YouTubeへの動画投稿を始めました

2023年5月、YouTubeチャンネルに初の動画を投稿しました。Twitterではすでにお知らせしているのですが、ここではもっと詳しくチャンネルの内容と運営方針を紹介しようと思います。

初動画を公開!

まず最初に、公開した1本目の動画を紹介します。約1分間のリラックス動画です。

手始めということで、今年の春の桜の写真からスライドショーを制作してみました。字幕で撮影の時のエピソードを入れてあります。写真と撮影時のお話はすでにTwitterで投稿したもので、それを動画に作り直した、という感じです。動画編集は、全て私が行っています。

YouTubeの運営方針と考え方

今後、当面はこういった写真のスライドショーをアップしていくつもりです。将来的には自作の音楽作品(アコギ弾き語り)を発表したいと思っています。YouTubeは当ブログの周辺に位置するようなイメージで、方向性はだいたい「文章以外の作品を発表する」のが中心だと考えています。

私がいまYouTubeを始動したことで、活動方法を変えるのか、とか、YouTuberになっていくのか、など質問があるかもしれません。Twitterでは若干お話ししたのですが、今回ブログで十分な文字数を割き、方針をあらかじめお知らせしておこうと思います。

  1. 表現・言論活動の中心は文章
  2. YouTuberになる意思は全くない
  3. 更新は不定期

詳細の説明は以下になります。

本業は文章

まず大前提ですが、私は作家です。この点が変わることはありません。スタートを切る前に数ある表現方法の中から「文章」を選択し、以来ここまで歩んできました。

動画も私の作品ではあります。しかし本業ではありません。なので、動画はあくまで趣味や遊び、試みの趣旨でやっていこうと思っています。

私の活動方針と「YouTuber」の齟齬

これに関連し、「表現者」という視点で大きな意味を持つのは、私の掲げている表現活動と世に言う「YouTuber」の活動様態は合わない、ということです。

「あなたのテレビ」をコンセプトとするYouTubeは、どうしても「誰それ」という「人」を売りにしていく傾向が強いです。とりわけ日本のYouTuberは芸能色が強く、人気YouTuberは動画の内容から言葉遣い、表情に至るまで全部がタレントそのもの。芸能メディアにゴシップを提供する人も少なくありません。

他方、私は常々、ポピュリズムが跋扈するいまの時代を念頭に、非タレントのタレント化に警鐘を鳴らしてきました。政治、文学環境保護社会運動……何もかもがエンタメモデルでは社会は立ち行かない。大衆が自らを滅ぼしかねない。この考え方は、当然、私自身の表現活動にも当てはめています。

自分自身をブランド化するYouTubeのカルチャーから一線を画しておきたいとの考えから、私は投稿を始めた今も、いわゆる「YouTuber」として活動する意思はありません。

更新は不定期マイペース

更新は不定期です。動画ができあがったらアップ、というマイペースな運営でいきます。

いわゆる「YouTuber」やそれを目指している投稿者はコンスタントに動画をアップしますし、それがおなじみかもしれませんが、私はその方針はとりません。

私がIT業界のセオリーに逆行する理由

IT業界では、YouTubeの運営で「定期的に更新する」はセオリーになっています。例えば金曜17時と決めたら、毎週欠かさず金曜の17時に新しい動画をアップすべきだというのです。

このセオリーに私があえて逆行し、不定期更新だと言い切るのか、そこにもれっきとした意図があります。

私は、初期のYouTubeとその拡大、「YouTuber」という言葉が形成され、定着していく過程をずっと傍らで見てきました。だから、いまのYouTubeがどういう世界だか分かっています。

