人格障害の特徴と犯罪の関係は?

なぜあの人は、こんな残酷なことができるのか。なぜあの人は被害者がこんなに苦しんでいるのを目の当たりにしながら、さらりとした顔をしているのか――そう疑問に思ったこと、憤ったことはありますか。あるいは、もはやどんな言葉でも言い表せないほど悩みに悩み、「なぜ」と自問しながらさまよってはいませんか。

もしあなたや大事な人が不運にも犯罪被害に遭い、さらに「加害者が反省してくれない」という壁にぶつかったなら、「人格障害」はその答えになるかもしれません。また、とくにそういう事情がない読者でも、これを知ることは刑事裁判を正しく理解する手助けになるでしょう。本稿では「人格障害」について正しい知識をまとめ、加えて犯罪の加害者に良心がみられないケースで考えられるほかの原因も紹介したいと思います。

なお、人格障害を論じるにあたっての注意点を冒頭で挙げておきます。本文でも繰り返し触れますが、本稿全体をカバーするコード(決まり事)なので、先に頭に入れてからお進みください。

  1. 精神病や精神障害は、偏見や差別の歴史がある社会的に大変デリケートなテーマである。
  2. 人格障害にはいくつもの種類がある。
  3. 犯罪との間に直接の関係はない。
  4. 誤解・偏見・差別を防ぐには「論理」が有効。
  5. 「恐竜」:この記事は「恐竜」とともにご記憶ください。
  6. 診断は必ず専門医療にて。:著者は十分注意してこの記事を書いていますが、精神医療の専門家ではありません。周りにそれらしき人がいて対応を考えている方は、必ず専門医療を受診してください。

人格障害(パーソナリティ障害)とは?

人格障害とは、その人が生来ある程度もっている人格傾向で、どちらかといえば成人以降になって明確になってくるもので、本人あるいは周囲がその人格傾向によって社会生活上の著しい困難を来している病態をいいます。

ビッグ・ドクター 家庭医学大全科(2004)

現在、世間に出回っている信頼置ける資料では、どれでもこれと同じような説明がなされています。「人格障害」は英語の”personality disorder”の訳語です。「パーソナリティ障害」という語もありますが、意味に違いはありません。完全に同義ですので、互換性があります。「人格障害」という名称は誤解や偏見を招きがちなので、最近では「パーソナリティ障害」のほうがメジャーかもしれません。

人格障害には10種類の類型があり、特徴や診断基準はそれぞれまったく異なります。

唯一どれにも共通するのは、「成人以降」という点でしょう。未熟で感情が原初的な幼児や、成長途中で心が不安定な10代なら、あとで紹介する特徴に当てはまってもパーソナリティ障害ということにはなりません。

たとえば、3歳の子が自分は世界の中心の特別な王子様・王女様だと思っているのはとても健全で、順調に発育している表れです。もし何らかの事情でこうした自己愛をはぐくめていない子がいれば、そう思えるようになるための医療支援が必要なくらいです。さらに成人であっても、これが診断されるのは、以下に挙げる特徴が病的な域に達して周囲の人が困り果ててしまうような場合のみ。たとえば目立ちたがり屋であっても、その性格や行動が一般的な範囲内なら該当しません。

古くから、「行動や物事の認識のしかたが著しく異なる人々がいる」ということは知られていました。19世紀には近代刑法の歩みとともに犯罪者の研究が盛んに行われた時期があり、その後精神分析学の影響等も受けながら、パーソナリティ障害は今日では臨床医学の重要な概念となっています。

研究はいまなお続いている途上で、以下で紹介する原因は現段階での推定です。有効な治療法が見つかっていない類型もあります。

なお、最近マンガなどの影響でネットを中心に「サイコパス」という言葉が出回っていますが、これはほぼ例外なく俗称です。「サイコパス」は「反社会性パーソナリティ障害」(以下参照)の類似概念として以前から存在しますが、近年この語が使われているのは「人格障害」に種類があると知らない人の発言だったり、あるいはカタカナ言葉はなにぶん響きが軽いので、犯罪事件を興味本位で扱うような場面だったりするようです。用語として不適切なので、本稿では使用しません。

人格障害の類型と特徴

ここでは主に犯罪と接点がある3つの類型の特徴を、過去の事件等とともに取り上げます。そのほか7種については、それらのあとに紹介します。

自己愛性パーソナリティ障害

「自己愛が異常に肥大化しているために、社会生活でトラブルが生じる」のが、この類型です。

「自己愛」とは、シンプルに「自分が好き」という感覚のことです。健康な人は必ず持ち合わせており、思いやりの原初的な基礎となっています。。人間は、自己愛があってはじめて他者を思いやることができます。裏を返せば、自己愛が希薄だと他人への共感も目減りするので、他人を軽視するようになり、様々なトラブルを来すようになってしまいます。

ところがその自己愛も病的なまでに肥大化すると、人間関係でトラブルが増え、怒りの制御に困難を来すようになります。

自己愛性人格障害の特徴としては、態度が尊大、他人への共感が希薄で思いやりがない、自分は特別な存在だという自己像をもつ、そのため他人を見下している、他人を利用する、果てのない成功を頭に思い描いている、などの傾向が挙げられます。また、その誇大な自己像が傷つけられることを非常に恐れていて、自己愛的世界が壊れそうな場面に直面すると常人ではありえないほど激怒し、極端な行動に出ることがあります。これを「自己愛憤怒」といいます。さらに、ひとたび自信を失ったときには「自分にはまったく価値がない」と極端に落ち込んで、生活に支障が出たりします。

患者には男性が多く、高い社会階層の人の長男に多いともいわれます。社会的に成功している有名人にもいて、『人間失格』の作者として有名な太宰治や、アヴァンギャルド芸術の草分けであるダリなどは自己愛性パーソナリティ障害だったといわれています。

治療は、主に外来での精神分析的精神療法です。時間はかかりますが、社会的適応を比較的よくすることができるということです。具体的に言うと、病的に肥大化した原初的な自己愛を、他人との比較によらないありのままの自己を肯定する「自己肯定感」に育てることで、問題の言動を改善できるそうです。

