Ado『うっせぇわ』の歌詞の意味を3つの視点から読み解く

2021年の音楽シーンを席巻しているAdoの『うっせぇわ』。その攻撃的な歌詞から各分野で話題になっているので、今回はその意味や音楽としての構成、ヒットの背景などについて解説し、最後に私見を述べたいと思います。

Adoの『うっせぇわ』とは?

Ado(アド)は、2002年生まれの女性シンガーです。ニコニコ動画などに「歌い手(既成楽曲をカバーする「歌ってみた」動画の投稿者)」としてボーカロイド楽曲を中心に投稿を続け、高校生3年生だった2020年10月23日に『うっせぇわ』でメジャーデビューしました。YouTubeのチャンネル登録者数は188万人(2021年6月12日現在)。

『うっせぇわ』を作詞・作曲したのはAdoではなく、主に「ボカロP(ボーカロイドで楽曲を制作しネットに投稿するミュージシャン)」として活動しているsyudouです。20代の男性で、「音楽ナタリー」でのインタビューでは「大学を卒業して就職して(中略)去年ようやく会社を辞め」たと話しています。

同曲は2020年10月23日にリリースされて以来徐々に話題となり、2021年2月3日発表の「オリコン週間デジタルシングル(単曲)ランキング」および「オリコン週間ストリーミングランキング」では同時に1位を獲得。YouTubeでの動画再生数は1億5000万回を超えていて(2021年6月12日現在)、カバーや替え歌なども多数投稿されました。

動画は以下になります。

『うっせぇわ』歌詞の意味を3つの視点から読み解く

以上、賛否両論の話題曲はいかがだったでしょうか? 楽曲作品なので感じ方や解釈はいろいろでしょうが、以下では『うっせぇわ』歌詞の意味を「世代間対立」「ポップミュージック業界の問題点」「楽曲の音楽性」という3つの視点から読み解いていこうと思います。歌詞へのリンクを貼っておくので、適宜参照してください。

リンク:『うっせぇわ』歌詞 – 歌ネット(新しいタブで開きます)

1:世代間対立―若い人は勝てないようにできている

1番冒頭から描かれる、「何か足りない」とくすぶる会社員の日常生活。「あてもなくただ混乱するエイデイ」の「エイデイ」は辞書的には意味のとれない言葉ですが、その文脈から英語の”every day”をくずした発音だと考えられます(”Check it out!”を「チェケラ」、”Hands up!”を「ヘンザ」とカタカナで記載するのと同じ原理)。そしてサビでリピートされるのは、タイトルでもある「うっせぇわ」。

このような歌詞から、『うっせぇわ』は全体として会社員、とりわけ後述するように若い世代の不満や怒りをぶつけた楽曲だといえるでしょう。

歌詞の攻撃性が本格化するのは、じつは2番に入ってからです。1番で示された世界設定を踏まえ、殴ったりという暴行に出るのは性に合わないとしてから「言葉の銃口を/その頭に突きつけて撃てば」と言葉によって攻撃する姿勢を先鋭化、全体からにおっていた不満や怒りについても「不平不満垂れて」と明言されます。そしてサビ前で、

クソだりぃな

酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい

皆がつまみ易いように串外しなさい

会計や注文は先陣を切る

不文律最低限のマナーです

と、日本の古い企業文化を具体的に描写しています。ここで描かれる「会社の飲み会」風景には昭和世代の上司がいる様子なので、作中主人公の会社員はおそらくは若手なのだろうと思われます。

冒頭のフレーズ、

正しいとは 愚かさとは

それが何か見せつけてやる

は日本の社会状況、とくに若い世代の心境をよく反映していると思います。無給で拘束される「会社の飲み会」をはじめ、明らかに合理的でない物事はまだまだまかり通っている。正しいことを指摘したところで若い人は聞く耳を持ってもらえず、若いというだけで間違っていることにされてしまう。「無理が通れば道理が引っ込む」状況が社会に点在するなか、それに不満をためている若い世代を代弁したといえるのではないでしょうか。

『うっせぇわ』の歌詞の限界

このように、『うっせぇわ』は日本の職場をめぐる社会問題の具体的な描写を含んだ攻撃的な歌詞で反響を呼びましたが、よく読んでみれば、その表面的な先鋭さとは裏腹な小ささ、せせこましさも見えてきます。

