純文学とエンタメ作品の定義と実情―一人ひとりが一作一作判断しよう

小説をはじめ、文章による創作には自然とついてまわる「純文学」「エンタメ作品」という分類。これまで文学・アートの在り方を論じてきて、一度はっきりさせなくてはと思っていたテーマです。今回は、辞書の定義に当てはめる作業によって実情を精査し、それから私見を述べていこうと思います。

大事なことなので最初に結論を述べるなら、一人ひとりが、自分の目で見て、一作一作判断する。人間は、これに尽きます。

「純文学」「大衆文学(エンタメ作品)」辞書の定義

何事であれ定義を語るにあたっては辞書を確認しなければ始まりませんので、まずは辞書の定義を抜粋します。

ぶん-がく【文学】

②(literature)想像の力を借り、言語によって外界②および内界②を表現する芸術作品。すなわち詩歌・小説・物語・戯曲・評論・随筆など。文芸。

 

じゅん-ぶんがく【純文学】

①広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。

②大衆文学に対して、純粋な芸術を志向する文芸作品、殊に小説。

 

たいしゅう-ぶんがく【大衆文学】

純文学に対して、大衆性をもつ通俗的な文学。推理小説・剣豪小説・家庭小説・ユーモア小説などをいう。大衆文芸。

広辞苑 第五版 岩波書店 1998, 2005

「大衆文学」は、現代の用法では「エンターテインメント作品」とイコールだと考えて差し支えありません。純文学の②と大衆文学の定義が対になっています。一般的にいう「自分の世界を追求するのが純文学、読者うけをねらうのがエンタメ」というのは、これらが俗流化した表現といっていいでしょう。

以下でじっくり述べていくように、これらの定義(特に純文学)は、実情とはかけ離れています。しかし「純文学」「大衆文学」という言葉自体が意味内容のあいまいな抽象概念であり、かつ歴史的には造語なので、これ以外には定義のしようがありません。辞書としては秀逸だと思います。

文学の世界の実情

では、エンタメ・純文学の定義と実情の間にはどんなズレが生じているのでしょうか。まずは内部事情を紹介しつつ、考察へ入っていこうと思います。

違いはあることにはあるけれど……

傾向の違いは、れっきとして存在しています。が、境界があいまいだということを認めない者はまずいません。

小説新人賞でも「エンタメ系か純文学系か」という大きなくくりは有効です。たとえばポプラ社小説新人賞だったら、エンタメ系のなかではやや純文学寄り、というのが世の見方。募集要項にも「エンターテインメント小説を求めます」と明記されています。現在、エンタメ系の極は、マンガと同じような物語を文章で描いた「ライトノベル」でしょう。

「純文学誌に掲載されているのが純文学」と言えばトートロジーなのですが、それがありのままの現状です。業界内のあるベテラン作家は「純文学は一つのセンテンスが長文」だといいます。「そんなことかよ!」と思ったそこのあなた、まっとうな反応だと思いますが、同ベテラン作家はエンタメ・純文学を単なる表面的なカラーの違いとして扱っています。お弟子さん(この呼び方が適切かは疑問ですが、彼の周囲がそう呼んでいるので合わせます)には、自分の作品のカラーによって行き先を決めるよう指導しているようです。エンタメ小説講座と純文学講座を別にもうけているわけではありません。このように「文芸」はひとくくりであり、エンタメ・純文学の住み分けはないのが内情です

このように、現在「純文学」と「エンタメ作品」の違いは表面的な「ふんいき」であり、決して本質にかかわる差異ではないのです

文学史―今、リアリティはどれだけあるか

日本の文学には平安時代、あるいは古代から続く千年以上の伝統がありますが、現在に通ずる枠組みができたのは明治以降です。

日本の文学史ではしばしば、「上の文学・下の文学」という用語が使われます。

「上の文学」とは、武士の学問である儒学です。こちらは明治時代には文学の範疇を離れ、哲学や社会科学になっていきました。

対する「下の文学」は俳諧、川柳、浄瑠璃、落語など、庶民向けの俗文学です。明治期には印刷技術の普及なども手伝い、定まった定義はないながら「通俗小説/読物」が出現。この時点ではまだ、一般文芸より下の扱いでした。しかし大正時代に雑誌「大衆文芸」が発刊されると、「下の文学」は「大衆文学」へと移り変わっていきます。この大衆文学は戦後高度に発展し、現在ではそれを含めた一般文芸全体が上位文化となりました。

