アスペルガー症候群の有名人が特徴ある話し方のスピーチで残したもの

先日、アスペルガー症候群を公表している有名人が、世界中のメディアをにぎわせた。スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリ氏である。彼女は、16歳という若さと世界規模にまで広がった環境活動、そして国連での「涙のスピーチ/怒りのスピーチ」で、一躍「時の人」となった。

アスペルガー症候群をはじめとする多くの障害について、正しい知識と理解しようとする風潮が広まっているのは大変好ましいことである。しかし一方、今回の件はアスペルガー症候群の人への具体的な接し方、メディアの取り上げ方や、そもそも「理解する」とはどうすることを指すのかといった点で、多くの困難な課題を残した。

今回は、アスペルガー症候群とは何かの定義やその特徴を確認したうえで、トゥーンベリ氏の国連スピーチで浮き彫りになった現代の課題の数々を指摘し、考察したい。

目次

アスペルガー症候群とは?

定義

精神疾患の国際的な診断基準となっているWHO(世界保健機関)の「ICD-11」では、アスペルガー症候群は次のように定義されている。

6A02.0 Autism spectrum disorder without disorder of intellectual development and with mild or no impairment of functional language

アスペルガー症候群とは、発達障害の一つである自閉症スペクトラムのうち、知的発達に遅れがなく、言語発達の遅れが少ないまたはないものをいう。広義での自閉症の一種だが、知的発達と言語発達に遅れがないため幼児期にはわかりにくく、成長とともに明らかになるケースが多い。原因は、脳の機能障害だと考えられている。

アスペルガー症候群は、はじめて概念のもとが提唱されたのが1943~44年、英語圏で話題になるようになったのが1981年という新しい概念である。さらに、古典的な自閉症だけでなく一定の幅(スペクトラム)の疾患群を含んだ「自閉症スペクトラム」という概念もまた最近のものであり、「広汎性発達障害」といったほぼ同じ意味の用語もある。こういった事情のため、アスペルガー症候群には上記WHOの定義のほかに大きく分けただけでもう一つ考え方があり、医師や専門家によって採用する基準が異なっている。アスペルガー症候群の定義や似た概念との兼ね合い等は、研究によって今後も変わっていく可能性がある。

特徴

厚生労働省の情報提供サイト「e-ヘルスネット」によれば、アスペルガー症候群の人には

  1. 表情や身振り、声の抑揚、姿勢などが独特
  2. 親しい友人関係を築けない
  3. 慣習的な暗黙のルールが分からない
  4. 会話で、冗談や比喩・皮肉が分からない
  5. 興味の対象が独特で変わっている(特殊な物の収集癖があるなど)
  6. 身体の使い方がぎこちなく「不器用」

といった特徴がみられるとされている。

アスペルガー症候群の人は、コミュニケーションや対人関係で困難をきたすことが多い、特定の対象への「こだわり」が非常に強い、という特徴を必ず備えている。限られた対象への「こだわり」は、具体的には、年少で「○○博士」になっている(たとえば膨大な種類の虫を知っている)、電車の時刻表を隅から隅まで暗記する、ネコを殺害して死骸を収集する、など様々な形で現れる。

NPO法人東京都自閉症協会は、「アスペルガー症候群を知っていますか?」Web版で、その特徴を一般向けに具体例を挙げながら解説している。

アスペルガー症候群の人の話し方には、場にそぐわないほど難しい言葉や丁寧語を使うという特徴がある。知的発達に遅れがなく幼児でも難しい言葉を知っているため「頭がいい」ように受け取られることがあるが、話すほどには理解していないことがある点には注意が必要だとしている。学業成績は様々で、かなり優秀な子もいれば全体的に苦手な子もおり、特殊学級へ転籍する児童もいるという。

また、アスペルガー症候群の人の話し方には言葉だけでなく、ジェスチャーなど非言語的な面にも特徴がある。思春期以降だと芝居がかった身振り手振りをしがちだが、本人にはそれが大げさだという自覚はない。

上記リスト3番の「慣習的なルール」というのは、たとえば「他人の体形のこと、とりわけ『太っている』というのは失礼なので言ってはならない」などのことをいう。アスペルガー症候群の人にはこういった慣習が分からないため、悪意はないのだが友達に直接「太っているね」などと言ってしまい、相手を怒らせたり傷つけたりしてしまうのである。

ほかにも、話し方が非常に回りくどい、自分の興味を一方的にしゃべる、相手の表情から感情をくみ取ることが苦手である、冗談・比喩・慣用表現・皮肉などの表現を理解しにくく言葉通りに受け取ってしまう、といった特徴がみられる。

独特な話し方や他人の感情を読み取るのが苦手だといった症状から、アスペルガー症候群の人は対人関係でトラブルになりがちで、いじめにあうことが健常者の数倍多いという調査結果も出ている。そういったトラブルの原因として、親の甘やかし、あるいは愛情不足や虐待が疑われることもあるという。

治療法と対処

アスペルガー症候群自体に、治療薬はない。極度なこだわり、てんかん発作、かんしゃく、イライラ、多動、不眠、対人関係トラブルから発症したうつなど、個別の症状は薬で軽減することがある、というだけである。

なので対処としては、まず本人がアスペルガー症候群の障害特性を認識するとともに、その特性に合った専門的なソーシャルスキルのトレーニングを行い、また周囲のサポートを厚くすることで、症状から生じてくる社会生活上の困難を緩和していくことになる。

国連スピーチの事実関係と、そこにみられるアスペルガーの特徴

以上より、アスペルガー症候群の人の言葉選びやジェスチャーには独特さがあることが分かる。

事実関係を整理すると、グレタ・トゥーンベリ氏は、地球温暖化への対策を自国スウェーデン政府および世界各国に求めるため「Fridays For Future」と名付けた学校ストライキを行った。その活動は自身のTwitterを通して各国の若者に広がり、2019年9月23日には国連の気候行動サミットに招かれスピーチをすることになった。スピーチの内容は、温暖化対策の遅れが子どもたち/若者の未来を奪っていると批判するとともに、世界各国のリーダーに早急な地球温暖化対策を求めるものだった。同スピーチはその内容だけでなく、トゥーンベリ氏の16歳という若さや話題性、「一人で始めた活動が世界に広がり、ついには国連にまで呼ばれた」というドラマ性、スピーチ中に流した涙や激しい言葉遣いから、「涙のスピーチ」「怒りのスピーチ」として注目を集め、映像は世界中で放映された。

この国連スピーチには、世界中のメディアやネット上から「感動した」などと称賛の声が上がる一方、全体を通しての攻撃的な言葉や口調、敵対心、声を荒げての”How dare you!(よくもそんなことを!)”といった罵倒、合理性によるべき政治的発言において涙を流したこと、そして”…you would be evil.((もし状況を知りながら行動しないなら)あなたは悪だ)”と人に対して「悪」と名指しする発言などには疑問や批判も相次いだ。正当な批判意見だけではなく、本人への誹謗中傷も噴出している。

一般に、政治的発言の場において涙を流したり聴衆に対して攻撃的な表情を向けるのは不適切である。いかなる理由であれ政治的決定に恣意は許されないからだ。

しかし、アスペルガー症候群の話し方の特徴を念頭に置けば、彼女のスピーチの一部は障害特性に起因するのだと理解できる。すなわち、報道写真でクローズアップされた表情は「独特な表情」にあたるといえ、ジェスチャーは思春期以降にあらわれる「芝居がかった身振り手振り」にあたる可能性があるといえる。どこからどこまでがアスペルガー症候群に由来するのかについては、専門家による判断も必要だろう。

ムーブメントの考察

本記事の目的は、話題となった国連スピーチへの称賛、批判、さらには誹謗中傷も含めた、トゥーンベリ氏にかかわるムーブメントの全体を考察することである。

とはいえ、ムーブメントの全体像は非常に複雑である。本人の言動だけでなく、それへの反応、反響や、社会への影響なども絡み合っているからだ。

まず最初に確実に言えることを押さえると、以下の3点、すなわち

  • 環境活動家=言論者である
  • 未成年者である
  • アスペルガー症候群である

という要素は、トゥーンベリ氏に関する客観的事実であると同時に、彼女自身が大いに活用しているTwitterのプロフィールに記載しており、したがって考察にあたり外せない要素だと考えられる。メディアも、キャラクター化や偶像化の良し悪しは別として、たいてい「16歳の」環境活動家と紹介している。

グレタ・トゥーンベリのTwitterプロフィールのスクリーンショット
トゥーンベリ氏のツイッタープロフィール(2019年10月19日現在)。16歳という年齢とアスペルガー症候群であることを本人が打ち出していることがわかる。

これら3点のうち、未成年者であることとアスペルガー症候群であることは、メディアが取り上げる際に配慮すべき属性である。トゥーンベリ氏は、二重に配慮を要する人物なのである。

この記事が扱う彼女のバックグラウンドは以上の3点で、他には触れない。

ムーブメント考察にあたっての分析視角は多岐にわたる。本記事は、

  • 表現の自由をめぐる諸問題
  • SNS(とくにTwitter)が提起する新しい課題
  • 未成年者の権利に関する新しい課題
  • メディアのあるべき姿や社会的使命
  • 民主主義
  • カリスマ崇拝やポピュリズム
  • アメリカ政治
  • 環境問題
  • アスペルガー症候群など障害がある人との共生

といった論点を扱う。適宜ファクト・チェックを入れながら考察していきたい。

アスペルガーの特徴を「個性」として生かす!

