芥川賞と直木賞の違いとは?―意外な事実と社会での位置

毎年まばゆいフラッシュを浴び話題にのぼる芥川賞と直木賞。今回は、日本で指折りに栄誉ある2つの文学賞の違いをまとめ、発表を見る際の3つのポイントを紹介したいと思います。

芥川賞とは

芥川龍之介賞、通称・芥川賞とは、小説家で文藝春秋創業者である菊池寛(きくち かん、1888~1948)が、友人である芥川龍之介を記念し、1935年に制定した文学賞である。現在の主催者は、公益財団法人・日本文学振興会である。

対象作品は、

  1. 雑誌(同人雑誌を含む)に発表された
  2. 新進作家による
  3. 純文学の
  4. 中・短編作品

である。授賞は年2回で、7月中旬に上半期(前年12月~5月までに発表された作品が対象)の選考会、翌1月中旬に下半期(6月~11月発表作品)の選考会が行われ、受賞作が発表される。受賞作品は文藝春秋社の「文藝春秋」誌に全文が掲載される。

直木賞とは

直木三十五賞、通称・直木賞とは、芥川賞と同じく1935年に菊池寛が友人である直木三十五を記念して制定した文学賞である。現在の主催者も同様に、日本文学振興会となっている。

対象作品は、

  1. 新進・中堅作家による
  2. エンターテインメント作品の単行本(長編小説もしくは短編集)

である。授賞も同じく年2回、7月中旬と1月中旬に行われる。受賞作は文藝春秋社の「オール讀物」誌に一部掲載される。

共通点と違いのまとめ

以上の通り、芥川賞と直木賞は、同一人物により、セットで始められた文学賞です。それにともない、主催者や、年2回の発表時期は共通です。また、受賞作が掲載される雑誌とそれを出版している文藝春秋社、主催を引き継いだ日本文学振興会は、すべて賞をつくった本人である菊池寛が興した団体です。したがって両賞は、今日でも菊池寛という人物の影響が非常に色濃い文学賞となっています。

両者の違いとして、まずは対象となる作家が挙げられます。主催者によれば、芥川賞は「新進作家」(実務上は「無名な新人」とされている)、直木賞は「新進・中堅作家」に贈られる、とされています。

ただ、この「新人」の定義は非常にあいまいで、芥川賞が始まって間もないころからたびたび議論の的になってきました。歴代受賞者には、受賞の時点ですでに有名だった、他の文学賞を受賞していた、あるいは10年以上のキャリアを築いていたような作家も名を連ねています。

さらに、芥川賞は日本文学の最高峰とさえいわれることもある権威ある賞ですが、実際には「新人賞」であるという点は注意に値するでしょう。すでにキャリアのある作家が「新人賞」を贈られ、複雑な心境を語ったことで、賞の意義が問われたこともありました。

そして最大の違いは、芥川賞の対象作品は純文学、直木賞はエンタメ作品、という対象ジャンルの違いです。したがって、二つの賞の違いは、純文学とエンタメ作品それぞれの定義によって決まることになります。

辞書では、「純文学」は「純粋な芸術を志向する文芸作品」、「大衆文学(=エンタメ作品)」は「純文学に対して、大衆性をもつ通俗的な文学」(広辞苑)とされています。

ただ、純文学とエンタメの境界線は非常にあいまいです。さらに、これら定義と文学界の実情との間には、深い溝があることも少なくありません。これについては、別の記事でじっくり論じました。

リンク:純文学とエンタメ作品の定義と実情

もう少し加えておくなら、純文学だと文体が堅くて内容もむずかしいのか、といえば、必ずしもそうではありません。一例として、歴代受賞作をたどっていくと『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫)という作品が出てきます。実は本作、私の出身高校OBの作品だということでご縁があったのですが、決して難解だとか、意味分からんとか、そういう作風ではありません。ベストセラーとなり、映画化もされ、多くの人に親しまれました。

