『となりのトトロ』都市伝説~作品の「読み方」を考える

スタジオジブリの永遠の名作『となりのトトロ』(宮崎駿監督、1988年)。豊かな想像力から生まれた夢いっぱいの本作は、いまや世界中で愛されています。筆者の私もトトロ大好き。月夜の晩にトトロといっしょに空を飛ぶあのシーンには、何度見ても胸がときめきます。

しかし、そんな本作について「本当は怖い話なのだ」といういわゆる「都市伝説」が広まったことがあるのをご存じでしょうか。

今回は、『となりのトトロ』の「都市伝説」をめぐる一連の動きを検証し、芸術作品の正しい読み方や適切なつき合い方について考えたいと思います。

トトロ都市伝説のいきさつ

2000年代、「『となりのトトロ』には隠された裏設定がある」旨のうわさがファンの間でささやかれて世に広まり、本作と親しんできた多くの人々をやきもきさせました。「サツキとメイは実は死んでいる」「トトロは死神だ」「『となりのトトロ』は死後の世界を描いているのだ」といった内容です。

主な根拠とされたのは、「映画の後半でサツキとメイに影が描かれていない」ということでした。

映画のラストでサツキとメイが木の上からお母さんの病室を見つめているシーンも、そのような受け取り方をされました。

ネコバスとサツキとメイ

窓辺にトウモロコシが置いてあるのに気づいたお母さんは「そこの松の木でサツキとメイが笑ったように見えた」と目を輝かせますが、このシーンについて「お母さんに二人が見えなかったのは二人が幽霊だったからだ」というのです。

うわさはうわさなので内容は一定せず、話の相互に整合性はないのですが、勢いは加速していきます。「メイは池でおぼれて死んでしまい、サツキはメイを探して死後の世界をさまよっているのだ」「トトロは死期が近い者にだけ見えるのだ」などといった説が登場。さらには「あのあとお母さんも結核で亡くなってしまい、お父さんが一人取り残されてしまうのだ」などというホラーテイストの憶測も現れました。

加えて、日本国内では「狭山事件と関係がある」といううわさも出現したそうです。狭山事件とは1960年代に起きた冤罪が争われている女子高校生誘拐殺人事件で、事件現場は『となりのトトロ』の舞台である所沢と地理的にほど近い狭山でした。実体のないうわさ話ではありますが、それを指さして「何か関係あるのでは」「狭山事件をなぞっているのでは」といったささやきが続いたのです。

このように「都市伝説」が暴走状態になってからは、検証するまでもない明らかなデマも流れ出します。「宮崎駿監督の映画『となりのトトロ』には原作のホラー小説『隣のととろ』がある」というのですが、そのような小説は存在していません。『となりのトトロ』は宮崎駿監督が原作者です。オープニングのスタッフリストにそう表示されています。

以上のようなうわさが世に広まり、まことしやかに語られるようになると、一時は気が気でなくなりスタジオジブリに直接問い合わせるファンまで現れました。

この事態を受け、スタジオジブリは2007年5月1日、自身の公式サイトにて

みなさん、ご心配なく。トトロが死神だとか、メイちゃんは死んでるという事実や設定は、「となりのトトロ」には全くありませんよ。(中略)みなさん、噂を信じないで欲しいです。 ...とこの場を借りて、広報部より正式に申し上げたいと思います。

と、一連のうわさ話を否定する見解を正式に発表します。

スタジオジブリ自身の公式見解により、「サツキとメイは死んでいる」「トトロは死神だ」といった一連の「都市伝説」には幕が下ろされました。

うわさが広まった背景

では、制作者であるスタジオジブリが「全くありませんよ」「信じないで欲しいです」と一蹴するほどの突拍子もない噂が、なぜ真実味をおびて語られてしまったのでしょうか?

