植松聖「神のお告げ」の結末―津久井やまゆり園事件裁判に思うこと

戦後最悪の大量殺人事件、津久井やまゆり園事件。2020年1月に、植松聖(さとし)被告人の裁判が始まりました。

私は以前、パーソナリティ障害と犯罪や刑事責任能力の関係を解説した時にこの事件に触れています。今回は、近年で最悪とされる同事件そのものに焦点をしぼり、私の視点からいくつか指摘をしたいと思います。

事件と裁判の概要

まずはかんたんに、相模原障害者施設殺傷事件(津久井やまゆり園事件)の要点を確認しておきます。


2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の知的障害者施設・津久井やまゆり園で、元職員の男が入所者19人を殺害、入所者・職員の合計26人に重軽傷を負わせた。この事件は殺害人数が戦後最大であることのみならず、被告人の障害者差別思想に基づくという点で世を震撼させた。

2020年1月に始まった裁判では、被告人の責任能力が争われている。初公判においては、被告人が自分の指をかみ切ろうとするなど奇行を演じたことも話題となった。

さらに、裁判においては遺族の傍聴席と一般の傍聴席の間に遮へい板が設けられるという異例の対応がとられた。遺族が一般の傍聴者から姿を見られるのを防ぐためだという。この事件では、警察が遺族への配慮だとして例外的に被害者名を匿名で発表したことにも賛否の議論が巻き起こっていた。


以下、指摘などを書いていきます。感情論に陥るのを避けるため、多くの箇所で表現はとても抑制的にしてありますが、内容はよく煮つめておいたので、しかと味わってもらえれば筆者としてうれしいです。

「自分の意見が間違っている可能性」を考慮しない「神」

「自分は絶対に正しい」と信じ込むのは、人類が取り返しのつかない過ちを犯す定番パターンです。歴史をふり返れば、人類が「神」の名のもとにしたことといえば、じつに身勝手な言い分で戦争を仕掛け、先住民を虐殺し、生き残りに対して人ならざる扱いをした……などといった残虐行為ばかり。

どんな意見であれ、絶対に正しいと言い切ることはできません。であるなら、常に「たとえ自分の意見が間違っていたとしても他人を傷つけない選択肢」を選ぶのが賢明です。社会で「傷つく人が出ない選択肢を選ぶ」原理が守られている限り、ある属性の人々をターゲットとした攻撃は遠のくといっていいでしょう。

さて、植松聖被告人は「障害者は殺したほうがいい」といった主張を続けていますが、「もしその意見が間違っていたら」と考えた形跡はありません。人命を奪うという行為は取り返しがつかないにもかかわらず、です。

人が自分の意見が誤っている「可能性」を否定して「この意見は絶対に正しい」と主張しようとすれば、往々にしてなんらかの超越的価値を持ち出さざるを得なくなります。その超越的価値にはいろんなバリエーションがありますが――特定の国や民族の名前、目標の類、あるいはその位置に掲げられている言葉が「税金」などということもある――「神がこう言ったからだ」「私は神から使命を授かっている」「自分は普通の人と違う特別な存在だ」などといった「目に見えない世界」を持ち出して正当化するのはひとつの定番です。

植松聖被告人もご多分にもれず、犯行前、「神のお告げだ」「自分は選ばれた人間」「伝説の指導者」などと話し、友人たちの間で「あいつはヤバい」とささやかれていたといいます。

「神のお告げを聞いた」とか「自分は(神に)選ばれた特別な存在だ」などという考えは、一般的には「あの人ヤバい」と思われて然りでしょうが、内心にとどまっている限りはまったく問題ありません。なぜなら、ただ心の中で思っているだけなら誰にも危害が加わらないからです。

ただし、行動に移すようになれば問題になってきます。たとえば「自分は選ばれた人間だからお前らとは違う」という考えに基づいて友人をないがしろにするなら当然摩擦が起こってくるだろうし、「神のお告げだから」といって人を刺しにかかるなら、相手にとっては迷惑千万、ただの”自己中”。内心にとどまっている限りは絶対的に自由だった「自分は特別な存在だ」うんぬんは、他人には通用しません。