関連のある犯罪事件

犯罪との関連では、相模原障害者施設殺傷事件の植松聖被告人が挙げられます。

2016年7月26日、相模原の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が刺殺され、職員2人を含む26人が重軽傷を負ったという大量殺人事件が、日本社会および世界に衝撃を与えました(この場を借りて、犠牲者及び遺族の方々に深い哀悼の意を表します)。戦後最大の殺害人数もさることながら、犯行が障害者の命の価値や存在を否定する差別思想に基づいていたため、同事件は戦後日本最悪の凶悪事件といわれています。

犯行前、被告人は周囲に「自分は選ばれた人間」「伝説の指導者」などと話していました。

参考:植松聖「神のお告げ」の結末―津久井やまゆり園事件裁判に思うこと

被告人には、起訴前の精神鑑定で「自己愛性など複合的なパーソナリティ障害」という診断が出ています。

演技性パーソナリティ障害

この類型は、端的にいうなら「病的な目立ちたがり屋」です。芝居じみた派手な言動、自己の演劇化、悲劇の主人公になりたがる傾向などが特徴です。注目の的になっていないと不快感を示し、世間の注目を集めるためにうそをつくこともあります。

こちらの治療にも、精神療法が用いられます。希薄な自己像を改善することで、芝居がかった態度なく他者とコミュニケーションがとれるようになることを目指していくそうです。

関連のある犯罪事件

例として、「ロス疑惑」(「疑惑の銃弾事件」)の元被告人は、演技性パーソナリティ障害の傾向を多分に持っていたといわれています。

概要をざっと説明すると、事件は1981年、元被告人の妻がアメリカ・ロサンゼルスで銃撃されたのに端を発します。当初、彼は妻を殺害された「悲劇の夫」として世の注目を集めました。しかしのち一転、事件は、彼こそが「疑惑の銃弾」により妻を殺害したとして逮捕され、報道が異常加熱するという異例の経過をたどります。

事件の真相や過熱報道の問題はさておき、元被告人は「悲劇の夫」だった間も、妻殺害容疑をかけられ今度は名誉毀損された悲劇の人物となったのちも、ドラマチックな言動で世間の注目をさらいました。

反社会性パーソナリティ障害―罪悪感を感じないのはこの類型

反社会性パーソナリティ障害は、「他者の権利や感情を無神経に軽視するのが一般的」(MSDマニュアル家庭版)とされています。特徴には、狡猾で人をだます傾向、計画性がなく衝動的、責任感の欠如、そして良心の呵責の欠如などがあげられます。

普通の人なら、他人をだましたり、心身に危害を与える行為(たとえば包丁で人を刺すなど)を実行するには、大きな抵抗感や恐怖を感じます。それを押して犯行に至った場合は、深い罪意識を背負うところです。

しかし反社会性人格障害の患者は、自分の利益や満足感のために犯罪を犯すことが平気です。言い換えれば、なんら罪悪感を感じることなくそれらを実行します。他人に危害を与えても、後悔や罪の意識を感じることはありません。

人物像としては、詐欺師が典型的といわれます。このタイプは人生の早い段階から犯罪者となりがちで、逮捕され刑を科されても生き方や行動を改めることはありません。普通に考えれば、逮捕や受刑は「苦痛の経験」なので、「こんなことになるならもうやめよう」と詐欺師人生から足を洗おうとするはずですよね。しかしこういった人物は、再び犯罪を犯しては受刑と出所を繰り返します。このように犯罪者としての人生を送るのが定番ですが、まれに公務員などとなって外見上普通の生活を送っている人もいます。

反社会性パーソナリティ障害の患者は、他人に与えた危害について非難されると、たびたび自分を正当化する言動に出ます。ひたすら誰かのせいにする姿もよくみられます。ここでも罪の意識は感じていません。

反省の言葉を口にすることがないわけではないのですが、どこか深みがなく、淡々としていて、心がこもっていません。表面的に話を合わせているにすぎないのです。

男性に数倍多く生じます。この類型では、15歳以前に問題を起こして反社会性の兆候を表していることが診断で必要だとされています。

原因は特定されていません。また治療が最も難しい類型とされ、有効な治療法は見つかっていません。遺伝的要因、環境的要因、脳の機能や発達など、様々な角度から研究が続けられています。

残り7種のパーソナリティ障害は、犯罪とは縁遠い

類型10種類のうち、残りの7種は以下になります。

  • 境界性
  • 回避性
  • 依存性
  • 強迫性
  • 妄想性
  • シゾイド
  • 統合失調型

これらの人格障害は、先に取り上げた3種と異なり、犯罪とは縁がありません。

代表的なものを紹介すると、境界性パーソナリティ障害は、「見捨てられる」不安があるという類型です。人間関係が不安定であり、リスカなどの自傷行為や自殺をほのめかすなど周囲を不安にさせる言動が多いのが特徴で、患者には女性が多くみられます。うつ病や摂食障害などを同時に患っているケースも少なくないということです。

回避性パーソナリティ障害は、自分への批判や拒絶に恐れを抱いていたりとらわれすぎたりして、対人関係をつくるのに困難を来すという類型です。その特徴には、自分では答えが出せない、他人といないと不安になるなどの傾向があります。

依存性パーソナリティ障害の特徴は、物事を自分では判断できず、決定を他人に依存するというもの。

実は、日本人の大部分は回避性や依存性人格障害の傾向を持っているといわれています。なるほど、うなずけますね。物事を自分で判断できない人に心当たりはありませんか?

