責任なき言論に信用はない―法律論と芸術論からみる表現の自由

ブログ開設以来毎年世に送ってきた憲法記念日のメッセージは、今回で7年目をむかえます。

この7年、ひたすら「着眼しては執筆」をくりかえし、今では私の目指す表現がだいぶ形になってきました。中でも去年はブログ記事に大きな反響が寄せられ、読者と交流する機会もいまだかつてなく多く、表現者として非常に豊かな経験ができた一年でした。丹念に書いた文章を細かいところまで熱心に読んでくださることほど作家冥利に尽きることはありません。この場をもちまして心より感謝を贈りたいと思います。

そうしたリアルタイムの実例や、反響の大きかった記事を踏まえ、今年のテーマには「表現の自由と表現に伴う責任」を選ぶことにしました。以下で論じていくのは、私がこの一年向き合ってきた現代社会であり、私の「アンサー」でもあります。法律論と芸術論を中心に、複数の視点を切り替え切り替え論じていくため、今年の憲法記念日のメッセージは初めて記事の難易度をハードに設定してお送りします。

米議事堂襲撃をあおったネットの陰謀論「Qアノン」

まず一つ目に振り返りたいのは、かのアメリカのポピュリスト、トランプ元大統領をめぐる陰謀論ムーブメント「Qアノン」です。私はその解説を長々と書いたのですが、読者のインパクトは強かったようで、とても印象深い記事となりました。

詳細は以下解説記事を見ていただければと思うのですが、ここでも簡潔に説明しておくと、Qアノンとは、「トランプ(元)大統領は、アメリカ政財界に巣食う悪のエリートらと秘密の戦争をくり広げている救世主だ」という陰謀論のことをいいます。当たり前ですが根拠はありません。引いた目で見れば荒唐無稽な陰謀論なのですが、ムーブメントはネットで広まり、妄信した人々が議事堂襲撃という凶行に走って世界を震撼させました。

詳細リンク:『Qアノンの正体』徹底解説(ネタバレ有)~混乱はどこから生まれ、どう展開したのか

今回私が取り上げたいポイントは、Qアノンムーブメントはネット上の匿名投稿によってあおられた、という点です。ドキュメンタリー映画を製作したホーバック監督が「匿名性を武器にした」とはっきり指摘するほど、「匿名性」が深く関わっているのです。

黒いフードをかぶった人が操り人形を操っている
正体をひた隠す匿名投稿によって、多くのアメリカ人が操られた。

人権総論がもつ力を実感

空想が空想を呼んで世界規模にふくれ上がった陰謀説ですが、全ての元となっているのは、「Q」という名義でなされた一連のネット投稿です。では、「Q」として投稿しているのは誰なのか。それが謎だとされてきたのですが、複数の科学者グループが投稿文を解析した結果、いまでは主導者はほぼ確実なところまであぶり出されています。ジムおよびロン・ワトキンスというアメリカのネットビジネス経営者親子で、アメリカ特有なカラーの強い極右思想の持主です。

ロン・ワトキンスは掲示板で「Q」と名乗り、わざと意味の不明瞭な文や画像を投稿することで、夢中になった無数の信奉者らに「解釈」を生み出させました。彼は、その中から最も優れた「解釈」を選ぶ、という方式をとることで、大衆煽動にかかる手間を大幅に省きました。

今回今一度取り上げたいのが、ワトキンス親子が口にする「自由」です。彼らは「無制限の表現の自由」を掲げて根拠なき陰謀説やヘイトスピーチが削除されない匿名掲示板サイトを運営し、「匿名性こそが究極の表現の自由だ」と主張しているのです。

大衆を煽動する表現・言論というのは、一見もっともらしい……とまで言ったらほめ過ぎかもしれませんが、人々の頭をかく乱するようなものではあります。ジム・ワトキンスの主張は、「認められない表現があるということは、表現の自由は100%から引かれていることになる」と聞こえなくもありません。

しかし、自由の根本を分かっていれば、これは荒唐無稽なエセ法律論だと分かります。

なぜなら、至高の価値である人権と、別の人の人権がぶつかったら、調整をしなければならないからです。人権を制約するものがあるとすれば、他者の人権以外ありませんが、人が誰も宇宙にたった一人で生きているわけではない以上、調整の必要は必ず出てきます。伝統的には「自由は他者の自由が始まるところで終わる」と言われますね。人権論において、表現の自由とて無制限でないことは当たり前。日本で「基本書」といわれる芦部憲法にもちゃんと「表現の自由と言えども無制約ではない(193頁)」と書いてあります。

