『グレイテスト・ショーマン』あらすじと感想―現代に響く人間賛歌

『グレイテスト・ショーマン』(原題:The Greatest Showman、マイケル・グレイシー監督、米、2017年)は、19世紀アメリカの興行師、P・T・バーナムの半生を、サーカスの華やかな歌とダンスで描いたミュージカル映画です。主演は『レ・ミゼラブル』でジャン・ヴァルジャンの好演光ったヒュー・ジャックマン、作詞作曲は『ラ・ラ・ランド』の制作メンバーと豪華な面々がそろったこの作品。世界中でヒット作となり、劇中歌「This Is Me」はゴールデングローブ賞を受賞しました。

今回は、私が客観的にも主観的にも名作に列している『グレイテスト・ショーマン』のあらすじを紹介し、楽曲を含めて感想を綴りたいと思います。(以下、結末までのネタバレを含みます。)

『グレイテスト・ショーマン』あらすじ

19世紀、アメリカ。ショーは開演間近だった。座長の男は団員らとともにステージへ駆け出すと、不可能が可能になる、望みがすべて叶う、身も心も満たされる、そんな世界が目の前だ、と開放的に歌い上げる。その男が心で見つめたのは、少年時代の自分自身だった。

フィニアス・バーナムは、金持ちから蔑まれる貧しい仕立て屋の息子だった。近所の屋敷に住む女の子・チャリティとは親しい仲だったが、彼女は強権的な父親によってもうすぐ花嫁学校に入れられてしまうという。フィニアスは、闇を抜けた先の世界、自らデザインする未知の世界を夢見ていると言って、彼女を近所の古屋敷へ連れていった。朽ちたおもちゃやシャンデリアにランプをかざし、影絵にして見せるフィニアス。他人からどうかしていると馬鹿にされても彼は気にせず、頭には色とりどりの無数の夢があふれていた。その後、チャリティは花嫁学校へ送られ、一方フィニアスは親を亡くし、路上生活の身になってしまうが、二人はずっと文通を続けた。スリや廃品回収で生きるフィニアスには常に危険がつきまとったが、ある日、同じく路上生活者とみられる顔のくずれた女性がリンゴを恵んでくれたのを忘れることはなかった。

やがてフィニアスは鉄道会社で何とか身を立て、大人になってチャリティを迎えに戻る。上流の生まれではないが娘さんを必ず幸せにする、と申し出るフィニアスに、チャリティの父親は貧乏暮らしに耐えかねて娘はすぐに帰ってくるだろうと冷たく当たる。しかしフィニアスとチャリティは、二人で作り出す世界を分かち合いたいと、新しい人生へ共に漕ぎ出したのだった。

数年後、フィニアスはチャリティと二人の娘とつましくも愛情あふれた家庭を築き、貿易会社で事務仕事にいそしんでいた。頭には画期的なアイデアがあったのだが、上司には受け入れられず、しかも貿易船が沈没して会社は倒産。チャリティはそんな不安定な生活を刺激的だと楽しんでいたのだが、フィニアスは彼女を幸せにできていないと自責の念を抱いていた。そんな解雇のどさくさに、フィニアスは船の登録証を持ち出し、担保にして銀行から融資を受ける。そして作り上げたのが、奇抜なものでいっぱいの「バーナムのアメリカ博物館」だ。だがチケットはさっぱり売れない。娘たちから、剥製やロウ人形ではなく生きているものを見せないと、と言われたのをきっかけに、フィニアスはかつて顔のくずれた女性から親切にされたことを思い出す。彼が訪ねたのは、肌の色や障害など、見た目のせいで社会から排斥された「ユニークな人」たちだった。家の奥に閉じこもっているが、本当は将軍にあこがれている小人症のチャールズ。歌がうまいのにヒゲがあるせいで人目をはばかる女性レティ。宣伝のかいあってうわさは広まり、空中ブランコができるアンとW・D兄妹、全身イレズミ男、多毛症の少年、太った男や見上げるほどの長身男など、これまで日陰で生きていた人が次々と集まってくる。そして迎えた初演のステージ。これまで自分に自信がなかった面々は、死んだ心をよみがえらせよう、目を開いて夢を見ようと、光り輝くステージで自分をめいっぱいに解放する。彼らのショーは芸術批評では低俗だとたたかれたが、観客からは拍手喝采を受け、人気になっていった。

