依存症の克服には「治療」が必要―非難や精神論が効かない4つの理由

さまざまな社会問題や人生の問題を扱うなかで、依存症にふれることが重なりました。これまでは話題の中心が俳優の薬物事件による作品自主規制の問題だったり、パーソナリティ障害の説明で添え物程度に登場したりだったのですが、このあたりで一度、依存症それ自体にスポットライトを当てたいと思います。

現実というのは、だだっ広くて複雑です。私はそんな現実に取り組み筆を走らせてきましたが、それは「今回は問題のうちどの部分を切り取るのか」を決めることの連続でした。言いかえれば、「問いの立て方」によって、物事の見え方や論ずべきことは変わってくるのです。私はかつて、薬物依存の俳優が舞台に上がるのは芸術への冒涜だと、個人的ではありますが厳しい非難を書きました。しかし、「依存症の人がそれをどう克服するか」、つまり「現に起こっているトラブルへの対処」という問いを立てたなら、その答えは非難ではなく「治療」である――今回は、その理由を科学的かつリアルに論じていこうと思います。

問題意識:テレビの「逮捕劇」には依存症の「リアル」が映らない

私はなぜ、依存症をめぐる複雑な現実に問題意識を持っているのか。その第一の理由は、近年、俳優などが薬物事件で逮捕されるたびテレビの報じ方はさしずめ「ショー」と化しており、世論からその芸能人へのバッシングが起こるという定式化された風潮があるからです。「芸能人逮捕→ゴシップ報道→バッシング」という一連の流れは、もはや「テンプレート」として定着しつつあると思います。

しかし、半分フィクションとしてお茶の間に流れてくる「逮捕劇」からは、依存症の暗く複雑な「リアル」は見えてきません。具体的にはどんな症状なのか。なぜ起こり、どんな問題で困っているのか。そして、家族にはどんな影響があるのか。

この問題意識を出発点に、以下では依存症の克服に非難や精神論が役に立たない理由、そしてなぜ治療と支援があるべきなのかを書いていこうと思います。

依存症とは?

まずは定義から確認します。

依存症とは、特定の物質や行為、プロセスに対して、ほどほどにできず、やめたくてもやめられない状態になることをいいます(参考:厚生労働省HP)。やめられなくなる対象物は、物質だとアルコールや薬物、非物質ではギャンブルなどが代表的です。この記事では主にアルコールと薬物を扱います。

この「依存症」、ちまたでは「慣用表現」として使われることも多いんですよね。依存症への認知が広がるなか、たとえば「クッキーについ手が出てしまうのはクッキー依存ですか?」とか、「家族がしょっちゅう物を買っているからネットオークション依存じゃないか」とか、そんな心配を抱える人が増えているようです。

しかし、自分でコントロールができず、社会生活が成り立たなくなるような状態でなければ、それはあくまで慣用表現としての「依存」です。もしクッキー依存症というものが存在するとしたら、その人は一日中クッキーが食べたいという思いで頭がいっぱい、ついには授業中や仕事中にもクッキーをむさぼらずにはいられなくなり、お腹がいっぱいなので普通の食事をとれなくなり、栄養が偏って歯はボロボロ、体調を崩して寝込み、これではだめだ、やめなきゃと思っているのにクッキーが口に入っていないと怒りや焦燥感がわいてきて、クッキーへの渇望から夜までコンビニへ徘徊し、財布の中身はクッキーのためにすべて消え、ついには店で盗んでまで食べ続けた……というところまでいかなければなりません。「食べ過ぎはよくないってわかってるけど、おいしくってやめらんなーい」なんてニコニコしているなら、普通の「クッキーにハマっている人」です。

依存症の原因

医学的には「脳」―「やる気」だけでは脱せない、その理由は科学的

私たち人間は、「アタマ」にかかわるさまざまな力で地球上ほかの動物にはない文明を築き、喜びを謳歌し、苦悩に沈みもする生き物です。

人間社会には、「そんなのにひっかかるのは『心』の弱い人だ」などと思われがちな物事がずいぶんありますね。アルコールや薬物への依存は、そのひとつかもしれません。

しかし、人間はあくまで物理的な物体、生命体です。物体としての人体なしに「魂」だけで存在することはあり得ません。

そして重要なポイントは、物体・人体としての「脳」のメカニズムは、時に私たちの日常的な常識では考えられないような作用を生んだりするということ。日常レベルでは見ることも聞くことも経験することもないかもしれませんが、医学や生物学では、そのような現象がしっかりと確認されています。カルト宗教の勧誘で使用される”洗脳ビデオ”もその一つです。

