ポピュリズム事例集―日本の小泉政権からトランプ大統領まで

純文学とエンタメ作品の実情刑事裁判の被害者参加制度Facebookからの個人情報流出事件、作家の在り方とタレント本ネット上のbotをはじめとする人工知能……私がこれまでに作品やブログで扱ってきたテーマは様々です。しかし一見バラバラなそれらテーマに、実は共通する問題意識がちらばっていることには気づいたでしょうか。その共通項とは、「ポピュリズム」。私がなぜその問題意識を強く持っているのか、このあたりで一度しっかり話しておきたいと思います。

世界に衝撃を与えたトランプ大統領の当選以来、ポピュリズムへの注目度は高まりました。研究も活発化しています。今回は私が経験してきたポピュリズムをエッセイ形式で書き連ねながら、その問題点を洗い出していこうと思います。

ポピュリズムとは

ポピュリズム(populism)は一般に「大衆迎合政治」などと訳されています。ただ比較的新しい概念なので、固定化された定義はありません。掲載のない辞書や事典も多数を占めています。

ここではまず参考になりそうな定義を引用しておきます。

① 民衆の情緒的支持を基盤とする指導者が、国家主導により民族主義的政策を進める政治運動。1930年代以降の中南米諸国で展開された。民衆主義。人民主義。
② 政治指導者が大衆の一面的な欲望に迎合し、大衆を操作することによって権力を維持する方法。大衆迎合主義。

(大辞林 第三版)

また事典だと、以下のような記載が参考になります。

1892年に結党されたアメリカ合衆国の人民党,通称「ポピュリスト党」を通じて広まったことば。20世紀以降も,アルゼンチンのペロン体制,中国の毛沢東主義,アメリカのマッカーシズム,西ヨーロッパ諸国の極右政党など,多種多様な政治運動と現象がポピュリズムのうちに数えられてきた。アメリカではポジティブな意味合いに,ファシズムを経験したヨーロッパ諸国などではネガティブに用いられる。一般的には,(1) 政治・経済・文化エリートに対する異議申し立て,(2) 主権者として代表されていない「人々(people)」の掲揚,(3) カリスマ的な指導者による扇動,などを特徴にしている。ポピュリズムは非民主主義的で,ファシズムや独裁主義に近いとされることもあるが,イデオロギー的な体系をもっているわけではなく,三権分立や官僚機構など,自由主義的なエリート支配が人民の意思を歪曲していることを批判する。既存の利益団体や職能団体に包摂されておらず,政治的に正当に代表されていないと感じている層(農民や単純労働者など)の不満を吸い上げ,既得権益層や過度に保護されているとされるマイノリティを非難することで動員をはかることを特徴にしており,ここから反エスタブリッシュメント,非主流派の政治と呼称されることもある。

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

このように言葉自体は20世紀から存在しているものの、ここ数年、日本でいえば小泉政権時代から問題視されているのは、感情に訴えかけて大衆を扇動するタイプのポピュリズムです。本稿で扱うのも、そういった「21世紀型」のポピュリズムです。

「小泉劇場」

テレビをかければ「郵政民営化!」の叫びがとんでくる。新聞の見出しにも「郵政民営化」がおどる。あの時代、私はまだ中学生でした。

日本のポピュリズムといえば、小泉純一郎政権です。ここでは同政権の歴史をまとめた上で、当時の私の視点を織り交ぜながら、同政権とそれが残したものについて考えたいと思います。

小泉政権のあらまし

小泉氏は2001年4月に自民党総裁選で勝利、内閣総理大臣に選出されました。(当時は、自民党の総裁と日本の首相がイコールでつながるという民主主義国家として異常な風習がまだ当然とされていました。)

自民党総裁選は、ひたすら「郵政民営化」を連呼する小泉によって、それまで政治に関心のなかった若者や高齢者が街頭演説に押し寄せるなど、先例のない盛り上がりをみせます。首相就任直後の支持率は歴代一位を記録し、同年7月の参院選では自民党が大勝。そして同年9月、後述するアメリカ9・11同時多発テロが起こります。

2005年の衆院選は、第二次小泉政権によって「郵政民営化に賛成か、反対か」と争点が極度に単純化された構図で展開されました。「劇場型選挙」といわれるゆえんです。郵政民営化は悲願だ、という無駄なドラマ性。「自民党をぶっ壊す」「改革を止めるな」という改革者だとのイメージづくり。「改革」の反対者には党からの非公認をつきくけたあげく、その選挙区に「刺客」を送るという執拗な攻撃性。テレビのスクリーンに映る「フィクション化された政治」がお茶の間に潜り込み、ワイドショーでタレントのゴシップを楽しむのと同じ感覚で「政治に参加」する有権者が多数出現しました。

「劇場」で「主役のヒーロー」を演じた結果、小泉は自民党296議席という歴史的大勝をおさめます。

郵政民営化というどうでもいい法案に反対した者は、たちまち「小泉主演の舞台」で「敵キャラ」の立ち位置に追いやられてしまう。小泉が擁立した対立候補者について報道すること自体が「小泉劇場」の「オーケストラ」になることを意味してしまう。こうして当時の状況を反省すればするほど、ポピュリズムの手ごわさがあぶり出されて背筋が凍る思いです。