こうして成功を収めたフィニアスは、上流階級の社交界に出入りできるようになり、子どものころ忍び込んだ屋敷を買い上げる。チャリティへのサプライズだ。バレエにあこがれていた娘・キャロラインには教室に通わせてあげられるようになった。ところが、キャロラインは踊りがうまかったにもかかわらず、生まれのせいで他の子らに馬鹿にされてしまう。フィニアスはショーに上流階級を呼び込みたいと奮起し、息苦しい上流社会に疲れた劇作家、フィリップ・カーライルと組むことに。上流育ちのフィリップは、コネで英国・ヴィクトリア女王への謁見を叶えた。

バッキンガム宮殿のパーティーには、ヨーロッパ随一といわれるオペラ歌手、ジェニー・リンドが招待されていた。文化的に上流を体現する存在だ。これまで芸術批評家たちから自分のショーを「偽物」だとさんざん批判されてきたフィニアスは、「一度は本物を見せたい」と大借金をしてジェニーのツアーを企画する。

ショーを通して団員たちが自分に誇りを持てるようになった一方で、フィニアスは上流に受け入れられようとするあまり、彼らから遠ざかっていく。ショーはフィリップにまかせ、家族を残してジェニーのツアー公演に出て行った。念願叶い、ジェニーの公演は芸術批評家から「本物」だと絶賛されたのだが、フィニアスの奇抜なアイデアを欠いたサーカスは客が減りつつあった。

ツアーの途中でフィニアスが帰ろうとすると、ジェニーは自分も出し物にすぎなかったと怒り出す。そのころサーカスでは、「バーナムのサーカス」に抗議していた人々と団員らがとうとう乱闘に。フィニアスが駅の到着し、家族と抱き合っているころには放火され、建物は炎上していた。アンがいないと火の手が上がる建物に駆け込むフィリップ。フィリップを救助するため火の海に飛び込むフィニアス。危機一髪のところで全員助かったのはよかったが、「バーナムのサーカス」は跡形もなく焼け落ちた。

翌朝、焼け跡にいつもサーカスを酷評していた芸術批評家のベネットが訪ねてくる。彼は嘲笑しに訪れたのではなく、彼なりの賛辞とねぎらいを贈った。ショーは芸術ではないが、人々から人気を博しているのは事実である。肌の色や体形、大きさの違ういろいろな人を同じステージで平等に見せており、それは「人類の祝祭」と呼び得るものだ、と。

フィニアスはジェニーの降板によって借金を返済できなくなり、しかもジェニーが舞台上で当てつけにした別れのキスは新聞にスキャンダルとして取り上げられた。チャリティは娘らを連れて親元に帰り、屋敷は銀行に差し押さえられる。こうしてフィニアスはすべてを失ったのだった。

そんな彼に手を差し伸べたのは、サーカスの団員たちだった。彼はペテン師かもしれないし、目的は金儲けかもしれないが、存在すら闇に隠されていた自分を救ってくれた、今ではサーカスが居場所だから取り戻したい、という。フィニアスは自分の原点に立ち返る。がれきの中に残ったものこそが「本物」であった。女王への謁見や政治家からの称賛は、他人の夢にすぎなかった。これからは光に目をくらませないと誓い、チャリティを迎えに行くと「成功を求めすぎた」と謝った。

サーカスはどの銀行からも融資を受けられなかったが、フィリップが出してくれた貯金を使い、地価がタダ同然の波止場にテントを張って再開する。それは「世界最高のショー」だった。幕の途中、フィニアスはフィリップに座長のステッキを渡して娘のバレエの発表会に向かう。会場にはサーカスのゾウに乗って登場し、みなをあっと驚かせた。キャロラインがあこがれのプリマを、もう一人のヘレンは木の役を楽しそうに演じている舞台をチャリティと前にして、フィニアスは目をうるませてつぶやいた。「すべての望みが叶う世界」が目の前に……と。