アスペルガー症候群の特徴の一つに、特定の対象への「こだわり」がある。この特性についてはこれまでも、良い方向で発揮できればある分野の「天才」になり、有名人となっていくケースもある一方、障害が見過ごされ必要なトレーニング等を受けられなければ、凶悪犯罪を起こすなど悲劇につながるケースが報告されてきた。

トゥーンベリ氏が地球温暖化問題の話を初めて聞いてショックを受けたのは8歳の時だという。人類の持続可能性をおびやかす問題はいくつもある中、彼女はその一つである環境問題に並々ならぬ「こだわり」を持つに至った。

アスペルガー症候群の特性を、環境問題という社会的に望ましい対象への興味関心へ活用したのである。

そもそも、すべての人はそれぞれに個性を持っており、その個性を生かせる学校や職場で力を発揮するのが本人にとっても社会にとっても好ましい。

人の性格には、興味の幅が広く浅いタイプと、反対に一つのことを深く掘り下げるタイプがある。一点集中寄りの人なら世にいくらもいるが、アスペルガー症候群の「こだわり」は、その程度が極地に達しているととらえることが可能である。「正常でない」という否定的な評価ではなく、「個性」の一つとしてとらえれば、それを生かす道がひらけるといえるだろう。

ただし、世界に報じられた国連でのスピーチには、論点や問題点も山積している。彼女へのサポートおよび周囲や社会との対話が十分であったかは、大いに疑問である。一連の運動は、今後に困難な課題を多数残した。

「言論には責任が伴う」という当たり前のことが忘れられた世界

民主主義国家・日本における政治への無関心、投票率の異常な低さに対して警鐘を鳴らす有識者は多い。なかには学部生の意見を「表現に稚拙さはあるが」などと断りを入れたうえで積極的に紹介するような人もいる。ところで、今回の環境ストライキは、若者たちが起こした世界規模の政治運動である。ならば、こうした有識者はそれを真っ先に取り上げ、称賛したり、あるいはそれを可能にする社会への羨望を吐露したりしそうなものだ。

しかし今回、こうした有識者たちは彼女を称賛するどころか、ひたすら沈黙を守っている。

なぜだろう。

もう一人、私の知人は環境問題に関心を持っていて、普段から海洋プラスチックごみに関する海外ツイートをシェアしたりしている。彼女は広い意味での言論に携わった経験を持っており、先の「#MeToo」をはじめツイッター上でムーブメントがあるたび、積極的に意見を述べている。ところで、トゥーンベリ氏の活動は環境保護がテーマであり、しかも拡散の中心がツイッターだったのだから、彼女なら我先に手を挙げそうなものだ。

しかし、この知人は今回に限って一切反応をせず、口をつぐんだままである。

この妙な静けさは何だろう。

言論の難しさを身にしみて知る彼らが、「沈黙」という消極的な選択をとった。そこに、このムーブメント、特に国連スピーチの問題点が集中していると思われる。

言論・出版には、緊張と抑制が含まれている

憲法で保障される「言論・出版の自由」が問題になる場面は、たいてい自由が妨げられたときだ。自由とは、危機にさらされて初めて、その尊さをありありと感じられるものである。平たく言うならば、国家権力が口をふさいできたときに、「言わせろ」と主張するのである。

しかし法的な自由の保障とは別に、表現者の視点でみれば、表現というものには本質的に抑制が含まれている。

第一に、言論を行うには知識と技能が必要だ。まず最初に、表現したい思いを他人に伝える手段が必要になってくる。読み書きなら初等教育で学べるが、本格的な言論を行うならさらに技能を磨かなければ表現物は完成しない。表現内容が決まり、技術を身に付けたら、次には下調べに入る。あやまって事実と異なる情報を流してしまえば人々に混乱を引き起こすことになるので、表現内容は可能な限り正確でなければならないからだ。下調べの範囲は、自分の専門分野以外にまで大きく広がる。こうして出そろった思いや考えや情報をまとめあげるのは、実に地道な作業である。ここまでのステップをこなした表現者は、ここでさらに、その表現物が発表されたら社会にどのような影響を与えるかという社会的責任を考慮することになる。この社会的責任は微妙なものだが、たとえば誤解を与える可能性がある表現、差別的だと受け取られ得る表現などは、表現者自身が発表前に削除する。こうした表には出ない数々の段階を踏んで初めて、自己の言論を発信できるようになるのである。

次に、節度も要求される。言論者は、たとえ反対意見の相手であっても、同じ人間として尊重をした言葉と態度で臨まなければならない。もし節度なくマシンガンのごとく言葉をぶつけるなら、それは言葉による暴力にすぎないのである。

威迫によって自己の主張を押し通そうとするテロ行為は、決して許されない。

先に触れた日ごろ環境問題に関心を寄せている知人は、以前、メディア上でのほんの一言の言い回しによって「(ある災害の)被災者の方々を傷つけてしまった」と深く落ち込んでいたことがあった。その件は規模的にも内容的にもそこまで深刻ではないと思われたが、それでもそうなのである。プロの言論者は得てしてこうした後悔、あるいは間違ったことを言って恥ずかしい思いをした経験をいくつもくぐりぬけている。言論には、常に慎重さが求められるのである。

さらに、言論者にとって「自分は絶対に正しい」と信じることは禁物である。「自分は正しい」で凝り固まった頭は客観性を失わせ、自らの論を弱らせてしまうばかりか、自分を社会に対して専断的にさせるからである。歴史上、「自分は正しいことをしている」という観念は、しばしば抑圧、虐殺、戦争の引き金になってきた。言論を行う者は、「自分が最も間違っていると思う者が本当は自分より賢い可能性」を頭においておくのでちょうどいいのである。

ドイツのある高名な学者が彼と正反対の立場をとる学者に言った次の言葉は、言論の自由の本質をいかんなく表している。

「私はあなたの主張をただの一つも良いと思わない。しかし、もしあなたが発言する自由を奪われたなら、私は全力であなたを擁護するだろう」

自分が言論・出版の自由をもって表現の舞台に上がったにもかかわらず、他人には同じ自由は認めない、ということは許されない。自己表現は開放的な活動であるが、決して自分だけの特権ではないのである。

以上の通り、言論は、本質的に緊張と抑制を伴う。言葉や感情をただ爆発させるのを「言論の自由」だと考えるのは適当でないのである。

ヘイトスピーチが世界中で問題となる中、言論には本質的に緊張と抑制が含まれるのだという視点は、いっそう意識されるべきであろう。

責任なき言論を当たり前だと思い込んでしまった現代人

今日、責任を忘れた言論は世界に氾濫し、もはや当たり前となってしまった。これがインターネットの出現に起因するのは、周知の事実であろう。

今回のムーブメントでは、トゥーンベリ氏が活動の規模に応じた、つまり世界規模での多層的な責任を背負っているのだという点ついて、言論のプロであるはずのメディアまでが無頓着だった。言論に伴う責任が忘れられる潮流が、いっそう深刻化したことを示していると思われる。

もし恥じることも、後悔することも、落ち込むこともない表現者がいるとすれば、それは自身が負う責任を理解していないか、もしくは踏み倒しているからである。

ここで指摘しておくが、重要なのは、たとえ発言者が自らの責任を自覚していなくても、責任がなくなっているわけではないということだ。ネット上で有名人や特定個人を誹謗中傷したり、ただの憶測やフェイクニュースを流したり、遊び気分でヘイトスピーチを行っていた者がある日突然法的責任を問われ、「まさかこんなことになるとは思わなかった」と青ざめた、などという事例は昨今後を絶たない。

インターネット、特にSNSについては、後で詳述する。

「甲子園式批評」の必要と限界

NHKは、トゥーンベリ氏の国連スピーチにほぼ一貫して称賛の態度をとった。番組中では「ウルウルする」という視聴者の感想も読み上げていた。そんなNHKから私が感じたのは、甲子園の浜風である。

前述の通り、トゥーンベリ氏は二重の配慮を要する人物である。ここではアスペルガー症候群とムーブメントの関係を考察する前に、未成年者であるという要素から残った課題を洗い出し、現代社会の状況を整理したい。

さて、エラー=失敗をとがめず、良いところを見つけてほめ、あたたかく成長を見守る。こうした未成年者への教育的配慮を、私は「甲子園式批評」と呼ぶことにする。

一般には、「甲子園式批評」は必要だ。メディアは未成年者を取り上げる際には、今後の可能性を十分考慮し、配慮すべきである。未成年者の言動には、知識や社会経験の未熟さゆえ、間違いが含まれやすい。そういった場合でも、ただきつく当たるのは教育上適切でない。間違いを指摘するに際しては、当該未成年者の可能性を信じるとともに、今後の健全な成長に配慮するべきである。さらに、たとえ未成年者の言葉が差別的であったりしたとしても、怒りをもって一方的に非難するのではなく、当該未成年者の年齢や理解力に応じて理由をきちんと説明し、相互理解を深めるよう指導していくべきである。さもなくば、それは児童の心に単なる「我慢させられた」経験として記憶され、かえって憎悪と差別につながりかねない。経験的に言えば、学校で児童生徒が差別用語を使ったときなどには、たいていこのような教育的対応がとられているだろう。

甲子園について言うなら、高校野球は大会の趣旨からして教育目的である。野球に打ち込み、技を磨き、仲間とともにすばらしい大会でプレーした経験が今後の人生の糧となるよう、解説者は高校生を後押しすべきである。大舞台でのエラーをとがめる必要性はない。もし高校生の部活の大会にわざわざ出張ってエラーを揶揄するなら、そのほうがよっぽど人間性に問題があるといえよう。

ただし、甲子園では逐一ほめられていた高校球児も、プロ野球選手になれば、エラーを厳しく非難される。

ここで話をトゥーンベリ氏に戻すと、彼女は未成年者であるが、言論者としては「プロ」というべきである。彼女は自身の言論を意図的に「拡散」しており、ムーブメントを世界規模にまで発展させ、部活の大会ではなく国連でスピーチをした。にもかかわらず「未成年者だから」という一事をもって一連の責任を免除するのは妥当とはいえない。(筆者が彼女に「トゥーンベリ氏」という呼称を用いているのは、彼女をアイコンではなく、一人の言論者として扱うためである。書き進めていてちぐはぐな感じがしないでもないのだが、「グレタさん」など他の選択肢よりは適切と思われるので採用した。)

NHKをはじめとするメディア各社の反応は、「甲子園式批評」だったといえよう。傷つけないよう批判を避け、子どもの勇気とがんばりを、あたたかい目でひたすらほめる。

今回こういう対応をとったメディアは、彼女が何歳になったら教育的配慮をやめ、一人前のプロ扱いに切り替えるのだろうか。

これは難しい問題である。考えもしなかった、というのが実のところかもしれない。職業人としての能力を備えたテレビ局員や新聞記者の多くは、トゥーンベリ氏の国連スピーチに多数の問題があること、そして、もし彼女が成人だったら痛烈な批判が巻き起こったであろうことは、口には出さずとも頭の中では認識しているのではないかと思われる。もし彼女の成人を以て批判を「解禁」するというなら、今回の国連スピーチ等には、彼女がめでたく成人した誕生日の朝から、前の晩まで「甲子園の解説者」だったメディア各社が正当な批判を集中的に浴びせることになろう。それでは、まるで袋叩きである。だからといって「解禁」せずに自主規制を続けるのも、それはそれで大問題である。想定できる今後の成り行きのうちで私がピックアップする最悪なシナリオは、メディアがトゥーンベリ氏というアイコンを今後も利用し続け、かつ、彼女が成人しても、いつまでも「16歳のグレタさん」の偶像性を「その人」に投影するというケースである(もっとも、メディアというのは時の有名人からあっさり手を引くということは重々認識しているが、その場合でもケーススタディとしては変わりがない)。

「甲子園式批評」によって言論の舞台に批判が許されない「聖域」をつくれば、それは必ずや、悪意ある者によって利用されるであろう。私はその危険性を指摘したいと思う。

「甲子園式批評」が悪用される危険性

たとえば、もし未成年の民族主義者が涙を流しながら特定民族の排斥を訴える運動を行ったとしたら、メディアや社会が批判できない、もしくは批判しにくい、としたら、これは由々しき事態である。

あるいは、成人や特定の団体が「未成年者はグレタさんほどやっても批判されないのだから有用だ」と目を付け、取り入ろうとすることも考えられる。民族主義団体が未成年者を勧誘し――現代のネット環境により、人々の思想を陰から巧みに誘導することはすでに可能となっている――差別発言やヘイトスピーチを行わせることで批判を免れようとする、といった悪用法が予測できるのである。または、メンバーが未成年のうちに言論へ「デビュー」させてしまうことで「甲子園式」の配慮を得、批判の手をやわらげようとする、ということも考えられる。

