歴代ポケモン映画:ナビ&感想集(ロケハンリスト付き!)

好きなものは個性を表し、作品のどこをどう思ったかには個性が表れます。

ポケモンというと、私はこれまでに歴代ゲームポケモンGOについて書いてきたんですけど、最も語りたかったのは、じつは映画シリーズなんですよ。

今回は、私が歴代ポケモン映画のどの作品の、どこを、どんなふうに感じて、どんなことを考えたのか、感想をつれづれなるままにつづっていこうと思います。個性は一人ひとり違って、だから世界はおもしろい。「へー、この人はこんな見方をしたんだ!」と、作品と併せて楽しんでいってください!

(本稿はファンの方を想定していますが、「これからどれを観ようかな……?」と考えている方には、性格や興味に合った作品を見つけられるよう意識して書いていますので参考にしてください。ストーリー展開や結末に触れるときは、作品ごとに<以下ネタバレを含みます>と記載するので、避けたい方はそのつど目次に戻ることをおすすめします。)

初期作品(1作目~9作目)

この記事では、歴代ポケモン映画を、初期・中期・新世代と3つの時期に分けてみました。20年を超える歴史の中では、作品の傾向や方向性が変わったタイミングがあるんですよね。それによる筆者オリジナルの区分けです。

生を問う―『ミュウツーの逆襲』

ポケモンファンの間ではもはや伝説。記念すべき第1作『ミュウツーの逆襲』が公開されたのは今をさかのぼる1998年ですが、20年以上が経ったいまでも根強い人気を誇っていますね。存在の意味を問う、歴代ポケモン映画のなかで随一の哲学的な物語で、その重厚さが、観た人の心に強烈な印象と深い感動を刻んでいます。

国内では観客動員数654万人を記録し、ポケモン映画は『ドラえもん』や『名探偵コナン』などに並ぶ人気アニメシリーズとなりました。

さらに『ミュウツーの逆襲』は海外でもセンセーションを巻き起こします。アメリカでは全米3043(最大値)の映画館で上映、興行収入は8574万4662ドル。週間興行ランキング初登場第1位は、日本映画で初の快挙でした。

公開当時の私は小学4年生。そうそう、あの時の衝撃と感動が……と言いたいところなのですが、じつは私は初期作品で『ミュウツーの逆襲』のみ劇場では観ていないのです……。だから残念ながら自分の思い出や印象には欠けるんですけど、友達の間でミュウツー人気はすごかったですね。5年生のクラスでは、林間学校のキャンプファイヤーで歌う曲に『風といっしょに』が選ばれたくらい。私も『風といっしょに』はすごく好きな曲だったし、今でもキャンプファイヤーの火影が脳裏に浮かんできて、しみじみ思い出深いです。

それから20年、すっかり大人になった私は、劇場で3Dリメイク『ミュウツーの逆襲 Evolution』に再会しました。その時の感想を。

<以下、ネタバレを含みます>

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20年歩き続けて、世界を見て、いろいろな人と出会ってきました。

そうして分かったのは、かかえている事情は本当に人それぞれで、性格や感じ方、考え方もみんな違って、一人として同じ人はいないということでした。だから、どんな人にも一概に言えることなんてほとんどない。私にできるのは、向かい合ったその人の事情にいいとか悪いとか色を付けることなく、ただそのまま受け止めることだけです。

さて、スクリーンに映し出されるミュウツーはじつに複雑な事情を抱えています。それは、作られた側の気持ちを考えない身勝手な研究で人工的に生み出され、存在自体に疑問と哀しさがあり、自分が世界にとって異質な存在のように感じられる、といったこと。しかも自らを縛り上げる研究所を破壊したその次には、人間に「道具」として使役される。残酷な過去の持ち主でもあります。

リメイクで見直した時、私は『ミュウツーの逆襲』はその一面として、サカキの思想から脱していく物語なんだなと再発見しました。昔あるファンサイトの管理人さんが「最初に出会った人間が悪すぎたんだよ」と言っていたのを覚えているんですけど、そう、問題の所在はそこなんですよね。この世に生まれてきた者は、誰しも、最初は最初に出会った者の世界観を吸収するしかありません。ミュウツーはサカキ様の「力がすべてだ」という思想が世界なのだと信じ込んでしまうけれど、やがて自分の世界を広げれば、そこから旅立つことができる。自分で選べるようになる。

「なぜ在るのか」から「どう在ろうか」へと、体験を重ねるなかで漸進的に変わっていく筋には納得です。まずはミュウツーがそうですが、コピーと本物の哀しい戦いを目の当たりにするうちに「それが生き物……?」「同じ生き物同士、勝ち負けがあるわけ?」へ変わっていくのはタケシやカスミも同じで。

苦悩を抱えた者は漸進的に歩んでいくし、過程をとび越すことはできません。たとえ正論であっても、他人が出した生への答えは無味乾燥です。だから、人間への逆襲を誓った時点のミュウツーに「なぜ在るかではなくどう在るかなんだよ」といきなりぶつけたところで、そんな正論は邪魔な異物にすぎなかったかもしれない。

ただ、もし私の送ってきた人生にひとつだけ誰にでもいえることがあるとすれば、それは「未来は常に手つかずである」ということです。過去は変えられないけれど、これからどうするか、そっちはまだ選べる、と。

『ミュウツーの逆襲』が漸進的につむいでいったラストは、そういう考えを持った私にはよくうなずけました。

……受け止め方に私の色が強く出ているとは自分でも思うんですけど、あなたは、生を問う『ミュウツーの逆襲』からどんなことを感じましたか?