ただ、こういった文学史(しかも日本のみ)をふまえるのは、作者であれ読者であれ、よほどの文学好きだけでしょう。

そもそも、人間が創作を始める動機は得てして別のところにあるものです。文学史など知ったことではなく、ただ自己表現をしたい。それがアーティストの心ではないでしょうか。

エンタメ作品の幅:本気のアーティストから「商品企画担当者」まで

良心ある人から悪質な者までいるのは、どんな職業でも共通です。エンタメと自称・他称される作品・作家の幅も大変広く、創作意図も様々で、ひとくくりにはできないとしか言いようがありません。ここではまず、エンタメ作品と称される作品群の横幅をみていきます。

本気のアーティスト

エンターテインメントの範疇にも、「純粋な芸術を志向」する本気の作品・作家は存在しています。この類は、文体や内容が「大衆性」をもち「通俗的」な「ふんいき」であるからエンタメ作品に分類された、というだけです。

表現方法によりエンタメに分類される作品

「純粋な芸術を志向」して「言語によって内界・外界を表現」した作品であっても、表現方法によってエンタメと分類されることはめずらしくありません。

たとえば、元・子ども兵の人が筆舌に及ばぬ恐怖の戦争体験と将来への希望を刻んだラップ(=詩)は、辞書の定義に当てはめれば「純文学」ということになりますね。しかし「ラップ」という表現方法なら、大衆文学、あるいは文学外のエンターテインメントに分類されるのが経験則でしょう。私はこういった人間の心の声を表現したものこそ優れたアートだと考えていますが、もしもラップが純文学誌に載っていたら、ほとんどの人は場違いと感じるのではないでしょうか(もっとも雑誌が基準でいいのかという論点はありますが)。

ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は、表現方法による分類とそれが引き起こす矛盾に一石を投じたといえるでしょう。ノーベル賞学会の姿勢は、試みとしては先進的かつ適切であり、現代に必要だったと考えます。これについては下でもう一度扱います。

物語が好きだからなった、エンターテイナー型作家

作家という職業の志望動機では、「物語が好きだったから」が圧倒的多数を占めています。たとえ大学での専門が理系、経済、金融、法律などであったにしてもそれは「就職のため」にすぎず(とりわけ年配男性)、心はコテコテの文学青年だというケース以外、私は見たことがないほどです。

読者として自分がおもしろい、読みたい、好きだという作品を自ら作るようになったタイプの作家を、ここでは仮に「エンターテイナー型作家」と呼んでみます。

エンターテイナー型作家の幅もまた広いのですが、読者目線から作者になったからといって、必ずしも読者に迎合しきった職人型とは限りません。これはこれで熱意ある作家も多いのがこの類型です。どこまでも奥深い作品。作家性の強い個性的な作品。典型例としては、世の人が「人生に影響を与えたわが心のマンガ」に挙げるような作品を想像すると分かりやすいのではないでしょうか。

「好きだから自分も」という志望動機は、悪いほうに出れば既存の作品の縮小再生産をくりかえさせ、文化を弱らせてしまいます。しかし良い方向にいけば、文学の枠にとどまらず、文化全体からしても一流なすばらしい作品をつくり上げることにつながります。

アート作品というよりコンテンツ産業

エンタメ作品の極地が、「コンテンツ産業」です。世の人にうける物語をパターンから機械的に生成し、娯楽用コンテンツとして売り出すというものです。以前AI(人工知能)がアートを作ることはまったく脅威ではないという話を書いた時に詳しく説明しましたが、今回も改めて扱おうと思います。