ここで、トゥーンベリ氏の活動は環境保護であり、差別などと違って内容が正当なので悪用等は関係ない、という意見が可能かと思われる(もっとも、ある意見を絶対的に良いと決めつけるのは言論者らしからぬ態度だが。掲げられた「目標」と「手段」の関係は大変重要なので、あとで詳細に論じる。)。

しかし、自由というのは、穴一つが命取りである。すべて原理原則は人類社会で起こり得るありとあらゆるケースに妥当しなければならないし、「この世で最も悪意を持った者」を想定することであらかじめ悪用への道を断っておかなければならない。これを理解するには、ワイマール憲法を想起すればよいであろう。ワイマール憲法は世界史上最も民主的な憲法だったともいわれるが、大統領の緊急命令権という「穴一つ」のために、ナチスの権力掌握を許したのである。

トゥーンベリ氏の件を「未成年者の言論には批判できない、批判しにくい」という先例にしてしまえば、今後「甲子園式批評」の悪用に歯が立たない。世界各国及びメディアは、急いで議論と準備を行うべきである。

ここでいったん、うんと踏み込んだ議論を行いたいのだが、この課題について考える際、参考になるのは少年法の立法意図であろう。刑事未成年者が犯罪を犯した場合は、その生い立ちや家庭環境、見過ごされた発達障害の有無(たとえば、専門家がみれば明らかにアスペルガー症候群なのに受診歴がなく、医療サポートを受けられなかったことが事件の背景にないか)などをよく調査した上で、原則刑事罰のみを目的とした刑務所ではなく、少年院で教育に重きが置かれた保護処分がとられる。これは、先が長く根本的には大きな可能性のある少年の場合、ただ罰するより今後の人生を歩む力を与えるほうが、本人のみならず社会にとっても好ましいからである。ここでの教育とは、人を刺殺した少年が解剖学者になれるよう支援するとか、少年事件という分野のアイコンとして芸能人のような立場での人生を決定づけるとか、尊い命を奪った過去を本人から取り除いてまったく新しい人生を与える、といったことではない。かつて複雑な事情から人を刺し殺し、適切な教育を受けて退院した少年は、人を刺すこととはまったく別の職能を身に付けて地道に働きながら、どんなに反省しても永遠に取り返しがつかない、重い経歴を負った人生を歩んでいくのである。

インターネット・SNSが言論に投じた光と影

未成年者の問題発言への対応いかんという課題が浮上した背景には、未成年者が世界規模で言論を展開すること自体が新しく、世界の対応が追いついていなかったという現状がある。

インターネットというテクノロジーが出現する以前、言論・出版を行う者はみな職業人=プロフェッショナルであった。したがって、彼らには一定水準以上の知識と節度を期待することができたのである。彼らは言論に伴う責任を理解し、受け入れたうえで表現者の道を進んだ人々である。「未成年のプロ」は事実上存在しえず、例外的に存在するとしてもそれは漫画の新人賞受賞者など、職業人としての知識と技能を十分に持ち合わせ、かつ言論者となることの意味を解している、成熟した者であった。

ところがインターネットの普及は、職業人でない一般人が表現を全世界に発信することを可能にした。プロとアマの境界線はあいまいになり、発信者の能力を伴わない投稿等が「拡散」する事態も出てきた。表現に伴う社会的責任の程度は、一概には言い切れない複雑な様相を呈している。

そこにもってきて、SNSという新しい投稿型サイト運営サービスが、表現へのハードルをさらに下げる働きをした。インターネット以前には言論を行うには職業人となるための関門を通らなければならなかったのが、SNSのおかげで、メールアドレス一つあれば誰でもかんたんに言論へ身を投じることができるようになったのである。

一般の人々が自由に表現できるようになったこと自体は、第三次産業革命・インターネットの「光」である。自由な言論は、民主政にとっても必要条件である。

ただ反面、ネット上では知識と節度のない表現や情報が大量に生まれ、氾濫する結果となった。責任を自覚しないまま言論を行ってしまう者が、世界中で無数に生まれている。フェイクニュースが人々に信じられ過熱する例もみられる。これらはインターネットがもたらした「影」である。

一般の人が何の関門も通らず自由に表現できるようになったことは、必ずしも本人や社会に幸せをもたらすわけではないのである。

「気軽に」表現するのが当たり前な風潮は、良い悪いは別として、現にできてしまっている。自分が発信するにあたって、「自分はその言論をするに十分な力を身に付けているか」「責任を理解しているか」といった資質は、自力で判断しなければならない。同時に、受け手側にまわったときも、情報のクオリティを見極める力はますます重要度を増している。一般の人が一日に何度も――時には数秒ごとに――表現者と受け手の立場をスワップする現代において、そういった主体性は以前に増して重要になっている。

SNS拡散の光と影

地球温暖化は、人類の持続可能性を脅かす人類共通の課題の一つである。ところが、米国第一主義を掲げるトランプ大統領はパリ協定からの離脱を宣言。彼が世界一の超大国の大統領となったことで、世界の地球温暖化対策は後退した。この事態に、今回のムーブメントがTwitter等SNSで「拡散」されたことで、スポットライトが当たったのである。インターネット以前には、一般の人、しかも未成年者がこのような告発をすることなどあり得なかった。

他方、投稿が「拡散」すれば、社会的責任もその規模に応じて膨張する。自分は有名人でないからと油断していたら何気ないツイートが拡散して怖い思いをした、などという一般人も、近年は多く出ている。

そればかりか、ネット上では、攻撃的な発言をする人物が、ある種の人々に「カリスマ」と映りもてはやされることが少なくない。その典型が、「ツイッター大統領」トランプ氏である。

地球温暖化への注意を世界規模に「拡散」させたのもSNSだが、感情論によって民主的プロセスを破壊し、そのムーブメントに大きな疑問符を付けたのもSNSである。思わず首をひねってしまう、現代の悩ましい情勢である。

Twitterは物事の「単純化」に向いている

そんなSNSのなかでも、Twitterは一癖ある存在だ。投稿の字数が、たった140字に限られているのである。

伝える内容が「夏物セールは明日からです。最大70%オフ。ぜひご来店ください」程度のことだったら、140字でも余りある。

しかし、さまざまな視点・論点を提示したり、論を論理的に進めたり、根拠を示したりするには、140字は圧倒的に足りない。なのでツイッターは本来言論や議論にまったく向かないプラットフォームなのだが、現に政治で影響力を持つに至っている。

結果、140000字割いて然りの事柄までが140字で論じきれているかのような錯覚が、世界中多くの人々に蔓延してしまった。あったはずの139860字がそぎ落とされることによって、物事は極度に「単純化」される。それが目も当てられぬヘイトスピーチや感情論、トランプ大統領に代表されるポピュリスト台頭の土壌となっている。

世の物事は非常に複雑だが、それを極度に単純化するという手法は、たびたび独裁者の権力掌握や戦争に利用されてきた。ヒトラーは自伝『わが闘争』で、次のように述べている。

宣伝は永久にただ大衆に向けるべきである!(中略)その知的水準は、宣伝が目指すべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。(中略)宣伝の学術的な余計なものが少なければ少ないほど、そしてそれがもっぱら大衆の感情を考慮すればするほど、効果は的確になる。

ヒトラーが大衆宣伝に着目し、宣伝大臣というポストまで設けていたことはよく知られている。そのヒトラーが、宣伝を誰でも理解できるレベルに設定することと「感情」というキーワードを並べていることには注意すべきだろう。知的水準が「最低級のもの」とは人をひどく馬鹿にした言いようだが、ヒトラーはいまこそあらためて研究すべき対象ではなかろうか。(私がこの記事を難易度ハード指定で「学術的」に書いているのは、ポピュリズムの感情論に対して理性的な議論は必須であり、その力を持っているとおぼしき人々が口をつぐんでしまったいま、たとえ粗削りでも何かを試みようと思ったからである。理性的な議論の必要性には疑いの余地がないと思われるが、『わが闘争』のこの一節を見てしまうと、本当にこのやり方だけで対抗できるのだろうか、しかしヒトラーと同じことをやってはならない、などと新たな課題を突き付けられる!)

ツイッターならではの、たった140字への「単純化」には今後も警戒すべきであろう。

提言:児童の権利に提起された新しい課題について

国連の「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」では、児童の意見表明権(12条1項)と表現の自由(13条1項)を定めている。

子どもの権利条約に批准する各国は、未成年者を権利主体として扱うよう求められてきた。それでも、児童の意見表明権の念頭に置かれているのは、主に家事調停の場面などだった。表現の自由の条項は、おおよそ基本的人権の一般論を確認したものとみられる。

ところがインターネット、とりわけSNSの出現により、従来想定されていなかった問題が提起されている。未成年者が世界規模で表現を行い、したがってそれに付随する膨大かつ多層的な責任を負う事態が生じたのである。さらにトゥーンベリ氏の発言や顔写真、動画は世界規模かつネット上で「拡散」したので、事実上永遠に消去できない状況に陥っている。たとえそれらが今後本人の人生に支障をきたしたり、本人が「忘れられる」ことを望んだりしたとしても、政治的言論である以上、消してはならないという原則も働いてくることが予測できる。たとえ成人であれ、軽率な言論はその者の人生を破壊しかねない。知識等が未熟なまま自己の名で言論を行ってしまうのは、職業人として言論・出版を行う者の目から見れば、哀れなことである。

児童の政治的言論を含む表現を委縮させることなく、同時に、その権利と、未成年者の保護や言論に伴って児童が負う責任をどう両立させていくのか。

この新しい課題は、法的にも、ネットの現状の面でも複雑である。単純明快な解決策は出せないだろう。民法上の未成年者保護や不法行為法、少年法の立法意図などを参考に、精査と熟考を重ねていくしかない。国連、各国およびメディアは、早急に、国際的に、議論を深めるべきである。

美談と感動のジャーナリズム

今回のムーブメントでは、日本の主要メディアはほぼ称賛一本であった。その背景は、先に指摘した言論に含まれる本質的な抑制や「甲子園式」の配慮、だけではないだろう。

テレビの報道は「エンタメ化」が進んで久しい。真実の追求というジャーナリズム本来の社会的使命ではなく、視聴率をとる方策、いわば「受けねらい」が、ノンストップで続いている。そこで重宝されているのが、美談と感動だ。

メディアでは、トゥーンベリ氏の国連スピーチが「感動を呼んだ」ことを「すばらしいことを成し遂げた」と同義で使用しているのをよく見かけた。しかし、この思考は早計である。本来、感動という感情は「イコールすごい」ではなく、いったん立ち止まって考察の対象としなければならない。歴史を振り返れば、中世、聖地イェルサレムに入城した十字軍の戦士たちは、くるぶしまで血の海につかって進むほどの大虐殺を行い、歓喜の果て、幸福に酔い、嬉し泣きをしたという。彼らは、感動していた。ただでなく感動していた。人々に感動を与えた。十字軍の兵士は感動を巻き起こしたのだから、すばらしいことを成し遂げたといえるだろうか。とんでもない。感動に泣きむせぶ彼らの足元は、血の海だった。英雄主義の熱狂と陶酔のうちに行われたのは、異なる文化への迫害と、世界史に残る凄惨なジェノサイドである。このような事例があるので、「感動を与えた=すごい」という単純な思考ではなく、一歩踏みとどまって、行為そのものが適切だったかを考える必要があるのである。