匿名性を武器にした大衆煽動者の主張は、自由の根本を押さえていれば、荒唐無稽なエセ法律論だとかんたんに見破れる。人権総論がもつ力を実感した次第でした。

補足:例外的に認められる匿名表現

そのQアノン解説記事では削ったのですが、誤解が生じないよう今回一点だけ補足をしたいと思います。

すべて表現には責任が伴い、それなしの表現・言論はあり得ないと言いました。ですが、例外的に匿名でも社会的に認められるケースがあります。名前を出したら表現者の身に危険がある場合です。

例えば、独裁国家の民主化活動家なら、堂々と名前や顔を出して活動ができるはずがありません。殺されかねないからです。また、私たちの身近で言えば、匿名でも認められるのは主に内部告発のケースです。汚染物質の垂れ流し、表示の偽装、書類の改ざん……。会社ぐるみで不正が行われたとき、それをやらされている従業員は不正を知っているわけですが、もし名前を出して告発したらクビにされかねません。そうなれば収入は途絶え、経済的に追い詰められてしまいます。その恐怖と苦難を踏み越えてまで、社会正義のためだけに告発に踏み切れるでしょうか?

匿名での表現が社会的に認められるのは、このような力関係があり、表現する者が弱い立場にある場合です。名前を出すことを強いて重要な言論や情報が世に出なくなるより、その負担を免除して世に出てくるほうがよいだろう、という比較衡量の上での判断です。

この法理により、例えば日本では「公益通報者保護法」が整備されており、企業や行政機関の不正を告発した人への解雇は無効などとされています。

逆に言えば、こうした匿名表現は後から設けられた例外であって、表現・言論は自らの名で行い責任を伴うのが強固な原則なのだ、ということも分かるでしょう。

Qアノンの土壌”Chan Culture”が生まれたのはなんと日本

さて、アメリカのQアノンに戻りますが、実はこの陰謀論ムーブメントには、IT業界以外ではほとんど知られていない事実があります。ワトキンス親子が運営する匿名掲示板のプロトタイプは、他でもない日本の匿名掲示板「2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)」だということです。「旧・2ちゃんねる」は、急伸したSNSに押されて今日ではすっかり下火になりましたが、2000年代には匿名での無責任な言論の温床として悪名高かったので、ピンときた読者も多いのではないでしょうか。

ハンドルネーム「ひろゆき」、本名・西村博之といえば、最近ではYouTuberとして認知されているようですね。しかしこの人物は、もとをたどれば「2ちゃんねる」の開設者で元運営者。ただのお騒がせYouTuberではないのです。世界中で批判の的となったQアノンについては、西村はいかなるメディアからの取材も拒否し続けています。これを追及されたら自分が危ない、という危機感が態度によく表れています。

つまり、あの荒唐無稽な陰謀論には、日本の歴史や社会風土が深く関わっている。「対岸の火事」ならぬ「アメリカの火事」ではないのです。

芸術論からみる「2ちゃんねる」的カルチャー

こうして、匿名掲示板「2ちゃんねる」周辺の風土は太平洋を越え、アメリカで”Chan Culture”と名付けられて社会問題となりました。

ですが、カルチャーである以上、それがみられるのは極右の陰謀論ムーブメントだけではありません。楽曲、フィクションなどの作者が「2ちゃんねる」周りのカルチャーに浸かり込んだ人であれば、そのカラーや手法がアート作品に表出するケースがあるのです。

では、”Chan Culture”的な表現は、芸術作品としてはどう判断されるでしょうか? ここでアプローチを、法律論から芸術論にスイッチしたいと思います。

『ONE PIECE FILM RED』映画評をめぐって私が見たもの、考えたこと

去る2022年、『ONE PIECE FILM RED』という映画がヒット作となり、国内の歴代興行収入ランキングで第8位にランクインしました。同作は、言わずと知れた世界的人気マンガ『ワンピース』の劇場版作品です。並々ならぬプロモーション網が張られ、年末には「紅白歌合戦」に作中キャラの「ウタ」が「出場」したりしたので、読者にもどこかで見覚え聞き覚えがあるのではないでしょうか? 下のイラストで、真ん中で人差し指を立てているのがウタです。