2001年9・11同時多発テロ後の世界で

では、当時そこらの中学生だった私の目に「小泉劇場」はどう映っていたか。

意外に思われるかもしれませんが、人々はそんなに浮き足立っていなかった、というのが私の率直な観察結果です。「若者に小泉のポスターやグッズがよく売れている」などと報道されましたが、ばかばかしい。私のクラスに小泉の「ファン」なんて人っ子一人いませんでした。周りの大人も大部分がそうです。一日中ワイドショーの前にどっかり座っているお年寄りが「劇場」に夢中かというと、案外違ったりする。白い目を向けていたりするのには、かえって驚いたくらいです。人はそんなに馬鹿じゃない。私の感覚ではそうでした。

さて、見逃せないのは、小泉政権が背にしたのが9・11後の世界だということです。テロの翌朝、私の友達は「『あーおもしろい映画やってんなー』と思ったら、何あれ、ビル爆破って!」と息を弾ませていたものでした。その後、ブッシュ米大統領の口からは、「テロとの戦い」「報復攻撃」といった小泉政権ばりの勧善懲悪ストーリーがとどまりしらず流れてくる。(ブッシュはついに「十字軍」という言葉をこぼして、世界に6億人もいるイスラム教徒を敵に回し、異なる文化が協調していく可能性を台無しにしましたが、ここでは深入りしません。)同時多発テロ後の一時、世界は感情論のオンパレードでした。

そんな米ブッシュ政権に恥知らずな追従をしたのが小泉政権でした。

若者が政治に関心をもたないとか、民主主義国家であるにもかかわらず日本社会には政治参加への抵抗感が根ざしているとか、よく言うじゃないですか。けれどそれはすべてではない。私の周りでは、9・11とからんだ小泉政権はけっこう話題にのぼったものです。クラスの友達が「小泉、いやなんだけど。やめてほしい」と暗い顔でつぶやいていたのは、今でも印象に残っています。あの時教室にただよっていた薄暗い雰囲気はなんだったんだろう。今本稿を書き進めながら考えると、それは「将来へのいやな予感」だったのではないかと思い当たりました。世界がまちがった方向へ進んでいる。自分たちが大人になったころには、世界に平和なんて残っていないんじゃないか。自分の人生何十年、そんな世界を生きることになってしまうんじゃないか。そこらの中学で休み時間にのぼる小泉政権の話題は、単純一辺倒な「劇場」の「感想」なんかじゃありません。深刻な不安のかたまりでした。

だから私は案外、人を悲観していないのです。しかしだからといって、小泉が歴史的大勝をおさめたという事実を見て見ぬふりするわけではありません。ポピュリストに対して「なめるなよ」と胸を張れるくらい個々人は冷静で、そうやすやすとブームの熱にのまれはしないといえ、「大衆」の動きとなると話は変わってくる。そう思います。

小泉政権は終われども、負の遺産は今も残っている

小泉政権の特徴としては、「包括的」など、十把一絡げの表現が目立ったことが挙げられます。ていねいな議論はことごとくはねのけ、大衆の感情をあおることに専心する。その姿勢はポピュリストの典型といえるでしょう。

郵政解散(小泉命名であることに注意)後の選挙は、「郵政民営化に賛成か反対か」だけを争点に進められました。当時の国民はそれに乗り、小泉が行うという郵政民営化に熱狂したのです。

しかし、実際の国会は、郵政民営化だけをやっているわけではありません。国家には郵便局うんぬん以外に仕事は山ほどあるじゃないですか。郵政民営化の他にも、様々な法案が議論され、通っていきました。

小泉政権時代に成立して国民の首を絞めた法律や政策は多々あります。すべてには触れませんが、国民生活に直結する例としては、労働者派遣法の改正があります。小泉政権は、派遣期間延長や製造業への派遣解禁を断行しました。また、刑事裁判の被害者参加制度を盛り込んだ2007年刑事訴訟法改正は、小泉内閣が閣議決定した犯罪被害者等基本計画にのっとって行われました。以前基礎の基礎から論じましたが、一見やさしいようなそぶりをしながら、被害者参加制度ほど犯罪被害者にとって酷な制度はありません。人類が多大な犠牲の上にやっと築き上げた刑事司法を無残に破壊した、世界的にとんでもない制度です。犯罪被害者の支援充実は細かく場面ごとに対処法を考えるべきところ、一気に「被害者が求刑できる」にまで持ち込んだ。思考と議論の雑さには目も当てられません。小泉政権は三権のうち、立法府である国会だけでなく、司法まで「劇場化」し、骨抜きにしてしまいました。

郵政民営化に賛成するためだけに投票所へ足を運んだ有権者は、「その他のむずかしそうな政治」にこそ国民生活にとって毒となる法案がまざっていたことに気づいていませんでした。その結果を他でもない自分が飲むことになるとも知らずに……。