ネットの普及とフェイクニュース

その背景は、なんといってもインターネットの普及です。スタジオジブリは同公式見解で、

誰かが、面白がって言い出したことが、あっという間にネットを通じて広がってしまったみたいなんです。

としています。

トトロの件に限りませんが、ネットの普及により、現代社会には、デマやいいかげんな情報であっても爆発的に広まり得る環境ができました。

近年世界を荒らしまわる「フェイクニュース」は、誰かが意図的に事実と異なる情報をでっちあげて流した場合のことをいいます。要はデマです。でっちあげた者の意図は、民衆の政治的意思決定(選挙での投票先など)を誘導するためであったり、特定の属性をもつ人々への憎悪をあおるためであったりと、非常に悪質な場合が大部分を占めていて、現代社会の深刻な問題となっています。

意図的に作られたデマだけではありません。「誤情報(misinformation)」は、その名の通り「まちがった情報」のことを指します。誤情報には故意による捏造ではないものも含まれますが、市民生活や社会への害悪という点ではフェイクニュースに劣るところはありません。

あるいは、ちょっとした思い付きや冗談のつもりだった一言がSNS等ネット上で思いがけず”拡散”してしまい、「まさかこんなことになるなんて……」と一般の投稿者が青ざめた、という事例は近年では多く見られます。

2007年にスタジオジブリが前面に出てきて否定するに至ったトトロの「都市伝説」は、フェイクニュースの走りだったといえるかもしれません。

同時上映作品『火垂るの墓』からの連想

ほかには、劇場公開当時の事情も背景にあるようです。

1988年、夢いっぱいのファンタジーである『となりのトトロ』は、戦時下の戦災孤児の悲劇を描いた『火垂るの墓』と同時上映にて公開されました。『火垂るの墓』の節子は哀れな最期を遂げますが、メイはのびのび素直な子。わがままいっぱいなのは幸せいっぱいな証拠です。この対照的な二人が同じ4歳だということで、戦前と戦後の子どもの様子がきれいに対比されているのですが、作風・内容のコントラストは衝撃的だったため、当時はショック状態で映画館をあとにする観客もいたようです。

『となりのトトロ』のサツキとメイ
戦後の子どもであるサツキとメイは屈託のない笑顔にあふれている。

二本の意図的な組み合わせは「見せ方」としてメッセージ性のある表現となっていたのですが、誰かの頭の中で「トトロは本当は怖い話らしい」という噂話と『火垂るの墓』が連想でつながってしまったのかもしれません。

私が都市伝説を知ったいきさつ

じつを言うと、私が「トトロの都市伝説」を知ったのは、海外のジブリファンのSNSがきっかけでした。『となりのトトロ』は本当は怖い話だといううわさを耳にして「本当なのか」と心配しているファンたちに向けて、スタジオジブリの公式見解を紹介し、「安心して観て」と呼びかけていたのです。

私は驚きました。「サツキとメイは死んでいる」といううわさ自体、私はその時が初耳でぎょっとしたのですが、それがすでに海外まで広まっている。ジブリ作品の人気と影響力の大きさを知ったのでした。

冷静に考えれば無理のある解釈

以上のように、爆発的に広まってまことしやかに語られ、世界中の人々をやきもきさせた『となりのトトロ』の「都市伝説」ですが、冷静に検証してみれば、無理のある解釈だと分かります。

「影がない」説の矛盾

まず、うわさの主な根拠として「サツキとメイの影が描かれていない」というのが挙げられているのですが、それはほんの部分的な話にすぎません。作品全体を通して見れば、ほとんどの場面で影は描かれています。スタジオジブリ側は公式見解で

「映画の最後の方でサツキとメイに影がない」のは、作画上で不要と判断して略しているだけなんです。

としています。

たしかに影がないというのは一般に幽霊などを連想させますが、アニメ(=動く絵)という表現方法ではすべてのものを写実的に描くわけではありません。作品にとって重要でないものを略すのは、ごく普通なことです。(トウモロコシを窓辺に置いたあとのラストシーンも、サツキとメイの姿がお母さんに見えなかったからといって直ちに幽霊だとするのは論理的でありません。理由は他にも考えられるからです。カットの流れからすれば、サツキとメイはネコバスにのっていたと解釈するのがもっとも自然でしょう。)

たいてい、ごく一部のシーンの、そのまた些細な箇所を指さして騒ぎ立てている時点で、すでにこじつけくさい話です。だったら影があるシーンはなんだというのか。もし「影がないシーンがあるからメイちゃんは死んでいる」と言っていいなら、「影が描かれているシーンがあるからメイちゃんは生きている」とだっていえるはずなのに……。