まず1番サビ「頭の出来が違うので問題はナシ」とありますが、「頭の出来が違う」となぜ「問題はナシ」になるのか、その理由が示されていません。作中主人公の「頭の出来が違う」ことですでに述べてきた数々の問題が消えるわけではないので、この点は因果関係が不明なままとなっています。

皮肉ながら、この「問題はナシ」の箇所ではもう一つ問題を指摘できます。歌詞冒頭からこれだけ問題提起を重ね、2番サビでは「現代の代弁者」だと宣言しておきながら「問題はナシ」、曲の結びで「どうだっていいぜ問題はナシ」では、論としては意味が通っていません。

歌詞の意外なもろさは、作中ストーリーの展開にも見られます。飲み会をやっている会社や上司、「丸々と肉付いたその顔面」と指さしている不満の相手に対して主人公がアクションを起こしてどうなった、というストーリー展開がないのです。

以上を踏まえれば、『うっせぇわ』の歌詞世界は、誰に訴えるでもなくひとりで愚痴をつぶやいているのだということになるでしょう。

もちろんどんな作品でもカバーする内容はここからここまでと線引きされているので、だから直ちにダメということではないのですが、ひとりで愚痴をつぶやくにとどまっていることは『うっせぇわ』歌詞の意味内容の限界だと思います。

考えようによっては、不満をためている若い世代がどうあがいても勝てないことを悟っている、その無力感が根底に横たわっているようにとらえられるかもしれません。

世代間対立の現状とその背景

日本で深刻な社会問題となっている世代間対立。『うっせぇな』の歌詞が生まれた背景を理解するため、いま何が起きているのかにざっと触れておこうと思います。

まず若い世代はといえば、

  • 雇用情勢・労働環境が恵まれない。
  • 職場で何かあると、結局若いほうが退職に追い込まれる。結果として使い捨てにされる。
  • 仕事がない。
  • がんばっても報われない。
  • 明らかに合理的でないことを上司、親など上の世代から強いられる。時代遅れで今の現実に合わない生き方を押し付けられる。
  • 自分の人生を応援してもらっていない

……。不満を募らせ、または上から抑え込まれて口を開けず、人によってはずっと漠然とつらいのに自分を鬱屈させているのが何なのかが特定できずにうつむいている、そんな社会状況があります。

私の周囲にも、こうした不満をこぼしている同世代がたくさんいます。たとえば私より一歳下の知人は、大学院を出た晴れの入社式で「若い人に期待している」と言われたのに、数年後プロジェクトで問題が起こった時には上司ではなく自分の責任みたいな雰囲気になって退職せざるを得なくなった、「期待」というのは結局「若い人に失敗があったら切り捨てる」という意味だったんだ、とFacebookで怒りをぶつけていました。また別の知人は、「10歳年上の人たちになると、仕事にすべてを捧げるのが当然という感じで話がまったく通じない」と、当惑まじりでぼやいていた。……挙げ始めたらキリがないのでこのくらいにしておきますが、若い世代のこうした不満はいま、足元にいくらでも転がっているんですよね。

もっとも、職場の体質については80年代の時点ですでに疑問視・問題視する見方が現れていて、今日では「こんなことをしていたら経営は続かない」と働き方改革に真剣に取り組む経営者、一念発起して新しい働き方に挑戦する人などが続々出てきています。『うっせぇわ』の歌詞に対しても、ネットでは「空いたグラスに酒をすぐ注がなければならないなんていうことはさすがにもう行われていない」等、イメージが古いのではないかと指摘する声を見かけました。

ただそれでも依然、若い人が不遇に追い込まれどんどん希望を失っていく、そういう社会状況があるのもれっきとした現実です。「この社会には若い人には居場所がない」「若い人は絶対勝てないようにできている」――そのような声は市井でもよく聞かれます。若いほうの世代にとって、社会の在り方が人生のリスクとなっている。私はこの現実をそうとらえています。

ところが、なら上の世代は意気揚々としているかといえばそうではなく、全然別のことを考えているんですよね。鼻息荒くこんな怒りをぶつける高齢世代はあちらにもこちらにも。

