自殺サイト・掲示板の思い出~自殺したい方憩いの読み物

私は高校時代を自殺サイトで過ごしました。小説作品では友達や進路のことで笑ったり泣いたりする高校生を描いているのですが、それは伝えたいことに合わせて構築した世界であり、私自身がそういう明るい青春を経験したわけではありません。

自殺は、実生活でほとんど語られることのないテーマです。ネガティブなものとして、世の人がどうしてもはねつけてしまうからです。また、自死は複雑かつ大変デリケートな問題なので扱うのはリスクが高い、という理由もあります。立場によっては間違えば社会的責任を問われることになるため、慎重にならざるを得ないのです。そのため自殺を考えている人は、自分のことを話せる場所がない、あるいはあってもそこへ行けないという状況に陥りがちで、孤立をより深刻にしています。

一方、私が通っていた自殺サイトのひとつは、複数のメディアから取材を受けていました。自殺願望を持つ人の実情や自殺に関する正しい知識を、率先して発信する人もいたのです。

自分のような行き場のない人に息をつける場所をつくってくれた自殺サイト・掲示板の管理人さん、それから賢慮と良心ある方々に、当時の私はとても深い尊敬の念を寄せていました。それは今も変わることがありません。

いま私も作家として、その善意や賢慮や良心を、私にできる限り、ここに再現したいと思います。

みなさんは自殺サイトというとどんなものを想像しますか? 怖い、あやしい、危ない……実は違います。ネットの世界は広いのでそういったものがあることは否定しませんが、それは決して全てではありません。親戚のトラブルで八方ふさがりだった私にとって、自殺サイトはこの世で最後、そして唯一の居場所でした。死線という人間の極地に立たされた人々からもらった、儚くも最高の善意と賢慮を、私は決して忘れません。

本稿では、自死に関する正しい知識を交えつつ、自殺関連サイトの実情と私の体験を回想録として綴っていこうと思います。このページがかつて私が入り浸ったサイト様のように、少しでも息をつける憩いの場になれば本望です。


<ごあいさつ>

このたび、私は当ページをじっくり時間をかけて加筆・再編集することにしました。といっても内容や考えには一切変更ございませんのでご安心ください。工事中もページはずっとオープンしていますので、いつでもいらしてください。

加筆・再編集を決めた理由はいくつかあります。まず第一に、現在のこのページはもともと4回プラス番外編のバラバラな連載記事でした。のち、読者のみなさまの利便性をはかるためそれらを一本にまとめたのですが、結果的には、各章のつながりや言葉の表現が連載時の意図からズレることになりました。初めていらした方にとってはわかりづらい構成になっているだろうなと感じ、きちんとまとめ直したいと思うようになったのです。

第二に、私が本稿を書いたのは2017年秋、座間の連続殺人のほとぼりがまだ冷めないころでした。あたためていた本稿がそのようなタイミングと重なってしまったため、私は事件が社会に与えた衝撃を考慮して、抑制的かつ具体性のない遠回しな表現を多用したのです。また、そのような情勢のもと、私は想定する読者として自殺志願者以外の一般の人をかなり念頭に置きました。たとえば自殺についての正しい知識に連載第1回をまるごと割いているのはそのためです。そんな当時の配慮の数々が、時間の経過とともに、実感のとぼしい乾いた文章に変貌しつつある。それを苦々しく感じ、もっと思いのつまった文章にしたいと思うようになったのです。

さらに、第一稿を執筆してから月日は流れ、私自身、2年以上にわたる道を歩んできました。その道は、十代から二十代を自殺サイトで過ごした私にとっては精神的成長と並行していたし、新たな知識や知恵を学ぶことも度重なりました。書き足したいことが積み重なったのです。

このような理由と意図から、本稿全体を読者のみなさまに読みやすいよう統一し、中身を充実させたい思います。大事なページなのでおそらく長い時間を要すると思いますが、どうぞよろしくお願いします。(2020年5月)

目次

【一般向け】自殺サイトとは?

まず冒頭では、主に一般の方や「死にたい」と言っている人の周囲の方に向けて、自死に関する知識、続いて自殺サイトとはどういったものなのかを私の見聞から整理した後、自殺関連サイトでの防犯の知識を紹介しようと思います。

世の中には、大手マスコミの番組から家族との世間話に至るまで、膨大な量の情報が氾濫しています。人間にはそうした情報を目や耳で受け取るたび、ああらしい、こうらしいとそのまま飲み込んでしまう性質がありますが、「本当だろうか?」と中身を手に取ってみれば、あれもこれも、事実とは食い違った話が多く含まれているのが現実です。「聞いてたのと違った」「あの人はああ言ったけど、なんだ、でたらめだった」といったことは、誰しも無数に経験しているはずです。

なかでも、自殺は誤解や俗説が多く出回っている分野です。よって、あなたが今抱いている漠然とした自殺のイメージは、医学的根拠のないただの思い込みである危険性が高いのです。もし誤解や俗説に基づいて「死にたい」と言っている人に関われば、それでなくても大変な事態をさらに混乱させ、問題を複雑化させる結果となる。途方もない迷宮を、自ら作り出しかねないのです。

大事なのは、何よりも正しい知識です。

友人やご家族が追い詰められている方は、世間の俗説ではなく、信頼置ける正しい知識を得てください。後悔先に立たず。どうかあたたかい理解をお願いいたします。

自死に関する誤解と事実

自死に関してよくある誤解をとりあげ、それに対する事実を紹介します。

自殺サイトは自殺を助長せず、むしろ予防する

「話せる場所として機能している限り自殺サイトや掲示板はむしろ良い」というのが精神医学・心理学での一般的な見解です。自殺の大きな原因は、孤立です。自分のことを話すことができれば、少しでも気が和らぎ、予防につながるからです。

私が通っていた自殺サイトの管理人さんは、まさにそのためにサイトを作ったということでした。当時の私も、この世で唯一自分のことを話せる場所にたどり着いたうちの一人です。

「死にたいと口にする人は死なない」は俗説

そもそも人間というのは、生きていくようにできています。健康な人が死を考えることはありません。「死にたい」と言うこと自体、自殺の可能性がはね上がっているサインです。「死にたいと口にする人は死なない」という説に、医学的な根拠はありません。

もし誰かに「死にたい」と言われたら、すぐに病院へ連れて行ってあげてください。後悔先に立たず。あなたの助けと専門医療が必要です。

自殺した人は責任感が強くてまじめ

たまに自殺が責任逃れや弱さのように言われることがあるようですが、これには根拠がありません。「きっとそうなんじゃないか」という空想にすぎないのです。医療の現場やご遺族など、自殺者と直接関わっている方々は、そうではないと証言します。

一般に、自死された方は責任感が強くて真面目です。過労などで自死された方が「自分の力が至らなかった」などと自分を責める悲壮な遺書を遺されているケースは多数にのぼります。

自殺サイトの種類

自殺サイトとは、具体的にどんなものなのでしょうか?

一口に自殺サイトといっても、傾向は様々です。自殺サイトになじみがない方のため、私自身の経験からいくつかのカテゴリーに分けて整理しました。

自殺掲示板・チャットルーム

自殺を考えている人のための掲示板やチャットがメインのサイト。交流型もあれば、一方的に気持ちを吐き出すための掲示板もありました。手記やリンク集が付属しているところも多かったですね。

掲示板やチャットの質は、ピンからキリまででした。自分と同じ自殺志願者とまともな交流ができる良い掲示板もあれば、荒れ放題でどうにもならないサイトも少なからず。

ただ経験から言うと、ネットをさまよっていればいつかは良いサイトに流れ着くものでした。実生活で極限まで追いつめられ、静かに命の灯を見つめている人は、めちゃくちゃなサイトには近寄りません。見つけても、とどまろうとしない。そのため、人が集まるところが自然と良いサイトとなっていくようでした。

移り変わりが激しいのも特徴でした。落ち着きのある掲示板が急速に悪化してしまったり、そうすると別のところに人が集まりだしたり。自殺掲示板の世界は、常に流動していました。

引っ越しや閉鎖も多発していました。私がよく通ったサイトは、今はもうありません。

では、そういった自殺掲示板にはどのような人たちが来ていたのでしょうか。そして一体、どんな人がサイトを運営しているのか。掲示板型サイトについては語りたいことが山ほどあるので、後にくわしく記します。

投稿サイトの一部

「〇〇質問箱」などといった大手サイトに自殺関係の投稿がなされた場合のことを指しています。

掲示板サイトの質は様々でしたが、投稿サイトの類は一概に「最低」といって過言でありません。読む価値のあるものはありませんでした。ネットをさまよっていた当時の私は、完全に除外視していたくらいです。

近年では、SNSというウェブサービス業が世で定着をみるに至りました。サイト運営という視点でみれば、SNSは投稿型サイトの一種です。

他カテゴリのサイトの一部

他のテーマがメインだけれど時々自殺が話題にのぼるサイト。たとえば、長時間労働、ひきこもり不登校いじめ、うつ病などのサイトで、自殺願望が語られることがありました。メンタル系サイトなどと呼ばれることもあります。

読み物サイト

自殺関連の資料などを載せているサイト。特定の自殺事件に関する読み物や、自死された方のメモリアルなど。少し変わったところだと、自死された方々の遺書を読めるサイトというのがありました。とても印象に残っています。

あるいは、うつ病、神経症(ノイローゼ)などの患者や経験者の方が、入院生活や経過などの手記を公開しておられるサイトもありました。交流のない手記一筋のサイトもあれば、掲示板に付属している場合もありました。

この記事は自殺サイトに関する回想録という独自の内容ですが、カテゴリとしては「読み物」のつもりで書いています。この読み物が、かつて私がめぐった自殺サイトのように、自殺したいという思いを抱えた方にとってこの世で少しでも息をつける憩いの場となることを願いながら綴っています。

その他

精神医学・心理学のサイト、自殺関連のリンク集、自殺予防や支援団体のサイトなど。リンク集では、リンク切れが多発していました。

犯罪の危険性は?

自殺サイトに注目が集まるのは、たいてい痛ましい事件が起こったときです。それは私のころも今も変わりません。

私が自殺サイトに通っていたころは、ちょうど何件もの悲しい集団自死事件がありました。いくつものサイトで話題にのぼり、話し合われたものでした。その議論がいかに充実していたかは、のちにあらためてしっかり書き記したいと思います。

私がよくいた掲示板では、禁止事項がもうけられていた

私が知る自殺掲示板は、どこもルールを設けていました。いずれでも、自殺予告、幇助、実際に会うこと、物品の売買や受け渡し、出会い系や宗教その他への勧誘などは一切禁止となっていました。またサイトのルールにとどまらず、「実際に会いたい」という人が出てきても(サイト訪問者の大部分は実生活で孤立しきっている)、「会いたい気持ちは分かるけど、これはあくまでネット上のことにしておきましょうよ」と言い合える雰囲気がありました。

ぱらぱら集まってくる人々のバックグラウンドは様々なのですが、みなしっかりとルールを守っていました。もしもサイトが犯罪などに使われれば、十中八九、閉鎖となってしまいます。そうなれば利用者はこの世で唯一の居場所を失うことになってしまうため、コミュニティを存続させるよう、きちんと考えて行動しているのです。

これは自殺とは関係ないのですが、学問では「日本には『自治』という考え方が根付いていない」とよく言われます。自分たちがコミュニティ(国や市区町村の政治もそうですし、もっと小規模だと生徒会なんかもそうです)のことを決めて動かしていくんだ、という意識に欠けるということです。しかし私は、死線ぎりぎりまで追い詰められた人たちが、それとなく完ぺきな自治を行っているところをこの目で目撃したのです。これは皮肉か、それとも希望でしょうか。

あやしい人はいた?

