先立つ1月、「日夏梢の自由研究」はめでたく4周年をむかえました。最初は空の本棚がならんでいるようだった当サイトですが、いまではどの本棚にも何冊かは書物が入っているようになりました。これもお越しくださる読者の皆様あってのこと、この場にて感謝御礼申し上げます。これからも本がぎっしりつまった図書館のようなサイトを目指していきますので、末永くどうぞよろしくお願いいたします。
「憲法記念日によせて」は今年で5年目。これまで4年、毎回時事を観察しながら自由と民主主義についていまこそ訴えるべきこと、そして何より「語り方」をあれこれ考え出してきました。それで今年はというと、実はいまサイトを工事中だったりとかいろいろありまして、正直間に合わないかなと悲観論も頭をよぎったのですが、それでも記録といいますか、その時の世情を残しておけるのもブログを管理・所有するメリットだと思いますので、今年は練って固めるのではなく、頭に浮かんでくるままつれづれなるスタイルで書き始めてみようと思います。
さて、ふり返ってみれば1年前。2020年にはあえてテーマに選ばなかったのですが、昨年から2021年の世界的一大事といえば言わずもがな、新型コロナウイルスです。これが人類史にどう残り、歴史によってどう判断されるのか、それが1年以上経過しても未だに見えてこない。昨年の今はマスクの効果論争やらアベノマスク騒動やらやっていたのも今は昔、あれこれ動きが出ては次々と去って忘れられる、そんな不安定な世情が続いています。感染拡大初期には医療従事者への嫌がらせや感染者への誹謗中傷、それにいわゆる”自粛警察”行為など、過激な行為が問題になったものでしたが、いまでは燃える燃料も底をつき、世の中全体が「下火」、人々は「漂流」、そんな空気でしょうか。
そんなこんなで2021年5月3日、三度目の「緊急事態宣言」下です。
新型コロナウイルス感染拡大という世界規模の事件と我が国の民主主義がどう関係あるのか、というと、私がいま強く思っているのは法的な論点ではなく、政治というもののとらえられ方なんですよ。私はこれまで、どちらかといえば国民側の主権者としての意識を鼓舞するような訴えをしてきましたし、それは結局のところ国民が変わらなければ国も、社会も、個々人の生活も良くなりようがないという信念というか、日本社会を見てきた私なりの結論によるのですが、3回の「緊急事態宣言」を目の当たりにして深く悲しんだのは、当の政治家の政治観でした。
知事が「○○県は緊急事態宣言を発令します」と「発表」する。テレビカメラに向けてプッシュするためだけにパネルを作ってきた知事もいる。何度も見てきましたけど、私は報道番組向けの映像として出来すぎなあれに、日本の政治家たちの特殊な政治観が透けて見えたと寒くなりました。いま知事になっている人々が、みんなして「俳優」なんですよね。緊急事態宣言らしいシーンを撮ろうとしている。ポーズをキメようとしている。
緊急事態宣言って何なんでしょうか。「緊急事態宣言」という名に相応の中身はない。全般「要請」で、政府が国民にお願いをする、と。強制力はあやふや、補償もあやふや。要請対象等の根拠もいまいち不明。実効性のある内容がない。これでは「国」になっていません。国家権力と国民の関係性、そのとらえ方が根底から間違っているから、やることなすことすべてがおかしくなってしまう。緊急事態宣言が引き金となった閉店・倒産は数知れず、なのにテレビの尺に合わせてビシッとキマったセリフだけが繰り返し放映される空虚な響きよ。
「感染対策のポーズ」では感染対策になっていないじゃないですか。
政治家の政治観が透けて見えたと思いました。日本の政治と民主主義が長年抱える深刻な病、それを生んだ深い深いところの原因が、知事の「ポーズ志向」となって表面化したと思います。2021年現在日本で政治家をやっている人の大部分にとって、政治家とは「いい格好したお偉いさん」みたいなもの。「政治という仕事をする」という意識ではない。そういえば昔、某都知事が週二日しか登庁していないと批判されたことがありましたね。地方自治体の選挙看板などを見てみれば、性格的に目立ちたがりな宴会部長タイプ、能力はなくても声ばかり大きい町会長タイプ、自己承認欲求むき出しの人、そういうクセのある立候補者が多くて。道路からは、選挙カーから候補者の名前を連呼する自作のテーマ曲が……。肝心の仕事の中身はどこにあるんだと言いたくなります。
では、「政治という仕事をする」とは具体的にどういうことなのか。