依存症も、原因は「脳の回路」にあるということです。

先ほどの厚生労働省Q&Aを参考にすると、依存症になる医学的なステップは次のようなものです。

アルコールや薬物(あるいはギャンブルで特定のことが起こる時のスリルなど)の摂取により、脳内でドーパミンという物質が放出されると、中枢神経の興奮し、快感につながる。脳がこれを「報酬(ごほうび)」と認識すると、「報酬」を求める回路が脳にできあがる。そして習慣的に摂取をくりかえすと、ドーパミンの強制的な分泌がたび重なり、中枢神経の機能が低下していく。すると快感を感じにくくなるので、以前のような快感を得るためには、摂取の量や頻度を増やさなければならなくなり、悪循環に陥っていく――。

あなたが大人であるなら、おそらくお酒をまったく飲まないわけではないのではないでしょうか? なら、たとえほんの微量だったとしても、お酒を摂取した時、たまたま脳に「回路」ができてしまえば、アルコール依存にはなります。意外かもしれませんが、依存症は誰にでもなる可能性がある病気なんですね。もとからの大酒飲みだけがなるのではなく、したがって、単純に自業自得とはいえません。

「お酒がそんなに危険なものだとは知らなかった。もう二度と一滴も飲みたくない!」と青ざめた読者もいるかもしれません。なるほど、たしかにアルコールの摂取をゼロにすれば、アルコール依存にはならなくてすみます。

しかし、依存の対象はとても幅広く様々です。たとえば宝くじだってギャンブルではあるし、多くの人には恋人がいるし、あなたはいまインターネットにつないでいるはずだし、ゲームならたいていのスマホに入っているし、ほかにもあまり知られていないような対象物が多々あります。

もちろん、これらに手を付ければ必ず依存症になってしまうというわけではありません。「病気になるから」といって子どもからスマホやゲームをとりあげようとするのは性質の悪い子どもだましにすぎない、ということは強調しておきます。このような恐ろしい病気には一生かかわらなくてすめば、それに越したことはありません。ただ、それへ通じる入り口なら日常のなかにいくらもあるのです。

「依存の可能性があるもの」をすべて断つには、霧深い山奥で仙人にでもなるしかありません。「可能性があるもの」をやっきになって完全排除しようとするよりは、「知恵」をつけることを考えたほうがいいでしょう。

「脳が求める」というなら「ほしい」のが本人の意思なのか、と思えるところですが、これも違うそうです。医療機関に行く前の、まだ依存症だと自分で気づいていない人の多くは、「やめたい」と思っている。しかし、「脳の回路」がノンストップでアルコールや薬物を摂取するよう機能しているのだから、本人がどんなにやめたいと思っても、やめるぞと強い意志を固めても、止めることはできないのです。「やめようと決意したのにやめられなかった」と自己嫌悪をつのらせ、自信をなくし、話がよけいにこじれるケースも多いようです。

「意志が弱いからだ」「そんなものへ逃げるからだ」「自分の精神を鍛えれば治る」「甘えを克服せよ」などといった「精神論」は、脳=人体の前ではまったく効果がありません。そう言ったところで、脳の機能・作用を変えられはしないのだから。依存症克服には、本人に「やる気と気合い」を持つよう発破をかけるのではなく、専門的な治療が必要です。

依存症の治療とはどんなもの?