感想―現代に響く、本物の人間賛歌

私にとって『グレイテスト・ショーマン』は、客観的なレビューとして高い評価をつけており、個人的にもすごく好きな作品です。出来に納得できて、好きでもある、幸せいっぱいな本作。以下では、客観的な批評と、私が個人的に抱いている強い思い、その両方を書いていきたいと思います。

具体的な描写が生む説得力

この話には説得力がある――『グレイテスト・ショーマン』は、見終わった時に思わずうなずける作品でした。これをただ「サクセスストーリー」だとか、「成功より大事なものを思い出す物語」だと言ってしまえば不足があります。

ストーリーの面で特筆すべきなのは、人物の描き方が具体的だという点でしょう。主人公・フィニアスは、生まれは貧しい仕立て屋で、そのころ近所の金持ちから汚いもののように扱われていた。この生い立ちは世界中で彼だけのもので、具体性があります。また、想像の世界を膨らませ、驚きで人を楽しませようとするという彼個人の個性も色あざやか。世の中には商業主義的に結末をテンプレート化された感動話に落とし込んでいく作品が多くある中、『グレイテスト・ショーマン』はその逆で、主人公フィニアス・バーナムという人間個人にしっかりフォーカスできています。理由がクリアに見えるから、彼の言葉には説得力がある。説得力が感動を呼ぶ。この作品には、そんな確かさがあります。

ハリウッドと一線を画する強靭なアイデンティティ

私は、映画でも何でも、「作った人が自分なりにしっかり考えたのかどうか」をとても重要視しています。誰かのまねをしているだけの人は、たとえ国際政治や世界経済の専門家、あるいは芸術批評の重鎮になろうとも、鼻ばかり高い半端者で終わりです。逆に、たとえ小規模な創作物であっても、「自分はこうしたい」というビジョンがはっきりしていれば、その作品には国境や文化を越えて愛される特別さが宿ります。「本物」とは自分なりにしっかり考えて作ったもののことであり、本物だけが普遍的な輝きを放つ――それが私の考えです。

その点で、『グレイテスト・ショーマン』は、制作者が自分の頭で考えた跡がくっきり見える「本物」でした。つくりが強靭で優れており、なおかつ、スクリーンからグレイシー監督ら制作者の熱意が伝わってくる、好感を持てる作品です。

ハリウッドの意外な「保守性」を突き破る、思想面の近代性・民主性

本作は実在の人物を主人公としたため「伝記映画」にジャンル分けされていることがあるのですが、鑑賞していてそういう印象は受けません。なぜなら、描かれているテーマが「多様性」であり、冒頭の曲「A Million Dreams」が見事に歌い上げる通り「人類はどんな世界をつくれるか」を問いかける作品だからです。そして作品の骨格であるサーカス団は「自分がなりたいものになれる世界」。これはまぎれもない現代の作品です。作品全体を通して、思想や発想が優れて近代的かつ民主的なのです。

さて、ところで、海外の映画界では、プロの批評家と一般観客がくっきり線引きされ、評価が別に出されます。本作の評価は、ちょうどフィニアスがそうであったように、批評家からの評価はあまり伸びなかったものの観客からは絶賛された、というのが一般的な見方となっているようです。

では、プロの批評家はどういう点をあまり高く評価しなかったのか。その理由は意外です。美術や音楽などの面ではなく、ストーリーに関して「主人公が成功にこだわりすぎていて気味が悪い」といった意見が出されたのです。ハリウッド周辺の批評家が、「自分がなりたいものになれる世界」という上記で私がまさに指摘した近代性と民主性に疑問を呈した――私は苦笑いを禁じ得ませんでした。

