Ado『うっせぇわ』の歌詞の意味を3つの視点から読み解く

2021年の音楽シーンを席巻しているAdoの『うっせぇわ』。その攻撃的な歌詞が各分野で話題になっているので、今回はその意味や音楽としての構成、ヒットの背景などについて解説し、最後に私見を述べたいと思います。

目次

Adoの『うっせぇわ』とは?

Ado(アド)は、2002年生まれの女性シンガーです。ニコニコ動画などに”歌い手(=既成楽曲をカバーする「歌ってみた」動画を投稿する人)”としてボーカロイド楽曲を中心に投稿を続け、高校生3年生だった2020年10月23日に『うっせぇわ』でメジャーデビューしました。YouTubeのチャンネル登録者数は251万人(2021年11月27日現在)。

『うっせぇわ』を作詞・作曲したのはAdoではなく、主に”ボカロP(=ボーカロイドで楽曲を制作しネットに投稿するミュージシャン)”として活動しているsyudouです。20代の男性で、「音楽ナタリー」でのインタビューでは「大学を卒業して就職して(中略)去年ようやく会社を辞め」たと話しています。

同曲は2020年10月23日にリリースされて以来徐々に話題となり、2021年2月3日発表の「オリコン週間デジタルシングル(単曲)ランキング」および「オリコン週間ストリーミングランキング」では同時に1位を獲得。YouTubeでの動画再生数は1億8000万回を超えていて(2021年11月27日現在)、カバーや替え歌なども多数投稿されました。

動画は以下になります。

『うっせぇわ』の歌詞の意味を3つの視点から読み解く

以上、賛否両論の話題曲はいかがだったでしょうか?

楽曲作品なので感じ方や解釈はいろいろでしょうが、以下では『うっせぇわ』歌詞の意味を「世代間対立」「ポップミュージック業界の問題点」「楽曲の音楽性」という3つの視点から読み解いていこうと思います。全文読めるリンクを以下に貼っておくので、適宜参照してください。

リンク:『うっせぇわ』 – 歌ネット(新しいタブで開きます)

1:世代間対立―若い人は勝てないようにできている

最初の視点は、「世代間対立」です。いま、日本社会では若い世代が上の世代に不平不満を募らせている社会状況がありますが、『うっせぇわ』の歌詞にその様子が描かれているのは言うまでもないでしょう。

1番冒頭から描かれる、「何か足りない」とくすぶる会社員の日常生活。「あてもなくただ混乱するエイデイ」の「エイデイ」は辞書的には意味のとれない言葉ですが、その文脈から英語の”every day”をくずした発音だと考えられます(”Check it out!”を「チェケラ」、”Hands up!”を「ヘンザ」とカタカナで記載するのと同じ原理)。

そしてサビでリピートされるのは、タイトルでもある「うっせぇわ」。会社員、とりわけ後述するように若い世代の不満や怒りがぶつけられていきます。

古臭い職場や上司への怒り爆発!

歌詞の攻撃性が本格化するのは、じつは2番に入ってからです。

1番で示された世界設定を踏まえ、殴るなど暴行に出るのは性に合わない、としてから「言葉の銃口を/その頭に突きつけて撃てば」と言葉によって攻撃する姿勢を先鋭化。1番から感じられた不満や怒りについても「不平不満垂れて」と明言されます。そしてサビ前で、

クソだりぃな

酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい

皆がつまみ易いように串外しなさい

会計や注文は先陣を切る

不文律最低限のマナーです

と、日本の古い企業文化を具体的に描写しています。ここで描かれる「会社の飲み会」風景には昭和世代の上司がいる様子なので、作中主人公はおそらくはあまり歳ではない、若手なのだろうと思われます。

冒頭のフレーズ、

正しいとは 愚かさとは

それが何か見せつけてやる

は日本の社会状況、とくに若い世代の心境をよく反映していると思います。

無給で拘束される「会社の飲み会」をはじめ、明らかに合理的でない物事はまだまだまかり通っている。正しいことを指摘したところで若い人は聞く耳を持ってもらえず、若いというだけで間違っていることにされてしまう。「無理が通れば道理が引っ込む」状況が社会に点在するなか、それに不満をためている若い世代を代弁したといえるのではないでしょうか。

表面的な攻撃性とは裏腹な、歌詞世界のもろさと限界

このように、『うっせぇわ』は日本の職場をめぐる社会問題の具体的な描写を含んだ攻撃的な歌詞で反響を呼びましたが、よくよく読んでみれば、その表面的な先鋭さとは裏腹なせせこましさも見えてきます。