小泉政権が破壊したものはあまりに多いのです。約20年が経っても、それらは破壊されたきりになっています。

一時の熱と、その代償

本格的な独裁者でない限り、ポピュリスト政権は何年かのうちには終わっていくものです。飛ぶ鳥落とす勢いだった小泉政権も、2006年9月には終焉を迎えました。今となっては小泉政権を経験した人ですら、「いたなー、そんなの」くらいでリアリティを感じられない存在でしょう。もともとフィクション化されていた政治は、いまや昔のテレビドラマのようなものです。

しかし、ひとたび成立した法律は、そのまま残ります。廃止するにはあらためて立法しなければならないのです。

小泉ブームの熱はなんだったのか。その「劇」は決して、無料の娯楽ではありませんでした。「郵政民営化に賛成か反対か」という単純な「ストーリー構成」で覆い隠されましたが、小泉政権は司法も雇用も無残に「ぶっ壊し」ました。あまりに高い「劇のチケット代」を、私たちは今も延々と「月賦払い」しているのです。

「小泉劇場」なんて鑑賞する必要なかった。というより、観なきゃよかった。

当たり前のことを言いますけど、政治と劇はまったく別物なんですよ。選挙や政治は、テレビの前でえびせんをつまみながら楽しむものではありません。これからの生活がかかっているんです。劇のようなおもしろさはいらない。それにたいてい、娯楽はこの世に生きる楽しみのすべてではない。有権者・主権者として自分たちが生きるこの国の将来に責任を持つことは、あなたが一人前である証です。誇りを持てることです。

ブームの渦中でも小泉の本性を見抜いていた人――ことのほか大勢だということは先に述べた通り――は「なんで私までこんな目に……」と言いたいでしょう。気持ちは痛いほど分かります。なかには「言わんこっちゃない! あの時小泉に投票したやつは責任とれよ!」と怒りを爆発させる人もいるかもしれません。

重い腰を上げて、私たちは後始末をしなければなりません。

破壊されたきりで放っておけば、我々の生きる社会は遺跡と化してしまうのだから。

”ホリエモン”関連ブームとお祭り商法

政治そのものではないとはいえ、このブームには言及せずにはいられません。”ホリエモン”こと堀江貴文ライブドア社長を筆頭に、村上ファンドの社長(「なつかし~」「そんなのいたなー」という声が聞こえてきそうですが)や流行語の「勝ち組/負け組」「負け犬」などをアイコンとした、新自由主義のブームです。時代としては、小泉政権とぴったり同時期であることも忘れてはならないでしょう。

「ポピュリズム的な流行」という新型

もっとも堀江氏の”ホリエモン”というニックネームは本人が自称したものではなく、公認もしていません。しかし、だからといって彼は意に反して第三者に祭り上げられたアイコンなのかといえば、それは違います。

堀江氏は一連のブームの「顔」でした。テレビには連日出演。「愛はお金で買える」など、単純かつ刺激的な言葉で物議をかもすその手法。「炎上商法」は最近の出版業界に始まったことではなく、このころからくすぶっていたのです。堀江氏はカリスマであり、起業家でありながら事実上タレントである。その点でポピュリスト的だったのは、それまでの日本にあった数々のブームとは異なると考えられます。

心の弱い人には「ズバリ言う」だけでカリスマと映る

あの時代の大衆は、堀江氏の思想の中身に共鳴していたというより、圧倒され、雰囲気にのまれて熱を上げていたように思います。

そんな”ホリエモン”時代の人物として私がぜひとも挙げたいのが、占い師でタレントの細木数子です。2004年に始まる「ズバリ言うわよ!」をはじめ、細木出演の番組は高視聴率をマーク。「視聴率の女王」とまで呼ばれました。

相談者を容赦なく罵倒する。「あなたは死ぬ」など不吉な予言で脅迫する。彼女は高額な墓石などを売りつけたとして訴訟も起こされていました。そんな典型的悪質業者がどうやって人気を獲得したのか、彼女を知らない読者はきっと疑問に思うでしょう。当時の彼女の評判はといえば、「一瞬映っただけでブツッとテレビを消すか、好きがって毎週見るかの二つに一つだ」などとよく言われたものでした。ただ、大衆の動きと個々人にはズレが生じるのが常で、私の周りは一人の例外もなく拒絶反応です。クラスには「細木数子、早くブラウン管から消えないかなー」とあからさまな怒りをぶつけている子がいたものです。

では、こんな典型的悪質占い師を好きがっていた人は一体何を考えていたのでしょうか? その理由は「『ズバリ言』ってくれてスカッとする」に集約されていました。「叱ってほしい」というカリスマへ依存したい心理を引き起こされた人もいたようです。不満、不安、不幸で心の弱った人々を「自分が言えないことをカリスマが代弁してくれる」という思いに陥れるのは、ポピュリストの手法そのものです。

