東京オリンピック・パラリンピックを開催すべきか、中止・反対派に私がそれでも賛同できなかった理由を伝えたい

「この人たちと同じ舟には乗れない」――東京オリンピック・パラリンピックを開催すべきか否かが国政の一大論点となるなか、アベ・スガ政権を批判してきた私が大会中止を訴える人々に抱いたのは、そんな驚きと落胆だった。

新型コロナウイルスという未曽有の事態に直面したTokyo2020。オリンピック史上初の開催延期となったものの、パンデミックの終息は見えず、政権は国内の医療体制拡充やワクチン接種等を進めることができず、大会組織委員会は目を覆うばかりの不祥事に次ぐ不祥事で開催直前まで役職辞任が相次いだ。

それでも、私は東京オリンピック・パラリンピック開催中止を求める人々に賛同することはできなかった。私が何に驚き、どう落胆したか分かるだろうか? 選挙をひかえる今後にも不安を感じている。その理由を何としてでも社会に伝えたい。

戦前ファシズムのパターン、開催反対派も含めて……

開催反対派の言論者をみていくと、その脳裏には、かつて日本がファシズムのるつぼに落ちていった時代の政治判断がよぎっていることがうかがえる。東京オリンピック開催へ向かう一連の流れに、止まるに止まれなくなって希望的観測から戦争へと突き進み、戦局が悪化しても続行を重ねた果てに惨禍と破局を招いた暗黒の歴史の再現を見出しているのである。

「歴史はパターンや構図の宝庫だ」といわれる。我々が歴史を学ぶのは、過去過ちに至ったパターンを覚え、いまの状況に照らし合わせ、危険を察知したら今度は別の道を選ぶことで失敗を繰り返さないためである。私はこれまで歴史上の惨劇につながったパターン、とりわけ戦前ファシズムのパターンに目を光らせてきた。社会に警鐘を鳴らしたこともある。

そこをいくと、たしかに東京オリンピック・パラリンピック開催への流れが戦前ファシズムのパターンをなぞっているのはそうであろう。

にもかかわらず、私はどうも腑に落ちなかった。

違和感の原因を探るべく、私はオリンピック開催反対派の行間を読んでいった。そして浮かび上がったのは、彼らの、戦前政府の過ちばかりを強調して、当時の国民をあたかも戦争をいやがっていた非力な被害者だったかのようにとらえる意識である。事実は違う。実のところ、1930年代の国民は軍国主義に燃え上がっていた。新聞は軍国主義を書きなぐるほどよく売れたし、一般国民は「開戦しろ」と政府をたきつけていたくらいである。ラジオから真珠湾攻撃が伝わると、人々は町に出て喜びと爽快感を叫んだ。国民が暴走していく政府・軍部を止められるような存在ではなかったのだ、という重い事実にフタをしてはいまいか?

以下で順次述べていくが、東京オリンピック開催中止を求める人々は感情を爆発させるばかりで、言論としての質は燦燦たるものだったと言わざるを得ない。SNSだったらもとより情報の質は期待できないが、嘆かわしいのは、そうした感情論が有識者にもジワジワと広がっていることだ。私に言わせれば、「言論の劣化」という点は、戦前、多くの知識人が欧米の文献を輸入することに傾倒し、陳腐な見栄張り合戦に終始した結果、社会において「批評」が弱まっていたのがファシズム台頭を許す下地になった歴史と重なっている。思想が貧困なのである。根本的には、精神的に不安定で、自分の軸がない。

なるほど、大会開催への一連の流れに戦前ファシズムのパターンはみられる。皮肉だが、機能不全に陥った「政府」を止められる充実した力を持った勢力がないところまで含めて、つまり東京オリンピック・パラリンピック開催中止派も含めて、戦前ファシズムの構図を再現していると思う。

だから私は、頭を冷やせ、我に返れと訴えているのである。

学生運動の挫折と皮肉再び~民主主義の欠如

戦前ファシズムのパターンだけではない。東京オリンピック開催是非をめぐる荒れた世相を目の当たりにして、私はまるで1960年代の学生運動を疑似体験したかのように感じた。

戦後、学生運動の学生たちは反戦平和や政治の変革などを訴えた。彼らには知識があり、学があった。しかしその内情はどうだったかといえば、自らの訴えとは似ても似つかぬ苛烈な排除の論理で「内ゲバ」が横行、組織内で暴行や殺人まで行われる始末だった。これではまるで戦前の言論統制である。皮肉なことに、彼らは戦前ファシズムを心から憎み、批判しながら、自分たちこそが戦前ファシズムそのままだったのである。

しかも皮肉は重なる。同時代、自民党は党内の派閥間で政権交代を繰り返していた。学生運動が目の敵にしていた自民党の内部統治のほうが「民主的」だったのである。

時は変わって2021年、SNS時代。東京オリンピック反対派は、国民の命を守る、自民党安部・菅政治を変えなければならない、と主張している。リベラル系有識者も多くいる。しかし実態はどうかといえば、SNSでありがちな感情論に燃え上がり、言葉は攻撃的で、次に紹介する通りアカウント内の風潮は全体主義的である。

自民党の非民主性を批判している人々の多くが民主的でない――私はここに、学生運動の挫折と皮肉の再現を見ている。

今回、東京オリンピック・パラリンピックを開催すべきかという政治的対立で私が見たのは、わが国における民主的な感覚の欠如がいかに根深いかであった。もうかれこれ60年も前になる学生運動、いや、自由民権運動が実を結ばずに終わった明治以来、この国は「民主の欠如」という病をかかえ続けている。2021年のいまも克服できていない。

この点、いまこそ向き合うべきは「民主」である。

ネトウヨと変わらない自分の姿に気付いているか

「#東京五輪の中止を求めます」というハッシュタグがついたTwitter投稿から、そのアカウントにジャンプしてみた。プロフィールによれば創作系のアカウントで、詩を書いているのだという。

このアカウントのユーザーがどんな詩を書いているのか、それは不明だ。なぜなら、タイムラインには自身の詩や創作に関する投稿がただのひとつもないからだ。他の話題もない。スクロールすれどもすれども、スローガンのごとく「東京オリンピック開催反対」だけが延々と続いていた。似たようなユーザーが集まり、フォロワーは万をゆうに超えていた。

