評価二分の『ONE PIECE FILM RED』~ウタはなぜ”炎上”したのか

ルフィあこがれの大海賊・シャンクスが登場するとしてファンの期待大だった映画『ONE PIECE FILM RED(ワンピースフィルムレッド)』。主題歌と劇中歌には『うっせぇわ』の大ヒットで話題となった人気シンガー・Adoさん、楽曲製作には活躍中のミュージシャンが7組起用され、プロモーションも大規模に行われた。だが、満を持して封切られた『ONE PIECE FILM RED』は、180億円を超える記録的な興行収入(11月7日時点)とは裏腹に評価が割れる形となり、ファンの間では“炎上”も巻き起こっている

なぜそのような結果となったのか。今回は、重要キャラクターである歌姫・ウタ、作品全体のレビューおよび製作チームの様子という3つの視点から“炎上”に至った原因を探っていこうと思う。

(※以下には『FILM RED』の核心や結末を含むネタバレがあります。また原作の内容でも、単行本103巻までのネタバレを含みます。なお、筆者は原作を単行本で1巻から愛読していますが、本稿はあくまで公平な評価を是とする映画レビューであり、製作者に怒りをぶつける趣旨ではありませんので『ワンピース』ファンの方はあらかじめお見知りおきください。)

目次

はじめに―私見

本題に入る前に、筆者の見方を簡潔に紹介しておこう。

これは『ワンピース』ではない。アニメ映画にも、音楽映画にも、悲劇にも、コミカルにもなりきれていない。あえて言うなら「ミュージックビデオ集」である。――それが筆者の感想だった。

本レビューでは、具体的にどこからそのような感想を抱くに至ったのかを、ウタのキャラクター性から順に解説していく。

歌姫・ウタのキャラクター性

ウタは大海賊・シャンクスの娘かつルフィの幼なじみだという設定で、本作の中心的ヒロインとして魅力的に描かれているのだが、その重要キャラクターが『ワンピース』ファンの怒りを買い、“炎上”の主な原因となっている。

病的なのに魅力的な人物として描かれている異様さ

まずは、ウタについて“炎上”の大きな原因となった点を指摘したい。彼女の精神状態が病的であることだ。ネット上では、しばしばスラングで”メンヘラ”と言い表されている。

彼女は、人が”ウタワールド”というバーチャル空間で存在していれば死と認識していない。自身の命に関しても、“ネズキノコ”を食べたら死んでしまうことに不安や恐怖などはみられない。彼女にとって生と死の境目があいまいなことがわかる。参考までに、劇場入場者特典「巻四十億」には「肉体の消滅を死と考えてない」(P76)とはっきり記載されている。

本作の中では特に驚きもなく描かれているのだが、実際には、生死に現実感を感じられないのは「病気」である。性格や個性ではない。空想癖から生じるものでもない。代表的な疾患だけで、離人症性障害、統合失調症、うつ病などいくつもあり、しばしば自傷行為の原因にもなる。症状としてはかなり深刻だ。一刻も早く医療機関の受診と治療が必要な状態である。「巻四十億」にあるように「ちょっとズレてる」程度で済む話ではない。

ウタがなぜこのような病的な生死感を抱くに至ったのかについては、明確な理由は示されていない。

病気だとおぼしき人物が始終魅力的に描かれ、プロモーションやグッズの展開でも「かわいい」ように扱われていることは、一般の社会通念からしたら異様である。

『ONE PIECE FILM RED』の入場者プレゼントの冊子「巻4/4”UTA”」
劇場入場者プレゼント冊子「巻4/4”UTA”」。音楽雑誌の特集風にウタの魅力が解説されている。

特定の価値観を強要し、自由を奪う人物がなぜ「かわいい」のか

ウタの計画は、自身の”悪魔の実”の力で人々をバーチャル空間に閉じ込めることだった。前述の通り、彼女は現実世界で眠ったきりでも、バーチャル世界に存在していれば生きていると考えている。

しかし、それはウタの個人的な世界観にすぎない。そうすることが解決になる、幸せであるというのは独善である。「肉体の消滅は死ではない」と考えない人や、バーチャル世界に行きたくない人などがいる可能性が考慮されていない。

しかも、ウタはその独善を、ライブの観客全員および配信で見ている人々に強制する。各個人の意思を無視して、自由を力で奪っているのである。

自分の思想や価値観を強要し、人々から自由を奪うウタの計画は独裁的で恐ろしい。『ONE PIECE FILM RED』がそのような人物を「かわいい」キャラクターとして描いたことは理解に苦しむ。もし同じ計画を考案、実行したのが「ジジイ」だったら、製作者は同じく「かわいい」ように描いたのだろうか?