近年、美談と感動のテレビと視聴者の間に溝が生まれていることは少なくない。サッカーワールドカップの開催中、テレビが「日本は次の試合に勝てる!」と興奮を振りまいているさなか、身近な人々が「勝てるわけない」と冷静でいるところを、私はこれまで幾度も見てきた。メディアが称賛する社会活動家等に対して巷でまったく別の意見が聞かれることは、もはやめずらしくもなんともない。

メディアが「受けねらい」で珍重する美談と感動は、皮肉にも、視聴者のメディアに対する不信感につながっている。この「大手メディアはうそをつく」という不信感が、さまざまな陰謀論、そしてフェイクニュースを生む土壌となっている。

なぜ日本メディアは彼女のアスペルガーに言及しなかったのか

実をいうと、私はトゥーンベリ氏のTwitterの実物を確認するまで、彼女がアスペルガー症候群だとは少しも知らなかった。私のもとに届いた日本の各報道が、一言も言及しなかったからである。

考察の冒頭で確認した通り、アスペルガー症候群であることは、トゥーンベリ氏本人が環境問題と同等に、主張の中心に据えている。トゥーンベリ氏本人、有名人として偶像化された「グレタさん」の双方において、アスペルガー症候群は外せない要素のはずだ。

にもかかわらず、日本メディアはなぜアスペルガー症候群への言及をひかえたのだろうか。これについてはひとまず推測するしかないが、考えられるいくつかの可能性を列挙しておきたい。

第一に、アスペルガー症候群は欧米ではよく知られているが、日本での認知度はあまり高くない。そのためジャーナリストが扱いきれなかった、または扱う自信が十分になかった可能性がある。

第二だが、障害には、長く暗い差別の歴史がある。だからこそオープンに話題にできるとよいのだが、健康状態は人類にとって、人種、性別、宗教などと並ぶ大変デリケートなテーマだというのもまた事実である。フィクション作家が誤解やトラブルを避けるため障害のある人物を描くのをひかえざるを得なかったケースもあると聞く。同様のことがメディアに起きたのかもしれない。

第三の理由はもっとプロフェッショナルだ。プロの能力を備えたテレビ局員や新聞記者の大半は、彼女は「ラウド・ボイス」をもつだけの人物だと心の中では認識し、一流の知識人とはみなしていないと思われる。スピーチのクオリティがその水準では、たとえ自分ではアスペルガー症候群への理解を広げる意図で報じたとしても、かえってそれへの誤解や偏見を助長する結果になりかねない。口に出せないこの恐れから無意識的に言及を避けた、という可能性は十分あり得る。

もっとも深刻なのは、二つ目とは少し異なる誤解への恐れだ。以下でじっくり考察するが、今回のムーブメントは熱狂的、感覚的、感情的なのが特徴であり、「グレタさん」に批判的だというだけで「環境破壊を支持している」とか「既得権益層である」といったレッテルが貼られる風潮ができている。なのでメディアは、アスペルガー症候群のことも含め、事を荒げずリスクをとらず、できるだけ当たり障りない報道をしながらブームを通り過ぎたかったのかもしれない。

先に触れた有識者らが「沈黙」を選択した大きな理由はここにあるのではないかと思っている。民主政を扱う有識者からすれば、トゥーンベリ氏の国連スピーチに問題があるのは明白だ。たしかに、社会を向上させる運動に情熱は不可欠である。しかし、ホットな心にはクールな理性がセットで備わってなければならない。熱い心だけで突き進むのは専制君主のごとき恣意であり、政治的発言では決して認められない。しかしムーブメントの熱狂を見るに、「グレタさん」を批判すれば、醜いバッシングの対象になりかねない。それでブームが去るまでそっとやり過ごそうと決めたのではないだろうか。

寛容と共生には、「正しい知識」だけでは足りない

ADHDへの理解が進んだアメリカでの、意外なその後

社会で多様性を認め、共に生きていこうという機運が高まるにつれ、障害への正しい知識は一般人の手に入りやすくなった。これ自体は無論、望ましいことである。

さて、アスペルガー症候群と似た障害に、ADHD(注意欠陥・多動性障害)がある。別の概念ではあるが、対人関係で生じるトラブルはほぼ同様である。日本での認知度はまだそれほどでもないが、アメリカでは15年以上前からよく知られ、対応が進んできた。

ADHDの人はしばしば、健常者として生きていたころは対人関係でトラブルが絶えなかった、と話す。学校や家庭で「なぜこんなこともできないのか」「ふざけている」などと責められ続けた結果、自分に自信を持てなかったという。ところが何かのきっかけがあって医療機関を受診したところ、ADHDだと診断され、そこで人生が目覚ましく変わったという体験談は少なくない。まずは本人が、罪悪感や劣等感を手放すことができる。先生や友達、親などもADHDの特性に合った適切な接し方ができるようになり、さらには本人が障害特性に合ったトレーニングによって自分を発揮できるようになったことで、それまでの苦しみから解放されたという。

このように、障害の「正しい知識」が広がることにより理解と受け入れ態勢が生まれるのは、本人はもちろん、関係者すべてにとって望ましいことである。日本ではADHDの認知がアメリカほど広がっておらず、親にはどちらかといえば子どもを受診させない、診断を受けさせたがらない傾向があるといわれている。それを思えば、こうした体験談は「解放」や「癒し」のように感じられるだろう。

ところが、アメリカ社会全体でみると、ADHDへの認知と理解がもたらしたのは、こうしたハッピーエンドばかりではなかった。

ADHDの特性が「個性」として受け入れられるようになったアメリカでは、親たちが必死になって各地の病院をめぐり、子どもにADHDの診断を取り付けようとするという、奇妙な現象が起こった。

子どもの問題行動が、ADHDの診断が下れば不問になると考えたからである。

実際、そうしてADHDの診断を受けたら最後、子どもが学校でトラブルになるたび「ぼくのせいじゃない、ぼくの中のADHDがこうさせるんだ」と言い張るようになり、先生や友達が困り果ててしまったという事例が、アメリカでは15年以上も前から多数報告されている。ADHDの認知と理解が広がったのはよかったものの、アメリカの教育現場は新たな課題に直面することになったのである。

「対話」が不十分なら、かえって偏見や分断につながる

以上はアメリカでの話である。ただ、思いが先走るあまりアメリカの教育現場と似たような結果に陥る事例は、日本でもしだいに報告されるようになってきている。

一例だが、ある児童は、精神障害のあるクラスメートから現に暴力を受けているにもかかわらず、担任が「個性です」の一点張りだったため自分の訴えに耳を傾けてもらえなかったという。困っていると保護者が訴えれば、「障害のある子を差別している」というような受け取られ方をされた。傷ついたまま暴力を我慢させられる結果となった児童が障害者に抱いたのは、「恐怖」であった。児童は「何もかもこっちが悪者にされるから、障害者には関わりたくない」と口にしているという。

この担任に、悪気はなかったかもしれない。気持ちの面だけならわからないでもない。しかし、いくら多様性を認めたいという思いがあれども、そこを目指す過程での方法論で失敗があるならば、寛容な社会の実現はかえって遠のいてしまうのである。

主眼は「現に起こったトラブルへの対処」である

上記のケースで担任がすべきだったのは、「暴力=現に起こったトラブルへの対処」であったはずだ。

「障害のある児童の言動をすべて無条件に受け入れて不問に付すこと」ではないのである。

具体的には、担任はまず双方児童から事実を聞き取り、双方保護者や医療機関などとも連携しながら、暴力が障害特性に起因するのかどうかを判断すべきだ。暴力を受けた側の児童には、心のケアが行き届くべきである。暴力を振るった児童にはその子に合った方法での指導が与えられ、医療機関でのトレーニング、明らかになった事情によっては障害に合った特殊学校への転籍も視野に入れて、本人の成長を考えていくとよいだろう。

教室の範囲にとどまるケースでもすべきことがこんなにあるのか、と気が遠くなったかもしれないが、すべて必要なステップである。

アスペルガー症候群にしても同じことがいえる。すなわち、アスペルガー症候群の児童が友達に「太っているね」と言って傷つけたのが「慣習的なルールがわからない」という特徴に起因すると突き止めたとしても、だからといって相手の子が負った心の傷が癒えるわけではない。ネコを殺害して死骸を収集するのがアスペルガー症候群の「特定の対象への強いこだわり」という特徴に起因するからといって、ネコ殺害が許されることにはならないのは明らかである。

発達障害によって問題行動を正当化するなら、それは障害概念の誤用である。

主眼は、障害の特性を理解したうえで、いかに現に起こったトラブルを解決するか、であるはずだ。適切な対処をするためには障害への知識と理解が必要になってくる、ともいえるだろう。

さて、トゥーンベリ氏はツイートに「#aspiepower」というハッシュタグをつけることで、自身のアスペルガー症候群を公表・アピールしている。障害特性は「個性」であり、むしろ「スーパーパワー」であり、それによってこんなすごい活動をすることができるのだ、という趣旨であろう。

アスペルガー症候群の特徴である「特定の対象へのこだわり」は、否定するのではなく個性として活用することで、ある分野で大きな成果を上げることにつながり得る。ここまでは事実といえる。

ただ、自身の環境保護活動を以て障害特性を「スーパーパワー」だと言っているのは、彼女の主観にすぎない。彼女の活動を根拠にそう思うかどうかは、ハッシュタグを見た人次第である。

トゥーンベリ氏のムーブメントでは多数の深刻な問題点が露呈し、現にトラブルになっている。にもかかわらず、彼女側の発言は一方的で、トラブルに誠実に対応する姿勢はみられない。保護者や主治医等、彼女の周囲がアスペルガー症候群について説明したり、障害特性から現に生じたトラブルに対応するという動きもみられなかった。彼女に、記事冒頭の「治療法と対処」で述べたような十分なサポート体制があるとは見受けられないのである。

グレタ・トゥーンベリの9月25日のツイート
トゥーンベリ氏は一貫して自身のアスペルガー症候群の特徴を”my differences”と呼んでいる。

経緯の良し悪しは別として現に有名人であるトゥーンベリ氏が、特徴ある話し方を「私の個性」と一方的に主張し、社会との「対話」が不十分なままとなれば、かえってアスペルガー症候群への誤解や偏見、分断を生んでしまう可能性も否定できない。

アスペルガー症候群への配慮の悪用を未然に封じるために

先に、発言者が未成年であることを以て言論に「聖域」を認めてしまえば、それが悪用されかねないと指摘した。

同じことは、アスペルガー症候群という要素でもいえる。すなわち、メディアや人々が「障害に偏見を持っている・差別している」と誤解される恐れからアスペルガー症候群の言論者に対して批判を述べられない、あるいは批判をためらうという風潮に、悪意ある者が目を付ける、という事態の発生が危惧されるのである。

