『千と千尋の神隠し』考察と論評―両親、坊、湯屋が表象した戦後日本

難解な映画として知られ、「こういうのをおもしろいというのか、いまいち理解できなくて首をかしげた」といった感想がめずらしくない『千と千尋の神隠し』。私は以前、引きこもりの文化的・歴史的背景や今後を論じた際に、戦後社会と日本人の「引きこもり体質」を鋭く描いたとして本作を紹介、評価しました。その時私は、「異議をはさみたい部分はいくつもあります」とも書きました。

今回はあらためて『千と千尋の神隠し』に焦点をしぼって、千尋の両親、坊、湯婆婆と舞台設定である湯屋を考察し、本作による高度経済成長以降の日本の描き方を論評したいと思います。(以下、結末までのネタバレを含みます。)

『千と千尋の神隠し』考察のポイント

はじめに、『千と千尋の神隠し』考察の前提となるポイントを押さえておきたいと思います。作品全体の考察は以前の記事で簡潔にまとめたので、そちらも併せてお読みください。

参照:坊と湯婆婆と湯屋で表された、戦後日本人と社会の姿(新しいタブで開きます)

『千と千尋の神隠し』(2001年公開、宮崎駿監督(1941年~))は、10歳の小学生である主人公・千尋が異世界で成長していく姿を軸とした物語。日本歴代興行収入第1位を記録し、世界三大映画祭の一つであるベルリン国際映画祭で、最優秀の金熊賞を受賞しました。

その創作意図ですが、宮崎監督は、本作は千尋と同じ年頃のすべての女の子に向けて、「(中略)果断な判断力や行動力を発揮する生命を、自分がかかえている事に」気づいてほしいという願いが込められている、としています。スタジオジブリは、本作は異界を描いたものであると同時に「私たちが暮らしている現実の世界を描いたもの」だと公表しています。

ただ、宮崎監督の創作意図とは相容れないことに、『千と千尋の神隠し』は作中のすべてが現実社会の何かを象徴する「寓意」になっているいう、非常に難解な作風です。大人でも「いまいち理解できなくて首をかしげた」という感想が後を絶たないのはそのためです。夢いっぱいの世界を純粋な気持ちで楽しむ『となりのトトロ』などとは、映画として根本的に性質が違うんですよね。「あのキャラはきっと○○を表しているんだ」「あのシーンは○○の象徴なんだと思う」「宮崎監督はこう言いたいんだろう」などと理屈をこねくりまわしてナルシスティックなインテリ気分にひたる――そういうための映画なんだと割り切ってかかれば、個人的な好き嫌いや賛否は別として、首をかしげなくてはすむでしょう。

さて、『千と千尋の神隠し』物語の舞台は、トンネルの向こうの不思議な世界で魔女が経営している八百万の神様向けの湯屋(風呂屋)。経営者の魔女は「名前を奪う」という手段で内部の人々を支配しています。その支配は、従順な労働力にならない者は魔法で存在を消されてしまうという徹底ぶり。湯屋は40年前から外界との行き来が途絶え、絶海で孤立しています。映画公開が2001年なので、その40年前は1961年。高度経済成長政策が始まった時代です。このことから、『千と千尋の神隠し』は、戦後、それも高度経済成長以降の日本社会を描いた作品だといえます。

では、この舞台上に配置された登場人物たちは何を寓意しているのでしょうか。考察の前提となるポイントをざっとおさらいしておきましょう。

まずは、千尋の両親です。千尋は2001年時点で10歳なので、1991年生まれという計算になります。両親の年齢には言及がありませんが、おおよその見た目等から、彼らは高度経済成長とともに育った世代で、おそらく20代にバブルを経験しているといえるでしょう。

次に、坊のキャラクター性を押さえておきます。坊は、湯屋の赤ちゃん部屋で暮らしている、普通の人間よりはるかに大きい、怪力持ちの、しゃべれる赤ん坊です。「外に出たら悪い病気になる」と固く信じています。

湯婆婆は、湯屋という組織のトップ、経営者です。湯屋で働く者たちには絶対的な強権支配を敷いていますが、坊のことだけは溺愛しており、わがままを何でも聞いてあげ、赤ちゃん部屋から一歩も出さず過保護にしています。

千尋が1991年生まれということなので、筆者である私は千尋より3歳年上、ほぼ同世代の計算になります。私が本作を初めて観たのは2001年の劇場公開時(筆者13歳)ではなく、大学で法律学を専攻し、一般教養科目で映像美術を学んだ後のことでした。したがって、筆者は初見の時点で本作を考察するために必要な前提知識を持ち、作品を十分理解できるようになってから鑑賞したといえます。

以上を前提に考察を進めていきます。

千尋の両親

もっとも易しい考察から取りかかるとしましょう。映画の冒頭から登場する、千尋の両親です。

バブル世代の象徴

なぜこの考察が最も易しいかというと、それは冒頭シーンの寓意がかなり言語化されているから、そして、スタジオジブリ自身が公式見解を発表しているから、という二つの理由によります。宮崎駿監督は、千尋の両親が豚になったことについて「バブルの時に本当の豚そのものになっていた人がいて、今でも自分が豚になっていることに気がつかずに、不景気だ、エサが足りないと言い続けているのと同じだ」と公に発表しています。