私自身は、自殺サイトで疑わしい人物に出会ったことはありません。そこに来ていた周りの人たちからも、そういう話を聞いたことはありません。一度、宗教団体を名乗る人物が掲示板に勧誘めいた書き込みを連続投稿したのを見かけたのですが、宗教勧誘はそのサイトのルール違反です。だからみなで無視しているうちに、あきらめたのか、それとも管理人さんにアクセス制限をかけられたのか、いなくなりました。

先ほど触れましたが、私のころにはインターネットで知り合った見ず知らずの数名が集団自殺するというとても悲しい事件がありました。ただ、上に述べた通り私がいたサイトでは自殺予告や実際に会ったりするのが禁止だったので、自殺者募集などの書き込みを見たことはありません。

防犯の知識を身につけて

私は、危険を見分けることについては常識ある高校生でした。ネットを使う場面でも、専門的とまでは言わずとも一般常識はきちんと持ち合わせていたので、危ない人にからまれたとか、危ないことに飛び込んでしまったりしたことはありません。不審人物はほとんど見かけもしなかったのは、すでに述べてきた通りです。

ただ、自殺サイト・メンタル系サイトにやってくる困難を抱えた面々には、「一般社会の常識が分からない」と悩んでいる人が一定数混ざっていたのが思い出されます。いわゆる「ヤンキー系」の家庭で生まれ育ったことが理由だそうです。それゆえ、一般常識でみればとても信用に足らないような相手を妄信してしまい、さらなる危険に巻き込まれていく人も実際いるようでした。傍から見れば苦々しいことこの上ありません。もともと追い詰められている若い人が、犯罪に遭ってますます傷つく。そんないたたまれない例は、いまも絶えないと聞いています。

これを読んでいるあなたは、自殺サイトをさまよっていてこの記事にたどり着きましたか? もしそうなら、ネット上で知り合った相手と実際に会おうと考えている人(とりわけ十代)のために、犯罪を避ける知識を別途まとめておきました。あやしい人・事の見分けに自信がない方は絶対に、「自分は大丈夫だよ」という方も一応、ご一読ください。ネットでの防犯や法律はもちろん、虐待やDVのことにも触れています。

結びに

自殺を考えている人は、追いつめられています。四面楚歌の人も少なくありません。

自殺サイトは、この世で最後の居場所です。くだらないやりとりが延々と続くダメなサイトはありました。しかしそれはネットの一面にすぎません。自殺サイト・掲示板には、世にもまれな善意や賢慮が流れ着いていた。私はいま、それを思い出しながら、こうして筆を進めています。異常な状況下で追いつめられた人に「それはつらいことだ」、日々暴力暴言を受けている人に「それはひどいことだ」と当たり前に言える健全さ。マスコミが世に放つ美談やセンセーショナルな報道に流されることなく、真実をまっすぐ見つめるその落ち着き。そして、人間の極限だからこその、思いやり。次回以降に詳述しますが、こうしたかけがえのない人間の輝きに触れたことはいま、私にとってまたとない貴重な経験となっています。

自殺は、重大な社会問題です。では、そんな胸がつぶれる悲しい別れをなくしていくために、いま何が求められているのでしょうか? あるいは、何が足りなくてそんな悲劇が生まれているのか。

不可欠なのは、自死についての正しい知識、それにもとづく合理的な方法、そしてなにより、人間らしいあたたかな心です。悲しい事件をインターネットやSNSのせいにするのは気休めに過ぎません。多くの場合、自殺願望の背景には、職場・学校・家庭での具体的な問題があります。それらへの支援をもっともっと充実させるとともに、世界で指折りに多い自殺者を生み出す社会の在り方について、ひとりひとりが向き合い考えることが必要です。

第1回は、自死の事実を扱いました。ここは誤解してたな、などと発見があったなら、筆者としては本望この上ありません。どうかよりよい理解に役立てばと願います。

次回は、自殺サイトにはどんな人が来ていたかについて回想します。

来ていた人たちのこと

ここまでは自殺サイトの種類と内容について回想しながらまとめ、自死に関する一般的な知識に触れました。

第2回の今回は、私が自殺掲示板で交流していた人たちや、読み物サイトで聞き及んだ話について回想します。あなたは自殺サイトのことを知っていますか? そこにいた自殺を考える人々は、どこで何を思うどんな人たちだと思いますか?

私は、破滅的に孤独で、少し不思議で、この世にまたとないかけがえのない体験を、いつまでも忘れません。

自殺サイトにはどんな人が来ていた?

サイトによって傾向は異なっていたのですが、私がよく通った自殺掲示板の訪問者は、まさしく老若男女でした。いちばん若い人は、なんとまだ小学生。五十代以降の年配の人もおられました。

経済力もまた、百からゼロまででした。「自分でいうのもなんですが某県某所では有名な資産家で……」などという方から無収入の方まで、一緒くたに集まっていました。

学歴も同様です。有名大学を出たなど最高水準の高等教育を受けた人や知識人の家系の人もいれば、諸事情あってなんと小学校すらろくに通えず漢字もほとんど書けない(打てない)という人まで見かけました。

このように、自殺サイトには老若男女、あらゆる事情の人がまんべんなくそろっているのです。

自殺掲示板という空間の本領は、これだけ様々な人がみな、互いに対等に接しているところだと思います。よくこれでトラブルにならずやってるな。私はそう、感銘を受けました。年齢がうんと離れていたり、受けた教育に大きな開きがあったり。普通に考えれば、コミュニケーションをとるだけでも大変そうですよね。なのにみな、特に意識もしていないようでした。相手の本質だけを直視している。自殺サイトとはそういう世界だったと思います。

年齢や立場によって、抱えている問題には色が出ます。しかし小学生の悩みは軽いとか、貧困は重いとか、そういう比較は誰もしていませんでした。

また、一般社会では、経済力や学歴はたびたび紛争の原因になる要素です。たとえば「自分のほうがもっと金がない。お前はまだ恵まれているんだから文句を言うな」というように、同じ苦境にある者同士で足を引っ張り合うケース。あるいは、「経済力がないというが、本当に働いているのか。俺にはない補助金をもらっているんじゃないか。だったら文句を言うな」という系統の嫉妬や嫌がらせ。思わず目をそむけたくなるような、醜く、しかも非生産的な争いです。

本来、「嫉妬」というのは弱い者が強い者へ抱く感情です。たとえばお金のことだったら、経済的に恵まれない人がきらびやかなお金持ちを嫉妬する、というのが普通。なので、「下へ向けての嫉妬心」を燃やすというのは病んでいるとしか言いようがありません。さらにこういったトラブルは、世に罵言やとげとげしさを増殖させる一方で、社会問題の解決にはまったくつながりません。トラブルの当事者間もそう。「お前なんて俺に比べりゃ恵まれてるんだから文句を言うな」と毒を吐いたところで、お金を得てほっとできる人はただの一人も出ないじゃないですか。言われた人も、言った人も、そんな醜い争いを見てしまった人も、全員がいやな思いをするだけで終わりです。まさに「愚行」と呼ぶべき最悪なパターンなのですが、こうしたことが一般社会ではずいぶん報告されています。

ところが私がいた自殺掲示板は、こういった人間の愚かさとは無縁でした。ごく自然に、疑いもせず対等な関係を築き、互いの話を聞いて「それは大変だね」「それはつらいね」と言い合っていたのです。

人間は、日常の雑多に振り回されると、潜在能力を発揮せずにいるものです。それが命のふちに立たされると、深くに沈んでいた優しい心や理性が浮き上がってくる。なんともほの明るい光景でした。

自殺サイトへ来ていた人の全体像をスケッチすれば、だいたいこんなところです。以下では、サイトの訪問者が抱える問題別に回想していこうと思います。一般読者の方には、自殺を考えている人が直面している現実の過酷さを知ってほしい。そして「死にたい」という思いからこのページへたどり着いた方には、きっと共感できる部分があるのではと思います。

家庭内暴力(虐待・DV)

配偶者、親などから殴られていたり、暴言を吐かれていたりするケース。周囲の誰にも話せず、困りに困った多くの人が自殺サイトへたどり着いていました。

家庭内暴力を受けている人は、言葉の裏にある痛みがすさまじい。掲示板への投稿にせよ、手記にせよ、読めば必ず心が悲鳴を上げます。

が、いちばん痛がっているのはご本人なのですよ。私の心は何度も何度も悲鳴を上げましたが、それで理解した気になるのは行き過ぎです。偽善でしかありません。本当は、何も分かってはいないのですから。暴力を受けるというのは、理不尽で、とても孤独な営みです。

身体的暴力を受けている人では、自傷行為(リストカット、アームカットなど)が目立ちました。手記サイトなども読みましたが、すごく怖いです。血が出ます。身震いします。でも現実です。リスカ・アムカなどについては当時の私もなぜそういう行動をするのか分からなかったのですが、経験者の方によれば「自分が生きているかどうかを確かめるためだ」ということでした。心理学的には、暴力で身体に痛みを受け続けることで、自分の身体の境界線をあいまいにしか認知できなくなってしまうのだ、ということです。想像しきれず、言葉で表現しきれない痛みもあるのだ。そう学びました。

心理面での暴力を訴えている人も多数でした。親から「〇〇(名前)はいらない」と存在を否定された小学生、妻から毎日罵倒を受け続けている二十代、など。暴力を振るう人というのは、なんだかんだそれらしい理由をつけて正当化するんですよね。しかし、冷静になって良心に問うてほしいものです。人の存在を否定していいわけないじゃないですか。なんかもう、それをやってしまったら人間じゃないよなと思います。初めて存在を否定された瞬間、その人の世界はひっくり返ってしまうんですよ。が、こういう場合たいてい、その後も繰り返し繰り返し同じ言動に当てられているので、被害の大きさはもはや天文学的。これも想像しきれず、言葉で表現しきれない痛みです。

当たり前のことですが念のため書いておくと、人間は誰もが、無条件に尊い存在です。命は、命だというだけで至高の価値です。これを読んでいるあなたはとても大切です。

また、身体・精神両面に暴力を受けていることも。もう何て言えばいいんだよ……。圧倒的な無力感。

さらに、家庭内暴力が経済的な問題に発展している人もいました。劣悪な家族関係が日常生活に支障をきたすほどのストレスを生み、そのストレスが仕事でもうまくいかないことにつながってしまい――。あるいは逆に、お金がないことで家族の心が荒み、ついには手を上げるように――。

問題というのは、得てして複雑化していくものです。そうなる前に手を打つのが得策なのですが、そうできなかったからこの世で最後の居場所・自殺サイトへ流れ着くことになったんですよね……。虐待やDVがある家庭は、たとえ世間的には「普通」に見えても秘密主義的な場合が多いです。問題が起こってもそれを解決しようとせず、いちいち暴力に訴えるため被害がふくれあがり……と、悪循環が続いている傾向でした。

とても人が暮らせるような環境ではないのに、どっこいそこには人が住んでいる。声なき悲鳴が、自殺サイトで初めて声になった。自殺サイトに通っていると、密室からの悲鳴が私の耳に入ってくるのです。

職場・経済的問題

長時間労働やパワハラなど、職場が原因でうつ病になってしまった人。仕事が見つからない、あるいは現状主婦の人。職場や金銭の問題とはいえ、職場だけで完結しているのではなく、家庭の問題がからんでいる場合が多かったです。言うならば、様々な問題が複合して、最後に首を絞めるのが生きるのに必要な金銭だ、という感じでしょうか。ある自殺サイト管理人さんの一人は、過重労働が原因でひどいうつ病を患ったという方でした。管理人さんについては、次回に後述します。

経済力の問題は、「生きていればきっといいことがある」などという言葉が一切通用しない、残酷な世界でした。

前述の通り、自殺掲示板にはあらゆる立場の人が集まっていました。休職中の方。無職で本当にお金がない方。一方で、潤沢な資産のある方。ところがこんなに差があるにもかかわらず、なぜかいざこざにならないんですよ。それぞれが投稿者の話を聞き、「もしも自分がそうだったら」と想像していたのです。このように相手の立場に立って考えられることもまた、自殺サイトの方々に私が尊敬を寄せる理由です。

失業されている方の絶望は、金銭だけでなく、精神にもわたるすさまじいものでした。日本の現在の一般社会では、収入のない人が、まるで人としてダメであるかのように肩身の狭い思いをしています。しかし、この世で最後の居場所までやって来ると、周囲が見下すこともなく、みなシンプルに「それは困った状況だ」と認識していました。(今の私が指摘したいのは、これだけ深刻な問題であるにもかかわらず社会で失業について真面目に取り合う人が見当たらないということ。そもそも「失業」という言葉が全くといっていいほど使われていないのには、陰謀すら感じます。)

ほか、夫婦関係が原因の重度なうつで入院しているという主婦の方が来られていました。大病と闘病中で回復の道は見えず、収入はゼロ、仕事のあても財産もない人がこれからどうやって生きられるかなんて、他の自殺志願者である私たちにも答えはないんですよ。本当に詰んでいるじゃないですか。そこまで分かった上で、「死なないでよ」「今日生きていてくれてうれしいよ」と言い合っていた――。今、私がこの読み物で再現しようとしているのは、まさにこういう思いです。(たいてい、妻が自殺未遂しようが「お前がいないと家事がたまるから困るんだ」などと平気で言い放つ夫、人間としておかしいじゃないですか。重度な鬱で面会謝絶の彼女はまともです。)

いま思い返すと、自殺サイトでは俗世間の価値がはがれ落ちて、社会的立場が客観化されていたのだと思います。死の淵まで来てみると、俗世間で価値の高い金品やステータスも、逆にそれらを持っていないことも、ちっぽけで安っぽく、すべてどうでもいいものにすぎませんでした。訪問者誰もが「うつ病で入院中の30代男性」「親から虐待されている中学生」「北陸地方の主婦」「家庭に異常なトラブルがある高校生」などと属性を保持してはいるのですが、だからああだこうだいう話に発展しないのです。「なるほど、そういう状況なのか」と、そのままのみこむだけ。単に「それがその人に課されている条件なんだ」という認識でした。

三途の川のほとりには、もはや色付けなどないのです。世間的な基準は、川へ近づくにつれて、しだいに脱色されていく。個人の具体性はそのままに、たどりついたそこには、白い、清浄な河原が広がっているのです。

「ヤンキー」の人

意外かもしれませんが、いわゆる「ヤンキー(不良/非行少年)」の人もたくさん、自殺サイトへ来ていました。世間で「ヤンキー」といえば、派手な格好をして、おばかで、仲間と騒いで笑っている、そんなイメージですね。私は、それとは似ても似つかない、暗く、悲しく、孤独で、痛みが蔓延した世界があることを、ぜひとも世の人々に知ってほしいです。