他者との共存―『ルギア爆誕』

第2作目『ルギア爆誕』は、前年に劣らない重厚なテーマに開放的な冒険活劇が組み合わさった初期の名作です。ポケモンファンの間では『ミュウツーの逆襲』のインパクトからやや陰に隠れてしまったのかなと思いますが、私は最高の作品として挙げられてもおかしくない作品だと思います。

1~3作目『結晶塔の帝王』は首藤剛志さんによる脚本で(3作目は園田英樹さんと共同)、内面性が濃く、ややダークな雰囲気を特徴としています。古くからのファンにはこうした作風と相性が良くて、首藤さんの三作がたまらなく好き、という人も多いようですね。

『ルギア爆誕』が挑んだテーマは「共存」。『ミュウツーの逆襲』と方向性は違いますが、2作目も重厚なテーマに挑んでいます。5年生になった私は、映画館という新世界へ。なので『ルギア爆誕』は、巨大なスクリーンや音響の迫力、初めて座ったシートの弾力や、席の横にドリンクホルダーがついている驚きなんかとともに記憶しています。

<以下、ネタバレを含みます>

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悪役・ジラルダンは、キャラクターとして絶妙なんですよね。

というのも、彼はあくまでただのコレクター。犯罪組織・ロケット団のようにものを奪ったり人を傷つけたりするような人ではありません。

だけど、問題なかったはずのコレクションも行き過ぎて、その反射効として世界を破壊するならそれでもいいんですか、ある少年はポケモンマスターを目指す旅の途中で、いてもたってもいられず集まってきた地面を埋め尽くすポケモン一人ひとりにもそれぞれの生活があるはずで、そういうふうに無数の命がそれぞれ生きているこの世界が天変地異にみまわれてもまだ問題ないと言えるんですか、と、そういう問いが浮上してくる。思わずうなる問題設定です。

作中のキーワード「バランス」という言葉の通り、これはビシッと線引きできる問いではありません。その上で、画一的な線引きはできないかもしれないけれど、大勢の異なる者が同じ世界で生きていくには「バランス」の調整は常に必要になってくる。

サトシのママが特別な存在感を放つのもこの作品です。世界は広いといえども、世界を救ってしかられる主人公はめずらしいですよね。サトシママの「あなたの世界は終わってしまう」は、人の個性によって、また同じ人が見ても、その時々によって、驚き、ほろ苦さ、感動……感想や受ける印象がかなり違ったりします。

多角的に見られるストーリーで、観るたびに新しい発見があったり違う感じ方をしたりできる。開放的な作風でありながら、すごく考えさせられる。『ルギア爆誕』はそういう持ち味の大作だと思います。

追いつけ、追い越せ。成長期だった私と、毎年テーマに挑戦するポケモン映画

以上『ミュウツーの逆襲』や『ルギア爆誕』のように、初期のポケモン映画は、毎年一つのテーマにタックルしていく挑戦的なシリーズでした。

テーマ性がある分読解力や知識を要するので、はっきり言えば小さい子にはむずかしい内容。上映が終わった劇場の前で、小さい子たちはバタバタ走り回っているのに、付き添いの親が「感動した……」と涙を流していたり、放心していたりするのは、あのころ夏の風物詩となっていたものでした。

その時期、私はちょうど成長期。学年とともに、読解力が右肩上がりにぐんぐん上がっていきました。だから同じ作品を次の夏に見返すと、作品のテーマや描いていること、制作者の意図や思いが、手に取るように分かるようになっていたのです。

「二回目だからじゃないの?」というと、まぁ多少はそれもあったかもしれませんが、全体としてはそうではなく、一年のうちに自分の基礎的な理解力が底上げされていたんですよ。たとえて言うなら、あなたが町に立って、風景を見ていて、おもむろに「視力2.0になれるメガネ」をかけたらどうでしょう。――世界が変わるじゃないですか。「この葉っぱには葉脈がこんなふうに伸びていたのか!」「あっちの看板の字が読める……っていうか、あの看板にはあんな細かい字でデザイン会社の名前が書いてあったんだ」「むこうにうっすら山並みが見えるから、この町って案外山から遠くなかったんだ……」私にとって、夏に観たポケモン映画を一年後にテレビで見なおすのは、そういう劇的な体験でした。同じ作品がより鮮明に、より細かく、より広い範囲が見えるようになっていて、一年間での自分の成長を実感できたのです。