思考が未熟すぎて当惑

病的な精神や計画の恐ろしさに続いて、筆者が個人的に最も首をかしげた箇所を指摘したい。それは、ウタの思考が未熟すぎる点だ。「新時代をつくる」ことを目標としているにもかかわらず、この人の知識と経験は極端に乏しい。ただ年齢的には、ルフィよりも年上の21歳なのである。

音楽配信をする中で海賊の被害に苦しむ民衆の声をキャッチし、心を痛めたというところまではうなずける。しかし、ウタの発想はここで飛躍する。いきなり「“ウタウタの実”の能力で『新時代』を自分がつくる」というところまでジャンプしてしまうのだ。(ちなみに、彼女自身に海賊から被害を受けた体験はない。)

21歳といったら、多少なりとも世の中の仕組みや社会的背景を知っていていい歳である。もし知らないなら、学ぼうとするはずだ。海賊に襲われたらどうすればいいのか、世界にはどんな組織があるのか、そもそもなぜ”大海賊時代”になったのか――。きちんと考えを尽くしたなら、自分の“ウタウタの実”の能力で解決する以外に思いつくことがあるはずだ。たとえば原作2巻では、海賊に滅ぼされた町の人々が新しい町をつくった様子が描かれている。コビーは悪党を取り締まるために海兵を志した一人である。

発想の飛躍に理由付けがないわけではない。一つは、ゴードンと二人きりで閉ざされた生活をしていたこと。そしてもう一つは参考までだが、入場者特典「巻四十億」には、シャンクスの船でひとり留守番をしていた時に「新時代」を空想していたという逸話が載っている(P70)。しかし、これらは極端な発想の飛躍が生まれた理由としては不十分に思われる。『ワンピース』の作中世界には、新聞をとるなど、その気になれば世の中を知る術があるし、空想にふけった子どものころからはすでに十分成長しているからだ。

『ONE PIECE FILM RED』のストーリーが悲劇として成り立つためには、民衆の苦しみを知って感じた痛みをきっかけに、考え、学び、行動した途中のプロセスが尽くされなければならない。そうでなければ、ウタの手落ちでしかないからだ。あるいは、世の中を理解できない年齢の子であっても筋が通っただろう。もし飢えた幼い子が偶然”ウタウタの実”を口にし、「食べ物がいくらでもある世界」を夢見て「これのどこがいけないの?」と問うたなら、ルフィにとっても海軍のコビーにとっても「難敵」で、観客の胸にグサッと突き刺さったはずだ。しかし21歳の思考としては幼すぎて、こちらが共感も同情もしようがない。フィクションのキャラクターとしていびつだといえよう。

シャンクスとの人間ドラマも希薄

このように、「新時代をつくる」というテーマについては本作はしっかり描いたとはいえないだろう。

では、主テーマはそちらではなく、父親・シャンクスとの関係なのか……といえばそうでもなかった。なぜなら、ストーリー終盤で、ウタはエレジア壊滅の真相をすでに知っていたのだと判明。そのため、シャンクスとの間に手に汗握る葛藤やぶつかり合いが起こらないからだ。

エレジア壊滅はウタの責任ではない

そのエレジア壊滅についてだが、ウタはその日の映像を見て「自分が人を殺した」とショックを受けている。

しかし、この箇所は論理的におかしい。事実はトットムジカのほうからウタの近づいたのであり、彼女はそれが禁断の歌だと知らずに歌って、ずっと意識もないような状態だった。よって、彼女はあやつり人形のように利用されただけである。人を殺したのはトットムジカであって、彼女ではない。

本作のストーリーは論理的でない傾向が目立つ。ストレスを感じた人は多いだろうし、一度は涙を流した人もこれに気付いたら感動が冷めるかもしれない。

ウタというキャラクターの意義とは?

以上のように、年齢、思考、世界観、いずれもちぐはぐなウタは、言ってしまえば「怪キャラ」ではなかろうか。

つきつめれば、ウタというキャラクターの意義は「見た目」であると結論せざるを得なかった。

かわいい歌姫が歌ったり踊ったりしている、そのビジュアルと雰囲気を楽しむ趣旨の作品だと製作者が決めたならこちらが口出しすることもない。原作者で総合プロデューサーの尾田栄一郎さんがインタビュー等で「女子を描きたい」と繰り返し述べているのだから、その通りの作品に出来上がったとはいえるだろう。ただ、『ワンピース』が精巧につくられたストーリーマンガであることを思えば、作品の意義は歌姫の見た目だ、というのは悲しく感じる。製作者は本当にこれでよかったのだろうか?

作品全体のレビュー

以上では、”炎上”の主な原因となったキャラクター一人をクローズアップしてきた。ここからは、ストーリー、映像、音楽など『ONE PIECE FILM RED』という作品全体のレビューに入りたい。

私見では、本作は一本の映画作品としても、『ワンピース』としても、大いに疑問があった。

「MVのようだ」と“炎上”

本作が音楽を中心とした作品であるのは言うまでもない。劇中では『うっせぇわ』の大ヒットなどで知られるAdoさんが歌唱する曲が全部で7曲使用されている。

だが、見どころだったはずの音楽シーンは、SNSで「大部分がウタのMVのようで萎える」「スキップしたくなった」などと”炎上”の原因になっている。

私はこれまでに様々な音楽映画のレビューを書いてきた。

リンク:音楽映画レビュー一覧

音楽好きであることは、私が『ONE PIECE FILM RED』を見てみようと思った理由の一つだった。しかし鑑賞し終わっての感想は、これはMVを継ぎ足しただけで、音楽映画にはなれていない、という残念さだった。音楽シーンが全てステージ上という限られた場所でのパフォーマンスだったことは、その大きな原因の一つである。

もし音楽映画にするのであれば、その道に長けた人材を製作の中心に据えるべきだっただろう。あるいはいっそ、キャスト全員が歌いながら展開していくミュージカルにしてしまったほうがよかったのではないか、とも思う。それならば映画として、物語や心情を巧みに「みせる」ことにつながるからだ。

