学校でいじめが起こる原因まとめと、そこから見えるできること

以前、苦しいなら不登校でいいんだという話を、私自身の経験や見聞にもとづいてたっぷり書き綴りました。不登校の理由は様々ですが、語るに絶対外せない要因といえば「いじめ」でしょう。学校でのいじめは、時に人が聞いて信じられないほど残酷になります。被害者に残る傷は深く、これまでも刑事事件となったケースが報じられるたびに世の人を震撼させてきました。

なぜそのようなことが起こってしまうのでしょうか? 今回はあらためて記事を一枚割き、こちらの問題にスポットライトを当てたいと思います。基本的には第三者視点で説明していきますが、現在被害に遭っているという読者は、ぜひ以下リンクを併せて読んでいってください。

参考リンク:苦しいなら不登校のままでいい7つの理由

いじめの内容と種類

最初に、定義をかんたんにまとめておこうと思います。

身体的・精神的

まずは分類から入りましょう。

身体的ないじめとは、殴る蹴る等の暴行を加えるものです。誰にでも想像しやすく、言わずもがなという感じでしょう。

一方、精神的な傷を負わせるタイプには、いやがらせ、悪口、無視(シカト)、仲間外れ(ハブ)などが含まれます。メールやチャットなど、ネット上で行われる場合もあります。

ただほとんどの場合、身体的・精神的いじめは複合しています。たとえば、加害者が相手を殴る時に黙りこくっているというのは現実的でありませんね。おそらくは拳といっしょに馬鹿にするような言葉をあびせるでしょう。また、汚物を利用するケースでは、本質的に身体的・精神的なそれがまざっています。内容によって被害者に必要なサポートが変わってくるこそありますが、どちらのほうが重い、ということではありません。

なぜ幼い子が残酷になるのか?

思春期の学年(小学校高学年~)でのおぞましい体験談は、残念ながら誰しも一つや二つ耳にしたことがあると思います。

ただ、幼児や低学年ならたいしたことはできないか、といえば必ずしもそうではありません。低年齢でのいじめは、時に大人が驚くほど残酷になることがあります。それは幼い分、見聞にとぼしく、ある意味無邪気なため(たとえば「人を殴ってはならない」「差別はいけないことである」といった情報に十分ふれるだけの時間を生きていない)、やることに歯止めがかからないためです。

学校でいじめが起こる原因

では本題ですが、こんなに「いけない」と言われ続け、社会で問題になっているにもかかわらず、いじめはなぜ起こってしまうのでしょうか?

実のところ、その事例は千差万別です。殴る蹴る、悪口など、方法という点ではジャンル分けができますが、具体的な中身が同じケースは世界に一つもありません。なぜなら、人は全員違い、同じ人は世界に一人もいないからです。そこにもってきて、人と人の組み合わせや、ある日あった出来事や会話なども関係しています。いじめは、全てのケース一律で「こうすればこうなる」とか「これさえやれば必ずなくせる」という性質のものではないのです。

しかしながら、多くの事例の共通点や、いじめが起こるリスクを上げてしまう要因というのは確実にあります。

ここでは、教育現場や体験談で浮上してくる要因や背景、また、心理学的な見地から明らかになっている原因を説明していきます。

環境に根差した原因

まず、心理学では、学校という場自体にいじめを生みやすい要因が内在していると指摘されています。

学校では、児童/生徒、そして教員も、強い欲求不満を感じながら過ごしています。そのために攻撃行動が起きやすいというのです。

そこでの集団は年齢や住所などによって強制的にくくられたのであり、児童/生徒は生まれ育ち、性格などがみな違っています。その上、学校生活では自分の意思で活動することはできません。こうした学校という特殊な環境で、共同体として団結しての集団行動を求められることが、いじめを醸成する集団心理を生み出します。

