提言:「アーティストシップ」という新しい価値観を提唱します

表現・言論には新しい価値観「アーティストシップ」が必要である。ちょうどスポーツでいうスポーツマンシップにあたるような、指針となる価値観と文化が表現・言論にも存在すべきである。――これが本稿で訴える私の提言です。

問題意識

私がこのような結論に至ったのは、表現行為が持つ輝かしい可能性に着目する一方で、表現・言論の現状への強い危機感があったからです。

この百年余りの間に、言論・出版においては商業主義が急速に強まってきました。大衆社会化もまた世界中で急激に進んでおり、その行き過ぎによる弊害が深刻化しています。さらに今世紀には、表現・言論に関わる社会インフラにも大きな変動がありました。インターネットの登場と、社会への定着です。

こうしたグローバル規模での社会の変化により、今日私たちの周りでは、対処の手が追いつかないほどの量とスピードで、表現・言論をめぐる新しい問題が発生しています。

表現・言論はいつの時代にも存在してきました。人類文明と切っても切れないものであり、それ自体に新しさはありません。しかし、社会の変化は新しい様々な問題をもたらし、あるいはすでに存在していた問題を浮き彫りにしています。表現・言論を本質からとらえ直す時が来ていると思います。

商業主義の功罪

第一に指摘したいのは、商業主義の弊害です。

アート分野の最大公約数志向と奇抜志向

良くも悪くも、現代の芸術は商業に保護されています。王侯貴族等の庇護下にあった時代と比べれば、表現活動への門戸は大きく開かれており、同時に、どのような作品を評価するのかの決定権が市民にあるという点で、民主的といえばそうではあります。

しかし他方で、芸術作品が商業のベルトコンベアにのっていることは、最大公約数的な作品がよしとされる風潮を生じさせています。当たり障りなく、無難に気持ち良いものが世人からの人気を獲得し、結果としてマスターピースの座に押し上げられがちなのです。その反射効として、作家個人の個性が出た作品は周辺部に押しやられてしまう。本来、表現には、人々に知を提供し、文化の豊かな発展を率い、民主主義の大前提となるという社会的な役割がありますが、そういった本質的な言論にとって、商業主義が暴走している現代は冬の時代といえるかもしれません。

かと思えば、最大公約数志向とは一見相反する現象もみられます。奇抜な作品が評価を集めているのです。なぜ「奇抜さ」が重宝されるのか、その原因をたどっていけば、「商品の価値は『差異』にある」という商業の原理に行き着きます。質などにかかわらず、「他と違うこと」が価値になるのです。売り場には無数の商品が並んでいますが、奇抜であれば目立ち、注目が集まり、価値が高くなる。奇抜さが高評価につながってきたのは、商業主義の帰結です。

表現者の偶像化と質の低下

以上のような最大公約数志向と奇抜志向に加え、さらに深刻となってきたのは、文学等の分野における一部作家の偶像化・芸能化、および芸能人の起用です。

1980年代の時点ですでに、ある男性純文学作家が大規模なプロモーションとキャラクターづくりで「売られる」商法には苦虫を噛みつぶしたような顔を――とりわけ知識人から――向けられ、「お祭り型商売」「芸能商法」だとして批判される現象がありました。こうした偶像化・芸能化は、特定の作家の傾向ではなく、文芸分野において他にもみられます。

ところがこの傾向は、改善へ向かうどころか、2000年代からはむしろ悪化の道をたどっています。作家を偶像化・芸能化する販売戦略から一歩進み、今度はもとからの芸能人を作家として起用して、知名度の高さからベストセラー化する事例が相次いでいるのです。

商業主義の帰結であるこれらの傾向は、自由で活発な表現を阻害しています。表現が妨げられることは、知を劣化させ、人類文化を弱らせ、民主的な社会の地盤沈下を引き起こします。

行き過ぎた商業主義には批判が叫ばれる一方で、正当化する声も根強くあります。会社を存続させるためにはやむをえない、という論法です。しかし、それは複雑な現実のたった一面にすぎません。商業主義が表現・芸術分野の水準を損ない、企業自らの首を絞めているのもまた事実です。出版を代表格とする表現の周辺に携わる者は、社会における表現の役割、意義、そしてその責任にかんがみ、重く受け止めなければなりません。

アートへの信用を損なう権威主義

また同時に、現代の芸術的創作分野は、上で指摘した商業主義の弊害とは反対の性質も抱えています。固陋な権威主義です。

芸術は本質的に良し悪しの基準があいまいな世界であるゆえ、作品や作家に対する評価が決まる過程は不透明にならざるを得ません。「この作品は名作だ」であれ、「これとそれならこちらのほうが優れている」であれ、何とでも言えてしまうのです。このことが恣意を生み、腐敗や不祥事につながるのは想像に難くありません。