音楽映画に求められる音楽の条件

歌によってストーリーを進めたり、心情を描いたりする作品であれば、歌詞は聞き取りやすく歌唱されるのが望ましい。

その点、本作の中盤で使われる『逆光』『ウタカタララバイ』『Tot Musica』の3曲は、シャウトされたり、言葉が崩されたり、ガンガン鳴る伴奏の前にボーカルが目立たなかったりするのが気になった。谷口悟朗監督はインタビュー等で細かく指示を出したと話しているのだが、音楽映画にするつもりなら不十分だったのではないだろうか。劇中歌は「Adoの楽曲」としてリリースされること前提で歌唱され、映像がそれにすり合わせていくような仕上がりになっていた。MVならそれでよいが、音楽映画用の音楽にはなっていなかった。

音楽シーンの映像自体もMV的である。ウタに光や五線譜などのエフェクトがかかる演出を見た時には、「これは映画ではないな」と感じた。MVとして見たら良い出来だと思うが、MVと映画は別物である。

一口に音楽映画といっても、歌の使われ方は作品によって様々である。たとえば『ロケットマン』では、エルトン・ジョンの既存の楽曲をアンサンブルにアレンジすることにより、一曲のうちで4人の別々の心情を描くという巧みな表現がなされている。また『きっと、うまくいく』では、インド映画特有の大人数のダンスが要所要所ではさまる。このように、歌がどう使われることで何が描かれるかは作品それぞれだが、いずれでも映画作品の一部としてきちんと役割を果たしている。しかし『ONE PIECE FILM RED』の音楽シーンは、楽曲ごとのMVであって、映画の「表現」ではなかった。音楽映画好きとして残念だった。

ここ10年ほど、映画界では音楽映画を「我も我も」と制作する流れができている。背景となっているのは、2012年の『レ・ミゼラブル』など、ミュージカル作品が立て続けにヒットしたことだ。しかし、歌を映画作品に落とし込むのは監督やプロデューサー等がとっかかりの時点で想像するより難しいとみえ、最近は興行収入、あるいはクオリティの面で失敗する例が目立ってきている。本作は監督が安易に飛びつき、出来の面で失敗したほうの例となってしまったように思う。

『ワンピース』としての違和感

『ドラえもん』『ポケモン』『名探偵コナン』などといった人気シリーズの劇場版では、「そのシリーズとして本質を押さえているかどうか」は観客からの評価を大きく左右する。第三者視点による映画批評でも、シリーズらしさは作品の趣旨として考慮される。

その視点で見ると、『FILM RED』が『ワンピース』らしくない作品だと言われるのには一理あると思われた。

ルフィの「新時代をつくるため」は明らかに不自然

『ワンピース』ファンの間で“炎上”の大きな原因となっているセリフが、ウタからなぜ海賊王になりたいのかと聞かれたルフィの「新時代をつくるためだ」である。ルフィは即答だったのだが、私もその瞬間頭の上で「?」が踊った一人だった。

なぜなら、原作では、ルフィは一貫して世界の在り方にまるきり興味のない人だからだ。それが最も顕著に表れたのは「エニエスロビー編」だろう。麦わらの一味は170以上の国々が加盟する世界政府に真っ向から宣戦布告するが、ルフィに世界にどうこうしようという意図は皆無だった。

「ロビンを奪い返しに来ただけだ」と言うルフィのコマ
(単行本40巻、第383話”ルフィvsブルーノ”より)

このように、世界や政府とは関係ないと明言しているのである。激しい戦いの末に勝利を収めた時も、ルフィの認識は「このケンカ!! おれ達の勝ちだァ!!!!」(44巻、第429話)だった。

「新時代」といえば一度だけ、頂上戦争の後にルフィが海軍本部で「十六点鐘」を行ったことがある(60巻、第594話)。「自分が新時代をつくる」という宣言だった。が、これはレイリーの差し金であって、ルフィのアイデアではない。

海賊王になりたい理由が「新時代をつくるためだ」という受け答えは、こうしたルフィ像と真っ向から矛盾する。

これはどういうことなのか? 筆者は、「ウタに自分と過ごした子ども時代を思い出させるため」とか、「“ひとつなぎの大秘宝”を見つけて海賊王になること(=海賊王が誕生すれば必然的に時代は動く)」など、あれこれ考えてみた。原作で繰り返し言及されるが未だ明かされていないルフィの「夢の果て」との関連なども探ってみた。しかしどれもこじつけのようなので、いまは単に脚本が主題歌『新時代』に合わせようとしただけだろうと思っている。

バトルシーンの「軽さ」

言うまでもなく、『ワンピース』はバトルマンガである。なかでも特徴としているのは、このマンガでの戦いは「信念のぶつかり合い」であることだ。ルフィは強い敵に立ち向かうたび、信念を拳に込めて打ち込んでいる。また、数々のユニークな“悪魔の実”や武器により、それぞれのバトルスタイルに個性が強く出るのも見どころである。

しかし、『ONE PIECE FILM RED』で描かれるバトルシーンでは技に重みがない。しかも、ストーリー中盤まで麦わらの一味は拘束された状態で、バトルそのものが少ない。さらに各個の個性も希薄で、たとえばサンジが脚技で迎え撃つシーンがナミのウェザーボールでも変わりないような感じだった。