人格障害のポイントと注意点

以上のように、「人格障害」には様々な種類があり、特徴はそれぞれで大きく異なります。うち、犯罪と密接なのは反社会性パーソナリティ障害だけであり、自己愛性や演技性では直接の関係はなく、その他ではまったく接点がありません

患者さんたちは、苦しみながら治療を続けています。パーソナリティ障害に「犯罪」や「危険」のイメージをもつべきではない、ということを強調しておきたいと思います。

青いハートと黒いオーラ
人格障害は、種類によって大きく異なる。青い心が指すのは、冷たさの場合もあれば、悲しみ・苦しみの場合もある。

また、対応が必要なのは、症状によって社会生活が困難になり本人や周りが困り果ててしまう状況そのものです。人格障害自体は、その人にマイナス評価を与える要素にはなりません。

精神病や精神障害には、患者が世の偏見から不当な苦しみを受けてきた暗い歴史があります。そういった間違いをくり返さないためには、正しい知識が何よりも大事です。

私が「あの人は人格障害じゃないか」と思った時のこと

実を言うと、私には一人、自己愛性および演技性パーソナリティ障害だと確信している人物(以下、A)がいます。

公務員だったAは職務にかかわる不正事件で逮捕・起訴されましたが、判決は無罪となりました。ただ、「無罪」という結論の二文字だけをのみこんではとらえられないのがこの事件。事実関係をよく見てみれば、Aが無罪となった理由は刑事手続き上の瑕疵なんですね。真実においては、Aが事件に関与していたのはほぼ間違いないといわれています。つまり、刑事手続きが適正に行われていればAは有罪だったということ。凶悪事件ではないものの、経過の面では「ロス疑惑」とやや似ていますね。

私がたまげたのは、機会あってAの著書に触れた時でした。書き連ねてあったのは、たゆみない活躍を続け、愛し愛される完ぺきなAの姿。一冊まるごと、Aの自己愛世界のかたまりだったのです(自己愛性パーソナリティ障害の特徴。あの本を真剣な顔をして読んだ人がいたら驚く)。そのうえ、悲劇の主人公になりきっている(演技性パーソナリティの特徴。普通の冤罪被害者の方は、悲劇の主人公として芝居がかった言動をすることはない)。同著書やメディアでの言動を見るに、どうもAが理想とする自己像は「一点の汚れもなきパーフェクトな善人で、世の中から果てなき称賛と感謝を浴びる慈善家」が軸なようで、この誇大な自己愛世界をおびやかす逮捕・訴追という体験――有罪判決が出れば自分は「犯罪者」だということになってしまう――に直面した時には、常人の想像を絶する反応を起こしたのかもしれません。Aは著書で検察を批判していますが、心の奥ではそれは願ってもない出来事であり、「悲劇の主人公」として世の中の注目を浴びたことには無上の快感を感じているのかもしれません。

私は本稿を書くにあたって同事件を取り上げるか迷ったのですが、今回のところは人物名および事件名は伏せることにしました。精神病・精神障害のデリケートさを考慮してのことです。不特定多数がアクセスできるブログ記事という性質上、「『人格障害』という言葉は特定人物に対する誹謗中傷に使えるのだ」とか「犯罪行為を批判する理由付けになるのだ」などと誤解する読者が出ないとも限らないので、パーソナリティ障害への理解を大きな目的とした本稿ではそれをあらかじめ防ぐべきだと判断しました。ほか、私が知る範囲ではAの言動に対してそういう指摘が見当たらなかったこともあり(Aが一種のえん罪被害者として事件が終結したからか、あるいは、Aには不本意でしょうが事件の注目度がたいしたことないからなのでしょう)、A本人が何かを誤解して筆者に「自己愛憤怒」をぶつけてくる可能性をあらかじめ断っておきたい意図もあります。

ただAは公務員であり、事件は職務上の不正に関するものでした。市民としては厳しい目を向けるべき事案なのです。私も今後Aの動向によっては「Aは○○事件当初から自己愛性および演技性パーソナリティ障害の特徴を多分にそなえた人物で……」などと言及することがあるかもしれません。しかしその場合でも、問題の所在はあくまでAの行為や上記不正事件への関与であって、人格障害そのものではありません。

有名人の精神状態を勝手に議論していいの?

公の注目を浴びる人物には、「精神病・精神障害ではないか」との話題が浮上することがあります。先に紹介した「ロス疑惑」の元被告人もその一人でしょう。最近は、世をにぎわす事件の「犯人」をネットメディアが興味本位で「サイコパスだ」などと指さすことが増えました。

このように有名人を指して「あの人は人格障害では?」という話題を持ち出すことは適切なのでしょうか?

アメリカでは、精神科医の倫理規定で「精神科医が直接診察しなかった人物の精神保健状態について専門家として意見するのは倫理的でない」という趣旨の条項が定められています。この条項は、1964年の大統領選において、”Fact”という雑誌が候補者の精神状態について精神科医の意見を特集し、のちに候補者から75000ドルの損害賠償を求められたという出来事の反省から設けられました。医師による「あの人は精神病/精神障害だ」との指摘は時に巨大な影響力をもち、指さされた者を社会的に追いつめるのです。

脚光を浴びる人物の精神状態は、なにもタブーではありません。上記倫理規定は、「精神科医は公の注目を浴びる人物について意見を求められることがある」という前提を、明文で記載しています。

ただ、「あの人は精神病/精神障害ではないか」の系統は気を付けなければならない話題なのだということは、こういった規定がつくられていること自体から感じられると思います。

「反社会性人格障害」の存在が投げかけるもの

さて、「なぜあの人は、こんな残酷なことができるのか。なぜあの人は被害者がこんなに苦しんでいるのを目の当たりにしながら、さらりとした顔をしているのか」という最初の問いに戻りましょう。

反社会性パーソナリティ障害については、そういう人間が存在していること自体が衝撃ですね。

犯罪被害者への「二次被害」は、残念ながらそれなりに起こっています。被害者が犯人に反省の言葉を求めたら、謝罪どころか事件の正当化や被害者への罵倒が返ってきて、さらなる苦しみが上乗せされた……といった事例です。

凶悪犯罪に遭われた方が犯人の反省を願うのは、ごく自然な成り行きです。なぜなら、犯罪行為で傷つけられるのは心身や財産だけにとどまらず、「自分は傷つけられてはならない尊い存在である」という「人格の尊厳」にまで及ぶから。したがって、加害者がその行為を「悪かった」と認めることは、傷つけられた尊厳の回復を意味するのです。