私は思わず目を覆った。これではまるでネトウヨである。この詩人(?)は安部・菅政権を退陣に追い込むと意気込んでいるのだが。

あなたはヘイトスピーチや陰謀論のアカウントをのぞいたことはあるだろうか? そうしたアカウントは、ヘイトなら定式化したヘイトを一日中垂れ流し、コロナワクチン危険説ならコロナワクチンが危ない「証拠」をひたすら「紹介」している。他の見方や意見は考慮されない。SNSは投稿内容が一面的かつ過激であるほどフォロワーが集まりやすく、ある陰謀論アカウントは、開設から3週間でフォロワー1000人と、IT業界で群を抜くタイムを記録したという。「自分たちだけが正しく他は間違っている」というカルト宗教同然の雰囲気が気持ち悪いのだが、やっている本人は、確固たる論拠に基づいた世のため人のためになるすばらしい社会活動・政治活動をしていると心から信じている。

上記の「東京オリンピック開催中止」を訴えるTwitterアカウントは、こうしたヘイトスピーチや陰謀論と何ら変わらぬ危険な原理で動いていた。だから私にはとうてい受け入れられなかったのである。しかも、本稿を執筆するため私が見ていた数日の間にアカウントはどんどん過激化し、言葉遣いは日に日に乱暴になっていった。いまでは怒りで真っ赤な絵文字が多用され、攻撃的な文言は日常化している。これで一体どんな詩を書いているというのか、ちょっと読んでみたいものである。

もし私が「あなたのやっていることは危ない」と言ったなら、アカウント主は即座に反論してくるだろう。国民のためには東京オリンピックは開催すべきでないのだ、このままでは医療崩壊が起きて助かる命も助からなくなってしまう、新型コロナウイルスという危機を前に無策だった政権を批判するのは当然だ、政治を変えなければならないのだ、と。私は再反論する、ネトウヨだって自分は正しいと思っている。傍から見れば誰かを傷つけること明白な排外ナショナリズムでも、それが世のため人のためになる言論だと思い込んでいる。

自分は絶対に正しく、正しいことのためだったらどんな攻撃も許されるというその発想が危険なのである。他の考え方を認めず、みなで一方向に突き進んでいくその全体主義的な雰囲気が危ないのである。

この詩人だけではない。東京オリンピック開催反対を訴えているSNSユーザーをみていくと、投稿内容がそれだけに特化していく傾向は全般にみられた。これはヘイトスピーチや陰謀論アカウントを除いて、普段の一般ユーザーにはない現象である。政権批判の「解説画像」や四コマ漫画は、揶揄するような内容が多かった。口が悪かった。七夕の時には、ショッピングセンターの笹に「東京オリンピックやめろ!」と書きなぐった短冊が乱雑につるしてあった。メディア上の有識者もやめろやめろ、中止だ中止だと一方的にわめき散らし、下記で述べる通りその態度は無神経だったり、失礼とも受け取れた。東京オリンピック・パラリンピック開催反対の声は全般、中傷的で品がなかった。

理性なく感情論に燃え上がる人々を見て私は思った。この人たちと同じ舟には乗れない、と。アベ・スガ政治を批判してきた私にとって、アベ・スガ政治への批判にこんな失望を抱くのは初めてだった。

オリンピックの五輪シンボル
雨の五輪。

インターネットは感情が急速に高ぶりやすいメディアだと、その黎明期から指摘されてきた。

開催反対派の読者には思い出してもらいたい。ほんの数年前まで、あなたはこんな頭に血が上ったネガティブ感情爆発人間ではなかったはずだ。

過激化した反対派アカウントのその後

ごく普通だった家族や友人、同僚が、SNSをやっているうちにヘイトスピーチや陰謀論に傾倒し、たった1か月で変わり果ててしまった――こうした「悪夢」は、いま世界中で報告されている。私はインターネット、特にSNSのこうした危険性に以前から注目していて、当ブログでも解説を発信してきた。詳しくは以下のリンクを参照してほしい。

参考リンク:陰謀論:ごく普通だった人が豹変する、突然の悪夢

私が追っていた上記反対派詩人のTwitterアカウントは、こうした「悪夢」と同じ道をたどって過激化した。参考になると思うので、事のあらましを記しておこうと思う。

私が上記アカウントを最初に見つけたのは、7月23日のオリンピック開会式まで1週間を切ったころだった。正確な記録は残っていないが、おそらくは同20日だったと思う。開催反対の世論が最も激しかった時期である。

私が発見した反対派詩人の投稿は「#東京五輪の開催中止を求めます」というタグがつけられたごく一般的なもので、私の知人の同僚がリツイートしたものだった。私と知人との間には直接面識があり、Twitterではつながっていないのだが、彼女のアカウントはブラウザのブックマークに入れ、投稿を時々見に行っている。彼女の同僚のアカウントへ飛んだのは、たまたま投稿内で言及があったからだ。知人の同僚は、タイムラインを見たところによれば個人的に東京五輪開催に反対しているらしく、特に開会式の作曲担当・小山田氏辞任に関心を寄せ、Twitter投稿やネットメディアの記事を盛んにシェアしていた。その一つが反対派詩人の投稿で、私の目に留まったのである。

反対派詩人のアカウントはこうして発見したのだが、上で述べた通り全体主義的な原理で動いているのが気になったので、私は星マークをクリックしてブックマークに追加した。ただこの時点では、この人なりに熱意があるんだろうけど空回りしているな、言い方やり方の本質的な部分に問題があると気づいてないんだろうな、という感じだった。すでに創作系アカウントとはいえない状態になっていたし、危険な兆候はみられたが、まだ普通といえる範囲内だった。使用ハッシュタグが「#東京五輪の開催中止を求めます」と丁寧語で、かつ常識的な表現であることに当時の雰囲気が表れている。

それがオリンピックが開幕してからというもの、アカウントは日に日に過激化していった。言葉使いが荒くなり、文はみるみる短く、投稿頻度は目に見えて増加した。開会から1週間ほどで、投稿は批判する相手を一方的に叩きのめす文言ばかりになった。この時点で政治的議論といえる範囲からは逸脱し、見ていて「怖い人」という印象に変わった。

そして8月8日の閉会式を迎えるころには、まごうことなき暴言アカウントになり果てた。「バカヤロー」などと罵倒するとか、特定政党を「犯罪者」、特定アスリートを「人でなし」と呼ぶなどが常態化。「叩く」「潰す」など攻撃的な動詞や、命令形の文、揶揄するような表現が頻出し、もはやタイムラインには罵言暴言しか出てこない。まるで私が書いてきたことを追うかのように「リベラル」を名乗ってネトウヨを批判してみたり、なかにはコロナワクチン危険説に近い投稿までみられるようになった。