また、アートは古くからの権威としての側面を有しています。一部の芸術関連団体等では、今日の社会においては問題視されるような上下関係など、前近代が依然根強く残っているといわれています。

こうした権威主義、腐敗や不祥事はそれ自体がアートに対する信用を失墜させる原因になりますが、前述の商業主義の弊害とからみ合って、事態はますます混迷を深めています。

宣伝広告の影響力の高まり

経済には、本質的に暴走する危険性が内在しています。今日の表現・言論は商業をベースに成り立っているのですから、その危険性は必然的に反映されます。

その第一として指摘したいのは、営利的言論(広告)およびステルス・マーケティングの影響力が、分相応以上に高まっていることです。

広告は、絵や文字、動画等である以上、広義には表現物のうちに入ります。企業等が広告を打つこと自体は、営業活動の一部であり、疑いの余地なく合法です。

しかし、表現物の中にあっては、広告は価値が低いカテゴリと考えられています。なぜなら、それらは「売るために言ったこと」にすぎないため、自己表現としての価値がなく、社会に資することもないからです。表現・言論に含まれるかどうかですら議論の余地がある、テレビコマーシャルや広告欄、ネット広告等々。しかし実のところ、現代の消費社会・情報社会において、今日私たちが受け取る情報の大半は広告となっています。マイホームや自動車に代表される通り、宣伝広告の方法として「幸せ」のイメージが作られ、流布され、時には時代の価値観となってうねりとなる様を、私たちは幾度となく見てきました。業者が売るために言ったにすぎない情報が、人々の意思決定や価値観に深い影響を及ぼしているのです。

広告による価値観や意思決定の誘導だけでも恐ろしいところですが、それでさえ営利的言論をめぐる諸問題の中ではまだ透明性のあるほうです。新聞の芸術面、ニュース番組、アート各分野の専門メディア、本の帯に並べられた推薦文、インターネット上のレビュー欄やSNS投稿。今日、我々はアート作品に対するかつてない分量の「批評」に触れるようになりました。しかし、その舞台裏には、「批評」の大半が公平かつ独立した立場で書かれたものではないという重い現実があります。一般の記事等の仮面をかぶせられた宣伝広告、いわゆるステルス・マーケティングです。企業が「この作品はすごい」という情報に有名人の推薦文やニュース番組の話題など様々な仮面をかぶせ、四方八方に放つことで、「自分も読んでみようかな」といった気になるよう一般市民を煽っているのです。我々の目の前に日々現れる「批評」が、客観的な視点で書かれた批評なのか、それとも批評の仮面をかぶったステルス・マーケティングなのか。それを見分けるのは困難と言わざるを得ません。

「売りたい」という意図から出発した宣伝活動によって、一般個人および社会の価値観が見えない糸で誘導されるというそら恐ろしい現象は、日本社会にすでに定着しています。

人の内心を誘導することは、すなわち精神的な支配です。民衆が商業に隷属させられる。決して看過できる問題ではありません。

ヘイトスピーチ

商業主義の強まりとインターネットの登場は別個に生じた現象ですが、その相乗効果は怪物を生み出しました。ヘイトスピーチの跋扈です。

他者への人権侵害やその尊厳をおとしめるような表現・言論が、法的、社会的、倫理的に認められないのは言うまでもありません。

ところが、そうした規範とは別に、商業が表現の礎となったことで重くのしかかってきたのは、市場において差別表現が「売れるコンテンツ」ではあるのだという事実です。たとえどんなに批判があろうとも、固定層は夢中になって買いあさるため、出版社等が差別的な表現・言論を出版したがるという現象が生じているのです。しかも、ヘイトスピーチは過激化すればするほど人気が高まります。商業主義は怪物と化して暴走し、「売るためなら差別も辞さない」という危険な域に踏み込んでいるのです。

時同じく、コンピューター工学分野から出てきた新しいテクノロジー、インターネットが一般に普及したことは、社会における情報の流れを根本的に変えました。一般市民に表現を発信する道が開かれ、従来は分離していた表現者と受け手の境界があいまいになったのです。一般人が表現者たり得るようになったことは人類に大きな可能性をもたらしましたが、他方では、質の著しく低い情報が氾濫する結果を生じさせました。うちの一つがヘイトスピーチです。それまではせいぜい地下活動にすぎなかった差別思想がインターネットによってとうとう表に出られるようになったのだ、という見方も示されています。