自由と民主主義を国是とするわりに、アメリカという国にはそれと相反する「保守的」な一面があります。プロの目を持つ映画批評家といえども、ハリウッドの世界に閉じこもってばかりいれば、自分の頭を周囲の前近代性にからめとられてしまう。批評家による評価は、アメリカの意外な古臭さとそのもろさを露呈する形になりました。

グレイシー監督のバックグラウンドと今後への期待

そんな硬直したハリウッドの枠組みを突き破り、人間の解放を見事に歌い上げた本作。実は、メガホンをとったグレイシー監督はオーストラリア人です。アメリカ人ではありません。主演のヒュー・ジャックマンも、です。『グレイテスト・ショーマン』は、くしくもフィニアスのサーカス団と同じように、「異なる人」が活躍したことで成されたブレイクスルーだったといえるのではないでしょうか。

そんなグレイシー監督は、映画の監督を務めるのは今作が初です。

気になったのでキャリアを調べてみれば、今作以前には視覚効果(VFX)のアーティストとしてCMなどを製作してきたそう。私は思わずうなずきました。時に息をのむほどの色彩設定や、特に冒頭「A Million Dreams」のシーンでの光や影絵には、VFXアーティストとして培ってきた考え方とセンスがよく表れていると思います。そしてそのキャリアと手腕が活きた前提として、P・T・バーナムを題材に採った、制作のスタートラインでの選択が冴えています。

グレイシー監督は『グレイテスト・ショーマン』で世界的大ヒットをとばした後、映画『ロケットマン』で途中まで監督を務め、エグゼクティブプロデューサーとしてクレジットされています。同作は映像が美麗なだけでなく独創的で、卓越した手腕にさらなる磨きがかかったように見えました。グレイシー監督の今後に期待です。

ラストのラストに拍手喝采!

『グレイテスト・ショーマン』のストーリーで私が最も評価するのは、ラストで、フィニアスが娘のバレエの発表会にサーカスのゾウに乗って登場するシーンなんですよ。チャリティと娘たちは大喜び、道行く人々からはどよめきが! 驚くようなことをやっては人を楽しませるフィニアスらしさが全開です。彼が帰った場所は、単純に愛する家族ではなく、それを含めた自分らしさ、自分で作り上げた夢の世界なんですよね。

ハリウッド映画では、「家族のもとに帰りました」というストーリーのテンプレートが長年定着してきました。古い西洋のキリスト教をなぞるテンプレート。前述したのと同じく、自由と民主主義を掲げるアメリカにいまなお根を張る「保守的」な一面です。

しかし、本作はそのテンプレートを一部踏襲しつつも、ハリウッドの思想的な古さとは明確に一線を画しています。主人公の立ち戻る先が、テンプレートのお約束である成功以前の状態ではなく、彼の自分らしさだからです。

しかも、このラストは単にアンチ・ハリウッドではありません。ただ逆を行くだけではアイデンティティにならない。「自分」になれない。ラストで主人公・フィニアスが強烈な彼らしさを輝かせたことで、『グレイテスト・ショーマン』という作品全体が世界に一つだけの本作らしさを放つことができたのだと思います。

見逃せないチャリティの人間性

19世紀という時代設定もあってストーリーへの関与はそれほど多くないのですが、チャリティのキャラクター設定はこれまたしっかりしています。彼女は、ただ抽象的に「愛する夫の帰りを望んでいる女性」ではありません。

私が「これはいい!」なとうなずいたのは、チャリティが社交界で上流階級の両親と再会した時に反発をみせるシーンでした。この人は小さいころから活発な性格です。それゆえ、清楚でふわふわな水色ドレスが個人の個性を根こそぎ奪う、まるで工場のような上流社会の人生をはっきりと嫌っている。だから、子どものころから好きだった相手と結婚し、不安定ゆえ次々と新しいことが起こる冒険的な人生こそが彼女にとっての幸せだった。フィニアスに「自分は幸せでこれ以上は望んでいない」と再三言っている背景には、そういう具体的な理由があります。ただ漠然と「お金がなくても幸せです」と美辞麗句を言っているのではありません。

本作の、時代設定ゆえに大きな動きができない登場人物までぬかりなくしっかり描き込まれているところには感心します。

サーカスの舞台の華やかなミュージカルナンバー!