もう少し詳しく解説すると、物語にはいくつかのパターンが抽出されています。たとえば男子向け恋愛ストーリーだったら、主人公の設定をパターンからいくつか選んで組み合わせ(勉強も運動もできないけれど困っている人がいたら放っておけない男子高校生)、ヒロインをパターンから選び(元気で空振りしがちなタイプ、内気でおしとやかなタイプ、変わり者の一匹狼の三人)、人間関係のパターンを決め(ひょんなことから入った部活で魅力的なヒロインたちの間で心が揺れる)、ストーリーを展開させる(卒業までに一人を選ぶ)、といった具合。これで早くもできあがりです。このように「テンプレート」に当てはめていくだけで、ある程度うけるストーリーはかんたんに作れてしまうのです。

こういった「エンタメ作品」を一言で表すなら、「作品というより商品、個人の創作というより企業の商品企画」といったところでしょう。これはグッズ販売やテレビアニメ化などクロスメディアで展開する産業であり、「作品」と呼べるかどうかはぎりぎりで、表面だけ「作品」の形をとったビジネスだととらえることも可能です。

創作・表現にかかわるのはクリエイティブな職種ですが、「コンテンツ産業」となればビジネス一辺倒です。コンピュータープログラム(昨今は人工知能と呼ばれがち)が生成するアートに「機械が作ったものに感動させられたくない」と嫌悪感を覚える人もいるようですが、人間が機械的に作った「作品」なら今までにいくらもあるのです。

こういった実情を知らなかった人にとって、機械的に作られたコンテンツの存在自体が衝撃であることは知っています。もしあなたがそうなら、「自分が夢中な作品が本当はただの商品だったらどうしよう……」と不安になったかもしれません。怒りを覚えたかもしれませんし、世に存在する物語という物語を信用できなくなったかもしれません。なので別のいくつかの角度から見た、事の全体像を紹介しておきます。

第一に、世に出回っている文学のすべてが機械的に作られたコンテンツというわけではありません。熱心な作家、思いのこもった作品がたくさんあるのは、上で述べた通りです。

第二に、文芸らしい作品か機械的に生成されたコンテンツなのかは、おおよそ見分けがつきます。まずは作者の素性や立場を調べれば、それだけでかなりはっきりします。志望動機や過去の作品、作品単位の創作意図、作品外での発言なども参考になります。

第三に、コンテンツ産業には、この次で述べるような社会や個人の精神への害悪はありません。人を楽しませることが目的の娯楽としては、きちんと成り立っているのです。

第四に、コンテンツ産業だから直ちにダメなのかというと、そうではありません。人を楽しませる目的で作られた「作品」を人が楽しんだなら、筋が通っています。また、「何が自分にとって大切か」は自分が決めることなので、それが機械的に生成されたコンテンツだったにせよ、大事ならそれでいい。たとえば最近、私は旧友の一人がもろにコンテンツ産業のアニメに没頭していると聞いたのですが、彼女はそうやって息抜きしながら生きているのであり、それは他人が口出しするようなことではありませんよね。

しかしなお、面白いと思った作品が一時の金もうけ道具にすぎないとなれば、さすがに幻滅するケースも多いのではないでしょうか。世の中にコンテンツ産業というものが存在している、ということは、頭に入れておいたほうがいいと思います。

純文学の幅:本気のアーティストから生粋の俗物まで

「純粋な芸術を志向する」――カッコイイじゃないですか。まさしくアーティスト!

……定義からすればそのはずですが、純文学作品の多くはそんな活力と人間らしさからは程遠く、いかめしくてお高いのが実情です。書店の雑誌コーナーに足を運べば、純文学誌はぱっと見の「ふんいき」で他と見分けられるほどです。

そして重要なのは、純文学として世に出ている作品のなかに、「純粋な芸術を志向する文芸作品」という定義と矛盾するものはいくらもあるということ。現実が定義そのままだと信じ込めば、思いっきり足を滑らせてしまうでしょう。「エンタメ作品の幅」に続き、ここでは「純文学の幅」をみていこうと思います。