まず1番サビ「頭の出来が違うので問題はナシ」とありますが、なぜ「頭の出来が違う」と「問題はナシ」になるのか、その理由が示されていません。作中主人公の「頭の出来が違う」ことですでに述べてきた数々の問題が消えるわけではないので、この点は因果関係が不明なままとなっています。

皮肉ながら、この「問題はナシ」の箇所ではもっと問題を指摘できます。歌詞冒頭からこれだけ問題提起を重ね、2番サビでは「現代の代弁者」だと宣言しておきながら「問題はナシ」、曲の結びで「どうだっていいぜ問題はナシ」では、論としては意味が通っていません。

意外なもろさは、作中ストーリーの展開にも見られます。古めかしい飲み会をやっている会社や上司、「丸々と肉付いたその顔面」と指さしている不満の相手に対して主人公がアクションを起こしてどうなった、というストーリー展開がないのです。

以上を踏まえてあえて咀嚼しようとするなら、『うっせぇわ』の歌詞は、誰に訴えるでもなくひとりでつぶやいている愚痴なのだという結論にならざるを得ないでしょう。

もちろん、どんな作品でも「カバーする内容はここからここまで」と線引きはされているので、だから直ちにダメということではないのですが、ひとりで愚痴をこぼすにとどまっていることは『うっせぇわ』歌詞の意味内容の限界だと思います。

考えようによっては、不満をためている若い世代がどうあがいても勝てないことを悟っている、その無力感が根底に横たわっているようにとらえられるかもしれません。

世代間対立の現状と、それを生んだ歴史的背景

日本で深刻な社会問題となっている世代間対立。『うっせぇわ』の歌詞が生まれた背景を理解するため、世代間でいま何が起きているのかにざっと触れておこうと思います。

若い世代の不満と怒り

まず若い世代はといえば、

  • 雇用情勢・労働環境が恵まれない。
  • 仕事で何か問題が起こると、結局は上の世代の人が職場に残って、若いほうが退職に追い込まれる。結果として使い捨てにされる。
  • 仕事がない。
  • がんばっても報われない。
  • 将来に希望を持てない。
  • 明らかに合理的でないことを上司、親など上の世代から強いられる。時代遅れで今の現実に合わない生き方を押し付けられる。
  • 自分の人生を応援してもらっていない。

……自分がまさにそれだとうなずいた読者は大勢いるでしょうし、たとえそうでなくても、社会のこんな風潮はどの世代であれ肌で感じとっているのではないでしょうか?

しかも、上記のような不満はたいがい聞き入れられません。若い人が押し黙って終わりがち。上から抑え込まれて口を開けなかったり、漠然とつらいのに、自分を鬱屈させているものが何なのかを特定できず、ただうつむいているような人も少なくありません。

私の周囲にも、こうした不満をこぼしている同世代はたくさんいます。たとえば私より一歳下の知人は、大学院を出た晴れの入社式で「若い人に期待している」と言われたのに、数年後プロジェクトで問題が起こった時には上司ではなく自分の責任みたいな雰囲気になって退職せざるを得なくなった、「期待」というのは「若い人の失敗は許さない、切り捨てる」という意味だったんだ、とSNSで怒りをぶちまけていました。また別の知人は、「10歳年上の人たちになると、仕事にすべてを捧げるのが当然という感じで話がまったく通じない」と、当惑まじりの表情でぼやいていた。……挙げ始めたらキリがないのでこのくらいにしておきますが、若い世代のこうした不満はいま、足元にいくらでも転がっているんですよね。

もっとも、日本企業の体質については80年代の時点ですでに疑問視・問題視する見方が現れていました。今日では「こんなことをしていたら経営は続かない」と働き方改革に真剣に取り組む経営者や、一念発起して新しい働き方に挑戦する人などが続々出てきています。『うっせぇわ』の歌詞に対しても、ネットでは「空いたグラスに酒をすぐ注がなければならないなんていうことはさすがにもう行われていない」等、イメージが古いのではないかと指摘する声を見かけました。

ただそれでも、依然、若い人が不遇に追い込まれ、どんどん希望を失っていく社会状況があるのは現実です。「この社会には若い人には居場所がない」「若い人は絶対勝てないようにできている」――そのような声は市井でもよく聞かれます。若い世代にとって、社会の在り方がリスクとして自分の人生にのしかかっているのです。

高齢世代の敵意と言い分

ところが、だったら上の世代は意気揚々と利益をむさぼっているのかといえば、そうではなく、全然別のことを考えているんですよね。鼻息荒くこんな怒りをぶつける高齢世代はあちらにもこちらにも。

「自分のパイを取られる」とばかりに若い世代へ敵対心をむき出しにする高齢世代。世代間の闘争が――誰かが「漁夫の利」をとってもおかしくないせせこましい闘争が――延々と続いているのが現状です。

社会問題と共依存に陥り、脱却できない日本の現状と『うっせぇわ』

では、なぜこのような悲しい世代間対立が生じてしまったのでしょうか?