今はもう閉鎖されてしまいましたが、私のころには十代向けの自殺掲示板というのがありました。来ていたのは、大部分がヤンキーの人。そのため言葉遣いの悪い人が多く荒れやすかったのですが、それぞれ切実でした。いじめ、恋愛、親子関係。家で虐待されている率が非常に高く、リスカの話もそこらじゅうにありました。

安っぽいドラマのような非現実的な話が現実としてあるのも、この系統の特徴的でした。小さいころから親戚のもとをたらい回しにされていたなんていうと安っぽいドラマみたいだ、などと書き込んだ本人が語っておられたりしましたね。上述の小学校すらろくに通えなかったという人も、もとをたどれば原因はヤンキー家庭に生まれたことだといいます。

このタイプでは、二十歳くらいの人になればきちんと精神科にかかっていたので、それはひとまず安心しました。そういうまともな行動をとれるところは、この手の人の良さだと思います。当時社会から孤立していた私には、うらやましくもありました。

心配なのは、「ヤンキー家庭で育ったから一般社会の常識が分からない」という吐露があちらこちらで聞かれることでした。(こういう種類の悩みが存在すること自体、世ではほとんど知られていないのではないでしょうか?)確かに、文がうまくない人や知識に欠ける人も点在していました。ただ少なくとも、何が問題なのかに自覚があるんですから、ちゃんと賢いですよね。死を考えている「ヤンキー」の人同士が、とても真っ当なことを言い合ったりしていました。

人は、どんな環境に生まれるか選べないじゃないですか。ヤンキー家庭に生まれたのは本人の責任ではないし、むしろとんだ災難なわけですけど、それがもとで悪いことに巻き込まれてしまう。目も当てられません。成長の過程で様々なチャンスを失ってしまった人も多数。教育や学歴を後から取り返すのはそうそう簡単ではないし、情緒の発達に関わるようなことは、その年齢を過ぎてしまったら二度と取り返せないんですよ。一体、彼らが何したってんだよ……。

不登校・ひきこもりなど

この手の問題を抱える人にはそれ専用のサイトがあるので、あまり自殺サイトという感じではなかったのですが、心理面だけも辛いところに家族関係や経済力のことも絡んだりして、本当に深刻でした。

引きこもりには、この社会の在り方や歴史なども密接にかかわっています。ネット上に少しだけ顔を出せている引きこもりの方がサイトで語っておられる内容は、非常に理性的でした。江戸時代並みに世間体にこだわる風潮。出る杭は打たれる社会。常に移ろう世界にまったく対処できない大人たち。長いものに巻かれる人々。そんなものがなければ幸せな人生を送れたのではないか。あるいは引きこもりになるどころか、大成すらしていたのではないか。この分野は、そんな人ばかりでした。

いじめや不登校、引きこもりはそれだけでたくさん論じることがあるため、別途記事を書き下ろしました。学校関連で悩んでいる方、引きこもりに苦しんでいる方、あるいはその関係者の方はぜひ読んでいってください。下記リンクは別のタブで開きます。

苦しいなら不登校のままでいい7つの理由

学校のいじめが「事件」になる前に

中年の引きこもりと仕事のジレンマ&今後のライフスタイル

分類はできないけれど異常な環境にある人

「虐待」「DV」「長時間労働」など、社会問題にはさまざまな類型がありますね。

ところが、自殺サイトにはそういった類型のいずれにも当てはまらない人も来ています。社会問題にはぴったり当てはまらないけれど周りの環境は劣悪で、相談先もなく困り果て、最後にたどり着いたのが自殺サイトだった。そういうケースはけっこう見受けられました。

世の中にはそんなことがあるのか、と驚く怖い話がぞくぞく出てくるのが自殺サイトという場所です。たとえば私が目にしたのは、

  • 家に異常な家訓がある
  • 有名な私立中に入ったら、内部に壮絶ないじめがあった。生徒の自殺を目撃してしまいショックを受けたが、土地の権力者と癒着した学校側は隠ぺいし続けている
  • 縁故採用で就職したら、社内の人間関係が異様だった

など。

非人間的で閉鎖的な環境から逃げてきた。話せる相手がいないけれど、心はすでに割れていて、悲鳴を上げられる場所を探していた。そんな感じです。

実は私も、分類不可能な問題からネットへ逃げ、自殺掲示板へ流れ着いた一人でした。上で述べた通り虐待・DVなどの被害は筆舌に及ばないわけで、決してそのほうが楽だと言っているのではないのですが、社会に存在しない類型の問題を抱えていると支援団体もないですし、特有の孤立に陥るんですよね。対象範囲がうんと広い網でないと、ひっかからないわけです。私の場合トラブルは親戚にあったのですが、なにせ内容が特殊でした。こじつけるなら相続がらみだったのですが、17歳かそこらの子が相続の悩みを抱えているという認識が世の中にないんですよね。高校生の悩みといえば、「進路」や「友人関係」などが普通です(くり返しますがこれらが楽だと言っているわけではありません)。学校の雑誌委員会の「あなたの悩みは何ですか」という質問で、「家庭の問題」と答えたのはたったの3%未満だったことを、よく覚えています。円グラフなのに扇形をなせず、線にしかならない割合でした。(私の高校は1学年が約300名でした。家庭の問題を抱えていたのが9人とすると、うち1人は私で、残りの8人は一体何組の誰でどんな悩みだったのだろうとは、今も思います。)しかも「高校生の家庭の悩み」と聞いた世の人が思い浮かべるのは、「借金」くらいまで(くどいようですが、決して借金苦が軽いと言っているのではありません)。私の事情は、いわゆる普通の高校生はもちろん、先生といえど理解に及ばないようでした。そもそも私自身にとって事情を一から説明するのは難しかったし、家族からは「家のことは絶対他言するな」とくぎを刺されてもいました。

そういう特殊な境遇だった私でもひっかかった「大きな網」が、自殺サイトだったのです。そこまで来たら、失業中でうつ病の常連さんが「権力関係が大奥っぽい」と言ってくれました。その時の安堵は忘れません。自殺サイトを巡回するだけでなくついに参加するところまでせっぱ詰まった私にとって、叫びが届いて、心が他者とつながった瞬間でした。

私は自殺サイトの度量の深さが好きでした。これは自殺サイトならではのことで、その真骨頂と言えるかもしれません。

一見さん

たまに、突発的にショックなことがあって自殺を考えた人や、「親が自分にしていることは児童虐待ですか?」といった質問を抱える人などがやって来ることもありました。こうした一見さんは、比較的、低年齢が多かったです。けっこう元気になって出ていく彼らを「達者でなー」とばかりに見送ったことは何度もあります。自殺サイトはこれもありなところがすごいです。

自死遺族・関係者

そばにいた大事な人を亡くし、やり場のない思いを語りに来た自死遺族や関係者の方もいらっしゃいました。「あの人のところへ行きたい」と言う人も。声ではなく文字で、泣いて泣いて叫んで、また泣いていらっしゃいました。

死にたいという思いを抱えた人が集まる自殺掲示板なのですが、自死遺族の方もごく普通にまざっていました。決して「こんなに悲しむから死なないでください」と説教しに来ているわけではありません。自殺志願者と同じように自分の気持ちを話しておられて、私たちのほうも「それは辛いですね」と話し合っていました。思うに、これを可能にしていたのは「命を見つめている」という共通点だったのではないでしょうか。遺族の方の読み物サイトも、これと同様の雰囲気でした。

極限まで追い詰められた人々の間に、自殺志願者か自死遺族かなどという細かい区分は意味をなさないんですね。悲しみの内容うんぬんではなく、「悲しむ」という「感情」は共有できる。そう思います。

交流のこと:人間関係はこれもあり

以上のような人が集まる自殺掲示板でしたが、ここでの交流は一般的な人間関係とは違います。

文字だけのコミュニケーションであり、みな個人情報は伏せていて、実際に会うことはない――ということはネット全体に言えることなので、別段想像に難くはないでしょう。利用者では、家庭や職場・学校の問題など、匿名のほうがいいデリケートな問題を抱えている人が圧倒的に多いため、自殺サイト利用者のニーズとネットの使い方は相反しないですんでいました。

最も特徴的なのは、人間関係が安定していないことです。うつの方だと病状に波があったりするため、この世で最後の居場所にすら何日も来られないこともあります。私自身、すがりつくように自殺掲示板へ逃げ込んで息をついたこともありましたが、なんか言葉が尽きてしまって、やりとりに参加できなかったりしたこともあります。関係が継続するとも限りません。またサイト自体の変動も激しく、良かった掲示板が急激に悪化して別のサイトへ人が流れたりすることもありました。

このように一般的な人間関係とは異なるにせよ、自殺志願者にとっては自殺掲示板はこの世で唯一息がつけるコミュニティでした。自分のことを話せる場である限り医学的によい効果があるというのは、第1回で確認した通りです。

人間関係には、こうでなければならないという正解があるわけではありません。友情にはバリエーションがあっていいのです。自殺サイトでの不思議な形も、これはこれで、かけがえのない友人関係だと思います。

思ったこと:人間は事実として平等

根本では愚かな人間などいない。私が強く思ったのは、このことに尽きます。

大衆の愚かさ、そしてそんな大衆を為している愚行に走った個々人。現代にあって、それらを悲観している人はどれほどの数にのぼるでしょう。私もこれまで作家としてそれらを見つめ、厳しい意見も書いてきました。なら、そんな私がそれでもなお人間に光を見出しているのはなぜか、といえば、それは自殺サイトで出会ったみなさまに端を発すると思います。

自殺サイトでの交流は、人を助けられるわけではありません。死にかけてネットをさまよっている高校生は、他の人の状況をどんなにひどいと思っても助ける力など持っていませんでした。私が他の人から安心できる住居や専門的なケアといった、具体的な助力をもらえるわけでもありません。全員、孤独です。思い返すと、空虚と無責任を分かった上で「死なないでくださいね」とか「今日生きていてくれてよかったです」などと言葉をかけるのは、思いやりの表現以外の何ものでもなかったのではないでしょうか。三途の川を見つめていると、人間の尊厳が浮かんでくるのです。互いに助けられはしない。けれど、決して無ではありませんでした。極限で発揮されるほのかな思いやりこそ、宝物だと思います。他人を思う気持ちは、プラスにはなっても決してマイナスになることはない、この世で稀有なものでした。疲れるわけでも金がかかるわけでもないのに、「存在の肯定」という、人間にとってこの上ない価値を分かち合うことができるのです。

驚くほど対等な人間関係を紹介してきました。「対等」の意味内容は、とても深いです。みな対等に扱われているから、傷つくことも、傷つけることも心配しないですみました。人にとって、それほど安心できることはありません。私は自殺サイトまで来て、やっと息をつくことができたのです。さらに、人間というのは時に不思議で、いつも自己を保存しようとやっきになっているくせに、自分を擁護するのは苦手だったりするものです。しかし自殺掲示板では、私が他の人の状況をひどいと思う一方、相手にとっては私の状況がそうだった。私が他人をかわいそうに思ったり、その環境に怒りを覚えたりするなら、私が私自身に対してもそうしてよいのです。その「対等さ」が、紙の上の理論ではなく、行為に表れていました。尊厳の感覚は、共有できます。その貴重な経験は、今でも私を支えてくれています。

世の中では時々、「人生がうまくいかない人には○○が欠けている」旨の主張をして他人を馬鹿にする実業家などが見られますね。しかし、自殺サイトへ来ている人の苦境はどれも、信じがたいほどのものでした。生身の人間が、そこから平気で立ち上がれるわけがないのです。彼らには、この視点が抜け落ちています。自殺志願者・自殺者の実態を知れば、傲慢になどなれません。その人が劣っていたのではなく、劣悪な環境が人生を破壊してしまったのです。

私が今生きているのは、ほぼ偶然にすぎません。私に能力や根性が備わっていたからではないし、亡くなった方に欠けがあったわけでもありません。たまたまの条件が重なっただけです。運命の歯車がどこか一か所違ったら、私はすでにあの世へ行っていたでしょう。だから、今生きていることに達成感や自負はありません。善悪も、良し悪しも、「べき」論もありません。自殺サイトとは極限の世界で、極限の世界とはそういうものなのです。

人間は、事実として平等だと思いました。平等に扱わなければならないから、という義務からではありません。千差万別な人間は根本で平等だと、私は自殺サイトを卒業した今も信じています。

結びに

ここまで、私が自殺掲示板・自殺サイトで出会った人々について回想しました。みなさんは、何を感じ、何を思ったでしょうか。私が見つけたもの・知っていることを、少しでも糧にしてもらえたら幸いです。

次には、私がとても尊敬する自殺掲示板の管理人さんについてお話します。

窓越しに月と星を見上げる猫

尊敬する管理人さんのこと

ここからは、自殺サイトの管理人さんについて綴ります。

どんな人が自殺サイトを作って運営しているか、あなたは想像できますか?

私は高校生だった当時、自殺サイトの管理人さんたちをとても尊敬していました。それは十数年が経った今も変わることがありません。こんな殺伐とした世の中ですが、私はそこで人の善意と賢慮を目撃し、心で感じたと証言したいと思います。

管理人さんはどんな人?