今日にいう「純文学」「エンタメ作品」という区分自体、成立したのは戦後のこと。それはちょうど、芥川賞・直木賞の黎明期と重なりますね。2個セットで始まった文学賞と「純文学・エンタメ作品」という区分は二人三脚で歩んできた、と言うことができるでしょう。

頭に置いておくべき3つのポイント

以上、定義とともに線引きのあいまいさなど実情の面まで確認できたところで、次には、一般読者が発表を見る時に「これは頭に置いておいたほうがいい」というポイントを3つ示していこうと思います。

読む側に立った時も、やはり意識しておくべきは絶対的権威でも何でもない文学賞のありのままの姿なんですよね。前提として、賞をつくった菊池寛が世を去った1948年以後におとずれた高度経済成長や大量消費社会、そして、今日世界を荒らしまわっているポピュリズムの波を意識しておけば、理解がよりすんなり進むのではないでしょうか。

創設者の目から見た芥川賞と直木賞

いまでは荘厳な文学賞にも、時をさかのぼれば、産声をあげた瞬間はありました。

では、両賞を創始した菊池寛とはどのような人物だったのでしょうか? プロフィールをまとめてみました。


菊池寛(きくち かん、1888~1948)は小説家。香川県出身。一高時代に、友人の芥川龍之介、久米正雄らと「新思潮」を発刊。京大英文科卒業後、時事新報社会部記者を経て小説家となる。代表作は『父帰る』『恩讐の彼方に』など。長編通俗小説で成功。1923年に雑誌「文藝春秋」を創刊。1926年、文芸家の権利擁護と相互扶助を目的として文芸家協会(現・日本文芸家協会)を設立。1935年には、作家の育成と文芸の普及を目指し、芥川賞・直木賞を設立。小説家だけでなく、戯曲家、実業家としても活躍。出版社・文藝春秋の創業者。


菊池寛その人の人生を細かく見ていくと、賞をつくった意図や文脈がくっきり浮き彫りになってきます。

まず第一に、菊池寛といえば小説家として有名ですね。代表作のひとつ『恩讐の彼方に』は、私の手元にある発声練習本にも練習素材として載っているくらいです。

ただあらためてその生涯をみていけば、浮かび上がってくるのは「実業家」として優れた人物像なんですよ。小説家と聞いて内にこもってばかりの文学青年を想像したなら、きっと意外に感じることでしょう。私がここでいう「実業家としての力」とは、主体性やアクティブさのことです。商業主義に走るとか、時の流行りにすり寄りウケそうな物語を作ってはカネをつくるのに長けているとか、そういう生臭いスキルのことではありません。

「文学の普及と作家同士の相互扶助」という目標をみずから立て、それを実現するための企画を次々立案、そして行動していく。芥川賞と直木賞の創設も、菊池寛という人にとってはその一環という位置づけだったわけです。明治期以来、最重要な地位のほとんどが極度に内向的で非行動的な人物に占められてきた日本文学界においてはめずらしい、貴重な人材だったと思います。

そして、もっとも知っておくべき事実は、菊池寛自身、芥川賞と直木賞は「半分は雑誌の宣伝のためにやっている」と明言していること。つまり、創設者自身が、同文学賞の商業性を否定しなかったわけです。

私はなにも、この事実をもって、全受賞作品に対して「どうせ商売なんだろう?」とななめに構えろと言っているのではありません。商業性があるからといって全面否定するのは極論ですし、人が社会に生き、文学作品が社会において存在する以上、きれいさっぱり完全に排さなければならないというのは机上の空論とならざるを得ないからです。何につけても、「裏事情」を指さしてしらけた態度をとっては「自分、知的だろう?」とすましている人はずいぶんいますが、それは知性ではなく、ただの屁理屈。個人的には、虚栄と愚痴と悪趣味にすぎない思っています。