しかし、犯人が反社会性パーソナリティ障害だったら、その願いは叶いようがないんですね。理不尽なのはもっともですが、これが現実なのです。一般的には、人間というのは誰しもあたたかい心をそなえていると考えられているでしょう。しかし、世界は広い。そういう常識が通用しない人間が存在しているのです。

以前、刑事裁判の被害者参加制度の問題点を論じた時、私は「苦しみを訴えたら反省するというのはまともな思考であり、そんなまともな人間はそもそも凶悪犯罪なんかしない」という旨を書き綴りました。その時念頭に置いたのはいわば「普通の悪人」だったのですが、反社会性パーソナリティ障害の犯罪者となれば「もっと上」です。反省し得る心がそもそもないのです。

根本的に良心の呵責がない人間の存在を知れば、「裁判」になんとなくのイメージしかなかった人も見方が変わるかもしれません。ここ20年で日本の刑事司法は「復讐劇場化」が進んでしまいましたが、反社会性パーソナリティ障害の存在は、「刑罰を重くすれば『犯人』が反省するとは限らない」という現実を、ある一方向から照らしているといえるでしょう。

反省を得られる見込みがない――犯罪の被害に遭ってここに来られた読者には、世界が崩壊するほどのショックだと思います。けれど、断言しますが、それをもってあなたの人格の尊厳が損なわれることはありません。その理由はこの先で説明します。

【初心者向け】責任能力とは?

相模原障害者施設殺傷事件の公判では、被告人の責任能力が大きな争点となりました。

本件に限らず、刑事裁判では時々「責任能力の有無が……」などと言われていることがありますよね。この「責任能力」とはどういうことなのでしょうか。

「責任能力」とは、非難としての刑罰を科し得る能力のことをいいます。刑法は、被告人に責任能力がないと判断されれば「罰しない」(39条1項)、心神耗弱だった場合は「その刑を減軽する」(同2項)と規定しています。

刑罰の目的は、「一般予防」と「特別予防」だというのが通説的見解です。ある行為に対して国家が刑罰を予告することで、当該行為(たとえば人を殺す、公文書を偽造する、など)をしないよう、社会一般に、またその行為者に要求しているのです。

ところが、「それをしてはならない」という意味が理解できない人は、その行為に対する非難も理解できません。わかりやすい例としては、落石事故を想像してみてください。岩が山の斜面を転がってふもとを走っていた乗用車の上に落ち、運転していたおじいさんが亡くなってしまったとします。その岩を裁判所に連れて(持って?)きて「なんでおじいさんを殺したんだ」と非難しても、岩には理解できませんよね。また、「なんで落ちてきたんだ」と責めても、岩にはふんばって踏みとどまるとか、別の方向へ転がるなどといった別の選択をする能力がありませんでした。したがって、岩には「非難としての刑罰を科し得る能力」がありません。もっとも岩と人間は違うといえばそうなのですが、「その行為をしてはいけない」という意味が分かっていない点では同じです。

被告人に人格障害があると、責任能力はどう判断されるの?

では、人格障害がある被告人の責任能力はどう判断されるでしょうか。

パーソナリティ障害の患者の考え方は、たとえ極端であっても、単に性格や思想です。「殺人は犯罪である」などの意味を理解する能力(事理弁識能力)を欠いているわけではありません。

したがって、犯罪事件の被告人に人格障害があった場合、責任能力は否定されません。

「津久井やまゆり園事件」の被告人も、判決にて責任能力は否定されませんでした。

責任能力が否定されないのは、自己愛性のみならず、反社会性パーソナリティ障害でも同じです。

なので、たとえ被告人が「自分は悪くなく、落ち度は被害者にある」と主張したとしても、それは被告人の個人的な主観にすぎません。客観的にその行為が犯罪であり、責任能力が認められる以上、被告人は有罪。罰せられることになります。

(更新:2020年3月19日、津久井やまゆり園事件の判決が出たため、該当箇所を修正しました。)

人格障害と犯罪の関係を「正確に」まとめると

以上より、人格障害と犯罪の関係は、「背景の」「一つにある」「場合がある」と説明するのが正確です。

第一に、犯行に至るまでの過程はとても複雑です。たとえ犯人に人格障害があったにせよ、それは背景にすぎません。それ自体は直接犯罪を引き起こさせるようなものではない、ということはすでに述べた通りです。

次に、どの事件でも原因は複数あります。犯人にパーソナリティ障害があったとしても、それだけが原因なのではありません。

第三に、すべての犯罪にパーソナリティ障害がかかわっているということではありません。世の中の犯罪の多くは、パーソナリティ障害でない人によって起こされています。

精神病や精神障害という分野には偏見を生じた歴史や社会状況があり、「人格障害」という言葉も差別的な意味合いで使われることがありました。犯罪とはまったく縁のないあまたの患者さんに偏見をもたないよう、今一度強調しておきたいと思います。

加害者に良心がみられない、ほかの原因

凶悪犯罪の犯人がいくら非難されても反省しない、被害者がどんなに苦しみを訴えても通じない。なぜなのか――。この問いの答えとして「反社会性パーソナリティ障害」があり得るということを紹介しました。

しかし、「加害者に良心が見当たらない」ケースでは、疑うべき要因は他にもあります。もっともシンプルな例は、加害者が個人的に「自分は(または当該行為は)悪くない」と信じている、というケースでしょう。

こういった様々な要因の中に、「これは覚えておいてほしい」と思う心理学上の現象があります。ぜひ読んでいってください。

「リビングルームの恐竜」現象

心理学には、「事実の否定」という概念があります。

「事実の否定」とは、「自分にとって不都合なことや苦痛となる事実を、それほどのことでもないかのように、あるいはそんなことはそもそも存在していないかのように振る舞ったり、または自分をもそのように信じ込ませてしまうこと」(『毒になる親』スーザン・フォワード著、玉置悟訳 39頁)をいいます。