たとえば、ある民族主義者がヘイトスピーチを行っていて、社会から批判を受けていたところ、彼がアスペルガー症候群だと診断されたとたん周囲が批判しにくくなる、としたらどうだろう。ヘイトスピーチへの反論に自主規制が働くとしたら、民主的な社会の危機である。あるいは、その人物がヘイトスピーチへの批判に対して「この話し方はアスペルガー症候群の特徴であり『個性』だ」「障害者を差別するな」と反論することも考えられる。ほかにも、ヘイトスピーチ団体がアスペルガー症候群のメンバーを担ぎ出すことによって批判を逃れようとする、といった悪用法もあろう。

あらゆるケースを想定して議論を進めるべきである。

まずは、問題となっている言動がアスペルガー症候群の特徴によるのか、そうでないのかを判断しなければならない。一般人向けの資料から判断できるケースもあれば、専門家の協力の必要に迫られることもあるだろう。

問題行動が障害特性と関係ないなら、それは純粋に本人の責任なので、配慮は要されない。健常者への対応と同じでよい。

一方、問題の行動が障害特性に起因する場合、それへの理解は必要だろう。周囲や一般社会が障害を理解するためには、保護者やかかりつけ医等が「この子はアスペルガー症候群で、その特徴には『独特な表情や声の抑揚』『芝居がかった身振り手振り』というのがあるんです」などと説明できるとよいだろう。

しかし、では問題になっている行為がアスペルガー症候群によるからどうだというのか。ここから先は複雑な問いである。トラブルの内容によっては、本人が様々な責任を問われることもある。たとえば上記の民族主義者の例なら、表情やジェスチャー、二次的に生じたかんしゃくには障害が関わっているとしても、差別思想はそうではない。

少なくとも、アスペルガー症候群を以て問題が不問になるとか、言動が全面的に受け入れられるという結果にしてはならない。それは配慮悪用への道を開くことであるし、傷ついた人が出ている場合には、その人の人権と尊厳を無視することになるからである。

アスペルガー症候群の本人には、「それはいけないことである」と理解し、以後そういった行動をとらないよう、障害特性に合った専門的なソーシャルスキルトレーニングで学べる機会が保障されるべきである。民法上の被補助人制度なども視野に入れつつ、包括的なサポート体制の充実が急がれる。

以上より、アスペルガー症候群の人々との共生を実現するには、「正しい知識」だけでは足りない。本人周囲の十分な「サポート体制」、そして「対話」が不可欠だといえる。

時代への警鐘

称賛、批判、誹謗中傷が吹き荒れた、トゥーンベリ氏の国連スピーチ。それを客観的に考察するには、実物を確認しないことには始まらない。以下で、国連スピーチの動画と全文スクリプトを参照されたい。

リンク:USA TODAY紙による国連スピーチ動画と全文スクリプト(新しいタブで開きます)

動画とスクリプトから、数値などが示され、スピーチは一定の論拠に基づいていることがわかる。

一方、トゥーンベリ氏のスピーチは全体を通して、言葉選びも内容も非常に攻撃的だということもわかる。一つ例にとると、”How dare you!”は英語ではケンカ等で使われる乱暴な表現だが、彼女はフォーマルかつ冷静かつ協調のための話し合いの場である国連サミットで2回、同様の表現を含めて3回も使用している。

冒頭で確認した通り、独特な表情や芝居がかったオーバーなジェスチャーは、アスペルガー症候群の特徴的な話し方だとみることができる。かんしゃくやイライラは、二次的に生じるケースがある。

しかし、国連スピーチやTwitterでの発言を通して見られる以下のような傾向、すなわち、

  • 特権意識、他人を軽視する
  • 英雄主義
  • (身振り手振りの面ではなく)演劇的な発想法、自己の演劇化
  • 言論者に求められる誠実さの欠如
  • 自己を「子どもたち/若者」の代表者・代弁者とみなしている
  • 「子どもたち/若者」「環境」「未来」「科学」といった価値と自己を一体化させている

といった点には、アスペルガー症候群の特徴はかかわっていない。こうした性格が表れているツイートは以下で随時引用するので、参考にしてほしい。

偏見を防止するため確かめておくが、アスペルガー症候群の人は他人に危害を与えるリスクが高いとか、英雄主義に走りやすい、ということは決してない。統計上、アスペルガー症候群の人が犯罪を起こしやすいという結果が出たことはない。「こだわり」の対象は無害なことも多く、また仮に現時点では動物殺害など問題ある癖として表面化している場合でも、専門的なトレーニング等によりその出方を変えていくことは可能である。部下を罵倒するパワハラ上司のほとんどはアスペルガー症候群ではないし、英雄主義の色彩が強く「人民の敵」という概念を利用して大粛清を行った旧ソ連の独裁者・スターリンがそうだったという話もない。ある人がアスペルガー症候群だからといって「危険人物」であるとの疑いを抱く必要はないのだということは、念のためだが強調しておきたい。

さて、トゥーンベリ氏には「ノーベル平和賞を」という声が上がった。しかし、一度でも不特定多数の人に対して「悪」などと口を滑らせた人物に授与する「平和賞」などあろうはずがない。それこそが「平和」から最も遠い、「戦争の論理」だからである。ほんの少し頭を冷やせば分かることである。

国連のトゥーンベリ氏を招くという判断は、果たして適切であっただろうか。前述の通り、彼女本人の周囲には、アスペルガー症候群の障害特性に合ったサポート体制がみられない。しかも環境面の不十分さだけでなく、スピーチ内容にも大いに問題がある。国連は、目的を「平和と安全の維持」(国連憲章1条1項)、「諸国間の友好関係の発展」(同2項)とする、国際協調のための組織だったはずだ。そこへ招かれた人物が、特定の属性をもつ不特定多数へ敵意をむき出しにし、仮にも「悪」という言葉を使うスピーチが行ったのは、根源的な矛盾である。正当な言論を行う能力を備えた環境活動家なら、世界中ほかにいくらもいる。にもかかわらずトゥーンベリ氏を招いたのは、話題性からではなかったか。彼女を招くこと自体が、感情論に基づく勇み足ではなかったか。国連の判断は、歴史的な失敗であったと考える。

ブッシュと重なった国連スピーチ

トゥーンベリ氏の国連スピーチを見て私がすぐに連想したのは、トランプではなく、ブッシュ(子)であった。

ブッシュは9・11同時多発テロの時、「我々につくか、テロリストにつくか」と世界に二者択一を迫った。自分に加わらない者は「テロリスト」だということだ。当時アフガニスタンがタリバンの圧政下にあったのは事実であるが、ブッシュは、その独善と傲慢で、世界をあ然とさせた。

人類の過ちのもと、「聖戦の論理」

ある中心的価値を掲げ、それを特権化・絶対化し、そのコミュニティの内部者を巨大な同一性にとかし込み、他者は「敵」として歯止めなく排除する――この記事で「聖戦の論理」と呼ぶこの原理は、人類史上たびたび差別、抑圧、人間破壊、虐殺、戦争の原因となってきた。

「聖戦」の構図を図式化してみた。この図だけで、歴史上の例がいくつも思い浮かぶのではないかと思う。

中心的価値のもとの同一性と他者への排除の図解

「聖戦の論理」といえば、「神の名のもとの暴力」がもっとも分かりやすいだろう。

「神」という巨大で絶対的で特権化された中心的価値のもと、それを奉じる人々の集団は安定していて平和である……と、その共同体内ではみなされている。しかし実情はまったく逆で、その集団は恐怖によって自由をなくし、内外両方に対して暴力に満ちている。「神」が絶対的価値を有し、正しく、美しく、至高のものであるというなら、そうでないものはまったく価値がなく、一から十まで間違っていて、醜悪で、下級なものだということになるからだ。こうして共同体外部の人々には、「間違っている」「悪魔の勢力」などという決めつけが働く。人間は、「私たちは正しい」と信じたとき、どこまでも残酷になれる。「悪魔」になら残虐な行いをしてもいいことになり、それに罪悪感を感じないし、むしろそうすべきだということにもなりかねないのである。

こうした「聖戦」で、人類は数知れぬ人の尊厳と尊い命を奪ってきた。

「神の名のもとの暴力」は、外部だけに対して起こるのではない。内部でも、何かの拍子に「神に反した」「反逆者」などのレッテルを貼られた者は、外部者と同じく排除の対象になる。「敵」とされたら最後、人ならざる残酷な扱いを受けることになるのである。

中心に掲げられる価値はさまざまで、歴史上にはナチスの「ゲルマン民族」、戦前日本の「お国」「天皇陛下」、旧ソ連・スターリン体制での「人民」、「”God bless America”の”God”」、「正義」などがあり、あるいは「神の教えを知らない哀れな人々に救済を与える」「テロリストを倒す」「自由と民主主義を広める」といった目標の類のこともある。

こういった国や団体の構成員は、何も直接「私が神だ」と主張するとは限らない。それはむしろ中心的価値の絶対性ゆえ、厳しく禁じられているケースもある。こういう場合、排除は「神の名のもと」で行う。つまり、指導者や構成員、また組織が、中心的価値と事実上一体化するのである。

「同一性と排除」はなにも国家レベルだけではなく、もっと小規模な集団でも起こる。たとえば、「わが社の社訓」が額縁入りで掲揚されている会社ではワンマン社長に誰も反対意見を述べられない、「”社会人”の心得」が絶対の会社でパワハラやサービス残業が蔓延する、「今期営業目標の達成」が絶対視されたブラック企業では休みなしの長時間労働や自腹営業がはびこり、それができない社員はさんざん邪魔者扱いされたのち退職を余儀なくされる、「有害な情報から子どもを守る」を掲げたPTAが表現の自由を抑圧したり、たびたびほかの保護者の子育てに難癖をつけたりする、といった例なら身近であろう。

戦前ファシズムの爪痕が深く残るわが国の教訓を生かす

74年前まで、わが国は「聖戦の論理」に基づく恐怖の国家だった。そして迎えた、社会の破局。いまなお残る、深い傷。

トゥーンベリ氏の発言と発想法には、ファシズムの惨劇を経験した国の国民として、とうてい看過できないものがあった。

国内:全体主義下の恐怖と抑圧と暴力

1929年の世界恐慌以来、世界の外交関係は困難を重ねていった。第一次世界大戦の賠償金問題を抱えるドイツでは、失業者の激増や社会不安を背景にナチスが台頭。世界平和の確保と国際協力の促進を目的とする史上初の国家連合組織であった国際連盟――現在の国連の前身である――は、相次ぐ不参加や脱退で、機能不全に陥ってゆく。

日本国内でも、人々には不満と閉塞感がただよった。戦前の軍国主義・ナショナリズムは、こうした状況から人々の支持を集めていく。そうして1940年に各政党は解党、大政翼賛会が結成された。その名の通りの「翼賛」体制が完成したのである。

戦前ファシズム政府は、日本は「神の国」であり、戦争は「鬼畜米英」に勝利するための「聖戦」だとした。全体主義のもと、国民は「お国のため」「天皇陛下のため」に命を捨てて戦うべしとされた。「ほしがりません、勝つまでは」というスローガンは庶民レベルでも浸透していた。