膝を抱えてうずくまっている男子と、彼を笑いものにする十代のいじめっ子のグループのイラスト

学校でのいじめは多くのケースで「異端者を罰する正義」として行われており、その場合やっている側に罪悪感は生じないといわれます。「正義」だと認識されていることが客観的にはそうだった、ということが起こってしまうのです。

加害児童/生徒の抱えるストレス

教育現場からの声を拾っていくと、加害児童/生徒の背景に別の原因があったという例は決してめずらしくありません。

代表的な原因を挙げると、対応する過程で、加害児童/生徒の家庭内不和が明らかになるケースは多数にのぼります。たとえ一見幸せそうな家族であっても、家の内部では俗に言う”嫁姑”の不仲、親と親戚の競争に子どもが巻き込まれている、家庭内暴力があるなどといった重大な問題が慢性化していて、子どもが不健全な家庭環境で心の奥底にため込んだ不安やストレス、怒りを学校でいじめという形で爆発させてしまった、ということです。

またこれと関連して、加害児童が中学受験塾に通っており、心身の疲れやストレス、プレッシャー、心理的な抑圧、親との不和による不満や怒り、屈折した優越感や劣等感などを学校でのいじめで発散させるケースもよくあります。中学受験のストレスは、学級崩壊でも原因としてしばしばあがってきます。

さらには、こういった生い立ちの中学生や高校生が精神的に余裕を持てず、何年も経ってから爆発するケースも。近年、少年犯罪の現場からは、少年たちが精神的に孤立を深めていると報告されています。

大人の言動がいじめの手本に…

このように、家庭内不和や中学受験のストレスは、加害者の背景として教育現場からしばしば指摘されています。複数がからみあっていることも多いようです。

ただこうした背景事情がある場合、問題は心理的なストレスだけではありません。情けない話ではありますが、周りの大人の言動がいじめの手本になっているのです。

例えば私は、クラスメートに土下座をさせるなどをした加害児童の背景に家庭での”嫁姑”の不和があった、というケースを聞いたことがあります。児童の祖母は、気に入らないことがあるたびに母親に土下座させて謝らせたり、物を買いに走らせたりしていた、というのです。家族間の暴力は、子どもの心を傷つけ、また子ども本人が自覚している以上にストレスをためこませます。が、同ケースではそれだけにとどまらない害悪がありました。この加害児童は、「人には上下がある」「上の者は下の者に謝罪を強いたり、物を買わせたりするものだ」というアイデアを家庭生活の中で無意識的に学習し、クラスで再現してしまったのです。

中学受験のほうで言えば、まず、多くの塾は今日でも児童の座席を成績順に並べています。さらに、この年齢の子はまだ自分の意思が十分できていないので、そもそも塾通いすることや中学受験に挑むこと自体が自分の希望ではありません。親や塾の職員から、日常的に無理強いをされているのです。こうした周りの大人の行為は、「人にランク付けするのは悪いことではない」「他人に嫌がることをやらせるのはとがめられることではない」という暗黙のメッセージを子どもたちに送っているのです。

補足2点―被害加害関係の適切なとらえ方

このように、対応の過程では、加害児童/生徒の背景に「かわいそう」な事情が浮かび上がってくることは少なくありません。

ただ、ここで注意を要するのは、加害者が深い悩みや心の傷をかかえていたからといって、学校でのいじめがしかたないことになるわけではないということです。なぜなら、被害者は現に深い傷を負わされているからです。いじめの被害者は、抑うつ・不安傾向が高くなる傾向にあり、時には自殺に至るほど深刻です。また、その被害は持続しがちで、心理学研究では、被害体験者は青年期後期において、対人的ストレス・イベントを多く体験しているわけではないにもかかわらず、そうでないグループと比べて適応状態が悪い傾向がみられたと報告されています(『心理学・入門〔改訂版〕―心理学はこんなに面白い』117頁)。加害者の背景にどのような事情があったとしても、「他人に被害を与えた」という事実に変わりはありません。こうした加害者には、傷ついた体験にはケアが与えられなければなりませんが、同時に、自分がしたのは悪いことだったと理解させることも必要です。あとで何度も繰り返しますが、こういう後味悪い結末にならないために、誰も被害・加害当事者になってしまう前の段階で手を打つことが大事です。

