかし、ネット投稿となれば、トラブルになったときの規模は大きくなります。「表現物」として全世界に公開されているからです。

法的措置の可能性

以前の記事でも解説したのですが、どんな文面が誹謗中傷として犯罪になるのか、なるとしたらどの罪にあたるのかは一般論として単純に言えることではありません。刑事司法においては、たとえば「『バカ』という言葉は侮辱罪」というように単語によって機械的に振り分けられるわけではなく、全体として判断されるからです。具体的な中身によるのです。

しかし少なくとも、それが商品に関する意見だとか、レビュー欄への投稿だという理由で何を言っても許されるという道理はありません。罵り言葉は侮辱罪、人の名誉を毀損した場合は名誉毀損罪、虚偽の風説を流せば偽計業務妨害罪など、刑事事件になる可能性があります。それは名目が何であっても、場所がどこであっても同じです。

逮捕されなければセーフなのか?

木村花さんのような悲しい事件が報じられるなか、最近は誹謗中傷で「逮捕されるかどうか」ほうに関心が集まりがちになりました。

しかし、では「逮捕されなければセーフ」なのかといえば、現実はそこまでシンプルではありません。警察はこの世のすべてではないからです。

民事裁判、つまり会社や店舗が損害を被ったなら、投稿者は損害賠償を請求される可能性もあります。ネット上のレビュー欄はビジネス界で大きな問題となっており、実際に、信用を傷つけられたなどとして会社側が投稿者を訴えたケースもあります。いちいち事件として報じられないから耳に入ってこないだけで、ある日突然一般のネットユーザーの家に裁判所から書類が届いた、というケースはかなり前から普通にありました。

乱暴な投稿を発端とするトラブルは、こうした刑事・民事の法的措置だけではありません。ネット上で暴言を吐いていることがバレて

  • 家族にあきれられた
  • 「そういう人なんだ」と周りから信用されなくなった
  • 決まっていた就職が保留になってしまった/仕事でチャンスを逃した(詳しくは後述)

などもありますし、ネット上での出来事に限っても

  • 変な人扱いされた
  • 人が寄り付かなくなった、無視されるようになった
  • SNSでフォロワーから次々ブロックされた

といったことも現実にはよく起こります。あるいは、ネット上でバッシングをするような人々から目を付けられ、次のターゲットにされてしまうかもしれません。

人々から悪口を言われてがっくりして泣いている人
嫌われたり、非難されるだけでも人にとっては大きなストレス。

なにも法廷に召喚されたわけではなくても、精神的にはへこむでしょう。

ネット投稿は火事の元。インターネットが世界に登場して以来、社会で問題になってからはたと我に返って青ざめたけれどもう取り返しはつかなかった……と後悔する人が無数に生まれてきました。

商品に不満があったときに本当にすべきこと

商品やサービスへの不満をぶつけるネット投稿では、多くの場合は商品等に不満があって、自分の思いを通したいという気持ちが起点となっています。

であるなら、商品や接客に不満があったときは、SNSに書いたりレビューを投稿するのではなく、店や会社に直接それを伝えるのが適切です。

たとえば、もし届いた延長コードが不良品だったら、交換してもらえば一件落着のはずです。Amazonで店やメーカーを罵倒したところで、新品が手に入るわけではありません。レストランで接客に不満があったなら、店に電話してそう言えばいい。これなら相手と平和的に解決することができます。

店をストレスのはけ口にするとか、デマを流しておとしめてやれ、などというのが問題行為であることは言うまでもありません。

社会での慣例やルールは、ネット上でも同じです。「ネットに投稿する(=公に発言する)以上はそれ相応の責任が伴うのだ」という社会の原則は常に忘れないようにすべきでしょう。

『スズキくんの5つの失敗』―表現物へのレビューや感想でハマるワナ

以上のように、ただでさえ問題になっているネットの投稿やレビューですが、とりわけトラブルに陥りやすいのが、映画、アニメ、音楽、書籍など、表現物への批評や感想の形をとっている場合です。「作品への批評なんだから自由じゃないか」という認識のせいで頭のタガが外れ、過激化するうちに大きなトラブルを起こしてしまうのです。

私がネットの世界を見てきた経験では、意見のつもり、レビューのつもりでトラブルに発展するケースは、どちらかといえば権威ある分野や、その分野にくわしいネットユーザーに起こりやすいと思います。権威ある分野というのは、たとえば映画の巨匠、ジャズ音楽、現代美術、芥川賞受賞作……。なまじ鑑賞歴〇〇年だったり、専門的に学んだことがあったりすると、他人に「分かってないなぁ」と言いたくなってしまう。ドキッ、と飛び上がった読者もいるかもしれません。