創作アカウントが暴言アカウントに変貌するまで、たったの3週間しかかからなかった。

この反対派詩人の問題点は、理論的には、言論の自由をはき違えていることと、民主的なプロセスを軽視していることである。だが、実質的な問題点は別の側面だと思う。「SNSによる人柄の豹変」である。

デジタル時代を生きていく我々にとって、「ごく普通だった人がSNSをやっているうちにみるみる人が変わってしまう」という悪夢のような出来事が世界中に存在するという事実は必携の知識だと思う。知っておくことが最大の対策になるからだ。筆者は、詩を書いているというアカウント主が――ネトウヨ投稿を「生きがい」だと感じている人やQアノン陰謀論に夢中になっている人なども――どこかで我に返り、戻ってこられるよう願っている。

感情を爆発させた開催中止・反対派

「レベル2のスライム」の走り~森失言での強引な論

新型コロナの先が見通せず五輪を開催すべきかどうかが議論となるなか、2021年2月に大会への批判の呼び水となるトンデモ不祥事が起こった。森・大会組織委員長(当時)の失言である。

これについてはすでに何回か触れたので(末尾の「関連記事」参照)、個人的に一言言わせてもらいたい。政治家のこういう失言があるたびに国際社会に出る日本人がどれほど恥をかくか知っているだろうか? 世界中の人から「こういう国なんだ」と思われてしまうのである。彼は国家の要人、それも主権者国民に選ばれて出てきたはずの政治家なのだから、そう思うなと言うほうが無理である。自分が日本人だというだけで気まずさに凍りつく。迷惑もいいところである。

これにてTokyo2020のイメージはガタ落ち、大会への視線が冷え切ったのは当然の因果であった。たいてい、政治家として「神の国発言」、えひめ丸沈没時にゴルフなどとトンデモ事件を連発し、政権が1年ともたなかったあの人物がまだ、そしてまた公的要職に就いたこと自体が驚きである。

ところが、私は失言の後の展開でまた驚くことになってしまった。かなりの有識者までが森失言をきっかけに「だから東京オリンピック・パラリンピックはやめるべきだ」という方向に論を引っぱっていったのである。

「東京オリンピック・パラリンピックを開催すべきか、それとも中止すべきか」は、あくまで新型コロナウイルスのパンデミックで浮上した論点である。その判断は新型コロナの状況によるはずだ。「組織委員会会長が失言した→大会を中止にすべきだ」では強引である。

考えてみてほしい。もし世界に新型コロナなどなく、誰もが予定通りの開催を疑わない状況だったらどうだっただろう? 森失言が2020年の2月にあったとして、「だから東京オリンピック・パラリンピックは中止せよ」という話になったはずがないではないか。社会の反応は失言自体への批判と辞任要求にしぼられていただろうし、話の筋としてはそれが適切である。森失言は内容的にも立場的にも厳しく批判されて当然のものであったが、「東京オリンピック・パラリンピック開催を中止すべき」とする論拠としては弱いのである。

自分が求める開催中止を押し通そうとやっきになって「汚い手」を使えば、代償を払うことになる。

この人たちは一体何を言っているのだろう? これでは上げ足をとったにすぎないではないか。

なぜこんな明らかに粗悪な論を出してきたのだろう? 有識者として紙面たっぷりにそれらしい理屈を並べているが、とどのつまりは感情を爆発させただけではないか。

帯に短し、たすきに長し。「森失言→東京オリンピック・パラリンピックをやめるべき」という論展開は、失言への批判としても、大会を中止すべきだという論拠としても十分でない。東京オリンピック・パラリンピックを開催すべきかにおいて反対の立場で論陣を張った層は、強引な論展開によって人権の価値を下げ、政治批評の質も落としてしまった。故意ではなく過失だろうが、日本社会に残した傷は大きい。

このころから私の失望は始まった。今振り返れば、森失言は7月に続々と出現した「レベル2のスライム」の走りだった。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の乱雑批判の走りでもあった。

私は「池江璃花子選手へのお願い」のどこにぎょっとしたのか

森失言の時点で私が感じとった反対派の異変は、今となればまだ微々たるものだった。

5月7日、ぎょっとするような言動がまた出てきた。大会開催に反対する人々が、InstagramやTwitterで、水泳の五輪代表で指折りの注目選手である池江璃花子選手に辞退や反対を求めるコメントを寄せ、なかには心を痛めるようなものもあった、というのである。池江選手は「今このコロナ禍でオリンピックの中止を求める声が多いことは仕方なく、当然のことだと思っています」と前置きした上で、「私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません」「頑張っている選手をどんな状況になっても暖かく見守っていてほしいなと思います」などと自身のTwitterに投稿した。

池江璃花子選手の東京オリンピック関係Tweet
出典リンク:池江璃花子選手Twitter5月7日投稿スレッド

私がこの件のどの点にぎょっとしたか分かるだろうか?

東京オリンピック開催中止を訴える人々の、自分の意見を押し通すために有名人をかつぎ出そうという発想が信じられなかったのである。そのポピュリズム的下手物思考に、私はこの手で触れられない。

アスリートに意見表明を求めるのが絶対にナシとまでは言わない。アスリートがアスリートたちの競技大会運営に意見するのは当然あっていいことであり、ならば一般市民が「○○選手は××についてどう考えているんですか?」と尋ねることはあって然りだからである。特に今回の件に関して言えば、大会延期が決まってからというものまるで戦前のような異様な雰囲気になっていると指摘されていた開催支持層は、「中止にすれば頑張ってきた選手がかわいそうだ」というのをたびたび論拠にしており、その際に白血病を克服して返り咲いた池江選手の名前を出していたという背景もある。

ただ、絶対にナシとまでは言わなくても、反対や辞退を求めるのはきわどい行動ではある。池江選手の意思を無視して一方的に「お願い」を送りつけるのだから、文面を一言間違えば脅迫や強要である。たとえ強迫・強要まではいかなくても、迷惑がられるかもしれない。通販業者や政治家から送りつけられたダイレクトメールにうんざりしたことはあなたにだってあるはずだ。

コメントの文面が適切な範囲内であれば、法律上は許容される。が、それによって池江選手という一人の人間が自分の思い通りに動いてくれる、物事が自分の思い通りになるとは見込まないことである。自分の意見を押し通すために会ったこともない池江選手を利用しようというならなおさらである。