その原因はここだけで論じきれるテーマではないので深入りはしませんが、直接には、戦後の企業を中心とした国家・社会モデル、および、当時のプロパガンダがテレビなどを通して日本人に深く浸透したことが大部分を占めています。企業は過労死を生むなど後先考えない経営を平然と行い、“サラリーマン”という和製英語が象徴する世界的に特殊な企業文化が深く根を張りました。また、そうした企業中心社会に将来世代(=現在の高齢世代)を動員するため、プロパガンダはスポ根アニメやマイホーム神話など変幻自在な形をとって四方八方に張りめぐらされ、教育は思考力が身に付かない暗記に偏重します。こうして日本社会では精神的にアンバランスな人間が「大量生産」される結果となり、やがてはアンバランスな人間に育てられた世代が出現します。問題が、世代から世代へ連鎖して現在に至っているのです。

高度成長時代に隆盛を極めた企業群は、バブル崩壊を起点に年々崩れています。しかし日本社会、また総体としての日本人がその時代から脱却できたかといえば、そうではありません。いやだいやだと言いながらも振り切ることができず、共依存に陥っているのが現状といえるでしょう。

企業を中心とした国家・社会と共依存に陥っているのは、まさにその社会に不満をかかえている若い世代も例外ではありません。「不満だからどうすればいいか」という問いへの答えを出すことができないでいるうちに「終身雇用がいい」とか「社会とはこういうものなんだ」などと言い出したり、せっかく選挙権というプラチナチケットを持っているのに投票へ行かなかったりと(20代の投票率が20%台という異常が日常化している)、自らを苦しめているはずの「昭和」にズルズルからめとられてしまうのです。

不平不満は爆発寸前にもかかわらず、上の世代から連鎖してきた社会問題から脱却することができないのは『うっせぇわ』も共通で、それもまた21世紀前半現在の日本社会を反映していると思います。

2:閉塞してつまらないポップミュージック

と、以上見てきたように『うっせぇわ』の主な内容は「会社や上司への愚痴」なのですが、扱われているテーマは他にもあります。その歌詞ではポップミュージックに対する不満もリピートされているので、ここからはその視点から読んでいこうと思います。

ポップミュージックへの不満感は、1番サビの

一切合切凡庸な

あなたじゃ分からないかもね

嗚呼よく似合う

その可もなく不可もないメロディー

に始まります。「二番煎じ言い換えのパロディ」「嗚呼つまらねぇ/何回聞かせるんだそのメモリー」というフレーズも、音楽業界への批判めいた意味にとらえることができるでしょう。

ヒットのためには「可もなく不可もない」無難志向

無難に気持ちいい曲が量産される、とりわけラブソングの割合が高すぎるというのは、長年日本のポップミュージックシーンで問題視されてきました。

「もっとトガった曲を聴きたい」という需要はみられるのですが、ポップミュージックの地盤は商業です。数を売らなければならないので、好き嫌いが分かれる歌ではなく、誰が聞いても当たり障りない曲が求められる。そういう「可もなく不可もない」曲が、実際にヒットもする。ミュージシャンが檜舞台に上がるには、無難でなければならないのです。

しかも、レコード会社は官僚制組織です。なので、音楽関連の書籍などでは、仮に斬新なアイデアが転がっていたとしても上層部まではなかなか上がらず、採用に至らないという声も聞きます。組織に縛られ、閉塞感があるのです。

私には以前、街角でヒット曲が「希望はある」と絶唱しているのが耳に入ってきて、希望がわいてくるどころかかえって凍りついた、ということがありました。なんてからっぽな言葉なんだろう、と。読者にも似たような経験があるかもしれません。

「可もなく不可もないメロディー」と奇抜志向は表裏一体

こうしたポップミュージック界の無難志向ですが、私は個人的に、その反動も同じくらい問題だと考えています。「無難」を否定するといきなり「奇抜」まで針が振れる、ということです。