このパターンについては、「こんなのあるある!」とリアルに感じられるよう、とあるTwitterユーザー・スズキくんを主人公にしたストーリー仕立てで解説していこうと思います。架空のモデルケースですが、問題のツイート例はすべて、私が実際この目で見たネット投稿をもとにしています。スズキくんの投稿はどこがどうまずいのか、どういう視点が欠けていて、どう書けば問題なかったのか、それを解説していこうと思います。よろしければ以下と併せてお読みください。

参考:『推し、燃ゆ』(あらすじ・ネタバレ有)~ファン活動のマナーと注意点

――さて、スズキくんは、名門高校からイタリアの有名音大に入った20歳の作曲家志望。Twitterでは曲への感想や自分の思いを投稿して楽しんでいます。


スズキケン @Suzuki_Ken

高嶺学院高校→メーモン音楽大学。作曲専攻。オブリガーズ推し。イタリアでも元気にしてます!


このTwitterアカウントは高校時代から友達との遊びに使っていて、タイムラインには当時のクラスメートとの「ピザうまい?」「白いご飯なつかしい(泣)」といった一対一のさりげない会話も。

最近、巷ではテレビ映えするジャズアカペラグループ「ナインスターズ」がヒットチャートをにぎわせているのですが、音楽にくわしいスズキくんの“推し”は知る人ぞ知る実力派の「オブリガーズ」。ナインスターズが世で高く評価されることに不公平感や憤りを抱いています。

スズキくんは小さいころから称賛の光を浴びまくり、人生はイケイケ、だけどそのために最近少々傲慢になっていて……。「デマを流すのはいけないことだ」などと良識はしっかり持っているのですが、作品の出来や他の人の知識、能力に言及するうちに、いつの間にか人格への攻撃に足を踏み入れていってしまいます。

失敗1:専門的に語ったつもりだったけど

ここはイタリア、メーモン音楽大学の寮の部屋。スズキくんはプロ用のヘッドホンをはずすと、しばしうっとりしてから、おもむろにスマホを取り出しました。


スズキケン @Suzuki_Ken

オブリガーズの歌唱は技術的に最高レベル。本当にいいから、みんなに聴いてほしい。

なぜナインスターズなんかがテレビに出られるのか。テレビ局の都合だよね。音楽は顔じゃないのに。


ネット上でケンカになる鉄板パターン、「比較」。こんな風に引き合いに出したらナインスターズのファンが怒って罵言の応酬に……というのは目に見えているのですが、この失敗パターンにはもう一つ、重大な問題があります。

それは、ナインスターズが聞いたらどう思うか、ということ。言い換えれば、この投稿の、ナインスターズに対する責任です。学校の昼休みに弁当をほおばりながら言った分にはただの談笑で終わっていたかもしれませんが、それをネットに書いた(=公の場で発言した)なら、話は全然別になってくるのです。

客観的に見たときとの深い溝

音楽の専門知識に自信満々なスズキくんですが、第三者であるあなたの目にはどう映ったでしょうか。ずいぶん勝手なことを言ってるな、という感じがしたのではないかと思います。

これをスクショして、ナインスターズのみなさんに見せたら何と言うでしょう?

まず最初の反応は……

「誰これ?」

ナインスターズの立場から見たら、突然見知らぬ人に斬りかかられたようなものなんですよね。

オブリガーズと比較されたことについては……

「オブリガーズさんのことは知っているし、優れたミュージシャンだと思ってますけど、自分たちは自分たちの音楽活動をしてるだけです」

スズキくんにとっては、日々イタリアで学んでいる音楽の専門知識に基づいて、歌唱技術について思うところがあったかもしれません。しかしスクリーンの向こうのナインスターズにとっては、自分たちのこれまでがあり、活動方針があり、音楽があり、人生がある。スズキくんの思いは、世界のすべてではないのです。

ほかにはこんな声も。

「あの、スズキさんは、オブリガーズ以外のアカペラグループみんなにこういうコメントをしてるんですか?」

エッ……と意表を突かれるかもしれません。もし新しいアカペラグループを見つけるたびに「オブリガーズのほうがいい」と難癖をつけてまわっているとしたら「狂信的なファンによる迷惑行為」という感じでしょう。また、もしナインスターズだけにぶつぶつ文句をつけているとしたら、それはそれでやつあたりにすぎません。

そして彼らを決定的に怒らせるのはこれ。

「僕らが音楽を顔で売ってるみたいな言い方されたのは心外です。自分は生まれ持った顔で今までずっと生きてきただけで、それを否定するなんて……謝ってもらいたい」

専門的な見地からジャズ音楽を語ったつもり、テレビ業界の都合を批判するつもりだったスズキくんには「そ、そんなぁぁ……」かもしれませんが、ナインスターズの側から見れば、スズキくんはどこからともなく現れた迷惑人物にすぎなかったのでした。

バーチャル感覚の落とし穴

知的に語ったつもりだったのに、相手や第三者からは手あたり次第にがなりまくる迷惑人物としか思われていなかった――。ネットでは、悲しいかな、よくあるパターンです。

どうしてこのような失敗をしてしまうのでしょうか?