私はこの記事を書くにあたりいくつもの信頼置ける情報にあたってみたのですが、「一度『ごほうび』を求める回路ができた脳はもとにはもどらない」というのが医学の通説のようです。この性質上、依存症に有効な治療法はなく、また再発もしやすいということです。

依存症となった人は、以後の人生ずっと、対象物を断ち続けることになります。少しでも摂取すれば、それを求める脳の回路に再びのっかってしまうからです。糖尿病と診断された人が以後の人生ずっと糖質の分量を制限するのと同じように、依存症は、慢性疾患の類なのです。

具体的な治療としては、多くの場合は入院しながら、断酒・断薬を行うことになります。断酒・断薬を続けていくためには、同じ依存症の仲間や克服した経験者の集まる自助グループに参加し、ともに歩み、励ましを受けるのがとても有効だということです。ほか、医療機関によっては補助的に認知行動療法なども併用しているそうです。さらに、家族が抱える心理的・経済的・社会的問題には、そちらでの専門的な支援が不可欠です。

本人の意志では止められないよう、変化してしまった脳。ならば脳をもとに戻したいところですが、その方法はない、というのはもどかしいですね。しかも、あとで詳細に述べますが、依存症には成り行き上必ず、本人の脳=臓器の異常のみならず、家族関係や借金、犯罪などの問題が付随します。依存症は特有な苦しみが多く、深い、重い病気といえるかもしれません。

実務的には「人に言えないほど深い悩み」―もとの原因を解決しない限り

以上のように、医学的には「脳の病気」である依存症。ただ、診療している専門の医師からは、多くの患者は依存症へ踏み出した時になんらかの「苦痛」をかかえていた、といった声が聞かれます。

私だと、「犯罪」や「不健全家庭(暴力・虐待はその一種)」を論じるなかで、依存症はけっこうよく出てきます。

「犯罪組織」や「家庭内暴力」といえば、みなさんだいたいのイメージはわくと思います。しかしその実情は、想像を絶するような世界。被害者の苦しみはどんな言葉でも言い表せないほど深く、複雑なんですよ。依存症の背景にはそういった「人に言えないほど深い悩み」がありがちだということを、以下でリアルに説明したいと思います。

無垢な赤ちゃんの目に、依存症の親はどう映っているのか

依存症の原因としてよくあるのが、「患者の親もまた依存症だった」というケースです。

「そんな親に困っていたはずなのになぜ自分も?」と疑問に思うかもしれませんが、一般常識が通用しないのが機能不全家庭というもの。「依存症の親のもとに生まれた子ども」の身になって考えれば、その深刻さが見えてきます。

人は誰しも、希望だけに満ちあふれた赤ちゃんとして生まれてきます。この世に「依存症」などという恐ろしいものがあると予備知識を持って生まれてくる子はいません。

それが3歳くらいになって物心ついたら、パパやママが……なんか変で(「へべれけ」「泥酔」「依存症」という言葉や概念を知るのは10年くらい先)、自分を育ててくれるはずの人なのにかわいがってくれないし、家にしょっちゅうこわい人が来る(3歳の子には「パパやママがアルコール依存症になったあとで自分は生まれた→その症状には「アルコールへの渇望を押さえられない」というのがあるので、酒を手に入れるためパパやママは他の人からお金を借りた→パパやママは借りたお金を返せなかったので、借金取りが家に来て、支払いを催促している」という状況が理解できないので、幼心にはただ恐怖だけが刻まれる)――この時点で早くも、依存症の親をもつ子は、一般人の想像がおよばないほどの「混乱」を心にかかえ、深く傷つきます。

なら、大きくなって事情がわかるようになったら学校の先生か誰かに相談すればいい、その子にはなんの落ち度もないんだから躊躇する理由なんてない、と思われるかもしれません。しかし、依存症患者のいる家庭の心理は特殊なので、ここも一般的な発想は通用しません。依存者がいる家庭では、たいてい、「そのこと」について絶対に口に出せない雰囲気が支配しています。心理学で「事実の否定(否認)」と呼ばれるこの現象については、以下のリンクを参照してください。

リンク:「リビングルームの恐竜」現象(新しいタブで開きます)

小さいころから、依存症の、はっきり言ってふがいない親のもとで育った子は、しばしば特有の「無力感」や「罪悪感」を心の奥深くにかかえます。客観的には、依存症は脳の回路による病気なので治してあげられなくて当然だし、その子には何の責任もないのですが、その子の視点で見ていれば、「自分はなにもできなかった」とか「親を助けられなかった」といった思いが生じるのです。