「自分のパイを取られる」とばかりに若い世代へ敵対心をむき出しにする高齢世代。世代間の闘争が――誰かが「漁夫の利」をとってもおかしくないせせこましい闘争が――続いているのが現状です。

では、なぜこのような悲しい世代間対立が生じてしまったのでしょうか? それはここだけで論じきれるテーマではないので深入りはしませんが、直接には、企業を中心とした戦後の国家・社会モデル、および、当時のプロパガンダが日本人に深く浸透したことが原因の大部分を占めています。企業は後先考えない経営を平然と行い、“サラリーマン”という和製英語が象徴する世界的に特殊な企業文化が深く根を張りました。こうした社会状況から精神的にアンバランスな人間が「大量生産」される結果となり、やがてアンバランスな人間に育てられた世代が出現し、問題が世代から世代へ連鎖して現在に至る、そういう年表がこの国にはあります。

高度成長時代に隆盛を極めた企業群は、バブル崩壊を起点に年々崩れています。しかし日本社会、また総体としての日本人がその時代から脱却できたかといえば、そうではありません。いやだいやだと言いながら共依存に陥っているのが現状でしょう。それは不満をかかえている若い世代も例外ではありません。「不満だからどうすればいいか」という問いへの答えを出すことができないでいるうちに「終身雇用がいい」とか「社会とはこういうものなんだ」などと言い出したり、せっかく選挙権というプラチナチケットを持っているのに投票へ行かなかったりと(20代の投票率が20%台という異常が日常化している)、自らを苦しめているはずの「昭和」にズルズルからめとられていく人は後を絶ちません。

不平不満は爆発寸前にもかかわらず、上の世代から連鎖してきた社会問題から脱却することができないのは『うっせぇわ』も共通で、それもまた21世紀前半現在の日本社会を反映していると思います。

2:突破力のないポップミュージック業界

会社や世代間対立の不満だけではありません。『うっせぇわ』の歌詞では、ポップミュージックをめぐる不満もリピートされています。1番サビの

一切合切凡庸な

あなたじゃ分からないかもね

嗚呼よく似合う

その可もなく不可もないメロディー

に始まり、「二番煎じ言い換えのパロディ」「嗚呼つまらねぇ/何回聞かせるんだそのメモリー」のフレーズも音楽業界への批判めいた意味にとらえることができます。

無難に気持ちいい曲が量産される、とりわけラブソングの割合が高すぎるというのは、長年日本のポップミュージックシーンで問題視されてきました。「もっとトガった曲を聴きたい」という需要はみられるのですが、ポップミュージックの地盤は商業です。好き嫌いが分かれる歌ではなく、誰が聞いても当たり障りない、それこそ「可もなく不可もない」曲が求められるし、ヒットもする。商業だけではありません。レコード会社は官僚制組織なので、仮に斬新なアイデアが転がっていたとしても上に上がらず採用に至らない。閉塞感があるのです。

私には以前、街角でヒット曲が「希望はある」と絶唱しているのが耳に入ってきて、希望がわいてくるどころかかえって凍りついた、なんていうことがありました。なんてからっぽな言葉なんだろう、と。読者にも似たような経験があるかもしれません。

こうしたポップミュージック界の無難志向ですが、私は個人的に、その反動も同じくらい問題だと考えています。反動というのは、「無難」を否定したらいきなり「奇抜」まで針が振れること。最近は奇抜なものが個性や才能のように言われることはたびたびありますが、じつのところ、奇抜は「無個性」の一種なんですよね。出てきた時にはワッと人目を引くけれど、新鮮さはすぐに色あせ、大衆にあきられ、別の奇抜なものに取って代わられ……このスパイラルが延々と。奇抜なものの価値は奇抜さにあるのだから、奇抜ならなんだっていいわけで、いくらでも代わりがあるわけです。