もう一点、重要な補足なのですが、ここまで述べたことは、加害者の背景には必ず家庭や塾等での不遇があるという意味ではありません。特に注意がいるのは、暴力がある家庭の子は必ずいじめをする、あるいはその危険性が高いのかといえば、決してそうではないということでしょう。親から虐待や不適切な養育をされている子の大部分はそのようなことはしていませんし、いたって健全だった子がささいなきっかけで加害に走ってしまう事例はいくらもあります。思わぬ偏見につながらないよう、注意を付け足しておこうと思います。

被害加害関係をとらえる時は、その時々で感情に流されることなく、バランスのとれた見方をすることが重要です。

思春期特有のむずかしい心理

ほか、年齢特有の心理が関係することもあります。思春期の子はもともと多感です。ささいなことにも反応しやすく、それがきっかけとなってしまうのです。

ただ、専門家でなければ知らないような複雑な心理になれば、素人には対処どころか理解すらむずかしいことがあります。例えば、「思春期特有の自己愛が異常に肥大化した」などの特殊心理が発端にあった場合、加害生徒の説明は被害者や大人にとってまったくもっての理解不能になりがちです。事件の報道を読んでみたら、加害生徒が「自分は特別な子だから」とか「お母さんなら許してくれると思った」などと説明したというのでわけがわからず眉をひそめた、という経験はないでしょうか? こういった特殊心理が関わっている場合、加害生徒に「悪かった」と理解させるには、心理専門家の関与が不可欠です。

人間関係は、「条件Aがあれば必ず結果Bとなる」わけではありません。人間はもともと複雑な生き物な上、一人ひとり違うし、それが集まった集団の動きは単純に割り切れるようなものではないからです。

原因に対してできること・ポイントまとめ

以上、学校でいじめが起こる原因や背景を明らかにしてきました。

くり返しになりますが、「これをすれば必ずなくせる」といった方程式は存在しません。しかし、多くの事例に共通する原因が分かったなら、それへの対処法を導き出すことは可能です。なので、次にはそちらをみていくことにしましょう。

人間関係でトラブルはどうしても起こることを前提に

まず、みながストレスを抱えながら集団生活をしている、という環境面が指摘されていました。この原因は学校という環境自体に内在しているのですから、取り除くことはできません。これをどう考えていけばよいのでしょうか?

そもそも、人の個性はみな違っています。それが一人だけで過ごすのではなく、二人、三人と他者とつながり、集団ができれば、相性の良い悪いは必ず生じます。それに、たとえ仲が良かったとしても、ささいな行き違いなどからトラブルになることはあるでしょう。人間社会で、「人間関係トラブル」なら、どうしても起こるのです。

そうである以上、クラスメート同士がぶつかること自体は否定的にとらえず、トラブルは時に起こること前提で考えていくべきでしょう。むしろ、ちょっとした摩擦まで「なくすべきもの」だと見てしまえば、過度な団結や表面的な平穏を強いる結果となりかねません。

新聞やテレビから伝わってきた恐ろしい事件も、クラスが始まったその日から存在していたわけではありません。そういう病的な域に達するまでの間には、無数の段階があります。

以上より、大事なのは、生活上どうしても起こってくるトラブルに、そのつどきちんと対処すること。

ドミノ倒しがSTOPと書かれたブロックで止められているところ
何かが起きたときに、早い段階で止めることができれば危機はそこで終わる。

何度も繰り返すことになりますが、日ごろから風通しが良く、話し合える雰囲気があることが大事です。

子どもが悩みを相談できる、支援を受けられる社会環境を

また先ほど、加害児童/生徒の背景として、家庭内不和や中学受験でのストレスを指摘しました。これらもまた、危機が発展していく段階の一部としてとらえることができます。

したがって、そういった子が大人に悩みを相談できたり、必要なら適切な支援を受けたりできれば、教室でストレスを爆発させる結果は生まれないといえます。社会全体に「子どもの悩み相談」「親子関係への支援」「家庭内暴力への対応」など四方八方から子どもへの支援がはりめぐらされるべきでしょう。