ある自殺掲示板の管理人・Aさんたちの横顔

私がよく通い、参加もしていた自殺掲示板は、3人の管理人さんによって共同で運営されていました。うち一人は、エンジニアの男性(以下、Aさん)。Aさんは重度のうつ病を患い、10年以上にわたる闘病生活を送っておられました。つまり、管理人のAさん自身が自殺を考え、自殺サイトや掲示板を必要としている方だったのです。Aさんは掲示板の傍らで、手記を公開されていました。ほか二人の運営者(以下、Bさん・Cさん)は、彼のご友人でした。後述しますが自殺サイトは一人では管理が大変なので、共同運営の形はAさんたちに限りません。自殺掲示板の多数派と言っていいくらい普及していました。

自殺願望は一般社会ではネガティブなものとして排除されてしまうけれど、それについて話せる、気持ちを吐き出せる場所が必要だ、というのがAさんがサイトを始めた理由だということでした。ウェブ上にひっそりと、自殺志願者が憩える場所をつくったということです。「死にたい気持ちが少しやわらぐ」ことがテーマのサイトで、やさしい音楽を流すこともできる仕様でした。

当時高校生だった私がそのスペースにどれほど救われ、どんなに感謝しているか。それは私がAさん方のサイトから表題の一部「憩い」という言葉をお借りしていることから察していただけると思います。

Aさんの重度うつの原因は、過重労働でした。ブラック労働がいかに人を破壊するか、それは別の機会にゆずるとして、ここでは今も忘れないAさんの心の深さとまともさについてお話します。

Aさんの手記の内容は、だいたい次の通りでした。

――この社会に生まれると、小さいころから「狩り」をすることしか教わっていない。もし「人間には心があって……」などと言い出せば、親や先生からは「役に立たないことを考えている間に勉強しろ」、会社では「きびきび働け」などと切り捨てられるのがオチだけれど、人間はそれだけでは成り立たない。人間が生きるには、精神面の充足も必要だ。こんなことを言うのはまるで負け犬のようだけれど、ここでは書いておきたい。――

負け犬だなんてとんでもありません。私は今そう言いたいのです。「人間には心がある」ということこそ真実です。「狩り」だけで生きられる人間を想定するほうが、よっぽど宙に浮いたファンタジーだと思います。家庭や学校、会社、そして我々の社会をきちんと回していくには理性も優しさも必要で、Aさんにはその素質が備わっている。そう断言します。(個人的には、学校の先生にそこまで功利的なことを言う印象はないのですが、Aさんの周りはきっとそうだったのでしょう。Aさんは私より二十近く年上なはずなので、時代が関係あるかもしれません。)

Aさんは少しずつ回復され、ゆっくり段階を踏んで「社会復帰」をされてゆきました。(カギカッコを付けたのは、私が「社会復帰」という概念を認めていないからです。「復帰」も何も、社会は会社員だけのものではありません。生まれたばかりの赤ちゃんも、入院中の患者さんも、100歳のお年寄りも、全員社会の一員です。)それとともにサイトは閉鎖されたので、今はもうありません。

ほかの掲示板サイトは?

私は一つの自殺サイトだけにとどまっていたわけではありません。参加こそしなくても巡回しているサイトは他にも多くありました。

交流型のサイトでは、管理人さんがご本人についてあまり語っておられない場合もありました。それでも管理上の必要があるため、連絡先は明確でした。

インターネットは匿名ではありません。管理人さんだけでなく、私を含め利用者もみなハンドルネーム(HN)を使っていましたが、ハンドルネームは作家のペンネームと同じ原理で、完全な匿名を意味するわけではありません。自殺志願者のほとんどは学校・職場・家庭に問題を抱えていて、自分のことを話すには本名を伏せられるのはとても好ましかったのですが、いざとなれば身元が分かる状態です。

だから、安心できました。だって、顔も見えず正体不明で問題が起きたときに蒸発されたらそれきりの相手となんて、怖くて話す気になれませんよね?

そういった賢さやコミュニティの高い成熟度がごく当たり前だった自殺掲示板は、今思い返しても特別だったと思います。

読み物サイトの管理人さんは?

読み物サイトの管理人さんは、「発信したいことがある」という動機だけでサイトを立ち上げた方々です。書いた文章をネットに載せた、と表現したほうが合っているかもしれません。今日、ネット上では人を集められさえすれば中身などコピペやでたらめでもいいという性質悪いサイトが横行していますが、その対極を行くのが読み物サイトの管理人さん方でした。

過重労働、異常な人間関係、DVやリストカット。非常に生々しい手記をずいぶん読みました。どれも、ごく個人的な体験談を綴ったものでした。精神科や入院生活についての手記だと読み手だった私にも参考になる部分があったりしたのですが、それでも根本的には、ただ自分のことを語った文章でした。客観的な情報発信が目的ではなく、はたまた読み手に「私はこれでも生きたからあなたも死なないでよ」などと説教しようという意図でもありません。

苦しんでいる読み手に負担はかけない。しかし、人間の、命の尊厳は徹底している。だからいいんです。掲示板での交流とは異なりますが、読み物サイトもそれはそれで、命の淵特有の「対等さ」が徹底していると感じました。

読み物サイトは一方通行です。なので、不特定多数がやって来て投稿する掲示板のように、利用者同士でトラブルが起こることはありません。

ただ、私のころはブログサービスやCMSが今ほど盛んでなく、SNSはまだ存在していなかったので、インターネットで何かを発信するにはホームページ作成の最低限のプログラミングが必要でした。読み物サイトの管理人さん方は、みなさん手探りでサイト作成技術を覚えたようでした。そのためサイトのデザインは全然おしゃれでなく、色がきつくて目がチカチカするようなものもめずらしくありませんでした。

その流れもあってか、自殺サイトは現在も古めかしいデザインが主流なようです。私はこの連載のため、ほんの少しだけ自殺サイトをまわったのですが(興味本位で深入りするのは失礼だし、そもそもそれができるような生易しい世界ではない)、スタイリッシュなフラットデザイン全盛の今も、自殺サイトは私のころと寸分変わっていませんでした。

自殺掲示板の運営は大変!

さて、ここでは自殺掲示板の管理人さんについて、より深く踏み込んでみたいと思います。というのも、私は今ではITに詳しくなり、こうして自身の創作ブログをやっているわけですが、だからこそ数あるサイトの中で自殺掲示板の運営は大変だとよく分かるようになったからです。どんな難しさがあるのか、技術面のことやいかにも起こりそうな問題からかなり意外なことまで、余すことなく紹介します。

技術面の関門

サイト(ホームページ)作成に必要なもの

さて、自分のサイトを作って公開するには、3つのものが必要です。データ(文、画像といった公開したいもの、サイトのデザイン、など)、ドメイン(URL/アドレスの部分。このブログなら kozuehinatsu.com)、そしてサーバーです。

「サーバー」とは、言うならば大きなコンピューターです。そこにサイトの全データをアップロードしておくことで、パソコン等の端末からサイトを閲覧できるようになるのです。ですから、今あなたが『日夏梢の自由研究』を見ているということは、正確に表現すると、あなたはブラウザソフト(Windows Edge、Internet Explorer、Google Chrome、Safari、Firefoxなど)を使って、このブログのデータが保存してあるサーバーにアクセスし、ファイルをダウンロード、画面に表示した、ということになります。

テキスト(文章)や画像はいいとして、サイト自体のデータ(HTML と CSS)については、ホームページ制作ソフトやCMS(「コンテンツ・マネジメント・システム」の略)などで作れます。

ドメインは無料のものもありますし、好きなアドレスにしたければ年間1000円程度で取得することができます。

サーバーは、たいていレンタルです。火事や地震への対策が取られた安全な場所にある巨大なサーバーの一部を間借りするのです。いくつもの業者がサーバーレンタルのサービスを展開していて、サイト作成についても解説や一部のサポートをしてくれます。

自殺サイトだとサーバーに関門が……

ところが、サイトの内容が「自殺」だと、こういったサーバーを借りられないことがあるそうです。レンタルの規約にひっかかってしまうのです。

サーバー業者にしてみれば、自社のサーバーが犯罪取引などに使われてはたまりません。なのでサーバー業者はレンタルの規約で、犯罪はもちろんギャンブルなど公序良俗に反するコンテンツをたいてい禁止しています。Bさんだったと思うのですが、「自殺掲示板だと『自傷行為』『残虐なコンテンツ』などにかかる投稿がされないとも限らないため、断られてしまった」とおっしゃっていました。

なので、私が通ったある自殺サイトは、そういった規約がない海外のサーバーと契約していました。Aさんたちのサイトは、手軽なレンタルではなく自前のサーバー(「自宅サーバー」)での運営でした。

具体的に想像してみてください。海外サーバーなら、契約のやり取りには言語の壁があります。レンタル料の支払いも銀行振り込みなどというわけにはいかず、なじみのない方法になりがちです。自宅サーバーで運営するなら、プロのエンジニアレベルの技術が必要です。(Bさん・Cさんがどんな方かはAさんのご友人だということ以外知らないのですが、Aさんがエンジニアなので、きっとそういう分野の方だったのでしょう。)

このように、自殺サイトを運営するにはサーバーという関門があるのです。自殺サイトの管理人さんは、それを乗り越えてでもサイトをやりたいという方でした。

運営が大変だと分かっているからこそ、利用者は自殺サイトを大事にし、管理人さんの定めたルールをきちんと守っていました。自殺サイトは、みなの大事な場所を守りつないでいこうという意志の上に建つ、今思い出しても稀有なコミュニティでした。

利用者間トラブルの仲立ち

連載第2回では私が経験したかけがえのない交流についてたくさん書き記しましたが、それは決して自殺サイトの全てではありません。インターネット全般にも言えることですが、サイトによって質はまちまちで、荒れ放題のひどいところもありました。内容が内容の自殺掲示板では、時に利用者間のトラブルが起こることもあります。

私が実際に見た例

ある時、ある自殺掲示板で年配の女性(以下、Xさん)が常連として投稿をするようになりました。孤独な人生に悩んでいたそうですが、態度が横柄で話の内容も毒づいていたため、掲示板全体の雰囲気が悪化し、以前の常連さんたちが流出。ついには学校生活で大きなトラブルを抱える大学生(以下、Yさん)を傷つけるような発言をしてしまい、問題になりました。この掲示板にもルールが設けてあり、乱暴な言葉遣いはアクセス制限の対象でした。Yさんと他の訪問者は、管理人さんにXさんのアクセス制限を頼んだそうです。

その時、管理人さんはXさんとメールで連絡を取り合い、話し合い、最後は掲示板にて「この話はこのあたりでたたんでおきましょうよ」と仲立ちをして収めました。

私は感銘を受けました。よくここまでていねいなコミュニケーションをとるな、と。私はサイト訪問者として、Xさんの胸悪い発言には辟易していました。その掲示板には不参加を決め込んでいたくらいです。

自殺サイトは、この世で最後の居場所です。来ているのは、孤立し、さまよって流れ着いた人ばかり。だからこそ、運営にはプレッシャーもあります。サイトを唯一のよりどころにまでしている人が大勢いるからです。Xさんだってその一人。だから、管理人さんはXさんにもつらく当たらない方法で解決しようとした……というふうに理論的に考えて決定したというより、特に意識もせずこんな懐深い行動をしたようでした。こういうずば抜けた優しさと賢さは自殺サイト特有のすごみだと、私は今も思います。

ちなみに、Xさんは別の大手投稿サイトで同じような発言を繰り返していたところ、いわゆる「ネットいじめ」に遭い、ますますおかしくなってしまったらしいです。実生活で傷ついた人がネットでまた……という後味悪くてやるせないケースもまた、インターネットで起こることの一側面です。

悪質な投稿への対処

掲示板にはいわゆる「荒らし」が出現することもあります。利用者が安心して過ごせるよう、掲示板を運営するなら勧誘や悪質な投稿を取り締まらなければいけません。追いつめられ死にたいとまで考えている人々の大切な居場所を存続させるため、管理人さんはこれらにも投稿削除やアクセス制限などの対処をしてくれました。

自殺サイトでのことだったか覚えにあまり自信はないのですが、あるサイト管理人さんは、運営の妨害を理由に警察へ被害届を出したことがあるそうです。しかも何度も。インターネットは匿名だとか、バーチャルな世界だとかいうのはおとぎ話にすぎません。ネット上で鼻歌交じりにいたずらや嫌がらせをしていた人のもとへ、ある日突然警察がやって来て、そのまま逮捕……という例は山ほどあります。ネットは、現実の一部です。荒らしをやるようなつまらない人は青ざめるかもしれませんが、私たち普通の利用者にとってはいいことですよね。

自殺予告の禁止・警察への対応

自殺予告が書き込まれると、警察から問い合わせが入るそうです。警察官が現場へ直行するためです。ある管理人さんによれば、即刻電話が鳴るということです。私が知る掲示板はどこも自殺予告禁止のルールを設けていましたが、それでも書かれてしまったときは警察に協力しなければなりません。(もっとも私は自殺予告の書き込みを見たことはありませんが。)

メディアからの取材

痛ましい事件などをきっかけに自殺や自殺サイトにスポットライトが当たったときには、メディアから取材が来ることがあるそうです。

私が通っていた自殺サイトの一つは、すでに5回ほどメディアに掲載されていました。取り上げられ方は、いずれも好意的です。巷には、残念ながら、興味本位だったりセンセーショナルだったりする質の悪い報道が氾濫していますね。けれどそのサイトのメディア掲載は、そういった「大騒ぎ」とはほど遠い、本当に重要なこととしての扱いでした。現実を見つめて向き合うメディアも、世の中にはちゃんと存在しているのです。

もうからないけど、必要だから

以上のように自殺サイトの運営はとても大変なのですが、お金にはなりません。自殺サイトが必要だと思うから好きでやっている世界です。

ネットの世界がどれほど商業的か、知っていますか?