池江璃花子選手に辞退や反対の声を求めた東京オリンピック開催反対派、特に同選手を非難するようなコメントを寄せた人々に私は声をかけたい。いったん立ち止まって、自分のやっていることの客観的な意味をかえりみてはどうですか、と。目的のためなら手段を選ばなくなりつつあった反対派は、輪の外から見れば行き過ぎで、とても支持賛同できるような人々ではなかった。

世界史上、感染症はたびたび民衆をパニックに陥れてきた。感染拡大を「緊急事態」、感染対策を「絶対的正義」とみなして手段を選ばなくなった民衆が、自らの手で社会をこの世の地獄に変えた。今回の新型コロナにおいても”自粛警察”はその暴力的なパターンの繰り返しであった。歴史が示す教訓は、ウイルスを前にした時こそ冷静にならなくてはいけない、ということである。

「小学生の素朴な疑問」を持ち出したメディアが予想通りの挫折

「池江選手へのお願い」の次がこれだ。6月ごろにかけて、反対派がしきりと引き合いに出したのが「小学生」だった。わが家ではいたいけな子どもが「なんで運動会をやっちゃいけないのにオリンピックはやっていいの?」と素朴な疑問を口にしている、菅政権は小学生の疑問に答えられるんですか、という論法である。

ダメだ、破られる。私は即座にそう首をひねった。

なぜなら、「運動会をやっちゃいけない」という大前提に検証と疑問の余地があるからである。

ある小学校が運動会を中止したのは、天からそうせよと啓示が降ってきたからではない。その判断には、校長や教員、地方自治体、教育委員会、政府、関係省庁など、いくつもの主体が関わっている。自分の意思や思考力がまだ十分でない小学生は先生や行政の決定に異を唱えることがないというだけで、運動会中止の判断が適切だったかどうかは検証・評価の対象としてよいのである。もし関係者がクリエイティブに知恵をしぼったなら、運動会は「縮小での開催」「『密』を避けるよう形を変えての開催」などもあり得る。

また同じころ、緊急事態宣言下でもプロ野球などのスポーツは観客を入れて行われていた。集まった観客にクラスター感染なども起こっていなかった。運動会の中止を絶対視・神聖視するのには無理があったのである。

しかも時すでに、私は欧州サッカー選手権がコロナ対策のうえで観客を入れて開催されている、という情報をつかんでいた。ヨーロッパでは、欧州サッカー選手権は小学校の運動会どころかオリンピックと肩を並べるビッグイベントである。この事実が世に知れたら「小学校の運動会中止」を引き合いに出した反対派は総崩れになるのでは、と私は予感した。

案の定だった。会場外に集まった人々にクラスターが発生したという別件でサッカー欧州選手権が世に知れ渡ると、なんだ、やっているではないか、しかも観客をこんなに入れて……ともらす声が聞こえてきた。

これ以降、反対派の言は苦しくなった。あるメディアは、国によって状況が違うとうんぬんかんぬんごねていた。別のリベラル系メディアは、オリンピックは平和の祝祭だから性質が違うのだと言い出した。そうこうするうちに、「小学生の素朴な疑問」はメディアから姿を消していった。小学生を引き合いに出す作戦は失敗に終わったのである。

もとより、大人が子どもの言を引き合いに出すのは紙一重である。飢餓や戦争犯罪を告発するような場面であれば、罪なき子どもの声は何より響く声となり、人々の心に訴え、現実を前にかすんでいた正義感を呼び覚ます。しかし、やり方や場面を少し間違えば、大人が自己目的で子どもを利用することになってしまう。子どもの言ゆえの未熟さが議論を混乱させることもある。今回の「なんで運動会をやっちゃいけないのにオリンピックはやっていいの?」という小学生の見方はなにぶん感覚的で穴があったため、「大会を中止すべき」との論拠としては最初から適切でなかった。

何が何でも中止に追い込みたいという願望ありきの熱い頭で動くから、やる前から分かりきった失敗をするのである。これではまるで太平洋戦争である。言わんこっちゃない。私はあきれ果てて背を向けた。

私は問いたい。小学生を利用してまで相手に勝とうとするのはもはや狂気ではないですか、と。少し体をリラックスさせ、深く息をして、頭に上っていた血をもとのところまで下げてはどうだろう。

たった4年で変貌したリベラルメディア

私は右だの左だのという表現を好まない。この概念は相対的であり、国や時代によって流動するからだ。たとえば、自由主義といったらタリバン政権下のアフガニスタンでは「極左」にあたるだろうが、社会主義国では古臭い思想に固執する「右派」となろう。加えて、右だの左だの言い出せば何もかもを政治闘争に組み込んでしまう。そのせいで個別案件に対する個人の意見は派閥に引きずられがちになるし、「やつらが言うことには反対」と見当はずれな「反対者」を生んだりもする。飢餓への支援を始めたのがリベラル系の人々だったから保守派が批判した、などということが起こってくるのである。ただ、今回の東京オリンピックは安倍政権下で招致が行われたという政治的文脈から、政権支持層が賛成、リベラルが反対の立場で論陣を張る形となっている。この現状を踏まえ、今回はこの概念を採用し、リベラルの側に焦点を当てたいと思う。

さて、私は数年前、あるリベラル紙の特集記事に心打たれたことがあった。日本社会の持続可能性に関する記事で、その着眼、取材と筋立ては、まるで一本の金糸が貫いているかのようだった。私は生まれて初めて新聞社に電話をかけようかとすら思ったものだった。

時は過ぎて2021年。私は同じリベラル系新聞社に電話をかけようかと思った。苦情を言いたかったからだ。児童虐待に関する記事だったのだが、言葉の表現が煽動的なので、誤解を生んだり、興味本位の目にさらされることになりかねなかった。怒り心頭のあまり、私はもうこの新聞は相手にするものかと投げ捨てた。

リベラル系メディアは、ここ4年で変わり果てた。感情的になり、勢い重視の傾向が強まった。批判意見には、軸がない。そして私が最も嘆いているのは、人権の論じ方が俗流化したことだ。読者の中に「リベラル」と自称または他称されるジャーナリストはいるだろうか? この短期間で豹変した自分の姿に気付くべきだと私は言いたい。

SNS化した世界と人権論の俗流化

リベラル系メディアは一体いつこんなに変わってしまったのか。時系列で確認していく。

2015年、安保法制。この時はまだ異常なしだった。

翌2016年には、世界で潮流の大きな変化があった。11月にアメリカ大統領選でトランプ氏が勝利したのである。民主主義を誇るはずの世界一の超大国で極右候補が当選したことは、新しいメディア・SNSを核としたネット大衆社会とポピュリズムの時代を象徴していた。