ミュージカル映画として音楽が重要な位置を占める本作、作詞作曲は音楽映画のヒット作『ラ・ラ・ランド』のメンバー、ベンジ・パセックとジャスティン・ポールです。ですが、『ラ・ラ・ランド』の時の鈍いジャズを基調とした音楽性から打って変わり、『グレイテスト・ショーマン』の音楽はビートのきいたミュージカルらしい楽曲群。音楽の幅の広さがうかがえます。

また、キャストの歌唱は力量もさることながら、それぞれの個性が光っています。本作全体のテーマ性とよく合っていました。

現代社会に響く「This Is Me」

本作はなんといっても、描いたテーマがタイムリーでした。現代人の心に響いたのは決して偶然ではないでしょう。

サーカスの団員たちは、人種や障害など、人とは違う見た目のせいで社会から排斥され、嫌われ、隠され、いわれなき恥に悩み苦しんできた人々です。

そんな彼らが「もう見られることを恐れはしない、謝らない」と歌い上げる「This Is Me」は名曲でした。そうそう、自分の見た目はこれなのに、なんでそれが悪いことみたいに頭を下げなきゃいけないの? 見ていてスカッとしました。

しかも、音楽的にみると「This Is Me」はゴスペル調の曲で、ブラックなテイストにあふれています。太平洋のこちら側まで伝わってくる通り、アメリカでは近年、人種差別が激化しています。それに対抗する「Black Lives Matter(=黒人の命も大事だ)運動」が大きなうねりとなっている、その真っただ中のタイミングでコレをぶつけてきたのはカッコいい! また、見せ方としても、観客である私たちが差別されている人々に共感せずにいられなくなる視点で描いた点には芸術らしいキレがありました。

差別の害悪はどこにあるのかといえば、その大きな一つに、被差別側の人から自信を奪ってしまうことが挙げられます。無論、生まれや見た目によってつけられた人間の上下に合理的な根拠はありません。不当な言葉の暴力です。それでも、社会から「お前はおかしい」「劣った人間だ」「汚い」などとひっきりなしに言われ続けることで、本人が「どうせ自分なんて……」と劣等感の闇にのまれてゆき、心にシャッターを下ろしてしまうのです。ちょうど、チャールズが自室のドアをバタンと閉めてしまったように……。

そんな差別によって自分に自信を持てなかった彼らが輝ける、自分の居場所を見つける姿には思わず涙でした。この作品には、人間的なあたたかさも内在していたと思います。

「上流のオペラ」と「Not Enough」

と、「This Is Me」は歌詞だけでなく音楽としてもメッセージ性のある楽曲だったのですが、ジェニーが歌う「Not Enough」は違います。ジェニーはクラシックのオペラ歌手ですが、曲はバリバリのミュージカルナンバー、ミュージカルの歌唱で歌われます。

楽曲と歌唱自体は優れていたのですが、私はこれについては作品全体から浮いたクラシック的な曲をぶち込む手もあったのでは、と思いました。音楽性の全然違う曲をベルカントで歌い上げることで、「くっ、これが上流か!」と見ているほうが思わず唇をかんでしまう――そんな展開も熱いと思うんですよね。

しかしこのジェニー、フィニアスの心やサーカス団に割って入る毒々しい立ちどころではあるのですが、話をよくよく聞いてみれば深い味のあるキャラクターです。ぱっと見では上流を体現している彼女ですが、実際には婚外子だという生まれのせいで邪険にされた、暗い生い立ちを背負っているのです。

私は以前、くしくもヒュー・ジャックマン主演『レ・ミゼラブル』の記事で補足解説を加えたのですが、当時の欧米の婚外子差別は苛烈を極めます。キリスト教文化を根拠に本気で「人間ではない」くらいの汚いもの扱いで、奴隷同然にこき使われていることもめずらしくありませんでした。