個人的には、ゾロの剣技の「軽さ」にとりわけ違和感があった。蝶のように舞って放つスタイリッシュな斬撃は、何か別のアニメを見ているように感じられた。

期待より少なかったシャンクスの登場とバトルシーン

公開前、ファンの間で『FILM RED』への期待が高かったのは、「赤髪」とかけたタイトルとともにシャンクスがクローズアップされたからだった。シャンクスはルフィのあこがれであるにも関わらず、原作での登場は少なく、不明な点が多い。どう戦うのかもずっと謎だった。

シャンクスが戦っているシーンはもちろんある。ただ本作ではバトルシーンが総じて軽く、イメージ映像のように描かれている。そのためシャンクスの戦闘シーンといえ、剣を掲げるなど、技に具体性はあまりなかった。『ワンピース』らしさには欠けるといえるだろう。

シャンクスの戦いや人柄、素性などが明かされることを期待していたファンにとっては、それらをことのほか見られなかった点は不満のもとになったようである。

見えにくい麦わらの一味各個の個性

バトルシーンと関連して、キャラクターそれぞれの個性の希薄さは気になった。

『ワンピース』にはカラー様々なたくさんの海賊団が登場するが、麦わらの一味には一つ大きな特徴がある。ルフィの仲間はそれぞれ別の夢を持っていることだ。別のゴールを目指す人が同じ船に乗っているため、麦わらの一味は一人一人の個性が強く出ている。

そうした面白味のある「個」が、『ONE PIECE FILM RED』ではあまり活きなかった。ロビンには考古学者らしく歴史を探る場面があり、ウソップにも狙撃手らしい活躍があったが、他のクルーは誰かが代わりになれてしまう程度の描き分けだったように思う。本作で初めて『ワンピース』に触れる人から見れば「仲間A」くらいにしか感じられないのではないだろうか。

後付けの幼なじみの影響は?

インタビューや公式サイトからは、ウタは『ONE PIECE FILM RED』のために作られたキャラクターであることがうかがえる。つまり、連載時から登場が予定されていたわけではない。

ただ、ウタはルフィのあこがれ・シャンクスの娘で、幼なじみだという設定である。ルフィの人生にとっては大きな存在であるはずだ。

その幼なじみと悲しい別れ方をしたルフィの心情がラストで描かれないままあっさり終わったのには驚いた。彼女には一言も言及せず、なぜかサニー号に話しかけてから「海賊王におれはなる!」と叫ぶ流れにあぜんとしたのは私だけではないだろう。

後付けした幼なじみが原作に影響するのかも気になるところだ。もし映画のために作ったキャラクターとつじつまを合わせることになれば、物語の核心まで改変の手が及びかねない。

世界設定となじまない通信技術

歌姫・ウタの設定はこちらの世界と似せてある。彼女は新種の“電伝虫“によって映像配信でスターになったのである。こちらでいう音楽YouTuberのようなもので、主題歌・劇中歌を歌ったAdoさんと人物像が重ねられている。

映画『ONE PIECE FILM RED』の吊りポスター
プロモーションポスター。ルフィの手前の黒髪の女性は、原作者の尾田さんが描いたAdoさんである。

しかし、『ワンピース』作中世界の通信技術はこちらとは違っている。主なメディアは新聞だ。こちらの世界のメールのように、いつでも通信できるインフラはない。

一応「映像配信」という概念はなくはない。頂上戦争の模様は”映像電伝虫”によってマリンフォードから近距離のシャボンディ諸島で中継されたし、『FILM RED』にも登場するバルトロメオは「海賊達の『串焼き映像配信事件』」(単行本71巻、第706話)で人々に知られている。

それでも、映像を世界規模で配信できるインフラは原作には出てこない。“電伝虫”の「新種」を登場させなければなかったのはそのためだろう。「映像配信で世界中から人気を集める歌姫」という存在は、『ワンピース』にはなじまない印象だった。

エレジアはどこに?

通信技術がそうなら、交通網もこちらの世界とは全然違っている。

“偉大なる航路”を制覇したのは、海賊王ゴールド・ロジャーだけである。その“偉大なる航路”はナミのような腕利き航海士がいなければ航行困難な厳しい海で、両脇は“カームベルト”にはさまれており、東西南北四つの海からは聖地マリージョアの許可をとらなければ行き来できない。行きたいところにすぐ行ける世界ではないのである。

その世界であんなにたくさんの観客が来られるとしたら、エレジアは一体どこにあるのだろうか? 貧しそうな羊飼い・ヨルエカや女の子・ロミィの姿もあるが、彼らの住む場所は交通費がほとんどかからないほど近いのだろうか。しかもライブの日時に合わせて、”新世界”を冒険中のルフィも、ローも、シャンクスの赤髪海賊団も集まれたのはなぜなのか。

エレジアは一体どこにあるのだろう。交通インフラの面でも、本作の設定にはやや無理があったように思われる。

強すぎる“ウタウタの実”

“ウタウタの実”の能力により、ルフィたち新世代の億越え海賊や、海軍大佐であるコビー、CP0のブルーノがあっさりとバーチャル空間に閉じ込められた。しかも、能力が効いたのはライブの入場者だけではない。映像配信が重なったことで、同様の被害は世界の7割にも及ぶという。