このアニメ映画が現代の表現・言論や匿名表現の問題とどうつながるのか、というと、全ては私が当ブログで以下の映画評を書いたことに始まります。

参考リンク:評価二分の『ONE PIECE FILM RED』~ウタはなぜ”炎上”したのか

私は個人的に原作マンガ『ワンピース』を読み親しんでいるのですが、この記事はワンピースファンを楽しませる目的ではなく、あくまで文士として、「批評」であることにこだわって書きました。つまり、製作者と癒着することなく、独立した立場で、自らの見識や基準に基づいて作品を公平かつ客観的に評価するということです。すると、しばらくして記事はSNSで拡散。アクセスが急増し、読者から大きな反響が寄せられたのです。読者の声から考えさせられることは多く、私自身も表現者として豊かな経験をさせてもらえました。

今回は、映画評では削った、同作と表現の自由に関して考えたことを書いていきたいと思います。

日本社会の「批評」の弱さを痛感

まず一つ目の視点では、いったん表現に伴う責任の問題から離れ、私がかねてより問題視してきた日本社会における「批評」の弱さについて論じたいと思います。関係者向けページにも記載しているのですが、私がそのような問題意識を持っているのは、戦前、大逆事件に始まる苛烈な言論統制だけではなく、多くの知識人が欧米の思想トレンドを誰より先に輸入せんとする「物知り自慢」に陥り、社会において批評が弱まったことがファシズム台頭を許す土壌の一部になったのを重く見てのことです。

その「批評の弱さ」が、戦後70年以上を経過した今日でもいかに根深いか。私は一映画の批評をめぐって起こった出来事から、その深刻さを目の当たりにすることとなりました。加えて、社会に独立した批評がないと、人々の間にどういう現象が起こってくるのか――『ONE PIECE FILM RED』の周辺は、その社会実験というか、ケーススタディに使う実例として非常に有用だと思います。

実例! 独立した批評がないと、社会でどんなことが起こってくるのか

『ONE PIECE FILM RED』は、商業的に巨大な作品でした。原作は世界的人気マンガで、劇中では時の人気シンガー・Ado(『うっせぇわ』が大ヒットしたので覚えがあるのでは?)の楽曲を7曲使用。そこに異例な規模の宣伝を投入し、劇場では入場者特典を配布したりもしたのですが、肝心の中身は……。監督の趣向でサブカルチャー色が強く(ここに「2ちゃんねる」周辺のカルチャーが深く関わっている。詳しくは後述します)、ネットではマンガ・アニメの二次創作さながらだと話題になったほどでした。

私も自分の映画評で、シナリオが荒唐無稽なこと、歌を映画表現にうまく落とし込めていないことなどを指摘しました。マンガやアニメには人々をうならせる秀作が数多くありますが、同作はそれからはほど遠いです。現代でこのレベルの映画が世に出るケースはめずらしいと思います。

以下で論じていくケーススタディとしての要点は、

  1. 巨額の資金を動かせるものの、
  2. 質が例外的に低い映画作品が、
  3. 日本国内と、
  4. 海外90ヶ国以上で上映された

の4点です。この条件下でどのようなことが巻き起こり、私が映画批評の著者として何を見たと思うでしょうか?

「営利的言論」の独走

まず、国内では、法律用語でいう「営利的言論」が氾濫。テレビCMや広告、影響力のあるSNS投稿などが大量に流されました。それらで「大ヒット」が連呼されたのは、製作側が発信するプロモーションなのですから、いいも悪いも当然といえばそうでしょう。ただ、営利的言論は、言論としてはいわば亜流、二流のものです。非営利的言論とは区別され、価値の低い表現と考えられ、保障の程度も低いと解されるのが通説です。

本ケースでややトリッキーなのは、製作者そのものではなくても、密接なかかわりを持つマスコミが多くあるということです。例えば、『ワンピース』のアニメ版を放映しているフジテレビはそちらの利益に関わってきますし、原作マンガを出版しているのは集英社なので、マンガや文芸、ファッション、芸能と多分野にわたって大手雑誌を保有しています。さらに、Adoは売り込み中のシンガーですし、そのAdoを番組に出演させる各テレビ局には、視聴率のため話題を振りまきたいという利害関係があります。テレビ、出版、音楽関係。強い影響力を持つメディア各社は、利害関係で利をとるため、こぞってプロモーションに肩入れしていきました。