無難志向と奇抜志向で閉塞した音楽シーン。つまらないと感じるなら理由はあると思います。

3:歌詞だけでなく音楽性も読むべき理由

歌詞が大きな反響を呼んだ『うっせぇわ』ですが、私はヒットの要因を考える上では音楽性も見逃してはならないと考えています。

なぜなら、歌というのは歌詞と音楽そろって初めて成り立つもの。音楽性によって、インパクトの大小はがらりと変わりるのです。歌詞を単体で読んでみれば意味のない言葉遊び程度のことしか書いてないのに、口ずさみやすいメロディー、記憶に残りやすいキメがついているというだけで大ヒット、猫も杓子も歌ってる……なんていうこと、音楽の世界ではよくありますよね。

以下では、『うっせぇわ』の音楽性について注目すべき点を指摘したいと思います。

1オクターブの行き来3連続は異例

サビ冒頭、曲のタイトルでもある「うっせぇうっせぇうっせぇわ」の箇所ですが、ここで「うっ」と「せぇ」の間の音程に注目してみてください。

「うっ」と「せぇ」の間の音程は1オクターブ差、つまり「ド」から「高いド」の距離で、これは作曲における最長距離にあたります。

音符から次の音符での跳ね上がりでは、距離が離れているほどインパクトは大きくなります。壮大なバラードなんかでは音程が「ド」から「ラ」の距離で跳ね上がることがあり、これを聞くとドラマチックさや気持ちの高まりが感じられて胸にじーんときたりします。たとえば『北の国から』の最初の2音がそうですので、ちょっと思い出してみてください。それが1オクターブ、「ド」から「高いド」の距離となれば、インパクトはもっと強く、マックスとなります。

しかもこの1オクターブ差の音程は、「うっせぇうっせぇうっせぇわ」と3回連続で行き来するんですよ。音が1オクターブ跳ぶだけなら他の曲にもみられ、たとえば映画『タイタニック』の主題歌『My Heart Will Go On』のサビは、3音目から4音目が1オクターブ跳ね上がるドラマチックなメロディーになっていますが、何度も行ったり来たりするわけではありません。その1オクターブ差が3連続、しかもこの速いテンポでリピートされる『うっせぇわ』は、音楽として異例な構成と言っていいと思います。

音楽としてよく練られているのはサビ冒頭だけではありません。サビの最後「問題はナシ」「顔面にバツ」の箇所は歌詞の意味内容でしばしば注目されていますが、「問題は」「顔面に」で裏拍が続いていたのが「ナシ」「バツ」で表拍に戻り、次の1拍がキメとしてパーカッションがパーンと入る結び方は、聞いて気持ちいいようよく考えられています。リズム打ちをするとよく分かりますので、読者のみなさんもよかったらじっくりやってみてください。私はどちらかといえば、この曲はメロ先、つまり先に作曲して後から歌詞を作ってのせたのかな、という印象を受けました。

『うっせぇわ』は歌詞の意味内容で反響をよんだといいますが、私は周到に練られたメロディーはヒットの要因のかなりを占めていると考えています。

小学生にうける理由

職場の愚痴であるはずの『うっせぇわ』を小学生が歌っているというので首をかしげる人がいるようですが、私はこちらも歌詞の意味内容ではなく、メロディーによるところが大きいと思います。1オクターブ差を3連続はメロディーとして極端なので、「壊れた雰囲気」のようなものが醸し出されているのです。感性によっては、おもしろおかしいように感じる人もいるでしょう。小学生のおふざけに向いているのではないでしょうか。

「ボカロP」だから生まれた異例のメロディー

このような異例といえる1オクターブ3連続のメロディーが今作られた背景には、ボカロという現代の新しいテクノロジーがあります。

ボカロは好きな人にとってはもはや日常の一部のようですが、価値観が多様化した現代社会、なじみがない人もそれはそれで多いと思うので一応確認しておきましょう。

まず、「ボカロ」とは「ボーカロイド」の略で、ヤマハが開発・商標登録した音声合成ソフトのことをいいます。ボーカロイドは、たとえば「『ありがとう』の発音を『ドレーミレドーーーー』で」といったふうに、人がソフトに打ち込んだ通りの音声を合成して出してくれるのです。

このように技術としてはかんたんに説明できてしまうボーカロイドですが、その運命を一変させたのはヤマハの売り出し戦略でした。単体なら音楽制作者しか目もくれなかったであろう技術に「初音ミク」といったアニメ絵のキャラクターを付加し、「初音ミクちゃんがあなたの思い通りに歌ってくれます」という「ストーリー性」を打ち出したことで、一般消費者の間で爆発的ヒットとなったのです。