「自由は、相手の自由が始まるところで終わる」のです。

もう一歩踏み込んでおきましょうか。すでに犯行後の植松にとっては、「自分の意見が間違っている可能性」を考慮に入れるのは恐怖である、という一つの推測が成り立ちます。犯行の前提が崩れるからです。もし「障害者は存在すべきでない」という考えが間違っていたなら、自分のしたことはなんだったというのか? 意味ないことのために、こんな高い代償を払ったのか? 「大義」が間違いなら「ただの大量殺人」になってしまうではないか? 実際客観的にはそうなのですが、その現実を理解し受け入れられる人間ならそもそもこんな事件を起こさないでしょう。「自分は正しい」「それは必要だった」「それは良いことだった」という考えに是が非でもしがみついて、相手を傷つける発言をくり返すのは、犯罪の加害者にはよくある習性だといえるかもしれません。撤回が早ければ早いほどよいのは言うまでもないのですが。

「私は『神』だ」あるいは「私は『神』のために働いている」と信じ込み、ある属性の人々に「敵」というレッテルを貼って、容赦なく攻撃する――独善と傲慢に彩られる「聖戦の論理」こそが人類にとって本当の危険な「敵」なのだ、と学ぶべきです。

「意思疎通ができない」と「しゃべれない」は同義ではない

一つ、人間の存在価値には関係しない細かな部分ですが、表現者としてクリアにしておきたい点があります。

犯行時被告人に連れ回された施設職員の供述調書によれば、植松聖被告人は入所者を見つけるたび「しゃべれるのか」を確認しながら襲撃したといいます。彼は「意思疎通ができない人は殺したほうがいい」といった主張を続けています。

しかし、彼が「しゃべれない」と「意思疎通ができない」をいわば同義語として互換しているのは、明らかな誤りです。

なぜなら、「意思疎通の方法」には非言語コミュニケーションを含めたじつに様々なものがあり、「言語」はその一つにすぎず、さらに「話す」のはそのまた一つにすぎないからです。このことを図解しました。

意思疎通の方法で非言語コミュニケーション、言語、話すことの関係を示したベン図

やわらかくニコッとした。机をバシンとたたいた。体をこわばらせてうずくまった。これを読んでいる読者は、こうした意思疎通方法を日常的に使っているはずです。津久井やまゆり園事件では、植松聖被告人に殺傷された入所者に、意思疎通方法のいずれも使っていない方は見受けられません。

また、非言語で思いを伝える方法は、芸術や祭儀などにも多々あります。こうした様々な意思疎通方法にはそれぞれ長所・短所となり得る特徴がありますが、比べて優劣をつけるような性質のものではありません。どれも「そういう方法」です。

しゃべることが意思疎通のすべてだと、どうして言えましょうか。

私は言語に埋もれた人生を送ってきて、当ブログに書籍数冊分の文章を書いてきました。これだけ言語という意思疎通方法を使ってくれば、その長所もみえれば、短所や限界もひしひしと感じます。

たとえば、早い話、外国人など言語が違う相手には、言葉では意思はまったく伝わりません。いくらしゃべりまくろうとも、脳みそをしぼりにしぼって緻密な論理を組み立てガリガリ書きまくったとしても、相手の使用言語が異なるなら、すべては水の泡です。これを考えれば、「言語」というコミュニケーション方法の非力さがクリアに見えるのではないでしょうか。

そもそも言語は、頭の中の「概念」の世界です。リズムや振動、カラフルさなどといった直接的な刺激にとぼしいため、言語による表現は、抽象的、また難解になりやすい。さらに、コミュニケーションの相手が単語の意味を誤解していたりすれば、「話がかみ合わない」状況に陥ります。たとえ日本語が通じても、相手が内容を理解してくれなければ、やはり伝わりはしないのです。何を隠そう、私が「意思疎通の方法」を説明するために「図」を作って持ち出したのは、「目で見てわかる表現」(=非言語)を併用することで、文章(=言語)の短所をカバーしたかったからにほかなりません。私は、私の意思を伝えるため、今回はそのような方法をとって「意思疎通」を試みたのです。「言語」は日常にすっかりとけこんだ意思疎通手段ですが、こうした特徴から、芸術家には言語による表現を「表現の異端児」などと呼ぶ人もいるくらいです。世の「表現者」をくくった中では、文章なんて書いているのは「変わり者」なんですよね。

なのに植松聖被告人は、「意思疎通ができない」と「しゃべれない」という言葉を無意識に入れ替え続けています。思想として言語至上主義たるものを考え出し、それに基づいて思考・行動しているというわけではなく(もちろん、言語至上主義というものを信奉していたならそれはそれで誤りだというのは図の通りですが)、「意思疎通には様々な方法がある」という視点を持った形跡すらまったくない。これは明らかな誤りです。