私が言いたいのは、テレビの前、ソファに寝っ転がって「直木賞をとった→すごい」「芥川賞をとった→最優秀な作品なんだ」と単純明快にみなしてしまうのは……うんと遠回しに言えばピュアすぎる。はっきり言えば、信じやすくのせられやすいと言わざるを得ないということです。

近年、受賞作の発表を大々的にとりあげるテレビの前に座って、完全な受け身で「のせられる」人が出てきていることを、私は危惧しています。

大事なのは、自分の頭で考えること。これは人間の大原則なので、文学賞の発表をテレビで見るひとときにも共通です。

芥川賞・直木賞は、宇宙の開びゃくから存在していて毎年7月と1月に天から告げられるものではありません。それは菊池寛という一人の人間が始めた「企画」です。受賞作を選んでいるのは選考委員。れっきとした主体が存在しているのです。

「文学賞とはなにか」を的確に理解するには、賞をつくった人の立場に立ってみるのがいちばんの近道なのです。創設者は、どんな気持ちで、どんな時代や状況下に、どんな志を掲げ、どんな人・作品に賞を贈ろうとしたのか。なんなら、ためしに自分で新しい文学賞を考案してみる、なんていうのもいいかもしれません。

積まれた4冊の本とトロフィーのイラスト
あなたはどの本に贈る?

自己をしっかり持って、賞を評価してみる

菊池寛がそうであったように、すべて文学賞とは、ある志を持った個人や団体が、その理想にかなう作品をたたえるために始めた企画です。世界各国には、じつに様々な文学賞があります。”Award Winning Writer(訳せば「受賞歴のある作家」の意)”という表現は、著述家のプロフィールの一つの定番となっています。

しかし、文学賞を長続きさせるのはそうかんたんなことではありません。その大きな理由の一つは、文学賞は「この作品を選んだのは適切かどうか」という評価の対象であって、場合によっては批判されたり権威を失ったりするからです。作品に対しては先生のごとく評価を与える立場の文学賞ですが、社会においては評価される立場に逆転するのです。

これをイメージするには、アメリカでしばしばみられる例がよい参考になると思います。50年前、ある作品に文学賞が贈られた。その時代にはそれでよかった。しかしそれから時は過ぎ、時代は変わった。受賞作に含まれる人種差別的な表現が、今日では問題視されるようになった。そのとき、この文学賞は社会においてどのような立ち位置になるでしょうか。一般の人々やメディア、学問などから指摘や批判を受けたときに、主催者がなんのリアクションもとらずぼんやりしていれば、「この文学賞は人種差別を否定しない、支持しているのだ」ととらえられてしまうのです。主催者は、たとえば「当該表現は今日的観点からいえば人種差別的だと考えます」なり、「当該表現は作品のごく一部なので、今日においても全体としては優れた作品だと判断します」なり、「月日の経過を考慮して授賞取り消しにはしませんが、我々は今日において人種差別を支持することはありません」なり、社会に対して何らかのはっきりした姿勢を示さなければなりません。そうしたら、今度は人々がその説明を聞き、判断する番です。人々が納得してくれなかった場合、賞の権威は地に落ちます。誰にもかれにも「この賞はダメだな」と鼻で笑われ、敬意を払われなくなり、やがては文学賞自体をたたむことになるでしょう。

日本に戻れば、いわゆる大物作家が選考結果へ痛烈な批判を浴びせることは、もはやめずらしくもなんともありません。単純に「優れた作品だから賞が贈られたんだ」などということではなく、選考結果は批評されるのです。そしてこれは、なにも日本で報道陣のフラッシュが集まる二賞に限ったことではありません。文学賞と名のつくものすべてに言えることです。

ある年配ミステリー作家がぶつけた怒り

私はかつて、ある年配男性ミステリー作家が、新人賞で最終候補になった時のことを「(当時小説の書き方を習っていた)先生にも『絶対いけるだろう』と言われたのに、出版社はひょっこり若い子のほうを選びやがった」と鼻息荒く語るのを直に目撃したことがあります。彼は、もともと文学大好き青年だったけれど仕事ではずっと”サラリーマン”をしてきて、定年後に一念発起してペンをとった、という経歴の人でした。