その冒頭シーンはどのようなものか、といえば、千尋の両親は

  1. マイカーで
  2. 間違った道を
  3. 無理やり突き進むうちに
  4. 知らない世界へ迷い込み
  5. 「あとでお金を払えばいい」と勝手に判断して無断で飲食したため
  6. 怒った湯婆婆によって豚にされる

これらの要素が、バブル世代のたとえである。表象としてクリアですね。

考察を始めましょう。まず1番、自動車産業は、戦後日本を象徴する主要産業です。この時代、「マイカー」、そして一家の引っ越し先である「マイホーム」は人々の夢となってきました。もちろんこれは自発的な価値観ではなく、プロパガンダによって頭に植え付けられた「偽」の夢ではあるのですが、戦後日本社会にそういう気風があり、人々が実際にマイカー・マイホームを求めたのは事実です。

千尋の両親は、人間性がよいとはいえません。お高くてツンケンしたお母さんは、不本意な転校で友達と別れた千尋の悲しみに無頓着で、観る側が「冷たい人だ」と感じずにはいられない描かれ方。そしてお父さんは……新居への道を間違えたのに、「近道になる」と何の根拠もなく言い張って、無理やり突き進む。理性的でなく、後先を考えない、がさつな印象です。

道を間違えた。なのに無理やり突き進んできた。高度経済成長以降の日本を表す寓意に、私は賛同せずにはいられません。

そんな戦後昭和の夫婦は、子どもを連れて、見知らぬ世界にたどり着いてしまいます。ペンキがはげて色あせたバブルの残骸が頽廃的ですね。それがお父さんのセリフによってはっきりと指摘されるのだから、このシーンは「バブル崩壊後の映画公開時(=2001年)、そして千尋が生きていく時代は、見も知らぬ世界なのだ」という意味だと断言してよいでしょう。

両親のその後の描かれ方はひどいものです。飲食店にならんでいるごちそうを、子どもが止めるのも聞かずに無断でガツガツ食らいつくす。

千と千尋の神隠しの千尋と両親

湯婆婆が怒るのも無理ありません。

これはバブル世代の「常識のなさ」を表現したものといっていいでしょう。宮崎監督は、千尋の両親世代をこうも悲観的に見ているのです。彼の見解に対する論評は、後程じっくり行うとしましょう。

バブルという暗黒時代

自分の人間性は、自分の意志で選ぶものです。肌の色や国籍、性別を聞いただけではその人がどのような人物かまったくわからないのと同じように、「世代」という属性は、その人の人間性を何も語りません。

表現方法にはそれぞれ一長一短ありますが、「物語」という表現方法は、「一つのケースしか描けない」という短所を抱えています。宮崎監督の「バブルの時に本当の豚そのものになっていた人がいて」という表現から、バブル世代だからといってなにも全員が千尋の両親のような人間だとまでは言っていないことがわかるでしょう。(個人的には、「歩く欲望」のような人間を輩出してしまったのは千尋の両親より少し下、バブルが子ども~青春時代と重なる世代だと見ています。いい大人が狂乱の限りを尽くしているのが子どもの教育に悪いのは、我に返ってみれば言うまでもありません。)

しかしながら、バブルという官製の狂乱が一定数の非常識な人間を「製造」してしまったのは事実です。私は、「昭和二度目の戦争」高度経済成長に続くバブルを、戦前ファシズムに比肩する暗黒時代だと考えています。

このように、『千と千尋の神隠し』では非常識で図々しく、欲望ばかりが暴走したどうにもならないバブル世代が描かれていますが、私は同時代にその陰で苦しんできた人々を忘れてはならないと思います。かの時代、人格高潔でまじめな人、それこそ常識的な人は、社会から徹底して排除されました。ある人は、過重労働を強いられた末、長期にわたるうつ病との闘病生活を余儀なくされました。別の人は、ささいなことから「出る杭」とみなされ暗い自室へ追いやられ、自宅軟禁同然の人生を送りました。私のまわりには、子ども~青春時代をバブルの最中で過ごし、普通の人が想像できる範囲にない非常識ぶりで周りを困らせたり傷つけたりしても平然としている人が2人いますが(だからバブルを学ぶことは生活上必要になってくる)、この世代が「ロストジェネレーション」であることはきちんと理解しています。「昭和的」な企業の新卒一括採用、終身雇用神話、年功序列システムを原因として多くの人が人生を台無しにされ、この世に生まれてきたタイミングのためだけに涙をのんだのです。

戦後、ファシズムの恐怖から解放されたはずの日本は、大企業を中心とした社会を形成し、経済成長を最優先してきました。個人の尊厳よりも全体を優先する全体主義を、別の形でくり返したのです。バブルの狂乱は、1930年代の大衆扇動との連続性のなかで考察されるべきでしょう。