だから、そうやって自分の存在自体を恥扱いされてきたジェニーは、ヨーロッパ随一のオペラ歌手として名声を手にした今でも「自分には価値がない」という思いが消えない。いくら喝采を浴びてもまだ足りない。「バーナムのサーカス」の団員たちと同じように、日陰者扱いによって心に深い傷を負った人です。悪い人ではありません。

一概に上流とはいえない、オペラの微妙な横顔

そしてもう一点、私としてはオペラという分野の立ち位置についても指摘しておきたいと思います。こちらは『オペラ座の怪人』の記事でいろいろ書いたのですが、本作でのオペラの描かれ方もなかなか興味深く、思うところがありました。

オペラといえば、日本でこそ高級芸術として祭り上げられていますが、本場ヨーロッパではそこまでではありません。上流の雰囲気がないとまでは言いませんが、カラーはもっと大衆向きです。欧米の芸術批評では「有名なグランドオペラにも出来の良くない作品はある」という指摘はごく普通にされていて、はっきり言えば、下品な作品もある。実を言えば、私にも、内容の下品さに辟易して見るのを途中でやめたオペラがいくつかあるんですよ。

職業的にもそうです。オペラ歌手といったら日本では高尚な芸術家のイメージですが、現地ではもうちょっと芸能寄り。ジェニーのキャラクター性は、そういった上流文化と大衆性の両方の顔を持っているので、私はそれらしいなと思いました。

ジェニーの「Not Enough」をオペラ調にせず、全曲をミュージカルナンバーでそろえた結果、それはそれで作品に統一感を生んではいます。ただ私的には、「バーナムのサーカス」の世界と社交界の対比を音楽で聞かせながら、上流文化が一概にエレガントではない微妙な側面を描く、なんていう見せ方もあったのでは、などと思いました。

夢ゆえの迷いと強さ

再びストーリーの面に戻ると、私の心にガーンと響いたのは、なんといってもフィニアスのこの言葉でした。

英国女王と謁見して、政治家から称賛された。それは他人の夢だった。

夢があるなら、誰しもが通る道だと思います。

夢を実現させようとすれば、おのずから成功を目指すことになります。そして、成功しようという意志があれば、他人の基準、社会からの評価を考慮しないではいられません。たとえば、新しい契約のオファーが舞い込んだなら、ミーティングには好みのTシャツではなく、デキる印象を与えるビジネスウェアを着ていくべきでしょう。会社を立ち上げたなら、信用されるため、うまくいっているよう振る舞わなければならない。自分のサイトを持って運営するなら、アクセス数は無視できない。それは自分を捨てるという意味ではなく、夢を実現させるために必要なステップなんですよね。それができないならば、夢は口だけの独りよがりにすぎません。

フィニアスは世間から認められることを求めます。貧しい生まれのせいで邪険にされ、町の人からはヤジがとんでくる彼にとって、自分の成功ぶりを示すのは、優雅な社交界の一員となること、政治家から称賛され、イギリスの女王に謁見することだった。

だけどそれは、自分を成功者に演出するためにやることであって、自分がやりたいことではありません。他人の基準、社会からの評価を考慮すれば、やっぱり、ゆくゆくは自分を見失うことになってしまうのです。

ただ、こうして「光に目がくらんだ」時期といえども、フィニアスは強欲なわけでも、はたまたコンプレックスから心がゆがんでしまったわけでもありません。豪邸なら世にいくらもあるのに、買い上げたのはチャリティとの思い出のつまった古屋敷。お金持ちになってようやく叶えられたのは、娘がやりたがっていたバレエ教室に通わせてあげること。さらに上流階級を呼び込みたいと奮起したのは、娘がサーカスのせいでバレエの友達から馬鹿にされてしまったから。いつでもちゃんと彼らしさ、彼の考え、そして愛する人への想いが表れています。