本来は縁もゆかりもなかった「音声合成技術」と「アニメ絵」がドッキングされた結果、そのキャラクターを好むファン層が、聞く人、また作る人となってネットを中心にコミュニティを形成し、独特なボカロ文化が醸成されていきました。このボーカロイドで楽曲を制作し、ネットに投稿する人が「ボカロP」です。「P」は「プロデューサー」の意味で、アイドル歌手をプロデュースしているような感覚になることからその呼び名がついたといわれています。今日では、NHKの東京2020応援ソング『パプリカ』で有名な米津玄師をはじめ、ボカロPとしてファンコミュニティで人気を博したのをきっかけにデビューするミュージシャンが出てきています。

アニメ絵のキャラクターは諸刃の剣、人によって好みがハッキリ分かれます。以前、お米の「あきたこまち」が袋に美少女イラストを付けたらとたんに飛ぶように売れたけれど、昔からお米を買っていた人は「なんだこれは」と怒り出して去っていった……なんていうことがありました。ボカロをめぐる状況もこれと似ていて、好きな人は初音ミクがついているだけで曲を聴いたりグッズを買ったりするけれど、美少女キャラクターが苦手な人はそれだけでボーカロイドのすべてを敬遠する、そんな世界になっています。

ただその「見た目」をはがして技術そのものに立ち返ってみれば、ボーカロイドは音楽にとって興味深い技術です。機械なら、音程やリズムを少しもはずすことなく、完璧に歌える。しかもただ「機械のように正確」なだけではありません。人間だったら高すぎて出ない音でも、速すぎて口がまわらないメロディーでも、機械なら難なく「歌える」ので、これまでにはなかった新しい歌入り音楽の可能性が開けたのです。実際、人気のボカロ楽曲では、人間には無理な高低差の節回しや、聞いて不自然に感じるようなメロディーが出てきます。

ボーカロイドという新技術によって、人間の歌手前提ではありえなかった音楽が出現していた――『うっせぇわ』の1オクターブの行き来3連続という異例のメロディーが、そのような技術的・環境的背景を背に誕生したのはまちがいありません。

ボーカリスト・Adoの力

歌詞や作曲によるインパクトは上記の通りですが、『うっせぇわ』ヒットの要因としてはAdoの歌唱力も忘れてはならないでしょう。

まず声に基礎的なパワーがありますね。

しかもよく聞いてみれば、声にはいくつも表情があり、一曲の中で部分によって使い分けられています。冒頭一番から「見せつけてやる」の「る」なんてドスがきいていますし、サビ直前の「はぁ?」はやや演歌を思わせる恨み節の節回しで、楽曲や動画の世界観とよく合っています。こうした怒りの表現もじつにそれらしく歌われています。

パワーにプラスしてテクニックもある。ヒットの理由としては、Adoの歌唱がリスナーをキャッチした部分も大きいと思います。

世の意見に対する微妙なお話

『うっせぇわ』に対する世の反応には、Adoが高校生であることを理由として「響かない」などの声がよくみられます。

なるほど、制作体制を考慮すれば、同曲をニセモノっぽく感じてしまう気持ちは分からなくもありません。『うっせぇわ』は「Adoの曲」ということになっていますが、反響を呼んだ歌詞を書いたのはsyudouという別の人であって、彼女の主張ではないからです。

ただ、Adoが高校生であることを理由にした否定的な意見には、じつに微妙な点で、2点ほど指摘すべきことがあると思っています。

「ボーカリストはアーティストではない」

まず一つ目は、かいつまんで言えば「『歌い手』であるAdoに過度な期待をするから裏切られたような気分になるのでは?」ということです。

雑誌や番組、カラオケの”デンモク”。世の中では、ネット上の「歌い手」を含め、歌を歌う人はみな一緒くたに「アーティスト」と呼ばれていますね。

しかし、この定義はかなり便宜的であって、疑問の余地があります。なぜなら、集団制作においてボーカルパートのみを担当したボーカリストは「技術専門職」の立場だからです。ボーカリストの役割は、作詞者、企画者、ディレクター、プロデューサーといった「制作を指揮する人」の求めに応じて、指示通りに歌唱技術を提供すること。一見ステージ上をかけまわり開放的に自己表現しているかのようですが、ボーカリストは自己主張しない、できない、地味な立場であるのが現実です。