最近の医学研究では「脳細胞のピークは16歳くらいであとはどんどん減っていく」という説はくつがえりつつあって、新説によれば「人は一生成長できる」んだそうですね。そういわれてみれば今の私は5年前の私では夢にも見られないほど多くのことを知ってるし、この新説が本当だったらうれしい限りなんですけど、いや、それでもポケモン映画の背中を追った成長期とは違うんだろうなぁと思います。大人になった私は読解力はすでに完成しているわけで、新しいことにチャレンジすれば引き出しが増えるよ、と、そこ止まり。自分が根底からレベルアップするあの夏の輝きは、記憶にセーブしてあるのみ。もう体験はできないでしょう。

難しいテーマに次々挑戦する初期ポケモン映画の気風は、私の性格にも合っていたんだと思います。森羅万象のどういう物事に興味をもつかはみんなバラバラ、その人の個性が表れますが、いま自分の遍歴をふり返って分析すると、私の興味関心はいつも「現実社会の物事がどう動いているのか」にあるんですよね。いまあることの背景とか理由、文脈にすぐ目がいくのです。もっとも小学生で「現実社会」とか言ってしまうと大げさなんですけど、たとえば私は趣味のゲームひとつをとっても、ハードメーカーとソフトメーカーの関係とか、シェア争いとか、そういう話に好奇心をくすぐられてはゲーム雑誌をおもしろがったりしていました。こういう性格の私にとって、ポケモン映画は「現実世界への扉」を毎年次々用意してくれる存在だったのです。「存在の意味」「共存」「親子」ときて、「ほほう、今年のテーマは自然破壊か……」というふうに。

個性は人それぞれ。同じ作品を観てどこをどう思ったかには、その人の個性が表れます。

ポケモン映画にどんな要素を求めるかも、人によって違います。たとえば、かなり抽象化して解釈する私とは違って、物語それ自体のドラマや言葉を事細かに追っていく人。毎週テレビシリーズを観ていて、夏の劇場版をサトシたちおなじみの面々がくり広げるスペシャル版として楽しみにしている人。あるいは「ポケモンがかわいくカッコよく撮れていることが大事だ!」という人……などなど。

あなたはポケモン映画の「どんなところを」「どんなふうに」楽しんでいますか?

美術と音楽が織りなす「綺麗な作品」―『七夜の願い星』

そんなふうにストーリーを理解しようとがんばっていた私が、ちょっと違う点に感動したのが6作目『七夜の願い星 ジラーチ』でした。前年の『水の都の護神 ラティアスとラティオス』もそうですが、息をのむほど美麗な風景が際立つ作品です。

まるで自分もスクリーンの中に立っているかのような、千年彗星の深い夜空。まるでシーンに合わせて生演奏しているかのような音楽。サトシたちと並行して大人たちの話が展開するストーリーに美術・音楽が織りこまれてひとつになった『七夜の願い星』は、「綺麗な作品」だと思います。

<以下ネタバレを含みます>

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まずは美術。物語後半の舞台・ファウンスのモデルは中国の世界自然遺産・武陵源だということで、スクリーンいっぱいに豊かな緑と高低差のある絶景が広がります。

劇場パンフレットによれば、サトシがフライゴンに乗ってメタ・グラードンの下をくぐるシーンは、CGスタッフのすごいチームワークのたまものだそうですね。私はそういう技術的なことはあまりよくわからないんですけど、高低差のある舞台設定は存分に活かされています。単純な「迫力」とも「爽快」とも一味違うなめらかな飛行シーンは、世界広しといえどもこの作品独自だと思います。

そこに織り込まれるのが音楽です。バトラーがカプセルをお手玉して落としてしまい、ヒヤッとする瞬間、音楽ではピアノで不協和音が鳴るんですよ。どうなったの……とカメラが下をのぞきこむと、サトシが下でナイスキャッチしていて、そこで音楽が平常に戻るんです。サウンドトラックの「ラストバトル!!」という曲なんですけど、これを聞いただけでシーンが目の前によみがえってきます。

2014年に六本木ヒルズで開かれたポケモン映画の展覧会で初めて知って「へぇ、おもしろいな」と思ったんですけど、アニメの絵を描いている人にとってストップウォッチは絶対の必需品で、音楽に合わせて1秒に満たないタイミングを決めていくそうですね。その点、ジラーチの年は格別です。スクリーンの前にオーケストラピットがあって、シーンに合わせて作曲の宮崎慎二さんが指揮棒をふっているのでは、と思えてくるほどのなじみ方。

そしてエンディング。『小さきもの』は歴代テーマ曲のなかでも名曲だと思うんですけど、作品の深い夜空によく合うぶ厚い歌声、そして絵との連動は感動ものでした。画面いっぱいに黄色い花畑が広がるところなんかはビジュアルとして印象深く、とくに歌詞にぴったり合わせてわたげがふわり舞い上がるところなんかは鳥肌が立ちます。