では、細木に「ズバリ言」ってもらえば、心にたれこめた不満や不安や不幸は解消されるのか。幸せになれるのか。結果はその反対です。くり返しますが、彼女は高額な墓石などを売りつけたとして訴訟を起こされ、「被害者の会」が設立されている始末でした。

発言の中身を見ましょうよ。

真に他人想いで良識ある人は、人に向かって「あなたは死ぬ」なんて言いっこありません。ほんの少し頭をひねれば分かることです。

ブームを操る最上層部は、うそだと分かってやっている

またこの時代、「負け組」が「勝ち組」に這い上がるという内容のマンガやドラマが世情を荒らしました。

「勝ち組・負け組(もっとセンセーショナルだと「負け犬」)」という流行語に嫌悪感と難色を示す人は多かった。にもかかわらず、他の価値観やライフスタイルを掲げる作品はことごとく流行りませんでした。大衆自らが一つの価値観だけを「翼賛」する様は、本当に気持ち悪かったですね。

さて、そういったエンタメ作品の一つに『ドラゴン桜』という中年男性向けマンガがあります。とるに足らないマンガですが、私はなんとその内容を知っています。同作に熱を上げる中年男性が身内にいたためです。まったくもって無駄な知識ですが、本稿では事例としてこの上ないので、細木数子に続いて”ホリエモン”時代の一例として取り上げようと思います。

同作の主人公は、暴走族だった過去がたたって信用されないことに悩んでいる男性弁護士。彼はひょんなことから偏差値最低・経営ひっ迫の私立高校へ赴くことになり、大学への合格実績向上によって経営を再建しようと思いつきます。スローガン「東大は簡単だ」のもと、落ちこぼれた生徒たちを勉強させて東大に入れ、自分の業務実績をつくって出世しようともくろむのです。(主人公が「バカ」という稚拙な言葉で生徒や周囲の人物を挑発する場面が多用される点で、本作は次に取り上げるポピュリスト・橋下徹元大阪市長の特徴とぴったり重なります。雑な議論や論理の欠如を刺激性や攻撃性でうやむやにする点、主人公が「世の中のルールは頭のいいやつに都合のいいように作られて」いるなどと言って「庶民の味方」のふりをしながら実際に庶民をだましているのは自身だという点をはじめ、本作はポピュリズム的要素の集合体です。フィクションの主人公は作品全体を象徴するキャラクターなので作風は推して知るべしですが、本作に深く切り込む必要はないので立ち入りません。)

普段の私なら、中年オヤジ向けのおとぎ話になんて興味ありません。どうだっていい。たとえ接点があったとしても、都合よすぎて現実味ゼロのヒロインとありえない展開に失笑して終わりです。ところが当時の私は高校生、つまり同作が題材とする大学受験の当事者だったのです。生徒が破竹の勢いで学力を伸ばしていく展開が現実離れしていることは、高校の教職員や受験業界、そして目標のため実際に努力している高校生にとっては火を見るより明らかでした。そのため、同作に反感を抱く人は私の周りにずいぶんいたものです。私にとっても、中年オヤジの欲望のために高校生のリアリティが歪曲されているのは胸が悪かった。そんな陳腐な娯楽に熱を上げる身内には、ほとほとあきれたものでした。

ところがその年、東大の受験者数は唐突に増えました。同作で紹介された勉強法やその効果をうのみにした受験生がいたのです。受験シーズンが終わると、私の国語の先生は各大学の志願倍率表を手に「『東大は簡単だ』と本当に思ったのかねぇ」と鼻で笑っていました。

たしかに、成績の悪かった生徒が一念発起して勉強して名門校に入った、という実話は日本に限らずないわけではありません。しかしそういう実例は、環境的な問題のために本来の力を出せないでいただけの子がほとんど。誰でもそうなれる、という保証書ではないのです。

勉強だけでなく、スポーツ、絵や音楽、ダンスといった芸術関係など、何かをがんばった経験がある人は口をそろえますが、技能の上達や結果は自分の思い通りには運びません。たとえばですが、夢はお医者さんだけど、いくらがんばってもこれ以上の順位が出ない。これでは医学部ぎりぎりだ。水泳の選手で夢はオリンピックの金メダルだけど、脚があと5センチ長くなければ自分が望むパワーは出ない。どんなコーチについたって、脚の長さはどうにもできない。3歳からピアノ漬けの人生を送ってきたけれど、自分はこれより先へは行けそうにない。等々。がんばる人にとって、壁にぶつかるのは一度や二度ではありません。ぶつかったその壁から人生設計の見直しを迫られることすらあります。これ以上は無理だからここであきらめて、別の道を探すべきではないか、と。それでもなお、自分はそれが好きだから、やりたいと思うから、結果がどうなるかはわからなくても全力でぶつかっていく。努力とはそういうものです。「努力は必ず実る」は、全力を出したことがない者しか言いません。夢を与えて励ましているようでいて、それは合理的を欠く、残酷な嘘なのです。

さて『ドラゴン桜』の話に戻ると、勉強したことがある人――つまりほぼすべての人――は熟知していると思いますが、学力とは、出世をもくろむ中年男性にとって都合がいいようにほいほい上がるものではありません。目指す学校は人それぞれですが、受験生は目標とのわずかな距離を縮めるため、地道な努力を重ねます。