「意思疎通」の正確な定義については、植松聖被告人本人はもちろん、津久井やまゆり園事件を報じるメディアや裁判関係者もより意識すべきだと考えます。

毅然とした態度をとれなかった国家

津久井やまゆり園事件は差別思想に基づくという重大事件であったにもかかわらず、事件後の国家の対応がしっかりしていたとはいえません。私としてはとても残念です。

まず、植松聖は犯行に先立ち、内閣総理大臣宛に自らの思想を綴った手紙を届けています。内閣総理大臣=日本国の行政権の主体・内閣の首長は、事件後即座に「そのような思想に賛同することはない」と国内外に向けて声明を発表すべきでした。

次に、警察です。殺人事件への対応としては例外的に、被害者を匿名で発表しました。遺族が差別される可能性から秘匿のニーズがあるとのこと。しかし、国家の警察力がそのような対応をしたというのは、「障害とは発表したくない事実である」と国家が言ってしまったのと同じです。国家の警察力という立場にふさわしいとはいえません。

そして、これらに輪をかけたのが、裁判での遺族傍聴席の遮へい板です。

本来、遮へい板というのは、組織犯罪の事例で被害者が組織側からの報復攻撃を防いで身の安全を守る、などの想定で設けられた制度でした。家族に障害者がいることを隠すため、というのは立法趣旨から外れた「暴走」であり、誤用と言わざるを得ません。たしかにメディアのインタビューによれば、ある遺族には、親族に障害者がいることで差別された経験があるといいます。この社会の哀しい現状です。ただ、国家の刑事司法というのは、そもそも犯罪被害者のために存在するサービス業ではありません。被害者の希望が通るものではないし、ましてや裁判所が論拠に大穴のあるような「気遣い」をするのは的外れです。裁判所への批判は、警察への批判と同様なのでくり返しません。国家の刑事司法として、間違っているのは差別をする側だと、毅然とした対応をとるべきでした。

私は、国家のこうしたドタバタには、犯罪被害者についてのいびつな意識が表れているとみています。

現状、日本人の犯罪被害への意識は基本的に低くとどまっています。誰にでも起こりうる出来事だという感覚にとぼしく、したがって語られることすらあまりないのです。証言に立つ被害者への配慮などはようやく制度化されましたが、裁判傍聴に行ったある事件の関係者からは、「トイレから傍聴席へ戻るのにいちいち過度なセキュリティチェックまでされて、自分は人間扱いされていない」という声を聞いたことがあります。

それなのに、ひとたび犯罪被害者にスポットライトが当たればいきなり、テレビ番組が裁判を「劇場化」し、被告人に感情的な非難を浴びせることを被害者を味方することだと履き違え、果てには刑事司法の大原則を曲げる被害者参加制度たるものまで押し通される。理性を吹っ飛ばし、爆発するところまでいってしまう。

この「両極端」は、結局のところ、人権意識が低く、人権への理解も低く、そもそも現実世界全般に無頓着で、かかわろうとせず、背を向けたがり、頭の中の幻想世界に閉じこもりがちな日本社会の在りようから生じていると考えます。バランスの良い心を持って、出来事も他者もしっかり見据え、地に足つけて歩んでいかなければならない時ではないでしょうか。

「命の価値」

2020年3月16日、横浜地裁で同事件の判決がありました。争点であった被告人の責任能力は完全に有りとされ、植松聖被告人には死刑が言い渡されました。

刑事司法の場での争点はいったん決着をみましたが、同事件の社会における論点は、社会において論じられるべきです。「命の価値」です。今回の判決を受け、事件の投げかけたそれをここにて論じようと思います。

(なお、以下は「命の価値」の社会における一般論であり、存在価値の肯定=愛情が健全な発育のために必要な子ども、成長過程である思春期~青年期の人、「自分に価値を感じられない」と悩んでいる人などに向けたものではないことには注意されたい。発育・成長でのニーズや心の傷はまた別の課題であり、もしそれへの答えを期待して読み進めた場合は冷たく感じられる可能性がある。筆者がそれを押してまで淡々と筆を進めるのは、根拠にとぼしく少し考えればもろくも崩れる熱情より、合理的な根拠に基づく冷静な論が勝ると強く信ずるからである。)

「障害者は不幸をつくる」の真偽―フィーリングではなく、精査すると見えること

被告人のセンセーショナルな一言が報じられると、ネット上などでは「そうかもしれないと思ってしまった」などの声が一部で上がりました。そうした「共感」の声には濃淡の差がありますが、なかには面白半分に被告人を「ヒーロー」などと祭り上げるものまでありました。