戦争に非協力的とみなされた者は「非国民」とされ、残酷な方法で罰せられた。隣人から特高警察に密告された者は思想犯として逮捕され、たびたび拷問にかけられた。逮捕されたが最後帰らぬ人となったケースもある。膨大な数の冤罪があった。ひとたび「非国民」とレッテルを貼られれば、近所からも「村八分」の扱いを受けた。しかも、公的な記録に残っていない同様の事例は数えきれない。近所の人が憲兵に「着ている服がぜいたくだ」などと言いがかりを付けられその場で撲殺された、などといった証言は、この時代には全国津々浦々にある。

国民は、「排除されることへの恐怖」により統制されていたのである。

戦後、ファシズムは否定されたが、こうした全体主義の恐怖が日本社会に残した爪痕は、70年以上が経過したいまなお深い。特高警察は、1945年に廃止された。隣人による密告も、密告先も、息をひそめて生きる必要も、犯罪とされる思想もいまはない。にもかかわらず、ある戦争世代のお年寄りは、家で娘が「さっき駅前で共産党の○○が演説してたよ」と世間話をしただけで「隣の人に聞かれたら家に特高警察が来る」と震え上がったという。

対外:大東亜共栄圏というスローガンに注目

このように全体主義が猛威を振るっていた日本だが、対外的には何をどのように行ったのだろうか。それはご存じの通りである。

太平洋戦争期、日本のファシスト政府は「大東亜共栄圏の建設」というスローガンを掲げた。アジア太平洋地域から欧米諸国の帝国主義を排し、日本が諸民族が共存・共栄する「大東亜共栄圏」の盟主になるのだという。

ここで注目したいのは、当時、欧米列強国による植民地の経済的搾取、人や文化への破壊行為が行われていたのは事実だということだ。これを踏まえれば、「大東亜共栄圏」は幾分合理的かつ人道的に聞こえる。「帝国主義に抵抗すること」なら、正当な行為なのである。

しかし、旧日本軍が実際に行ったことは何だったか。欧米列強国と変わりない帝国主義・植民地政策、聞くに堪えない蛮行であった。

こうしてアジア太平洋地域では、日本内外何百万人もの尊い命が無下に消されることとなった。閉塞感や経済的不満などを抱え、排外ナショナリズムに熱を上げた1930年代の日本人たちは、「聖戦」を行うことでその課題や社会の矛盾を解決できたのだろうか? いや、結果は真逆。彼らはじわりじわりと自らの自由を絞め殺し、1941年、42年、43年、44年、そして45年、さらなる徹底的な破局を自らに呼び込んだのである。

人類はこの歴史に学び、教訓として生かすべきである。

新しい中心的価値、新しい聖戦

トゥーンベリ氏の国連スピーチで、テレビが報じたのはそのほんの一部である。一部を見ただけではそれほどに思わなかったという人もいるかもしれない。しかし、国連スピーチ全体の映像と全文スクリプト、そして発言の中心であるツイッターといった原文・実物を確認すれば、その英雄主義や攻撃性、善悪二元論は想像を絶するものだと思う。ツイートを、ほんのいくつかだが引用したい。

グレタ・トゥーンベリの#aspiepowerタグがついたツイート
“them””they””The world”という言葉と、全体を通してのドラマチックさが非常に特徴的である。(Fridays For Future参加の呼びかけを内容とするツイートに、#aspiepowerタグをつけていることもわかる。)

“…don’t waste your time giving them…”という支持者への呼びかけから、「自分の側」について共同体意識が非常に強いことがわかる。

トゥーンベリ氏はほとんどのツイートやスピーチで、主語を”we(私たち)”にしている。”I(私=自分個人)”ではないのである。「私は○○と思う」ではなく「私たちは○○と思う」とすることで、ほかの参加者・賛同者もみな同じ意見だという「みなし」が働いている。これが戦略的意図からなのかどうかはこれだけでは判断できないが、「私たち」の内部に個がとけるほどの一体感を作り出しているのは確かな事実である。

そして反対する人々を「彼ら」と呼ぶことは、該当者を「私たち」ならざる「敵」としてくくることを意味する。上で引用したツイートは彼女への誹謗中傷を念頭に置いたものなのでまだわからなくもないのだが、反対する者を”they(彼ら)”と呼ぶ傾向は活動の全体を通してみられる。実際、アメリカでのスピーチでは”enermy(敵)”という言葉を多用している。

次に、「中心的価値のもとに人々が集まる」という構図がみられる例を引用する。ここでの中心的価値は「科学」である。

10月2日のツイート
ここでも主語を”we(私たち)”にしている。「私(たち)が言っているのは科学者の声を聞いてということだけだ」と本人がツイッター等で再三再四言っており、彼女の主張内容は極端に少ないのだということもわかる。もう一点、助動詞”must”は仕事で上司が使えるかどうかの表現で、一般には失礼になる。

「科学のもとに連帯する」という言い方に、「科学」を中心的価値として掲げる姿勢が表れている。

彼女の言動がブッシュの「我々につくか、テロリストにつくか」と重なると言った理由は、発言の後半からうかがえるかと思う。批判意見であれ表現の仕方はいくらもあるが、彼女はあえてこのような表現を選んだのである。

さらに、「中心的価値と自己の一体化」を指摘したい。以下引用”best available science …”以降の部分である。

グレタ・トゥーンベリの9月25日のツイート

「『○○という科学的データがある』と言っている自己」が、「科学」にとけこむことで、消失している。

世に星の数ほどある科学論文では、書き手の存在が科学と一体化して消えることはない。一般の言論者も、このような言い方はしない。こうした「科学」と自己の一体化が、「科学」の代弁者であるかのような自己像、そして「『科学』なのだから絶対に正しい」という姿勢につながっているとみることができる。

以上に挙げたムーブメントの特徴を、先ほどと同じように図解してみた。

Fridays For Future参加者の一体感と排除の原理の図解

このうち、「FridaysForFutureの参加者と賛同者」というコミュニティは、歴史上の事例と比べてバーチャルな度合いがより高いといえる。というのも、コミュニティの単位が国家や宗教の場合は、どの人が構成員で誰が違うのかは、公的書類などによってある程度は客観的かつ明確に判断される(実際には幻想なのだが)。一方、屋外でのストライキやネット上が舞台のこのムーブメントでは、内部者と外部者の区別にとりたてて基準がない。入るも出るも、いつでも誰でも、匿名でできる。コミュニティ内外を分け隔てる境界線はあいまいなのである。にもかかわらず、参加者や賛同者の「私たち」意識は非常に強い。私はこれまで何度も指摘してきたが、インターネットは感情が急速に高まりやすいメディアだといわれる。今回のムーブメントは、体験や感情のバーチャル度が非常に高いことが特徴かと思われる。

コミュニティ内部はメンバーみなでとけ合い、中心的価値と一体化し、外部は敵と決めつけ歯止めなく攻撃する。トゥーンベリ氏のムーブメントは、「聖戦の論理」そのものだといえる。

掲げられた目標やスローガンに惑わされてはならない理由

ひとたび「聖戦の論理」が敷かれると、「その中心的価値が正しいのかどうか」が議論になる。我々はそういう局面を何度も経験してきた。アフガニスタンはテロ国家なのかどうか。イラクに大量破壊兵器はあるのかないのか。そして、地球温暖化が進んでいるのは事実か否か。もし目標やスローガンが善ならその戦争は認められ、善でなければ認められない、という判断されるというわけだ。

しかし、先に確認した大東亜共栄圏の事例をみると、問題の所在はスローガンが正当かどうかではないことが明らかになる。

「聖戦の論理」そのものが問題なのである。あるムーブメントが適切かどうかは、目標やスローガンという表面的な部分ではなく、「実」に注目して判断せねばならない。

だから「やり方には間違いがあったけれど、行動自体は勇気あるものだった」は通用しない

トゥーンベリ氏の話に戻ると、「確かに『グレタさん』の考え方は『聖戦の論理』だから認められないかもしれない。けれど、環境保護という人類共通の課題に対してたった一人で起こした勇気と行動自体は良いものだった」という意見があり得るかと思う。16歳という若さやドラマ性から、きつく当たりたくないという心象背景もあるだろう。

しかし、この考えは当たらない。掲げられた中心的価値が何であれ、「聖戦の論理」自体が問題だからである。

同一性と排除の原理図解
掲げる中心的価値が何であれ、これ自体が問題である。

「中心的価値が正しいのだからどんなやり方をしても許される」という考え方こそが、人類の犯してきた過ちそのものだ。適正な手続き=過程は、人権保障の大部分を占める。だから、「敵をつくり攻撃する姿勢は間違っていたかもしれないけれど、環境保護活動をしたこと自体は良いことだった」は通用しない。

我々が歴史を学ぶのは、過去の過ちを繰り返さないよう、教訓を得るためである。歴史とは「練習問題」だといえよう。すでに過去となった事実には、「ヒトラーの宣伝内容は危険だ」「『非国民』という概念は恐怖を生む」などといった「解答」がある。では、今起こっている出来事はどうなのか。「練習問題」でつけた力を応用し、それをリアルタイムに見抜くのが「本番」である。

「『グレタさん』に加わるか、敵か」二元の世界

国連スピーチがひとたび報じられると、世界のメディアとネットは「『グレタさん』に賛成か、反対か」の二元論で歩を進めていった。

もしかしたら、二元化はメディアや支持者たちが形成していったのであり、トゥーンベリ氏本人が巻き起こしたことではないのではないか、と思われるかもしれない。しかし、原因が本人のスピーチやSNSでの発言にあるのは上記の通りである。

感情論vs感情論―熱狂とケンカ

ツイッターをはじめ、ネット上ではトゥーンベリ氏の話し方やジェスチャー、独特な表情(ここまではアスペルガー症候群の特徴とみられる)、感情的であることへの誹謗中傷が噴出した。彼女を揶揄する言葉には、年齢を根拠にした馬鹿にする呼びかけなどがある。目に余るので、具体的にどんな言葉かはここでは紹介しない。言論の自由の本質からして、表現者の人格へ攻撃を加えることは決して認められない。

こうした誹謗中傷では、トゥーンベリ氏の感情論に反対しているにもかかわらず、正当な言論ではなく感情論で反撃するという、矛盾した態度が目に留まった。

罵倒に対して強い不快感を覚えるのは、人間として自然な反応である。それこそが人権感覚である。ただこういった誹謗中傷は、私がみたところ、漠然として抽象的な不快感の正体を突き止められないまま、あるいはうまく言葉にできないうちに、それをだだもれにしてしまったようだった。