総じて、ネット投稿はバーチャル感覚に陥りやすいです。スクリーンのボタンをポチッとするだけで、手ごたえがない。言及している相手の顔が見えない。それに、相手はたいてい会ったことのない知らない人なので、現実感がない。「架空のキャラ」と同じような感覚になってしまう。このバーチャル感覚が、多くの人の後悔のもとになっています。

実際には、スクリーンの向こうには必ず生身の人間がいます。軽く扱うに値する人や人生などありません。

「こう書けばよかった」その1:面と向かって言えることなのか

ネットに投稿するならば、「相手に面と向かって言えることなのか」は常にチェックポイントです。

ナインスターズのメンバーと面と向かって席に着いて、真正面から「(テレビ出演できたのは)テレビ局の都合だよね」とか「音楽は顔じゃないのに」なんて言えるでしょうか? いくら人生イケイケ、自信家のスズキくんでも言いっこないですよね。それは失礼すぎる、そんなこと言ったらみじめなのは自分だ、と分かるからです。

なので、スズキくんのツイートは、比較の部分を削除して


スズキケン @Suzuki_Ken

オブリガーズの音楽は技術的に最高レベル。本当にいいから、みんなに聴いてほしい。


だけにとどめておくか、あるいはナインスターズに言及するとしても


スズキケン @Suzuki_Ken

最近はナインスターズが人気だけど、僕はほかにも優れたグループを知っているんですよ。アカペラが好きな人は、オブリガーズも聴いてみてほしいな。


といった、ナインスターズ本人に直接でも言える、失礼のない文面にしておけば問題ありませんでした。

参考のため、同じような失敗例をもういくつか紹介しておきます。

  • 「画角とか意味不明。〇〇監督なんてしょせんこんなもんだな」
  • 「文章力が低い。この出版社はどうかしている」
  • 「〇〇は歌が下手。なんでデビューできたんだよ」

前述の通り、刑事・民事それぞれ法的措置の対象になるかどうかは単純に言えることではありません。ただ少なくとも、相手に面と向かって言えないようなことを言うのが「問題行動」であるのは確かです。ネットで発言するなら必ず覚えておくべきポイントです。

失敗2:自分と違う意見を「間違い」だと決めつける―”信者”の迷惑行為

ファンが”推し”(応援しているアイドルやおすすめするもの)について適切な態度で発言するのは、案外難しいものです。スズキくんがTwitterのタイムラインをスクロールしていると、ある投稿に目が留まりました。

投稿者の大沢誠一さんは音楽評論家。音楽雑誌や新聞に評論を書くたびにTwitterでお知らせしています。読んでムッとしたスズキくんは、すぐさまコメント付きでシェアしました。


大沢誠一:『わが心のレコード』重版出来 @Ohsawa_Seiichi

「月刊アコースティック」今月号にてCDレビューを担当しました。

レコーディングで損をしていると言われるオブリガーズを新アルバムで検証しました。レコーディングに携わる方もぜひご覧ください。

↓リツイート

スズキケン @Suzuki_Ken

この音楽評論家はCD聴かなかったのかな。

オブリガーズは意図的にリバーブをかけないんだよ。歌唱技術をレコーディングでごまかさない。

こんな知識ない人が音楽評論家をやってるなんて、世も末だな。


ありえない。プロの音楽評論家がCDを聴かずに批評を書いているとか、音楽の知識がないのに音楽評論家をしているということは、現実にあり得ません。なのにこういうことを言う人、ネットでは案外見かけるんですよね……。自分にとって気に入らない意見が目に入ると、それを「間違い」だと決めつけ、書いた人の能力を否定したり、人格を攻撃したりしてしまうのです。

これを大沢さんの立場から見たらどうでしょう。会ったこともないどこぞの学生が、突然根拠もなく「CDを聴かずにCDレビューを書く音楽評論家」「音楽の知識がない」とレッテルを貼ってきた。とんだ失礼、そして仕事への妨害です。

「”推し”を批判する者は敵」ではない

「”推し”がピンチだ! どんなことをしてでもかばわないと」――”信者”と呼ばれるこの手のファンは、アイドルやアニメはもちろん、権威ある芸術作品や尊敬されている巨匠の熱烈支持者まで、どんな分野でも見かけます。やらない人はやらないんですけど、やる人はやってしまう、そんな感じではないでしょうか。

全身全霊を込めて応援しているアーティストが否定的に評価された。大好きなマンガが社会から批判された。そんな時に、がっくり落ち込んだり、ムッときたり、弁護したくなったりするのは、ファンとしては自然な感情かもしれません。