なのでここでは、「障害者は不幸をつくる」という命題の真偽を確かめようと思います。

まず、「(すべての)意思疎通ができない重度障害者は不幸である」という命題について(論理を正確にするため、省略されている言葉「すべての」を補います。)。これが「真」であるためには、「障害者本人が」「障害を以て」「不幸である」の3点が、この世のすべての障害者に該当しなければなりません。そのような事実はありません。よって、「意思疎通ができない重度障害者は不幸である」という命題の真偽は「偽」です。同認識は、純粋に被告人の主観にすぎません。

次に、「重度障害者の家族や周囲が不幸になる」という認識に至った植松被告人は、「子ども時代に障害児の親が疲れ切って見えた」ことなどを主な根拠としています。子ども時代の彼が目撃したその人物が疲れ切っていたかどうかを確かめるには、その人物を探し出さなければならないので、筆者には追及が困難です。ただ、障害児の養育・介護の過酷さゆえの家庭崩壊などの事例は存在しています。この事実にはふたをするべきではないでしょう。ただし、周囲が不幸を感じたケースがあるとして、その原因の所在は、養育のための時間的拘束、経済的負担、体力的疲労であり、したがって、「障害者が不幸をつくった」との認識は事実に反し誤りです。

加えて、事件の遺族は法廷で「私は娘がいてとても幸せでした」「子どもの存在は、私を含め周囲の人を人間的に成長させてくれる」などと証言しています。同じように、被告人の「家族や周囲が不幸になる」という考えと真っ向から違う実例は、世に多数存在することを付言します。したがって、反証がある以上、「障害者は家族や周囲を不幸にする」という命題もまた「偽」です。それは植松被告人の、一方的かつ勝手な決めつけにすぎません。

以上より、植松被告人の「障害者は不幸をつくる」という認識・発言は、事実に反し誤りです。

「障害者は不幸をつくる」というたった10文字を目にした。3秒にも満たない一言を耳にはさんだ。たったそれだけのきっかけで、なんとなくのフィーリングだけで「そーかも~」と「共感」し、中身も論拠もないスカスカな「思想」の上をただよう。こんなつまらない行為は、細部にまで目を配り自分の頭でていねいに考えることで、避けることができます。

(2020年3月23日加筆)

言葉の暴力【更新】

本来、「処分」を下すには合理的な根拠が必要です。たとえば、なぜ「国家」は「人」に「刑罰を加えても」許されるのでしょうか? 人を拉致したあげく監禁するなんて、それこそ犯罪ではないのか? この問いへの答えは、こちらに書きました。空き巣だの詐欺師だのが出るたび当たり前に行われる「逮捕」ですが、その権限の根底には、膨大かつ緻密な思想が横たわっているのです。

「誰が」、「どういう根拠で」その者が、「なぜ」、「どのように」それを行うのか。たとえ目的はよかったとしても、達成のためのやり方は適切か。もっとよい手段はないのか。それらを熟考しなければなりません。

もう一言加えておくと、「なぜ」を考えるのは、「なるほど、だからやってもいいんだ」とその物事を正当化するためではありません。思考の結果、その行為が「合理的でない」と出たなら、それは許されないという結論になります。

さて、植松被告人は、「重度障害者を安楽死させる社会が実現すれば、使われていた金が他に使えるようになり、世界平和につながる」との考えから、津久井やまゆり園入所者を殺傷しました。

植松は、何の根拠で彼が、なんのために、重度障害者を殺害してもいいと考えたのでしょうか。

……「神のお告げを聞いた」からか。

「先駆者になれる」「自分だけが気付いた真実」というあたりにも、「自分は特別な人間だからやっていい」という発想がみられます。

目的のほうは、散々まくし立てているようで、じつのところははっきりしません。「世界平和につながる」等々口走っているのですが、彼には「世界平和」という課題に取り組んだ経歴・経験がないのです。もし本気で世界平和を目指そうと志を抱いたなら、大学で専門的に勉強するのが普通だし、勉強を進めていくうち、世界平和を実現していくための手段は――適切かつ的確な手段は――自分ひとりではとてもやりきれないほどたくさん出てくるはずなのですが……。世界はかくも複雑なのに、「重度障害者」というグループの人々に目をつけたのは、植松被告人の感覚的な思い付きだといえます。

植松聖被告人には、精神鑑定で自己愛性パーソナリティ障害との診断が下りました。なるほど、彼の犯行動機は、「自分は特別な存在である」という思いを噴出させた自己陶酔に集中しています。「世界平和」などの理由付けは飾り程度で、思考がありません。