今日、この社会は多くの問題を抱え、持続が危ぶまれています。この危機から脱するためには、表面的ではない、本質的な部分を変えなければなりません。

坊と湯婆婆

「アニメ映画」は広くいえば「絵」に入りますが、「絵」という表現方法は、言わんとしていることをビジュアル化できる、(言葉ではなく)イメージとして伝えられる、などをメリットとしています。坊の造形=姿かたちは、そんな「絵」ならではのよさを存分に生かした表現だといえるでしょう。

戦後日本人を表象するのは「巨大な赤ん坊」

千尋の両親と違って公式見解ではないのですが、「坊は宮崎駿監督が考える戦後の日本人を表したキャラクターである」という説は有力です。

坊の造形は、

  1. 巨大な赤ん坊で
  2. しゃべることができ
  3. 赤ちゃん部屋から一歩も出ようとせず「外の世界には悪いばい菌がいる」と固く信じていて
  4. 思い通りにならないとかんしゃくを起こし、持ち前の怪力で暴れ出す

ビジュアルイメージのかたまりというか、「もののたとえ」をこれでもかと凝縮したような、唯一無二のキャラクターです。

千と千尋の神隠しのキャラクター・坊

坊が千尋(湯屋の側からみれば「外の世界のそのまた外からやってきた人」)と出会い、共に行動するなかでどう変わっていくかは以前の記事で一から十まで考察し尽くしてあり、この記事で重複させるのもなんなので、そちらのほうをご覧ください。

参照:巨大な赤ん坊が、外の世界に出てはじめて自分を発揮する(新しいタブで開きます)

坊への見方は好意的

初登場の時点では極度に未熟で、わがままで、極端に閉鎖的で、それでも腕力は強くて乱暴な坊。

しかし、作中を通して、坊に対しては批判的な描かれ方が少しもありません。「物語」という表現技法において、主人公は、筋を引っぱり結論を導き、かつ作者から独立した見方をもする特別な立場ですが、その千尋も坊に対して怒ったり、しかったりはしない。見下してもいない。

そして以前指摘した通り、坊の「本当の自分」は純粋で親切、一人前の能力もある。好意的な見方が貫かれているのです。

そして、物語の主人公たる千尋は、外の世界の者として湯屋(=高度経済成長以後の日本社会の表象)を見て、体験し、そこの人々と関わった末、「湯屋の環境がみなをおかしくさせている」との結論に至ります。このことから、宮崎駿監督は、日本人は高度経済成長以降の社会の在り方によって坊のようになってしまっただけで、本来的には自発性があり、親切で、外界に興味を持て、他者と健全に関わることができる、と見ているのだと考えられます。本作をかたちづくるピースの一つとしての坊の描かれ方に、私は深く賛同します。

昭和のワンマン社長・湯婆婆

「物語」という表現方法には、自分が言わんとしていることを何人ものキャラクターに分けて表して、その人物たちのかかわり合いから結論を導けるという独特なおもしろさがあります。坊とパートを分担して「高度経済成長以降の日本人」を表象しているのが湯婆婆です。

湯婆婆は、

  1. 内部者を強権的・絶対的に支配する
  2. 経営者で
  3. 坊のことだけは溺愛していて、言うことを何でも聞くほど甘やかしており
  4. 実は半人前である

これらの点に着目すれば、なるほど、うなるほどよくできた表象だと思います。

一般論として、「強権支配」と「溺愛」は表裏一体です。どちらも「支配」に変わりはないのだから。

高度経済成長以降の企業社会は、排他的な一方「内部者にはやさしい」を建前としており(事実かどうかは別)、福利厚生などによって「会社が”社員”(正確には「従業員」)の一生のめんどうをみる」ほどの温情主義をとってきました。しかしその実情は、”サラリーマン”(同時代の造語である)が人権をかなぐり捨てて会社に滅私奉公し、それと引き換えに生活資金を与えられるという、社会主義国家さながらの、自由なき支配体制だった。

リンをはじめとする湯屋の従業員たちは強権的に支配されていますが、一見猫かわいがりされている坊も、本質的には同等に支配された状態にあるんですよね。支配の形が違うだけで……。

私が本作で最も面白いとニヤリとしたのが、銭婆婆のもとで明らかになる湯婆婆の真実でした。双子の片割れである銭婆が「二人で一人前」だと言うのですから、つまり、昭和的なワンマン経営者・湯婆婆は、じつは半人前だと考察できるのです。

湯婆婆をずっと恐れていた千尋ですが、銭婆と出会った後は湯婆婆を「おばあちゃん」を呼ぶようになります。湯婆婆の真の姿、その未熟さを悟ったのでしょう。「あの人は、ただのおばあちゃんだ」と……。

高度経済成長以降の企業社会では、今日でいう「パワハラ」など当たり前、問題視さえされないという有様でした。しかし、表皮の奥の本質的な部分に目を向ければ、昭和のワンマン経営者はとても未熟で、私に言わせれば極端に自分に自信がなく、その裏返しで「下」の者にどなり散らしたりする。

では、経営者兼強権支配者である湯婆婆を含めたみなを「おかしくさせている」湯屋の環境とはどのようなものなのでしょうか?