最近は奇抜なものが個性や才能のように言われることはたびたびありますが、じつのところ、奇抜は「無個性」の一種なんですよね。出てきた時にはワッと人目を引くけれど、新鮮さはすぐに色あせます。大衆にあきられ、忘れられ、別の奇抜なものに取って代わられ……このスパイラルが延々と。奇抜なものの価値は奇抜さにあるのだから、奇抜ならなんだっていいわけで、つまり代わりはいくらでもあるのです。

無難志向と奇抜志向で閉塞した音楽シーン。つまらなく感じるとしたら、理由はあると思います。

3:歌詞だけでなく音楽性も読むべき理由

以上、「世代間対立」と「ポップミュージック界の閉塞感」という2つの視点から見てきましたが、3番目の視点ではメロディーやリズムなど音楽としての側面に注目します。歌詞が大きな反響を呼んだ『うっせぇわ』ですが、私はヒットの要因として音楽性は見逃してはならないと考えています。

なぜなら、歌というのは言葉と音楽そろって初めて成り立つもの。音楽性によって、インパクトの大小はがらりと変わります。ダジャレ程度のことしか書いてないのに、口ずさみやすいメロディー、記憶に残りやすいキメポーズがあるというだけで大ヒット、猫も杓子も歌ってる……なんていうこと、音楽の世界ではよくありますよね?

以下では、同曲の音楽性について注目すべき点を指摘したいと思います。

1オクターブの行き来3連続は異例!

サビ冒頭、曲のタイトルでもある「うっせぇうっせぇうっせぇわ」の箇所ですが、ここで「うっ」と「せぇ」の間の音程に注目してみてください。

「うっ」と「せぇ」の間の音程は1オクターブ差。つまり「ド」から「高いド」の距離で、これは作曲における音程移動の最長距離にあたります。

音符から次の音符での跳ね上がりでは、距離が離れているほどインパクトは大きくなります。壮大なバラードなんかでは音程が「ド」から「ラ」の距離で跳ね上がることがあり、これを聞くとドラマチックさや気持ちの高まりが感じられて胸にじーんときたりします。たとえば『北の国から』の最初の2音がそうですので、ちょっと思い出してみてください。それが1オクターブ、「ド」から「高いド」の距離となれば、インパクトはマックスとなります。

しかもこの1オクターブ差の音程は、「うっせぇうっせぇうっせぇわ」と3回連続で行き来するんですよ。1オクターブ跳ぶのが単発だったら、他の曲でもみられます。たとえば映画『タイタニック』の主題歌『My Heart Will Go On』のサビは、3音目から4音目が1オクターブ跳ね上がるドラマチックなメロディーになっています。しかし、何度も行ったり来たりするわけではありません。その1オクターブ差が3連続、しかもこの速いテンポでリピートされる『うっせぇわ』は、音楽としては異例な構成と言っていいと思います。

音楽としてよく練られているのは、サビ冒頭だけではありません。サビの最後「問題はナシ」「顔面にバツ」の箇所は歌詞の意味内容でしばしば注目されていますが、「問題は」「顔面に」で裏拍が続いていたのが「ナシ」「バツ」で表拍に戻り、次の1拍がキメとしてパーカッションがパーンと入る結び方は、聞いて気持ちいいようよく考えられています。リズム打ちをするとよく分かりますので、読者のみなさんもよかったらじっくりやってみてください。

『うっせぇわ』は歌詞の意味内容で反響を呼んだといいますが、私は周到に練られたメロディーはヒットの要因のかなりを占めていると考えています。

小学生にうける理由もメロディーにあり

職場の愚痴であるはずの『うっせぇわ』を小学生が嬉々として歌っているので首をかしげる人がいるようですが、私はこちらも歌詞の意味内容ではなく、メロディーによるところが大きいと思います。1オクターブ差を3連続はメロディーとして極端なので、「壊れた雰囲気」のようなものが醸し出されているのです。おもしろおかしいように感じる人もいるでしょう。小学生のおふざけに向いているのではないでしょうか。

異例のメロディーを生んだ”ボカロP”とは?