政治とは、「国家/地方自治体を運営する」ことなんですよ。衣装を着て所定のしぐさをする儀式ではない。政治っぽいシーンを見せることでもない。先輩の業務をそれ通りに引き継ぐことでもない。政治家は「国/自治体の運営」を担う職業であり、ではどういう人がこの職業に就くのかといえば、主権者である国民からそのポジションを託された人がなる。これが、民主主義国家における「国の運営」の本来の姿です。国を運営するのだから課題は常に山積。事務室で大量な課題にせっせと取り組み、それぞれに対してどうするかを考え、議会に出して、議論して、決定する。もっとも考え出した政策がねらい通りにいくとは限りませんし、もしうまくいかなければ国民からこき下ろされるでしょうが、それを承知でなる。やる。決断する。その結果は甘んじて受け止める。政治家は、いい格好をしたい、テレビカメラの前で「緊急事態宣言を発令します」とセリフをキメてかっこいい、なんていうのからは程遠い職業です。国には実にいろいろな人がさまざまな事情で暮らしていて、時には新型ウイルスが流行り出したなど思いもかけない出来事も起こります。そういう「国」を運営する役割を担うのが政治家。俳優のようなつもりでなる、天下りやお飾り的立場で知事になる、目立ってかっこいい気分になるなどというのは、政治家の立場の本旨から完全に外れています。はっきり言って、自己中心的で身勝手です。
まるでドラマに出てくる危機対策本部のような「緊急事態宣言」。政治家の政治観に根底からのかん違いを見た、と思いました。
いま行われているのは、政治ごっこであって、政治ではない。
この国には、政治がない。
「ごっこ遊び政治」が「政治」として定着してしまったのはなぜか、といえば、源流は無論過去にあります。近代日本の始まりは、江戸時代の身分制秩序の残骸である藩閥政治が続きました。彼らが「政治家」をやった理由は自分の特権身分・既得権益を守りたかったからだけで、「国をいかに運営するか」という発想はありませんでした。言い換えれば、肩書は政治家でも、中身は政治家ではなかった。日本人は長年「政治家ではない政治家」ばかりを見てきたのです。現在政治家をやっているのはなにも旧士族など特別な家柄に生まれた人間ばかりではありませんが、朱に交われば赤くなるといいますか、政治の世界に足を踏み入れた人はどんどん藩閥政治的な意識や発想に染まっていくんですよね。あるいは、性格的に目立ちたがりな人が思い描いている政治家像が「カメラの前でポーズをキメる人」のような感じで、そのイメージにあこがれて立候補するのだから「ごっこ遊び政治」にならざるを得ない。この根本的なかん違いに、いいかげん気づかなければならないと思います。
国は誰が運営するのか。王様? 貴族ら? いえ、国民が運営権を握ります、これが民主主義です。
この国をどうしていくのか。どんなビジョンを描き、どういう方向へ舵取りするのか。いま起こっている問題にどう対処するのか。
「緊急事態宣言シーン」を撮るテレビカメラが映したのは、日本は民主主義国家であるにもかかわらず、当の政治家が「国/地方自治体を運営していくんだ」という意識や発想法をもっていないということでした。
日本は国民主権の民主主義国家です。したがって、私たち国民は、選挙によって議員をすげ替える力をもっています。
さらば、ごっこ遊び政治。
憲法記念日のメッセージ バックナンバー
著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)|Mastodon|YouTube|OFUSE
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「今年」世に送りたい4つの提言(2019年) – 2019年時点で2年続く国難を背に、考えに考えて4つの提言をしました。そのあとは時事、新元号「令和」の決定過程について、50年後、100年後、「この時代」が歴史となった時を見越して「記録」を残しておきました。100年といわず2年経ってみれば、すっかり過ぎ去った昔話になった感があります。
腐り腐って、本当はもう日常にないから(2018年) – 2018年は森友学園や加計学園など汚職事件のダイジェストと抗議声明のような感じになりました。
あんな国にならないために(2017年) – 「憲法記念日によせて」1年目。憲法は全自動で自由を保障し続けてくれるわけではない、民主主義は機能させなければならないのだ、という指摘を手探りで書きました。
提言:人権の純化精錬を―こんな言い方していませんか?(2022年)
責任なき言論に信用はない―法律論と芸術論からみる表現の自由(2023年)
憲法リンク集
日本国憲法(総務省ポータルサイトe-Gov 法令検索) – 条文本文全文です。
憲法学の定番書、芦辺憲法です。
平和憲法のメッセージ(水島朝穂早大憲法学教授HP) – なんと毎週更新。いま起こっていることへの「直言」を続ける、本物の学問です。