「死後の世界を描いている」というのも然りです。そう思って影に注目して観ていけば、サツキとメイに限らずお父さんなり生き物なり、影があまり描かれていない箇所は他にも見つかります。影がない箇所が他にもあることを以てサツキとメイだけでなく世界そのものが死後の世界なのでは……と憶測が展開したならば、それは「都市伝説ありき」で頭を固め、その正当化を重ねた末のことだったのでしょう。実際の作品を置き去りにゆがんだ見方を重ねていった、その産物です。

デマはファクトチェックで一刀両断

このように論として粗悪な「影がない」説ですが、一応は根拠が示されている分、これでも一連の騒動ではまだましなほうかもしれません。実際の作品を最初から最後まできちんとみていけば、まことしやかにささやかれたうわさのほとんどは事実と異なっていると判明します。いともかんたんに一刀両断できるのです。

まず、トトロは森のなかに昔からすんでいるなぞの生き物、「へんないきもの」だと作中できちんと描かれています。しかもエンディングテーマ曲『となりのトトロ』では「子供のときにだけ あなたに訪れる/不思議な出会い」とはっきり歌われています(歌詞リンク参照)。なので、それが「死期の近い者にだけ見える死神だ」などというのは降ってわいた話。うわさ話に尾ひれがついて……というか、「サツキとメイは死んでいる」説とつじつまを合わせるために後付けしたとしか思えない、宙に浮いた発想です。

「メイは池でおぼれて死んだ」もそうです。作中で、池に落ちていたのはメイのサンダルではないとわかり、メイが生きているところがきちんと描かれているではありませんか。同説は完全なでっちあげであり、性質が悪く、質も悪いです。そもそも「解釈」になっていません。スタートラインにすら立てていないレベルです。

お母さんもそうです。エンディングではお母さんが退院して家に帰ってきて、親子幸せに暮らしているハッピーエンドが描かれています。それを「結核で亡くなった」などとどうして言えるのでしょうか。

さらに、作者は『となりのトトロ』の舞台は所沢だと明言しています。死後の世界ではありません。狭山でもありません。なのに狭山事件と関係あるというのは、とってつけたような話です。何の脈絡もありません。こんなことを言い出した人の顔が見たいですね。

最後に、これはもはや検証するまでもなかったので先に指摘しましたが、『となりのトトロ』に原作小説があるというのは根も葉もないでっちあげです。本作オープニングのスタッフリストで、「原作・脚本・監督 宮崎駿」ときちんと表記されています。

もし原作小説があるにもかかわらず宮崎監督が自分を原作者だと勝手に主張したなら、本物の原作者や出版社との間で大変な問題になったはずです。宮崎監督は安穏とアニメを作り続けることはできず、裁判に奔走することになり、映画監督としてのキャリアはそこで途絶えたでしょう。『となりのトトロ』は今ごろ、いわく付きの作品として世で認知されていたでしょう。(そもそも、他人の小説を勝手に流用して原作者は自分だと豪語する映画監督などいるはずがないのですが。芸術に従事する者にとって、著作権は基本中の基本事項です。)

このように、もしうわさのほうが本当だったとしたら、トトロをめぐる社会での成り行きすべてが変わってくるはずなのです。デマというのは、けばけばしくて目立つけれど決してはまることのないジグソーパズルのピースのようなものです。

作品の趣旨や創作意図との矛盾

作品全体の趣旨からみても、一連の「都市伝説」は整合しません。『となりのトトロ』は夢いっぱいで心あたたまるファンタジー作品。もし噂のほうが正しいなら、作品のすべてが違ってくるはずなのです。

創作意図とも合致しません。宮崎駿監督はハートフルで楽しい作品をつくろうとした旨を公の場で何度も語っているので、「本当は怖い話だ」というのはそれと矛盾します。

月夜を飛ぶトトロとサツキとメイ
夢いっぱいの遊覧飛行は永遠の名シーン。

冷静になってみれば分かります。『となりのトトロ』のうわさ話はすべて、解釈として無理があるのです。

誰が、どういうつもりでうわさを流したのか?