……強すぎはしないだろうか? 一つで世界を壊滅させられる”悪魔の実”が原作のバランスに影響しないか心配である。

必然性のない着替え

物語終盤には、麦わらの一味と、ロー、コビー&ヘルメッポ、バルトロメオが衣装チェンジする。ウタが「悪者に着せる」として能力を使ったためだ。

“ウタウタの実”は錦えもんの”フクフクの実”と違って服を変える能力ではないが、“ウタワールド”内のイマジネーションなのだからそれはいい。私が指摘したいのは、この着替えはストーリー上完全に無意味だということだ。必然性のない衣装チェンジからも、やはり本作は見た目を楽しむ趣旨の作品なのかと思う。

唐突なマスコットキャラが3人も

ウタの能力では、衣装だけでなく、ベポ、ブルーノ、そしてサニー号の3人(?)が小さなマスコットキャラに変えられる。劇場パンフレットによれば、谷口監督のアイデアだったという。

必然性のない着替えと並び、過剰な数のマスコットキャラは、いずれも作品を象徴するような役割は果たしていない。この3人が小さくされたからといって、ストーリー上どうこうということは起こらないのである。特別かわいいというほどでもないように思う。(ちなみに、サニーくんとミニベポはボールチェーンのプリントマスコットが出ているが、ミニブルーノだけはグッズ化されていない。)

マスコットを登場させはしたが、効果的に使えたとはいえないだろう。

製作現場―舵とりのいない船

総じて言えば、『ONE PIECE FILM RED』は、舵をとれる人が一人もおらず、来る波に船が流されるまま完成となったような印象だった。

閉ざされた製作現場がどのように動いていたかは、当人たち以外知りようがない。だが、スタッフへのインタビューや原作の単行本、公式サイトなどからは私たちも垣間見ることができる。

サブカル監督の相性と限界

『ONE PIECE FILM RED』という作品には、物語のテーマや人目を引く要素は過剰なまでに詰め込まれているが、いずれも表面的に軽くタッチされるだけで終わる。言及はされるが、描かれはしないのである。言及しただけで描いたつもりになっているきらいがあるように思う。これもまた「MVのようだ」と言われる所以であろう。

では、一体どういうバックグラウンドを持つ人がメガホンをとったのだろうか。

谷口悟朗監督は、1998年に『ワンピース』がイベントで初めてアニメ化された時に監督を務め、監督デビューを果たした。代表作はアニメ『コードギアス』シリーズなどで、劇場パンフレットのインタビューでは尾田さんが「サブカル界のリーダー」だと語っている。つまり、『ワンピース』を手がけたことはあるが、長期のブランクがあり、その間はサブカル的なアニメの製作に携わって有名になったということだ。

確かに、『ONE PIECE FILM RED』の中には2022年現在のサブカル的な要素が多く見つかる。ステージ上の歌姫にペンライトを振るのは、昨今のアイドル文化で実際にある光景だ。また、初音ミクで形成されたボカロカルチャーには、作品の意味内容が説明不足であっても完成とする独特な気質がある。関連して、不明瞭な表現を熱狂的ファンが「深い」ととらえ、独特な「解釈/考察」に花を咲かせる傾向は、Qアノン陰謀論で社会問題となった”Chan Culture”に顕著である。

高く評価したのはどういう層だったのか

”炎上”が目立つ『ONE PIECE FILM RED』だが、その「MV集」のような作風は、一部の層から絶大な評価を受けているのは事実である。

具体的には、まずAdoさんのファンが挙げられる。この層は普段からYouTubeチャンネルでアニメ絵のMVに親しんでいる。それを劇場のスクリーンと音響で7曲も堪能できるのだから、本作はまたとない作品なのである。

また、アイドル歌手の“推し活”をしているような人には、ライブシーンで描かれる場の雰囲気は肌になじんでいるだろう。劇場パンフレットによれば、チョッパーの衣装は”推し”のライブに乗り込む”ドルオタ(「アイドルオタク」の略称)”感満載にデザインされているという。

さらに、本作は「歌姫」だという設定のボカロの美少女キャラクター・初音ミクが好きな人にも嬉しかったのではないかと推察する。本作のライブシーンはそれと同じような感覚で鑑賞できるからだ。ボカロは、不明瞭な表現や説明不足を好むカルチャーの発生源でもある。

他には、マンガ・アニメのファン層の一部にはすんなり受け入れられる作品だったようだ。プロモーションで繰り返し流されているウタの「負け惜しみィ」というセリフは、ストーリー上は全く重要でないのだが、「幼なじみの美少女キャラクター」というジャンルにおいては「かわいい」と判断されるトリガーになっているようである。

言い換えれば、谷口監督と同じサブカルを支持する人々にとってはツボを押さえた良作になっているといえるだろう。

限界がくるサブカルの宿命

サブカルというのは、限られた人の集団内でのみ好まれる文化のことをいう。したがって、その文化は仲間内の境界線を越え、一般社会に出た時には通用しなくなる。

「サブカル界のリーダー」がメガホンをとった『ONE PIECE FILM RED』は、サブカル界の内輪では拍手喝采を浴びるが、一般社会に出たら評価されない作品だったといえるだろう。ウタの発想に飛躍に顕著なように、合理性を欠くようでは一般の観客は説得できない。サブカル界では軽くタッチしただけの「描き方」が好まれるかもしれないが、一般社会においては「描けていない」とみられるのである。