無論、これで望めるのは、あくまで間接的な効果にすぎません。加えて、社会環境が子ども一人一人にとって今より良くなったとしても、それがどの程度いじめを減らすのに貢献したかを測るのは困難です。

しかしながら、複雑な事情や悩みを抱えた子が社会のどこかでひっかかるようになれば、教室の環境がよくなることが見込めるのは確かでしょう。児童/生徒が健やかに成長するには、社会の在り方も大事なのです。

いじめが起こりやすいクラスと起こりにくいクラスの違いとは?

通っていて楽しい明るいクラスというのは、どこにも共通したいい雰囲気があります。逆に、リスクの高いクラスにも共通点が指摘できます。

普段から開放的で、子どもと大人が心理的に分け隔てなく交流しており、問題が起こったときにはすぐ話し合える雰囲気があれば、いじめが根を張るようなことはありません。

逆に、秘密主義的で、上っ面だけの人間関係が横行していれば、いじめの土壌となります。たとえば、クラスに「親や先生にチクるな」とか「大人に味方してもらうなんてかっこ悪い」という雰囲気ができてしまえば、リスクは一気に高まります。クラスで「団結」が過度に求められるのも、個々の意思が押さえつけられ、人間関係が表面的になり、その裏でストレスを増殖させる結果となります。

学校での集団生活は攻撃性やストレスを生みますが、この部分は変えられない、と言いました。しかし一口に集団生活といっても、個人の個性が尊重される度合いを高め、自分の意思で動ける幅を広げることは可能です。

あるいは、先生が強権的で「触らぬ神に祟りなし」みたいな存在だと、大人の世界と子どもの世界は分断されます。そうなれば何かあった際、子どもたちにとって先生は「問題に一緒に取り組む人」ではなく、「やりすごす対象」となってしまいます。先生の前では仲直りしたふりをして、裏ではジクジクと、いつまでも悪口や嫌がらせが続いている――「大人は敵だ」と認識されているようでは、トラブルの解決は望めなくなってしまいます。

人間関係のあつれきがどうしようもないレベルに悪化する前に止める秘訣は、「風通しの良さ」にあります。友達同士、児童生徒と先生、子どもと保護者の間、どこをとっても正直な気持ちを話せる雰囲気が望ましいのです。

「チクってはならない」というグループのルール

そういった「風通しの良さ」は、児童/生徒側が、困ったことを先生や保護者に相談できるかどうかにもかかっています。

いじめというのは得てして、集団の内部だけで通用する「特殊なルール」に基づいて行われます。例えば、「下級生がこの階段をつかうのは先輩に対して失礼だ」「クラスメートにランクがつけられていて、上二つのランク以外の人は委員会に立候補してはならない」「外部入試で入ってきた生徒は内部進学生より先に発言してはならない」……などなど。

こうしたルールは、第三者からすればズバリ意味不明の一言です。しかし、その集団内ではまことしやかにまかり通っている。こういった「特殊ルール」は様々ですが、唯一、多くのいじめに共通するのは「大人に言っては(チクっては)ならない」ではないでしょうか

児童/生徒のみなさんへ:困ったら大人に相談を

先生は信用できるのか。大人を頼っていいのか。そういった疑問であれこれ悩んでいる小学生・中学生・高校生はけっこういるようです。あるいはこの年頃だと、「いじめに遭っている」なんて言って親を心配させたくない、と考える子もいるようです。