ただその時、自分がいいと思うものを批判する人に対して攻撃に出るとしたら、それは問題です。

なぜなら、批判をする人にもその人なりの理由があるからです。差別発言への批判ということもあるでしょう。

関連リンク:『推し、燃ゆ』(あらすじ・ネタバレ有)~ファン活動のマナーと注意点

特に最近は、批評家が否定的な意見を示した際に、まるで好きなアイドルの”アンチ”とケンカするかのような感覚で食ってかかる人をよく見るようになりました。これをやってしまうのは、意外にもスズキくんのように学に自信があり、高尚に振る舞うネットユーザーだったりするので、私はなんというか、現代を特徴づけるポピュリズムや、大衆性の浸透の深さを感じます。アイドルの世界独特な”アンチ”の感覚を芸能界の外まで引きずるのは、彼らが自分で思っている以上の問題行為。特定の人への暴言であるだけではなく、社会的に相当でないからです。

公平な立場で書かなければ批評とはいえない

というのも、批評家というのはあくまで「中立」です。その社会的な役割は、人々に公平かつ客観的な評価を示すこと。プロの音楽評論家になろうとしたら、音楽の専門知識を備えているのは当たり前です。それだけでできるほどかんたんな仕事ではありません。ようやくプロとして認められたとしても、批評を書くには毎回その作品をしっかり鑑賞しなければならず、個人的な好き嫌いは心の底に抑えつけて、客観的な評価を執筆しなければなりません。(なかには名ばかりの批評家等がいるかもしれませんが、職業の基本はそうです。)

自分が個人的に嫌いだとか、出来を良いと思わないという気持ちをぶつけただけでは、批評といえるものにはなっていません。公正さを動かぬ土台としてはじめて、自分の見解を示していくことができ、レビューとして社会で信用してもらえるのです。ファンはカッとなりやすいものですが、よくよく読んでみれば大沢誠一さんの批評はそんなに否定的ではないし、オブリガーズへの憎しみなどみじんもありませんよね。これがプロの仕事です。

そして公の場で発言する立場に立つ以上は、プロもアマもありません。信用されないものは信用されないのです。

少し立ち止まり、自分に問うてみてはどうでしょう。

自分と異なる意見を見つけたら、叩き潰さなければ気が済まないでしょうか。自分と違う意見は「間違っている」のでしょうか。異なる意見が存在してもいいのではないでしょうか。

もし自分が気に入らない批評家を暴言で攻撃するというなら、公平な批評を聞けなくなってもいいのでしょうか? “推し”に対して好意的でない意見を「間違い」だと決めつけるのは、我こそはと批評家気取りでいながら、批評というものを地上から駆逐せんとしているに等しいのです。

“推し”を批判する人は、なにも「敵」ではありません。その人はその人で生きているだけ。「友と敵」の構図を頭に描いて攻撃に出るに至ったら、ファン心も行き過ぎです。巻き込まれた人が「マナーの悪いファンにからまれた」と煙たがっていることに、一刻も早く気づくべきでしょう。

「こう書けばよかった」その2:そんな意見もあるんだとゆったりかまえる

ファンがネットで活動するときに覚えておくべきことは、否定的な意見とて一つの見方にすぎないということです。

たとえ有名な批評家であっても、その見方は世界のすべてではありません。評価がそれで固定されるわけでもない。自分がいいと思うなら、あなたの思いにも同じだけの重みがあるのです。なので、否定的な見解もあまり重く受け止めず、「そんな意見もあるんだ」くらいにゆったりかまえておくといいでしょう。

スズキくんだったら、ネット上で反応するならたとえばこんな感じに。


スズキケン @Suzuki_Ken

オブリガーズは歌唱技術をレコーディングでごまかさないためにリバーブをかけないんだけど、それで損してるっていう意見はあるんですよね。僕的には本気が感じられていいんだけど、一般ウケはしないのかな。


とにもかくにも、大沢さんに対する攻撃だけはやめること。

無駄なリスクを背負わないためには、否定的な見解にいちいち反応することなく、スルーを決め込むのが一番ではないでしょうか。

失敗3:批評家気取りの低次元なバッシング

スズキくんはTwitterを見ていくうちに、「オブリガーズが評価されないなんておかしい」と、しだいにイライラしてきました。そんな時、スズキくんは再び大沢さんの投稿を見つけます。


大沢誠一:『わが心のレコード』重版出来 @Ohsawa_Seiichi

オブリガーズは古典をリスペクトしすぎて優等生感があるから、新しい要素を取り入れたら可能性が広がるのではないか。「月刊ジャジー」の連載「舟人鼻歌」に書きましたので、どうぞご覧ください。

↓リツイート

スズキケン @Suzuki_Ken

なんて浅はかなんだ!この人の考えは中途半端なポップスで染まっている!