本当にやりたいことを見失ってしまうのも、夢ある故、行動した故。夢があれば次の一歩から迷いが生まれるのは不可避かもしれませんが、その裏には必ず、夢あるゆえの強さもセットになっている――『グレイテスト・ショーマン』はそんなことを教えてくれた気がします。

最高純度、本物の人間賛歌

最後には、私のごく個人的な、燃え上がらんばかりの感想を語りたいと思います。「人類の祝祭」の純粋さについてです。

P・T・バーナムが作った陰に追いやられた人々の輝く舞台は、慈善事業ではありません。それどころか、彼がやっているのは「見世物小屋」。ほめられる事業からは程遠い。レティも、チャールズも、ウィーラー兄妹も、団員はみな、そのことは百も承知です。

だけど、「バーナムのサーカス」に嘘はありません。金儲けが目的だからといって、肌の色や障害などにかかわらずステージでみな平等に輝いているという事実は変わらない。団員たちは、他に選択肢がないからしぶしぶやっているのではなく、みんな心からサーカスが好きなのです。それまで地球上のどこにもなかった、本当の自分が受け入れられる、自分がめいっぱい輝ける居場所なのだから。

「バーナムのサーカス」には障害のある人が大勢いますけど、福祉という分野を見渡せば、慈善という名の偽善、つまり「偽」の善意は掃いて捨てるほどあります。「助ける」と言って、上から手を差し伸べる。「自分はすばらしいことをした」「社会の役に立っている」という自己満足を盗んでいく。右手で人助けをしながら、左手では恵まれない人々を必要としている優越感依存の偽善者がまぁなんと多いことか。私の大嫌いなタイプの人間です。でも、「バーナムのサーカス」には、偽善は皆無でした。

しかも、サーカスが夢の舞台、理想の世界であるのはフィニアスも同じです。彼自身も、生まれのせいで金持ちから蔑まれた日陰者。彼自身が、いつか暗闇を抜け出して輝きたかった。だから、彼が社会から排斥されてきた人々を「家族」だと言った時には嫌味がありません。それが真実だからです。もし慈善事業だったら、この純粋な仲間意識は決して生まれません。

フィニアスの人柄は、どこまでも透き通って純粋です。お高い芸術批評家からは「偽物」だと批判されているサーカスですが、人の世に「人類の祝祭」として「本物」であることを越える価値はありません。

「なりたいものになれる世界」

フィニアス自身が自分を輝かせたころには、周りの面々もそれぞれの幸せにたどり着く――本作は、登場人物の個の強さが光ります。

バレエにあこがれていたキャロラインちゃんは、プリマとして舞台でさん然と輝いています。本作は、なにも、世間的に成功とみなされる地位を得ることを否定しているわけではありません。

一方、ヘレンちゃんの役は、なんと、木。脇役にも満たない背景ですし、バレエなのにそもそも踊っていない。だけど彼女は「私もプリマになれたらいいのに……」ということではなく、じつにおもしろそうに木をやっています。世間的に成功していないことは、これまた問題ではない。

自分が幸せであることが幸せなんだ――『グレイテスト・ショーマン』という作品の輝きは、華麗な歌やダンスの奥にある、大団円の純粋さからきているのだと思います。

しかもそのころ、サーカスのステージ上では、フィリップがアンと結ばれます。これは大事なポイントです。フィリップの両親のあの目つき。アンは、肌の色によって世間から低評価を受けている人です。社会の周辺部を生きる二級市民で、自分の存在自体が恥だということにされている。そんな世間の評価を蹴散らし、「不可能を可能にした」二人の姿は、ただのハッピーエンドを越えて、現代社会に強く訴えるものがありました。

生まれや見た目にかかわらず、自分がなりたいものになれる世界。

その人の存在が完全に認められること。その人が人間であることが100%認められること。

「人類の祝祭」は完全無欠、純度最高でした。私のこの両手から、「世界最高のショー」に拍手喝采を贈りたいと思います。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSE

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(記事公開:2022年4月5日。2024年9月8日、「グレイシー監督のバックグラウンドと今後への期待」の項を新たに追加し、関連する箇所を加筆しました。

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