端的に言ってしまえば、YouTubeで目立ちたいなら、延々とYouTube社にご機嫌うかがいをしなければなりません。動画のテーマは、万人の目に楽しいエンタメが有利。登録者数が何十万にもなる人気チャンネルを目指すなら、あるいは一度得た人気を失いたくないなら、コンスタントに毎日でも更新すべきだといわれています。そもそも、「定期的に更新しないと成功できない」というセオリー自体、同社のビジネス上の都合によって形成されたもの。人気動画の数を増やし、自社サイトに視聴者が長くとどまることで、同社により多くの広告収入が入るからです。

もっとも、youtube.comは同社が管理運営するサイトであって、投稿者はそこを無料で間借りさせてもらっているにすぎません。自分のサイトにどんなルールを敷き、どう運営するかは管理人の自由です。私もサイト管理人ですから、その原理自体はよく分かります。

でも、さすがに行き過ぎだ。副業収入に夢を膨らませてYouTube社に隷属する人を横目で見るたび、巨大ITの構造には背筋の凍る思いがしています。

YouTube社と私の距離

私にとって、ある部分、YouTube社は同業者であり、ライバル社でもあります。チャンネルを持つ程度の接点なら否定しません。全面的に背を向けるほど意固地になる気はない。でも、ライバル社のために身を粉にして働くとしたら、それはナンセンスというものでしょう。

私には私の表現活動があります。どのような作品を、どんなペースで作っていくかは私の自由であり、他サイトの管理運営者に決められるべきではありません。

YouTubeを始動するまでのいきさつ

さて、初の動画を公開したのは2023年現在です。が、実を言うと、チャンネルを開いたのはもっと前。なんと6年も前になるのです……。その間ずっと、投稿はゼロ。開いただけで何もアップされていない空っぽのチャンネルのまま、人知れずネットを漂っていました。

6年も一体何をしていたのか

では、6年もの間何もアップせず、私は一体何をしていたのか。今回は、日ごろはあまり題材にしない個人的な日記というか、活動の裏側を書いてみようと思います。

チャンネルを作った6年前は、2017年。これは当ブログを開設した年でもあります。私の中で、YouTubeは最初から表現活動の構想に入っていました。

なぜ文章書きの私が動画サイトをそこまで取り立てていたかというと、YouTubeには技術的にメリットがあるからです。見ての通り、私は表現者であると同時にウェブマスター(サイト管理人)でもあるので、自分の動画を直接このサイトにアップロードする権限と力を持っています。アートの視点なら、それで完璧。しかし、視点をサイト管理にスイッチすると、それは技術的に良くありません。動画データは特別重いため、サーバーに高い負荷をかけてしまうからです。その点、YouTubeの動画処理技術は非常に優秀で、上のようにアップしてからシェアという形をとれば、このサイトが重くなることがありません。要するに、私はYouTubeを投稿先というより、技術的な動画処理に利用しようと思ったのです。

当初は、自分で運営するサイト(当ブログ)に文章を書くことが表現活動の中心で、いつか手持ちの音楽作品をYouTubeに……と思い描いていました。

思うようには進まなかった表現活動

サイトを始めたころは行け行けムードでしたし、実際だんだん読者も増えていきました。私の活動は、傍からは順調に見えたかもしれません。

しかし実情を言えば、途中からはトラブルに次ぐトラブルに見舞われ、頭を打っては対応に追われるの繰り返し。この6年、思うようには進まなかったのが実際のところでした。

壁として立ちはだかったGoogle

IT業界がめまぐるしく移り変わる業界であるのは最初から承知でしたが、6年の間にはどうしても承知できないような壁にぶつかることもありました。最も頭の痛いトラブルは、Googleによる誤判定です。

Googleは、自社の検索結果から詐欺やマルウェア、盗用など悪質なコンテンツを取り除くため、自動化プログラムを使ってありとあらゆるウェブページを巡回しているのですが、その自動化プログラムは完璧ではなく、間違うこともあり……その災難は、寄りによって私に降りかかりました。