油屋(湯屋)

物語の舞台は、作品の枠組みです。人物やセリフといった表に見える部分の奥にある、作品の「構造」を担当する箇所です。

『千と千尋の神隠し』の舞台である「油屋(八百万の神様向けの湯屋)」は、高度経済成長以降の日本社会を表象するミニチュア模型といえるでしょう。

戦後昭和のミニチュア模型

湯屋という舞台の着目すべきポイントをまとめましょう。

  1. 内部者は、本名を奪われ「本当の自分」を忘れることで
  2. 労働力となり
  3. 「上」から支配されていて
  4. そのような従順な労働力にならない者は存在自体を消される組織であり
  5. 40年前から外界との行き来がなく、絶海で孤立している

湯屋で働く人々は匿名的な労働力となっており、真のアイデンティティを忘れている状態にあるといえます。

「従業員」が「本名を奪われ」「本当の自分を忘れている」という表象は秀逸ですね。

私はこのブログですでに何度も触れたのですが、高度経済成長以降の”サラリーマン”(しつこいようだが同時代の造語である)が定年退職したとたんに自己を見失うケースは昨今後を絶ちません。彼らは職場で「部長」「課長」などと役職名でしか呼ばれていなかった。歴史をふり返れば、ナチス・ドイツは、ユダヤ人に、世界にたった一人の尊いその一人一人に番号を振り、番号で呼んだ。

本名をはぎ取ることは、人間の尊厳を奪うことを意味します。人道上決して許されることではありませんが、戦後昭和には、それと同じ「状況」が、日常に溶け込んで存在していた。私が高度経済成長~バブルは戦前ファシズムに比肩する暗黒の時代だとわななくのは、こうした暴力性、非人間性によります。

そしてポイント4つ目、60年代以降の日本社会で従順な労働力にならない者がさまざまな形で存在自体を消されたのはその通りで、私は引きこもりを論じた際にまさにそれを問題視したのですが、この点についてはあとで踏み込んで論評したいと思います。

5番、湯屋が外界から遮断されていることは、映画後半、千尋が電車の切符をもらう場面で判明します。広大な海のど真ん中で孤立しているところが日本らしいですね。

戦後日本の経済を引っ張った大企業は、形式上、世界規模ではありました。しかしそんな「形」とは裏腹に、幹部たちは極端に閉鎖的で、異様な人間関係のなかを泳ぎまわり、そのために不祥事を起こして逮捕される始末。グローバル化などと口ずさんでいる会社が、内輪意識のかたまりで排他的である。このような「引きこもり体質」は日本の企業・組織を語るキーポイントです。

『千と千尋の神隠し』は千尋の成長を軸とした物語ですが、湯屋の側からみれば、「外の世界のそのまた異界」からやってきたという極めつけの外部者がその閉鎖的な組織にかかわることで、人々も、内部環境も、ゆるやかに「成長」していきます。千尋が「眠っていた本当の力を目覚めさせた」時、湯屋の側にも同じことが起こっているのです。宮崎監督は、極端な閉鎖性のためにギスギスした日本の企業・組織について、「外部者を入れること」に希望を見出しているのかもしれません。

『千と千尋の神隠し』に対する異議

私は『千と千尋の神隠し』という作品の「映像作品」「ミニチュア模型」としての出来は良しと評価します。

ただ、先の記事でもちらりと触れた通り、私には本作に対していくつも異議があります。言いたいことがあるのです。じつを言うと私がこのブログで映画に対する批判意見を書くのはこれが初めてなのですが、本作には表現者の倫理、人権・人道にかかわる問題があるので、ぜひとも世に発信したいと思います。

児童労働―非常識なのは誰なのか

『千と千尋の神隠し』という作品をいびつにし、決定的な無理を生じさせているのは、主人公・千尋が小学生=児童であることです。

一般常識ですが、児童が労働するということは、学ぶ機会を奪われ、成長を妨げられ、果てには生涯にわたって社会の底辺に固定された悲惨な生に沈められることを意味します。

実際、戦前の、初等教育しか受けられずに働かされていた子どもたちのその後の人生は悲惨なものでした。「学校」とは名ばかりで授業内容がスカスカだった女学校の子どもたちも然りです。本当は学校に行きたかった。もっと勉強したかった。進学できるお金持ちの子がうらやましかった。食うや食わずで来る日も来る日も仕事をさせられた。つらかった。それでも、学がなく、世の中のことが分からないのだから、自力で人生を展開しようがありません。よりよい仕事を得られる可能性なし。たった一度の人生に、選択肢はなし。日が昇るたびに、つらいだけの一日が始まる。一生、それをくり返す。これで人間だといえるでしょうか? 若年から働かされた子どもたちは、社会の底辺にしばりつけられ、悲惨な屈従の生を送ったのです。