2017年、これが今から4年前である。この年には共謀罪法、森友学園事件と日本政治が「戦後最悪」を重ねる。この時点ではリベラル系メディアに異常はみられなかった。鋭く、かつ適切な解説や論評を行っていた。人々も今とは違った。国が危ない方向に行っている、表現の自由が抑えられると危機感が、一般国民の間で高まっていた。普段は政治を扱わないファッション雑誌が次々と共謀罪法を取り上げるなど、政治のことをまじめに考えよう、参加しなければ、という機運が確かに存在していた。

私がリベラル系メディアに初めて異変を感じたのは、2019年の秋だった。そのころ話題となった16歳(当時)の環境活動家グレタ・トゥーンベリ氏の国連スピーチを一目見た時、私はリベラルは当然批判的な姿勢で臨むと信じて疑わなかった。罵倒や涙によって自分の意見を押し通そうとするのは、民主的な政治的言論に対する破壊行為だからである。ところが現実は逆になった。リベラル系メディアが称賛一本の姿勢をとったのである。今思えば、同じく2019年の春、平成から令和への改元を前にした「ありがとう平成」のお祭り報道がメディアの変貌の始まりだった。

そしてこれを書いている2021年。最近は、リベラル系メディアが「今まで声にならなかった声」などを取り上げているところを見ると、一見真剣なようでいて、文章全体のカラーが大衆的、煽動的なのが気になる。一般人による差別への取り組みなどが話題になり、左右問わずメディアがすばらしい人権活動のように称賛することは増えているが、巷では「アレ何なの?」などと違和感や反感の声が聞かれるようになった。SNSをベースにあらゆる人が担い手になるようになった結果、「人権活動」や「差別反対」は年々ケバケバしくなっている。底は浅くなり、奇抜さで目立つ一過性のお祭りへとなり下がった。巷で聞かれる違和感は、その「下手物」ぶりへの嫌悪感に由来していると思う。

SNSは世界中の人々の人格を変えた。私はITの世界を長年見てきてそう感じている。

ちょっとTwitter投稿を読んだだけで政治を理解したと錯覚する人。ハッシュタグを打ち、投稿ボタンをポンとタップしただけで画期的な平等推進運動をしたと思い込む人。ネット上のバーチャルなコミュニティに入り浸り、スクリーンの前で頭に血をのぼらせる人。こうしたSNSの性格やカルチャーはインターネットのみならず世界中に浸透し、いまでは文化や人々の発想法までが「SNS的」になっている。それは新聞記者も例外ではない。

新聞記者や言論者とて一人の人間である。リベラル紙といえ、執筆する人の人格が変われば記事の内容はそれにともなってシフトするだろう。「SNS頭」で企画、執筆してしまうのである。リベラル系メディアはきっと認めたがらず、抵抗するだろうなと思いながらこれを書いているが、私の目から見て、リベラル紙面の上に感情論は急増した。

何が違う、右と左と――。

いま、SNSを核としたポピュリズムは世界の土台となっている。排外ナショナリズムやヘイトスピーチだけでなく、リベラルもまたSNS化、ポピュリズム化しているのである。右派と同じリングに上がってケンカを繰り返している。

赤いグラブと青いグラブをはめてボクシングをする2人のビジネスマン

米トランプ氏の二期目当選はなかったが、「ツイッター大統領」の時代は水面下で着々と続いている。続けられる環境なのである。止める力を持った勢力がいないのだから。

私が人権活動や差別反対の俗流化を危惧しているのは、それによって人権論への信用が下がりかねないからだ。このままではオオカミ少年ではないが、いざ人権論が必要になったときに人権論がサビついていた、という事態を招きかねない。

世界の人々は、人権本来の価値を思い出さなければならない。人権とは何のことか、それを学びなおせば、その至高の価値と釣り合う「やり方」があるということも見えてくるだろう。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりの乱雑批判

不祥事にかこつけてオリンピック・パラリンピック開催中止へもっていこうとする強引なやり方は、森失言の後も繰り返された。

開会を目前にした7月、組織委員会は順調に進むどころか混乱につぐ混乱だった。開会式をめぐって辞任・解任が相次いだ。次で詳しく述べる通り、不祥事はいずれもひどく低次元だった。が、私が言いたいのは、批判する側の言論の質もまた、彼らにつられるようにズルズル下がっていったということである。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに反対派の批判は乱雑化。テニス選手からの暑さへの苦情やトライアスロン会場であるお台場の水質も、引き出しの奥で見つけたかのような招致をめぐる裏金スキャンダルも、IOCバッハ会長の名誉目当てとささやかれる広島訪問も、女子ビーチバレーのユニフォームも、果てには「自分はスポーツに興味がない」という個人的な好みや感性まで一緒くたにして開催中止に結びつける反対派を、私はただ、遠巻きにながめていた。2月の森失言の際に芽を出した強引さは、7月にツタが繁茂する如く暴走した。私には、感情を燃え上がらせて理性を失い、攻撃性をむき出しにする東京オリンピック開催反対派の民衆は異様でおそろしい。

「ひどいからやめろ」では、ただ感情を爆発させたにすぎない。批判は、正しい宛先を指定しなければ「意見」にならないのである。

レベル2のスライムから反撃ダメージをくらうとは情けない

開会式まで1週間を切ってから、その開会式の作曲担当・小山田健吾氏が辞任、演出の小林賢太郎氏は解任となった。土壇場でのドタバタ劇である。

小山田氏は、同級生へのいじめや障害のある同級生への虐待を武勇談のように語った経歴が明らかになった。演出の小林氏は過去にホロコーストを揶揄するコントを行っていたことが分かった。平和の祭典であり、平等をその精神に掲げるオリンピック・パラリンピックにおいては、いい悪いを論じるまでもなく論外の人選であった。

開会式の話題なので、ここは音楽が選手入場に使用された人気ゲーム「ドラゴンクエスト」風にたとえるとしよう。

小山田氏と小林氏の件は、さしずめレベル2のスライムだった(レベルは強さを表し、最大値は100)。

ドラゴンクエスト9のパッケージ
筆者私物の『ドラゴンクエストⅨ』ソフト。イラスト手前の青いキャラがスライム。

出会い頭にバサッと一撃で倒して当然の相手である。

にもかかわらず、反対派はこともあろうにレベル2のスライムから反撃を受け、ダメージを食らう。「小山田氏のいじめを批判するやり方がまるでいじめだ」とか、「子どものころの間違いを理由に社会がずっと受け入れないなら問題だ」といった反撃である。