ここで問題となるのが、私がかねてより問題意識を持ってきた「批評」が弱い日本の社会状況です。明治以来、各分野で活発に行われていた批評活動は、戦前ファシズムによって死滅。ファシズム下では、大本営発表をそっくりそのまま伝えるのが「報道」になりました。そして1945年、悲惨な終戦によって大日本帝国体制は崩壊。日本国憲法によって表現の自由が保障されたのは、国民にとって、ようやく安堵できるラインまで来られた大きな転換点でした。しかし、では社会において自由な言論が芽を吹き返したのかといえば、そうは言い切れません。人々は戦前ファシズムを消化しきれず、そうこうしているうちに高度経済成長、商業主義の時代に入ったのです。そんな経済一色の中で、爆発的に増加したのが、営利的言論でした。「批評を加える目が社会にない」というファシズムの「型」は、戦後社会に残ってしまったのです。

映画界も例外ではありません。私は以前、『オペラ座の怪人』の関係で海外の劇評を読んだ時に、本物の芸術批評の面白さに目覚めました。目が覚める思いでした。以来、私は、インターネットで海外の映画批評を読みに行っては楽しんでいます。それに相当するものが、国内にはないからです。

『ONE PIECE FILM RED』の話に戻ると、結果、メディアによって世に出回っているこの作品についての言論は、ほとんどが営利的言論に占められる状態になりました。言論として価値が低いとはいえ、営利的言論しかないならば、独走できてしまうのです。

まるで大政翼賛会のようなメディアの在り方から、人々の間に害が派生するところも目撃しました。今時の人は、外形だけ「映画レビュー」と名乗った宣伝広告(ステルスマーケティング、ステマ)が氾濫していることは、誰でも何となくは知っているものです。ただ、ではどれがステマなのか、すそ野はどこまで広がっているのか――その点に透明性はありません。私が見た民衆の動きをありのままを記すなら、SNSでは「(この作品は)電通祭りだ」「集英社が(都合の悪い事実を)隠している」などと言う人もみられました。マーケティングの不透明性は、「裏で大きな力が動いているのだ」という陰謀説めいた憶測を生む原因になっています。

国内の一般観客の立場と反応

このようにメディアへの不信感をつぶやく声も聞こえてきましたが、それは決して全てではありません。次には、一般観客の同作に対する反応を、もう少し詳しく記述していこうと思います。

私はSNSやAmazon、Yahoo! JAPANなどを見て回りましたが、一般観客のほうは、各々が自分の感想を自分の言葉で述べていました。同作が好きだという人もいれば、不出来な点を的確に指摘する意見も多く出ています。こうしたサイトに投稿している人々は、近年「砂粒のよう」と形容される、孤立して力のない個々人かもしれません。それでも、メディアが機能していないときに一般市民からあるべき情報が出てくるのは、インターネットがもたらした光の部分といえるでしょう。

ただし、言論の質や自由度を論じるときには、留意すべき点があります。

まず性質上、この作品の一般観客は、大部分が『ワンピース』の原作ファンでした。ファンにはファンの見方がありますから、彼らの関心は「あのキャラがこんな行動をとったのはおかしい」等々、『ワンピース』としてツボを押さえた作品なのかどうかに集まるのです。マンガ・アニメというジャンルだと、中には「作者に自分の意見を採用してほしい」というスタンスをとるファンもいるようでした。もちろんファンがファンの立場で感想を述べるのは自由であって問題は少しもないのですが、客観的かつ独立した「批評」なのかといえば、そうではないのです。

また、一般の人が知識や表現力の程度にかかわらず発言できるインターネットに影の部分があるのは、今時言うまでもありません。Yahoo! JAPANのコメント欄やSNSでは、口の悪い”炎上”が勃発。『ワンピース』ファンのコミュニティでは、同作の二次創作テイストが好みに合った人とそうでない人の間で見るに堪えない言い争いが頻発。私の映画評に反響を寄せてきた読者には、他のファンから筋の通らない理由で批判されたり、中傷を受けて悲鳴を上げている人が少なくありませんでした。