これが現実です。前近代的な組織の末端の小間使いをすることで、千尋がなぜ成長できるというのでしょうか。

『千と千尋の神隠し』の「児童が働くことで成長する」との展開と結論は重大な誤謬です。宮崎駿監督の表現は、現実の世界と照らして楽天的に過ぎ、問題です。

許されざる壇上発言

以上、児童労働への態度だけでも常識を欠いていたところに、宮崎監督は作品外で、それに輪をかけるような非常識発言を世に放ちました。

『千と千尋の神隠し』のコアなファンの間で「都市伝説」としてうわさされていた「千尋が働かされる湯屋は風俗店(売春宿)なのではないか」という説を、宮崎駿監督は日本版プレミアで肯定したのです。しかも彼は少しも悪びれることなく、後に発言を撤回するどころか、弁明することすらなく、平然としている――私はこの発言を知った時、もはや彼の人柄を疑わずにはいられませんでした。それからというもの、私は宮崎駿監督がメディアに登場するたび「そういう人なんだ。内心ではそんなことを考えているんだ」と冷え切った目線を向けるようになりました。

同発言で、宮崎監督はそれを「風刺」だとしています。もし「風刺」であるなら、たとえば構造的な問題のために物事がうまくいかなくなってはバタバタする愚かな人々をこっけいに映すなど、湯屋は批判的に描写されなくてはなりません。しかし湯屋は主人公の「成長の場」として設定され、主人公は反発することも批判することもなく適応していく。これでは「風刺」として成立せず、したがって宮崎監督の発言には理がありません。

周りも周りです。彼の周りの人々は、度外れな非常識発言を世に放とうとしている宮崎監督を止めることができないのでしょうか。だとしたら、それはなぜなのでしょうか。

宮崎監督は本作について「戦前の恵まれない時代のほうがかえって自分の力を引き出すことができる面があった」旨の発言をしているのですが、これと組み合わせて考察すれば、壇上発言はさらに下劣を極めます。

なぜなら、これも一般常識ですが、児童が性産業に従事するのは「労働」ではありません。「性的搾取」です。

人権問題は、常に痛みをともないます。たとえ他人のことであっても、架空の話であっても、です。人間には、「痛み」に異を唱える正義感が備わっているからです。

結局のところ、『千と千尋の神隠し』はパッチワーク式の寄せ集めのような作品で、論理は甘く、体系がありません。性的搾取が成長につながる――熟考すれば防げたはずの、体系のなさが生んだ、卑陋、卑劣、非人道でした。こうなってしまえば、『千と千尋の神隠し』を楽しく見てくれと言われても、こちらとしては無理なんですよね。こんな胸の悪い不出来な話はなく、強烈な不快感ばかりが残ります。

堕ちも堕ちたり宮崎駿――表現者として、いやそれ以前に一人の人間として、見下げ果てたと言われてもしかたないのではないでしょうか。

表現者の倫理

私は、表現者は高い理念を掲げ、その責任に鑑み倫理を守るべきだと訴えてきました。

表現は、その活動を通して自己の健全な発展を目指すものであり、同時に、民主政および民主的な社会の発展に資するという社会的な使命を果たさんとするものだからです。

児童買春は犯罪です。児童に対する性的搾取・性的虐待は絶対悪です。

親、きょうだいなどから性的虐待を受けた児童が心に負った傷はどんな言葉でも表象しきれないほど深く、今この瞬間も、あまたの被害児童・元被害者の方々が苦悶しています。なかには、不当に負わされたその責め苦のために、ただそのような親の元に生まれてしまったという偶然だけのために、一生病院を出られない方、そして、二度と帰らぬ方もいらっしゃいます。

それを茶化すかのような作品と発言をさらりとした顔で放った宮崎監督。児童買春や性的虐待被害者の方々に、どう顔向けするというのでしょうか。

ペンは剣より強し。だからこそ、すべて表現者は重い責任を負っています。軽薄浅薄きわまりない発言は、遊びのつもりで抜き身の日本刀を振り回すよりもさらに多くの血を流します。

湯屋が性産業であるという表現は、宮崎駿監督個人の自己表現として誠実でなく、よりよい社会の発展に資することもありません。人を傷つけるばかりです。宮崎監督の発言は表現者として倫理に反すると、この場でぜひとも指摘したいと思います。

一般社会から隔絶された巨匠と人の道

冒頭で確認した通り、『千と千尋の神隠し』は10歳の女の子に向けた映画だと、宮崎監督本人が公言しています。

主人公が性産業で働かされ、しかもそれに対して批判する姿勢をとらない作品が、10歳の女の子に見せるにふさわしくないのは誰の目にも明らかです。これを見て10歳の女子にどう思えというのでしょうか? 私にはまったく見当がつかず、ただ当惑だけが残ります。宮崎監督の人間性には首をかしげます。