この点については、筆者の私が直接答えましょう。

大人には、相談していいです。絶対、したほうがいいです。

なぜなら、「健全な集団は風通しが良い」は人間社会の鉄則だからです。

「外部者」をもうけておくのは人類の知恵

人間は社会的な生き物です。規模も形も様々なグループをつくりますが、「健全な集団は風通しが良い」という鉄則は、クラスだろうが、趣味のサークルだろうが、会社だろうが、どんなグループにも共通です。逆に、「風通しが悪いと集団は病んでいく」というのも然りです。

組織の種類によっては――たとえば会社の会計や、省庁の仕事などでは――第三者によるチェックを設けないのは違法とされています。なぜなら、集団が閉ざされているということ自体が、腐敗や不正の温床となるからです。

外から第三者が出入りする仕組みをあらかじめつくっておくことは、人類の知恵なのです。

そして、子どもの集団にとって、適切な第三者となってくれるのは大人です。クラスの人間関係が健全であるためには、大人が出入りできる環境のほうがいいのです。

それに、未成年者だけでは対処できないケースもありますよね? 例えば私は以前、投書で「某県では評判の良い私立中に壮絶ないじめがあり、生徒の自殺事件が起こっているのに学校が地元の権力と癒着して隠ぺいした」という言語道断の体験談を読んだことがあります。悲鳴、と呼んだほうがいいかもしれません。このように、問題が教室の範囲を越えるケースでは、子どもだけで対処するのは根本的に無理じゃありませんか。学校の隠ぺいや、権力との癒着、汚職の事実解明をスタートできるのは、保護者しかいません。もし裁判を起こすことになったとしたら、未成年者の代理人となるのは保護者です。

中には、周りの大人が相談しにくい相手だという人もいるでしょう。支配的な親との不和を抱えている、先生が強権的で友達関係のことを相談できる雰囲気ではない、などといったケースです。その場合は、十代の相談窓口など「もっと外」にいる新しい人にコンタクトすることをすすめます。

誰でも幼いころ「知らない人について行っちゃだめ」とか「『おかしをあげるからついておいで』と声をかけてくるのはあやしい人」などと教わりますよね。「困ったことがあったら大人に相談」はそれと同じ、世の中で自分の身を守り生活していくための基礎知識です。

「チクってはいけない」なんて、狭い世界の話。必ず大人をまじえて、「風を通して」ください。

不登校になってもいい理由

以上、ここまで述べてきたのは、原因となる要素にテコ入れをしようということでした。

では、もうそんな段階じゃない……すでにどうにもならないところまで悪化しているという場合は?

事態がそこまで進んでしまった場合、私は「いかに児童/生徒(あなた)の身と心を守るか」を課題にすべきだと考えています。

大事なのは成長のチャンス

不登校の記事でじっくり解説したのですが、ここでも念を押すと、被害に遭っているのに登校していく必要はありません。

なぜなら、いじめがある学校では、児童/生徒(あなた)が成長するチャンスを失い、かえって害になってしまうからです。安全な別の場所でさまざまな挑戦をして、夢を見つけ、のびのび成長していくほうがはるかに望ましいのです。偶然いっしょになったクラスメートのことなんかであれこれ頭を悩ませる必要はありません。

いまの日本社会では、「はじめに学校ありきで、それに自分をどう合わせていくか」という発想の枠組みが、保護者をはじめ、児童/生徒本人の頭の中でも幅をきかせていると思います。しかし、教育の本来の目的からすれば、ものを考える出発点は子ども自身であるべきです。大切なのは、クラスの人間関係をどうにかすることでも、登校するか否かでもなく、子どもの成長、将来、夢なのです。

「学校」なら他にいくらでもある

とはいっても、不登校になったらその後どうすればいいのか、と不安になった読者もいるかもしれません。

この点については、こんなモデルケースから考えていきましょう。

――あなたは東中二年三組の生徒です。クラスでは剛田君を中心にいじめが猛威をふるっていて、雰囲気は最悪。最初ターゲットにされていたのは野比君だったけど、その後…(中略)…ついに自分が席にぬれ雑巾を置かれた。終わった……行きたくない……。――

いやいや、ちょっと待って。あなたの言う「学校」って、「東中二年三組」だけのことを指していませんか?