さらには、子どもが親に「いつかまともな親になって、幸せな家庭で、愛情もって自分を育ててほしい」という「願望」をいだくことも。これは自然な感情ですね。

こういった深層心理のため、「パパやママのお酒のめんどうをみてあげなくては」といった思いが生じ、若年から「いっしょに飲んであげる」ため酒に手を出すうちに、自身まではまりこんでしまった――依存症の親のことを誰にも言えず悩んでいた子の「リアル」は、悲劇としか言いようがないと思います。

(もっとも誤解や偏見なきよう、親が依存者だからといって子どもが全員そうなるわけではない、リスクが高いわけでもない、ということは強調しておきます。)

秘密主義家庭の子から見た世界―虐待や”毒親”のリアル

ようやく世で認知されるようになった児童虐待。

近年では小学校高学年にもなれば「虐待」という言葉を知っていて、相談へのハードルは下がっていますが、それでも「親から虐待されている」と言えない子は一定数います。その大きな原因は、「状況が動く」ことへの恐怖という、これまた人間の心理だといわれています。本当の悲惨の現場では、その子にはなんの落ち度もない、とか、助けてもらえるのに、といった一般常識は、そのままで通用するとは限りません。

家で虐待されている十代が着の身着のままで家出を試みるケースは多発しています。ある警察官は、夜間繁華街を徘徊している非行少年(??)のほとんどは家での虐待から逃げ出してきた子だ、とまで言います。

虐待されている子の過酷さが想像を絶するということは、その立場に立ってシミュレーションしてみれば見えてきます。

あなたは、家で毎晩親から気を失うまで殴られる、あるいはごく日常的に性犯罪をされるから(これが児童虐待のリアル。とても人に言いにくい)、とりあえず家から飛び出した。……どこへ行きますか? 行くあてはない。夜になれば大きなスーパーでも閉まってしまいます。暮らしや将来を考えるどころではありません。その晩をやり過ごす場所すらないのだから。ここに雨なんて降ってこようものなら、服がぬれてしまう。しかたないから人のいる街へ行ってみたとして、そこでは犯罪の「プロ」たちが、誰でもいいから人を釣り、ありとあらゆる嘘と陰謀を駆使して、カネにかえようと待ち構えています。通りすがりの若者を薬物依存にさせて定期的にカネを巻き上げようとするかもしれないし、薬物犯罪組織のしたっぱとして使おうとしているかもしれない。さて、着の身着のままでお金のない、教育も道半ばである十代のあなたは、犯罪を生業とする大人の集団に太刀打ちできるでしょうか?

虐待だけではありません。暴力ではないにせよ、不健全な精神で子どもの心と人生に深い傷を負わせる親はいるものです。最近はスラングで”毒親”などと呼ばれていますね。対人関係や人生に支障をきたしているけれど、どうすれば、誰に相談すれば、どんな自分になればいいのかわからない……。こういう心の奥にしまい込んだモヤモヤした悩みから、いわゆるエリートの人が薬物依存症になった、という実話を、私はいくつも聞いたことがあります。たとえば、世間では尊敬されている医師の親から医者になれと決められ、大人になってから薬物をやっている時だけ「本当の自分」を感じられた、など。

「言えない」悩みをかかえる人は、普段、表向きは「普通」をよそおっています。

社会からのプレッシャーで悩みを抑圧しているうちに……

去る2019年、世界的ロックバンド・クイーンの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしたのはまだ記憶に新しいと思います。そのクイーンのボーカルだったフレディ・マーキュリーはアルコールや薬物への依存に陥っていたといわれていますが(諸説あり、バンドメンバーは否定している)、バンドが人気を博す前から、彼はひとり、深い悩みを抱えていました。彼はバイセクシャル(両性愛者、LGBTのB)で、同性愛の傾向があったのです。フレディ・マーキュリーは、セクシャリティのほかでも複雑なバックグラウンドに悩んでいた人物です。

2020年のいまでは、小学生でもLGBTという言葉を知っているようですね。しかし、クイーンが絶頂にあった70~80年代の西欧社会では、同性愛者はまるで性犯罪者のように考えられていました。自分は何者か。自分のアイデンティティがひどい差別と偏見の対象となっている社会で、そのことをオープンに語れるはずがありません。葛藤を抱え続け、さらに「同性愛疑惑」のスクープで追い詰められたフレディ・マーキュリーは、アルコールや薬物に手を出し、おぼれていきました。