個人的には、「“大海賊時代”を生きる民衆」というのは掘り下げれば面白いテーマだったと思う。それを手がけたのが、合理的かつ丁寧な説明を好まず、イメージを主眼とする「サブカル界のリーダー」だったのはもったいなかった。

谷口監督は、自身の趣向や得意と合わないサブカル外のテーマにあれもこれも着手してしまったようだ。ドラマ性、音楽、悲劇、それにコミカル。重みのあるバトルシーンに、かわいいマスコット。どれをとっても専門外のはずだ。谷口監督の個性が活きないと同時に、すべての要素が期待値未満になったことは、評価の分かれる作品となった大きな原因といえるだろう。

Adoさんの歌唱と楽曲と映像のバラバラ感

音楽映画ではその用途に沿った歌唱が望ましい、という指摘は先程したが、今度は楽曲自体のほうにも評価の目を向けてみたい。

ジャズを基調とする『ラ・ラ・ランド』や、ゴスペルを効果的に使用した『グレイテスト・ショーマン』といった音楽映画と異なり、本作は楽曲群のジャンルをしぼっていない。別々のミュージシャンから提供された7曲は、エレクトロ、ロック、ラップ、バラードと様々だが、歌唱はどれにも対応できていた。

ところで、ネットの”歌い手”であるAdoさんは、ボーカル技術を提供するのみで自らは主張しないタイプのシンガーだ。

参考リンク:Ado『うっせぇわ』の歌詞の意味を3つの視点から読み解く

となれば、声質や歌唱の方向性に合った楽曲が提供されるかどうかは重要になってくる。

その点で、主題歌『新時代』は、Adoさんの歌唱と中田ヤスタカさんの書いた曲が明確に合っていなかったように思う。私は冒頭の一音を聞いた瞬間からそのように感じた。Adoさんは、厚みのある声質で、声を張り上げた歌い方をする。その迫力が彼女を人気絶頂に導いている。一方、中田ヤスタカさんの曲はポップな方向のエレクトロだ。曲自体は、硬めの声質で、軽いタッチで、機械的に歌うくらいが似合うタイプである。アイドルが踊りながら歌うのもよいだろう。Adoさんは持ち前の歌唱力で存分に歌いこなしていたが、曲と相性が合っていたかといえばそうではない。

映像との組み合わせにも疑問を感じた。バラード曲『世界のつづき』はつぶやくようなシーンで使用されるが、これもAdoさんの歌唱の方向性とは合っていない。谷口監督から指示があったためか、Adoさんが無理やり声量を抑えているような印象を受けた。それでも、弱ったウタが口ずさんでいるものとして見れば声量が出すぎではないだろうか。『世界のつづき』を単体で聞けば良いにせよ、映像とのすり合わせはあまりうまくいっていなかったように思う。

谷口監督、シンガーのAdoさん、楽曲提供者と、製作現場は十分に連携できず、バラバラだったのかもしれない。

時同じくみられる原作者の思考の弱まり

『ONE PIECE』公式サイト「らくがきコーナー」の2022年3月29日更新によれば、尾田さんが映画のキャラクターデザインを頼まれたのは3年ほど前だという。また、2021年12月に発売された単行本101巻で、脚本の黒岩勉さんは「2年間かけて、尾田さんや谷口監督と話し合い……(後略)」とメッセージを寄せている。『FILM RED』の企画は2019年には動き出していたようである。

実はこの数年前から、筆者には原作を読んでいて当惑することが重なっていた。ストーリーでは単行本81巻の「ゾウ編」以降にあたり、時期的には2016年からである。『ワンピース』のアイデンティティや作者の自立した思考が薄れ、作風自体が時代劇と仁侠映画の価値観にのみこまれてしまったように思われたのだ。

さらに2018年ごろには、尾田さんが軽率な発言で社会から批判を浴びるようなこともあった。そのころから尾田さんの思考が弱まってしまっていたように思われるのである。

単行本での相次ぐ物議

『FILM RED』の企画が始まったと思われる2019年の少し前、尾田さんをめぐっては、単行本での発言が物議をかもすようなことが相次いでいた。

特に大きかったのは、2018年6月に発売された89巻であろう。巻頭の作者紹介欄で不適切な発言があったとして、「週刊少年ジャンプ」編集部がホームページに謝罪を掲載するに至ったのである。表現者であることは、世間一般で認識されているよりはるかにデリケートで難しい。どんな人でも失敗があるのは不思議でないし、ましてやマンガのように笑いをとろうとする分野は紙一重である。しかしそれを加味しても、なぜこんなことを言って問題になると気づかなかったのか、いぶかしくなるような軽率さだった。普通の思考力が働いていたとは思えない。

尾田さんの思考が弱っていた原因は知る由もないが、背景には疲労やストレスがあるのではないかと思われる。人間の思考力は、疲労が蓄積したり、強い精神的ストレスがかかればそれだけで低下する。同じ人でも健康な時と比べて見る影もないほどしおれてしまうこともある。記念すべき単行本100巻では、尾田さん自身が作者紹介欄で精神的負担と疲労をほのめかしている。

ひと昔前のサブカルにのみこまれた作風

原作ストーリーについて筆者が最初に当惑したのは、さかのぼる2016年に始まる「ゾウ編」のミンク族だった。

第81巻では、みなが殺され千年続いた都市が滅ぼうともミンク族は雷ぞうをかくまった、というエピソードがドラマチックに描かれた。衝撃だったのは、以下の“夜の王”ネコマムシの旦那のセリフである。