西中なり、南中なり、北中なり、好きなところを選んで、落ち着いて中学生活を送るというのはどうでしょう。フリースクールでもいいし、あるいは私立への編入なんかでもいい。少し広い世界に目をやれば、学びの選択肢はいろいろあるのです。

不登校の記事にも書いたのですが、海外では、子どもが親に「転校したい」と直訴するのはそこらによくある話です。……目を疑った方は、目ヤニを十分落としてから文章を追ってみてください。子どもが親に「いじめっ子がいていやだから別の学校へ転校したい」と頼むのは、海外では普通なことです。

あなたがたまたま置かれた「そのクラス」は、この世のすべてでもなんでもありません。まちがっても「そのクラス」に出席するか死ぬかの二択、なんてことはないのです。

白い迷路の上にかかった赤い橋を人が渡っている3Dモデル
その迷路は挑まなくていいし、がんばって解こうとしなくていい。避けて、渡って通ることを考えて。

学びの場なら、世界に星の数ほどあります。誰の人生にもいろいろな出会いがありますが、たまたま問題ある子と同じクラスになったという偶然のために悩んだり苦しんだりするのはもったいない。人間は自由です。学びの場を自分で選んで、そこで健康に、幸せに成長していく――日本社会にもそういう開放的な考え方が広まってほしいと思います。

わが子の味方をしなかった保護者の社会的背景

さて、ここで被害者の保護者について、どうしても言及しておきたいことがあります。

いじめに遭っていると打ち明けたら、親はとても心配するはずだ。子どもは普通そう想定しますし、第三者からしてもそれが常識でしょう。

ところが現実はそうではなく、「いじめに遭ったので学校へ通えなくなったら、家で親から不登校を責められた」という生徒本人からの訴えは後を絶ちません(こうしたケースは、中学高校といった高年齢が比較的多い)。こともあろうに、苦しんでいる被害児童/生徒が、その親から「不登校である」という外形だけをもって非難されているというのです。まさに四面楚歌。被害生徒にはただでさえ専門的な心理サポートが必要なのですが、その子が親から「二次被害」を受け、社会から完全に孤立してしまい、被害が深刻化しているのです。

一体なぜ、こんな悲しいことになってしまったのでしょうか? ……おそらくこれを読んでいる読者は「大人は完ぺきではない」と気づく年齢に達していると思うので、親の裏事情についてもざっと書いておこうと思います。

まず第一に、日本社会では、文化的・歴史的背景から「普通がいちばんいい」「みんなと同じにするべき」ということになりやすいです。そして21世紀現在の日本では、親は「『普通』とは学校に行くことだ」と考えやすい。「普通」でなくなることに極端な恐怖を感じる大人が多いのです。それが、あの乾いた命令「学校に行け」につながってしまうのです。

もう一つ、親自身が不安や心の傷を負っていた、という場合もあります。もともと不安な心に「自分の子どもがいじめに遭った」というトラブルが舞い込むと、うまく対処できず、親のほうがパニックに陥ってしまうのです。

親の未熟さは、子どもにとっては本当に残念だと思います。複雑な気持ちも生じやすいです。「親だって人間なんだから完ぺきではないと頭では分かっているけど、心では泣いたよ」とか「親だって大変なのかもしれないけど、自分の前では親であってほしかった」……というように、心の葛藤でくちびるをかんでしまう若い人もいるでしょう。正直言えば、私はこうした「不登校への二次被害」には強い憤りを感じています。

こういう事例でも、必要なのは「風通し」です。第三者をまじえるのがなんといっても得策です。もし読者にこういった親との関係がのしかかっているなら、ホットラインなどから外部の第三者に助けを呼んで、風を通してください。

保護者の方へ:暴力暴言に耐えてもご利益なし

もう一点、「つらくても教室に入るのはえらい」といった発想について述べておこうと思います。

こういった「登校したことをほめる」風潮、それは「苦しいことに耐えるのは(無条件に)立派である・耐えないのは弱さである」という観念に裏打ちされてはいないでしょうか?