このような「人に言えない深い悩み」から、偶然出会ったモノで苦痛や苦悩を緩和できるような気がして、しだいにはまりこんでいった、というのは、依存症の典型パターンのひとつです。

もとの原因を解決しない限り

もっとも、依存症患者の全員が困難や苦痛をかかえていたわけではありません。ずっと健全な環境で育ち幸せだった人がひょんなきっかけから、というケースもあります。

ただ、言うことがはばかられるほどの事情を心の奥深くに抑圧している人はけっこういる。そして彼らは、なにげない日常の風景のなかにまじっています。特殊な人々ではありません。毎日会っているあなたの友達や同僚が、本当はそうかもしれません。

依存症の本人だけに克服をうながしても、もととなった原因をなんとかしなければ、その人を追い詰める問題全体は解決しないわけです。

依存症には成り行き上、必ずほかの問題がついてくる

依存症になると、具体的にどんなことになるのでしょうか。「やめたくてもやめられない状態になる」と言ってしまえば一言ですが、彼らの「リアル」には読者のみなさんもきっと震えると思います。

  • 使い続けなければ気が済まなくなり、量や回数が増えてゆき、自分でやめようと思っていてもコントロールがきかなくなる
  • そのために体調を崩す(アルコールを過剰摂取すれば肝臓に多大な負担がかかるし、薬物は幻覚や妄想を引き起こす)
  • 性格が変わり、怒りっぽくなる
  • 家族とトラブルになる、けんかが絶えなくなる
  • 学校や職場での日常生活ができなくなる。退学、退職・解雇・失業
  • 普通の友達が去る。薬物仲間だけとつき合わざるを得なくなる
  • 借金をする(飲み続けるには金が必要、薬物を買い続けるにはもっと金が必要)
  • 借金を返す経済力がないので、家族や借金取りとの間でトラブル悪化
  • 手に入れるため、ついには犯罪を犯す(経済力が底を尽きても脳の回路は止まらないので、店から酒を盗むなど。薬物の場合は、手に入れた時点で犯罪。)

「脳の回路によってやめることができない」という性質上、依存症は本人の日常生活や人生、そして家族にまで波及するのが「自然な成り行き」なんですよね。ほかの一般的なけがや病気とは違う、特殊な破壊力があると感じます。

依存症患者の家族の悲劇と、心に残る深い傷

薬物事件での逮捕も、芸能人にとっては醜聞を世に振りまくという彼らの「仕事」のうちなのかもしれません。半分ファンタジーである彼らをツイッターでバッシングするのはかんたんです。

しかし、リアルライフを生きる一般の患者にとってはどうなのか。依存症によって巻き起こる惨劇を確認したところで、バッシングで突き放してしまってはあまりに浮かばれない、患者家族のリアルにスポットライトを当てたいと思います。

「絶対口に出せない」無言のプレッシャーが支配する家

先ほど述べた通り、依存者のいる家庭は得てして「事実の否定」で成り立っています。本人も他のメンバーも、「恐竜(=途方に暮れるほど大きな問題)」への無力感から「うちには依存症などない」ということにしてしまうのです。

具体的にはどんな形で表れるかというと、「大人はリラックスするためにお酒を飲むものなんだよ」といかにも日常的なことかのように正当化されていたり、「パパのパワハラ上司には困ったものね」などと問題がすり替えられていたり、「息子は反抗期なだけだから、もうじきやめるわよ」などと大きな問題が小さく見せかけていたりする。

こうした、家族の心の水面下で進行する異様な「秘密主義」が子どもの発育・成長にとって有害なのは、想像に難くありません。子どもの情緒に悪影響をきたします。たとえば極端に無口になったり、友達と心の交流ができないなど、対人関係に支障が出る例は多くみられます。