一方、彼女を称賛する人々をみると、彼らが頭で思い描いている「グレタさん」像は大きく3タイプに分類できると思う。

まず一番目は、非力な子どもなのにがんばっていて、めげなくてえらい、といった方向だ。NHKが読み上げた「ウルウルする」といった感想である。いじらしい、というニュアンスがみられることもある。もっとも恣意的判断に走りやすいのは、実はこのタイプの支持者だろう。彼らは、テレビに映る彼女のことがフィーリングで好きな「ファン」なのである。その個人的・感覚的な「ファン心」が、すべての行動の起点となっている。客観的・論理的な意見を抱くのではなく、「『彼女を応援するための論』を作り出す」という思考・行動の順番が特徴的である。また、抽象的な総体としての支持者・運動参加者には、「若者の/彼女の(ここの一体化が今回のムーブメントの特徴であることは先に指摘した)声を聞いて」と主張するときには彼女を一人前扱いするが、「ファン」としては子役を愛でるような視線を送っており、彼女が批判されそうになったときも未熟さゆえの「甲子園式批評」を求める、というように、時々の都合に合わせて態度を変える動きが定着している。未熟な者に魅力を感じ、応援したり見守ったりしたくなる心理は、万国共通なようである。

二番目はその正反対で、彼女をひたすら勇ましく、弱みなどない英雄だと信じている系統である。「心ない声に負けなかった彼女の勝利だ」など、勇ましい言葉遣いや英雄主義の陶酔感が特徴だ。彼女を人気ハリウッド映画のスーパーヒーローに扮させた画像を投稿しているツイッターユーザーもみられた。このタイプは、「超越者からもたらされた存在」という宗教的なニュアンスを含む場合が多い。これについてはあとで詳細に述べる。

二番目と少し毛色が違うのが、伝記として見ているタイプである。こちらのタイプは、宗教的な運命づけは見出していないが、彼女を伝記に描かれたマザーテレサのような「善行をする人」として思い描いている、あるいは「サクセスストーリー」としてみているというように、ドラマ性への陶酔が目立つ。

報道のなかで陶酔感が前面に出ているものは、一番目の「ファン」の姿勢が濃厚である。通常、プロのジャーナリストは、事実を伝え批評を加えるという職業上、対象がトランプ氏であれ誰であれ必ず「いかなる人物で、その言動はいかなる意味を持つか」というフィルターを通過させ、引いた眼で見て考える。しかし今回に限っては、陶酔報道組はトゥーンベリ氏の言動を吟味する以前に「ファン」となり、思考が「彼女を助けるには何と言えばいいだろうか」というパターンで固まってしまっているため、本件をフィルターに通すことなく「迂回」させてしまった。本来はジャーナリストの職務と使命を理解しているはずの彼らだが、それに「例外」をもうけてしまったために、理性は蒸発して消え失せ、タガの外れた感情論を暴走させてしまったと私はみている。せっかくの知識と思考力と職能も、機能しない状態に陥っているなら、持っていないのと同じである。メディアにとっては反省点であり、人類にとっては苦い教訓であると考える。

感情論同士のぶつかり合いから抜け出そうとする理性的な言説は、国内外大手メディアにもほとんどみられなかった。トゥーンベリ氏への誹謗中傷を「まるで子どものいじめ」などとしながら、そう言う側もまた感情論で対抗しているのである。

ウルウルしてよい、劇場でなら。陶酔してよい、ロックバンドのコンサートでなら。

しかし、現実を「劇場化」するとどういうことが起こるのか、人類はすでに経験しているはずだ。

「劇場化」といえば、日本ではポピュリスト・小泉純一郎政権が思い出されるであろう。小泉は「郵政民営化に賛成か、反対か」という究極まで「単純化」された選挙で歴史的大勝利をおさめ、政権の座に着くと、日本のさまざまな法や制度や雇用を破壊した。あの劇場型選挙のころ、私はまだ選挙権のない中学生だった。あの時「政治がおもしろくなってきた」と小泉に票を入れた有権者たちは、その小泉によって破壊された社会で、反対していた人々やあとに続く世代を巻き添えに、いまも暮らすはめになっている。

「現実」の政治は、感情と感動で動かしてはならず、合理性に基づかなければならない。今回のムーブメントで、合理的な議論ができそうな言論者たちは、こぞって「沈黙」を選んでしまった。世界に広がるポピュリズムにどう向き合うか。この最新の課題にいまだ糸口を見いだせていない現代が浮き彫りになっていると思われる。

「心ない声」「環境軽視」「誹謗中傷」などのレッテル貼り

感情論という点では、トゥーンベリ氏を称賛する人々とメディアのほうが誹謗中傷組より強烈だったと思う。「グレタさん」への疑問や反対意見は、それだけで

  • 心ない声
  • 地球温暖化に背を向けている
  • 環境破壊を支持している
  • 既得権益層である
  • 彼女のアスペルガー症候群/個性への誹謗中傷
  • ネット上での誹謗中傷

などとレッテルを貼られてしまう。これは社会にとって非常に危険な兆候である。

ネットメディアでは、「(「グレタさん」を批判する人に)聞いてほしいこと」という系統の、他の報道ではまずあり得ない独特な見出しが多数見られた。書き手には、「私たち」の考えは正しくすばらしいので本来賛同されて当然、という「みなし」が働いているようである。

レッテルを貼られることへの不安や恐怖から、ムーブメントに疑問や反対意見をはさめない風潮が形作られていった。多くの有識者や日ごろ環境問題に関心を持っている知人が「沈黙」という選択肢を選ばざるを得なかった大きな理由は、このレッテル貼りへの恐怖によると考えている。

言論の自由は、こうして窒息していく。英雄主義の熱狂と心酔が、恐怖と抑圧を生み出すのである。

では、誹謗中傷する者が賞賛する者にレッテル貼りをしていないのかといえば、それは少々ずれている。彼らは陰謀論に走っているのである。

陰謀論vs陰謀論―質の低い水かけ論

誹謗中傷する人々は、トゥーンベリ氏のバックに注目の目を向けている。彼女は担ぎ出されたアイコンであり、誰かが背後で自らの利権のために操っている、という具合の陰謀論である。

確かに、地球温暖化対策を進めると決まれば、そこには太陽光発電の設備など、新たな巨額の利権が生まれる。ここまでは事実だ。

ただ、「『グレタさん』を担ぎ出しているのは誰なのか」という点では、週刊誌並みの陰謀説が花盛りである。

国内外大手メディアの関連記事をたどっていくと、「なぜ一部の人々は『グレタさん』を嫌うのか」といった記事が見つかる。この文言からは、じつに様々な考察が可能に思えるだろう。政治や雇用などへの――願わくばいま世界で猛威を振るうポピュリズムへの――ハードかつハイレベルな分析に期待が高まらないだろうか。しかし、その答えとして書かれているのは、

  • 気候変動の事実は恐ろしいので、直視できずに否定している
  • 事実をズバリ指摘されてうろたえた
  • 彼女がもたらす変化を恐れている
  • 彼女と議論して勝てないことを恐れている

などという、称賛と予定調和した、こちらもまた陰謀論なのである。がっくり肩を落としたのは筆者だけではないだろう。

では、なぜメディアはこのような称賛ありきの論に走ったのだろうか。そう疑問に思ったのでさらに調べていくと、実はこうした説もまた、トゥーンベリ氏本人の発言に端を発しているとみることができるのである。先ほど引用したツイートの前半部に注目してほしい。

グレタ・トゥーンベリの9月25日のツイート

「『彼ら』は気候と環境の危機を話題にしないよう必死だ」というトゥーンベリ氏の言に、メディアは思考を挟むことなく、そのまま乗りこんだ。メディアが自ら真実を追求する主体性と社会的使命を放棄してしまったのだとしたら、衝撃的である。

「なぜ一部の人々は『グレタさん』を嫌うのか」という問題提起は抽象的な風潮や集団を対象とするため、結論が主観的になってしまうのはある程度やむを得ないだろう。しかし、最初から支持と称賛ありきでは、考察にならない。こんなレベルの陰謀論に、大手メディアまでが終始している。これは、未成年者への配慮からか、アスペルガー症候群への配慮のためか、言論に伴う責任を忘れる現代の風潮に巻かれたのか、それとも下手に批判と受け取られ得る発言をしたらバッシングの対象になるかもしれないという恐怖からか。冷静に分析すべき問いである。

「神に選ばれし者」vs「地球を救う英雄」―神格化とカリスマ崇拝の応酬

ここ数年の地球温暖化対策にとって、トランプ米大統領は避けて通れない存在だ。米国第一主義を掲げる彼が世界一の超大国の大統領となって以来、国際社会の地球温暖化対策は後退したからである。トゥーンベリ氏のストライキがとりわけアメリカで盛んとなり、スウェーデン人である彼女がデモを行う地の多くがアメリカ諸都市であるのは決して偶然ではない。彼女の環境ムーブメントが、反トランプ運動と結びついたのである。トランプ大統領といえば、ヒスパニック系の人々、イスラム教徒、女性、黒人への差別発言で大いに問題のある人物でもある。

そんなトランプ大統領を「神に選ばれし者」だと信じる人々が、アメリカにはいる。……そう聞いてどう感じたかは読者によるだろうが、いるものはいるのである。彼らは、トランプ大統領こそ「いまの状況を変えてくれる人」だと期待し、「神が遣わした人物」だと考えている。文字通り神格化しているのである。

一方、ツイッター上では、トゥーンベリ氏を「世界に落ちた雷」「地球を救う英雄」などとする声が多くみられた。彼女の支持者もまた、トゥーンベリ氏をもろに神格化しているのである。さらに、海外メディアでは、彼女を聖女のように撮影した写真が掲載されていたりする。写真は「真実を写すもの」と思われがちだが、これは誤りだ。写真は、撮影者の意図が表現された創作物である。その報道写真家は、彼女を「聖女」として人々に見せたかったのである。

「神に選ばれし者」に「地球を救う英雄」。

一歩引き、頭を冷やして見れば、どうかしているとか、危ない誇大妄想といえよう。見方によっては、陳腐にさえ感じられるかもしれない。

しかし、人々が神格化されたカリスマへ熱狂する現象は、人類の歴史でこれまで何度も起こってきた。

「カリスマ」は、いまの世界を考えるうえでひとつのキーワードだろう。そして、「カリスマ」は、「感情論」や「単純化」と関係が深い。あらためて警戒すべきである。

ポピュリズムの台頭と民主的プロセスの危機

ここまで、トゥーンベリ氏を称賛する人々と誹謗中傷する人々を、両者を並べる形で考察してきた。これが「玉虫色」でもなければ「けんか両成敗」でもないことがわかると思う。

トゥーンベリ氏への称賛と誹謗中傷は、同じ土壌から誕生している。現代のキーワード・ポピュリズムである。

迷える欧米左派

右だの左だのという用語は国や時代によって意味内容が異なるのでやっかいなのだが、ここでは極右ポピュリストに反対するような立場という広範かつおおざっぱな左派のことをいいたい。

欧米では、トランプ大統領に反対する人々、アメリカの民主党議員や支持者、英ガーディアン紙など「左派」と呼ばれる新聞、日本の語法でいう「リベラル」にあたる政治的立場の要人が、トゥーンベリ氏と次々面会して支持の姿勢を打ち出している。これがいかに大きな間違いであるかは、もし本当に左派であるなら、ここまで読んで理解できるはずだ。

予告しておくが、感情論とSNSと大衆扇動の「ツイッター大統領時代」には終わりが来る。それが歴史となった時、トゥーンベリ氏を支持したことは、必ずやキャリアの汚点として残るだろう。その時、彼らはしらを切れるだろうか。彼女をいつまでもアイドルとして固定することで厳しい指摘を免れようとするほど恥知らずではあるまい。