では、そんな「うそ八百」を描く作者や編集者、そして新自由主義ブームの関係者は、そんなことも知らなかったのか? 彼らは勉強も受験もしたことがないのか? ……とんでもありません。

彼らは、そんなこと現実には起こりっこないということ前提で、一つのエンタメフィクションを売りに出しただけなのです。作者が「(同作で伝えたかったことは)あきらめないでほしいということだ」などとメディアで語っていたり、本屋で見かけた最終巻の帯に「こんなことはありっこないと分かっていてもつい読んでしまう」旨のコメントが寄せられていたのを覚えています。目を凝らしてみれば、ストーリーの結末は、きちんと、不合格の生徒も出るよう作られています。

私は自分がフィクションを書くようになってから、読者には作家的な視点を持ってほしいと以前に増して思うようになりました。作家は十人十色で、創作意図も千差万別です。出版業界の事情を念頭に置くことも重要です。作品の意図や背景事情まで視野に入れることを含めて「読解力」だし、その読解力がなければ、とんだかん違いをしかねません。

『ドラゴン桜』の創作意図は、メインターゲットである中高年男性に一時の娯楽を提供することじゃありませんか。大学受験や勉強法に関する客観的事実を読者に伝えることではありません。セリフやストーリー展開がそのまま作者の本音ではないのです。……という背景まで読みきれなかった一部の受験生は、フィクションと現実を混同し、国語の先生に鼻で笑われる結果となりました。

もう一押ししておきましょう。本作を信じて受験に失敗したとしても、作者が責任をとってくれることはありません。「うそ八百」を世に吹聴しても違法性は皆無……どころか、魔法ファンタジーでも架空の生き物でもなんでも自由に表現する権利は、私たち人類にとって至高の価値です。描こうと思ったものを描くのは作者の表現の自由。作品についてどう思ったかは読者の自由。判断とそれに基づく行動は、全面的に読者の責任。表現物との付き合いは、かくも厳しいのです。

では、ターゲット層である中高年男性の読者はどうか? 家庭には不満だらけで、仕事でもうだつがあがらない。そんなつらい現実をマンガ本を開いている間だけは忘れて、「あぁ、自分にもこんなことがあったらなぁ」とほんわか息抜きしました、というならまだほほえましいケースもあるでしょう。軽く受け取り軽く受け流したなら、エンタメの目的に照らして筋が通っています。しかし、セリフやストーリー展開をそっくりそのまま妄信したなら? うそだと分かった上で「商品」を作って売りさばいた作者サイドと、そんなものをうのみにして熱を上げ、金をみついだ読者。この圧倒的な力関係、大衆の立場の驚くべき低さ弱さに気づくことは、たとえどんなに苦くとも、今後新手のポピュリズムにだまされないための予防薬となって絶大な効果を発揮するでしょう。

一大ブームの〈陳腐さ〉について

私が”ホリエモン”ブームを心底憎んでいたということは別の機会に話しました。その思いは、ブームを支えたアイコンが一つ残らず死語となった今も、決して変わることはありません。

ただ、そんな私が少し違った景色を見たのは、「ビジネス」という視点を習得した時でした。

ビジネスには「ブランディング」という概念があります。ブランディングとは、自社の商品を同業他社と差別化して、顧客にわかりやすく伝えることを意味します。たとえば、パソコン周辺機器メーカーの新企画だったら「新ブランド”ラグジュメモリ”は、『ビジネスシーンを格調高く』をテーマに、上質なカラーリング、無駄な飾りを省いたデザイン、そして当社独自開発のセキュリティで勝負します」と決めることがそれにあたります。商品や会社を思い浮かべれば、なるほどと納得できますよね。

ところが、一部ではありますが、実業家にはブランディングが高じて「自分をブランディングする/自分をプロデュースする」ことを奨励する者がいるのです。これはビジネスのために自分という人を「キャラクター化」して売り出すことに他なりません。ブランディングが暴走すれば、実業家はタレントと同質になってしまうのです。

では、生身の堀江氏がビジネスのために”ホリエモン”を演じているなら、彼の言動はどこまで本音なのか? 私は高校生のころは堀江氏は言葉通りの考えの持ち主だと思っていたし、その考えを真っ向から批判していました。しかし今は、少し違います。彼のメディア上での発言はすべて「キャラづくり」の一環だと思って見るようになったからです。中身のある言動じゃなかったんだ。彼個人のビジネス目的にすぎなかったからといって、彼の言動それ自体が批判の対象から外れるわけではないし、あれだけ社会を荒らしまわった社会的責任が消滅するわけでもありません。ただ、こうしたビジネスという視点を持てば、社会で起こる様々な事象を、より高い視点から俯瞰できるようにはなると思います。