『七夜の願い星』は、ストーリーに美術と音楽が縦糸・横糸としっかり織り込まれた錦のような作品。他にはない特別な、忘れ得ぬ印象があります。

『裂空の訪問者』の好きなところ

私にとって、歴代ポケモン映画でいちばん「好き」といったら、もしかしたら『裂空の訪問者 デオキシス』かもしれません。昔見たファンサイトでも、けっこうな人気作に挙がっていたと思います。

本作最大の特徴は、登場キャラクターの多さ。サトシたち一行とラルースシティの少年・トオイ、そして居合わせた個性豊かなトレーナーたちが、同じ危機に直面して話し合ったり、手分けしたり、いっしょに取り組んだりする、ポケモン映画ではちょっと異色な作品です。劇場パンフレットで湯山監督が、

今までの映画ではあまり描かれることのなかった、同年代の子供同士の様々な葛藤や友情も、今回の映画の中でやりたかった大きなテーマです。

と語っている通りの仕上がりです。表面的なタッチは明るく、根底はしっかり考えられ、心が広いストーリーには、脚本・園田さんの良さがよく出ていると思います。

<以下、ネタバレを含みます>

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「これはおもしろい」とビビッとくると、私はそのおもしろさの秘密を解き明かしたくなるんですよ。自分はデオキシスの話のどこにどうひきつけられるんだろう――そう考えて他の作品と比較しているうちに気づきました。そうだ、歴代ポケモン映画のなかで、『裂空の訪問者』は「悪不在の作品」なんだ、と。

誰が悪いとか、野望だとか、人を傷つけようとしているとか、そういう話じゃないんですよね。その意味では、すごくおだやかな作風で。「悪に立ち向かう」ストーリーでないからこそ、本作のテーマである「他者とのかかわり」は際立ちます。

……というより、「異なる者との出会い」というテーマを描くなら、「悪」が存在するのはふさわしくありません。なぜかといえば、「自分と異なる者は悪だ」というのは、人類きっての危険な思考であり思想ではありませんか。

そしてやっぱり「友情」というテーマ。劇場パンフレットで、サトシ役の松本梨香さんがこう話しているのにはうなずきます。

「友だち」「仲間」「友情」と口にするのは簡単だけど、「本当の友だち、仲間、友情」ってなんだろう?果たして自分自身はちゃんと分かっているのだろうか?と今回サトシを演じながら改めて考えさせられました。みんなはこの映画を見て、どんな風に思うのだろうか・・・

そうそう、こういう余韻のある作品なんですよね。

それでは、このまたとない機会に、私が「この映画を見て、どんな風に思」ったのか、感想を語るとしましょう。

私の胸に深い感動を残し、そしていまでも考えさせられるのは、裂空からの訪問者・デオキシスは最後の最後まで異質な他者であった、ということです。

トオイとその「友達」は、言葉を交わすことは最後まで一度もありません。デオキシスは自分と違う世界で生きている存在で、これまでどこでどうしていて、これからどこへ行くのかすら知らない。でも、見送りながら「どこへ行くんだろう」とつぶやくトオイは――笑顔なんですよね。

普通、友情を描く作品というのは、交流を深め、互いをよく理解し、関係性を深める方向に進むじゃないですか。だけどポケモン映画『裂空の訪問者』は、普通の友情物語とは別の、独自に立てたテーマを描いているんですよね。物語序盤、トオイの友達がキラキラ光るオーロラの玉であっても、「そんなものを友達にしているなんてさびしいね」という含意はなくて、ちゃんと心の交流があり、友情で結ばれている様子として描かれます。ではそれが作中の事件を通して我々が思うような友情に発展するのかというと、そうではなく、よく分からない相手のままで離れ離れになる。だけどその結末はもうこれきりの悲しい別れだとかそういう意味ではなく、なお友達ではあり続けるんですよね。光るだけの存在は本当の友達でなかったとか、デオキシスが宇宙へ行ってしまったら友情は消えてしまうということではなく、「そういう形の友達」なんだよなぁ、と。

友情のあり方は「こうでなきゃならない」と一つの型が決まっているわけではなく、いろんな形があっていいんだ。公開当時の私にはそんなふうに受け取って感動したのです。いまこうしてサウンドトラックをかけて思い返しても、作品全体の懐の深さが胸にじーんときます。

SFとしてのおもしろさも本作のだいごみでした。せっかくのハイテクシティも電気が止まってはどうにもならず、バタバタ足で駆けまわり、便利だったはずのロボットを壊して食べ物を確保し、サバイバルをするはめになる皮肉。