ヘイトスピーチは、ターゲットにされたアイデンティティを持つ集団および個人に甚大な被害を与えます。また、それが表現の自由の名の下に行われれば、表現の自由そのものの価値が貶められます。

誹謗中傷

インターネットは、誹謗中傷の深刻化をもたらしました。今日、誹謗中傷は個別の事案ではなく、社会問題としてピックアップされるようになりました。

誹謗中傷の爆発的増加は、表現を手段とした人への攻撃が盛んに行われるようになったのだ、ととらえられます。

そして誹謗中傷の深刻化は、表現規制の口実として利用される危険性をはらんでいます。

表現・言論の本質的効能

自己の健全な発展と他者の尊重

第一に、アートを行う時、人はおのずから実践主体となります。筆をとったなら、手を動かさなければ。言葉を刻みたいなら、頭をしぼらなければ。自分が何もしないのに表現物ができあがることはあり得ません。表現のすべての出発点は「主体性」だといえます。

第二に、人はアート活動を通して成長することができます。作品を完成させるのは、みずから考え、一歩一歩進んでいく長い道のりです。さらに、作品をよりよいものにしたいという意志を持ったなら、自分自身をさまざまな角度から見直すことが課題となって立ち現れます。創作とは自分自身と向き合うことであり、そこにはいつも学びがあります。こうして自己を客観化することは、内面の困難を克服するにも最適です。自分を表現することは、「自己の健全な発展」に役立つのです。

第三に、自己表現は、他者にも同じ重みを認める平等の感覚に気づかせてくれます。自分は自由に表現してそのよろこびを享受するのに、他の人には同様の自由を認めないとすれば、その態度は自己中心的であり、他者の尊厳を軽視することを意味します。自分が表現にのぞむならば、「他者の尊重」が不可欠になってくるのです。

主体性にはじまるアーティストシップの骨子は、いずれもアートの特性に由来するものです。義務的なものではなく、表現・創作の過程で感じ学べる哲学であり、表現行為の可能性だと考えています。

自己の存在証明と尊厳の表れ

すべて表現には、表現した人の個性が発露します。自己表現にその人の個性が少しも表れないことは、原理的にあり得ません。

その個性は、一人ひとり違っています。世界にたった一人であるすべての人は、それぞれが最高の貴重さを誇ります。

したがって、個性の表れである表現は、人間の尊厳と直結しています。たとえ本人が自覚しておらずとも、表現物にはその人の人間の尊厳が表れるのです。

文化的な豊かさ

アートは人の心を豊かにします。アートは生活必需品である衣食住と対比されることがありますが、デザインがほどこされていない道具や、装飾がない衣服を思い浮かべれば、その味気無さには耐えがたいものがあるでしょう。

創造性は、人間という存在の特有性に根差しています。様々な研究で、世界平和を実現するためのカギは文化での交流だという見方も示されています。

さらに、アート作品に対して別の人が意見を表明すれば、それは作品から新たな言論が派生したことを意味します。それを繰り返すことで、社会全体の表現・言論は活発化し、文化の発展に寄与します。

民主政への寄与

事実を知らないことには、意見を形成しようがありません。また、権力が流す以外に表現・言論がなければ、市民はいわば「洗脳」されてしまいます。表現・言論は、民主政および民主的な社会の大前提という役割を担っています。

民主主義への寄与という点で、「批評」という形式の言論は重要な位置を占めます。情報や作品にプロフェッショナルな見地からチェックを入れた言論は、一般市民の知を肥やすのに貢献するのです。

提言:「アーティストシップ」を表現・言論分野に根付かせる意義

以上の通り、表現行為には、個人の尊厳、および人類社会に資する効能が本質的に内在しています。この点では、個々人がそれを活かせる環境をいかにつくっていくかが課題となるでしょう。

同時に、インターネットという革命的なテクノロジーが定着した現代社会では、人の尊厳を貶め、人権を侵害するような表現をどう抑制するかが世界規模で新たな課題となっています。これまでに各国単位で法規制が議論され、進んできました。

こうしたアートをめぐる現代的な課題に対して、私は文化からのアプローチが可能だと考えています。それが私の提唱する「アーティストシップ」です。

商業主義の弊害への解法―スポーツマンシップの応用

私が着目したのが、表現・言論とは異なる分野であり、広義には同じく人類文化の一端であるスポーツです。この分野には「スポーツマンシップ」という精神があり、競技者のあるべき姿として一般の小さな子でも知っているほど普及しています。

