映画『ライフ・イズ・ビューティフル』あらすじと感想―愛しく悲しい極限の笑い

『ライフ・イズ・ビューティフル』(ロベルト・ベニーニ監督・主演、伊・1998年)は、映画通からの評価が高い名作です。1998年のカンヌ国際映画祭で審査員グランプリに輝き、翌年のアカデミー賞でも7部門にノミネートされて主演男優賞、作曲賞、外国語映画賞を受賞しました。今回は、本作のあらすじを紹介したうえで、私の感想を綴っていこうと思います。(以下、結末までのネタバレを含みます。)

『ライフ・イズ・ビューティフル』あらすじ

1939年、イタリア。陽気なユダヤ人のグイドは、叔父を頼るため、友人のフェルッチョと共に田舎町アレッツォにやって来た。車のブレーキが壊れてしまったのであぜ道で修理していると、納屋の二階から女性が落ちてくる。その女性・ドーラに一目ぼれしたグイドは、持ち前の機転と笑いで、突拍子もないアタックを重ねていく。

グイドの叔父・エリゼオは、芸術品だらけの家に住んでいる、少し変わり者だが親切で礼儀正しいユダヤ人だった。グイドは書店を開く申請をしに役所へ行くが失敗。グランドホテルのレストランで働いているエリゼオの助けで接客係の仕事を得る。常連の医師・レッシングとは得意の謎かけで親しくなり、夜遅くに到着したローマからの視察官にとっさの機転で料理を出すなど、接客係としてうまくやっていた。

翌朝、グイドは視察官になりすまして小学校へ。教師をしていたドーラの前に現れて驚かせ、日曜日の予定を聞き出すと、アーリア民族の優位性を説く授業をめちゃくちゃにして窓から華麗に去って行った。日曜には劇場へ。オッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』が終演すると、運転手になりかわってドーラに再開する。毎回驚きの登場をするグイドに、ドーラの心は近づいていった。

ファシズムの波は押し寄せていた。エリゼオの白馬はペンキで落書きされ、グランドホテルのパーティーではナチスの障害者差別が話題にのぼる。そのパーティーは、傲慢な役人・ロドルフォとドーラの婚約発表だった。衝撃を受けるグイドだったが、どさくさにまぎれてドイツに呼び戻されたレッシング医師に花を贈り、落書きされた白馬でドーラと鮮やかに走り去ったのだった。

数年後、二人は結婚して小さな書店を開き、息子・ジョズエと幸せに暮らしていた。他方、町では軍人が闊歩し、ユダヤ人に対する排除や攻撃は激化していた。

そしてジョズエの誕生日、グイドは息子、叔父とともに連行され、強制収容所行きの輸送トラックに乗せられる。恐怖と絶望で静まり返ったユダヤ人のたち。まだ幼い息子から「どこに行くの?」と聞かれたグイドは、とっさの機転でウソをついた。これは誕生日のサプライズだから行き先は言わないが、大人気の楽しい旅行でやっと切符を買えたんだ、と。続いて、ジョズエが「ゲームをするの?」と言ったのに乗じて、そうだ、これはみんなで競争するゲームで、失敗すると家に帰されてしまうが一等になればおもちゃではない本物の戦車をもらえるんだ、さらに、ナチス兵が収容所の規則を説明しに来た時には通訳を買って出て、兵隊は悪役だから怒鳴る、1000点とれば戦車をもらえるが、泣き出す者、ママに会いたがる者、おやつをほしがる者は減点だ、とウソをどんどん重ねていき、強制収容所での人にあらざる生を陽気なゲームだということにしてしまった。時同じく、夫と息子の連行が手違いだと認められなかったドーラは、汽車に同乗し、女性収容所へ送られる。二人は互いを一目見とめたものの離れ離れになってしまったが、グイドは機会を見繕っては軍の拡声器を拝借したり、『ホフマン物語』の『舟歌』のレコードを流したりして、自らと息子の無事と愛を伝えたのだった。

大人であるグイドは危険で過酷な強制労働に駆り出される。子どもたちは「シャワーを浴びろ」と命じられたが、ジョズエは根っからの風呂嫌いが功を奏して逃げ隠れしたため、ガス室を逃れた。しかしそのころ、エリゼオは他多数の老人とともにガス室へ送られていた。

身体検査との名目で集められたグイドは、いまやナチスの軍医となっていたレッシング医師と思わぬ再開を果たす。レッシングの計らいで彼は虐殺を免れ、ナチス将校たちの夕食会で接客係をすることになった。