赤い腕が吹き出しをつかんでいる挿絵
ネットが拓いた言論には、光も影もある。

この作品に関する情報は、「営利的言論」と「ファンの感想」の2種類にしぼられました。そうでない言説といったら、「逆張り」で目立とうとする中小の芸能情報サイトくらいです。「大本営発表」を越えると、一気にネット大衆社会の”炎上”になってしまう両極端。どちらにも属すことなく、一般市民の映画鑑賞の指標となれるような批評は、国内にはやはり見当たりませんでした。

海外との落差と、そこに感じた「もったいなさ」

と、以上のような事態をもたらした「批評」がない社会状況ですが、そんなのは狭苦しい日本国内の話です。同作は海外90ヶ国以上で上映されました。この島国を一歩出れば、プロの映画批評家の目にさらされます。プロモーションで癒着できる”お友達”もいません。国内と海外、批評がない社会とある社会を比較できる点でもまた、本作はケーススタディとして興味深いと思います。

私はイギリス、アメリカ、フランスの主要紙と映画関係サイトで映画評を読んで回り、SNSでは加えて南米やアジア諸国にも目を通したのですが、読むたびに海外との落差を痛感することになりました。

まず何より、海外ではプロの映画批評家が大勢いて、製作者とも一般観客とも線引きされた独自の立場が定着しており、公開された作品に評価を出すのが当たり前の日常になっています。彼らは、自由に、それぞれが作品の中身相応の評価を書いていました。

彼らは映画評を書くことが仕事なのであり、書いた批評には信用が必要です。もし明らかに荒唐無稽な作品を「快作」とベタ褒めしたりしたら、自分の信用にキズがつき、一般読者から「この批評家は何を言っているんだ」と嘲笑され、悪くすればそのままキャリアを失いかねません。本物の批評家とはそういうものです。「カメラがウタをスカートの中を見上げるアングルで撮っている」などと、プロの映画批評家ならではの鋭い指摘にも触れることができました。

批評がある社会は、芸術体験をかくも豊かにしてくれるのか。「すごい」「感動した」「大ヒット」と一様に大合唱する日本のテレビ、雑誌、ネットメディアには、何か文化的な「貧しさ」のようなものを感じました。また、癒着しようという発想しかなく、「快進撃を続けている」という情報一色に染めあげれば物事がうまくいくような気持ちになる出版および映画界には、便宜を求めて軍の廊下に列をなした戦前の企業の名残を見た気がします。

海外では、一般観客の様子も日本とは違っていました。アメリカやフランスの映画サイトで一般人の投稿レビューを読んでいると、日本より圧倒的に「おもしろい」のです。ネットですからやはり問題ある発言をする人もいることにはいるのですが、その割合が少ない。海外だと同作の観客はほぼ全員が原作ファンであるにもかかわらず、文体や内容がセミプロといいますか、全体として日本人より大人で分別がある印象でした。

なぜこんな落差が生まれてしまったのでしょうか? 60~70年くらい前の帝国主義がまだ存命していた時代なら「西洋の文化が進んでいるからだ」という主張が出てきたでしょうが、それはもう時代遅れでしょう。私は、私たちを取り囲んでいる情報の質に起因する問題だと考えています。テレビや新聞、ネットで日ごろから質の高い批評に触れていれば、誰だって審美眼は自然と肥えていきます。それに、合理的に書かれたプロの評価のすぐ横で、アニメの二次創作の世界でしか通用しない子どもじみた論理を振りかざすような人は出てくるでしょうか? そんなことをしたら恥をかくのは自分だということは、誰にだって分かります。

もったいない。私はそう思いました。考えてみれば、海外の一般観客と比べて、日本の観客は教育水準で劣っているわけではありません。むしろ、高いかもしれない。にもかかわらず、サブカルの水準で、つまらない中傷に終始している。それが社会の平均になってしまい、外を知らなければ疑問さえ抱かないのです。

社会に独立した批評が存在しないと何が起こるかというと、一般の人々が伸びていかない――「社会実験」としての本件は、そんなことを示唆しているのではないでしょうか。

映画評の読者に見た「手ごたえ」

落差の一方、私は読者からの反響に手ごたえも感じました。

前述の通り、私は記事を本来の批評のスタイルにこだわって書きました。私は映像美術の専門家ではありませんが、書いた内容の合理性は約束できると自負しています。

とはいえ、7年もサイトを運営していれば、訪問者の多くは「ワンピース談義」を期待した原作ファンだろうなという予想は頭に浮かんできます。だから私は冒頭でわざわざ「本稿はあくまで公平な評価を是とする映画レビューであり、製作者に怒りをぶつける趣旨ではありません」と断り書きまで入れておきました。