みなさんもウェブ検索はたびたび使っていると思います。何かのファンサイトなど、日常の娯楽として見に行くお気に入りがあるかもしれません。

それらお気に入りサイトのうち、実はあれもこれもが商業目的のサイトだと知ったら、あなたはきっと驚くと思います。

直球の商業サイトなら、今日誰にとってもおなじみでしょう。企業がホームページで事業や商品を宣伝したり、オンラインショッピングサイトで買い物をしたり。この類の商業サイトは、なにも嫌悪するような代物ではありません。

また、企業やショッピングサイトでなくても、ウェブサイトの大部分は一部を収益化しています。たとえば、スポンサーリンクと書かれた広告バナーをよく見かけませんか? このブログにも貼ってあります。あれはいわば新聞や雑誌の広告欄のウェブ版にあたるもので、サイト運営の手助けになっています。新聞や雑誌と同じように、広告欄を作ることで一部コストをまかない、メディアを運営・存続させてゆくのです。もとからあったメディアが今日ではインターネットを利用している、と表現したほうがしっくりくるかもしれません。

こうした商業サイトや収益化自体は、まったく問題ありません。人間社会において合理的な営みで、必要のあることだからです。

ただ私が指摘したいのは、性質の悪い商業サイトがウェブ上であまりに幅をきかせているということ。個人の趣味ブログ、あるいはもっともらしい情報サイトに見えたとしても、実際には購入誘導が目的だ、というサイトはいま、ネット上でとてつもない割合にのぼっています。それらの運営者は、個人と企業、どちらの場合もあります。

たとえば私は少し前、色彩関連のことを検索したことがあります。そうしたら、Google検索トップ10件の全ページに、「紫」について一字一句違わない文が載っているではありませんか! どのサイト運営者も別のサイトから部分的、あるいは全面的にコピペしたからこんなことになるのです。そうやって相互のコピペが蔓延した結果、もはや誰が一番最初にその文を書いたのかは不明だという始末。そんな無責任な情報(?)が、Google検索を占めているのです。こうした悪質なサイトの面々には、「情報」のあとに、縁起物の広告バナーや色彩関連の講座の案内が貼ってありました。つまり、サイト訪問者にそれらを買わせるための誘導です。正しい情報を発信しよう、なんていう意図は、彼らにはまったくありません。一応詐欺ではないのですが、金になりさえすればいいかげんな情報を世にばらまいてもいいなんて、発想が薄暗いですよね。こうしたいいかげんさが、「ネットの情報はクオリティが低すぎる」と言われる由縁の一つとなっています。(こういう性質悪いサイトの対策として、私は情報の発信元を確認するのが有効だと勧めています。ちなみに私はその後、インテリアデザイン会社のブログで、信憑性のある求めていた情報を得ることができました。)

ファンがやっていると思っていたサイトや、いい情報が載っていると思ったサイト。それが実はグレーゾーンの業者が機械的に作ったものだと知ったら、あなたはひどく幻滅するのではないでしょうか。私の目では、ここ数年でネットを業者が占める割合はみるみる伸び、おもしろいと思えるサイトはめっきり減りました。

自殺サイトは純粋な趣味サイト

ところが、自殺サイトにはこういう商業化の流れがまったくありません。

その理由ですが、事業としてサイト運営を行うIT企業(良質な企業から薄暗い業者まで含む)は、自殺サイトはまず運営しません。なぜなら、利益が極端に少ないのに、上で述べた通り管理が大変で、リスクが非常に高いからです。

そもそも、利潤を出したいなら、まずは人を集めなければなりません。たとえば遊園地やファッションビルのような楽しい場所をつくれば、たくさんの人が訪れてお金を落とします。休日にイベントでもやれば、普段は来ない層までやってきてお客さんになってくれるでしょう。

それに対し、自殺サイトには「死にたい」という思いを抱えた人しかやって来ません。そもそも訪問者の頭数が少なく、しかも傾向が限られています。コピペ、つまりうそっぱちの垂れ流しでもアクセスが殺到しさえすればお金になる、という悪質なサイト運営者にとって、「自殺」は魅力ゼロのテーマなのです。

さらに、自殺サイトは「宣伝」と無縁です。企業なら、日ごろから自社のホームページでアピールしておけば、新たなビジネスチャンスが舞い込むかもしれません。自社を広く知ってもらうことは、成功への第一歩です。そして悪質なIT業者にとっては、ネットで目立つことが命。コピペだろうがでたらめだろうが(実際、でたらめを機械で生成してネットに流す悪質な人はいる)、検索で目立って人々がクリックしてくれればそれでいいのです。

これに対し、自殺サイトは宣伝する必要がありません。ウェブのどこかでひっそりと、来たい人だけ来れればいい場所です。

そして決定打は、誰かがサイトにやってきたとしても、売るものがないということ。なぜなら、来る人はみな、死線を目の前にするところまで追いつめられているのですから。サイト訪問者に物を買おう、会員登録しようなどという精神的・金銭的余裕がないのだから、運営者はせっかくサイトを作っても、お金につなげようがありません。

こういうわけで、自殺サイトはその性質上、ビジネスモデルでは立ち行きません。いくら大変な管理をこなしても、利潤にはならないのです。それでも、管理人さんが必要だと思い、自殺志願者にとって必要だからやっている。現代において、とても貴重な場だと思います。

結びに

どういうわけか、私の尊敬する人は、無名で、今どこでどうしているやらそれきりになっていることが多いです。

Aさんをはじめ、自殺サイトの管理人さんもそう。真顔で運営されていましたが、いま思い返して客観的に見たら、もはや聖人の域だと心打たれます。世の中に良心はあり、いい人は存在している。その事実は、それはそれは大きな心の支えになります。

……などというあまりにきれいな世界、天空に見上げるような人なのに、管理人さんは決して「上から目線」の慈善活動をしていたわけではありません。私のような利用者と同じ、三途の川のほとりまで追い詰められてしまった人。そんなこんなで、私は自殺サイトをとても不思議な空間だったなぁと思い出すのです。

この連載は、極めて個人的な回想録です。

私の体験はずらずら書いてきた通りですが、だからどうだとか、今自殺を考えている人にああだこうだ考えを押し付けようとか、そういうものではありません。この記事が具体的な助けにならないことは十分承知だし、空っぽの希望の言葉をネットワークに乗せるのは馬鹿げた偽善だとは分かっているつもりです。

なのに私は、いてもたってもいられないほど発信したくてやっています。自己満足? なんかの使命感? それとも、こうしてネットに置いておけばひょっとしたら誰かの役に立つかもしれないから? ……衝動に近いと思います。こうしてキーボードをたたきながら、理屈ではなく、もっと根源から湧き上がってくる気持ちを感じます。人間には、表現しなければいられない時があると思います。書きたくて書きたくてたまらないから書いている。おもしろい記事にしようなんて思わない。自分が言いたいことを言う以外考えてない。記事の長さがどんなに伸びようが、読みにくくなろうが、書きたいものは書きたい。きっと、読み物サイトを立ち上げた管理人さんも、こんな気持ちだったのでしょう。ある会社での過重労働や人間関係、DVやリスカの経験、精神病棟での出来事や出会った人のお話――それがある時ネットをさまよう一高校生に届いたからどうなのか、役に立つのか、とかそういう問題じゃなかったんですよね、きっと。表現したいという気持ちはアートの根源で、それは人間の尊厳に直接つながっていると思うんです。管理人さんはアーティストを名乗っていたわけじゃないし、もし私が「あなたはアーティストですよ」なんて言ったら笑われてしまうかもしれませんけどね。

いまでは私が、自らサイトを運営する身となりました。ITに関しても、社会全体からすれば上級者の部類になったと思います。そしてIT事情が分かるようになったからこそ、自分がAさんたちのレベルから遠いこともよく見えます。だからなんだっていうと、一人の人が人生でできることは限られていて、だから私はエンジニアにはなれないけど、それでいいんじゃないですかね。誰も完璧なんかじゃないわけで、ノンストップで少しでも能力を上げようとする必要なんてないじゃないですか。このブログは創作ブログだけど、この連載だけ取れば自殺サイトの読み物カテゴリで、だからなんなんだというと、そういうものなんだということで。私自身、私以外の何ものでもないし、それは他の人もみなそうですしね。

もっと気楽でいいんだ、あなたも私も。そう思います。

私も手記を書いてみた

Freedom Writers Diary との出会い

私が”Freedom Writers Diary”という本に出会ったのは、大学時代のことでした。

“Freedom Writers Diary”とは、アメリカの150人あまりの高校生の「手記集」です。荒れた高校の生徒たちが熱心な若い先生との出会いによって書いて表現することを学び、人生を変えていく……というとまるでフィクションのようですが、実話で、しかも書いたのは第三者ではなく本人たちです。「知る限りの親族全員がギャングに入って抗争をくり広げているので生活はまるで戦時下だ」「家にものすごいDVがある」「友達が撃ち殺された」など、私が知る自殺サイトに負けずとも劣らない過激な惨状が多数収められています。辛い経験を日記に書くことで自分を変えていった人たちそれぞれの、実体験と肉声です。

作家として一言付すなら、良い悪いという枠組みや好き嫌いの感性、売れる売れないという基準をどれも無効化して超越する「本」がこの世に存在するということは広く訴えたい。本当は、これこそが表現の本質なんですよ。Freedom Writers が先人と仰いだのは、『アンネの日記』のアンネ・フランクです。みな、受けねらいでペンを執ったのではありません。人間には、話さなければいられないときがあります。書くことで自分を変え、自分を変えるために書くのが始まりです。惨状も願いも、書いて伝えて残せば、時代や場所を越え、世界を変えられます。出版は本来、伝えたいという気持ちに端を発する営みです。世の中には書評・レビューがあふれていて、書籍の商業主義はもはや私たちが疑いもしない日常の一部となっていますが、”Freedom Writers Diary” は人間にとっての表現することの意味を考え直させてくれる「本」です。

彼ら Freedom Writers は高校を卒業し(多くにとっては家族初)、多くが大学へ進学し、のちには同じような境遇の子どもたちに暴力ではなくペンで表現することを教えるなどの支援を行うNPOを設立・運営しているそうです。

話すことには絶大な効果がある

私は「書く=体験を語る」ことに絶大な心理的効果があることを知りました。

もっとも私は自殺掲示板や手記サイトで、すでに自分のことを語っている人たちを見ていました。医学的にそれらは良い効果を有するとも聞いていました。新しい人生を始めた先人たちも知っています。Aさんはゆっくりいわゆる社会復帰をされていきましたし、父親のDVが原因でリスカをしていた手記サイトの管理人さんも、闘病生活の後には仕事を見つけて新しい生活を始められたそうです。

ただ”Freedom Writers Diary”を読んで、私が知る実証例の頭数が目覚ましく増えました。語ることで世界が変わるのは、時代や国境を越える人間の真実なんですね。

連載・自殺サイトの思い出、今回は番外編。様々な時代や場所の先人たちから「バトン」を受け取り、私も自分のことを書いてみようと思います。

ノートとペン

私が自殺サイトにいたころと、その後のこと

私は高校時代を自殺サイトで過ごしました。

原因は親戚のトラブルという、俗で、おどろおどろしいものでした。のちに作家等になった人には若いころ「自分は何のために存在しているのか」などという哲学的問題に悩んだ経験がありがちで、これはこれでクールな青春だと思いますが、残念ながら私はそうではありません。トラブルは内容が特殊で、DVとか虐待とかそういう社会に存在するカテゴリーには属さないんです。直接の原因は叔父の結婚問題だったのですが、トラブルとしては、こじつけるなら「金銭・相続」でしょうか。

トラブルが勃発するまでは、私はごく普通の小中学生でした。家にいて危険を感じたことなどなかったので、家族関係の崩壊は急変、転落という感じでした。怒鳴り合いが連日続き、夜に及ぶこともありました。突発的に大規模な怒鳴り合いが起こることもあるので、常に警戒態勢、気が休まる時がありませんでした。親戚に結納など予定がある日が近づくと、「関門が待っている」という感じで家族全体に緊張が高まりました。

居場所がない。抽象論ではなく現実問題として居場所がないんですよ。その瞬間瞬間に居られる場所がないにもかかわらず、時間というのはノンストップで進んでいくので、体が縮みあがったまま心で途方に暮れた自分がいました。安心できる時が一時もないので、ストレスがのしかかっている、などという次元ではなく、本当は自分はすでに死んでいるのではないかという感じがしたものです。