私が東京オリンピック開催反対を叫ぶ人々にいよいよ愛想を尽かしたのは小山田辞任騒動のころだった。こんな論外レベルの相手につけ入るスキを与えるなんて信じられない。もう、ついていけない。

人権論として十分なクオリティの言説を出せていたのは、政治家や障がい者団体といったプロフェッショナルくらいだった。小山田氏に対する世の批判、その大部分は批判意見未満のバッシングだったと言わざるを得ない。

そこには、高さも清さもなかった。人権の至高の価値と、まるきり釣り合っていなかった。

耳に痛いとは承知だが言わせてほしい。レベル2のスライムから反撃ダメージを食らったのは、批判している側もレベル2だったからではないのか。あるいはレベル1だったのではないか。レベル2の暴言合戦など、レベルが低すぎて見られたものではなかった。

トランプ米元大統領とSNSが象徴するポピュリズム時代、言論においては民主的プロセスの軽視が急速に進んでいる。「正しいこと」を言うならどんな罵倒も許される、差別など間違ったことを批判するならやはりどんな言い方も許される、それが表現の自由であり民主主義じゃないか、と……。世界は思い出すべきである、適正プロセスは自由の保障の大部分である、と。

オリンピック閉会式を終えて~「反対派」とは何だったのか

国内で賛否が二分されたTokyo2020オリンピック大会は、17日間にわたる競技を終えて8月8日に閉幕した。

世論において、感情論は閉会後も存続している。上記で取り上げた元・創作系アカウントのようにSNSではさらに過激化する例もみられた。反対派の間では、観戦を楽しんだり選手を応援した人が仲間内から「手のひらを返した」「二枚舌だ」などと糾弾されたり、自己嫌悪に陥ったりする例が多発しているという。思想統制と排除の論理。「内ゲバ」の再来、いや、ネット大衆社会を舞台にSNS化した「内ゲバ」である。

他方、開催に対する世論の逆風は、アスリートたちの活躍や国を越えて互いを認め合う姿などによって開幕後には弱まったとの見方が強い。感情的な盛り上がりは、冷めるのも早いのである。私は知人の同僚のTwitterアカウントを再度のぞいてみたが、いまではオリンピック関係の投稿は消えて日常生活での出来事が雑多に積み重ねられ、すっかり平常運航に戻っていた。

閉幕後は、Tokyo2020の話題自体が減少している。パラリンピックは8月23日開幕だが、以前のような大きな反応は反対派を含めてみられなかった。同12日には東京・埼玉・千葉会場を無観客とする方向で最終調整、同16日にはすべての会場で一般客を入れないことが決まったが、報道は乏しく、探すのに苦労するほどで、ネット上でも反応はほぼ見当たらなかった。メディアおよび人々の関心はオリンピックを去った感がある。

「オリンピック反対派」はあんなに過熱していたのに、彼らは「パラリンピック反対派」にはならなかった――合理的に考えれば奇妙である。私は、反対・中止論はもともと一過性の感情論だったうえ、「派」といっても主な舞台がネット上だったため実体がなかったのがその背景だとみている。

パラリンピックを前に蜘蛛の子散らした反対派

問われなかった視点~パンデミックから文化活動をどう守るのか

かくして我々は「パラリンピック反対派」がいない空白に立つことになった。なんともいえない気分だが、せっかくなのでパラリンピックに深く関わるまじめな話をしようと思う。

東京オリンピック・パラリンピック中止論は大衆の感情を原動力に動いていたため、議論が単純化された分、見落とされた視点が多かった。その一つが「パンデミックから文化活動をいかに守るか」である。

新型コロナのパンデミックによって、世界の文化界は大きな打撃を受けている。読者によって好きな文化分野はまちまちだろうが、あなたにも何か覚えがあるはずだ。たとえば映画界では、撮影が滞ったり、完成しても封切りが持ち越されたり、ようよう封切りに至っても不安定な情勢のため観客動員数が伸びないといった不運な作品が続出。また劇場の閉鎖によって、いま各地の劇団員が悲鳴を上げている。私の趣味といえば音楽なのだが、昨年買っておいたコンサートのチケットが払い戻しになった。オーストリアのオーケストラを招聘できなくなったからだ。生演奏を前提とするクラシック音楽はいま、コンサートホールの閉鎖等で危機的状況にある。世界中の音楽家から、公演中止によって金銭的に追い詰められ、音楽の道をあきらめざるを得なくなったと涙をかみしめる無念の声を聞く。パンデミックから音楽を守るため、各国の音楽家が政府に補償や経済的支援を求めている。

読者はもしかしたら、クラシック音楽家なら補償で持ちこたえられればパンデミック後には復帰できるだろう、と思ったかもしれない。しかしプロの見解は違う。あるクラシック音楽家は、みな技量にはピークがあり、自分のピークは後になってから分かるものだ、とテレビで語っていた。

歳をとっても現役でいられそうなクラシック音楽家ですら、いま公演ができないために取り返しのつかない打撃をこうむっているのである。ましてやアスリートはどうだろう。体力のピークは、過ぎたら二度とかえらない。現役生活が若いうちの短期間に限られるアスリートにとってパンデミックがどれほど凄惨かは、みな一度立ち止まって想像すべきだ思う。

オリンピックは、スポーツという文化分野において最高峰の大会である。もしそれが中止になれば、スポーツを職業とする人々には致命的である。スポーツは奥が深い。それを極めんとする毎日のトレーニングはすさまじく、彼らは普段着に戻っても自己と、心の闇と対峙しながら夢を目指している。4年に一度のオリンピックは人生最大の舞台であり、キャリアの頂点である。いくらパンデミックから人命を守るためであっても、それがもし消えてなくなったら、彼らは人生のすべてが暗転してしまうのである。東京オリンピック開催中止を叫んでいた人は、「自分の主張はコロナ対策であり、人の命を救うためだから絶対に正しいのだ」と燃え上がった頭を冷やして、「もしも自分が代表選手だったら」と想像してみるべきである。その葛藤と苦痛に耐えられるだろうか?