ところが、私に反響を寄せてきた人々は、ファン向けに書いたのではない批評や指摘を、細部までしっかり熱心に読んでいたのです。彼らはマンガが好きな、ごく普通の人々でした。筆者としてこんなに報われることはなく、感激するとともに、ごく普通の人々が持つポテンシャルに直に触れ、さらに心を打たれた次第でした。

ないから読まないだけで、あれば読むんじゃないか。

社会に独立した批評がなかろうが、私は批評を書きました。記事には読者が付き、今では、ネット検索をかければすぐ出てくるほどの影響力を持っています。「批評」をめぐる日本の現状に、この映画評記事がわずかであれ一石を投じられたならいいなと思っています。

提言:プロ表現者の「2ちゃんねる」的表現を批判する

さて、以上は日本社会について私が見たものと考えたことでしたが、『ONE PIECE FILM RED』という作品そのものに目を向けると、同作はシナリオや作風にも独特の癖が指摘できます。

それは、作中では説明のない事柄が多く、受け手に「あのキャラは昔こうしていたんじゃないか」「あれは実はこうなのでは」などと根拠がない空想を付け足すよう仕向けるというもの。そう、不明瞭な文言を信奉者に「解釈」させたQアノンと同じ構図です。監督が「サブカル界の神」と呼ばれるだけのことはあり、スクリーンの前で「これは『2ちゃんねる』だな」と感じるほどその強い影響がみられるのです。

映画評では作品への評価に集中するため削ったのですが、私は『ONE PIECE FILM RED』の「表現者が作中に十分な表現を盛り込まず、受け手が空想(や二次創作)を足すことを前提にする」という表現方法を明示的に批判します。

詳細:想像の余地を残す表現と「2ちゃんねる」的“脳内補完”の違い

今回はハッキリ指摘しますが、作者が作品に十分中身を盛り込まず、受け手が補完して初めて作品が成り立つのであれば、受け手がしていることは「タダ働き」に他なりません。なぜなら、受け手は作品に建て増し作業をしたにもかかわらず、著作権はなく、一銭たりとも支払われないのですから。その反面、作者はラクをしておきながら、利益と名声は全て自分のものにできる。冷静に考えれば、ひどい話ではありませんか。率直に言えば、表現者の「仕事」として薄ら恐ろしさを覚えます。

タダ働き問題だけではありません。言論に伴う責任という観点からして、「2ちゃんねる」的表現には大いに問題があります。それは、受け手が付け足した空想は、責任の所在が不明確だということです。監督が作ったのではない。でも、受け手がしたことはただの空想や二次創作にすぎない。責任があるのは誰とも言えず、あいまいなのです。

アニメであれ、表現は遊びではありません。必ず責任を伴います。責任が誰にあるのか分からないような表現物があったとすれば、それは信用に足りません。「どんなものを作ったって自由じゃないか」というほど表現の自由は安くなく、アートは浅くないのです。

世の中は、どんな業界・分野にも、誠実に働いている真面目な人からスレスレの道を行くうさんくさい業者までいるものです。そして「アート」という分野では、受け手をタダ働きさせる作者がそれに当たる。“Chan Culture”を利用した作品は、隠された深い意味があるのではなくただの「出来が悪い作品」であり、作者は頭のいいカリスマではなく「あやしげな業者」だと認識されるべきである。かく乱手法の欺瞞を見破り、そう認識されるようになるべきだと、私はここで提言します。

匿名での無責任な言論で悪名高き「旧・2ちゃんねる」。その手法はまだ生きており、アメリカでは民主主義を破壊する大衆煽動に利用されました。私たちは、責任の所在を煙に巻こうとする表現・言論は信用に足りないのだと、あらためて理解を深めるべきではないでしょうか。

結びに:無責任な表現を見抜く目を

以上が、私が向き合ってきた日本社会の表現・言論の”いま”であり、読者からの反響を受けて深めた思索です。

法律論では人権総論を。芸術論では審美眼を。

表現の原則を踏み倒した匿名表現が人心を惑わし、世界を荒らすいま、私たちは無責任な表現・言論を鋭く見抜く目を養っていかなければなりません。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSEではブログ更新のお知らせなどをしていますのでフォローよろしくお願いします。

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