八方ふさがりになり、この世で最後の居場所である自殺サイトに流れ着いた。私はそういう訪問者の一人でした。

そんな緊張と恐怖の日々をどうくぐり抜けたのかといえば、自殺サイトで息をつきながらだましだまし、としか言いようがありません。というより、家族が怒鳴り合っている最中に自分が同じ家の中でどうしていたのか、実はよく思い出せないんです。外界では約三年の歳月があったはずなのですが、床でうずくまっていたようなぼんやりした記憶があるほかは、ほとんど何も覚えていないのです。文化祭の日にただでない争いが起きて自宅に帰ることを悲観し電車に飛び込もうとしたことと、高三の12月にまた大規模な争いがあった時には精神的に勉強も何も手につかず、自室のドアを閉め切って床に仰向けで横たわったこと、くらいしかはっきり思い出せることはありません。こう書きながらも、時間の流れがおかしくて変な感じがします。

「普通の子」とのズレ

私は、世に言う実年齢では16、17歳でした。しかし年齢離れした相続などの問題に身を置いていると、無理やりでも早く大人になってしまうんですよね。

では、そんな擦れた人がもともと多感で不安定な子が集まる高校のクラスに入ったらどんなことになるのか。うまくいくはずがありません。学校へ行くと、周りのいわゆる「普通の高校生」とは生きている世界が違うため、まれに言葉を交わしても全くと言っていいほどかみ合いませんでした。一例ですが、体育の授業で空いた時間に受験の話題が出て、クラスメートが古文の良い参考書についてそれはそれは真剣に話してくれたことがあるのですが、私にとって生活のメインは親戚にあり、受験は「当日テストを解くんでしょ」程度のものだったので、ひどい温度差が生じてしまい、会話がうまくつながらなくなってしまったことがあります。

彼女に悪気があったわけではありません。誰かが悪かったわけではなく、居合わせた人の取り合わせからしてズレは避けられなかった。

頭では分かっているんですよ。けれど、私が心の中で慟哭したこともまた事実でした。あまりの孤独で泣き叫びたかった。泣く場所なんてなかったし、そういう感情をうまく表現することはできなかったんですけど、心の中に泣き叫びたい気持ちはあったと思います。

自分との間にズレが生じたのは、クラスの同級生だけではありません。先生や親と意思疎通が成り立たないことには頭を悩ませました。彼らは大人じゃないですか。大人並みの語彙と知識と理解力を持っているはずだし、家庭や相続のいざこざについても私より勘所があって然りのはず。なのに、私が家の状況とその辛さを訴えると誤解・曲解まみれになり、意思の伝達が成り立たなかったのです。私の説明が悪いから伝わらないのか? 当時はそう、自分のせいなのかと首をひねりましたが、今ではそうではないと分かります。まず先生には、私と話すといっても限られた時間しかありません。私の家庭の人間関係と刻一刻変化する情勢をすべて把握するのは、時間的に不可能です。しかも、一般社会には17歳かそこらの子がそんな種類の問題を抱えているという印象がありません。なので、私という「生徒」をとらえにくかったのだと思います。17歳の子といったらだいたいこんなことを考えているのだろう、というステレオタイプ化された高校生像にずるずる引き込まれていくうちに、焦点が私から完全に外れてしまった。そこにもってきて私の高校は進学校だったので、先生はひどく忙しく、生徒の家庭の問題になんてかまけていられなかったんですよね。そして私の家族はというと、理解力以前に、私の本当の心の声を聞こうという気がなかった。

理解されないこと自体が、世からの孤立の表れでした。当時は誰かに理解してほしかった。

そんなふうに周囲との葛藤に直面した時、私はふと、小学校時代の友達(仮名・桜ちゃん)を思い出しました。私が桜ちゃんとよく遊んでいたころ、彼女の両親は離婚に向かっていて、家では衝突があったのでしょう。彼女は不機嫌なことが多く、仲が良かったとはいえ、ぎくしゃくしがちな時期がありました。小学生の私は、家で安心できないことがまさかここまで辛いとは想像だにしていなかった。「家のことは学校とは関係ないじゃん」などと思っていたのです。高校生になって自分の家庭が崩壊し、その痛みを身をもって知った時、それはそれは深く後悔しました。

人間には、心が一つしかないんですよ。切り替えもなにも、切り替える先がないじゃないですか。一大事の中で生活して過大なストレスがかかっているのに学校でだけニコニコなんてしていろだなんて、まったくもって不合理な話です。公私混同という言葉がありますけど、その使いどころは狭く限られています。使える範囲を越えたなら、ただのズレでしかないんです。なんて冷たかったんだろう。もっとやさしくしてあげればよかった。すでに謝る術がなかった高校生の私はひとり、「せめてこれからは少しはまともな人間になろう」と思いました。ちなみに桜ちゃんとは高学年でクラスが分かれ、久しぶりに話した時には親御さんの離婚が決着したこともあってか、すっかり吹っ切れていました。明るい桜ちゃんに戻っていました。それはよかったんですけど、結局は別の話でしかなく、後悔と反省は一生残るだろうと私は覚悟しています。

され、もとの話に戻りますが、私は現在では誰かに分かってもらいたいという願望を持っていません。自分が自分の理解者になれたからです。誰かに理解されなかろうが、事実を否定されようが、いまでは自分の目と頭を信じられます。

それに、私は私です。自分ができること、日々の言動、生み出すもの、それらに自信を培ったので、他人が私をどう見るかによって感情が左右されることはなくなりました。

でも、当時は、孤独で悲しかった。問題の所在は他人からの理解があるかどうかということではなく、世からの「孤立」にあるんです。こんなのは私だけでもうたくさん。もう誰にも孤立しないでほしいです。

学校は辛いだけでしたが、家は地獄の窯の中みたいだから帰りたくない。悪循環が何年も続きました。

自分の内面での葛藤

周囲とだけでなく、自分の内側にも葛藤がありました。

他人事のように言うのは変な感じなのですが、いくら早く大人になってしまったといえ、16や17の私もいたはずなんですよね。どこへ行ってしまったんだろう。(そんなこんなで私には年齢の概念がなくなってしまったんだと思います。広い世界に出てしまえばみんな違って当然なので気にならなくなるからいいんですけどね。)

怒涛のトラブルの渦中にあって、顔に感情は出さないというか、出ないのが自分のデフォルト設定になっていました。当時、親から「いつもこわばっていてリラックスしているように見えたことがない」と言われたこともあります。でも内側には、人間として心の悲鳴はあった。

自分の中に複数の自分が並立している感じでした。なのに表に出てくるのは家のいざこざを無難にやり過ごそうとするドライな事務員のような自分ばかりで、人間らしく感情の密度の濃い自分になればなるほど深くに潜ってしまう。泣き叫んでいる自分が奥の奥の深いところにいるらしい。そんな心理状態が何年も続きました。

後には医療も受けられました

以上のように高校時代は世から孤立していましたが、状況は年齢と共に変化しました。

大学生になり、続いて成人すると、しだいに力を貸してくれる人と出会えるようになりました。自分の行動範囲が広がったからです。

家庭の崩壊から6年ほどが経ち、ようやく精神科の受診に漕ぎつけました。診断は、うつ病。闘病生活が正式に始まりました。ようやくですが、投薬を含む精神医療やカウンセリングといった、専門的な支援をしっかり受けることができました。ここでは長い時間を過ごしたものです。ネット上ではなく、リアルライフで人と会い、話せるようになりました。こちらもまた、自殺サイトに勝るとも劣らないかけがえのない経験です。

トラブルの元だった親戚がどうなったかというと……

自殺サイトならこういう深い話をしてもいいかなと思うので記しておきますが、私の場合、闘病生活によって家庭が良い方向に変わっていったのかというと、実はそうではありません。私は自殺サイトで「DVをする父が侮蔑的発言をしなくなった」とか「ノイローゼ(神経症)で日常生活を送れなくなったことで、いつも過剰な要求をしてきた両親が攻撃してこなくなった」などという方にずいぶん会いました。しかし残念ながら、私のところは違うのです。(Freedom Writers にもそういう人は出てきますね……。)

話すときの2つの注意点:条件次第では、もっと傷つくことに……

自分の辛い経験を話すことに効果があるのは事実ですが、注意点もあります。第一に、話す相手が悪ければ、よけいに傷つくようなことを言われる危険性があります。

私は自殺サイトの住人だった当時、叔父本人に開き直られた経験があります。しかも二度。私は本人に直接、「もう限界だ」と訴えました。そうしたら高三の4月にはけろっとした顔で「そうだねぇ」とあしらわれ、1月には「だからどうしてほしいの?」と、やっかいな事務処理を押し付けられたときのような口調ではねかえされました。

言わなきゃよかった。叔父本人に直訴するのは「戦略」として間違いだったか? 弱みを見せることを意味してしまったのか? よけいに傷つくことになりました。

めまいとは違って、心臓が地面に引っ張られてちぎれそうになったような感覚が走ったことをよく覚えています。こういう身体的な衝撃は、言葉で伝えられるんでしょうか?

家庭を崩壊に追い込んだのは彼でした。非を認めてほしかった。人間の赤い血が流れているなら、私が言葉で言い表せないほどのストレスを受け続けた原因について、謝ってほしかった。それを思うと、今なお辛いです。

次の2点は、自分のことを語るのが良い効果につながる条件です。

  1. 自分の精神面で、時が満ちていること
  2. 話すときの周りの状況が、ふさわしいものであること

1について。もしむずかしいようなら、無理して話す必要はありません。いつかでも大丈夫です。辛い体験を話すのは独特の勇気がいることですが、初めて話せた瞬間は信じられないくらいうれしかったと書いている人がFreedom Writers にもいます。心理学的には、この瞬間から回復期が始まるといいます。

2について。医療関係の第三者が交流の場を設けたというのが、最も確実でしょう。話す相手は良い友達でも悪くはないんですけど、友達は深刻な話を聞くことに専門知識があるわけではないので、悪気はなくても期待とは違う反応が返ってくるとか、真剣に受け取ってくれないなどの可能性があります。Freedom Writers は、学校がその場でした。先生が場をつくっていたわけです。いずれも、無用なストレスの余地がなく、本人が自分のことに集中できる状況ができています。

……自殺サイト? いいサイトが見つかったら完璧。話せる場所を求めてさまよっている人が、かつての私のように良質な掲示板で善い人たちと話せるよう祈っています。医学的にも、自殺掲示板には自殺を予防する効果があります。(もし身近に自分の辛い体験をSNSや大手質問投稿サイトなどに投稿しようとしている人がいたら、とりあえず、すぐに止めてあげてください。投稿は全世界に公開されるので、いかなる人が反応を寄せるか分かりません。悪意にさらされてさらに傷つきかねません。インターネットは使いようです。いいコミュニティを探すよう勧めてあげてください。)

今思えば、高校生の私は両条件を欠いていました。私は自分一人で始めて最悪な出だしを味わってしまいましたが、今では語る場所と方法について知恵をつけたのでもう大丈夫です。

声に出せたことで、世界が変わった。そう話す先人はたくさんいます。Freedom Writers は、体験を日記に書いて他の人も読めるようにしたのを皮切りに、講演会に出たりもしたそうです。他だと、親から虐待された経験についてのラップをラジオで聞いて、共感したので自分も始めた、なんていう話を聞いたこともあります。

親戚のトラブルの空しい結末

トラブル勃発から約3年。親戚は、形だけ家を出ていくことになりました。叔父を知る人々は、「あんな強権的で頭のおかしい母親を持ったがためにかわいそう」と、彼を不憫に思っています。

ところがこれこそ罠で、私の家庭が抱える異常性のコアなのです。「形だけ」と言ったのは、叔父は決して、世の人が思い浮かべるような絶縁をつきつけられたわけではないからです。彼は今でも母親に毎日二度電話し、数日に一度は顔を出し、少し離れた場所で悠々自適に暮らしています。なかでも強烈なのは、彼の母親が彼に住宅資金をすべて現金で与えたこと。なんと書類の上では彼が現金払いしたことになっているので、その金が母親から出たものだという証拠はどこにも残っていないのです(こういう表には出てこない話を書けるのは、自殺サイトならではだと思います)。私は広い世界をまわりましたが、正真正銘一切の出費なしに完全無料で戸建て住宅を手に入れた人など、彼以外に一人も出くわしたことがありません。高校生のころはここまでには思いませんでしたが、いまでは異常だと思います。

叔父は今でも、自分がトラブルを起こしたことを認めていません。それどころではない。彼が被害者であるかのような振る舞いを続けています。

心理学の研究によれば、病理のある家庭では被害加害関係が逆転して語られることがあるということです(参考はこちら)。私の家庭もこれに入るでしょう。

倫理観や人間味はないのが当たり前で、自分さえよければいいのも当たり前。目上の相手には自分を「かわいそう」と思わせる演技、他の相手には「親のことで苦労しているけど優等生でしっかりした坊ちゃん」の演技で今をやり過ごし、金や住宅をせしめ、将来的には母親から相続さえできればいい。叔父はそういう人です。お金は、得てしまえば得た者勝ちなんですよ。不正でもなんでもないので、けろっとしていられます。他人なんて踏んづけてもむしり取った者勝ちですか。やり場のない怒りを感じます。こんなようだから、この世は呪われていると言っているんですよ。