『ワンピース』のミンク族とナミのコマ
(単行本81巻、第816話“イヌvs.ネコ”より)
『ワンピース』のネコマムシの旦那とルフィのコマ
(単行本81巻、第816話“イヌvs.ネコ”より)

私はミンク族が会ったこともない人を光月家の関係者だというだけで「仲間」と認識することに驚いた。相手が光月家の人間だからといって、信用に足る人物だとは限らないはずだ。体に家紋を刻んでいるからといって本当に光月家の人間である保証もない。単純な勧善懲悪が敷かれる時代劇では「善人の一族」が登場してもおかしくないだろうし、水戸黄門が「この紋所」を見せればそれだけで「ははーっ」となるだろうが、合理的に考えれば無理のある話である。

ルフィにしても、それまで彼が「仲間」と呼ぶのは、直接会って話したり、激闘をともに戦った相手だけだった。なのにここでは、主人公・ルフィとその仲間が、こぞって感動を表している。冒険ものとして「この島に着いたらこんな人がいました」と客観的に見る視線と独立性が薄れ、作風自体が時代劇・任侠映画に溶けていってしまったように思われた。

さらに、ミンク族は、光月家のために命がけで戦うことが全員義務付けられている。しかし、先祖と子孫は別の人である。数百年前の人同士は任侠風の「兄弟分」の関係を結んだとしても、子孫である今の人はそうではないはずだ。にもかかわらずミンク族全員が光月家のために命さえ捨てさせられるのは、全体主義的で気味が悪かった。「宗教二世」ならぬ「宗教九世」のようで哀れにも映った。端的に言えば、美談として描かれていることが筆者にはとうていそう見えなかったのである。

ミンク族が描かれたのは2016年だが、その後に続く「ホールケーキアイランド編」と2018年末に始まる「ワノ国編」でも時代劇・任侠映画との描き分けはあいまいだった。

私が最も衝撃を受けたのは、『ONE PIECE FILM RED』が公開された2022年8月発売の103巻に出てくる光月日和のセリフである。小さなコマなのだが、燃え盛る炎に照らされながら涙を流す神々しい描き方がなされている。

『ワンピース』の光月日和のコマ
(単行本103巻、第1044話“解放の戦士”より)

光月が「約束を果たす一族」だというなら、「約束を守らない一族」なるものが存在するとでも思っているのだろうか? 日和は人を家名で判断して、個人を見ていない。美しく気高い女性として描かれている日和が、私にはドフラミンゴ並みの悪い敵のようにしか思えなかった。個人的には、光月家の関係者には誰ひとり好感を持てず、時代劇のテンプレートの一つである「お家再興」にも全く共感できなかった。

いずれも、時代劇および任侠映画で良しとされていることを、思考を挟むことなくそのまま流用した形である。

以上のように尾田さんの動向をみていくと、『FILM RED』の製作が始まったのは社会通念から外れた発言が目立った直後で、製作を進めていたのは自立した思考の薄い「ワノ国編」を描いていた時期だということになる。

背景にある尾田さんの文化的バックグラウンド

「仁義」や「義理」などが描かれた背景には、尾田さんの趣味がある。彼は時代劇や任侠映画の大ファンとして知られている。ひと昔前のサブカルを文化的バックグラウンドに持っているのである。

この一風変わった趣味は、『ワンピース』という作品に独特な個性を供給してきた。一例として、大海賊・白ひげには、以下のように任侠映画からの明確な影響がみられる。

『ワンピース』の仁義を語る白ひげのコマ
(単行本45巻、第434話”白ひげと赤髪”より)

現代のポップカルチャーではなかなかお目にかかれない、個性的なキャラクターといえよう。

ただ、この趣味が裏目に出やすいことは容易に想像できる。時代劇と任侠映画は、いずれもファン層の高齢化とともに廃れつつあるサブカルだ。一般社会の目にさらされれば、耐えられる強度を持っていないのである。たとえファンでも、ちょっと深く考えれば無理があると気付いて熱が冷める。いまや「水戸黄門」といえば「つまらないドラマ」の代名詞だし、「越前裁き」は「恣意的で不公平な判断を人情の名のもとに正当化しようとしている」といった悪い意味で使われる語だ。また「忠臣蔵」の討ち入りは現実にはプロパガンダ戦略の勝利だったといわれ、今日では高齢の赤穂浪士ファンですら「吉良さんにも事情はあったんだろうと思う」などと口にするほどである。そうしたもろい価値観をそのまま流用すれば、いくらかっこいい演出をしたところで作者の独りよがりで終わってしまうだろう。

まるで悪い敵なのに美談として描かれたネコマムシの旦那と光月日和のセリフは、『ONE PIECE FILM RED』で病的かつ独裁的なのに「かわいい」キャラクターとして魅力的に描かれたウタの奇怪ぶりと重なる。製作と並行して弱っていた尾田さんの思考は、原作ではひと昔前のサブカルに、『FILM RED』では現在のサブカルにのみこまれてしまったのかもしれない。

プロデューサーのねらい外れ

劇場パンフレットのインタビューによれば、プロデューサーの清水愼治さんは、本作の企画をスタートするにあたり「『ONE PIECE』という作品が世界的に盛り上がるきっかけになる映画」を目指していたという。『ワンピース』を知らない人に広める意図を強調している。