このことは堀江だけでなく、”ホリエモン”ブームのアイコンすべてに言えるでしょう。細木数子は本当に、自身の占いに信念と確信を持っているのか。私は全然占い好きではないのですが、だからといって霊感商法をやり玉にあげて占いとうさんくささを結び付けるようなことはしません。世の中には変わった人がたくさんいて、人間や人生の解釈は多様だからおもしろい、というところにもってきて、国や文化によっては占い師が名誉ある地位だったりするからです。ただ細木の言動に、そういう敬意に値する体系はあるでしょうか。典型的な霊感商法じゃないか。『ドラゴン桜』の作者サイドが自覚の上で現実にあり得ないストーリーを描いたことは、前述のとおりです。

ブームを作って動かすアイコンたち、いわばブームのトップ層は、うそだと分かった上で、自分のビジネス(つまり金)のために大衆を扇動している。熱を上げた大衆は、自主的に彼らへ金を差し出す。熱気のるつぼから一歩ひいてながめれば、痛ましくて見られたものではありません。

「ブームを人工的に作り出して大衆を扇動する」といったら、どれほど敏腕な悪人なのかと思いますよね。ところが探ってみれば、行き当たったのはごく個人的な仕事を模索する、ただのビジネスパーソンだった。「大衆を裏から操作する」なんていったら、この上なく狡猾な人物を思い浮かべるでしょう。しかし実際出てきたのは、「ブームに乗れば金をつくれるぞ」という考えしかなく、自分の言動が社会全体にどういう影響をもたらすかという視点や責任感が欠けているだけの人だった。

”ホリエモン”ブーム以来、アレントの『イェルサレムのアイヒマン』を想起させる〈陳腐〉なお祭り商法、そしてポピュリズムが目立っていると思います。

「のせられ癖」「だまされ体質」から脱却しない限り……

2005年の大みそか。堀江氏はその年を代表する人として「日本レコード大賞」の最優秀新人賞プレゼンターを務めました。発表が終わったと思ったら、壇に残った堀江氏は、こともあろうに「来年はもらう側でここにいたい」と言い放ったのです。忘れもしません。私はテレビの前でそれを目撃しました。「CDデビュー以前に歌なんて歌えんの?」というもっともな疑問はありましたが、不可能なレコード大賞ですら可能にするかもしれないと思えるくらい、彼の勢いはとどまるところを知りませんでした。

そんな堀江氏が逮捕されたのは、2006年の1月。「レコード大賞宣言」から、1か月も経っていませんでした。

”ホリエモン”時代が終わり、一連のブームは急速に冷めました。

そして私が大学生になるころには、「ライブドア事件」は『判例百選』に掲載されていた。

非常に厳しいことは承知ですが、どうしても言っておきたいことがあります。耳に痛いかもしれませんが、だからこそ耳に届けなければ世のため人のためにならないからです。

当時、

  • ”ホリエモン”に賛同していた。または彼をすごい、かっこいいなどと思った。
  • 細木数子の番組を見ていた。
  • 『ドラゴン桜』(または同じような「負け組」が「勝ち組」を目指す内容のマンガやドラマ)をおもしろがっていた。
  • これらに嫌悪感を抱かなかった。
  • 疑問を感じなかった。

一つでも該当した人は要注意。自分自身を省みるべきです。

ブームの「顔」が逮捕されたらあっという間に冷めてしまう程度のものでも、一時は熱を上げていたという事実はごまかせません。10年が経てばすっかり死語となった「勝ち組」に、一時は「なりたい」と思っていた。夢中になって、関連商品にお金を払っていた。重く受け止めるべきです。どうして当時はそんな程度のものだと見破れなかったのでしょうか?

「のせられ癖」「だまされ体質」から脱却できていないなら、今後もまた別のブーム、別のポピュリストに踊らされるでしょう。

では、今後どういう心構えでどう生きていけばブームにのせられなくなるでしょうか。そのヒントはポピュリズムの事例から見つけることができます。まずは、自信たっぷりの大声に威圧されて雰囲気に飲み込まれるのではなく、発言の中身で判断すること。また、広い視野を持って、物事を客観的に見るくせをつけること。そして何より、勇気を持つこと。

カリスマ社長や、占い師や、サラリーマン向けおとぎ話に熱を上げたところで、給料が上がるわけでも、将来への不安がなくなるわけでも、家庭内不和を解消できるわけでもありません。どちらかといえば、事態は悪くなるでしょう。勇気を出して自分が抱える本当の問題に立ち向かうことは、現実から逃げ回る人が想像するほど過酷なことではありません。

橋下徹大阪市長と維新の会

橋下徹・元大阪市長の本業はタレント。芸能事務所に所属しています。つまり彼は自分自身を「キャラ」に仕立てるプロであり、「マスコミ映え」する言動を熟知しています。子どもっぽい可愛らしさと憎めないキャラ(こうタイピングしながら鳥肌が立った)は、「僕」という一人称がよく表しているでしょう。実際、社会面には橋下市長の「ファン」だという高齢の女性が大阪市役所を訪れ1億円を寄付したというニュースがありました。「ファン」を自称する者が現れること自体に、彼の本質がにじみ出ています。