スポーツマンシップの内容は、競技者はフェアにプレーすべきである、スポーツは自己を高めるためにやることである、他の競技者=他者を認めることが大事である、といった価値観であり、培われてきた哲学でもあります。

もっとも、スポーツ界の現実は必ずしもそれ通りではありません。精神が共有されているからといって、ドーピングをするアスリートはいなくはなったわけではないですし、他の選手に失礼な態度をとる競技者や、後進にハラスメントをする元選手もいます。柔道など格闘技の選手が、鍛えた技で他人に暴力を振るう事件も起こっています。

ですが、こうしたスポーツマンシップに反する行為を行った選手は、たとえオリンピックで表彰台の真ん中に立とうとも非難されます。決して尊敬されることはありません。行為が悪質だったケースになれば、メダルのはく奪や競技連盟からの追放といった厳しい処分も下ります。さらにスポーツ界内部だけではなく、ハラスメントやドーピングを行ったアスリートは一般市民からも白い目を向けられ、さげすまれています。格闘技の選手が他人に暴力を振るったときに世人の反応がとりわけ冷ややかになるのは、格闘家が追い求める強さはそんなつまらないことに使って威張り散らす程度のものではなく、もっと高潔なものであるべきだという価値観が根底にあるからです。

私の考えは、こうしたスポーツマンシップのモデルをアートに応用したらどうか、ということです。

表現者が表現を通して自己を高めようとしていない、他者の尊厳を認めない、フェアでない手段を使った、不正行為を行った――このように「アーティストシップ」に反した者は、たとえ作品がベストセラーになろうとも、権威ある賞に輝こうとも、人々から白い目を向けられ、さげすまれる。そういう文化的風土が根付いていけばどうでしょう。作家の偶像化・芸能商法は、目立つためにやっていることであって自己を高めている様子がなく、人類への貢献がないと見られます。出版業界が芸能人を作家として起用することは、芸能人の知名度を利用して売る商売にすぎないようになります。世人があきれた目を向け、さげすむようになれば、害悪の発生を事前に阻止することができます。

ヘイトスピーチ・誹謗中傷に対する文化からのアプローチ

ヘイトスピーチと誹謗中傷に対しては、法的規制の他、文化からのアプローチも可能だと考えています。

ヘイトスピーチと誹謗中傷は、表現でありながら人の尊厳を傷つけるものです。人類文化を発展させるのではなく、破壊するものです。そういうことをする人に対し世の人があきれるようになれば、差別発言や誹謗中傷をしたいと思う人は減り、ターゲットにされた側の被害や精神的負担も軽くて済むようになるでしょう。

インターネットという新たなテクノロジーは情報の流れを根本から変え、今日では一般市民の誰もが――多くは無自覚のうちに――「表現者」として活動するようになりました。文化的風土を作り、根付かせることは対策になると考えられます。

アーティストシップ宣誓のすすめ

地球上で、表現活動を行うのは人類だけです。自分を表現することは、「自分は人間だ」と高らかに宣言することにほかなりません。誇り高い営みなのです。

すべての真摯な表現は、満月のごとく全きものです。「アーティストシップ」にのっとれば、誰でも一流のアーティストといえるでしょう。

スポーツ界のスポーツマンシップという理念を応用し、表現者は「アーティストシップ」を宣誓すべきである。表現・言論が現在の危機的状況から抜け出し、人々がアート本来のよろこびを享受し、言論が真に社会的使命を果たすには、表現にのぞむ者は創作・表現の指針となる高い理念を掲げるべきである。それが私の提言です。

私が「アーティスト代表」なら、宣誓は次のようなものでしょうか。

宣誓、我々アーティスト一同は、

一人ひとりが主体として自己の健全な発展に努め、自由に、いかなる権力にも屈することなく、他者の尊厳を尊重し、自己表現を通して、人間の解放を希求する人類社会に資することを誓います。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSE

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(参考)”Real Artists Ship.”という Apple の創設者・スティーブ・ジョブズの言葉がありますが、この”Ship”は動詞で、訳すと「本物のアーティストは(アイデア等を)発送する」という意味です。すばらしいアイデアを心に持っているだけではなく、クリエイティブなやり方で発信してこそ本物のアーティストだ、という文脈です。語呂は似ていますが、私の提言とは一切関係ありません。

初公開:2017年5月17日。2024年2月24日、今日の表現の自由、言論の自由をめぐる状況を踏まえた思想的な拡充のため加筆・更新しました。

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