マンガ・アニメはエンタメであり、下位文化=サブカルとして始まった分野である。それゆえもちろん取るに足らない作品はいくらもあるだろうが、一方では、大人の鑑賞に堪えるのみならず、世の人が深く感心するほどの作品を多く輩出してきた。それがマンガ・アニメが人気を博し、世界中で高い評価を受けている所以である。『ワンピース』は間違いなくその一つに数えられる、壮大かつ精密な作品である。

原作について、先程は自立した思考とオリジナリティの薄れを指摘した。しかし他方では、物語の核心が少しずつ明かされ、「”ひとつなぎの大秘宝”とは何なのか」という結末への準備は着々と進められている。また、マンガであるメリットを最大限に生かした「造形」のおもしろさは他の追随を許さない。私は、”ゴムゴムの実”……ではなく、”ヒトヒトの実 幻獣種 モデル・ニカ”を覚醒させたルフィの笑える戦いは、まさに『ワンピース』の「最高地点」だと思っている。

『ワンピース』の金棒で殴られて変形したルフィのコマ
(単行本103巻、第1045話“NEXT LEVEL”より)

しかし『FILM RED』の内容では、ファン以外の第三者を感服させることはまず期待できないと思う。もし初見の人に魅力を伝えたいなら、誰もが「おっ」と関心を引かれるような一般性のあるテーマを物語の軸に据え、説得力ある展開を見せるのが好ましい。またすでに述べてきた、麦わらの一味の個性や絵/アニメとしてのおもしろさなど、中核的な魅力は余すところなく前面に出すべきだろう。本作の方向性は、そのいずれからもほど遠かった。ストーリーマンガとしての精密さや”空白の百年”の謎を追いかける重厚感も、本作からは伝わらない。初見の人には何をやっているのかよくわからないだろうし、『ワンピース』の印象は「今時のバーチャルアイドルみたいなもの」くらいに落ち着くのではないだろうか。清水さんのねらい通りに出来上がったとはいえないだろう。

“ロックス海賊団”のような作品

筆者は、『ONE PIECE FILM RED』の仕上がりは、原作に登場する“ロックス海賊団”に例えられると考えている。すなわち、製作チームには各界の有名な人材が集まったが、まとまりはなく、全体として人が感心するような作品には仕上がらなかった、ということだ。

原作者で総合プロデューサーを務める尾田さんは、傑出したマンガ家であり、つまり独力で優れた物語を作り上げる力を持っている。だが、『FILM RED』でその力が発揮されることはなかった。

谷口監督は、サブカル界ではリーダーかもしれないが、本作で起こったのは「化学反応」ではなく「ミスマッチ」だった。人気マンガと人気シンガーがコラボし、多額の宣伝費をかければ、それだけで大規模な観客層を確保できる。それはエンタメ業界で知らぬ者はいないセオリーである。興行収入こそ記録的だが、自身の腕の証明にはつながらないだろう。

『ONE PIECE FILM RED』のポスターと階段
東急プラザ表参道原宿に設置された「ウタ声階段」(筆者撮影)

脚本の黒岩さんもテレビドラマや映画など幅広いキャリアがあるが、この作品では物語の軸を定められなかった。

劇中歌を歌ったAdoさんは、歌唱力はピカイチだが、映画製作の舵をとる立場ではない。ちょいと気になった人がサーチすればYouTube動画が再生されるなど、本作のマルチメディア展開はどう転んでもAdoさん側の利益になるよう出来ている。これではかえって、「Adoのマネージャーはえげつない売り方をする」などとマイナスイメージにつながりかねない。

その楽曲を提供したミュージシャン7組は、ポップミュージック界でそれぞれ有名であり、曲単体ではいずれもよく作りこまれていた。だがいざ作中で使われてみれば、楽曲から伝わってきたのは製作現場の雑音だった。

プロデューサーの清水さんには、1977年の東映動画(現・東映アニメーション)入社以来、製作現場と企画に携わってきた長いキャリアがある。アニメ業界を知り尽くしたプロデューサーといえよう。しかし舵とりのいない船で、その手腕が存分に生かされることはないままだった。

最後に、ダンスの振り付けを担当したMIKIKOさんにも触れておこう。MIKIKOさんには、東京オリンピック開会式の演出責任者だった経歴がある(後に辞任)。本作でも、劇場パンフレットのインタビューからはウタの衣装デザインが出来上がったらそれを考慮に入れるなど、熟考した様子がみられる。しかし、そのダンスが作品全体に活きた感はなかった。

みな有名だが、バラバラな寄せ集めにすぎなかった。

誰も舵をとれないうちにあれよあれよと船は流され、気づいた時には誰も意図しなかった場所へ到着していた――本作の製作過程はそんな感じではないだろうか。

シリーズものは、作品によって評価にバラつきが出るものである。『ワンピース』の映画は『FILM RED』が最後ではないと思われる。”ロックス海賊団”のような寄せ集めとなった今作は、製作チームはネームバリューではなく、中身で人選すべきだという教訓となろう。そして、適材適所の人材を集めるには、何を描きどのような作品を作りたいのか、ビジョンを明確にすることが必須である。正確な海図を握りしめてはじめて、航海に必要な仲間を誘い、目的の島へと力強く舵をとっていけるからだ。

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(記事公開:2022年10月10日。更新:同11月7日、冒頭に記載した興行収入を最新情報に更新しました。)

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