なお、俗物を論ずるにあたっては、文学の枠にとどまらない、社会一般に関する知見が必要不可欠です。文学という狭い世界にこもって一生を過ごす内気な(人によっては内弁慶な)作家が多かったことは、文学界が言論によって社会を導くという社会的使命を果たせず、やがては文学それ自体をも化石化させてきた原因の一つです。

本気のアーティスト

純文学とされている中にも、定義にたがわず「純粋な芸術を志向」する本気の作品・作家は存在します。決して名声と自己陶酔目当ての生臭い俗物ばかりだとは言いません。

評論する意図はないので名前等には言及しませんが、私が学生時代に授業で出会った詩人は、過去の様々な植民地政策と文化・言語の抹殺、そこから生じるアイデンティティ・クライシスへの問題意識を継続的に扱っていました。文体や言葉は難解な純文学ですが、彼は本気でした。燃え上がる情熱がありました。暴力への怒りを表現するため適切な言葉や表現を選んだら、結果、世の中では純文学に分類された、というアート本来の順番で創作にあたっていました。

余談ですが、私が表現活動を始めようと思い立った時に、下記の俗物を目の当たりにしたにもかかわらず「文学でいいかな」と思えたのは、こうした本気で良心あるアーティストの存在によるところも大きいです。

アイドルのようなナルシスト文豪に絶句―ポピュリスト作家

作家は言論者なので、本来、人前で顔を売る職種ではありません。ポピュリストになることを嫌います。

ところがどの職業にも俗物はいるもので、それは一見権威的でいかめしい純文学という分野も例外ではありません。この類は、一応政治家としての能力は持っているけれどギラギラしたキャラクター性で劇場型の政治を展開し、大衆を操ることが問題視される「ポピュリスト政治家」とパラレルに、「ポピュリスト作家」と呼んでいいと思います。

私が某著名年配男性純文学作家のブロマイドのような顔写真に悲鳴を上げた経験は、以前お話ししました。自分自身を「文豪」づくって演出するのは、人間性を希求するアートの対極、自分自身を「商品」にする芸能商法そのものです。だからこそ彼は、最高水準の権威と名声を手中に収めているにもかかわらず、各界知識人の間ですこぶる評判が悪いです。「金儲けはしているけれど中身はお粗末だ」という皮肉で「ベストセラー作家」などと揶揄されているところを、私はこれまで何度も目撃してきました。こうしたポピュリスト作家は一応本職であるため、ある部分ではあとに述べる「タレント作家」よりもさらに性質が悪いかもしれません。

ナルシスト文学青年が名声を得るために長文を連ねたインテリ風でマニアックな「ふんいき」の恋愛小説が「純文学」で、字も書けない元・子ども兵が刻んだラップが「エンタメ作品」だというなら、「純粋な芸術を志向する文芸作品」という「純文学」の定義とは完全に矛盾します。もしそんな恣意が「文学」なら、ただの腐敗した権力にすぎず、何を叫ぼうが誰も良いとは思わないでしょう。

ポピュリストによるお祭り商法で出版業界は一時をしのぎ、読者は祭りの熱で一時の気休めをする。そんなようでは、この社会が慢性的に抱える病をさらに悪化させてしまいます。ポピュリストに頼らなくても、言論やアートは人間にとって必要です。不況に陥るはずがありません。ひとりひとりが地に足をつけ、現実の問題にきちんと向き合っていくべき時がきています。

事実上、和製英語の「サラリーマン」―名ばかり作家

これは一般文芸全体に言えることですが、たとえ有名な作家でも、実情は末端の低賃金お雇い文士だというケースは相当数見受けられます。

肩書きにしがみつき、企業にひたすら頭を下げることで、なんとか食いつなぐ。終身雇用を前提として「寄らば大樹の蔭」とばかりに支配を受け入れ、会社に全面依存して生きる日本人会社員と重なるこのタイプは、「名ばかり作家」と呼んでいいでしょう。これでは「純粋な芸術を志向する」どころか、企業の手足である末端労働者、そして「上」に絶対服従するわりには自己を「中流(得た肩書きによっては成功者)」だと思い込んでプライドはそこそこ高い、和製英語の”サラリーマン”にすぎないのです。