1オクターブ3連続という異例のメロディーが今のタイミングで出てきたのは、偶然でも、はたまたポップミュージック界の奇抜志向のせいでもありません。作曲を担当したsyudouは、”ボカロP”としてキャリアをスタートした作曲家です。極端なメロディーが生まれた背景には、「ボカロ」という現代の新しいテクノロジーがあるのです。

ボカロは、好きな人にとってはもはや日常の一部のようですが、価値観が多様化した現代社会、なじみがない人もそれはそれで多いと思うので一から確認しておきましょう。

まず、「ボカロ」とは「ボーカロイド」の略で、ヤマハが開発・商標登録した音声合成ソフトのことをいいます。たとえば「『ありがとう』の発音を『ドレーミレドーーーー』で」などと、パソコンソフトでヒトの音声を合成し、鳴らしてくれるのです。

こうしたボーカロイドの運命を一変させたのは、その売り出し戦略でした。それだけで売り出せば音楽制作者しか目もくれなかったであろう技術に「初音ミク」といったアニメ絵のキャラクターを付加し、「初音ミクちゃんがあなたの思い通りに歌ってくれます」という「ストーリー性」を打ち出したことで、一般消費者の間で爆発的ヒットとなったのです。

本来は縁もゆかりもなかった「音声合成技術」と「アニメ絵」がドッキングされた結果、そのキャラを好むファン層が、聞く人、また作る人となってネットを中心にコミュニティを形成し、独特なボカロ文化が醸成されていきました。このボーカロイドで楽曲を制作し、ネットに投稿する人が「ボカロP」です。「P」は「プロデューサー」の意味で、アイドル歌手をプロデュースしているような気分になることからその呼び名がついたといわれています。今日では、NHKの東京2020応援ソング『パプリカ』で有名な米津玄師をはじめ、ボカロPとしてファンコミュニティで人気を博したのをきっかけにデビューするプロミュージシャンが出てきています。

このようにボーカロイドが登場し、また広く普及したことは、作曲の世界に新しい発想をもたらしました。パソコンに向かって音楽を作ってきたボカロP出身者には、「歌声を機械で鳴らすことが前提」という、これまでにはなかった感覚や発想法があるのです。

初音ミクのラベルをはがして技術そのものに立ち返れば、ボーカロイドは音楽にとって興味深い技術です。機械なら、人間の歌手と違って音程やリズムを少しもはずすことなく、楽譜通りに完璧に歌えます。しかもただ「機械のように正確」なだけではありません。人間だったら高すぎて出ない音や、速すぎて口がまわらないメロディーでも機械なら難なく「歌える」ため、これまでにはなかった新しい歌入り音楽の可能性が開けたのです。実際、人気のボカロ楽曲では、人間には無理な高低差の節回しや、聞いて不自然に感じるようなメロディーがよく出てきます。

ボーカロイドという新技術によって、人間の歌手前提ではありえなかった音楽がすでに出現していた――『うっせぇわ』の1オクターブの行き来3連続という異例のメロディーが、そのような技術的・環境的背景を背に誕生したのはまちがいありません。

参考:ゼロからわかる!初音ミク・ボカロPとは&音楽制作の行方

ボーカリスト・Adoの歌唱力

歌詞や作曲によるインパクトは上記の通りですが、『うっせぇわ』ヒットの要因としてはAdoの歌唱力も忘れてはならないでしょう。

まず声に基礎的なパワーがありますね。

しかもよく聞いてみれば、声にはいくつも表情があり、曲の中でも箇所によって使い分けられています。冒頭一番から「見せつけてやる」の「る」なんてドスがきいていますし、サビ直前の「はぁ?」はやや演歌を思わせる恨み節の節回しで、楽曲や動画の世界観とよく合っています。こうした怒りの表現もじつにそれらしく歌われています。

パワーにプラスしてテクニックもある。ヒットの理由としては、Adoの歌唱がリスナーをキャッチしたことも大きいと思います。

高校生の”歌い手”に職場の愚痴を歌われても響かない?―否定的な意見に対する微妙なお話

以上のように、音楽性や歌唱力も相まって大ヒットを記録した『うっせぇわ』。ですが、その反響では「響かない」など否定的な声もよくみられます。

なるほど、制作体制を考慮すれば、同曲をニセモノっぽく感じてしまう気持ちは分からなくもありません。『うっせぇわ』は「Adoの曲」ということになっていますが、歌詞を書いたのはsyudouという別の人であって、彼女の主張ではないからです。彼女がまだ高校生で会社での経験がないことも、「響かない」理由としてたびたび挙げられています。

ただこうした否定的な意見には、じつに微妙な点で、2点ほど指摘すべきことがあると思っています。

”歌い手”はアーティストではない―Adoへの過度な期待

まず一つ目は、かいつまんで言えば「”歌い手”に過度な期待をするから裏切られたような気分になるのでは?」ということです。

雑誌や番組、カラオケの”デンモク”。世の中では、ネット上の”歌い手”を含め、歌を歌う人はみな一緒くたに「アーティスト」と呼ばれていますね。

しかし、この定義はかなり便宜的であって、疑問の余地があります。なぜなら、集団制作においてボーカルパートのみ担当したボーカリストは「技術専門職」の立場でしかないからです。ボーカリストの役割は、作詞者、企画者、ディレクター、プロデューサーといった「制作を指揮する人」の求めに応じて、指示通りに歌唱技術を提供すること。一見ステージ上をかけまわり開放的に自己表現しているかのようですが、ボーカリストは自己主張をしないしできない、地味な立場であるのが現実です。