細かい描写も凝っていました。たとえばアメタマが頭のアンテナ(?)にピクッときて物音に誰より早く気が付いたりと、種の特性が描き分けられているところはポケモンファンにはうれしいポイントなんじゃないでしょうか。プラマイがぴょーんとジャンプするところなんかもう抱きとめたくなるくらい愛らしくて、しかもつくったかわいさではなくこの町で暮らしている感じがよく出た自然なかわいさなんで、かわいいものが大好きな私には目の保養になります。

『裂空の訪問者』はファンの間でも人気ある作品ですが、「ここいいな」とか、「あそこおもしろかったな」と感じるポイントは、歴代他の作品に増して人それぞれだと思うんですよ。サバイバルでの協力やからみ合い、そして何より出会いを通して変わっていくトオイ君の姿に感動した、という人も多いのではないでしょうか。

作風はおだやかで、さらに短編一体になったためかわいさもふんだんな『裂空の訪問者』ですが、根底のところは非常によく考えられているので、私は見た目に反して歴代ポケモン映画中指折りに重厚な作品だと思っています。

『波導の勇者』の独自性はここにあり!

歴代でも指折りに人気の高い『波導の勇者 ルカリオ』は、大昔に戦乱を止めたという伝説の勇者・アーロンをめぐる、おとぎ話風の物語です。

湯山監督が劇場パンフレット冒頭で

私たちは普段は意識することはほとんどありませんが、歴史という時間の積み重ねの上に今を生きています。そんな大いなる時間の積み重ねと、今を生きる者との出会い…それが今回の映画のテーマです。

と語っている通り、過去の人の思いを探求する、胸を打つストーリー。感動という方向性では歴代随一の作品だと思います。

私は『波導の勇者』を劇場で鑑賞した直後から、ほかのポケモン映画となにかが違うな、と感じていました。何かが違う、どこだろうな、目を凝らし続け、ついに「これだ」とヒットしたのがこれ。

この年だけ、色彩が非現実的だ。

ポスターとかパッケージでも少し分かるので、ぜひ注目してみてください。

描かれる風景が現実的なのは、他の映画とは違う、ポケモンシリーズの特徴でした。これを可能にしたのは、ロケハンです。監督をはじめとする制作チームで、『水の都の護神』はイタリアのベネチア、などとスケッチ旅行に出かけ、実際にその地を歩きながらイメージをふくらませた、というのがリアリティある風景の秘密だったんですね。

それが、ルカリオの年だけは色が全体的に青みがかっていて、赤でも緑でも現実にはありえないくらいポップな色味をしているんですよ。もっとも、この年もスタッフさんはドイツのノイシュヴァンシュタイン城へロケハンに行ったということで、オルドラン城はそれ通りのリアリティあるデザインなんですけど、色彩は現実離れしたふうに設定されている。おとぎ話風のストーリーだから非現実的な色彩にしたのかな、と私は勝手に解釈しています。

音楽は、ポケモン映画ではめずらしい、ドラムをきかせた重いロックまじり。なので音としてはけっこう現代的だと思うんですけど、それが古代の勇者をもりたてるのだから、音楽って深いなと思います。

ストーリーの感想は……無駄な言葉などないほうがいいでしょう。勇者アーロンを演じた山寺宏一さんが、劇場パンフレットで

世界の危機が迫ったその時、アーロンはどう考え、何をしたのか?君自身の目で確かめ、そして心で感じてください!!

と語っていますが、まさにそれが本作の面白さで、胸にズンとくるところなんだと思います。

歴代ポケモン映画ロケハンリスト!

と、『波導の勇者』のところで触れた通り、その絵単独でも価値があるほどのリアリティある風景が描かれているのは、初期から中期のポケモン映画の特筆事項でした。

ファンのみなさんは楽しみにしているはず。そこでこの度、歴代ポケモン映画のロケハン先をリスト化しました!

5作目『水の都の護神 ラティアスとラティオス』:イタリアのベネチア

6作目『七夜の願い星 ジラーチ』:中国の武陵源

7作目『裂空の訪問者 デオキシス』:カナダのバンクーバー(風力発電の風車はお台場だそう。)

8作目『波導の勇者 ルカリオ』:ドイツのノイシュヴァンシュタイン城

9作目『蒼海の王子 マナフィ』:イタリアのナポリ、カプリ島、古代ローマ遺跡など

10作目『ディアルガvsパルキアvsダークライ』:スペインのバルセロナなど

11作目『ギラティナと氷空の花束シェイミ』:ノルウェーのフィヨルド

12作目『アルセウス 超克の時空へ』:ギリシアのメテオラ

13作目『幻影の覇者 ゾロアーク』:オランダとベルギー

14作目『ビクティニと黒き英雄ゼクロム/白き英雄レシラム』:フランスのニースなど

15作目『キュレムvs聖剣士ケルディオ』:(ロケハンやモデルはなし。公式サイトのインタビューによれば、一部はメキシコの製鉄所が着想元になっているそう。)