どんどん人が減っていく収容所で、ジョズエは父親のウソに気づき出す。他のユダヤ人から現実を聞いたのだ。帰りたいと言い出したジョズエに、もう少しで戦車で家に帰れるのに残念だ、と必死でごまかすグイド。そんな時、ドイツ人将校の子どもたちがかくれんぼで遊んでいるところに出くわしたグイドは、ジョズエを彼らにまぎれさせることに成功した。

夜、強制収容所のナチス兵たちが混乱状態に陥る。戦争が終結したのだ。残っているユダヤ人を一掃しようと悪あがきに走るナチス兵。家族いっしょに脱走するチャンスだとみたグイドは、「みんなが一等のお前を探しているから絶対に見つかるな」「パパの帰りがどんなに遅くても、静かになって誰もいなくなるまで外には出るな」と言いつけてジョズエを箱の中に隠し、女装してドーラを探しに行く。しかしナチス兵に見つかり、捕まってしまった。もはや万事休す、歩く先は死のみとなったグイド。だが、ジョズエを隠した箱の前を通る時には、かつて町で暮らしていた時にやってみせた大げさな行進のポーズでおどけて見せ、ウインクを投げかけて幼い愛息を笑わせた。こうして最期まで優しいウソを通したグイドは、角を曲がったところで名もなきナチス兵に銃殺されたのだった。

朝になると、強制収容所は静まり返って、誰もいなくなった。ゴミ箱からひとり、とぼとぼと出てくるジョズエ。そこへ本物の戦車が現れた。ジョズエは、ゲームに勝ったから戦車をもらえたんだ、約束通りママと一緒に帰れるんだと目を輝かせた。気さくなアメリカ兵に戦車に乗せてもらい、収容所を出ていくと、生き残ったわずかなユダヤ人たちが家路についていた。ジョズエはその中に母親・ドーラを見とめる。「ぼくたちはゲームに勝ったんだ!」とかけ寄ると、ドーラは「そうよ、勝ったのよ」と抱きしめた。

大人になったジョズエは、幼い日の驚きに満ちた話を回想している。それは、グイドが命を懸けた贈り物だったのである。

感想―愛しく悲しい極限の笑い

私は日ごろ、社会の矛盾や困難にユーモアを以て立ち向かうのは一つの大事なアプローチだと考えているのですが、さすがにこれは――。

ピエロの顔は泣き顔だと言います。ホロコーストを喜劇仕立てで描いた稀有な作品『ライフ・イズ・ビューティフル』でわが子の笑顔を守るため、必死でウソをつき続けるグイドの道化はどこまでも悲しかった、というのが私の率直な感想でした。映画として力作で、愛しさがあふれだしてくる作品でもありました。

以下ではストーリーから美術、音楽など各所を手に取り感想を綴っていこうと思います。

「映画の頭」で構築された作品世界

私には一時期、名作だと呼び名の高い映画をピックアップしては見ている時期がありました。そういった作品は必ずしも自分の好みと合っていなかったり、映像が古くて見づらかったりしたのですが、私がそれでも手を伸ばしたのは、自分とは異質な人々の感性や目の付け所をなぞってみたかったからでした。『ライフ・イズ・ビューティフル』はそうして手に取った名作の一本なのですが、なるほど、美術からストーリー構成、音楽に至るまで、これは「映画の頭」でつくられた作品だなと思いました。

今日、映画業界には息をもつかせぬ急展開や複雑な人物相関を描く作品が多くあり、人々の人気を集めています。ストーリーの先が読めないことを価値だと思い込んでいるファンも少なくありません。ですが、表現方法という観点からすれば、そういった要素は小説向き。文章であれば、読者は複雑なストーリーをゆっくり咀嚼でき、ページを戻って何度でも確認できるからです。それとは対照的に、情報量が少なめで抑えられ、流れたら最後戻ることもできない「映像」という表現方法では、登場人物の設定や構図はかなり模式的でいいんですよね。

その点、『ライフ・イズ・ビューティフル』の人物設定のわかりやすさは映画的だと思いました。地位はあるけど人柄に難がある「卵男」ロドルフォ。お金持ちの人生が窮屈なドーラ。そして結ばれた二人の間に生まれた愛らしい子、ジョズエ。特にグイドの相方、フェルッチョなんてキャラクター設定からして映画向きなんですよね。彼はストーリーの核心にはちっとも関係なく、強制収容所へ連行されたグイドとは別れ別れになったきりで後半には登場がないんですけど、ああいうちょっとまぬけな相方が隣にいて、ドタバタかけ合いをするシーンを撮れることに意味がある。映画ならではのおもしろさです。