思うに、宮崎駿監督の作品を時系列で並べると、『千と千尋の神隠し』を境に一般社会の常識から離れていってしまった感じがします。

映像美術の世界には、こういうのが映像美術的に優れている、といった独自の評価基準があります。閉ざされた業界内部では評価されても、一般社会では批判されるという事態は、映画史上にいくつかありました。「爆発」はその一例で、映像美術的には「華やかで効果的な映像だ」と評価されても、一般社会からは「その爆発で人が殺されているのに何がおもしろいのか」と不快感をもって見られたりする。映画は、一般社会の価値観との間にみぞが生まれやすい業界だといっていいかもしれません。

加えて、アニメをめぐる環境はここ数十年でがらりと変わりました。今日でこそ世界中で愛され、日本の文化としてひのき舞台に立つアニメですが、昭和の時点では子ども向けの娯楽にすぎず、「テレビは一日一時間」などと煙たがられる存在だったのです。

向かい風が吹くなかで『風の谷のナウシカ』(1984年)、『天空の城ラピュタ』(1986年)、『となりのトトロ』(1988年)と後の名作を次々世に送って人気を博し、前作『もののけ姫』(1997年)が文明と自然の関係に切り込んだとしてハイカルチャーとして評価され、宮崎監督は『千と千尋の神隠し』製作の時点では「巨匠」の座を手堅いものとしていました。

一般社会から隔絶された巨匠となったことが、「児童買春・児童の性的搾取を批判的に描かない」というとんでもない作品に、そして、人の道を踏み外すことにつながったのではないでしょうか。

「バブルの時に本当の豚そのものになっていた人」の非常識ぶりを、千尋の両親を醜い豚の姿で描くというやや苛烈に過ぎる表現で批判した宮崎駿監督ですが、その彼に常識はあったのか。巨匠のイスに腰かけた時、宮崎監督は「大事なものを忘れてしまった」のかもしれません。

適応障害―「本丸」を落とせなかった『千と千尋の神隠し』

現状を批判しないことは、坊(=戦後日本人の表象だと考えられる)に対しては適切な態度だと思います。

しかし、主人公・千尋の成長が、既存の会社・組織への徹底した「適応」を求められ、実際にそうすることでなされる展開には納得しがたいものがあります。なぜなら、戦後日本人の問題はまさにこの「適応」にあり、したがってそれは確実に克服せねばならない「本丸」だからです。

結果的に、既存の組織に対して一切批判しないで生きることが、あたかも人間の生の普遍の真実かのように描かれてしまいました。

映画ラスト、千尋が「ありがとうございました」とおじぎをして異界を去るころには、坊は自力で歩けるようになっていて、湯婆婆とも健全なやりとりができ、湯屋従業員と湯婆婆の上下関係もだいぶやわらいでいる様子が描かれます。

千と千尋の神隠しで千尋を見送る坊や人々

しかし私は、「本丸」を残してしまった以上、湯屋は千尋なき後は元の木阿弥になってしまうのでは……それが道理だと思わずにはいられませんでした。

提言:核心の刷新を

来るべき新しい時代。それは「見も知らぬ世界」だから大変だ、ではなく、「まだ見ぬ新しい世界」にしなければなりません。

1930年代より始まる戦前ファシズムと、続く60年代以降の高度経済成長、そして「24時間働けますか」の80年代バブル。人間破壊の限りを尽くした暗黒の時代、その悲惨を生んだのは何だったのかと問うていけば、問題の核心は、「組織を個人の尊厳より優位させたこと」にありました。

ならば、過去の過ちと、そこから歴史的に連続している現在を克服せんとする私たちは、「組織のために人間がある」という感覚を改め、「個人の尊厳のために、その手段として組織を形成する」よう、「個人が主体的に組織を動かす」よう、頭の中の発想と生き方を刷新すべきなのです。

湯屋=既存の組織に主人公が適応することで成長するという趣旨の本作こそ、私たちがいま乗り越えなければならない発想であり生き方である。私はこの場でそう提言したいと思います。

労働至上―美術で良くても論では劣る

「ものの見方が感覚的すぎる」のは、「絵描きさん」がはまりやすい失敗です。

千尋が窯じいのところへやって来たシーンで明かされる通り、湯屋(=高度経済成長以降の日本社会の表象)では、従順な労働力にならない者は存在することすら許されず、消されてしまいます。湯屋は「労働至上」で成り立っているのです。

『千と千尋の神隠し』は「働くこと」を最重要なテーマとした作品ですが、この労働至上を批判しているのか賛同・賛美しているのかはあいまいで、どちらにも受け取れてしまうという難点をかかえています。

映画終盤、ハクが湯婆婆に向かって「大事なものを忘れてしまった」と啖呵を切る重要なシーンがあります。この文脈からは、本作は「働かない者は存在を許されない」には批判的だと受け取ることができます。

しかし一方、本作を象徴するセリフは千尋の「私をここで働かせてください!」で、これはパンフレットやDVD等のキャッチフレーズとしても使われています。そして物語の骨子は「千尋が働くことを通して成長していく」という筋。このように、本作は労働に非常に大きな価値を置くばかりか、「成長するのに必要なこと」という特別な価値さえ見出しています。この点では、「働かない者は存在を許されない」を批判しているとはとうてい言えず、労働至上を賛美しているのだととらえられても然りです。