ではAdoをはじめとするネットの”歌い手”はどうかというと、彼らがするのは既成楽曲のコピーなのだから、定義からして「技術職としてのボーカリスト」ということになります。つまり、彼らは最初から、自分の意見を音楽にのせて発信したり、思いをぶつけたりするはずがないのです。

こうした”歌い手”は「アーティスト」だといえるのでしょうか? その答えは「アート」の定義によって変わってくるのですが、もし「自分の主張をすること」を重視するなら、”歌い手”は「技術者」であって、「アーティスト」ではないことになります。

ポップミュージックのリスナーには、かたや「アイドルといっしょにされたくない」と主体性や芸術性を強調したがる気風、かたやロックの「自己主張してなんぼ」という気風があります。アーティストであってほしい、という願望があるのです。だから「技術者としてのボーカリスト」という存在に強い抵抗を感じる気持ちは理解できなくはありません。

ただ、ボーカリストが技術者の立場にとどまる集団制作体制は、音楽ではごく普通にあることです。たとえば先ほどメロディーの例で取り上げた『My Heart Will Go On』もそうです。この曲を歌ったセリーヌ・ディオンは世界的ディーヴァですが、作詞作曲はしていません。彼女は圧倒的な声量や歌唱力を披露することで歌姫になっている人です。もし読者がそれに不満や抵抗を感じるとしたら、それは自己主張するか否かを良し悪しの価値基準にしたからでしょう。個人的な好き嫌いは別として、歌唱技術で魅せるタイプのボーカリストもミュージシャンの一形態ではあるのです。

こうした技術職としてのボーカリストは、ボーカル技術を提供できてさえいれば評価されます。よって、私生活での経歴や社会的立場は問題となりません。言い換えれば、黒子として優れていればそれでいいのです。

したがって、もしAdoと楽曲の組み合わせについて否定的に言えることがあるとしたら、それは「内容に対してキャスティングがいまひとつ」といった見方であって、身につけたボーカル技術を提供した以上、Adoは技術者として仕事をこなしたのだから、高校生という社会的立場を理由に否定的評価を受けるいわれはありません。じつに微妙な点ですが、前者と後者には大きな違いがあります。

もしあなたが『うっせぇわ』からニセモノっぽさをかぎとって不満だったり、歌詞をからっぽな言葉のように感じているなら、その気持ちの源泉は、歌の内容がAdoの主張でないということとは別のところにあるのでは? それについては本稿最後に述べようと思います。

「自分の体験を歌わなければ響かない」という感覚にひそむ古臭さ

ここでまた微妙に視点をずらしてみましょう。

上記と関連して、まだ高校生であるAdoは「酒が空いたグラスあれば直ぐに注」ぐとか「皆がつまみ易いように串外」すなどを自分がしたわけではないのだから、歌詞の意味を分からないまま歌っている状態であり、だからリアルでない、という不満の声も聞かれます。

しかし繰り返しになりますが、音楽の世界でボーカリストが自分の体験していないことを歌うのは普通です。非難されるようなことではありません。

その最たる例は、クラシックの声楽家です。彼らは作詞も作曲もしていないでしょう? オペラ歌手は何百年も前の作家が書いた古代の王様の苦悩などをよく歌いますが、彼ら自身は現代人であって、古代の社会環境を生きたことはなく、王様だったこともなく、王様ならではの苦悩に頭を抱えた経験もありません。そのことを指さして20年も技術を磨いてきたオペラ歌手に対し「王様ではないのに王様の苦悩を歌われても響かない。意味を分からないで歌ってるからだ」などと誰が批判するでしょうか? このように、自分に経験がないことでも、歌詞の意味をくみ取って歌えば感情は十分に表現できるのです。

「戦前の根暗な文豪」―独特な私小説の感覚

では、なぜ「実体験を歌う」信仰が生じているのか。

『うっせぇわ』の件に限りませんが、日本のポップミュージックでは「自分の体験や感情をそのまま歌詞にする」ことがカッコイイとか、芸術的であるかのように言われているところをしばしば見かけます。新曲や新アルバムで

  • (誰それ)との失恋を赤裸々に歌った
  • 自分のコンプレックスをこれでもかとさらけ出した一曲

などといったキャッチコピーやレビューを見たことはありませんか?