自身がそうやって食いつないできた年配作家のアドバイスとなると、それはそれは耳を疑う結論となります。「希少価値を求め、新しい組み合わせるべきだ」というのですが、これでは純文学どころか、エンタメの極地であるコンテンツ産業にすぎません

また、和製英語の”サラリーマン”は、自分が社会や国家に関与する・しているという感覚を持っておらず、その動きに無関心で、早い話「売れりゃいい」くらいの思想(?)しか持っていないので、上記のポピュリスト作家や下記のタレント作家を問題視しない傾向があります。自分とその周りの、極端に狭い人間関係しか見えていないのです。そこに閉じこもって一生を過ごせば、「社会的責任」という観念も生まれてきません。

脳細胞の芯まで”サラリーマン”になってしまっているのは、むしろあわれでもあります。70歳にもなってまだ精神的に自立できず、その間ずっと、賢くなるチャンスも、人間らしく生きる時間もなかったのですから。

もっとも、年配だからといって全員が全員そうなのではありません。どの年齢、どの職業にも善人悪人いるものですし、私は聡明で立派な職業人の方をこれまで多く見てきました。そのたび私は、これまでうんとがんばってやってきた(つもりだった)ことに失笑をこぼし、人類が積み重ねてきた知に深い敬意を抱き、さらに努力を重ねて自分を磨かなければ物事は成し遂げられないのだと、背筋を伸ばす次第です。

作家の中にも、まさにこの「希少価値」や「新しい組み合わせ」によって人目を引こうとする出版業界の傾向に警鐘を鳴らす人は相当数います。人類にとって重要なテーマは、それ相応の分量語られるべきだからです。”サラリーマン”の考え方からすれば、たとえば「人種差別はありきたりなテーマだから書くな」などといった、とんでもなく不当な結論が出てしまいます。文学は言論です。言論には、いまある現実を鋭く観察して世に訴え、理想を指し示すことで人間および社会に貢献する社会的使命があります。そして、もはや文学理論以前に、「名ばかり作家」たちは人間性からして問題ありではないでしょうか。

ただ、そういった思考停止の俗物がのさばったことが我々の社会を弱くし、腐らせ、ついには今日の状況に追い込んでしまったことも事実です。

時代は変わりました。私たちは、高度経済成長時代が今日を生きる私たちに残した害悪を学び、反省し、その遺物にきっぱり別れを宣言しなければなりません。「でも既存の組織だからそう簡単には変われないしぃ~」などとごねている余裕は、今の若い世代にはありません。このままでは、未来がない。文学に限らず、最近世をにぎわせている不正や腐敗は、実際には何十年も前から脈々と続いているものです。過去の遺物は、このまま自然劣化で崩壊することが確実視されています。しかし、私が強調したいのは「自然消滅を待つだけでは足りない」ということ。過去の害悪というのは、二度と芽を吹き返さないよう、根っこまで焼き切らなければなりません。根っこまで焼き切る方法とは、私たちが意志を以てそれを否定し、新しい価値や仕組みをつくり出すことなのです。

和製英語の”サラリーマン”の時代から現在までの間には、インターネットという第三次産業革命がありました。来るべき未来は、自分の足で新しい大地に立ち、歩んでいく先にこそあるでしょう。

タレント議員ならぬタレント作家

国や社会の動きという波は、横幅広くつながっています。一か所で観測されたなら、他の海岸にも大なり小なりやって来ます。タレントの参入という一連の波はいま、議会だけでなく文学にも押し寄せています。

「タレント本」の跋扈が我々の社会にとってどれほど危険か、そしてもう一歩踏み込み、我々がその危機にどう対処していけばいいかは、先に論じました。ところがその直後、大学時代の先生からまったく別件の資料をいただくことがあったのですが、なんとそこにはタレントに関する記述が。その内容に、私は度肝を抜かれました。ここでは深くは立ち入りませんが簡単に紹介すると、海上自衛隊幹部学校の客員研究員にタレントが招聘され、驚きと疑念が広がった。それを危惧する内部関係者によれば、近年「(前略)これらの論客にビジネス・チャンスを見出し始めた芸能プロダクションまで登場した」ということでした。