「事実の否定」はたびたび、「リビングルームに恐竜がいる」とたとえられます。

あなたから見て(つまり客観的には)、

リビングルームに

恐竜のフィギュア

恐竜がいる

のはゆゆしき事態ですよね。恐竜を目撃した瞬間、「ギャーーーーーッ!」と第一声に悲鳴を上げるでしょう。この異常事態に、一刻も早く対処しなければなりません。近隣に助けを呼び、警察を呼び……。その家の家族は当然、安全確保のためすぐに避難するでしょう。危険なので、財布を取りに家に入ることすらできないはず。なんとしてでも家から「恐竜」を取り除かなければなりませんよね。

ところが現実には、「リビングルームに恐竜がいる」のと同じくらい危険で異常な状況では、物事はこういった常識的な成り行きにはなりません。……驚きましたか?

直視すれば、精神が崩壊する。取り組めば、日常の崩壊・家庭の崩壊は間違いない。それほど深刻な状況では、当該集団のメンバーはあまりの無力感から、無意識的に「恐竜」などいないことにしてしまうのです。もう少し具体的に言うと、その集団内ではその破壊的一大事がちょっとしたジョークだということになっていたり、あるいはそんな問題などそもそもなかったことになっている。そういう心理が、集団の全員に働きます。これが「事実の否定」です。

「事実の否定」は、大きすぎて対処が困難な苦痛に対する防衛反応です。したがって、やるせないことに、「事実の否定」は「苦痛となる事実」が深刻になればなるほど起こってきます。

ひざのすり傷なら、見て見ぬふりをする理由はありません。本人も周囲もです。転んでひざをすりむくなんていうのは世間でよくあることだし、小さい子でも理解できるし、恥ずかしくないし、すり傷のせいで日常が崩壊するわけがないからです。

ところが、世の人が聞いてぎょっとするような問題、存在自体が世に知られていないようなとんでもない問題、「まさかあの人に限ってそんなことはありえない」と思われるような状況にかぎって、人間には「見て見ぬふり」への深層心理が働いてしまうのです。

「事実の否定」の典型例3選

「事実の否定」が起こる状況の代表的な例には、薬物依存、アルコール依存、家庭での性的虐待、などがあります。

まず薬物依存ですが、薬物依存者の家族は、のちに「恐竜」、つまり薬物依存者が明るみに出て真の問題に向き合わなければならない時が来てから、「そのことについては絶対口にできない雰囲気があった」と語ります。

アルコール依存での「事実の否定」は、たいてい次のようなもの。「パパのパワハラ上司には困ったものね」と語られている家庭があります。一見もっともらしい議論ですが、実はこれは「論のすり替え」という形での「事実の否定」。お父さんは毎晩家に帰ってくるなりひたすら酒を飲み、空の大瓶が何本も床に散乱したころその場で眠りこけてしまい、いつも家族がパサリと毛布をかけている……この事実には、なぜか母親も、子どもも、誰も言及しません。この家庭は、「パパってもしかしてアル中じゃない?」とも「パパのお酒には困る」とも絶対に言い出せない、無言のプレッシャーに支配されています。では、そんな飲んだくれ生活をしているお父さん本人はどうかというと、「大人はお酒を飲んでリラックスするものなんだよ」と笑っていたりする。客観的にはどう見てもアルコール依存の父親ですが、この家族内ではそうではないとか、あるいはちょっとしたジョークになっていたりするわけです。

3つ目、児童への性的虐待事件では、良心の見当たらない人物が次から次に登場しがちです。反社会性パーソナリティ障害なのか……と疑うのは無理ありませんが、「リビングルームの恐竜」心理は必ず疑ったほうがいいでしょう。2019年現在、刑事事件となる代表的なケースは次のようなものです。

――一見ごく普通な家庭で、父親が自分の子どもに性的虐待(体を触る・触らせるなど性的な行為をする、わいせつな言葉をかける、性関係の対象にする、児童ポルノの対象にする等)をしていることが判明した。父親は逮捕されたが、公判でも頑としてそんなことはしていない、自分は無実だと言い張り、果てには子どもがうそを言っているのだと主張した。――

子どもの心を回復不能なほど傷つけておいて、狡猾にも無罪になろうと画策しているのか? 自分の悪逆非道な行為を、よりによって子どものせいにするなんて! この父親は反社会性パーソナリティ障害じゃないか? ……その特徴を網羅しているのでそうかもしれないし、あるいは「普通の悪人」なのかもしれませんが、本人による「事実の否定」の可能性もあります。つまり、加害者本人が性的虐待の事実を見て見ぬふりをしている、あるいは、性犯罪・凶悪犯罪という重大事実を軽い冗談にまで矮小化している、ということです。

――また同ケースで、被害児童の母親は、児童本人から泣きながら被害を訴えられたにもかかわらず警察に通報することはなく、深く傷ついた子を医療機関へ連れて行くことすらせず、事態を長年放置していたことが明らかになった。――

この母親は自分の金と平穏を守るために、わが子を犠牲にしたというのか? 子どもを保護する義務がある親権者なのに? 自己中心的極まりない! 血も涙も良心もないのか? ……このように性的虐待を受けた子を放置した親をはじめ、加害者でも被害者でもない家族メンバーに関しては、「自分の家に性犯罪がある」という衝撃的な事実にどう対処すればいいのか途方に暮れ、ついには無意識のうちに心のシャッターを下ろし、「恐竜」などいないことにしてしまった、という心理が働いている可能性が非常に高いです。

薬物依存、アル中、そして性的虐待。こうした「事実の否定」が大部分を占める集団においては、「秘密」が無言の鉄則となってます。外部に対しては徹底して「普通」をよそおいますが、内部は閉鎖的で風通しが悪く、オープンに話し合える雰囲気は皆無です。

では、「事実の否定」という無意識の心理が人間にあるなら、重大な苦しみが放置されたり、ジョークにまで矮小化されるのは仕方ないことなのでしょうか?