成長過程でのこうした困難から、依存症患者を親にもった子どもは、大人になっても苦しみ続けています。

芸能人が薬物事件で逮捕されるたび巻き起こるバッシング。たしかに薬物は犯罪であり、害の深刻さは破壊的なので、批判はされて然りでしょう。

しかし、社会がバッシングで突き放すようなら、その家族はますます孤立します。

自分では治しようがない脳の病気、借金、精神面の問題まで抱えたこの状況で、一体どうすればいいというのか。また、人は親を選べません。たまたま依存症患者のもとに生まれた子どもまで、孤立無援になってしまう。だから、依存症には非難だけでなく、治療と支援が必要なのです。

酒を飲む父の影とうずくまっている子ども
依存者にバッシングだけして突き放せば、この子の傷もほうっておかれてしまう。

ひとたび対処に動き出せば、依存者救出が至上目的の病んだ集団に

そんな「秘密」に支配された患者家族ですが、いつかはなんらかのきっかけで「リビングルームの恐竜」を直視せざるを得ない時はやってきます。ならやっと健全化していくんじゃないか……と言いたいところですが、残念ながら、人間世界の物事はそんなにすっきりとは運びません。

ひとたび依存症への対処を始めれば、その家族の生活のすべて、精神のすべてが、依存者を救うことに向けられるからです。

「依存症の治療」が「至高の目標」として掲げられ、家族メンバー全員がそれに尽力しなければならない。これでは「集団」として病んでいますよね。

これが子どもにとっては、成長の妨げとなります。たとえば、小3の子のパパが酒を盗んで捕まったのをきっかけに、とうとう家族も「事実の否定」をしきれなくなり、「家族一丸となって」治療に入ったとします。……小3の子には、その年齢限定の感性があり、遊びがあるじゃないですか。友達と野をかけまわったり、秘密基地をつくったり。人間は、そうやってその年齢に必要な栄養を得て成長していくものです。ところが、親が依存症であるこの子は、たった小3にして、「アルコール依存の親を救う」活動に従事するはめになってしまう。これではどちらが親だかわかりませんよね。成長期に「自分の人生」を送ることができないままその年齢を過ぎてしまえば、同じ成長のチャンスは一生望めなくなってしまいます。

「すべて依存症と名のつくものは家庭崩壊で終わる」といいますが、10年、20年と長い目で見れば、壊れた家族関係がやや修復に向かう例はあるそうです。

しかし、依存症の破壊力はすさまじく、すべてを取り返すことは決してできません。これが「依存症と名の付くものにハッピーエンドはない」といわれるゆえんです。

四角い氷に閉じ込められたハートと温かいハート
依存症にパーフェクトなハッピーエンドはない。だからこそ、家族を孤立させないよう、社会にはあたたかい支援が用意されているべき。

破壊力がすさまじいからこそ、社会は本人への批判だけして突き放して放っておくのではなく、治療と支援を充実させるべきなのです。

年相応の経験をできなかったために一生残る苦しみを知ってほしい

これは余談なのですが、私自身、成長過程で年相応の経験をのがしてしまった、そういう人生を送っています。それが、依存症へは治療を、家族に支援を、と啓発しているもう一つの理由。私にとっては、依存者を親に持った人が語る家庭の様子や葛藤は、どれもうなずくことばかりです。

私の人生が変わってしまったのは、高校生のころでした。突然、私の叔父の、こみいっているのですが広く言えば相続の問題で、家族関係が崩壊したのです。高1にして相続問題というおどろおどろしい世界に身を置いた私は無理やり早く大人になってしまったため、「普通の高校生活」を送る同い年の生徒たちとは話がまるで合わず、クラスで孤立。周囲からは、変わった子だと思われていたでしょう。しかし内面や実生活はどうあれ、肩書き上・外見上は「普通の高校生」だったのだということは強調しておきます。

それから数年後、大学在学中に、私はうつ病との闘病生活を送りました。同い年の面々はキャンパスライフにいそしみ、たくさん学ぶなかで自分の将来を考え、そしてなにより就職を決めていく大事な時期なのですから、私の人生が困難へ迷い込んでいったことは察していただけると思います。将来へ進んでいく他の学生たちのかたわら、人生がほぼストップした私は、そこから派生した悩みや葛藤までかかえこみました。こうして悪循環が生じるのです。

しかしながら、私はようやく精神科の専門医療を受けることができました。いわゆる「普通の人生」とは違うかもしれないけれど自分らしい、新しい人生を見つけていくことができました。