ではAdoをはじめとする「歌い手」はどうかというと、「歌い手」がするのは既成楽曲のコピーなのだから、定義からして「技術職としてのボーカリスト」ということになります。最初から自分の主張をしない立場なのです。

このような、自らが自己主張をしないボーカリストはアーティストだといえるのでしょうか? その答えは「アート」の定義によって変わってくるのですが、もし「自分の主張をすること」を重視するなら、ボーカリストは「技術者」であって、「アーティスト」ではないことになります。

ポップミュージックのリスナーには、かたや「アイドルといっしょにされたくない」と主体性や芸術性を強調したがる気風、かたやロックの「自己主張してなんぼ」という気風があるので、「技術者としてのボーカリスト」という存在に強い抵抗を感じるその気持ちは理解できなくありません。

ただ、ボーカリストが技術者の立場に立ち、制作をリードしない集団制作体制は、音楽の世界全体ではごく普通にあることです。たとえば先ほどメロディーの例で取り上げた『My Heart Will Go On』もそうです。この曲を歌ったセリーヌ・ディオンは世界的ディーヴァですが、自分で作詞作曲はしていません。圧倒的な声量や歌唱力を披露することで歌姫になっている人です。もし読者がそれに抵抗や不満を感じるとしたら、それはロックだとか自己主張を価値基準にしたから。個人的な好き嫌いは別として、歌唱技術で魅せるタイプのボーカリストもミュージシャンの一形態ではあるのです。

こうした技術職としてのボーカリストは、ボーカル技術を提供できてさえいれば評価され、私生活での経歴や社会的立場は問題となりません。言い換えれば、黒子の技術者として優れていればそれでいいのです。

したがって、もしAdoと楽曲『うっせぇわ』の組み合わせについて否定的に言えることがあるとしたら、それは「楽曲に対してキャスティングがいまひとつ」といった見方であって、身につけたボーカル技術を提供した以上Adoは技術者として仕事をこなしたのだから、高校生という社会的立場を理由に否定的評価を受けるいわれはありません。じつに微妙な点ですが、前者と後者には大きな違いがあります。

もしあなたが『うっせぇわ』からニセモノっぽさをかぎとって不満だったり、歌詞をからっぽな言葉のように感じているなら、原因は別のところにあるのでは? それについては本稿最後に述べようと思います。

音楽業界でカッコイイと言われていることが古臭くてかっこ悪い件

ここで微妙に視点をずらしてみましょう。上記と関連して、Ado自身にはブラック企業での実体験がない、と指さす意見がみられます。Adoは「酒が空いたグラスあれば直ぐに注」ぐとか「皆がつまみ易いように串外」すなどを自分がしたわけではないのだから、歌詞の意味を分からないまま歌っている状態であり、だからリアルでない、という不満の声です。

しかし繰り返しになりますが、ボーカリストが自分が体験していないことを歌うのは普通です。非難されるようなことではありません。

その最たる例は、クラシックの声楽家です。彼らは作詞も作曲もしていないでしょう? オペラ歌手は昔の作家が書いた古代の王様の苦悩などを歌いますが、彼ら自身は現代人であって、古代の社会環境を生きたことはなく、王様だったこともなく、王様ならではの苦悩に頭を抱えた経験もありません。そのことを指さして20年も技術を磨いてきたオペラ歌手に対し「王様でないのに王様の苦悩を歌われても響かない。歌詞の意味を分からないで歌ってるからだ」などと誰が批判するでしょうか? 自分に経験がないことでも、歌詞の意味をくみ取って歌えば感情は十分に表現できるのです。

では、なぜ「実体験を歌う」信仰が生じているのか。

『うっせぇわ』の件に限りませんが、日本のポップミュージックでは「自分の体験や感情をそのまま歌詞にする」ことがカッコイイとか、芸術的であるかのように言われているところをしばしば見かけます。新曲や新アルバムなんかで

  • (誰それ)との失恋を赤裸々に歌った
  • 自分のコンプレックスをこれでもかとさらけ出した一曲

といった類のキャッチコピーやレビューに心当たりはありませんか?