しかし事実は、「『苦行に耐えれば、それに見合った成果が得られるに違いない』と信じる(あるいは、得たのであってほしいとつい願ってしまう)ことこそ、弱さである」ということです。

ためしに、地下鉄サリン事件を起こしたカルト宗教・オウム真理教の修行を思い浮かべてみてください。オウム真理教には、熱湯風呂につかるという修行がありました。しかし考えてくださいよ。熱湯につかれば、私たちの人格は向上するのでしょうか。熱いだけ、体を壊すだけ、命が危険にさらされるだけじゃないですか。それで人間性が鍛えられることはありません。苦しさに耐えたところで、マイナスになるだけ。得られるものは何もないのです。

人が成長するためには、目的と手段に合理的な関連性がなければなりません。たとえば、賢く優しくなりたいなら視野を広げるために本を読む、忍耐力をつけたいならすぐには完成しない木彫りを毎日続ける、などなど。安全かつ人格を実際に向上させられる方法は、世にいくらもあるのです。

子どもが暴言暴力が待っている教室に入ったことを「がんばった」とほめるのは、熱湯風呂につかっている人に「ご立派ですね」と手を合わせるのと同じです。熱湯風呂へとひた歩いていく人がいたら、大慌てで腕を引っぱるのが筋ですよね。同じく、子どもが暴言暴力をあびせられるクラスに登校しようとしていたら、玄関で「行っちゃダメ! 危ないから!」と引き止めるのが道理ではないでしょうか。これを読んでいる親御さん、子どもにはもっと良い環境で教育を受けてほしくありませんか?

結びに―「いけない」と「おかしい」のダブルパンチを

今回の記事を書こうと用意しているうちに、私の頭にはふと中学の担任の先生が浮かんできました。カラッとした人柄で、学活では普段から友達関係のことなんかもよく話す、フレンドリーな先生でした。……そういえば、いつだったかこんなことを言ってたなぁ。この記事は、私の先生の言葉で結ぼうと思います。

気に入らないならほうっておけばいいのに。なんでわざわざちょっかい出すのよ。

「言い得て妙」とは、このことだと思います。

以前「セミの幼虫をなめさせる」というとんでもなく残酷ないじめが刑事事件として報じられた時、私は震えあがった世人の一人でした。加害生徒らにどんな事情があったか知りませんけど、頭冷やしましょうよ……。彼らはこの先の人生でも、馬が合わない人に出会うことなどいくらもあるでしょう。そのたびに、いちいちシャベルを持ってきて、セミの幼虫を土から掘り返して、相手の面前まで持って行ってなめさせるのか? そうしないと気がすまないのか?

冷静に考えてみれば、おかしな話です。

性格がちょっと合わない人くらい、誰にだっています。だけど、だったらほうっておけばいい。わざわざちょっかいを出すことはありません。他人は他人、自分は自分です。

そんなおかしなことのために、人に与えた被害、壊してしまったものはどれほどにのぼるでしょうか。ひどく釣り合いません。割に合いません。

「いけない」という禁止命令にプラスして、その「おかしさ」を痛感することは、対いじめの最もよく効く予防薬なのではないでしょうか。

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著者・日夏梢プロフィール||X(旧Twitter)MastodonYouTubeOFUSEではブログ更新のお知らせや写真の投稿などをしていますので、フォローよろしくお願いします。

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【心理学資料】

『心理学・入門〔改訂版〕―心理学はこんなに面白い』サトウタツヤ・渡邊芳之著、有斐閣、2020年改訂版第5刷

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