16作目『神速のゲノセクト ミュウツー覚醒』:アメリカのニューヨーク

17作目『破壊の繭とディアンシー』:カナダのオタワ

18作目『光輪の超魔人フーパ』:アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ

19作目『ボルケニオンと機功のマギアナ』:北海道の十勝など

ここまで19作を対象に行われた投票企画「推しポケモン映画ナンバーワンはキミにきめた!」で見事ナンバーワンに選ばれたのは、『水の都の護神』でした。やはり、あの美麗な映像とアコーディオンの音色で描かれた、エメラルドに輝く水の都が人気を集めているようですね。

まだ見ぬ世界の町をスクリーンからのぞけるのは私の楽しみのひとつだったし、批評をするにしても、歴代ポケモンシリーズが描いた風景には他のどんな映画にもない独自さがあると思います。「美しい映像」を見どころにした映画だったら、世の中ほかにもいろいろあるじゃないですか。でも、寒いところ、暑いところ、澄んだ空気、湿って重たい空気、建築や人々の暮らし……その土地の空気まで感じられるポケモン映画の美術は、実地取材のたまものだと思います。「美麗な絵」と一口に言ってもいろんな方向性があるのだと教えてくれます。

あなたは気が付きましたか? ポケモン映画では、空の色が毎年違うことに……。

中期(10作目~20作目)

以上のように毎年テーマ性のある作品を届けていたポケモン映画ですが、転機がおとずれたのは10年目。ここで作風が変わるのです。

筆の迷い

作者に迷いがあれば、作品に必ず表れます。

9作目『蒼海の王子 マナフィ』はそれまでと違って現実世界の大きなテーマに挑戦することなく、スクリーンのなかだけで完結するストーリーをきっちりまとめた感じの作品だったんですけど、その翌年、10周年をむかえたころから、ポケモン映画シリーズは筆の迷いがにじみ出た、苦しい作品が続きます

芸術作品の「出来」と個人的な「合う合わない」は別物です。このことには以前『千と千尋の神隠し』の論評を書いた時にも触れましたね。近ごろは、ポケモンに限らず、アマゾンの商品レビューで「意外性のあるストーリー」を無条件に良いことのように書いていたり、逆に「先が読めてしまうのでこの映画は出来がいまひとつ」なんて堂々と言い放っている人を見るんですけど、それは単にその人がスリリングな展開に心惹かれる性格の持ち主だというだけで、表現者全員が「ドッキリコンテスト出場選手」や「推理ゲーム提供者」なわけではありません。意外性が出来の良し悪しを左右するのはサスペンスというジャンル内限定のことであって、その境から一歩外へ踏み出したら、客を驚かせるなんていうのはどちらかといえば芸術性を損なう要素だと見られるくらい。知見あるプロの映画ライターになれば、「先が読めてしまう」などと書くのは推理もので犯人が簡単に分かってしまったとき以外、まずありません(インターネットによってプロでなくても公の場で発言できるようになったのは、必ずしも本人や社会に幸せをもたらすわけではない、そのいい例ですね……)。作品をどういう方向にするかは作者の自由で、受け取る側の感性は人それぞれ。芸術作品と向き合うときには、「自分の好みや期待には合わないけど出来はいい」と結論するのはごく普通にあることです。

ただ10作目を越えたあたりのポケモン映画は、作風が私の感性や期待するものに合わなかったということではなく、年によってはストーリーが物語として成り立っていなかったりするんですよ。

では、そのことを制作スタッフはどう思っていたのか。あれほどの作品を作り上げてきたプロの映画制作者なら、気付いていないはずがありません。前年までは制作中にテレビや公式サイトでいろいろ話していた湯山監督がこの時期からあまり表に出てこなくなったところをみると、ストーリーがガタガタなことは、ファンや私から言われるまでもなく、湯山監督自身がいちばんよく分かっていたのだと思います。それはもう、想像しただけで泣けてくるくらい痛切に……。しかしそれでも、映画というのはスタッフロールに載っているあんなたくさんの人たちと制作するのだから、監督は立場上「自信がありません」なんて言えません。せっせと絵を描いてくれているスタッフさんに向かって「じつはストーリーが成り立っていないんですよ」なんてとてもじゃないけど言えないし、前売り券を買ったファンを前にしたら「どうしよう、もう隠れたい……」と本心がブルブル震えていたとしても「よくできました」「絶対おもしろいです」と胸を張らなきゃならない。私は映画の途中でスクリーンに向かって「湯山監督がんばって!」と心で叫んだこともあるし、「もう見てられない……」と胸がはりさけそうになったこともあります。

立場だけではありません。ポケモン映画は毎年夏公開のシリーズもので、しかもポケモンというブランドのマルチメディア展開の一部門としても位置づけられます。一般の映画監督だったら「今アイデアをあたためている最中なんですよ」とニヤッとして関係者の期待を高め、裏でチクチク構想を練りに練り、たとえばジェームズ・キャメロン監督は大作『アバター』の構想に14年かけた、なんていう話も聞きますけど、ポケモン映画の場合はそうはいきません。たとえアイデアがまとまっていなくても、制作期間は1年ぽっきり。夏には90分のマスターテープを提出しなくてはならない。