私は彼のことはポピュリストの典型だとみています。それ以上の評価はしていません。ここでは注目点を4つほど挙げておくにとどめます。

一つは、繰り返しになりますが彼は小泉のような「タレント化した政治家」ではなく、「政治家になったタレント」であるということ。日本社会の芸能化が一段深くなったと感じます。

二つ目は、Twitterで頻繁に特定の市民を「バカ」と罵ること。在任当時たびたび問題になったこの傾向は、政界を引退した(公職についていないだけで政治的活動は続けているが)今も健在です。たとえば最近ではこんなツイートがありました。

橋下徹がツイッターで他人を「バカ」と罵倒した投稿
これは元大阪市長の発言である。なんと飲み屋での雑談ではない。

「バカ」という稚拙な言葉が人気取りの柱なら、「ショー」で食っていくため彼は今後も吐き続けなければならないでしょう。

しかし、政治家の発言とお笑いコンビのツッコミは水と油だという原理は永遠に変わりません。公務員は全体の奉仕者です。特定個人を「バカ」と罵る人物は、果たして大都市・大阪の市長としてふさわしかったか。市民のために「維新」するという政治家が、その市民に向かって「バカ」なんて吐き捨てるのはおかしくありませんか? ほんの少し頭を冷やせばわかることのはずでした。世の中は決して、難問で埋め尽くされているわけではありません。こんなかんたんな問いもあるのです。

ところで「バカ」という言葉なら、5歳の子でも知っていますよね。橋下氏は誰にでもわかる言葉を「キャラづくり」に採用しました。「宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目指すべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである」とはヒトラー『わが闘争』の一節であることを付記しておきます。

3つ目。他の政治家やメディア各社を「自称インテリ」などと呼んだり「勉強を」と呼び掛けたりすることで「既存のエリートと対決」する姿勢を打ち出す。冒頭の定義に戻ってもらえば、これも典型的手法だということがわかるでしょう。

最後に私が指摘しておきたいのは、橋下氏は文化・芸術への言及が多いということです。良識ある政治家は、例外なく、文化・芸術にはノータッチを貫きます。政治権力が表現物へ踏み込むということの重大な意味を理解しているからです。

トランプ大統領

そしてついに、こんなのが出てしまった。なんだかんだ言って世界一の超大国であるアメリカの大統領に、どう見ても情緒不安定な白人男性至上主義者が!

大統領選の日、私は陽のさし込む原宿のカフェでソファに深く腰掛け、ぼーっとしていました。グラスのアイスティーが半分くらいになったころ、若い女性の二人組が入ってきてななめ前のテーブルにつきました。スマホを取り出すやいなや「トランプ優勢だって!」「うそ! やばいじゃん」。私は飛び起きました。

その日のSNSは忘れません。私のタイムラインは、アメリカ人の悲鳴で埋まりました。しかもひっきりなしに新着投稿が積み上がっていく。興味深い場面も見ました。ブレグジット後だったイギリス人が「痛みはわかるけど、あなたたちの投票結果には任期という期限があるわ」と励ましを投稿したり、トランプ勝利を祝う席でナチスのポーズをとる女性の写真にドイツ人が「恐ろしいことだ」とコメントしたり。葬式のように沈痛な日であった一方、海を越える連帯意識も現れていたのは印象的です。

「データ分析の勝利」―新しいテクノロジーによる心理操作

では、あんな粗暴で極端に自己中心的な人物は、いかにして超大国の大統領になったのでしょうか。

トランプ当選の立役者は「個人情報の分析」だともいわれています。SNS史上最大最悪とされるFacebookとCambridge Analyticaの事件がそれです。私のブログでは以前の記事で徹底解説しました。今日のテクノロジーにかくも恐ろしい悪用方法があるということは、現代に生きるすべての人に知られるべきだと考えています。

詳しくはこちら:インターネットからの個人情報流出事件解説と、自分でできる対策

大衆の味方・トランプ??

太平洋をはさんだ日本から見れば明らかに危険人物なトランプ氏ですが、彼は一貫して一般大衆の味方の振る舞いを続けています。大衆の漠然としていてぶつける先もない不満をくみ取って、既存のエリートやメディアをこき下ろし、自分こそが大衆の味方であり、改革者であると。

「演技」をうのみにしたアメリカ人は、彼の支持者となっていきました。本当はトランプ氏が彼らのために何かしてくれるわけじゃないんですけどね。選挙から1か月も経たないうちにがっかりして「元」支持者となった人もずいぶん出たんですけどね。

しかし、トランプ氏が非難するのはエリート(正確には、彼が「敵キャラ化」したイメージの上でのエリート)だけではありません。トランプ氏は、こともあろうに、すでに葛藤のうちに生きているマイノリティや社会的弱者を「敵キャラ指定」して、罵倒し、大衆の感情をあおり立てます。小規模ではありますが、この傾向は日本のポピュリストたちにも見られました。ポピュリストにとっては、多数の支持をとりつけることが自身の正当性、そして生命線です。だから少数派は切り捨て、捨てるだけではもったいないから「敵キャラ」として利用する。悪の発想です。