たいそうカッコイイつもりらしいですが、私はこういう言説を見るたびに音楽シーンから顔をそむけます。

「自分の体験や感情をそのまま歌詞にする」のを「深い自己表現」だととらえる、その感覚のもとをたどれば、自分の身に起こった出来事をブツブツとつぶやく古臭い「私小説」に行き着くんですよね。日本独特な私小説の系統は、戦前の一時ワッともてはやされた時期がありましたが、それ以外の時代・地域では浅くてチープな表現だとあきれられることが多いです。自分の体験を咀嚼して、作品という形に昇華するに至っていない、と。

「誰それとの失恋を赤裸々に歌う」とか「コンプレックスをこれでもかとさらけ出す」のは作詞者の自由です。書きたい通りに書けばいい。アートとはそういうものです。そういう楽曲を好んで聞くのもリスナーの自由です。ただ、もしそれを「カッコイイ」とか「深い自己表現」とか「ロック」だと思っているなら、その認識はお門違いだとは指摘しておきたいと思います。

「戦前の根暗な文豪」だけではありません。Adoが高校生であることを理由に「響かない」などとする意見では「ブラック企業での怨嗟を歌うならブラック企業での経験があるべきだ、そうでなければ説得力がない」「誰もが一度はブラック企業を経験すべきだ、そうでなければ説得力がない」といった意識がしばしばみられるんですけど、その発想の古くてさもしいこと、もはや「洗濯板での洗濯を強いる姑」並み……。

新しいことをしたつもり、カッコイイことをしたつもりの人が、本質的には古臭かった。現代的なのは表面の薄皮一枚にすぎなかった。これは世によくある挫折パターンなんですよね。電子サウンドにコギャルファッションでも本質的には「盆踊り」だと鋭い指摘を受けた「パラパラ」然り。

最先端のつもりで渋谷を闊歩していたカリスマダンサーは、こうした指摘、鏡に映った古臭い自分の姿には打ちのめされるものです。

ロックなつもりか、Adoが高校生であることを理由に「響かない」と意見している人々。その大部分は、私には「戦前の根暗な文豪」や「洗濯板での洗濯を強いる姑」的な意識が深いところに残っていると見えました。

ポップミュージック界でカッコイイと言われていることが、古臭くてかっこ悪い――。もし本当にカッコイイことをしたい、言いたいなら、よく勉強して、自分の頭で考えなければなりません。自己主張こそ、どこまでもいつまでも奥が深いのです。

私見―「自己の名において」

以上、Adoの『うっせぇわ』の歌詞を「世代間対立」「ポップミュージック業界」「音楽性」という3つの視点から読み解いてきましたが、いかがだったでしょうか? 最後には、私のより個人的な見方を述べて結ぼうと思います。

『うっせぇわ』に対する私の見解は、一言で言うなら「歌詞には限界があり、言論として不十分さはあるが、社会にこういう試みが現れたのは歓迎する」です。

不十分というのは、まずは内容面に関して「一人で愚痴をつぶやくにとどまっている」ことで、こちらは上記ですでに指摘しましたが、実はもう一点大事な視点があります。「表現者としての責任」です。

『うっせぇわ』の制作体制は「syudouが制作した楽曲でAdoが技術専門職としてボーカルパートを担当した」という図式ですが、二人とも匿名的で実体がないのは同曲最大の難点だと思います。すべて表現・言論は、自己の名において行うものだからです。

まずAdoの人物に関してですが、年齢だけはYouTubeチャンネルなどに記載されているものの、ユニバーサルミュージックのAdo公式ホームページは「その正体はベールに包まれている」と言い切り(2021年6月12日現在)、その他素性については一切明かしていません。歌手としては異例なことに顔も一切出しておらず、インタビューなどへの露出も少ない。社会通念に照らして実体がなさすぎるのです。