世界中のトトロファンを心配させ、スタジオジブリをてんてこまいにした「都市伝説」の出どころは未だ明らかになっていません。どういうつもりでこんなことを言い出したのかも闇の中です。

目立ちたくて、奇をてらった悪ふざけをしたのでしょうか。

それとも、自分を知的に見せたいとか、そういう願望があったのか。

世の中には、芸術作品を前に理屈をこねくりまわしては「絵に隠された意味」だの「裏設定」だのと騒ぎたがる知ったかぶりな人は時々います。「みんなが知らないことを自分は知っている」と鼻にかけたり、「自分はみんなより進んでいる」と自慢したがる人もいます。そういう願望を胸に秘めた人が、秘密の第一発見者として尊敬のまなざしを集めたくて風変わりなことを言ってみたら、思いもかけず世界に広まってしまった……とか、そんないきさつだったのでしょうか。(実際には、知的に見えるどころかその逆なんですけどね。「他人から知的だと思われたい」という願望自体はなにも悪いものではないし、そう願うようになったのにはそれなりの理由があったのでしょうが、知ったかぶろうとしてかえって読解力のなさをまるだしにしてしまうに至ったなら、そろそろ正面から自分と向き合って、自信がなくて不安定な精神状態を改善するのをすすめたいです。)

悪気はなかったのに”拡散”して引くに引けなくなった、という可能性はなきにしもあらずですが、それにしてはやはり、内容の整合性のなさが目につきます。先ほど指摘しましたが、「影がないシーンがあるからメイちゃんは死んでいる」なら、作中のほとんどを占める影があるシーンはなんだというのか。

悪ふざけでデマをでっちあげ、おもしろがっているどこかの誰かの影が浮かんでくるようです。

「読解」と「深読み」と「妄想」は違う―作品の正しい読み方

このように、『となりのトトロ』の「サツキとメイは実は死んでいる」「トトロは死神だ」などという一連の「都市伝説」は無理のある話で、実のところ単なる「妄想」です。作中に合理的な根拠がないからです。

なのになぜ、事実無根な妄想が世で広く信じられる事態に発展してしまったのか。今回は問題の所在の一つとして、「作品を読む力」を指摘したいと思います。

私たちは日々じつにたくさんのものを「読んで」いますが、「読解する」とはどういうことなのでしょうか? 「読解力」とは何なのか。「深読み」や「妄想」とはどう違うのか。ここで整理したいと思います。

まず、作品の「読解」は、作品に基づいて行う行為です。絵に描かれているもの、ストーリーの筋、言葉など、作中で直接示されている要素が第一。さらに作品全体を総合的にとらえるためには、それより大枠の、作品の趣旨や創作意図も参考にすべきです。

「サツキとメイは死んでいる」「トトロは死神だ」といった一連の「都市伝説」は、それらのすべてにおいて、読み方が常軌を逸していました。作中で示されていないこと、作品の趣旨に合わないことを解釈に持ち出したなら、それは宙に浮いた「妄想」であって、「読解」としては「不正解」です。作品の受け取り方は人それぞれ、楽しみ方は自由だとはいえ、「まちがった読み方」はあるのです。

作品から完全に乖離した「妄想」よりは根拠があるものの、作品の本旨からはやや離れた、作者の意図しない意味までくみとろうとするうがった読み方もあります。「深読み」です。

絵という分野は、「隠された意味があるのでは……?」などと「深読み」をされやすい分野かもしれません。言語でない分、受け手の感性によってとらえ方に幅ができやすく、歴史上にも「名画に隠されたミステリー」といった話が点在しているからです。ただ、これは決して「すべての絵に隠された意味がある」という意味ではありません。世に星の数ほどある絵のほとんどは、そのように勘繰ることなく、見た通りに鑑賞する意図で描かれています。

『となりのトトロ』に関しても、サツキとメイの「お母さんが死んでしまうのではないか」という不安や悲しみに注目して、物悲しい作風だとか、生と死を描いているのだ、などと論じる人もなかにはいるようですね。ただ、こうした「深読み」は、作品全体の趣旨からはやや乖離したうがった見方であり、私の目には知的だとか芸術的だというふうには映りません。どちらかといえば個人的な「感じ方」に近いので、そういう話をするなら「自分はそんなふうに感じました」という軽いスタンスでいたほうが賢明でしょう。

