「北朝鮮みたいにはなりたくない!」
テレビに映る北朝鮮。あそこに住みたい人はいないでしょう。本音を言ってしまえば、ああいう国に生まれなくて本当によかった。一糸乱れぬ「将軍様誕生日パーティー」はどう見ても不気味だけれど、彼らは動員されたら全力でやらねば、反逆者として文字通り殺されかねません。あの人たちだって、好きであんなことをやってるんじゃないよ……。
独裁国家とは何たるか、私たちはそこから見て取れます。その大きな特徴は、国家による国民の絶対的な監視、管理と動員です。表現の自由がないので、政権への批判(と受け取れる)言動をしようものなら即刻逮捕。もう一度生きて日の目を見られるかどうか。実際には民主化活動などをしていない人でも、恐怖政治下ではふいに冤罪や拷問の被害者になるのだという面も見逃せません。そういった恐怖もさることながら、北朝鮮の国民は生活に困窮しているといわれています。が、たとえどんなにひどい状況にあろうと、政権に文句を言うことはなんと違法! とんでもない無茶苦茶ですが、そうなのです。自由がない国とは、そういうものなのです。
では、日本には未来永劫「北朝鮮みたいに」ならない保証があるのか? そうではありません。
ひとたび「北朝鮮みたいに」なってしまったら、終わりと言っても過言ではありません。民主化活動は地下活動となり、再び自由を手に入れるためのハードルは、おそろしいほど高くなります。その時になって、「あぁ、あの時ならまだ止められたのに」とか、「あの選挙の日、『よくわかんないから』とか『投票なんか行ったってどうせ何も変わんないし』なんて言いながら家でゴロゴロしていた自分の馬鹿野郎!」などと心の中で叫んでも(口に出したら密告されて逮捕!)、遅いのです。
いま、日本がどんどん危険な方向へ向かっていることは、皆、なんとなくは肌で感じているでしょう。実際、国民を監視・管理するシステムは年々強まっています。雇用などの崩壊は、あからさまではなくとも「事実上の」動員を引き起こしかねません。
ところで憲法とは、もともと、国家権力に歯止めをかけて国家による権利侵害から国民を守る法律です。だから、憲法があるうちは、ひとまず安心していい。脅しすぎるつもりはありません。
ただ、ぼやっとしていても憲法が永遠に全自動で守ってくれるかといえば、それは違います。その憲法を維持するための努力は必要です。「私なんかが何かしなくても、なんだかんだ言って、なんとかなるんじゃないの?」というほど甘くはありません。
憲法によって保障される基本的人権や民主主義は、いわば土台です。個人的にやりたいことや思い描く幸せは、誰にでもあるでしょう。あるいは、社会の中で何かを改善したいという志を持っているかもしれません。社会の土台が崩れ、底がぬけてしまえば、それらも実現しようがありません。私がこのメッセージを発表するのも、そのためです。
やらねばならないときもある。行動せねば明日はないという場合もある。
未来の子どもたちはもちろん、今を生きる我々自身のため、大人には未来を守る責務があります。
編集後記:5月3日の憲法記念日にあたり、熟考の末、誤解を恐れることなく、読みやすさや気持ちの面に重点を置いて、いちばん率直な本音をそのまま表題にした。法律・制度等の解説は他を参照されたい。ここでは何より、同じ時代を生きる者として共感してもらえればと思う。
更新:写真2枚追加。『施行70年 いいね!日本国憲法-平和といのちと人権を!5.3憲法集会』(有明防災公園)にて。「個人参加」パネルは筆者オリジナル。(5月3日)