「パンデミックから文化活動をいかにして守るか」という視点には、じつはオリンピックよりパラリンピックが深く関わる。スポーツ文化だけでなく、ほかの社会的意義を持ち合わせているからだ。パラアスリートやその関係者は、パラリンピックはパラスポーツを知ってもらう最大の機会だとよく語る。障がいがある人への理解を推進する機会にもなっている。文化活動としていくつもの重要な価値を有しているのである。

「民主主義国家の政治を行う」とは

私はなにも、パンデミックによるスポーツ文化やアスリートの苦境を以て「だから大会を中止にしてはならない」と言っているのではない。パンデミックは政治が取り組まなければならない、人命に関わり、かつ緊急性のある課題である。対応策として多くの人が集まるコンサートや、劇団の公演や、国際競技大会を中止にするという選択肢はあり得るからである。

ただ、仮にオリンピック・パラリンピック中止という政治的決断を下すならば、競技を職業(=自己のアイデンティティの重要な一部)とするアスリートたちの人生を破壊してしまうのだ、という重い事実は受け止めなければならない。政治を行うのは、きれいごとだけではすまない、つらい面を有している。

東京オリンピック・パラリンピック開催反対派には、もし自分の意見が通ったならば一部の人に取り返しのつかない損害を与えるのだ、という重みへの意識がみられなかった。私は落胆した。彼らはなんだかんだ政治的意見を言っているようで、自分が主権者=政治の担い手である現実感はないんだな、と思った。

これを読んでいる反対派、特にリベラル系有識者にはグサッとくるかもしれないし、もしかしたら今夜眠れなくなるかもしれないとは思うが聞いてほしい。国全体にとっていいことなのだからと一部の人がこうむる甚大な損害に無頓着なその感覚、ましてやコロナ対策なのだからしかたないだろう、選手らは当然我慢すべきだというその態度は、全体主義的・国家主義的だった。戦前的だった。民主主義国家における政治の考え方からは、程遠かった。

民主主義国家とは、すべての人のための国家である。ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』で王政打倒を目指す革命家たちが「(革命のあかつきには)すべての人が王様になる」と歌っているのは優れた描写である。「すべての人が王様」なのだが、国内で利害等はバラバラだ。それを調整するのが民主主義国家の政治である。自分は王様だが、ほかの人も王様なのである。誰もないがしろにせず、ありとあらゆる人の事情を考慮しなければ、民主主義国家での政治的意見とはいえない。

これを読んでいるリベラル系の有識者には次のような提案をしたい。安倍政権による「お友達」特別待遇がなぜ許されないのかを、もう一度、根本的なところから考え直してみてはどうだろうか。

提言:今すべきことは「検証」である

Tokyo2020大会開催について、今すべきことは「検証」である。すなわち、各政治判断や事件について

  1. いつ
  2. どのような立場の
  3. 誰が
  4. 行ったこと/発言/判断

だったのかを整理整頓したうえで、それぞれの時点での新型コロナをめぐる状況に基づき、適切だったかどうかを評価するのである。

細かい作業である。いいねいいねと喝采してくれるフォロワーとスクリーン上で戯れていた時とは違い、自分で頭をしぼって考えなければならない。しかし、こうした理性的な検証によってしか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の乱雑批判をきれいにほどくことはできないのである。また、様々なファクターを手に取っていくその過程では、「東京オリンピック・パラリンピック開催に賛成か反対か」という単純な二分の設定そのものが考え方として雑だということにも勘づくだろう。

一例だが、招致をめぐる裏金スキャンダルは招致時点の問題である。東京は、2011年に石原慎太郎都知事(当時)が立候補を表明し、2013年9月、IOC総会にて開催都市に選ばれた。裏金疑惑の第一義的な当事者は誰かといえば、まず贈賄側はフランス当局の捜査対象となっている竹田恒和JOC会長(当時)、収賄側は当時IOC委員だったディアク国際陸上競技連盟会長(当時。現在は国際陸連から永久追放)およびその息子。また、竹田氏と並んで招致に深く関わった関係者はというと、2013年9月時点の東京都知事は猪瀬氏、日本の首相は安倍氏、招致委員会評議会議長は森氏である。どうだろう、すっかり忘れていた名前や、知らなかった名前も出てきたのではないだろうか? このように事実を整理すれば、招致をめぐる裏金は裏金の問題であって、2020年1月ごろ世界に突如現れた新型コロナとは接点がないことが見えるだろう。

おわりに―明日はスマホを裏返して

「たった4年で、みな人が変わってしまった」――これが、東京オリンピック・パラリンピック開催是非をめぐる論争を目の当たりにしての私の感想であった。私の目がとらえたのは、あなたの変貌ぶりである。たった4年前まで、人々の人格は、日本の世相は、今のようではなかった。

今回はあえて触れなかったが、事情があるのは分かっている。目に見えないウイルスに不安や恐怖を抱くのは、個人差こそあれ、人間には普通な反応である。突然始まって終わりが見えない不自由な生活に、誰もが強いストレスをかかえている。自分で感じている以上に、である。何より、はっきり言えば、新型コロナやその政策によって今、おびただしい数の人が経済的に困っている。

しかし、オリンピックを標的に自分の感情をやたらめったら爆発させたところで、あなたの暮らしがよくなるわけではない。五輪関係者のSNSを”炎上”させるだけなら簡単だが、一過性の爆発はあっという間に忘れられ、評価はされず、後には何も残らない。

本当に国・社会をよくするためには、何をどうすべきか合理的に考え出し、理にかなった行動を積み重ねなければならない。今後には選挙があり、その先もある。すでに述べてきた通り、修正しなければならない点は多い。先まで通用するビジョンを持たなければならない。

それに、あんな負の感情の巣窟のような反対派SNSに浸かりこんでいたら精神的に疲れ果てるのは自明の理である。もうそろそろ、がんじがらめになった自分の心から解放されたくはないだろうか?