考えもせずに、彼の頭蓋骨の中の空想世界を現実に噴出させ、勝手な思い込みで、勝手な殺人におよんだ罪は重い。このような人物を、世界は愚者と呼びます。そしてこのような愚者に心を惑わされた者がいるなら、それは、哀れな人です。

津久井やまゆり園事件後、衝撃と悲しみに暮れたのは、事件の被害者と遺族だけではありませんでした。体の一部が不随になり、毎週明るくリハビリに通っていたお年寄りが、「自分の存在を否定された」とショックで気落ちしている。そんな話は、足元で後を絶ちませんでした。

現代人なら多くがそうだと思いますが、長きにわたる学校生活、私には、身体に障害のある友達が何人もいました。クラスでいちばん仲のいい友達が手足に障害を持っていたこともあります。その存在が不要だとは、一体どういうことなのか。植松聖は、私の友達を愚弄したのです。

言葉は、暴力に利用できます。「障害者は不幸をつくる」という言葉自体が、人を切りつけた。人の存在と尊厳を否定する言葉を発した、それ自体が、暴力です。

(2020年3月31日加筆)

提言:完璧主義を捨て、感性を信じてノーの声を―「あの人ヤバい」に表れた真実

命の価値を論証しなければ……でも自信がない……。私が見渡す限りだと、そんな無用なプレッシャーを自分にかけてしまっている人がずいぶんいるように感じます。

もしかしたら、読者のあなたもそうかもしれません。事件のすべてを網羅した、完ぺきな理論。人間の存在価値を論証する、完ぺきな論拠。それに自信がないからといって「ノー」の声をあげるのを躊躇していませんか。まちがったことを言ったら恥ずかしいとか、馬鹿にされるのではと恐れてはいませんか。

しかし、そうやってノーを言わないなら、結果的には植松聖の恥知らずな発言のほうが目立ってしまいます。

「神のお告げだ」「ヒーローになる」などと言い出した犯行前の植松聖に友人たちがうわさした「あいつはヤバい」、バーベキュー大会の参加者たちが口にしたという「あの人ヤバい」。シンプルな言葉ですが、これこそ的を射ていると思うのは、決して私だけではないでしょう。事件のすべてを網羅した意見を練る必要はないし、植松聖の思想や発言を全部調べ上げて事細かに論破しなければならない理由はありません。「この人何様のつもりだよ」でも「なに偉ぶってんだよ」でも「全然立派じゃないよ」でも、人目を気にせず言ってみれば、そう間違わないはずです。

「神」などと言い出して、ある属性の人々を「敵」と決めつけ容赦なく攻撃する植松聖のような人物が現れた時、「ヤバさ」はもちろん、たとえ違和感だけでも感じたなら、そのこと自体がとても大事な事実です。人間のこの手の感性は、十中八九、いちばん大事なことを射抜いているからです。

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人格障害の特徴と犯罪の関係は? – こちらでも津久井やまゆり園事件を扱っています。植松聖被告人は精神鑑定で「自己愛性パーソナリティ障害」との診断が出ていますが、パーソナリティ障害によって責任能力は否定されない理由を、ビギナー向けにやさしく解説しました。検察側の「パーソナリティ障害は性格の大きな偏りであるだけで刑事責任能力を否定するものではない」旨の主張は正しいといえるでしょう。弁護側も、被告人の責任能力を争うのに自己愛性パーソナリティ障害を理由とはしていません。

刑事裁判の被害者参加制度の問題点 – 「刑事司法とはなんのためにあるのか」というところから、例えなどもふんだんに使いながら解説しました。

オウム真理教元幹部・死刑囚の言葉から得られる教訓―『カルトはすぐ隣に』感想 – マインドコントロール状態から脱却したオウム真理教の元幹部たちは、神とかなんとか言う人に違和感を覚える「感受性を大切にして下さい」、「あの時、自分の感性を信じるべきだった」といった悔悟の言葉を残しています。この教訓は深く、今回の津久井やまゆり園事件を考えるときにも示唆を与えてくれると思います。

アスペルガー症候群の有名人が特徴ある話し方の国連スピーチで残したもの – 環境活動家・グレタ・トゥーンベリ氏の環境保護運動について論ずる記事で、「自分は絶対に正しい」と信じて反対する者を容赦なく攻撃する「聖戦の論理」それ自体の危険性を解説し、現代社会へ警鐘を鳴らしました。トゥーンベリ氏の運動では、「環境」や「科学」「未来」「子どもたち」が「超越的価値」として掲げられ、その超越的価値と自己を一体化させる強い傾向が見られます。

(記事公開:2020年1月25日。更新:2月7日。最終更新:2020年3月31日)