16、7歳のステップは経験できなかったけれど、20代で、別の形とはいえ、若い人にとって望ましい経験を得ることができた。私はそう信じて20代を生きてきました。

それこそが「事実の否定」だったと気づいたのは、最近になってからのことです。人生、時には思ったようにいかないことはあります。ショック状態に陥った時、私の話をじっくり聞いてくれた知人から「何を言っているのかまったく理解できない」と返答されたことがきっかけで、私はようやく目が覚めました。

私の深層心理には、まだ16歳の、あの時のままの自分が住んでいる。いや、私の心がまるごと、居場所がなくて心で泣いている高校生のままなのかもしれない。

「心に負った傷」こそ、私にとって「リビングルームの恐竜」でした。客観的にみれば私は明らかに大きなダメージを負っていて、それが日々の生活に、人生に、逐一悪影響をおよぼしているにもかかわらず、私本人が「私は大きな傷を負っている」という「事実」を、必死で大したことないもののように見せかけ、否定していた。傷なんてないことにしたかった私は、抜け落ちた成長期という自分の過去に、無理やりでも「解決済み」の判を押してしまいたかったのだと思います。

人間は、自分の意思で選んだことなら、たとえ失敗に終わり、落胆しても、受け入れられはします。興した会社が三度倒産して三度も借金を背負ったという人でさえ、人生の終わりに自分の挑戦を思い出した時、おだやかな笑みを浮かべて後悔はないと語ったそうです。

しかし、自分で選んだのではない、他人のことで「自分の人生」が抜け落ちてしまうと……。これについてどう思えばいいのか、というところから苦悩が始まるんですよね。やるせない、やり場のない空虚さのような心境には、どんなに思索を重ねても、自分で心理学を勉強しても、解決の手立てはありません。

依存者の家族に蔓延する「事実の否定」にも共感します。叔父の問題が繰り広げらていた期間は私の家庭内で無言のうちにタブーとなっており、家族の歴史から抹消されていて、明らかに話が不自然でも、唐突に今の状態になったことが前提とされている。うまくいかないことには「全部○○(家族メンバーの一人、叔父ではない)が悪い」と見当外れの決めつけをしたり、もはやタブーの一部となっている私のうつを「(芸術での)境地」と表現した人もいます。境地ではありません、病気です。私の家族は、「恐竜」に頑として立ち向かわないようにするため、ありとあらゆる正当化を行っているのです。不健全な家庭とは、たとえるなら、じめじめした日陰のようなものでしょうか。どうしようもないとは分かっていても、「なんでうちはこうなんだろう」と悲観する日はあります。「解決済み」の判を押すことで感じないようせき止めていた叔父への怒りは、自分が負った傷を直視した瞬間あふれだし、業火は再燃しました。

前向きに進んでいける時もあれば、苦悩や怒りへゆり戻す時もある。犯罪被害者の方、虐待されていた方、”毒親”に苦しんでいる方、そして依存症の親の元で育った方がそうであるように、私もそういう一生を送るのだと、ようやく「現実」を直視することになりました。

年相応の経験をとばさざるを得なかったことで生じた「ちぐはぐ」は、その人の心の内で、対人関係で、社会との関係で、一生続くのです。

たとえ親が依存症を克服しても、成長のチャンスを逃した子どもには、年齢とのひずみと、苦悩と、人生の苦闘がなお残る。世の人や社会にこのことへの理解が広がるように願って、私はこれを書いています。

アルコールと薬物の間の、越えられない一線

さて、「依存症」という観点でみれば、アルコールも薬物も、ギャンブルなども害の大きさは同じです。

しかし、薬物だけは他と異なる点があります。薬物使用は犯罪である、ということです。

薬物は違法です。そのため、それでなくても秘密になりやすい依存症がよけいに相談しにくく、家族は社会からの孤立を深めています。では、この現実には、どう対処していけばいいのでしょうか?

「犯罪への非難」と「支援の充実」、意見のはざまをクリアに解説!