たいそうカッコイイつもりらしいですが、私はこういう言説が目に入ってくるたびに音楽シーンから顔をそむけます。

なぜかというと、「自分の体験や感情をそのまま歌詞にする」のを「深い自己表現」だととらえる感覚の由来をたどっていけば、自分の身に起こった出来事をブツブツつぶやく古臭い「私小説」に行き着くから。日本独特な私小説は、戦前にワッともてはやされた時期がありましたが、それ以外の時代や地域では浅くてチープな表現だとあきれられることが多いです。自分の体験を咀嚼して作品という形に昇華するに至っていない、と。

「誰それとの失恋を赤裸々に歌う」とか「コンプレックスをこれでもかとさらけ出す」のは作詞者の自由です。書きたい通りに書けばいい。アートとはそういうものです。そういう曲を好んで聞くのもリスナーの自由です。ただ、もしそれを「カッコイイ」とか「深い自己表現」とか「ロック」だと思っているなら、その認識はお門違いだとは指摘しておきたいと思います。

「洗濯板での洗濯を強いる姑」―虐げられて屈折した心

「戦前の根暗な文豪」だけではありません。

Adoが高校生であることを理由に「響かない」などとする意見では、「ブラック企業での怨嗟を歌うならブラック企業での経験があるべきだ、そうでなければ説得力がない」「誰もが一度はブラック企業を経験すべきだ、そうでなければ説得力がない」といった意識がしばしばみられるんですけど、その発想の古くてさもしいこと、もはや「洗濯板での洗濯を強いる姑」並み……。

古き時代に実在した「洗濯板での洗濯を強いる姑」というのは、本質的には虐げられてボロボロな人でした。抑圧されすぎて心が屈折したから、ターゲットを見繕ってはうさ晴らしをする哀れな人間になってしまったのです。そこをいくと、職場の愚痴を歌った高校生ボーカリストをネットでなじっている人は、あるいは、ひどい会社で人権を侵害され、ボロボロになった哀れな人なのかもしれません。

本当にカッコイイことをしたいなら

新しいことをしたつもり、カッコイイことを言ったつもりの人が、本質的には古臭かった。現代的なのは表面の薄皮一枚だけだった。これは世によくある挫折パターンなんですよね。

ロックなつもりか、Adoが高校生の”歌い手”だから「響かない」と意見している人々。その大部分は、私には「戦前の根暗な文豪」や「洗濯板での洗濯を強いる姑」的な意識が深いところに残っていると見えました。

ポップミュージック界でカッコイイと言われていることが古臭くてかっこ悪い――。もし本当にカッコイイことをしたい、言いたいなら、よく勉強して、自分の頭で考えなければなりません。自己主張こそ、いつまでもどこまでも奥が深いのです。

私見―「自己の名において」

以上、Adoの『うっせぇわ』の歌詞を「世代間対立」「ポップミュージック業界」「音楽性」という3つの視点から読み解いてきましたが、いかがだったでしょうか?

最後には、私のより個人的な見方を述べて結ぼうと思います。

表現に伴う責任と作品の信用度

『うっせぇわ』に対する私の見解は、一言で言うなら「歌詞には限界があり、言論として不十分さはあるが、社会にこういう試みが現れたのは歓迎する」です。

不十分というのは、まずは内容面に関して「一人で愚痴をつぶやくにとどまっている」ことで、こちらはすでに指摘しましたが、実はもう一点大事な視点があります。それは「表現者としての責任」です。

『うっせぇわ』の制作体制は「syudouが制作した楽曲でAdoが技術専門職としてボーカルパートを担当した」という図式ですが、二人とも匿名的で実体に欠けるのは同曲最大の難点だと思います。すべて表現・言論は、自己の名において行うものだからです。

まずAdoに関してですが、年齢だけはYouTubeチャンネルなどに記載されているものの、ユニバーサルミュージックの公式ホームページは「その正体はベールに包まれている」と言い切り(2021年11月27日現在)、その他素性については一切明かしていません。歌手としては異例なことに顔も一切出しておらず、インタビュー等への露出も多いとは言えません。社会通念に照らして実体がなさすぎるのです。

『うっせぇわ』の楽曲単体をとっても、社会でこれだけ反響を呼んだにもかかわらず、文責は宙ぶらりんだと言わざるを得ません。世の中では「Adoの曲」ということになっていますが、歌詞を書いたのは別の人なので、文責は彼女にない。だから内容や創作意図などについて質問したい、インタビューしたいなどと希望しても、彼女に聞いたところでらちが明かないのです。