全部叩き潰すのが楽しみだぜ!


いっぱしの批評家を気取った、低次元なバッシング。いるんですよね、こういう人……。

似たような例を挙げておくと、

  • 「画面が暗くて、見どころのないカスみたいな映画」
  • 「文の表現が小学生並み」
  • 「ありきたりなことばかりだった。(テキストの著者は)仲間内で調子にのってるだけの人」

インターネットというメディアでは感情が急激に高まりやすいと、その黎明期から言われてきました。最初はまっとうな意見やレビューを書いているつもりで、夢中になるうちにこう――

パソコンの前で怒りながら投稿している人

なりやすいのです。

のちの人生に支障が出る警報発令!

最近はネット投稿に関して「犯罪ライン」を気にする人が増えました。「逮捕されないギリギリのところまで批判を浴びせたい」という本音が見え隠れすることもあります。

しかし繰り返しますが、のちの人生に支障をきたすなかでは、「逮捕」はたったの一類型にすぎません。上記の通り民事で訴えられるケースもありますし、家族や学校・職場など、顔の見える範囲で人間関係に支障が出た話もよくあります。ITの世界では聞くんですよ、就職がほぼ決まっていた学生が、十代のころ遊びで投稿したおふざけ動画を会社の人に見られて保留ということになってしまって「そ、そんなぁぁ……」とか……。

ネットへの投稿は、誰が見ているか分かりません。現段階ですでに後悔するケースは出てきているので、SNSが年季を重ねる今後はもっと増えていくとみられます。

夢は作曲家だというスズキくん。将来いよいよ作曲家として芽を出そうという時に、プロの音楽評論家を「浅はか」だと決めつけ、「叩き潰す」なんて暴言を吐いたことが分かったら、果たして音楽の世界で信頼されるでしょうか? こんな人間性の人と一緒に仕事をしたい人はいません。

「こう書けばよかった」その3:相手を同じ人間として認める

もし自分の意見や感想を発信したいなら、たとえどんなに考え方が違う相手であっても人間として認めることは最低限のルールです。人間に対する言い方、接し方は守らなければならないのです。

スズキくんは大沢さんに反論するとしたら、


スズキケン @Suzuki_Ken

オブリガーズの音楽は古典で固まりすぎているという見方もあるんですけど、僕は、ジャズの根源を追求したゆえの完成度をすばらしいと考えています。


としていれば「意見」や「批評」といえるものになっていました。これなら言葉遣いに暴力性がなく、大沢さんの見解をひとつの見方として認めていますし、自分の意見もひとつの考え方であって他もあり得るという態度をとれているからです。

インターネットの出現により、誰でも自分の思うことを発信できる時代になりました。しかし、それをもって「レビューを書けた」と思い込むのは早計です。画面に文字を打って発信できることと、それがきちんとしたレビューになっているかは別なのです。

いくつものハードルを越えてようやく自分の意見を発表するにこぎつけたプロの言論者は、誰しも一つや二つは苦い思い出を語ります。「画期的な説を発表したつもりでいたら、それは何十年も前から議論されてきたと指摘されて、穴があったら入りたかった」とか、「気を付けていたけれど、ほんのちょっとの言い回しで一部の視聴者に不快な思いをさせてしまった」などなど。公の場で発言することの意味を理解し、覚悟のうえで職業として選んだ人が、慎重に慎重を重ねて書いてもそうなのです。

なので、もしあなたがレビューや感想を書いて投稿ボタンを押す時に迷いも恐怖も感じないとしたら、それは感覚がマヒした危険な状態かもしれません。

ITの世界を見てきた私からアドバイスを加えておきましょう。スクリーンに文を打って「これは批判意見? 誹謗中傷になるのかな?」と迷ったなら、やめておくこと。取り返しのつかないことになるリスクを背負ってまでそんな荒々しい投稿をしたところで、メリットは何一つありません。

失敗4:言葉のあやではすまない文言

さて、血眼でTwitterをスクロールしていたスズキくん。感情がエスカレートして、短い文をバンバン連続投稿していきます。


スズキケン @Suzuki_Ken

こんなひどいCDレビュー載せてる雑誌は廃刊させてやる!こんなのが出回るから音楽が誤解されるんだよ!