文学とは直接関係ない資料ですが、相通ずる問題を含んでいると思います。

まず芸能プロダクション側の都合をみると、芸能の世界だけではビジネスの幅に限度があります。そこでタレントを別の専門分野に送り出して仕事をさせれば、出先の組織・企業・研究機関等からマネーが入る。言い換えれば、芸能プロダクションにとって、芸能と別の分野は新しい「ビジネス・チャンス」である。無論、これは芸能プロダクションのビジネスなので、当該タレントの一挙一動は本人の自己判断・自己責任のみによらず、マネージャー等プロダクション側により管理されています。また、タレントはタレントでしかない以上、裏での根回しや「ゴースト・ライティング」は必要不可欠になります。裏があってあまりにおどろおどろしいため、疑念が渦巻く「いやーな」雰囲気が内外にたれ込めます。

では出先側の事情はどうなのかといえば、決して当該タレントのことを一流の知識人だと評しているわけではありません。ポスト相応の学識・能力・実績等がないことは、みな百も承知です。それでもなおタレントを招くのは、出先側自らが本質的問題を抱え続け「追い詰められている」から。ただ「ラウド・ボイス」をもつだけのタレントは、その場しのぎに都合がいい。不適切な人物であれ、招かざるを得ない。ここで、両者の利益が合致してしまうのです。

タレントが国家機関へ招聘された件は、近年のタレントと出版業界の関係と符合します。文学も、芸能プロダクションが目を付けた新たなマネー・フローの一つといえるでしょう。

……悪寒がします。

たかだかショービジネス業界の都合に、私たちの文化が動かされてしまいかねない。言論は社会を良くする要ですが、それが形骸と化してしまう。誰かの一時の金もうけ道具にまで落ちてしまう。私たちはいま、そういう危機的な大衆社会で生きています。一般文芸に入らないタレント関連書籍(写真集やエッセイなど)はかねてから存在していましたが、新たなマネーフローのためにタレントが送り込まれるケースでは、タレント側にとっては権威的なほうがニーズに合うので、純文学を志向しやすい傾向があります。

表現の自由をおびやかすのは、必ずしも悪の知恵に長けた恐ろしい独裁者とは限りません。もっとソフトな形で、民衆自らが自由を劣化させてしまうことはあります。言論が閉塞している原因をたどっていって、どんな残虐で狡猾な切れ者に行き当たるかと思いきや、根源は自分の目先のビジネスを考えていただけの芸能プロダクションだった――それこそ〈陳腐〉な末期は、すでに現実化しつつあるのです。

では、タレントをめぐる問題とはどう向き合っていけばいいのでしょうか。その答えは、もう見えているではありませんか。

重い腰を上げて本質的な問題に真っ向から取り組み、解決していけばいいのです。タレントの起用は、ただの一時しのぎです。「追い詰められている」現在の状況は、過去に「一時しのぎ」を積み重ね、将来にツケを回してきた結果ではありませんか。ここにきてまた一時しのぎを重ねるなら、愚かだと言わざるを得ません。もういいかげん本当の問題に取り組まなければ、私たちには未来はないところまできてしまいました。もとはといえば、タレントを招かなければならない事態に陥った原因は、古い権力の腐敗にあります。なら、それを片付ければ、いやいやタレントを招く必要はなくなります。

何度も言いますが、言論やアートは人々に必要なものです。不況に陥るはずがありません。文化の空洞化と社会の地盤沈下を避けるため、ひとりひとりが自分の頭で考え、賢くなり、行動を起こすことが大事といえるでしょう。

歴史上の名作の多くは、エンタメ作品だった

最後に、別の角度から純文学を見てみようと思います。現在権威となっている古典文学はどうなのか、ということです。

紫式部の『源氏物語』は日本文学において絶対の最高峰ですが、創作意図からすればエンタメ作品に入るでしょう。断定することは誰にも不可能ですし、紫式部本人に聞いてみなければ分からない面もありますが、平安時代の「文学」は現代風に言えば趣味のようなものだったからです。また、英語圏では絶対的文豪のシェイクスピアですが、彼は彼が生きた時代、大衆作家でした。既存の作品を見渡せば、いま純文学とされている作品が必ずしも固い文体で難解だとは限りません。