とんでもありません。

「事実の否定」は、一時の、かりそめの逃避にすぎません。

薬物依存者やアルコール依存者を見なかったことにしている嘘で塗り固められた家庭にも、化けの皮がはがれる時はいつか必ずやって来ます。家庭崩壊をおそれるゆえの逃避でしたが、「すべて依存症と名のつくものは家庭崩壊で終わる」という現実が、見て見ぬふりによって変わるわけではないのです。

では性的虐待のように、被害者がいるケースではどうでしょう。こちらは複雑なのですが、しばしばある成り行きでは、被害児童がのちに重大な精神疾患を患い日常生活や人生に支障をきたすようになったことで、隠されていた事実が浮上します。

重大な苦しみを必死で見なかったことにする。そんな見当はずれな努力を続けている間に、「恐竜」による被害は拡大する一方です。子に対する親など責任ある者に「事実の否定」心理が働いていた場合、その者がいくら目をそらせても、背負っている責任が消滅しているわけではありません。

【司法関係者向け】児童への性的虐待事例における無罪判決の事実認定についての指摘5点

2019年初頭にかけて、児童への性的虐待の刑事裁判下級審において、被害者の「抗拒可能性」や「生活上の困難」、「(加害者との)強い支配従属関係」等が認定されず、被告人無罪となるケースが相次いだ。

被害者には衝撃が走り、社会からは批判が巻き起こっている。議論やバッシングにおいては「被害者が刑事手続きによって受ける苦痛」について捜査段階、公判、無罪判決、報道やネット大衆社会でのそれが一緒くたに語られ、さらには「司法が市民感覚とずれている」という意見の一方「これが市民感覚なのだ」などと言説や推測、憶測が入り乱れ、事態は泥沼化の様相を呈している。

私の専門は民法における児童虐待への法的対応だが、この度刑事司法における判断について論じておきたい。

第一報を耳にはさんだ時、私はおそらく「推定無罪の原則」が争われたのだろうと想像した。しかし名古屋地裁岡崎支部平成31年3月26日判決文をみてみれば、実際には刑事司法の根本が争点になったのではなく、単純かつ底の浅い、心証形成における問題であった。つまり、同証拠から法を適用することは十分可能なのである。静岡地裁平成31年3月28日事例における犯行事実の蓋然性判断も同様である。

そもそも児童虐待とは、本質的に、抵抗可能性がない状況・加害者と被害者の主従関係において起こるものである。親が虐待しているか否かに関わらず、すべて親子関係には、心理学的に強力で覆ることのない力関係があるからだ。

このような児童虐待の実態を踏まえれば、上記事例において被害者に抗拒可能性があったとか、加害者との間に強い主従関係がなかったと認定するのは、ネス湖のネッシーの存在を認めるようなものである。

オカルトミステリーネス湖のネッシー
数十年前、英スコットランドのネス湖にこのような恐竜が棲んでいるとのオカルトミステリーが流行した。しかし90年代、証拠写真の発信者は「エイプリルフールのジョークのつもりだったが話題が世界規模にまで拡大してしまい、引くに引けなくなった」と死の間際に告白した。

ネス湖にネッシーはいない。同様に、「被害者に抵抗可能性がある児童虐待」や「加害者との間に主従関係がない児童虐待」というものは、現実に存在しないのである。それらについて論じるのは、「ネッシーの証拠写真」が本物かどうかを、今なお真剣に分析しているのに等しい。私は今回の判決の事実認定を、刑事司法判断に対する最大限の批判と皮肉を込めて、「ネッシー認定」と呼ぶことにしたい。

以下、刑事司法判断において考慮すべき点を5点指摘したいと思う。

まず第一に、自由心証主義(刑訴318条)は、決して裁判官の恣意を許すという意味ではない。経験則・論理則に従った合理的心証であることが要求され、これを実現するためには「心証形成も科学的でなければならない(『刑事訴訟法』田口守一 349頁)」とされる。これを念頭に以下を読み進められたい。

第二に、学校等で性的被害を訴えた被害者本人がそれを(一時的に)撤回する、あるいは話の内容に変化が生じるのは、児童虐待対応の現場ではよくあることである。決して不自然ではない。

これは、良い方向であれ「変化」を無条件に恐れるという人間の心理に端を発する。もともと心に筆舌に尽くしがたい苦痛と混乱を抱えた虐待被害者は、教師や警察等関係者が動き出し「事が大きくなる」様子を見ると、さらに動揺する。この段階で被害の訴え撤回が起こりやすいのは、被害児童が「変化」を――性的虐待からの保護というもっぱら好ましい方向であれ――恐れ、事態をたたんでしまおうとする心理の結果である。加えて、もともと「自分を保護してくれるはずの親が危害を与えてくる」という状況は、児童に多大な混乱を生じさせる。このため被虐待児童が「自分が悪いんだ」と思っているケースは大多数を占め、周囲が対応に動き出すと「自分のせいで家族がばらばらになってしまう(実際には、家庭を崩壊させたのは性的虐待の加害者である)」「自分のせいで周りが迷惑している(実際には、子どもには保護され適切に養育される権利がある)」などと罪悪感を抱いてしまうことがある。その上、性的虐待の被害児童は、独特な「不潔感」や「羞恥心」を自分自身に抱いているため、自分が人目に触れることを非常に恐れることが多く、これもまた事態をたたもうとする行為につながりやすい(このことは、言語道断の性暴力に苦しんでいるにもかかわらず被害を外部に訴えない原因にもなる)。こうした局面では、対応に当たる医師などが「必ず保護するから大丈夫だ」などとに伝えると、子どもは撤回を撤回し、実際の保護が実現していく。過去の事例においては、児童が小学校で担任に親からの性暴力を訴え、担任が青くなって対応に動き出したところ、動揺した児童が「あの話はうそだった」旨の話をし、担任が一転「でっちあげで親を陥れようとするとは何事だ」と児童を叱り飛ばしたが、数年経ってからやはり児童は性的虐待を受けていたのだと判明したというケースがある。二度と繰り返してはならない重大な過ちだが、同様の例は他にも報告されている。