表現者には、誰しもプライドがあります。空中分解したと自覚のある「それ」を自分たちの「作品」として世に送り出す監督や脚本、スタッフの方々がどれほどの葛藤にもだえていたか、それを思うだけで私の目には涙がにじんできます。

このころの私

作品に湯山監督の苦渋がにじみ出て、夏の劇場前から涙を流す親の姿が消えたちょうどそのころ、私のほうも事情が変わりつつありました。大きくなり忙しくなったのもありますが、このころの私は個人的にいろいろ事情を抱えていたため、それまでしてきた諸々からも遠ざかることを余儀なくされます。成長をともにしてきたポケモン映画も、このころを境に飛び石状になりました。

20周年、集大成の『キミにきめた!』

このように筆が迷いに迷った時期以降、ポケモン映画シリーズは、私が飛び石状に知っている限りでは、以前のように難しいテーマへ挑戦するのをやめ、話の規模をこぢんまりさせつつ内部をしっかりまとめたような作品を重ねたようです。

そうやって苦しい時期をなんとか乗り越え、ポケモン映画は2017年、めでたく20周年をむかえます。

そんな時、私は衝撃の報を耳にはさんだんですよ。なにも、あの湯山邦彦監督が引退するとかなんとか……。

20年。時の手ざわりがありました。20年の時は経過したのであって、もう戻らず、一つの時代が終わるのだ、と。

といっても、私が感じたのは古き良き時代を失くしていく悲哀ではありませんでした。当時私はようやく体勢を立て直し、とうとう地平に光明を見た、そんなころ。――今こうして筆を運んでいると、あの時私は、20周年で区切りをつけて新時代へ進まんとするポケモン映画に、過去を乗り越え新世界へ乗りこまんと意気込む自分自身を重ねていたのかもしれません。

さて、これまでのポケモン映画はテレビアニメと地続きでしたが(だからテレビのほうを見ていない私は映画館で「サトシって今こんな人たちと旅してるんだ……」と驚いたり、部分的についていけなかったりした)、『キミにきめた!』はサトシの旅立ちをもう一度描きなおした作品で、いわばパラレルワールドのような設定です。

一本の作品として抜群の完成度を誇る、20周年にして新境地の作品でした。

<以下、ネタバレを含みます>

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とりわけ私の印象に残っているのが、ポケモンのいない現実世界と対比する「夢」のシーンがはさまることです。表現としてはいわゆる「芸術志向の映画」の趣向を、まさかポケモンシリーズが用いてくるとは……!

このころには私はすっかり大人になって、読解力は完成し、芸術にも、映画にも、ある程度くわしくなっていました。『ディアルガvsパルキアvsダークライ』あたりの苦渋がにじみ出ていたころ、ファンの間で、「東宝の怪獣映画」という文脈が影響しているのでは、と指摘されていたのが思い出されます。そういう「大怪獣が暴れる」趣向の映画を作っていたメンバーが、少し不思議で、ちょっとシュールな芸術表現でくるのは、20年の集大成にしてはじめてだったんですよね。こんな隠れ特性をもっていたなんて……! ポケモンの世界を楽しみたいタイプのファンはぎょっとしたかもしれないと思うんですけど、芸術志向といっても意味分からんと首をかしげるところまではいっていないし、表現のバリエーションが広がるという点で私は感動しました。「底力を見た!」と思いましたね。

そしてクライマックス、ピカチュウがね、うん。

しぼりだした言葉、心に響いてくる思い――劇場パンフレットのインタビューでピカチュウ役の大谷育江さんが「禁断の場所に踏み込むみたいな感じ」と話していますけど……涙があふれ出しました。

20年目にして、なんと新たな可能性を見せてくれた『キミにきめた!』。湯山監督最後の作品(アニメーションスーパーバイザーとしては制作に残り、『ミュウツーの逆襲 Evolution』でもう一度監督を務めているのですが)は、晴れ晴れとして前向きでした。シネマトゥデイによれば、発声可能上映に来場した湯山監督に”かつての子どもたち”から感謝の声が上がったということですが……そう、私も同じ気持ちです。

新世代(21作目~)

21年目、ポケモン映画は新監督をむかえ、新体制で、新たな時代に突入しました。

新監督は、キミにきめた!―『みんなの物語』

湯山前監督からメガホンを受け継いだのは、矢嶋哲生新監督。

タイトルロゴには『キミにきめた!』と同じものを使用して歴史を引き継ぐ姿勢を打ち出しながら、パラレルワールド設定により独自の作品で打って出る、海風順風な新世代の船出でした。