……それでもなお、私は彼がその人格のためにあまりに多くのものを失っていると思っています。金にかぶりつく本能に従って、関わる人それぞれに対して同情をさそうための演技をし、目をうるませるのも本当は演技でしかなく、もはやどれが本当の彼ということもない、自我のない、空虚なモンスター。「人間の定義」は議論の尽きない永遠のテーマですが、私たちが「人間らしい」と感じる要素や感情や生活を、彼はことごとく欠いています。彼はそれでいいのだろうし、仮に誰かがこれを指摘しても平然としているでしょう。しかし私は、金を手に入れるためにあんなふうになってあんな生き方をしたくはありません。人間らしく自由と尊厳を持っていたいし、まともな生き方をして、自分のやりたいことをやりたいです。

(余談ですが、犯罪被害者の方が、加害者の誠意ある謝罪を求める気持ちから厳罰化や刑事司法の改革を訴えていることがあります。その気持ち自体は自然で、正当ですし、分かるんですけど、私にとってはそれ以上に痛々しくて見ていられません。それが物理科学的に決して叶うことのない願いだからです。反省しない加害者に心の底から悪かったと思ってもらうには、その加害者の脳を作り変えるしかないんですよ。つまり不可能なんです。刑期が長くなろうが、死刑にしようが、被害者参加制度を使って法廷で問いただそうが、相手がそういう人である以上、望むような謝罪は得られません。こういう結果はひとえに加害者の人格のせいであり、刑法や刑事司法制度の手落ちでも、他いかなるものの責任でもありません。人生のうちで犯罪に遭うという巨大な理不尽に突き当たった被害者だったはずの人が、人類が多くの犠牲の上に築き上げてきた刑事司法を破壊する者に変貌してしまう。こんな悲劇が地球上にあっていいものでしょうか。)

他の家族も、私の闘病生活についてはいつも話をすり替えます。私がうつについて口にしたら、ひどいやっかいごとが舞い込んだかのような口調で「やめてよ」と悲鳴を上げられたことがあります。「〇〇(親戚の名前)が悪かったっていうなら連れ戻してやるよ!」などと”逆ギレ”されたこともあります。どれも傷つきました。私のうつを「そんな境地」と言われイラッときたこともあります。あれは「境地」ではありません、「病気」です。さらに、家族の歴史からは、叔父の結婚問題の期間が抹消されている。その期間をとばして、唐突にいまの状態になったことになっている。明らかに話がおかしいのですが、あのころのことは暗黙のうちにタブーとなっていて、絶対口にできない雰囲気があります。口に出せば家庭が崩壊するし、崩壊すればまたあの耐え難い苦しみに堕ちるということを、彼らも心の奥では認識しているのでしょう。

彼らは起こっている問題の本質を直視せず、見て見ぬふりをしていたい人たちなのです。誰か一人だけに問題があるのではなく、「役」は違えど同じ「舞台」を演じている集団なんですよね。

ハッピーエンドはなくても「誇り」と「未来」はある

しかし私は宣言します。私は無力な一高校生でした。私が受けた長年の苦しみについて、断固抗議します。受けた苦しみに対して抗議する権利を持つ根拠は何か。それは、私が人間であることです。この誇りは、私の身体が損傷しようとも、心が病苦の闇に沈もうとも、過去に傷ついたことはなく、未来永劫ぶれることもありません。

「馬鹿につける薬はない」といいますが、悪人につける薬はない。病んだ家庭につける薬もない。

変われるのは、自分の心で変わりたいと決意し、変わろうと踏み出した人だけです。

私の家庭には巷の「泣ける小説」みたいなハッピーエンドはありませんし、私はもはやそれを求めていません。もうあきらめたというか、悟りました。あの人たちがまともになることはありません。閉鎖的で世間体命の人々ですし、とりわけ叔父は人心をつかんで自在に操ることには奇跡的な才能を持っているので、口先できれいごとを言うことはあるかもしれません(もちろんやめてほしいですが)。それが本心であってほしいと期待してはいません。

私には、私の未来があるからです。

その後の人生

大学時代はうつやそれに伴う体調不良と闘病しつつ、学問で正しい知識を身につけました。苦境にある者にとって、知識以上に必要なものはありません。知識があればおかしさやうそを暴けるようになるし、解決策を考えだせるようになるからです。ここまで自分の家庭のおかしさを見破ってきたのは、そういった知識のたまものです。

先の”Freedom Writers Diary”は、英語の授業で偶然出会った本です。長文読解がメインで、あとは映画版を観て「実体験を語る」ことと「フィクション」や「メタファー」を比較をする授業でした。英語の長文に悪戦苦闘する学生が多かったようなので、私のように内容に共感していた人はめずらしいんじゃないでしょうか。(気軽に読みたければ日本語訳も出ているんですけど、これは英語の授業でしたからね……。手記という性質上、私はできるなら原文のほうを勧めます。)

ようやく親戚ではなく自分自身のことに向き合えるようになっていけました。良い大学生活でした。

自分を表現することを覚えたのもこの頃です。自然発生的にノートの端に歌詞のようなものを落書きするようになり、のちには作曲とギターを覚えて歌にしました。それは作家としての原体験にもなっています。

その後は海外向けサイトの仕事などにたずさわり、現在はこうして作家活動をしています。二十代半ばで、職業面も楽しく、自分らしさを出せるようにしようと考えました。仕事は生活費のため、と割り切るのは、実は精神に余裕のある人にしかできないライフスタイルなんですよ。私としては取り組みたい社会問題はいくつもあるのですが、もともと幸せでない私が争いの渦中に飛び込んだりしたら、私のほうの精神がもたず、結果、人のためになることなんてできなくなってしまうと思います。戦うのは、もともと幸せな人が仕事としてやるのが好バランスなんです。そういう人にまかせます。私は、私の幸せを考えたほうがいい。

おおかた過去とは全然関係ないことをして生きています。喜ばれたり、役に立ったと声をもらったりすると、心の底からうれしくなりますね。

夢は、ペンで社会を変えることです。社会を動かす影響力を持った作家になりたいです。閉塞感に満ち生きにくい社会を変えるのは、一人一人の心からだと思うんです。自殺サイトでAさんたちから教わったことは、時を経ていま、私の人生に生きています。私自身がこうして自分のサイトを運営し、たくさん思うままに表現できるようになったのだから。私の持つ知識や経験、それから何より熱い思いをペンを通して共有し、この社会を誰もが人間らしく生きていける場所に変えたい。それが私の夢です。

結びに

やった。全部書けた。他人のことや複雑な社会問題よりも自分のことを話すのがいちばん勇気がいるというのは世の常ですが、私も思い残すことなく出し切れました。

これで私も、手記サイトの管理人になれました。いまやっと、自殺サイトに手記を載せていた管理人さん方や Freedom Writers のみなさんに続くことができました。

連載・自殺サイトの思い出は、「ああするといい」「こうするといい」と読者にアドバイスする趣旨ではありません。自殺サイト特有の世にまたとない懐の深さを、私にできる限り再現するためです。話す勇気がない、元気がない、気力がない、などという人もいるでしょうが、私はすべての感情を肯定します。ただ、まぁ、話すことで人生変わるというのは本当で、実際そういう先人は各地にいるので、あなたや身近な人の参考になればと思います。もしよければ、この「バトン」を受け取ってください。

次回・最終回では、自殺サイトをふり返って今思うことと、当時交流した方々へせいいっぱいの感謝を送って締めくくる予定です。

さぁ、手記は書き終わったし、次の作品でも作ろうかな。

自殺サイトを忘れない

今、思うことを4つほど

自殺志願の理由は、十人十色でした。第2回でじっくりお話しした通り、全員が孤独です。

親戚のトラブルで居場所がない高校生だった私が、他の訪問者から助けてもらえるわけではありません。そんな私が、別の方を支援してあげられるわけでもありません。こんなひどいことがこの世にあるのかと憤っても、できることはない。無責任に放り投げる希望や励ましがいかに無力で偽善にしかならないかは、経験者として体感しています。

その無力という現実の上に立って、驚くべき善意や賢慮を発揮する。それが自殺サイトのすごいところでした。

ここでは、私がこれまでに培ってきた考えを4つほど書き連ねようと思います。結果として、自殺サイトに流れ着いていた最高の善意と賢慮を再現できていれば、幸いなことこの上ありません

1:「普通」でなくていい

私たちは幼いころから、「普通」や「定番」になることへのプレッシャーにさらされ育ってきました。

「普通」へのプレッシャーは、人生観はもとより、日々のちょっとした考えや心の動きにまで影響を与えていることがあります。普通の子みたいに生活したい、とか、普通の就職を目指す、とか。ネットをさまよい自殺サイトに流れ着いた方々はそれぞれ、心の根底にあるこの種の圧迫に苦しんでいたと思います。

しかし私は断言します。「普通」になる必要なんてありません。

第一、「普通」の定義って何ですか。みんなと同じように生きることですか? 私はこれを絶対に否定します。たとえば、私が友達と同じように人生を設計をしたとしますよね。しかし、私の友達は、そのまた友達と同じにしているんじゃありませんか。そして友達の友達の友達もまた……というふうに、「みんなと同じ」は「右へならえ」の「大行列」を生みます。自分が大行列のまっただなかにいるという自覚の有無にかかわらず、です。では、「右へならえ」の「最初の人」は誰ですか。もし「最初の人」が存在するなら、私たちはその人個人(おそらく何らかの権力者で、私たちは顔も知らない)の言いなりだということ。それに気づきもしないなんて、悔しいにもほどがあるじゃないですか。いくら右をたどっても「最初の人」がいないなら、これはこれで悲惨です。それは極度な相互依存のもと、「はみ出す者はいないか」と疑い合う陰湿な争いをしているということなのだから。

「普通」など、不毛な茶番にすぎません。誰にとってもいいことがない。だから、みんなと同じになる必要などないし、むしろなってはいけないくらいです。

人は一人一人、違います。これは宙に浮いたあるべき理想ではなく、この世界の事実です。個性はもちろん、置かれた状況も、同じ人はひとりもいません。「普通」の人なんていません。自分が自分であることこそ、すべての礎です。

とても大事なことなので、「普通」について思うことを別の3つのアングルからも書いておこうと思います。

幸せに越したことはないけれど、絵に描いたようでなくていい

今の瞬間、あなたが幸せであるに越したことはありません。正社員として充実した生活を送っている人がいるなら、けちをつけようとは思いません。町で高校生を見かければ、楽しいことはもちろん悩みも含めて、自分の青春をのびのび送っていてほしいと願います。私のような思いは、もう誰にもしてほしくないです。

ただ、そのことは、「絵に描いたような生活が絶対唯一のあるべき姿だ」ということを意味しているのではありません。

青春にせよ、友達や進路のことで笑ったり泣いたりするのだけが高校生のあるべき姿ではありません。たとえば私には周りの生徒と同じような高校生活はありませんでしたが、自殺掲示板で様々な人と交流し、そこの方々から人間の根底にあるあたたかさを見せてもらいました。私にとってこれは、かけがえのない、忘れ得ぬ思い出です。

仕事をするなら、会社勤めの正社員(しかもできるだけ大きな会社の)である必要はない。こんな発想は、狭い世界の話です。海外では、人々の感覚は真逆です。お金持ちになりたい人ほど大企業に就職するのではなく、会社を起こすなりフリーランスで活動するなり、自分でビジネスを始めるんですよ。よくある履歴書冒頭の文句で「私は人生で一度も誰かに雇われたことがありません」というのがあるのですが、これは「働いたことがない」という卑下ではありません。「根っから主体的な起業家体質だ」という自慢話です。会社に雇われることにここまで重点を置く社会のほうがよっぽどおかしいし、「会社員にならなくてはいけない」というプレッシャーでつぶれてしまうのはもったいない。会社勤めの正社員でないことを後ろめたく思う理由はありません。劣っていると感じる原因は、実は逆に才能かもしれない。可能性はそこにこそあるといえるでしょう。

「普通」と「それ以外」が本流と亜流の関係だ、という感覚をそろそろ取り除きましょうよ。

価値あるものには、広いバリエーションがあるのだから。

肩書きはいらない

かっこつけなくていいと思うんです。立場名、役職名、世間体。そしてなんといっても、収入の額。

自殺掲示板で、「同い年の他の人と比べて、当たり前のことが自分にはできない」と吐露されている30代のうつ病の方がいたことを覚えています。しかし、学問的に見て太鼓判を押しますけど、その「当たり前」は根拠のない共同幻想です。学校を出たら会社に就職して昇進して結婚して家庭を持って……そんな人生観、時間的には長くてもせいぜいここ数十年、高度経済成長以降の日本の、そのまた一定の条件の人々に広がったイメージにすぎません。肩書きなど、ニセモノです。重視すべき理由などありません。肩書きがあれば偉いなんてことはありません。個人的には、そんなものに喜んで自信の基盤にしている人こそ、操り人形のようで哀れだと感じます。家族など周囲の他人に肩書きを求める人こそ愚かです。

肩書きのための卑下。罪悪感。恥じ入って隠れたくなる。そういうの、やめようよ。つまらない肩書きなんかのために苦しむの、もう終わりにしようよ。

他人は他人にすぎません。今世界のどこかで蝶が羽ばたいたかもしれないし、モグラが地面を掘ったかもしれませんが、私たちはそれを知りませんし、知ったところで自分とは関係ありません。それと同じように、他人はこの地球のどこかで勝手にやっていてもらえばいい。比べる必要はありません。