古典文学では、定義にあてはめればエンタメに入る作品が、実はかなりの割合を占めるでしょう。「純文学は権威的である。権威になれば純文学だ」というトートロジーもまた、ありのままの現実です。

結論:違いや定義は、空の雲のようなもの

空の雲は見えてはいるけれど、永遠に、原理的に、手でつかめることはありません。雲というものは存在するけれど、形は常に変わっていきます。たいていの空には浮かんでいるけれど、ない時だってある。

純文学とエンタメ作品の定義や違いは、雲のようなものです。それらしいものは存在しているけれど、決して定まることはない。時代や場所によってはないこともある。

純文学とエンタメ作品の違いは何か。いくら論じたところで、雲をつかむような空論には決着がありません。

結びに―大事なのはいつも、自分で決めること

ある作品が純文学かエンタメ作品なのか、ひいてはその作品に価値があるのか。この記事は、私たちが下す判断について論じて結ぼうと思います。

権威ある人の意見や世の風潮(実は、広告等のマーケティングを含んでいる)、教科書などはあてになりません。なぜなら、ある作品が純文学かエンタメ作品かの判断は、多分に感覚的、また主観的だからです。たとえ権威ある専門家が「本作の芸術性を肯定する/これは通俗小説だ」と結論しようが、それはしょせん、その人の個人的な感覚と主観(それと、もしかすれば「大人の事情」)にすぎないのです。同調する必要はありません。考えなしに「えらい人の言うことだから」と同調するなら、知性と精神を権力に依存することになるので、むしろ有害です。

作品の内容・主張や作者のバックグラウンドなどから、読者=受け手=外部者がだいたい見分けることはできるでしょう。しかしこれも「だいたい」止まりで、断定ができるわけではありません。「純粋な芸術を志向」したかどうかは、作者個人の主観だからです。作者本人に聞いてみるという手はありますが、世の中は正直者ばかりではありません(特にポピュリスト作家なら、かっこつけの「演技」に終始するでしょう。タレントは言わずもがな)。

そもそも、定義なんて関係ないというスタンスのアーティストは大勢います。もとはといえばそれがアートの本質でしょう。最初にあったのは自己表現=アートです。純文学やエンタメなどといった概念は、世の中にあとからできたものでしかありません。文学を含む「アート」と「純文学・エンタメ」の区分は、主と従の関係です。

文学作品を読んだなら、それが「純粋な芸術を志向」したものか否か、判断するのは結局、読者一人ひとりです。自分はこう感じた。私はこう思う。それが終着点です。

その判断や作品への感想が、他人のそれと同じになる必要もありません。なぜなら、こういった判断や感性には「自分はどういう人なのか」がよく表れますが、自分がどういう人なのかは他者が決めることではないからです。自分がどう感じ、どう思ったかは、自分だけの大事な心。言い換えれば、それこそが自分そのもの。その作品に価値があるか否かは、自分が決めること。自分の本心に素直になる強さは必要だし、別の角度から見ると、私たちはもっともっと素直でいいのです。

ある文学作品についての判断や感想が一人ひとり異なるのは、「人は一人ひとりみんな違っていて、同じ人間は世界中に一人もいないのだ」という、人間の真実の一つの表れなのです。

以上長く述べてきた通り、文学作品の意図は、星の数ほどいる作家一人ひとり、そして一作一作異なります。文学作品と向き合うときに大事なのは、その作品自体と、現実社会、そして自分の生き方をまっすぐ見つめること以外にありません。

自分の目で見て、自分の頭で考え、自分で決めること。読者でも作者でも、人間はこれに尽きます。私たちと次の世代の未来のため、一緒に言論を実りあるものに、時代を持続可能で生きやすいものにしていきたいところです。

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