安定した実力を感じます。一本の作品としてきっちり仕上がっている。

美術には新監督の方向性が出ていますね。前世代のロケハンによる現実的な背景や色彩はなくなりましたが、美麗でさわやかな映像、そしてスクリーンの端まで動いて彩られているところがいかにもアニメ映画監督って感じですばらしいです。もともとポケモンシリーズは絶景にせよアクションにせよ絵としてキマったカットが多くていいなと思っていたんですけど、それが進化して、ぐんと大きくなった感じです。

そして「ポケモン」として観ているファンにとって涙モノなのは、ポケモン各種の動きや習性が描き分けられていることではないでしょうか。一例なんですけど、町の人のワタッコが両手をパタパタさせてひょいひょいと宙に浮かんで、落ちてくるとまたひょいひょいと浮かぶ、ああいう映像に愛を感じるんですよ。

『みんなの物語』は美麗で、気合いが入っていて、安心して観ていられる、土台がしっかり作られた作品でした。矢嶋監督は『ココ』でも監督を務め、その安定感に熟達の感を重ねています。

結びに―歩き続けてどこまでも行こう

20周年にあたり、シネマトゥデイのインタビューで湯山前監督は

20周年ということで、10歳だった子も30歳になりました。(中略)一番初めに「ポケモン」を観た時に自分の中で反応した何かを、この映画で再発見していただければなと思います。

と答えています。

『ミュウツーの逆襲』が公開された時、私は小学4年生。私が「10歳だった子」なのです。

大人になり、幅広い知識を身に付け、世界を見てまわり、様々な人と出会い、自分の人生を歩くようになりました。毎年夏の劇場版を「現実社会への扉」にして、作っている人たちの背中を追いかけていたあのころとは変わり、今は大人として、さらには自らも表現者として、作品に向かい合っています。

今考えていること

表現者にとって、「エンタメか芸術か」は永遠のテーマです。

一般に、エンタメのシリーズものであることは、作者の自由を妨げる要因として数えられます。他人によってすでに作られた設定、ファンの期待に応える必要、そして商業的な事情……。

しかし、本当にそれだけだろうか?

こうして歴代作品をふり返っていくと、ポケモン映画には、なまじな一般作品・芸術作品を凌駕する強靭な表現や高い独自性があるのでハッとさせられます。

異質な者との友情を扱った『裂空の訪問者』や「英雄」を描いた『波導の勇者』などはそれが如実です。ゲーム原作のアニメシリーズと思えば気を抜いてさりげなく観てしまうでしょうが、もし、同じテーマを、一般作品で論じようとしたらどうでしょう。これ、泥沼にはまりかねないテーマなんですよ。ポケモンという枠がなければ話はああはならないし、生まれようがなかったストーリー。一般社会に位置付けたら、そのオリジナリティは、かえって、途方もないレベルに達していると思います。

新世代の『ココ』も圧巻でした。「狼に育てられた少年」ではでき得ない物語。中身の濃さと充実度に感服します。

あらためて考えてみれば、一般作なら作者が自由に設定できるようでいて、実際には、一般社会には一般社会の文脈があるんですよね。社会の出来事、思想の潮流……。他人が作った設定や事情はなくても、こちらには応えたり、すり合わせたりしなければならない。この点、シリーズものの枠組みがあれば、一般社会の文脈からは隔絶されます。そちらを考慮しなくてよくなるので、かえって創作の自由が確保される場合もある。今の私は、そんなことを考えました。

エンタメ、芸術。どんな立場を選んだとしても、結局は、描きたいことはあるか、誠実に取り組めるか、合理的に思考したか、そして、見た人聞いた人へ届けられるプラスのエネルギーを持っているか――作品が人の心ゆさぶるかどうかは、そこで決まるのだと思います。

ただいま、ポケモン。

好きなものは個性を表し、作品のどこをどう思ったかには個性が表れます。

私は、いつもいつでもおもしろいものを探しているような人間です。興味関心の対象は現実社会。物事の背景や文脈に目がいっては、知識や視点をコレクションして、自分の体系をネットワーク状に押し広げる――そういうことに無上の喜びを感じます。

多趣味だから人生は楽しいし、この個性は人生に活かすべきだと考えたからこうしてブログを作って、うんと幅広いテーマを執筆できるのは圧倒的な強みになっているからいいんですけど、新しいものを次から次にキャッチしていればオーバーヒートぎみになることも……。四六時中情報過多で、頭が休むひまがないんですよ。

こういう性格の私にとって、ポケモン映画はいまでは純粋な趣味、心から休めるひとときになりました(とはいっても結局ブログに書いているんですけどね……だって、話したくなるじゃないですか)。「これはポケモンの世界だ」と決め込んで劇場の座席に腰を下ろせば、現実社会への好奇心を一時停止できる。かつては社会へ出ていく扉だった真夏のスクリーンを、いまは社会の側からくぐるようになったのだから、なんとも感慨深いです。

こうして私は、ゆったり落ち着けるわが家に帰ってきました。ただいま、ポケモン。

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