確認しておくと、子どもが親を陥れるために虐待をでっちあげるということは、心理学的にあり得ない。児童本人が虐待を少しでも口にしたなら、それはすでに早急に対応しなければならない状況なのである。

以上を踏まえ、刑事司法においては、「被害者の供述が一転二点して一貫性がない」ことを以て証言の証明力に疑問符をつけるのは妥当でないといえる。この点静岡地裁平成31年3月28日判決は当たらない。

第三に、実行行為時に現場たる家にいた他の家族が、それを知らなかった、何も気づかなかったと証言したとしても、この類の証言は犯行事実の高度な蓋然性を否定する証拠として重視すべきではないと考える。なぜなら、性的虐待がある家庭の他の家族は、上記「事実の否定」心理を最も引き起こしやすい立場にあるからである。「その瞬間に同じ家の中で、家族が家族に性犯罪を犯している」という事実は、直視すれば精神も家庭も崩壊するほどの「恐竜」であるゆえ、家族が絶対何も知ってしまわないよう無意識のうちに決め込んでしまうのである。この点でも、静岡地裁平成31年3月28日判決が「あまりに不自然」としたのは当たらない。このことは司法判断のみならず、家族の取り調べにあたる者にも意識されるべきである。

そもそも、家庭内での性的虐待は、被害者・加害者双方の生活の場である自宅かつ密室で起こるものであり、目撃者が存在することはほとんどない。犯罪の性質上、想像を絶する心理的負担をかかえた被害者に証拠が集中するのである(この上なく遺憾ながら、その被害者がすでに他界している事例もある)。このことを踏まえなければ、妥当な司法判断は導けないであろう。

第四に、名古屋地裁岡崎支部判決が認定しなかった「日常生活上の著しい困難」について言及しておくと、性的虐待がある家族の家庭生活は得てして「事実の否定」によって成り立っており、外部に対しては無意識かつ必死に「普通の家庭」をよそおう傾向がある。性虐待親の社会階層はすべてにわたっており、社会的地位の高い人物であるとか、世間で尊敬されているということも少なくない。被害児童が(最初の)被害の瞬間から異常行動を起こし翌日から学校生活に支障が出るなどと想像したなら、それは根拠なき空想にすぎず、現実とは異なる(その原因には第二の指摘で触れた)。性暴力を受けた子どもは、長年、表面上は「普通」の学校生活等を送っているのである。これは被害が小さいことを意味するどころか、むしろ逆で、その苦痛が自他ともに無力感を感じるほど甚大であることのあらわれなのである。

最後に、フォーカスする枠組みを「性犯罪」にシフトすると、「被害者が子どもである性犯罪の大多数は、家族によって起こされている」という事実はご存知だろうか。つまり言い換えると、児童が被害を受けた性犯罪事件の大多数では、その「性犯罪者」とは通りすがりの見知らぬ変質者ではなく、子ども自身の父親、母親、きょうだい、親戚等なのである。

したがって、もしこの度問題となった事例のように「ネッシー認定」で被告人が無罪となるとすれば、児童に対する性犯罪の大多数は処罰されないことになる。この結果が妥当でないことは言うまでもないであろう。

ほか、司法判断そのものではないが、報道や各種学問領域に対して一点だけ呼びかけたいことがある。男子児童に対する性的虐待への配慮である。先の下級審無罪判決につき、世の議論では「女性蔑視が原因である」との指摘がなされている。このこと自体は否定しないが(たとえば、国ごとの痴漢の数は女性蔑視の度合いに比例する)、私はこれが誤解につながることを危惧している。児童虐待に取り組むNPO法人チャイルドファーストジャパンの被害児童向け動画によれば、性暴力に遭ったことがある男子は10~20人に1人にのぼるという。性暴力を受けた男子が、どのクラスにも一人二人はいる計算だ。多くの読者はこれだけでも仰天したのではないかと思うが、話はまだ終わらない。同資料では女子の性被害の率は5人に1人ということだが、これは女子のほうが性被害が多いという意味ではないとみられる。いまの社会情勢では男子のほうが性被害を訴えにくいため、「暗数」が多いと考えられるからだ。これが児童虐待の実情である。もしここで、調査方法に問題があったのではないかとか、それは外国の話ではないかなどと考えたなら、それこそがまさに「リビングルームの恐竜」現象である。

性犯罪と女性観の関係を論ずる方は、その際一言、注意書きの加筆をお願いできないだろうか。児童虐待の実態とは全くかみ合っていないからである。

これもまた、論理の問題である。たしかに、女性蔑視が加害者の犯行動機や女性に対する性犯罪軽視の背景の一つとなっている事例はあるが、このことは「すべての性犯罪は女性蔑視に基づく」ことは意味しない。おそらく発言されている方の多くは理解されているだろうが、情報の受け手が社会全体となるとなにぶん誤解されやすいので、もうひと手間かけてクリアにしなければと思うのである。「性的虐待=女性の問題」という誤った「イメージ」が世に流布されることで陰に隠され、抑圧に苦しむ者が出ないよう、我々はすべての人にとって生きやすい社会へ舵を取っていくべきである。

私が児童への性的虐待を心から憎む理由は、のちの作品にて明らかになるであろう。ここ10年ほどの間に、民法や児童福祉法は、私がゼミで研究していた当初問題視されていた「穴」を埋める形で改正されてきた。そうして児童虐待への法的対応が一段一段改善されたなか、ここにきて刑事司法が大きくつまづいたことは大変遺憾である。突飛な判決により事件がネット大衆社会を含む世の注目を集める結果となってしまい、被害者の心情を思うといたたまれない。控訴審での妥当な判決を望む。