あれだけ称賛して今さら引くに引けないとしても、状況からすれば引く英断をすべきだと思うのだが、どうなのだろう。メディアなら、自らがとった態度をあとから自己分析・反省するのも大事だと思うが。いかがだろう。

反トランプ運動がこの底の浅さでは、再選を許しかねない

なかでも問題なのは、複雑な内情を抱える超大国・アメリカだ。

反トランプ運動には、すでに一度失敗の経験がある。ヘイトスピーチを重ねるツイッター有名人の大統領当選を止めることができなかったのは、反トランプ運動が「アイデンティティ・ポリティクス」に陥ったことが大きな原因の一つと指摘されているのだ。抵抗運動を行う人々が「黒人の誇り」「女性の誇り」「LGBTの誇り」「ヒスパニックの誇り」などを掲げたことで、トランプ氏の問題点の本質――平等をはじめ憲法が保障する価値や民主主義の破壊――を射抜くことができず、結果的にトランプ氏とのパイの取り合いに終始し、多くを彼にとられたということだ。

むき出しの怒りをぶつけるばかりで、理論的基盤が弱すぎたのである。

そんな選挙戦中のアイデンティティ・ポリティクスを教訓として生かすべきだったにもかかわらず、似たような失敗が、いままた繰り返されようとしている。

ツイッター大統領への抵抗運動が、ツイッター有名人への熱狂。これではトランプ大統領と同じリングでケンカしているにすぎない。

赤いグラブと青いグラブをはめてボクシングをする2人のビジネスマン

もっと厳しく言うなら、彼らはトランプ大統領に反対すると口にしながら、欲し求めているのは「別のトランプ」「トランプに勝てる私の立場のトランプ」なのである。こう聞いたら彼らはぞっとするだろうが、直情的に怒りを爆発させ、特定の人々を罵倒するのでは、トランプ大統領やその支持者と何も変わらない。私にいわせれば、反トランプ等左派トゥーンベリ支持者は、本質的には、トランプ支持者とまったく同じ種類の人間である。

神格化されたツイッターカリスマが激突する構図のままでは、「元祖」のほうが強力だという結果はあり得る。つまり、またしても理論的基盤の弱さからトランプ大統領を止められず、再選を許すという予想が成り立つのである。

あるいは、この構図で戦い、トランプ再選を一応阻止したとしよう。しかし方法論がこれでは、つかんだその勝利はもろい。トランプ勢がまた同じ方法、つまりトランプ側のカリスマが感情論で熱狂を生むことで、たやすく政権を奪取できるだろう。

トランプ大統領に代表される極右ポピュリストは、弱った民主主義につけこむことで台頭している。感情論の応酬を戦って力づくで勝利を収めようとするのではなく、特定の人々への憎悪と差別、そして民主主義の破壊という真の問題点を理性的に批判し、克服する。それがトランプ大統領への否定を意味するのだと、私はここで指摘したい。

日本におけるムーブメントの寸評

あまり批評する気はないのだが、日本におけるムーブメントの特徴にも少しだけ触れておこうかと思う。

トゥーンベリ氏の「Fridays For Future」は世界規模に広がったといえ、日本ではとても小規模だった。それでも筆者は、メディアによるデモ行進オーガナイザーや参加者へのインタビュー等をできるだけ追ってきた。日本人で「呼びかけに応じた」面々は、欧米でのムーブメントとまったく同じ性質を備えているように見える。

Fridays For Future参加者の一体感と排除の原理の図解

多少傾向に違いがあるとすれば、ムーブメントの特徴のうちで色濃いのが「コミュニティ内の一体感」「中心的価値との一体化」「中心的価値との一体化からくる絶対的な自信」にかたよっていることくらいだろうか。メディアの取材に応じた主催者・参加者は、「(同級生に「共感しない」「響かない」などと言われて)ショックを受けた」と口をそろえていた。意見の内容や言葉の表現が不気味なほど同一なのが注意に留まった。なぜだろう? メディアの質問の仕方がワンパターンに陥っていて、だからどの参加者に聞いてもまったく同じ答えが返ってくるのだろうか? おそらくそうではないだろう。

私から一点指摘できるとすれば、社会運動に「イコール善」というような推定がメディア各社に働いているのはどうか、ということだろうか。たしかに、社会参加がタブー視され、自分とその周りの狭い殻にこもる性格が深く根付いている日本社会では、デモを行っただけで画期的に感じられるものだ。この感覚は無理もないが、思考としては早計である。軍国主義に傾倒して旗を振るのも、ヒトラーに心酔してナチ党で活動するのも、昨今のヘイトスピーチも、「社会運動」ではあるのだから。

日本におけるムーブメントのオーガナイザーに、「若者の声を聞いて」という言葉に(感情の面で)共感したという声があった。たしかに、前の世代のツケがまわり切羽詰まっているこの社会の持続可能性は重要なテーマとなっており、私は当ブログだけでも幾度となく扱ってきた。だが、現状への不満や閉塞感から英雄主義と「聖戦の論理」にここまで親和的になっていく彼らの姿には、ナショナリズムと軍国主義に迷い込んでいく1930年代の日本が、そしてその思考の浅さには、感情論には感情論、ポピュリストにはポピュリストで対抗してしまう現代の惑えるアメリカが感じられる。

第三の道を選べ―環境保護への提言

アスペルガー症候群とは関連がないのだが、最後に環境保護全般についても少し触れておきたい。

環境保護という分野に、トゥーンベリ氏という「ラウド・ボイス」を持つツイッター有名人が現れた。環境保護団体にはチャンスと映ったかもしれない。彼らがトゥーンベリ氏の投稿をシェアしたり、支持を表明することが相次いでいる。

しかし、このムーブメントに便乗するなら、自らの理論的基盤を劣化させ、長い目で見れば多大な代償を払うことになるだろう。

歴史上、「聖戦の論理」ではじつに様々な価値が掲げられ、抑圧や戦争が作り出されてきた。今時、奉じる対象として「神」はレトロな類かもしれない。しかしこの「神」の位置に、今後「環境」や「自然」「地球」が置かれてしまう可能性はある。

環境保護が中心的価値に置かれ同一性と排除の原理が働くことを示した図
「環境ファシズム」には決して陥ってはならない。

歴史をくり返す、とは、過去の出来事とまったく同じことをすることではない。本質的に同じことを別の形で行うことを指す。

世間を見るに、環境問題は人を英雄主義に走らせやすいテーマらしい。今回トゥーンベリ氏を支持している団体には、ハリウッド映画に出てくる正義の組織のような団体名も見受けられる。最初は純粋な気持ちだったのかもしれない。しかし、「自分は環境を守ろうとしている」という使命感や高揚感が転じると「環境破壊は悪である」という観念を生み、さらに進めば「環境を破壊する者は悪である。彼らは環境を破壊している。彼らは悪だ」となるのである。

これでは人類の過去の過ちそのままである。

環境保護活動を行うのに環境のことしか知らないのでは、環境保護活動は無理である。歴史、政治、法律学、経済学などにわたる幅広い学識と深い理解、世界各地の文化への知識と理解と寛容さ、広い視座とクリエイティブな思考力、さらに、言論をするなら言論者としての技能も身に付けなければならない。とりわけ、人類史の教訓を自らの血肉となるまで咀嚼するのは重要だ。さもなくば、人類は地球温暖化の影響を待つまでもなく、人間同士の醜い争いによって滅びかねない。

地球環境を保護するのに「敵」はいらない。なぜなら、環境問題だけで割り切れるほど世界や人間は単純・平面ではないからだ。勇ましい構図をとったところで問題を解決できるわけではないのである。環境問題それ自体にフォーカスし、知恵をしぼり、正当な言論と民主的プロセスにのっとって理性的に活動していくことは決して難しくないはずだ。

環境保護活動には、トランプ氏・トゥーンベリ氏どちらの陣営にも与することなく、それらを生んだポピュリズムとたもとを分かち、自立して、第三の道を歩むよう提案したい。人類共通の課題は、政治的立場等を越えて共有されるべきである。

結び―寛容と共生のために

思い返すと私は中学のころ、課外活動でエコライフフェアというイベントを訪ねたことがある。そこでお話をうかがった環境保護運動家は、英雄主義とはまったく縁のない、穏健で、等身大な方だった。無理をすれば続かないから、自分にできるちょっとしたことをすればいい。そんな言葉が、いまも心に残っている。また会場には、スウェーデンの先進的なリサイクル技術を紹介するブースがあった。リサイクルで作られた食器は、機能性を少しも欠いておらず、デザイン性にも優れていた。中学生の私は心打たれ、未来を感じたものだった。

それから17年。スウェーデンではいま、移民排斥等を訴える極右ポピュリスト政党が躍進している。感情論と大衆扇動が吹き荒れる、難局を迎えているのである。

未成年者でアスペルガー症候群。二重の配慮を要する人物が、世界各国の協力と協調のための国際組織・国連で、涙と怒りと罵倒を爆発させるスピーチを行った。

今回のムーブメントは、インターネットにより未成年者が負う膨大な責任と未成年者保護のあり方について議論も法的対応も追いつかないまま、アスペルガー症候群へのサポートも社会との対話も整わないまま、世界のポピュリズム時代に合致したのだといえる。

アスペルガー症候群の人を理解し、共に生きることは、時には拍子抜けするほどたやすいだろう。場違いなほどていねいだったり難解だったりする話し方や芝居がかった大げさなジェスチャーは、個性が尊ばれるのびのびしたクラスでなら人気の種となる様子が目に浮かぶ。

他方、アスペルガー症候群への理解を求める対話は、必ずしも「美談」で終わるとは限らない。失礼なことを言われた人は、「アスペルガー症候群だからそういう言い方をしたっていうことは分かったけど、ああ言われたことは絶対許せない」と、腹をおさめてはくれないかもしれない。場合によっては、かえって怒らせてしまうかもしれない。障害特性が原因で秘密をばらしてしまったら、壊れた人間関係はもう元には戻らない。様々な責任を問われることもある。アスペルガー症候群への理解は得られたけれど、決裂での決着が胸に刺さった――そういう悲しいケースは、今後いくらも出てくるだろう。

こうしたアスペルガー症候群の人にメディアがからんでくれば、事はさらに複雑な様相を呈する。

人間社会において、トラブルは必ず起こる。大事なのは、起こってしまったトラブルに対処することである。多様性を認め共に生きていくためには、アスペルガー症候群への正しい知識を広げるだけではなく、本人へのサポートを充実させ、トラブルになってしまった場合にはそれぞれのケースで誠実に対話をしていくことが必要だといえる。

時には壁にぶつかるだろう。苦い結末をかみしめることもあるだろう。

それでも、粘り強く、対処していくしかない。

カリスマに熱狂したところで、現実の課題や矛盾は少しも解決しないのだから。

長い緑色の階段を上っている人

(記事公開2019年11月5日。2020年3月1日、「ADHDへの理解が進んだアメリカでの、意外なその後」を追加および「感情論vs感情論―熱狂とケンカ」の箇所を加筆、再編集した。)

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