一方、その文責を担うsyudouの活動様態は変化しつつあります。音楽シーンで脚光を浴び始めた当初は、何者なのかを探る手掛かりは「2012年からインターネット上で活動を始める」という公式ホームページの素性に満たない記載のみ。そのため「正体は謎」などといわれていました。ただその後、2021年に自身がシンガーソングライターとしてデビューすると、それに伴って作品数は増加しました。テレビ番組への出演やインタビューも重なってきています。表現活動の基盤は徐々に固まってきた印象です。

ただ、シンガーソングライターとなってからも、syudouは一般的なシンガーソングライターとは違って顔は出していません。表現物の絶対量が増えたといえ、素性を隠したがるボカロPのカルチャーはそのまま踏襲しているといえるでしょう。

表現・言論に伴う責任は、「作品の信用」にかかわる問題です。誰が言ったのか分からないことや、言いっぱなしでドロンする人なんて信用できませんよね? 本名ではなくペンネームを使うとか、顔を出す出さないはアーティストの自由ですが、どう活動するにせよ、実体はなくてはならないのです。もし世から隠れるような態度でネット投稿するなら、社会的信用やインパクト、重みはそれ相応に低くならざるを得ません。これは”歌い手”やボカロP全般にいえる課題であり、同じポップカルチャー分野でも、世界中で評価されているマンガ家との間には大きな落差ができています。

心に響かなかったとしたらこのせいでは?

なので、もし読者が『うっせぇわ』をニセモノっぽいなどと感じていたなら、その不満や空虚さは、制作者であるAdoとsyudouの「実体のなさ」から湧き上がってはいないでしょうか?

ボカロの世界らしい実体のなさがつきまとえば、たとえ会社の飲み会や世代間対立といった社会問題に切り込んでも、「現代の代弁者」だと高らかに歌っても、社会で大きな反響を呼ぼうとも、言論としての信用度は上がりません。もしあなたが「攻撃的な歌詞で話題をさらったのも、結局は奇抜志向の一時のエンタメだったのか……」と勘繰っていたなら、理由はあると思います。

たとえ粗削りでも

社会で反響を呼んだものの、エンタメという枠を打ち破る域までは成熟していなかったため、人々から重く受け止められたのかといえばそうではなかった――『うっせぇわ』のヒットを、私はそのように見ています。

このように不十分さは感じるものの、私はだからダメとは考えていません。たとえ粗削りでも、人々の生きにくさや様々な苦しみを生んでいる社会の在り方を問う試みがぽつぽつ現れ続けていることには大きな意味があるからです。

真に社会を動かせる完全な表現・言論は、学問水準の強靭な知、そして問題となっている世代および歴史への徹底分析を土台に、作者/著者が自己の名において表現したときに生まれるでしょう。いつか「本物」が出てくるのを待っている、いまはそんな時なのかもしれません。

新しい音楽制作の芽

以上の通り、私は『うっせぇわ』は歌詞の意味内容においては不十分さがあると考えますが、別の側面においては見どころを見出しています。新しい形の音楽制作・発表方法で成功した、という側面です。

私は以前からアート・表現物をどのように発信するかという「方法論」に関心を寄せており、第三次産業革命・インターネットを有効活用すべしと訴えてきました。そこをいくと、ポップミュージック界にインターネットを活用して個人で発信を始め、やがて広く世に出てくる一団が現れたことは高く評価できると思います。

先に指摘した通り、従来のミュージシャンには、音楽関連会社という官僚制組織のなかで芽を出すしか世に出ていく選択肢がありませんでした。こうした環境が作品の無難志向につながり、ポップミュージックがつまらない、世界を変えるような画期的な曲が生まれない原因になってきたのです。

それがいま、インターネットの活用によって、音楽を発信する従来の方法には風穴が開けられました。ボカロPのsyudouと”歌い手”のAdoによる『うっせぇわ』は、従来型で制作された曲を含むヒットチャートで第1位に輝いた。これはポップミュージック界にとどまらず、他のアート分野にとってもよい風向きだと思います。

新しい大地で、芽は出てきている。あとは、新しい自由を存分に生かし、より成熟した表現ができるアーティストが現れるのを待っている。いまはそんな時なのではないでしょうか。

(2021年7月10日公開。同11月27日、楽曲制作者の活動様態の変化を踏まえて「表現に伴う責任と作品の信用度」の項を改訂、再編集しました。)

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