【声明】名古屋高裁控訴審判決を支持する

2020年3月12日、子に性的暴行をした被告人の控訴審判決が名古屋高裁であった。判決は、被害者たる娘は抵抗することが困難な状態だったとして、一審・名古屋地裁岡崎支部による無罪判決を破棄し、逆転有罪を言い渡した。

本件は性的虐待の一環である、と認めた同判決を適切と評価する次第である。

一般には認知度が高くないが、明治時代に定められた旧強姦罪・準強姦罪が保護法益としたのは、性的暴行被害者の性的自由ではなかった。家制度のもと、同罪は家長の娘=所有物への侵害の罪だったのである。旧強姦罪・準強姦罪の成立要件たる被害者が女性に限られ、また同罪が親告罪である由来はそこにある。

2017年の刑法改正により、同罪の名称が強制性交・準強制性交と改められ、被害者を女性に限定する規定が削除されたのは、保護法益を被害者の自由に改め、憲法の定める両性の平等に合致するものとして評価できる。

他方、同2017年改正は、専門家から問題視されていたにもかかわらず、「抗拒不能」という基準のあいまいな成立要件が課される中途半端なものに終わった。今後、立法において、強制性交罪の保護法益が被害者の性的自由であることを明確化され、裁判官の恣意の生じにくい明確な条文へ改正されることを望む。

(以上追記:2020年3月19日)

「津久井やまゆり園事件」での論のすり替え―差別を差別で洗わないために

さて、以上のような「リビングルームの恐竜」現象ですが、これは人間の心理なので、なにも家庭だけで起こるわけではありません。

相模原の障害者施設殺傷事件の被告人には、大麻精神病および妄想性障害として措置入院となったものの、12日後に症状が消滅したとして措置入院解除、退院したという過去があります。この措置入院解除をもって、厚生労働省は病院と相模原市の対応が「不十分」だと批判する検証結果を出しました。つまり平たく言うなら、被告人のような「危険人物」を入院させておけば、あるいは監視し続ければ、あのような凶悪事件の再発を防止できるのだ、と。

……現実を直視しましょうよ。

近年芸能人の大麻事件が相次いでいますが、逮捕された歴代芸能人を思い浮かべてみてください。そのなかに、誰かを刺し殺した人はいたでしょうか? 「障害者を殺すべきだ」と言った人は? ……一人たりとていないじゃないですか。

津久井やまゆり園の事件は、あくまで被告人の障害者差別思想に基づきます。原因を大麻や精神障害になすりつけるのは現実逃避であり、見当はずれな努力です。

厚労省の「検証および再発防止策」は、精神障害者みなが同事件被告人のごとき危険人物だと誤解されかねない、それこそ危険なものでした。「血で血を洗う」ならぬ「差別で差別を洗う」とでもいうべき検証結果です。

「事実の否定」が生じるのは、問題が大きすぎて人が無力を感じてしまうとき。

厚生労働省の「検証」は、障害者差別思想に基づく大量殺人という「恐竜」に対して、国家レベルで「論のすり替え」という形の「事実の否定」が起こったのだ、ととらえられるかもしれません。

総まとめ:正しい理解に基づく先行きを目指して

日本精神医学の開拓者である呉秀三は、「我が国十何万の精神病者は、この病を受けた不幸のほかに、この国に生まれた不幸をも重ねているといわなければならない」という有名な言葉を残しています。精神病・精神障害には、偏見や差別の暗い歴史がある。それが、私が本稿冒頭で「社会的に大変デリケートなテーマである」と確認した理由です。

なぜあの人は、こんな残酷なことができるのか。なぜこの人は、被害者が目の前でこんなにも苦しみを訴えているのにさらりとした顔をしているのか――。

この問いへの一つの可能性として、反社会性パーソナリティ障害を紹介しました。犯人がその患者だとしたら、被害者が心からの反省や謝罪を得られる見込みはありません。

しかし、たとえ犯人が罪を認めずとも、客観的には、その行為が犯罪であるという事実は決して動きません。犯人との二者間では人格の尊厳を回復できなかったとしても、事実として、あなたの尊厳は犯罪以前と何も変わらず完全なままです。不運にも良心なき人物による犯罪に遭ってしまった方が、この先の人生を勇気を持って歩んでいけるよう祈ります。

同時に、反社会性という類型はパーソナリティ障害10種の1つにすぎず、しかも犯罪との間に直接の関係はないことも明らかにしました。最近は興味本位で取り上げられることもある人格障害ですが、だからこそ私たちは、正しい知識を学ぶべきだと思います。そうすることで、私たちは偏見や差別といった愚行へ通ずる道ではなく、よりよい社会へつながる道を選ぶことができるからです。

精神障害を正しく理解しようとするオープンな心と、他者を認め尊重する広い心が、いまあらためて社会全体で求められている。本稿は、この指摘で結びたいと思います。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSEではブログ更新のお知らせ等していますので、フォローよろしくお願いします。(司法関係者の方は、業界関係者向けページのほうをご参照ください。)

刑事裁判の被害者参加制度の問題点 – 刑法理論を基礎の基礎から解説し、被害者参加制度が「刑事司法の劇場化」のうちに生まれた被害者にとって酷な制度であることを指摘してあります。凶悪犯罪の被害者ご本人や周囲の方も読者に想定して書いたので、どうぞご参照ください。

ポピュリズム事例集―日本の小泉政権からトランプ大統領まで – では、「刑事司法の劇場化」はどのようにして進んだのか。背景事情はこちらです。今回の記事では凶悪な事例を多数扱いましたが、調べれば調べるほど、「刑事事件のワイドショー化」はとどのつまり、ただでさえ心身が深く傷ついた犯罪被害者にしわ寄せるのだ気づかされた次第です。

<パーソナリティ障害に関する主要参考文献>

周囲の方やご自身がパーソナリティ障害かもしれないと思われている方は、必ず専門医療にて診断をお受けください。自分だけでの判断や対処は不可能です。受診に不安を感じる方のために付け加えておくと、医療の現場で「非難」や「犯人捜し」が行われることはありません。これからどうしていくかを考え、目指す方向を決めていくそうです。

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