『千と千尋の神隠し』は、「絵」や「映像美術」としては優れているかもしれません。

しかし、「論」の質の評価基準は、「絵」の世界のそれとは別物です。

高度経済成長以降の労働至上を批判するのか、賛同・賛美するのか、どう見ているのか。この点に限らず、『千と千尋の神隠し』という作品は、「不思議な世界」にかこつけて、作者のあいまいな態度や整合性のなさが目立ちます。

監督が自分の意見や立場をはっきりさせないことは、「論者」としては「卑怯」で「無責任」だと判断されます。作品への意見、とくに批判に対して「そうは言ってませんよ」といくらでも言い逃れができてしまう。逃げの一手を決め込んで、後に述べる「八方美人」になれる。

意見や立場をはっきりさせない以上、「論」としての『千と千尋の神隠し』は、優れているどころか、一人前の言論者未満の水準だと言わざるを得ません。

消費期限

2016年7月、『千と千尋の神隠し』は「消費期限」を越えてしまったかな、と思う事件がありました。相模原の知的障害者施設殺傷事件(津久井やまゆり園事件)です。

参照:植松聖「神のお告げ」の結末―津久井やまゆり園事件裁判に思うこと

前述の通り、『千と千尋の神隠し』は「労働至上」を批判するのか支持するのか、定まった態度を示していません。だからこそ、「働かない者は存在を許されない」を肯定、賛美しているとも受け取れてしまう。

宮崎監督は「働くこと」に関心とこだわりを持っていることで知られており、本作はそれを基軸に据えた作品でした。しかし、個人的な感覚や経験等に基づく世界観や人生観は、一般論に押し広げてもなお妥当だとは限りません。一般論として通用するかどうかは、別途ていねいに思考しなければならない。この点でも、本作は感覚的思考に陥っているといえます。

これは宮崎駿監督にとっては予期できないことであり、気の毒だとは思うのですが、相模原障害者施設殺傷事件が起こったことで、『千と千尋の神隠し』は一部「問題のある作品」になってしまったように思います。

八方美人―「流動食」80年代文化とその「偽」

狂乱のバブル80年代は、文化界も狂乱の限りを尽くしていた。私はそう見ています。

ここまでの『千と千尋の神隠し』の考察と重なる事例を、ここで二つ紹介しましょう。

まず、こちらは以前にもお話したのですが、私が大学生だったある日のこと。高齢の男性が若手アイドル歌手のブロマイドのように撮影された顔写真が新聞の一面に載っていて、あまりの気色の悪さから「これは一体誰なんだ」と説明文に目をやったら……宮崎駿監督と同じ1940年代生まれで、80年代にもてはやされた某男性純文学作家の名前が……。客観的に見たら明らかに突飛で、ちぐはぐで、常識はずれなことをしているのに、彼本人は自分の非常識にまったく気づかない。周りもそんな彼をなぜか止めない。この「アイドル文豪」は『千と千尋の神隠し』のように理屈をこねくりまわしてナルシスティックなインテリ気分にひたる作風で知られていますが、ある学者がそれを「流動食」にたとえているのには深くうなずきました。また彼は、ナルシスティックかつ「流動食」のような作風のなかで性的暴行(被害者は女性・女児)を好んで描くことでも知られています。

同じくバブルの狂乱期。80年代前半~90年代初頭にかけて、ある有名な文学者を国際文学賞に推薦する動きが持ち上がりました。ところが彼には、選考において不利になるであろう、戦前に書かれた不都合な作品がありました。そこで彼の周囲および本人は、作品および事実の隠蔽・改ざんに奔走したのです。当時の文学研究者は、彼への称賛ありきのつじつま合わせに終始しました。私がこの事件について『千と千尋の神隠し』との関連でピックアップしたいのは、80年代の文化界に純真無垢なアイコン的人物を求める風潮があったこと、そして倫理観の欠如の二点です。

以上より、私は、80年代の文化界は「流動食」と「偽」を基軸としている、と表現しましょう。

バブル時代に目立った文化人は八方美人。自分の見解をはっきり示しません。ではなぜ文化界にこのような八方美人志向が生じたのでしょうか? 原因をたどっていけば、結局のところは商業主義に行き当たります。

卑陋な雰囲気の時代でもありました。人間性はそれぞれが自分の意志で選ぶものであり、この世代だからといって全員がそうだという意味ではありませんが、以上で取り上げた1940年代に生まれ、80年代にもてはやされた男性インテリ文化人には、女性(とくに女子児童)に対する形容しがたい屈折した感情がみられ、人間らしい思いやりも社会の不正に立ち向かわんとする意志もなく性的搾取(対象は女性・女児)を「流動食」にとかしこみ、独特なロマンティシズムを抱く気質がみてとれます。

全体として、倫理観の欠如が深刻です。同じ社会に生きる他の人や後世の人は眼中になく、自分さえよければいい。そういう態度が社会に構造化されていて、もはや意識の上にのぼってくることすらない。