日本社会で深刻化している世代間対立。年配者と若い世代が少ないパイの取り合いをするかのような構図や心理は、文学に限らず、雇用や経済力など、現在日本社会の津々浦々にみられる悲しい現象です。

ただ残念ながら、その年配男性ミステリー作家には、若い受賞者に抱いた怒りや嫉妬がどこからきたのかについてまるきり自覚がないようでした。彼のように社会的視点に至ることができない物足りなさこそ、私が「作家は文学だけでなく社会全体に目を向けるべきだ」と主張する理由になっています。

ただ、「文学賞の主催者には主催者の都合があり、選ばれるのはその時々の都合に合致した作品なのだ」という点では、この年配ミステリー作家は的を射ています。ミステリー新人賞に「若い子」を選んだ出版社にとっては、その人のほうが都合がいい何らかの事情があったのでしょう。それに、短距離走などと違って、もともと良し悪しに絶対的な基準がなく人の感性に大きく左右される文学での話です。出版社の選考委員は「若い子」の作品がとても優れていると感じたのかもしれないし、人が寄り集まって選考する以上、集団心理や同調圧力だって生じてきます。すべて文学賞とはそういうものなんだ、という事実は、出版業界に少しでもかかわったことがある人間にとっては常識です。芥川賞・直木賞にかぎらず、すべて文学賞というのは、本質的に主観的なものなのです。

だから文学賞なんてダメ、と直ちに極論に走るとしたら、それは私の意に反します。思考はていねいにすべきだということは今一度強調しておきたいと思います。

私がここで言っておきたいのは、「賞を客観視する」という主体的な姿勢は一般読者の側にもあるべきだ、ということです。

もう一度くり返しておきますが、文学賞の選考結果は、天から降ってくるものではありません。賞を始めたのが人間なら、選んでいるのも人間です。人間であれば、どんな業界にも、善人から腹黒い人までまざっている。いろいろな都合もある。失敗することもある。今回の選考結果がそのうちどれにあたるのかは、自分の頭で考えて判断するしかありません。

文学だけでなく、社会全体を視野に入れて

以上のようにれっきとした「大人の事情」もある文学賞ですが、近年で印象深いといえば、なんといっても2015年に、お笑い芸人が芥川賞を受賞したことでしょう。

テレビの報道は、いつもとは比べ物にならない過熱をみせました。そして、「すべて商品は話題になれば売れる」というのがビジネスの大原則。受賞作の単行本は、歴代一位の部数を記録しました。普段は活字になんて見向きもしない人まで、本屋のレジに足を運んだ。文学なんて興味ない、他の作家は一人も知らない、という人も世に多いなか、この芸人だけはとても広く知られている。こんなに盛り上がったことはない、こんなに売れたこともない。芸能人としての知名度がもたらした結果でした。

まばゆい表舞台とは裏腹に、失望や疑念――芸能界は裏がある特殊な世界だということを知らない人はまずいませんね――、嘆きの声もかつてなく高まりました。つまり、「受賞者にタレントを選んだ芥川賞」に厳しい評価が下されたのです。政治での「タレント議員」と同じ現象が、文学にも及んだということか。わが国の最高峰とまで称される文学賞は、ずるずると長いものに巻かれたのか。先ほどのアメリカの例よろしく、「これで終わった」と冷たい視線を向ける人もずいぶん見受けられました。

個人的な感想を述べておくなら、私は普段、他人の小説作品にはいいも悪いも、そもそも関心がありません。私はもとより文学青年タイプではないし、アートに取り組めば自分は自分、他人は他人だからです。しかし、この時ばかりは危機を感じました。芸能人が純文学の賞をとることを可能にした社会に対して、です。