致命的なのは「廃刊させてやる」という箇所です。

スズキくんにとっては言葉のあやというか、その部分に大意があったわけではないかもしれません。しかし、雑誌に刊行するなと叫ぶのはは営業妨害、そして表現の自由に対する攻撃です。

プライドの高いスズキくんのもとへ、知らない弁護士から投稿の削除や謝罪を求める書面が届いたり、様々な人から「表現の自由を攻撃するテロ行為だ」と批判されたり、あるいは警察官が事情聴取にやって来たりして「こ、こんなはずじゃ……」となった時にはもう遅い。事は社会において粛々と進められていきます。どうしたいか、スズキくんには決定権がありません。

どう決着したにせよ、その日を境に、家族との関係も、友達からの視線も、先の人生も、永遠に変わってしまいます。

「(映画等を)公開するな」「(本やCD等を)出すな」「(コンサート等を)中止しろ」といった、何かを強要する表現は絶対に使わないこと。言葉のあやでは済まされません。誹謗中傷事件でよくある「死ね」「消えろ」などは言わずもがな。

つまらないツイートひとつ。どんなに後悔したところで、壊してしまったものは、もうもとには戻りません。

失敗5:差別用語で人生崩壊

スズキくんの失敗、最後は、”炎上”の最たる原因です。


スズキケン @Suzuki_Ken

オブリガーズを理解できない奴は×××(差別用語)。入院しろ(ハート絵文字)


いい大人が情けない、と顔が引きつったならもっともですが、これも実際にSNSで見たんですよ……。

その場で”炎上”して「そ、そんなぁぁ……」とか、ありそうですよね。

上記で述べた通り、問題あるSNS投稿は就職で響く可能性もあります。決まりかけた仕事が立ち消えて「そ、そんなぁぁ……」。

発火したのが何十年後、ということもあり得ます。夢叶って作曲家になったスズキくんのもとへ、オリンピック開会式で音楽監督をぜひ、との依頼が。それがニュースになったとたん、忘却の彼方だった学生時代の差別投稿がネットで流出。「こういう問題は祭典の趣旨やイメージに合わない」と人生の晴れ舞台が立ち消えて「そ、そんなぁぁ……」。

差別用語・差別的な表現はその人たちに対して本当に失礼なので、飛んでくる批判はまっとうです。たとえ人生が台無しになったとしても、それは自分の失敗。甘んじて受け止めるしかありません。

これは批判意見?誹謗中傷?プロライターはこう判断する

誰もがSNSアカウントを持ち、そのかたわらでは悲しい誹謗中傷事件が社会で問題となるいま、文を打ちながら「批判意見と誹謗中傷の境目ってどこにあるんだろう?」と疑問を持つ人が増えています。

パソコンの前で宙を見ながら腕を組んで考えている女性

素朴な疑問、ということもありますが、根底に「表現の自由があるから批判意見を言うのは自由なはずだ」という意識がある人は少なくないでしょう。スズキくんも「僕は大沢さんの考えを浅はかだと思ったからそう言ったんです。いけないんですか?」と反論してくるかもしれません。

この点については、まず最初に、様々なフィクションやエッセイを世に送ってきたあるプロライターから私が直に聞いた言葉を紹介しようと思います。

結論を言ってしまうと、自分の書こうとしているものが誹謗中傷にあたるかどうかは、「自分が『意見』だと思っているかどうか」ではなく、「相手にとって中傷でないか」で判断する、といいます。つまり、自分の主観ではなく、相手の立場に立って考えるのです。

プロライターの彼はこう言いました。

それが自分にとってどんなに真実だったとしても、相手にとっては誹謗中傷になってしまいます。

大沢誠一さんの「オブリガーズは古典をリスペクトしすぎて優等生感がある」という見解は、スズキくんにとっては「(客観的な)真実」として「浅はか」だったのかもしれません。メーモン音大で学んだ専門知識に基づいて「中途半端なポップスで染まっている」と判断したのでしょう。

しかし、それはあくまでスズキくんにとっての真実、彼が個人的に思ったことにすぎないのです。

否定的に言及する場合、プロはこうする

先のプロライターは、人物や団体、作品等に対して好意的に言及する場合はリミッターをかける必要はなく、名前を出しても平気だと言います。

一方、否定的なときはたいてい「こう言う人もいますが……」とか、「世の中にはこういう見方もあるようですが……」というふうに、名指しを避けてぼかします。あなたもそう意識して本を読んだり、テレビを見たりしてみてください。たとえ社会で問題視されている発言や団体等であっても、多くは「最近ある実業家がこんなことを言っていましたが……」とか「あるキリスト教系新興宗教では……」などとされているのです。(ただし政府は別。権力への批判が抑圧されるのは独裁政治に直結するので、批判は活発に行われなければならない。政治家にプライバシーはないといわれる。)

この話を聞いて、読者の頭には疑問がわいてきたかもしれません。プロのライターがなぜ批判する相手の実名を伏せるのでしょうか? 私たちには言論の自由が保障されています。読者のあなたは、批判意見を発表するのは自由なはずだ、むしろプロなら鋭い批判を積極的にするべきではないのか、と思ったかもしれません。