エリジオ叔父さんの人柄は、背景に映っている美術品や音質の花々、物腰やしぐさから読み取れるようになっています。つまづいたドイツ人将校に「大丈夫ですか」と声をかけるシーン。エリジオ叔父さんの人のよさも、ドイツ人将校の冷酷さも言葉ではなく顔の表情やしぐさによって示されるのは映像らしい表現ですね。そこでシーンがプツリと切られ、この先の苦しみが想像にゆだねられるところも……。

そして『ライフ・イズ・ビューティフル』の名シーン、一度見たら忘れ得ぬグイド最期の笑顔です。おもちゃの兵隊のような大げさな行進が、箱の穴から見える。パントマイム的な要素やコマ割りのような画面分割も「映画=動く絵」ならではの表現です。

そんな本作は、監督が主演を務めているんですよね。喜劇王チャップリンが活躍したモノクロ時代を彷彿させる、銀幕のカラーを感じました。

喜劇仕立てに一役買った音楽

こうして文で書いていると伝わりにくいかもしれないのですが、私は本作が喜劇として成り立っているのは音楽によるところが大きいように思いました。

絶望に打ちひしがれた収容所の場面でも、BGMはほぼずっと流れています。それはフル音量のオーケストラが奏でるドラマチックな悲愴ではなく、往年のチャップリンを思わせるような、ひょっこりと物悲しい曲なんですよね。これ、もしBGMを取り払ったり、あるいは違った曲調をあてたとしたら、作品全体の趣旨まで変わってくるなと想像できるんですよ。『ライフ・イズ・ビューティフル』の味付けを決定したスパイスは音楽だったのではないかと思っています。

『ホフマンの舟歌』は冴えた選曲

BGMだけではありません。キーとして使われる『ホフマンの舟歌』の選曲には冴えを感じました。

あの美しく、耳に残る舟歌はオペラ『ホフマン物語』の名曲で、同演目が上演されるときのみならず、クラシックのコンサートでもしばしば選ばれる曲目です。その作者・オッフェンバックなのですが、彼はドイツ出身なんですよね(後にフランスに帰化)。軽快な音楽で知られ、風刺作品を多く手掛けた作曲家です。そして彼のオペラ『ホフマン物語』は、ドイツの実在の詩人・ホフマンが主人公。有名な『舟歌』は、ホフマンが度重なる失恋で酒におぼれ、ゴンドラと舟歌が行き交うベネチアにやって来た場面で歌われる甘い恋の歌です。

甘美な恋歌で、舞台がイタリア、ドイツとも縁が深く、コメディとも点線でつながる『ホフマンの舟歌』という選曲は、『ライフ・イズ・ビューティフル』の作品全体とよく合っていたと思います。同じくホロコーストを描き、静かな夜に響くショパンが多くを語った『戦場のピアニスト』ほど象徴的ではないのですが、戦争での敵味方、ジェノサイドでの被害加害関係を音楽が越えていくのは芸術だからなせる業。いつどこで何度見てもいいものです。

物語としてはちょっと無理がある?

と、このように『ライフ・イズ・ビューティフル』は「映画=動く絵」という表現方法から組み立てていった作品世界ゆえ、物語としてはやや無理が出ているかなと思います

まずドーラが収容所行きの汽車に同乗させてもらうという箇所は現実的でないんですよね。それに、ホロコーストの実態からすれば、三人ともユダヤ人収容所で最後の日まで生き残っているのは、遺憾ながら不自然と言わざるを得ません。ラストでジョズエがママと再会してエンディングを迎えるのは、「絵」としてはまとまりがあるのですが、物語としてリアリティがあるとはいえないでしょう。

「笑いで対抗する」というのは悪政や社会問題に対するれっきとしたアプローチで、芸術分野の特権でもあります。古典的なところでは「はだかの王様」など典型ですよね。

だけど、テーマがホロコーストでは、さすがに厳しい部分はある。強制収容所に送られたユダヤ人を主人公に描くならなおさらです。

古今東西、横暴な権力者にはたいていこっけいな一面があるものですが、ナチスの強制収容所は暴力と虐殺を目的とした究極の官僚制組織。笑える箇所がありません。しかも歴史上の重大な事実なので、たとえば「陽気なグイドが笑いによって人々の心を変え、収容所を解放したのでした」といったパラレルストーリーをつくるのも適切でない。これを喜劇仕立てにするのは至難の業です。