八方美人は、出だしこそ当たり障りのない笑顔をふりまいて人気者になりますが、あの人にもこの人にもいい顔をしているうちに信頼を失い、最後はみなに嫌われるのがさだめです。

上記のアイドル文豪は、80年代にもてはやされていた時点ですでに「お祭り商法」「芸能商法」と苦々しく見られていました。冷静に考えてみれば、「流動食」に賛辞を贈る人間などいるはずもない。彼はただ名前が売れているだけなのです。人権意識の高まりとともに疑問視の声はさらに大きくなると予想され、最近では「賞味期限切れ」だともいわれています。

隠蔽改ざん文学者のほうはどうなったか。研究者や編集者、そして本人が一丸となって不都合な作品と事実を隠蔽した結果、彼が国際的な文学賞を受賞することは――彼にとらせることは――叶いました。しかし近年の研究により、その隠蔽・改ざんのいきさつと事実は明らかにされています。

映画冒頭で描かれる、けばけばしいペンキがはげた、バブルの残骸。中身が空洞の偽物は、朽ちるのも早いのが世のさだめです。

千と千尋の神隠しテーマパーク跡

バブルを痛烈に批判したようでいて、私の目から見れば本質的な部分でじつにバブル的な『千と千尋の神隠し』。皮肉にも、人々が「流動食」と「偽」の時代を克服せんとする時、本作は、自身が描いたバブルの残骸のように色あせていくかもしれません。

創作姿勢

芸術作品の「出来」を評価することと、個人的な感性に照らしての「好き嫌い」は別物です。

上記の通り、私は『千と千尋の神隠し』という作品を「絵」および「映像美術」としては評価しますが、個人的に好感を持つかといわれれば、答えはノーです。私にとって、『千と千尋の神隠し』は、美術としての出来はいいけど好きではない、そういう作品なのです。

その理由は、すでに述べた人道上の不愉快さ。もう一つは、宮崎監督の創作姿勢への嫌悪感です。

宮崎監督は本作を、10歳の女の子に対して一方的な「指導者」として描いています。優れた指導者は必ず「負うた子に教えられ」の感性を基調にしているものですが、『千と千尋の神隠し』は「生き方を教えてあげる」という一方的な上から目線。決して対等ではない。この創作姿勢では、観た人から「鼻につく」「傲慢だ」と反発心を買ってもしかたないでしょう。

前作『もののけ姫』までの作品には、宮崎監督自身が挑戦者として、時には主人公と一緒に苦悩しながら成長していくひたむきさがみられました。だから作風がすがすがしかった。だから人の心を打つ作品を作れたのだと思います。

しかし巨匠となった彼は、挑戦者としての自分を、誠実な創作姿勢を、捨ててしまいました。

十分な読解力をもってのぞんだ初見で「いつも何度でも」が流れた時、私は「宮崎駿は巨匠になり下がってしまった」と落胆や侮蔑の念を抱かざるを得ませんでした。

「アニメ」という表現方法の最高の良さは、現実の物理法則を無視できること、そしてなんといっても、想像力が生み出す架空のキャラクターを自由自在に描けることでしょう。『となりのトトロ』はこのメリットを存分に生かした作品で、この点では『千と千尋の神隠し』も同様でした。しかし、宮崎監督の創作姿勢は、『トトロ』の頃とは別人のように変わっていた。トトロはいなくなり、ネコバスは風の彼方へ走り去ってしまったようです。

日々精進―結びに

「日本文学で最も優れた作品は何だと思いますか?」と聞かれたら、私は『方丈記』だと答えます。著者である鴨長明は、自らの生き方を問い、社会の悲惨を見つめ、最期まで不完全な自己の研鑽に生きた人でした。

どう生きてもたった一度の人生。

自分は何者となり、限られた時のなかで誰のために何を成し遂げるのか、それを自分自身に問うた時、世をにぎわす「偽物」の数々は、かくも価値のない、むなしいものかと胸に深くしみ入ります。

バブル以来流れて流れ出るだけの「流動食」をたたき売り、けばけばしいペンキで身を塗り固めた某作家。有名になり、金になったというけれど、だからどうだというのでしょうか。自己陶酔の顔写真は、私の目には、ただ非常識な人としか映りませんでした。

バブルの頃に、隠蔽・改ざんという禁じ手を使ってまで国際文学賞を受賞した文学者。歴史を真剣に学びたい後世の人から貴重な史料を奪って、それのどこがそんなにすばらしいのか、私には皆目理解できません。

バブルには向かい風のなか絵筆をふるって夢いっぱいの世界を描き出し、いまやアニメ業界の絶対的存在となった巨匠・宮崎駿。その暴走を止めてくれる人は、もういませんでした。

自分を「偽物」に仕立て上げた時、人は人ならざるものに変貌してしまうのでしょう。人生はこれでいいのか。自分はどう生きるのか。それはいつも、自分で選ばなければなりません。

日々精進。人の生の果てなきに「真」の喜びを見出せるとしたら、それは等身大の自己を見つめ、理性的に、着実に歩む今にのみあるのかもしれません。

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