まず、批判するのは自由である。確かにここまでは不動の事実です。間違いありません。

いま問題となっているのは、ネット環境を背景に、「人々が批判意見を書く難易度をかん違いしている」という点なのです。

否定的な見解を発表した後の大変さ

否定的な見解を発表すれば、プロでもトラブルが多いです。

たとえば、私の知る法学研究者は、ある裁判に関する論文を発表したら訴訟当事者だった某団体からさんざんに言われて大変だった、と苦笑いを浮かべながらふり返ります。論文を発表するのは正当な行為で、中身は無論誹謗中傷にかすってもいない論文相応のクオリティ、しかもそれは司法判断に対する論評であって某団体を批判する趣旨ではなかったのですが、それでさえ、実在の人物や団体に否定的な(正確には、否定的と受け取り得る)文面を公に発表するということ自体で、大変な労力とストレスを背負う結果となるのです。

たとえ「トラブルになるかもしれないけれど書こう」と腹をくくったとしても、肩にはプレッシャーがのしかかります。細心の注意を払って言葉を選んだとしても、読者から見て「これは中傷的だな」と判断されたなら、文士として信用を失うのは自分だからです。

だから、名指しをするかどうかは、様々な事情を勘案して決定します。相手はどういう立場の人・団体か。名指ししなければ成り立たない言説かどうか。もし名前を出すなら、相手から反応や反論が返ってくる可能性があります。それを受け止める覚悟はあるのか。

なるほど、批判意見を発表する自由はあります。けれど、それは高難度、高負担であり、いまのネット社会で思われているほど生易しいことではないのです。

ネットでいっぱしの批評家を気取っているスズキくんのような人は、否定的な見解を発表した後の大変さをまるで分かっていません。相手と論争する覚悟など決めていないし、自分が背負う信用失墜のリスクなどを考慮していたためしがない。「一方的に批判する」ことが無意識のうちに前提となっているのです。「一方的な批判」ではバッシング止まりであって、「言論の自由があるじゃないか!」などと豪語できる、実りある言論の水準にはとうてい達していません。

批判意見を公に発表するなどというのは、あらゆる事情を勘案して、それでも自分はやるんだという強い意志と信念、そして力を備えた人がやることなのです。「ネット投稿なんてしないに限る」というのが、インターネットによって見えにくくされた実のところではないでしょうか。

ある厳格なベテラン言論者が、断定形を絶対に使わない理由

次は、私の知る、この道30年以上の言論者・Nさんを紹介します。Nさんは言論者ですから、当然確固たる自分の意見、そして発信したいという強い気持ちを持った人です。

そんな彼は、文を書くときに、ある厳格なルールをもうけています。それは、

文末を断定形にしない

というもの。

彼は文末を「~である」とはせず、必ず「私は~だと思う」「~だと考えられる」「~だといえる」にするのです。

自分の文章だけではありません。彼は、他人が「~である」と書いてきたら、それだけでその文章を却下します。

なぜでしょう?

Nさんが断定形を絶対に使わないのは、「これはあくまで自分の意見だ」と明確に示すことで、これは絶対に正しいとか、自分は絶対的真実を知っているとか、他の意見は認めないという態度そのものを否定するためです。

自分は王様ではない。神様でもない。たとえそれが自分にとってどんなに真実であったとしても、自分を含め、ある人の意見だけが特別待遇されることがあってはならない。民主的な態度を徹底しているのです。

提言:言いたいことがあるなら、真剣にやろうよ。

アイドルやアニメ、音楽や美術、芥川賞作品を自分はこんなふうに思ったと書き込もう――ネットの世界は常時、言ってみたい、聞いてほしい人であふれかえっています。

好きなものについて語ったり、共有しようとするのは「自己表現」の一形態なんですよね。自分を表すのは人類にとって純粋に楽しいことなので、SNSなんていう「共有」をうたったオンラインサービスが世に出てきたらみんなやってみたくなる。そこまでは自然なことだと思います。

はやる気持ちでネットに書き込み、スズキくんの道へ迷い込む人を見るたびに私が思うのは、「言いたい気持ちは分かるから、だったら真剣にやろうよ」ということです。

それが「自己表現」だというなら、「世も末だな」なんて愚痴をこぼしている自分に誇りを持てますか? こんなのが自分でいいのか。こんな自分のままでいいのか。

本当に自己表現であるなら、自分はどういう人で、どんなことを考えているか、そこまでしっかり掘り下げてから、相手に伝わるようにしっかり語りたいじゃないですか。そこまで真剣にがんばってみて初めて、自己表現の本当のよろこびを味わえるのだと思います。

特に、意見を本当に誰かに聞いてほしいと思うなら、聞くに値するようにしっかり表現しなければなりません。


なんて浅はかなんだ!(中略)

全部叩き潰すのが楽しみだぜ!


とSNSでがなっている人に、誰が耳を傾けるでしょうか?