『うっせぇわ』の楽曲単体をとっても、社会でこれだけ反響を呼んだにもかかわらず、歌詞に対する責任の行方は宙ぶらりんと言わざるを得ません。世の中で『うっせぇわ』は「Adoの曲」ということになっていますが、歌詞を書いたのは彼女ではないので、文責は彼女にない。歌詞について質問したい、インタビューしたいなどと希望があっても、Adoに聞いたところでらちが明かないのです。

ならば作詞者であるsyudouはというと、こちらも公式ホームページには「2012年からインターネット上で活動を始める」以外に素性が分かる記載をしていません(2021年6月12日現在)。よく探せば自身のYouTube動画で音楽歴などの自己紹介を話しているのですが、ネット上では依然「20代の男性だといわれているが正体は謎」などと言われていることからも認知度は低く、何者かが分からない度合いは非常に高いといえるでしょう。

表現・言論に伴う責任は、言い換えれば、「作品の信用」にかかわる問題です。誰が言ったのか分からないことや、言いっぱなしでドロンする人なんて信用できませんよね? ペンネームを使う、顔を出す出さないは自由ですが、どう活動するにせよ実体はなくてはならないのです。もし世から隠れるような態度でネット投稿するなら、社会的信用やインパクト、重みはそれ相応に低くならざるを得ません。これは「歌い手」や「ボカロP」全般にいえる課題であり、同じポップカルチャー分野でも、いまや世界中で評価されているマンガ家などとは大きな落差ができています。

もし読者が『うっせぇわ』をニセモノっぽいなどと感じたなら、その不満や空虚さは、制作者であるAdoとsyudouの「実体のなさ」から湧き上がってはいないでしょうか。表現者としての責任を今後背負っていけるのか、『うっせぇわ』という作品やその社会的意味合いを踏まえたうえで継続的な表現活動を行っていけるのか、ビジョンはあるのか――そういった表現・言論としての質や重みを測るのに重要なバロメーターは、syudou、Adoともに現時点では低いと言わざるを得ません。ここまで実体がないとなれば、読者が「攻撃的な歌詞で話題をさらったのも、結局は一時のエンタメだったのか……」と勘繰ったとしても理由はあると思います。

社会で反響を呼んだものの、エンタメという枠を打ち破る域までは成熟していなかったため、人々から重く受け止められたのかといえばそうではなかった――『うっせぇわ』のヒットを、私はそのように見ています。

このように不十分さは感じるものの、私はだからダメとは考えていません。たとえ粗削りでも、人々の生きにくさや様々な苦しみを生んでいる社会の在り方を問う試みがぽつぽつ現れ続けていることには大きな意味があるからです。

真に社会を動かせる完全な表現・言論は、学問水準の強靭な知、そして問題となっている上の世代および歴史への徹底分析を土台に、自己の名において表現したときに生まれるでしょう。いつかそれが出てくるのを待っている、いまはそんな時なのかもしれません。

新しい音楽制作の芽

以上の通り、私は『うっせぇわ』は歌詞の意味内容においては不十分さがあると考えますが、別の側面においては見どころを見出しています。音楽制作・発表の新しい形、という側面です。

私は以前からアート・表現物をどのように発信するかという「方法論」に関心を寄せており、第三次産業革命・インターネットを有効活用すべしと訴えてきました。そこをいくと、ポップミュージック界にインターネットを活用して個人で発信を始め、やがて広く世に出てくる一団が現れたことは高く評価できると思います。

先に指摘した通り、従来のミュージシャンには、音楽関連会社という官僚制組織のなかで芽を出すしか世に出ていく選択肢がありませんでした。こうした環境が作品の無難志向につながり、ポップミュージックにおもしろみがない、世界を変えるような画期的な曲が生まれない原因になってきた。

それがいま、インターネットの活用によって、音楽を発信する従来の方法には風穴が開けられました。「ボカロP」のsyudouと「歌い手」のAdoによる『うっせぇわ』は、従来型で制作された曲を含むヒットチャートで第1位に輝いた。これはポップミュージック界にとどまらず、他のアート分野にとってもよい風向きだと思います。

新しい大地で、芽は出てきている。あとは、新しい自由を存分に生かし、より自由で成熟した表現ができるアーティストが出てくるのを待っている。いまはそんな時なのではないでしょうか。

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