この6年で、分かっているだけで3回にわたり、10以上の記事が検索結果から消されました。例えば、人工知能に関する解説記事も、検索から忽然と消えたことがあります。

人間が読めば「この文章のどこが詐欺なんだ」とあきれるような機械による誤判定。マルウェアスキャンも3つかけました。ですが、1つ誤判定を受けると芋づる式にあの記事もこの記事もあやしいと判定されますし、この「日夏梢の自由研究」というサイト全体が悪質なサイトだと認識されてしまいます。

「自動で起こる焚書」という理不尽への対応

しかも、Googleの判定は表現者側には知らされませんし、表現を妨害された証拠をつかむ術はなく、異議申し立てできるシステムもありません。

プラットフォームを間借りしているYouTuberですら動画削除が問題にされたというのに、私に至ってはGoogle上ではなく独立した表現活動をしていてこの「焚書」。現状、インターネット上で発表した表現・言論がGoogleの検索結果から排除されれば、その表現は世界から抹消されたに等しいです。これが表現の自由にとって由々しき問題であるのは言うまでもありません。私は「こんな横暴がまかり通ってたまるか!」と怒り心頭でしたし、同時に、自分ではどうしようもないことなのでメンタル的にも辛かった。

それでもそのままでいるわけにはいかないので、ページの修正をこなしていきました。そのたびに、私は活動を数ヶ月にわたってストップせざるを得ませんでした。

そんなこんなで、私はこの6年でしだいに、当ブログにかかりきりになっていきました。新しくYouTubeに着手するどころか、芸術的創作の中心だったはずの小説からも離れざるを得ない状況が続いています。

音楽を阻んだ新型コロナ

こうして、ただでさえ表現活動がブログ一色になりつつあったところに、予測不可能な事態が襲います。2020年に始まる新型コロナウイルスのパンデミックです。

ウイルスは空気中の飛沫感染、しかも感染防止策では「三密」なるものが最悪だということに。この外因により、私は中三から絶えずそばにあったカラオケを断たれます。打撃でした。最ものびのび声を出せる機会が失われてしまった。もっとも、私は自宅でできるボイトレは心得ているのですが、やれることは限られますし、カラオケという実践の機会が奪われたことでモチベーションも上がらず……。

もしかしたら「そんな時こそ音楽動画にチャレンジしてみればよかったのに」と思われたかもしれません。しかし「緊急事態宣言」は、家の中での音楽にも影響していました。町中の店という店が閉まり、楽器屋さんも休業。店員さんに相談することも、機材をそろえることもできなかったのです。

パンデミックの期間、私の音楽の鑑賞はいつになく増えました。「プレミアムシアター」なんかを見て見て見まくった。それはよかったと思っています。でも自分は……。他人の音楽は聴くのに、自分はできない。声は出せず、行ける先もなく、生活から音楽が消えてしまった。私は昨年少々体調を崩したのですが、その遠因は音楽ができなかったことだとほぼ確信しています。

空っぽでネット上を漂うよりは

以上のように、この6年には本当にいろいろありました。

そして今年、表現活動全体の定期的な見直しをした際に、ふと忘れ去っていたYouTubeが浮上したのでした。

「音楽作品を発表する」という当初のアイディアに固執せず、考え直してみてもいいんじゃないか?

動画編集なら多少ですがやったことがありますし、内容を音楽に限らなければ、私にはTwitterに投稿してきた写真が手元にあります。

最後はあまり考えすぎず、できあがった動画をポンと投稿してみたのでした。

結びに

以上、私のYouTubeはこんなあらましです。

これまで、実際に活動する中で得たもの、考えたことが多くあります。前述の通り、GAFAなど巨大ITに対しては、表現者ならではの新しい問題意識を持ちました。表現の自由にとって深刻な問題なのは明らかなので、またいずれ詳しく書きたいと思います。

それと同じように、動画関係でもやっていくうちに新しい考えが浮かんできたり、変更点が出てきたりするかもしれません。まずは行動してみる。いまはそれを大事にします。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSE

YouTubeチャンネル – 日夏梢

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