今日は早めに布団に入り、明日はスマホを裏返して一日を過ごしてはどうだろう。外に出て青空を見上げ、深く息をしてはいかがだろう。

本来の自分に戻って初めて、本当にすべきことが見えてくるはずだ。

パラリンピック閉会式・Tokyo2020全日程を終えて【更新】

新型コロナウイルスのパンデミックという未曽有の事態に直面したTokyo2020大会は、2021年9月5日に行われたパラリンピック閉会式を以て、すべての幕が下りた。

共同通信が9月5日に発表した世論調査によれば、東京パラリンピックが開催されて「よかった」は69.8%と約7割にのぼる一方、「よくなかった」は26.3%にとどまった。Tokyo2020大会が開幕してからというもの、オリンピアン・パラリンピアンたちが自分自身に挑戦し、大舞台で自己の可能性をめいっぱいに開花させ、また競技後に互いを認め、讃え合う姿には「感動した」という声があまた聞かれた。選手たちは、国籍や人種、性別などを超越した人間の尊さや相互理解という大会の理念を、言葉ではなく、自らの競技で体現していたと思う。8月にさかのぼれば、パラリンピック開会式の演出は好評で、国際的にも評価された。こうしたなかで世論の風向きが変わるにつれ、開催反対の立場を強く打ち出していたメディアにも、池江選手に反対や辞退を求めた人々に否定的な見解を出すなど、その姿勢には軟化がみられるようになった。

すべての幕が下りた今ふり返ると、やはり興味深いのは「東京オリンピック反対派」という独特な「現象」である。

理性的な思考や具体性、先のビジョンなく感情に燃え上がった「反対派」。新型ウイルスという社会不安や経済危機を背景として狂気に駆られた民衆であり、また自然発生した「群衆」でもある彼らは、私には異様で恐ろしかった。

7月に入ったころから世の中で盛んに使われていた「五輪貴族」という語は、新型コロナやその政策によって経済的に追いつめられた国民の本音を反映するとともに、社会のなかに「悪辣な金持ち」が存在するとして大衆の憎しみがあおられるポピュリズムの典型パターンを象徴していた。私には、かつて代表的なポピュリストである大阪維新の会の橋下市長が税金が無駄に使われているとしてオーケストラを目の敵にし、音楽家が突然「いらない」「金をもらっている」などと一般市民から心ない視線を向けられたのが思い出される。ポピュリズムのこのパターンが幅をきかせたとき、「悪の金持ち」というラベルをベタッと貼られた人は突然社会から敵扱いされ、糾弾され、肩身の狭い思いをさせられるが、往々にして彼らは実際には憎むような人々ではない。「貴族」どころか、苦しい生活を送っていることも少なくない。東京オリンピック反対派の人々が金儲けのために大会を開催したがっていると言い立てた相手は、バッハ会長をはじめとするIOC関係者やスポンサー企業だけではなかった。メディア企業や、出場選手全般、あるいは特定のアスリート個人、なかには一般のスポーツ愛好家や旅行業界がターゲットにされているところまで見かけた。とんだお門違いである。私利私欲を肥やすどころではない。多くのアスリートは、経済的な苦しさに耐えながら細々と競技を続けている。旅行業界はいま、新型コロナによって経営悪化が深刻だ。多くのホテルや関連企業がすでに倒産、まじめに働いていた人々がプツリと収入を断たれ、途方に暮れている。このような実情を知ってか知らずか、一部の感情的になった反対派の人々は、大会と何らか接点のあるグループに白羽の矢を立てては「国民を犠牲にして金儲けしようとしている」というラベルを貼りつけた。そこにあるのは、恐怖である。感情をあおられた大衆が生み出す恐怖である。他方、そうした民衆・大衆の暴力性が一過性で、忘れ去るまであっという間だった点も印象的だった。大衆の感情論は、冷めるのも早かった。

反対派といえば、新型ウイルスの脅威を前に、知識人はもろかった。たった数年前までごく普通だった有識者が、Tokyo2020開催是非においてはあっけなく感情論にのみこまれ、我を失い、「自分のやっていることは絶対に正しい」という人類にとって最も危険な思考パターンに陥ったのである。全体主義的なものへの衝動は、知識だけではバリアできない。人間の意思決定能力は不完全である。東京オリンピック・パラリンピック中止を訴えていた有識者は、そうした人類のもろさを体現していたと思う。とくにリベラルという層に目を向けると、政権を批判するのは民主主義国家の国民として普通なことだが、自分に欠けている箇所を知りたい、自分のほうを直そうという気概が全く見られなかった点は、私にはとうてい理解しがたい。真に成し遂げたいことがあるのなら、まず変えられるのは自分自身だからだ。

注目すべき対象としては、開催反対寄りだったメディアの面々も見逃せない。大衆の感情論と歩調を合わせつつ、また別の側面では手段を選ばず世論を開催中止に誘導せんとする姿勢は、じつに本件独特であった。これが報道として問題なのは言うまでもない。

一般市民/国民。民衆・大衆。メディア。有識者。リベラル。そして民主主義。新型ウイルスのパンデミックという未曽有の事態に直面したTokyo2020をめぐっては、かたや日本が近代始まって以来抱え続ける病、かたや現代のポピュリズムが、ともに表面化した。かたや大衆の根源的な危険性、人間の意思決定能力の不完全性、メディアの構造的な課題があり、かたやSNSをベースとしたカルチャーという新しい問題も同時に露呈した。今後、Tokyo2020大会を理性的に検証していく際には、政権による政治判断や政策、大会にかかった経費等だけではなく、「東京オリンピック開催反対派とは何だったのか」も重要な検証課題である。

私は「反対派」と同じ舟には乗らない。私の信ずるは自由と民主主義である。それに従ってものを判断する。もし憲法による歯止めから脱しようとする自己中心的な政権が立ったならそれを批判し、投票所では、憲法による歯止めを積極的に受け入れ、民主主義国家を運営する能力をもち、国で起こっている課題に合理的に対処できる政治家・政党の名を書くのみである。これまでも、そして選挙をひかえるこれからも、私は自己の判断に基づいて行動していく。

東京オリンピック・パラリンピック開催に反対の立場をとり、よかれと思ってSNS投稿を積み上げてきたような読者にとっては痛みを伴う指摘をしてきたと思う。だが、それというのはただ甘く優しく接するだけでなく、厳しい指摘もしなければ人のためにはならないと強く信ずるゆえであることをどうか理解してほしい。民主主義は平等の実現であり、国家権力に対するコントロールの一翼でもある人類史上最高の制度だが、その担い手たる民衆には失敗や愚行もあるのは既知の事実だろう。民衆が失敗や愚行を避けて通れるよう、何か手を講じなければならない。民衆が憎しみの感情に目をぎらつかせ、暗い興奮に迷い始めた時には、社会の中で誰かが「そっちに行ってはいけない」と言わねばならない。果てに輝く理想を指さし、行くべき道を指し示すことは、文士という職業の社会的使命である。

長々と更新してきた本稿は、あのささやかな提案を繰り返して結ぼうと思う。

今夜は早めに布団に入り、明日はスマホを裏返して一日過ごしてはどうだろう。外に出て空を見上げ、深く息をしてはいかがだろう。

本来の自分を回復できてはじめて、自分は何をどう考え、これからどうすべきかが見えてくるはずだ。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSE

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(公開:2021年7月29日、最終更新:同9月12日)

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