私の世代は、ポピュリズムの勃興と歩を同じくして成長してきました。ケバケバしい人物への異様な熱狂、しばらくすると飽きて冷めて忘れる大衆、そして、歴代ポピュリスト政治家が社会に残していった負の遺産。政治やビジネス分野では、「タレント化した政治家・実業家」が次々と出現しました。また同時に、タレントが知名度を武器に政治やビジネスなど芸能とは別の分野へ進出して、ポピュリストとなり、大衆を煽動し、世を荒らしては去っていきました。日本に限らず、世界がそういう時代になっています。ポピュリズムの苦み、そして後遺症の痛みをこれでもかと味わっていれば、身構えずにはいられません。いてもたってもいられず、何かしなければと思わず立ち上がってしまう。私にとって、タレントが純文学の権威ある賞をとったのは、ポピュリズム時代に危機感を覚える出来事の一つでした。

その後数年の様子を見れば、2015年が芥川賞が零落するターニングポイントとなってしまったということは、今のところないといえるでしょう。その後は毎回、普通の作家に贈られています。あの異常な熱は冷め、「平常運航」に戻っています。

「2015年に権威ある純文学賞がタレントに贈られた」という出来事への評価は、2015年前後の政治・経済状況などをもふまえ、将来、歴史によって下されることになるでしょう。先に述べた通り、文学賞は無条件に永遠なのではありません。芥川賞は、日本文学において誇りある立場を引き継いでいけるのか。それともその権威をみずから失墜させ、消えていくのか。それは、今後毎年積み重ねていく選考の質にかかっています。

いわゆる「小説好き」の人を見渡すと、どうしても内向きで、社会のことには興味のないタイプが目につきます。そういうタイプが圧倒的多数、ほとんどを占めていると感じます。

しかし、いくら小説が好きだからといって小説のことしか知らないようでは、その文学への理解も浅いままになってしまいます。いい作品をつくることもできません。自分の専門分野だけにとどまらない広い視野はどんな道を選んだにしても必ず必要になってくるのだ、ということは心に刻んでおくべきでしょう。

結びに―キーワードは「主体性」

文学を含むアートは、人類だけにできる、地球で最も主体的な活動です。小説でも、絵でも歌でも、作ろうとすれば自分の頭や手足を使うことになるからです。

しかし、アートの世界ではたくさんの迷子もうろうろしています。私はかつて、ひたすら会社に従う和製英語の”サラリーマン”となんら変わらない「名ばかり作家」が社会に及ぼしてきた悪影響を指摘しました。アートをめぐる他の問題といえば、なんといってもプロパガンダ利用でしょう。戦争協力などあからさまなプロパガンダ作品はもちろんですが、陰湿なのは、大衆の頭に特定のイメージを刷り込むために――たとえば、一見不動産業とは関係なさそうなテレビドラマで「家族が一軒家で幸せに暮らしている」場面をくりかえし流すことで、人々のイメージの中で「マイホーム」と「幸せ」を結びつけ、やがては誰もかれもがマイホームを欲しがるようになったという昭和の「マイホーム神話」のように――アートが利用されること。作家の「雇用」や社会との関係は、時代を超え、世界各地で複雑な問題となってきましたが、プロパガンダをめぐる構図をとらえれば、受け手となる一般市民の側にも判断力があるべきだということが教訓として浮かび上がってくると思います。

権力にからめとられたとき、アートはアートでなくなります。

今回は、芥川賞と直木賞の違いにはじまり、賞をつくった人、現在の運営者、そして一般の読み手と立場を移動しながら、文学賞というものの本質を紹介しました。

それらすべての立場に共通するキーワード、それは「主体性」です。

菊池寛という一人の主体的で行動的な小説家・実業家が、「作家の育成と文芸の普及」という志を胸に企画した芥川賞と直木賞。その輝かしい発表とは、健全でバランスのよい自己をもったうえで、主体的に付き合っていきたいですね。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSE

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