こんな投稿を見た人の反応といえば、

  • 「こいつどっかで鼻へし折られろ!」
  • 「何様のつもり?」
  • 「性格悪そー」
  • 「SNSのレベルなんて、しょせんこんなもんだよな」
  • 「自分のやってることのむなしさに気づいてないのかねぇ」
  • 「世界を知らない、甘やかされた若造か」

くらいなもの。高嶺学院出身だろうがメーモン音大に留学中だろうが、誰も尊敬するわけないじゃないですか。

ましてや


オブリガーズを理解できない奴は×××(差別用語)。入院しろ(ハート)


なんて吐き捨てるようでは、マナーの悪いファンを越え、ただの問題人物です。誰もこれを「意見」や「批評」だなんて受け取りません。

もし自己表現に真剣に取り組んだならば、道の途中で必ず「聞いてもらうためにはどうすればいいんだろう?」という問いにぶつかるはずなんですよ。

自己表現は、人間にとって根源的な欲求です。言いたいことがある、「意見」や「レビュー」をネットに書いてみたくなる。それは自然なことだから、あとは真剣にやろうよ、と私は言いたい。表現を通して成長していく。真剣に取り組んだから、誇りを持てる。それが真の自己表現であり、よろこびなのだと思います。

まとめ:レビューや感想を投稿するなら知っておくべき6つのポイント

インターネットは、誰もが自由に情報発信できる環境をつくった人類史上の革命でした。

ただそれは、例えるなら、誰もが免許なしに車を運転できるようになったようなものでした。「運転くらいできるだろう」とタカをくくって見よう見まねでアクセルを踏んだら、ビルに突っ込んで知らない人に大ケガさせてしまった。暴走して、人を引いてしまった。我々はいま、そんなドライバーが無数に行き交う、危ない世界を生きているのです。

交通事故で壊れた車とミラーと倒れた人の手

あまりに手軽なので意識していないかもしれませんが、ネットに投稿するということは、自分もそんな「無免許ドライバー」の一人であることを意味します。

果たして自分は「免許」に足るのか。投稿ボタンを押す前に自分で判断するためのチェックポイントを整理してみます。

  1. 内容や言葉遣いは、本人に面と向かってでも言えることなのか
  2. 言及する相手がどんなに考え方の違う人であっても、人間として扱っているか
  3. それが自分にとってどんなに真実だったとしても、相手の立場からすれば中傷ではないか
  4. それはあくまで自分の意見であり、他の考え方もあっていいという態度をとっているか
  5. 脅迫、強要、侮辱、威力業務妨害、偽計業務妨害など、犯罪にかかっていないか
  6. 差別用語など、ある属性の人々を傷つける表現が含まれていないか

インターネットによって誰もが情報発信できるようになったことは、可能性や幸せだけでなく、人類に多大な不幸をよびました。そのうち「レビュー」や「批判意見」「感想」のつもりのネット投稿から生まれる不幸は、批評等の適切な書き方を知らないまま、背負う負担や責任の重さを知らないまま発信してしまうことが発端となっています。であるなら、その不足している知識を穴埋めすることが解決の一手になるはずです。

車を運転したいのに教習所で運転のしかたや交通ルールを習うのはいやだ、という人はいないでしょう。カンだけで無謀運転するなんて怖すぎる。大事故を起こして、他人も自分も血まみれになりかねない。人の命を奪ってしまうかもしれない。そう分かっているからです。それはネット投稿(=公の場での発言)も同じなのです。

「暴言を吐く自由」はない―表現の自由とは

本稿の最後は、「表現の自由」の真の意味で結ぼうと思います。

ネット上で過激化している真っ最中の人は、「これは表現の自由だ」と主張します。表現の自由があるのだから、誰かに対して批判意見を言ったり、作品を批評するのは当然していいはずだ、と。

これについては、はっきり言えることがあります。それは、「暴言を吐く自由」などというものはない、ということ。あなたに自由権があるからといって「人を殺す自由」なんていうものがないのと同じ原理です。

自己を表現することは「すべての人に」保障された基本的人権です。あなたが人間並みの存在として認められているのと同じように、他の人にも人間としての尊厳があるのです。

青空の前に置かれた正義の天秤

自分は王様ではない。絶対的に正しい存在でもない。過激化している真っ最中の人は気づいていないものですが、いつの間にか自分が世界の中心であるかのような振る舞いをしてしまうのは、感情が急激に高まりやすいインターネットならではの怖さではないでしょうか。人類社会にインターネットが出現して以来、このワナにはまった多くの人が後で青ざめ、いくら後悔しても取り返しのつかないことになってきました。

「批判意見と誹謗中傷の線引きはどこにあるんだろう?」とスクリーンの前で迷う人が増えていますが、その答えは、あらためて考えてみればとても常識的で、一般社会のあたりまえのルールと何ら変わることはないのです。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSE

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