ポピュリストはプロレスのごとく大衆の味方をよそおって人気を集めるけれど、裏には必ず、冷酷で残虐なもう一つの顔を持っています。

痛手だった、反対運動の欠陥

そんなトランプ氏が共和党候補となって以来、アメリカではかつてない規模の反対運動が展開されました。私のSNSには選挙以前から、反トランプの投稿がしょっちゅう流れてきたものです。

にもかかわらずトランプ氏が勝利したのはなぜなのか? この問いの答えとして、データ分析とその活用のほかには、反対運動に致命的な欠陥があったことが指摘されています。

トランプ反対運動は「アイデンティティ・ポリティックス」に陥りました。反対者たちは、トランプ氏が民主主義の根幹を崩さんとしていることを批判して民主主義とその精神を擁護するのではなく、「黒人の誇り」「女性の誇り」「LGBTの誇り」など、具体的かつワンランク低い価値を持ち出して戦ってしまったのです。結果、「政治においてトランプ陣営の取り分が多すぎるので、黒人の取り分、女性の取り分、LGBTの取り分を大きくしたい」という権力の分配問題に帰結してしまった。重要な政治運動を「イス取りゲーム」にしてしまったのです。

ではトランプ氏にさんざん差別発言をぶつけられている黒人や女性やLGBTやヒスパニック系にもトランプ支持者がいるのはなぜなのでしょうか? 彼らは何を考えているのか? この点については、複雑なアメリカ社会を背景に、分断や、最も不健全な民衆心理である「下へのルサンチマン」などといったいくつもの要因が指摘されていますが、私としてはこの記事を細木数子のところまで戻ってもらえればと思います。

失敗というのは意図してするものではありません。結果が出てから「こんなはずじゃなかった」と後悔するのが失敗というものです。

アメリカの反トランプ運動の失敗から、我々は賢く学ぶべきでしょう。

ポピュリストとしての実力は?

近年のポピュリズム研究のきっかけとなったトランプ大統領ですが、彼自身の実力はどうなのでしょうか。

「仮にポピュリストの国際競技大会が開かれても、トランプ氏はメダルを取れないでしょう」(朝日新聞2018年11月7日)――これが政治学における通説的見解のようです。危惧の声はむしろ、ロシア疑惑という隙があったトランプ氏が賢くなって隙をなくすこと、あるいはトランプ氏よりも思想に一貫性のある若い指導者が現れることにあるようです。

しかしどうでしょう。私は少し別の見方もしています。歴史に残る独裁者は、案外トップレベルの実力を持っていないことが多いからです。自分より実力がある者を粛正することで、独裁者のイスに君臨し続けるのです。

トランプ政権が今後どう動き、どんな結果を残すのかは、現在進行形で注視するところです。

おわりに―残る傷を知ればこそ

私が育った時代は、21世紀型のポピュリズムが勃興したのと同時期です。小泉政権に始まり、大阪維新の会、そしてトランプ大統領――ここまで歩んできた人生、かたわらにはいつもポピュリズムがありました。

ヒーローのふりをして現れては熱風をあおり立て、私腹を肥やすだけ肥やしたら去っていくポピュリストたち。彼らが社会を破壊する様をこの目で見たから、ブームが冷めた後も残る傷が今も私たちをむしばんでいるから、私はポピュリズムに強い問題意識を持ち、作品や記事で何度も警鐘を鳴らしているのです。

あとに残る傷を知れば、予防したくなる。それもまた、人間の欲求です。

ポピュリズムの予防薬は、すでにこんなに出回っているではありませんか。予防薬とは、過去の例と失敗のことです。

まずは薬を服用しましょう。そして素材(本稿でも大量に取りそろえました)から、自らいろいろ煎じてみてください。その試行錯誤はとてもいい勉強になります。

私は決して忘れません。将来を真剣に不安がっていたクラスメート。普段は一日ワイドショーでも小泉政権に白い目を向けていた近所のお年寄り。トランプ氏の当選でSNSに悲鳴を投稿したアメリカ人。私は、個人の力をいかに開花させ、結果に結びつけるかが今後のカギだと考えています。

「小泉劇場」に参加するため投票所へ足を運んだ。”ホリエモン”などのカリスマを応援していた。そういう経歴がある人は、自分がのせられだまされたという事実を飲み込むことに抵抗を示すかもしれません。恥ずかしがるかもしれない。目をそらすかもしれないし、じたばたするかもしれない。けれど、失敗という薬は、苦ければ苦いほど、飲めば特効薬となるものです。

今回はエッセイ形式でつづってきたので、取り上げたポピュリストの特徴をまとめたり、民主主義との関係に触れたりしたところで不足が出てしまうでしょう。なので今回はこのあたりで筆を置くことにします。ポピュリストが立ったことでかえって目を覚ました人々が、世界各地で様々な試みを広げています。すぐれた研究も多数出てきています。対ポピュリズムの予防薬と治療薬。これからも研究開発していきたいです。

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