「薬物が犯罪である」ことと「薬物依存には支援が必要」ということは、両方とも真実です。

この二つでどうバランスをとればいいのか、そのことでピンとこなくてモヤモヤしてはいませんか? 私が見たところ、「支援がいるといっても犯罪なんだぞ。非難はされて然りだ」といった意見で混乱している人が世に多く見受けられます。

ここらでハッキリさせましょう。3つのことを確認したいと思います。

まずですが、違法なものは違法です。「脳の変化」によってやめたくてもやめられなかったのは事実でしょう。背景として深い悩みを抱えていたかもしれません。あるいは薬物依存者がまだ十代だったりすれば、親としては「ここで逮捕されたら高校は……この子の将来はどうなるの」と心配になり、相談への足が遠のいているかもしれません。しかし、現に薬物を使ったなら、それは犯罪。もしかしたら対応の途中で逮捕されるかもしれませんが、その現実は受け入れなければなりません。

2つ目に、「犯罪への非難」は、その犯罪行為への非難どまりで、しかもそれは刑事裁判ですっかり完了します。一度犯罪を犯した「犯罪者」はもはや「人でなし」、という意味ではありません。あくまで「人間」であることは変わりません。一度薬物に手を出した人を社会が追いつめ、人権を侵害するなら、それは中世の発想です。

そして最後に、薬物を使用した人が逮捕され、裁判で有罪となり、服役することになったとします。これは刑事手続き上普通の、正当な成り行きです。ただ、先に言った通り依存症とは「脳が変化してしまった病気」です。したがって、ただ刑務所にいるだけで、「脳」が自然に治ることはありません。

その人が本当に薬物から足を洗うには「医療」が不可欠。これが「薬物には逮捕だけではなく治療や支援が必要」といわれるゆえんです。薬物依存者への支援の充実を求める声は、決して薬物犯罪を甘く見ての結論ではないのです。

刑事司法においては、国家の刑事司法に薬物依存の治療や服役後の社会復帰支援をどうつなげていくか、理論上でも実務上でも、模索が続いています。

薬物は犯罪です。ただし、現に依存症になってしまった人がそれを実際に克服するには、社会に家族や本人が相談しやすい体制を整えておかなければなりません。

まとめ

「依存症」にスポットライトを当てるなら、必要なのは非難や精神論ではなく「治療」である。この4つの理由を述べてきましたが、いかがだったでしょうか。最後にもう一度、リストにしてまとめておきますね。

  1. 依存症の原因は「脳の回路」なので、本人がやめたいと思っても止められはしない
  2. 背景にある「人に言えないほど深い悩み」が解決されない限り、問題全体は解決しない
  3. 依存症には成り行き上必ず、借金や家庭崩壊、失業など別のトラブルが付随する
  4. 本人だけでなく家族の心に、深刻な傷が生じている

近年、薬物事件で逮捕された芸能人へのバッシングという形で注目が集まった依存症。しかし、ただ「なにやってんだ!」「自分を鍛えろ!」などと非難や精神論をぶつけたところで、脳の回路や、借金や、家庭崩壊や、家族の心に残る深い傷あとが解決されるわけではありません。この「リアル」を直視して、「現に起こった問題への対処」を考えれば、治療と支援こそ必要だということが見えてくるはずです。

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著者プロフィール – Twitterではブログ更新のお知らせ等していますので、フォローよろしくお願いします。(著者は調査の上、情報が正確であるよう十分注意して本記事を執筆しましたが、医療の専門家ではありません。診断や支援には、必ず専門医療や自助グループを当たってください。)

芸能人の薬物依存疑惑と自主規制―「作品に罪はない」議論を徹底解説 – 薬物事件による出演映画や音楽の自主規制と表現の自由の関係について、しっかり解説しました。

人格障害の特徴と犯罪の関係は?―正しく理解するために – 「事実の否定」について、後半で解説しました。ちなみに「事実の否定」は「問題が大きすぎる」ことへの防衛反応なので、依存症に限らず、家庭での児童への性的虐待など、ほかのことでも起こります。非常に難儀な、人間の心理です。

オウム真理教元幹部・死刑囚らの言葉から得られる教訓 – 一見関係なさそうなタイトルですが、「友達が薬物仲間に入ってしまったら自分はどうすればいいのか、どうすれば友達を助けられるのか」という話を書きました。