自分は自分じゃないですか。それだけで価値があるんですから。

お金は気にしなくていい

仕事がなかったり主婦だったりと、収入がないことで精神が締めあげられる苦しみはとてつもなく深い。今後を生きていく自信を得られなかったり、DV夫から逃げられなかったりと、経済的な問題は精神的な苦しみにつながり、やがて融合してしまう。

それを分かった上で言っています。稼ぐことを考えなくていい、と。

私は、この社会ではお金を稼ぐことが強迫観念にまで格上げされているとみています。そりゃあ、生きていくためにはその手段が必要かもしれませんよ? しかし行き過ぎです。情報操作のにおいがするほどです。どこか本末転倒な気がしませんか。

お金のこと、思い切って忘れましょうよ。自分で稼がなければ、という発想は、もうやめていいはず。お金は道具にすぎないので、人間の尊厳よりずっと格下なんですから。

息しているだけでいいです。私はそう言います。

2:「べき」論は全部捨てていい

心にまぎれた他人にさようなら

他人に由来する「べき」論は、全部残らず捨てたほうがいい。そうしないと、自分の道は見えません。

もしあなたの周りに直接ああしろこうしろと言ってくる人がいるなら、断言しますが論外です。心の中で「さようなら」することを勧めます。

自分で気づきにくいためさらに危険なのは、自分が求めているものが実は他人の「べき」論由来だった、というケースです。自分の頭に他人の考えがまぎれていることは案外多いと思います。特に、「できるだけいい会社に就職して毎月の給料で生計を立てたい」とか、「結婚して家庭を持ちたい」といった望みを持っているなら、今一度、自分に問うてみたほうがいい。それは本当に自分が望んだことですか、と。

本人がかたくなに信じている「べき」論は、実は驚くほど狭い範囲でしか通用しない内輪の論理だったりするものです。たとえば私は、「22歳なのにまだ結婚しないの?」という「べき」論を振りかざす両親に苦しめられているという人に出くわしたことがあるのですが、その妙なルール、彼の家庭というたった数人の範囲でしか通用していませんよね。我々外部者にとっては、なんのこっちゃでした。彼の家庭は、風通しが悪くて知恵がなく、カルト化した矮小な集団でした。このように、自分をしばりあげているものは、距離をとって客観的に見れば、実はばかばかしいくらいのものかもしれません。

私の場合、中学生くらいからでしょうか、将来は毎月確実に一定額稼がなければならない、という発想が心に深く根を下ろしていたと思います。それがもとをたぐれば祖母の「べき」論と当時の日本社会の風潮だったと気付いたのは、二十代も半ばを過ぎてからでした。

他人は他人。人生や心の中にまで入り込んでくる権限はありません。

自分の人生を見極めるには、まず「べき」を全部外して、まっさらな自分に戻ることです。何を考えるにあたっても、ゼロの地点から始めるのは、とても大切なことです。

夢がある・なりたい自分があるあなたへ

これは自殺サイトとは関係ないんですけど、自分で自分に「べき」論を課している人もいるでしょう。ある職業を目指しているとか、職業上のことではないけれど「こういうときにこうできる自分でありたい」など生き方についての信念がある、あるいは、その両方が溶け合った夢を持っている。夢のためにがんばっているのはもちろんすばらしいことなんですけど、気をつけたほうがいい一面もあるんです。

夢は呪いに変わってしまうことがある、ということです。

「こうなりたいのに、今の自分はこうではない」といった観念で、理想から遠い自分を責める一方になってしまう――心当たりはありませんか?

まず最初に、目指す分野の技術を身に付ける場面で、このワナは出現してきます。たとえば私は歌が趣味なんですけど、やっていると技術をみがくのは厳しいものだなと感じます。歌の練習は自分の歌を録音して聞くことが命なのですが、この作業はともすればつらいものに変貌するのです。今のところちょっと音程が外れた、全体的にリズム感がいまいちだった、サビで出遅れた、プロの歌と比べたらお粗末……などなど。ここが足りない、ここを直さないと、これではだめ、こんなんじゃだめ……というように、技術をみがくことが、自分を嫌いになることにつながってしまう。私の歌はただの趣味なので、気持ちはいたって楽ちんです。コンクールもなければ技術を求められる場面もないので、音程がずれようが「もっとうまくなりたいな~」と笑っていられます。練習と名のつくものには自分を追いつめかねない危険な一面があるな、と遠目に見ているだけ。ですが、プロのボーカリストや声楽家となれば、自分への「だめ」が原因でノイローゼ状態になり、体を壊してしまう人もいるそうです。

夢のために日々努力しているとか、自分はこんな人でありたいという信念を持っているのは、すばらしいことだと思います。未来へのステップを一段上がれた時の天にも昇る気持ちはもちろん、期待や想定通りにいかなくて心が割れて涙も出なかったり、葛藤でふさぎこんだりすることも含めて、生きることそのものだと感じます。

しかし、自分を「べき」論でしばりあげるなら、夢は呪いに変わります。すばらしかったはずの夢が自分を攻撃してくるようになり、最後には自身を滅ぼすでしょう。この呪いを解かないと、それがどんな分野のどんな夢であれ、進んでいくことはできません。

もっと自分を大切に。人生を楽しむことを忘れないで。始まりは「好きだ」という気持ちだったはず。

もし成長を望むなら、自分をいたわり好きになることは、勉強してでも身につけたほうがいい「力」だと思います。

3:家出しなくて正解だったと今は思う

十代で家庭に問題を抱えている人がほぼ例外なく夢見るのが、家出でした。何を隠そう、高校時代の私もその一人。この連載のために自殺サイトを少しまわってみたところ、それは最近も変わっていないようです。実際に家出を試みる人もいます(そして、そういう十代が犯罪に巻き込まれてしまう悲しい事件も多発しています)。

私はというと、実際に行動はしなかった。当時はそれを、誰にも言えないほど後ろめたく思っていました。私が学業なんかに未練を残して家出しないから私が悪いんだ、と。

今なら分かりますが、そうではありません。

第一、未成年では親族から身を隠し通すことはできません。私はその後法律を勉強したのですが、子どもが親・親族から完全にかくまってもらえるのは、法的手続きを踏んで児童相談所に保護してもらった場合のみです。

それに、「バイトを見つけて一人暮らし」と夢見るその気持ちは分かるんですけど、命綱がたかだかコンビニやファストフード店では弱すぎです。いつ退店するともわからないし、対等に渡り合える相手ではないそのバイトに、命もろとも全面依存することになるんですよ?

何の後ろ盾もないことほど恐ろしいことはありません。バックに保護者がいない孤立した十代の子なんて、悪党にとっては最高に都合の良い存在。親から身を隠したいという気持ちにつけこんで、助けるふりをして近づいてくるような連中は、やはり命もろとも全面依存するに値しない。

家出は、「飛んで火に入る夏の虫」に直結します。望むような安全は得られません。だから、私は悪くなかった。

もし身近に虐待されている人がいたら、児童相談所へつないであげてください。行動的な十代が家出したい気持ちのために悪い大人とつながり、危険・犯罪に巻き込まれるケースが多発しています。

え、家に帰りたくないけど虐待ってわけじゃない? ……なら、我らが自殺サイトがあるじゃないですか。異常な環境だけど社会問題のカテゴリーには入らないから支援もないというケース、自殺サイトではちらほら聞きました。私もそう。この世で最後の居場所が、まだ残っていますよ。

参考:ネットで知り合った相手に会おうとしているあなたの防犯基礎知識

4:自殺サイトは、とても不思議な場所だった

私はこの連載を組むにあたって、現在の自殺サイトを少しだけまわりました。少しだけ、というのは、軽い気持ちで首を突っ込むのは自殺を考えている方々に対して失礼だから……ばかりではありません。

今の私では、エネルギーが持たないのです。本気で死を考えるほど精神力を削る行為は、人類にまたとありません。今の私には重すぎて、もし挑んだら途中で精根尽き果ててしまうでしょう。

けれど、死を考えている人にとっては、それこそが生気を持てるこの世で唯一の場所。四面楚歌・八方ふさがりになっている訪問者にとっては、自殺サイトこそ、息をついて休める場所なのです。

私が通った自殺サイトはすでにどれも閉鎖され、跡形もなく消えてしまいました。サイバー空間ならでは、という面もあるでしょう。確かに存在していたのに、もうどこにもない場所なのです。

だから私は、自殺サイトはとても不思議な空間だったと、いまこうして思い出しているのです。

結びに

私が青春を過ごした自殺サイトでの、かけがえのない思い出。長きにわたって書き綴ってきました。

結びは、読者のみなさまへのごあいさつ、そして私が自殺サイトで出会ったみなさまへのせいいっぱいの感謝で締めくくりたいと思います。

自殺を考えてここへ来たみなさまへ

表題の「憩い」という言葉は、私が通っていたAさんサイトから取らせていただきました。「死にたい気持ちが少しやわらぐ」というサイトのテーマ通りだったあの雰囲気を再現したくて、尊敬の念をこめ、言葉をひとつお借りすることにしたのです。

「自殺サイト・掲示板の思い出~自殺したい方憩いのページ」は、いつでもあなたを待っています。つらくなったら、死にたい気持ちでいっぱいになってしまった時には、ここへ息をつきにきてください。

元利用者の私としては良い掲示板へのリンク集などあればいいだろうなと思ったのですが、自殺サイトはなにせ移り変わりの激しい世界で、サイトの質は乱高下するし、リンク切れも多発するので、残念ながら私には作りきれませんでした。代わりといってはなんですが、私はこのブログで学校でのいじめ不登校中年以降の引きこもりなどについて書いています。ネット上の防犯知識もまとめておきました。これらは私の個人的な話ではないのですが、書いているのは同じ人ですし、内容は鬱などを併発している方にも安全なので、関係ある方はよろしければまわっていってみてください。

自殺の大きな原因は、孤立です。あなたが専門医療やさまざまな問題の支援者などと結ばれ、その命と尊厳がつなぎとめられることを切に願っています。

つらいときにはいつでもふらっと来て、うろうろしたり、ごろごろしたり、少しでも息をついていってください。自殺したい気持ちがやわらぐよう心をこめ、私が思ったこと、知っていること、考えたことのすべてをつめました。「自殺サイト・掲示板の思い出~自殺したい方憩いの読み物」は、ネット上のこの場所で、いつでもあなたを待っています。

自殺サイトで出会ったみなさんへ

今、どうしていますか? これを読んでいますか。といってもハンドルネームを使っていたから、私のことが分かるわけないんですけどね。

あのころは本当にありがとう。自殺サイトでもらったものを、私はいつまでも忘れません。

うつ病などは、昔から新天地で大成する人を輩出する世界です。私が知るサイト管理人さん何名かは、いわゆる「社会復帰」をされていきました。しかし一方、十余年が経ったいまも精神的・経済的困難を抱えている方、まだ闘病中という方がいらしても、それはそれで不思議ではありません。そして、あの忘れえぬ三途の川のほとりから、ついには向こう岸へ渡って行ってしまい、いまはもういない。そういう方もいらっしゃるかもしれません。

今どうしているか、それに良い悪い、どうなるべき論、そして優劣はありません。人はどうあっても平等だと私に教えてくれたのは、他ならぬみなさんではありませんか。命を見つめる人間の極限において、私はすべてを肯定します。自殺サイトのおそるべきすばらしさは、様々な状況の人がみな対等だったことだと思います。私は人にああしろこうしろと言う気はないし、言えるような人間でもありません。なので、条件も課題も課さず、どんな気持ちも状況も、ただありのままに受け入れる。そんな自殺サイトの風土を受け継ぎます。だから、ここで課しませんと言った「べき論」は、これを読んでいるあなたにも、読んでいないどこかの誰かにも、私自身にも課していません。合理的でしょう? このスタイルを貫いているからこそ、練りに練った考えには自信を持っています。だから、信じていいよと約束できるのです。

私がよく通った自殺掲示板の管理人・Aさんはその手記で、「金を作ることだけで人間は成り立たない」と社会の問題を指摘しつつ、こんなことを言っても負け犬の戯言のようだとつづっておられました。負け犬など、とんでもありません。私は広い世界をめぐったけれど、Aさんのように真面目で立派な人は世界の宝だと結論しました。そのように評価される場所は、必ず見つかります。Aさんは無名の賢者のような方で、サイトもすでに閉鎖されましたが、今なおとても尊敬しています。掲示板に来ていたみなさんも、そろってまっとうな善い方々でした。

管理人様方、行き場のない一高校生だった私にこの世で最後の居場所をつくってくださり、ありがとうございました。私はあなたがたのサイトでこの世にひっかかり、今の未来がつなぎとめられたのです。どこかでそのあふれんばかりの良さを存分に発揮されていますよう、心より願っています。

自殺掲示板にいらしていたみなさま、あのころは私の話を聞き、お返事を下さって、本当にありがとうございました。他言できない状況にあった私にとって、みなさまこそ唯一無二の存在でした。みなさまの良識が、私の心を支えてくれました。あなたが幸せであることを心より願い、長々と綴ってきたこの筆を、いま置くことにいたします。

紫のドライフラワーとキャンドルと"Thank You"と書かれたカード

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