山場を夕暮れや夜の時間帯に設定し、不安感を演出するのは映画ではよくある表現技法。

芸術作品に「正しい読み方」はあります。作中で示されていることを根拠とすること、および作品の趣旨や創作意図と合致することが鉄則なのです。作品を正しく読むことはまた、作品および作者を尊重することでもあります。

困ってしまうのは作者

世に送った作品が「まちがった読み方」をされると、困ってしまうのは作者です。それが世に広まるのは、作者にとっては「誤解された」ことを意味するからです。

その誤解に基づいた質問やインタビューなど来ようものなら、作者には答えようがありません。世人に誤解されるだけでも本意でないのに、その対応に忙殺されるなら迷惑千万に違いありません。

こういう場合、作者が正式な見解を発表するのは効果的だといえるでしょう。映画好きのなかには「制作者に見方を指定されたくない」と考える人がちらほらまじっているのですが、「表現者の責任」という観点でみれば、作者が自分の見解をはっきり確定させるのは大事なことです。

トトロのデマ騒動に対するスタジオジブリの対応は、表現者の態度として誠実であり、適切だったと思います。

観る側のマナーと倫理―していいこと・悪いことのボーダーライン

作品をどう見てどう感じるかは観る人の自由……とはいえ、やはり何をしても勝手ということではなく、マナーはよくありたいものです。倫理に反するようなことをしてはならないのは人として当たり前ですね。

作者をふりまわしたり、作品をおとしめるようなことをすれば、映画界にとってモンスターカスタマーになってしまいます。作者から見れば営業妨害に等しいのです。

トトロが好きだから想像をふくらませてイラストを描いて楽しんだ、といった一般常識の範囲なら、画用紙のなかでトトロが海の上を飛んでいようが、自分といっしょにおどっていようが、問題あるようなことではありません。そうやってみなから愛されるならトトロもニッコリ、幸せ者でしょう。

しかし、「もしかしたらこうかも……」などと思いついた自説なら、社会で通用する合理的な根拠があるのかをいったん立ち止まって吟味すべきです。あやふやなことなのであれば、心にそっとしまっておくのがよいでしょう。それなら作者に迷惑をかけたり、作品に泥をぬったりせずにすむからです。

とくに最近のネット社会を念頭に置けば、軽い気持ちで言ったことが想像だにしないほど伝播してしまう可能性はなきにしもあらず。自分では何気ないつぶやきのつもりでも、プロの言論人でなくても、すべての発言には責任が伴うことを忘れてはなりません。

……目立ちたかったから「トトロは死神だ」なんていうトンデモ説を言い放ってみた? 論外です。生みの親である宮崎駿監督に対して失礼です。

そして、トトロの都市伝説騒動で最も深刻な害を有しているのは、「原作小説がある」といううわさです。なぜなら……これが宮崎駿監督に対する侮辱となっていることに気づくでしょうか? 『隣のととろ』などと吹聴した人々は悪ふざけのホラー話程度のつもりだったのでしょうが、「原作・脚本・監督 宮崎駿」と表示される映画に原作小説があると主張するなら、それは「宮崎駿監督は他人の小説を勝手に流用した」と言っているに等しいのです。「そ、そんな意味じゃ……」などと言い訳しても、社会では通用しません。世の中には冗談ではすまないこともあるのです。

騒動の全体を見渡すと、それをおもしろがった人々の視野の狭さ、そこから生じた自己中心性が目につきます。トトロをそんな勝手な目的に利用されたら、作者や関係者はどう感じるだろうか? おもしろいと思ってネットに書いたことを、仲間内以外の暗黙の了解が通じない人々はどんなふうにとらえるだろうか? 自分のやっていることが何を引き起こすか、その結果を想像していません。他者の存在が目に入っていないのです。悪気なく「スリリングなオカルトホラー」をみんなでワイワイ楽しんでいるつもりだったり、宣教師の気分に酔いしれたり、なかには都市伝説を「ロマン」などと呼ぶ人もいたようですが、それは個人的な主観にすぎません。彼らは客観的にみた自分の姿に気づいていませんでした。作者や映画業界にとってはモンスターカスタマー、社会においては火遊びをする迷惑人物でしかなかったのです。

作品を楽しむとき、いや楽しませてもらうからこそ、スクリーンの向こうにはそれを精魂込めてつくりあげた制作者がいるのだということをしっかり心にとめておくべきでしょう。まっとうに生きていくには、一定以上のまじめさは必要です。日ごろから自分(たち)だけの世界に閉じこもることなく、広い視野をもっていることが大切だといえます。

「都市伝説」の片棒を担がないための3つのポイント

では、ネット上などでもしトトロの「都市伝説」同様のあやしい話に出くわしたら、私たちはどうすればいいのでしょうか?