『ライフ・イズ・ビューティフル』の作品紹介ではよく「どんなに過酷な状況でも希望を捨てなかった」などと書かれているのですが、この言い方も本当にそれでいいのか、疑問をはさむ余地はあるでしょう。なぜなら、ホロコーストの過酷さは人為的に作られ、不当に強制されたものだからです。山で遭難した人のサバイバルを描いた映画なら「過酷な状況でも希望を捨てなかった」と言ってふさわしいでしょうが、ホロコーストには悪が存在します。希望を強奪した者がいる。そこに、漠然としているゆえ何でもかんでも内包できる「過酷な状況」といった語をあててしまえば、ナチス強制収容所で実際行われた人にあらざる所業が過度に相対化されてしまうきらいがないとはいえません。

ナチスは「はだかの王様」とは違うし、ホロコーストは単なる「過酷な状況」ではない。人道危機の描き方にやや不足感が出てしまうのは、このアプローチをとった以上はしかたないかなという感じでした。

差別があるなんて無垢な子どもにはとても言えない

と、不足はなきにしもあらずと言いましたが、本作は決してホロコーストの残酷さを描けていないわけではありません。むしろ最初から最後まで、差別の広がりや小学校での軍国主義教育、ユダヤ人に対するヘイトクライム、収容所での強制労働や虐殺といったファシズムのあらゆる側面を見せています。

私がいきなりグサッときたのは序盤で、グイドが「ユダヤ人と犬はお断り」の張り紙をごまかす場面でした。あっちの金物屋は「スペイン人と馬」、向こうの薬局は「中国人とカンガルー」だとおどけてみせて、ユダヤ人が差別されている現実を隠すのです。

自分たちが犬と同列だと見下され、排除されているなんて、天使のようなジョズエくんには言えないんですよね。深く傷つくにきまっているから、見せないことで無邪気な愛息の心を守っている。

今日、私たちは差別の問題を平然として取り上げますが、果たして本当にその破壊力のすさまじさを理解しているでしょうか。本質的に、差別とは「存在価値が低い」と烙印を押すこと。人間が差別されることで受ける心の傷は、「お前はいらない」という暴言のそれと同種です。情報が飛び交い、絶対量が増えるなか、私たちは差別の破壊力を過小評価するようになってはいないでしょうか。

虐殺があるなんて無垢な子どもにはとても言えない

ユダヤ人への差別の時点で心が壊れるというのに、ましてや「これから虐殺される」なんて天使のようなジョズエくんにはとてもじゃないけど言えないんですよね。

私の胸がつぶれたのは、ジョズエがウソに勘づき出して家に帰りたいと言い出すシーンでした。グイドの「ゲーム」はそこまでずっとハチャメチャだったのに、ここだけは常識を引き合いに出しているのです。ユダヤ人が石けんやボタンにされるという話には「人間が石けんやボタンにされるわけがない」「明日の朝、バルトロメオで手を洗うって?」、服のボタンを指さしてみせて「これが人だと?」、かまどで焼かれる話には「かまどで燃やすのは薪であって人間じゃない」「『薪が足りないから、そーれ、弁護士をくべるぞー』なんてあり得ないじゃないか」、と常識の連続。

ナチスの強制収容所では、常識のほうが嘘で、突拍子のない話のほうが現実だというところに、もう何と言ったらいいのか――。(もっともユダヤ人が石けんにされたという話は今日では噂にすぎなかったとされていますが、遺体からとった髪の毛や金歯などは実際に利用されていました。)

グイドのとっさのウソは、常識ではあり得ないことが現実に行われたというホロコーストの重い歴史を突き付けてきます。

独創的な美しさ

ユダヤ人大量虐殺をテーマとした作品に語弊を恐れず言うなら、『ライフ・イズ・ビューティフル』はタイトル通り「美しい」作品でした。映画としての出来が良く、道化として悲しく美しいのです。

ベニーニ監督が脚本、主演まで一手に務めたというだけあって、演技、カメラワーク、音楽などすべての要素にコントロールが行き届き、強い意志を感じます。アイデアがあり、意図があり、統一感がありました。アイデンティティがはっきりした作品だという印象です。

愛すべき人物たちや『舟歌』の甘いメロディ、チャップリン以来の喜劇の演出、あとはちょっとあり得ないような話も含めて『ライフ・イズ・ビューティフル』には独自の映画的な美しさがありました。その独創性は、自分なりの真実を完成させるというアーティスト魂のたまものだと思います。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSE

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