映画の解釈に限らず、情報社会においては

  1. 情報の発信元をたどる
  2. 根拠を確認する
  3. 不確かな情報は広めない

のがポイントです。

まずは、情報の信ぴょう性を確かめます。情報源は信用に足るでしょうか。誰が言ったのかもわからないことは信じない。事実無根なことは信じない。目にとびこんできた情報をうのみにすることなく、冷静でいること、自分の主体性を保って情報を取捨選択することが大事です。

そして、不確かな情報はシェアしないこと。たとえそれに怒ったり反対するつもりだったとしても、SNSで”いいね”したりシェアしたりすれば、あやしい情報が自分のところからフォロワー、友達、不特定多数に広まる結果を招きます。言い換えれば、デマの片棒をかついでしまうのです。だから、あわてず、さわがず、冷静に。まずは「あやしい情報は自分のところで止める」という意識でのぞむのが大事です。

こうして「妄想」の”拡散”や暴走を食い止めることは、観る側が作者と良い関係を築くことにつながります。

小さい子が都市伝説を信じてしまったら?

いいかげんな情報が氾濫し、いい大人でもデマを信じてかく乱されるネット時代。子どもがどこかで噂を耳にして以来トトロを怖がっている、というケースが聞かれます。

では、このようにデマを信じてしまった子どもには、何と言って説明すればいいのでしょうか?

こういう場合は、周りの大人が「世の中にはうそを言う人もいるから、それが本当のことかどうか確かめよう」と提案して、いっしょに学び、誤解を解いてあげるのをおすすめします。これは小さい子に「『おかしをあげる』とか言われても知らない人にはついて行っちゃだめだよ」と教えてあげるのと同じこと。フェイクニュースや誤情報は、デジタル時代に追加された「あやしい人」「悪い人」の新種です。

これからの時代を生きていく子どもたちにとって、世にあふれる情報、とりわけネット上に氾濫する情報と適切に付き合っていく術は、生きていくために必要な、とても大事な知識です。

ネット上にも「あやしい人」や「悪い人」はいるから注意してね。ついて行かないでね。

「『おかしをあげるよ』などと声をかけてくるのはあやしい人だ」というのと同じように、自分の身を守るための最低限の知恵を、ぜひとも今すぐ教えてあげてください。

結びに―安心して夢いっぱいの世界を

以上、『となりのトトロ』の「都市伝説」をスタジオジブリ自身が否定するまでのいきさつを紹介し、それが根拠無根であることを指摘したうえで、作品とのよりよい付き合い方を考えてきました。やっぱりトトロは夢いっぱいのファンタジー。ほっとしてもらえたでしょうか。

それでは今回は、トトロへの私の思いをつづって結ぶとしましょうか。

『となりのトトロ』は、アニメ、つまり「動く絵」のメリットを存分に生かした、すばらしい作品だと思います。森のなかに昔からすんでいるなぞの生き物、トトロ。たくさんの足で風のように走る、フカフカなネコバス。空へと伸びる大木のごとくめいっぱいにふくらんだ想像力から生まれた世界観は唯一無二で、同じシーンを何回見てもあきることがありません。トンネルをくぐってトトロに会いに行きたいなぁと、私は観るたびいまでも胸がときめきます。

中トトロと小トトロを追いかけているメイ

誰が言い出したのかもわからない根拠なき妄想を吹き払ってこそ、『となりのトトロ』の本当のよさを素直に楽しめるのではないでしょうか。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSEではブログ更新のお知らせ等していますので、フォローよろしくお願いします!

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(公開:2020年10月9日。同11月21日、スタジオジブリ提供の画面写真を追加しました。)

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